◇まほろば 1

第一話 淡い春の悲劇

一、

 
 朝夕はまだ、冷たい北風が吹きつけてくるが、昼間の陽だまりは、ポカポカと暖かい。
 固く閉じられている木の枝も、心なしかふくらみを見せ始めている。
 季節が冬から春へと移ろいでいくことを、何となく感じさせる。
 弥生、三月。
 三年生は卒業してしまって、少しがらんとした校舎。
 学年末試験も終わり、あと一週間もすれば、春休み。
 そんな、ゆるゆるな午後ではあるが、まだ、授業は普通にある。期限いっぱい、カリキュラムが組まれている。風林館高校も例外では無かった。

 教師が黒板に板書している間、ふと、窓辺へ目をやり、薄水色の空を眺める。スズメたちが、柔らかくなり始めた陽だまりを楽しみながら、校舎の窓辺で囀っている様子が見える。

「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 大和しうるはし」

 そう書かれた文字の羅列を見て、慌ててノートへと写し取る。

「えー、参考までに…これは古事記歌謡のひとつだ。日本武尊(やまとたけるのみこと)…つまり、ヤマトタケルという記紀神話最大の伝説のヒーローが作ったとされる。
 時の天皇から東国遠征の命を受けた時、伊勢の能煩野(のぼの)で病を得た時、故郷の大和をなつかしんで作った歌だと言われている歌だ。ま、下世話に言い合わせば、死を覚悟した歌だな。
 まほろばとは、「まほら」とか「まほらば」と表現されることもある。諸説あるが、「とても素晴らしいところ」という意味で解されている。」

 黒板の板書を横目に、とうとうと、教師が延々と講釈を述べ始める。
 辺りを見回すと、つい、うとうとと船を漕ぐもの、机へと突っ伏す者たちの姿が目に映る。仕方があるまい。このポカポカとした陽だまりに中てられて、眠気が降りて来る。
 どうしても、昼からの授業は、集中力が散漫となる。高校生という若者の習性上、仕方がないことかもしれない。期末考査も終わり、興味のない授業なら尚更だ。
 国語とはいえども、古語など、現代生活にどれほど役にたつというのだろう。ましてや、存在したかもわからない古代の英雄になど、全く興味は無い。
 この場に座しているのは、学生と言う身分が、授業を受けているという縛りの中で保障されているからにすぎない。
 勿論、中には熱心に教師の話に耳を傾ける殊勝な者も居る。一握りの向学心に燃えた生徒、もしくは、真面目一筋の希少生徒のみ。
 
 あかねもその希少生徒に混じって、教師が書き出した板書を熱心にノートに書き写していた。

 コン…。

 ノートにシャーペンを走らせていると、目の前に紙きれが転がった。

 ふと、飛んで来た方に目を遣ると、乱馬が視線を逸らせた。

(乱馬?…なんだろ…。)
 不可思議な表情を浮かべながら、ごそごそと紙を開く。
 と、見覚えのあるたどたどしい男文字で、
『放課後「まほろば」へ行く。つき合え。おごってやるから。』
 と、書かれていた。
 どうやら、教師がさっきから「まほろば」を連呼するので、咄嗟に、商店街に新しくオープンした「まほろば」というスイーツの店のことを思い出したのだろう。
 件(くだん)の店は、和スイーツと洋スイーツのコラボというのをコンセプトにしているらしく、甘党の乱馬の心をとらえてたのだろう。何ぶん、彼の好物は、チョコレートパフェだ。しかも、男が甘いものを人前で堂々と食べるのは、気後れするらしく、一人で行くのが躊躇(ためら)われるらしい。
 彼は、甘い物が食べたくなると、何かと、理由をつけて、あかねを誘い出すことが多いのだった。
 なら、女に変身して行けば良いのに…。とも思うのだが、わざわざ誘ってくれたことが、嬉しかった。

 あかねはノートの切れっぱしに、下線引きに愛用しているだいだい色のボールペンで一言、「OK、放課後校門で待ってるわ」と認(したため)めて、くるくると丸め、乱馬の方へと投げ返した。
 


 早乙女乱馬と天道あかね。
 共に風林館高校に在籍する二年生。

 この二人、親同士が勝手に決めた許婚同志…ということで、猛反発をしていた。
 とはいえ、呪泉洞の戦いの一件以降、少しずつだが、着実に二人の距離は近づいてきている。
 あと、もうを一歩踏み出すと、優柔不断な関係から抜きんでるだろう。 
 しかし、その一歩が踏み出しきれずにいたのである。互いに純情過ぎたのだ。
 悲しくなるほど純情な愛。それでいてひねくれた恋情は、燃え損ねて燻ぶっている。そう、とっくに両想いになっているくせに、肝心要で複雑な恋心は空回りを続けたまま、付かず離れずのまま、月日は過ぎて行った。

(でも、大丈夫かなあ…。無事に、店まで辿り着けるかしら…。)
 ふと、見渡した窓辺。太陽が雲に覆われて、光がにわかに消えていいく。
 わくわくする反面、不安が広がってくる。
 


 あかねに紙切れを投げた後、陽だまりに身を寄せて、ふつっと溜息を吐きだした乱馬。
 教科書を追う目に真剣みは全くない。
 春という心弾む季節の到来。今日は、らしくなく、少し心が弾んでいた。
 ポケットの中には、小さな小箱。そいつをそっと握りしめながら、教師の講釈に耳を傾ける。が、殆ど全部が、右から左へ筒抜けていく。
 今日は三月十三日。
 あかねが勘の良い娘なら、この微妙な数字の日に、何故乱馬がわざわざ誘いをかけてきたのか、わかるるだろうが、彼女の鈍さは、相当なもの。多分、気がついていないだろう。
 そう、ホワイトデー前日という、日の意味を。
 バレンタインデーには、あかねの手作りチョコレートで、かなり危機的状況に直面した。案の定、彼女の作った、不可思議な黒い塊に翻弄されたが、それはそれ。愛情の大暴走な訳だから、糾弾もできない。
 惚れた者の弱みだ。
 バレンタインデーの対極に、ホワイトデーがある。
 貰ったものは返さねばならない…それが、好きな女の子…しかも、許婚であれば、無視はできない。
 ポケットの中に入っているのは、ホワイトデーのお返しのために、準備したプレゼント。それも、冬休みから始めたアルバイトの給金の中から買ったものだ。
 そろそろ自立しなければならないと考え始めた乱馬は、冬休みから地元のスーパーマーケットでアルバイトを始めた。高校を卒業したら、溜めた資金を元に、修行に出るつもりで、せっせと仕事に精を出している。
 勿論、誰彼にそそのかされて始めたバイトではない。自発的に始めたのである。
 
 彼は彼なりに、己の将来を真剣に考え初めていた。
 格闘家として世界に躍り出る、幼き日からの夢を実現させることに向けて、始動したのだった。
 故に、あかねと接する時間は、グンと減った。
 学校からバイト先に直行して、疲れて九時半ごろ帰って来ると、ご飯をかきこんで、道場に籠って一汗かく。そして、日付が変わる頃に就寝する。そんな生活が続いている。
 そんな自分をあかねは、さりげなく支えてくれていた。
 高校生の本分は勉強だ。真面目なあかねは、溜まりがちな乱馬の宿題を手伝い、テスト勉強にも付き合ってくれる。あかねの心遣いに感謝もこめて買った、初めてのプレゼントだった。

(高価な物じゃねーけど…喜んでくれるかな…。)
 
 恥ずかしがり屋の乱馬の精いっぱいのお返し。
 これを手渡すために誘ったのだった。

 何故、三月十三日という、微妙な日を選んだのか…。それはそれで、乱馬の抱えている複雑な事情が見え隠れした。

 二人の周りでは、恋の駆け引きが、まだまだ続いている。
 相思相愛の二人を取り囲む、厄介な連中。
 ホワイトデーともなれば、熾烈な争いごとが起こるのは必定。当日、渡すのが難しければ、先に渡してしま方が有効だろう。
 先に、渡しておけば、明日、「厄介事」が勃発しても、あかねの機嫌は損ねまい。心の内を彼女に先に提示しておけば、二人の間も平穏だろう。
 彼なりに、懸命に思考を巡らせた結果だった。

 浅はかな思慮に過ぎなかったことを、この直後に思い知ることになるのだが…。彼は、無論知る由も無かった。
 


二、

 放課後。
 
「待つねーっ!乱馬っ。」
「待ちいやっ!乱ちゃんっ!」
「お待ちになって乱馬さまぁっ!」

 ホワイトデー一日前にも拘らず、三人娘が、乱馬の前に立ちはだかった。

「うげ…。何で、てめーら…。」
 目を白黒させて、三人娘へと視線を投げ返す。
 校門を出たところで、とっ捕まった。

「何って…。乱ちゃん…。」
「聞き及んでいますわよ…。」
「ホワイトデーのプレゼントに、指輪を買ったんやって?」

 じりじりと後ろに下がる。予測だにしなかった、お邪魔虫たちの登場だ。対策など取って居なかった。

「てめーら…何でそれを…。」
 顔面蒼白で三人を見やる。
 思い当たることは一つ…。
(なびきの奴か…。)
 グッとポケットの中の小箱を握りしめる。
 そう、これを買う前に、なびきやかすみに尋ねたことがあった。それは、乱馬には未知の事案…。あかねの薬指のサイズだ。
『あかねなら、九号よ。』
『そうね、そのサイズで間違いないわ。』
 二人の姉たちの進言だった。
 なびきが、三人娘たちに、情報を漏らしたに違いない。

「ふっ…。図星あるか。」
「その指輪!わたくしがいただきますわ。」
「何云うてんねん、ウチが貰ったる!」

「指輪なんて知らねえー!」

「隠し事、ダメある!」
「知ってますわよっ!」
「嘘はあかんでっ!」
 それぞれの瞳が、闘志に燃えている。

「どーでもいいから、俺にかまうなーっ!」

 後は、いつも通りの追いかけっこの幕が、切って落とされる。

 トレードマークのおさげを揺らしながら、必死で彼女たちの猛追から逃げ惑う。

「その指輪、おとなしく私に渡す、よろしっ!」
 中国から乱馬を追い掛けて日本へ渡って来た熱血娘、珊璞。
「何言(ゆ)ーてんねんっ!乱ちゃんはうちの許婚やで!指輪は許婚のもんやっ!」
 乱馬の幼馴染にして、ボーイッシュな関西系お好み焼き少女の久遠寺右京。
「ほーほほほほほ、何をおっしゃいますやら。指輪はわたくしの物ですわっ!」
 何故かレオタード姿でリボンを振りまわしながら誘いに来た危ない娘、九能小太刀。
 それぞれ腕に覚えがある、格闘系少女たちだ。
 追い回される身としては、迷惑千万だった。しかも、指輪を巡る、争奪戦ときている。
 前例もある…。いつもより、執拗かつ激しくなるのは目に見えていた。

「畜生!なびきの奴…。帰ったら、ただじゃおかねー!」
 文句の一つも吐き出したくなる。
 執拗なまでの、彼女たちの求愛行為。口で何度も否を唱えてみるものの、聞く耳を持たない少女たち。


 そんな乱馬と彼女たちの物騒な鬼ごっこを、一歩引いたところから眺める冷やかな瞳。口からは、特大のため息が漏れる。

(やっぱり、こうなっちゃったか…。)

 もちろん、あかねには指輪のことにまで、考えは及んでいない。何故に乱馬が放課後呼び出したのか、その本当の理由は、思考の範疇外だった。

 もう慣れっこになったとはいえ、複雑な乙女心。呼び出しておいて、目の前で反故にされた恨み辛身…つい、天の邪鬼なやっかみが口を吐いて出る。
 逃げ惑う彼が、脇を通り抜けた時、乱馬と視線が合った。
 思い切り舌を出して、あかんべえをしてやる。

 彼は、追い抜き間際、チラッとあかねを見て、視線を返して来た。

…俺だって好きで逃げてんじゃーねえよ!…

 乱馬はあかねの冷たい視線を背中に受けながら、心の中で吐き出していた。
 あかねの脇をすり抜けた乱馬は、ひょいひょいと先を歩く同級生たちを避けながら、グラウンドへと走り抜ける。
 人がいっぱい居る中で彼女たちを相手にしたら、とんでもない修羅場になるだろう。故に、人のなるべく居ない方向へ逃げるのだ。
 はじめは緩やかだった三人娘たちの勧誘は、時間の経過とともに、ヒートアップし始める。
 ただ乱馬を追いまわすだけではなく、互いに牽制し合いながら、物騒な攻撃道具が少女たちの手元から繰り出され始めるのだ。
 シャンプーの双錘(そうすい)、右京の鉄製巨大コテ、小太刀の新体操用小道具。どれも、物騒極まりない武器だ。三人娘たちは、それぞれの武器を手に、乱馬へと猛攻をかけ始める。溜まらないのは、標的の乱馬自身だろう。

「でええっ!」

 自分に襲い来る、獲物を避けながら、必死で逃げ惑う乱馬だった。
 だが、逃げの一手では、彼女たちの猛追を交わすには限界がある。反撃も試みなければ、退路も開かない。
(よっし…。たまには反撃を試みてやろーじゃんっ!)
 そう決意した乱馬は、辺りを見渡した。
 ここは広いグラウンドのど真ん中。まだ、部活が始まるには少し間があるため、幸い誰も近くには居ない。
 三人娘はそれぞれ、かなりの運動神経の持ち主だから、投げ返された道具を避けるだろう。多分、乱馬が反撃に出るとは、思っていないだろうから、戸惑うに違いない。その時に生ずる隙を狙って逃亡を図る…それだけの陳腐な作戦だった。

「お願いだから、これ以上、俺につきまとうなっ!!」
 そう吐きだすと、乱馬は振り向きざまに、彼女達の仕掛けてきた飛び道具を、ひとつひとつ掴み取り、投げ返していった。

「うわっ!」
「きゃっ!」
「何ですの?」

 思った通り、彼女達は乱馬の突然の反撃に驚いて、目を見張った。
 その一瞬の隙をついて、逃げに興じる。

「逃がさへんでっ!」
「どこまでも追いかけるねっ!」
「逃がしませんことよっ!」

 三人娘もまた、乱馬との放課後ランデブーを諦める気は無い。それぞれ、すぐに体制を整え直して、第二攻撃に転じる。
 乱馬が投げ返した武器を、再び拾い上げて、攻撃再開だ。
 エンドレスの攻防合戦が繰り広げられていた。


 
「良く飽きないで鬼ごっこやってるわねえ…乱馬君って。」
「嫌なら嫌だって、ちゃんと断れば好いのにねえ…。」
「乱馬君って優柔不断なんだねー。」
「っていうか、断っても、はいそうですかって引き下がるような娘たちじゃないよ、ゆか。」
「それもそっか…。」
「でも、許婚としては複雑よねえ…あんな追いかけっこを毎日のように見せつけられたら…。」
「そうねえ…。バレンタイン以降、攻防戦が激しくなってるわね…。」
 一緒に歩いていた同級生のゆかとさゆりは、砂煙をあげて走り回る彼らを視線で追いかけながら、傍らを歩くあかねへと声をかけた。
「別に…あたしには関係ないことよ。」
 と口では言っているものの、顔は思いっきりムッとしている。不機嫌なのが丸わかりなのであった。
「ほんと、相変わらずねえ…あんたたち。」
「いい加減、覚悟決めちゃったら?」
「だから、彼がどうしようと、あたしには関係ないんだってばっ!」
 あかねは真っ赤になりながらそれに対する。
「関係ないって言っておきながら、気になるんでしょ?追いかけっこの結末…。だって、今日は乱馬君と放課後、出掛けるつもりじゃなかったの?」
 さゆりがニッと笑った。
「え…何でそれを…。」
 あかねはハッとしてさゆりを見返した。
 そうなのだ。珍しく乱馬に声をかけられていた。何故、さゆりがそれを察したの…と言わんばかりの視線を、さゆりに投げ返すと、
「だって、国語の授業中、先生の目を盗んで手紙を飛ばしあいっこしてたじゃん、あんたたち。」
 と、さゆりは言い返してきた。
「へえ…そんなことやってたの?あんたたち。」
 ゆかも突っ込んで来た。
「どこへ出かけるつもりだったの?デート?」
「そんなんじゃないって!ただ、ちょっと買い食いに付き合ってくれって乱馬に頼まれただけよ!」
 あかねが二人へ言葉を返した。
「買い食い?」
 興味津津とさゆりが尋ねた。
「ええ…。ほら、商店街にオープンしたスイーツの店があるでしょ?そこへ行こうってさ…。」
 ちょっとはみかみながらあかねは答えた。
「へええ…乱馬君がわざわざあかねを誘ったんだ。」
「っていうか、単純に甘い物が食べたかっただけじゃないかしらねえ…。乱馬、食いしん坊だし…。多分、女化して行こうと思ってたんだと思うよ。…だからデートなんかじゃないって。」
「そうでもないと思うよ…。男のまま、あかねと一緒に、話題のスイーツが食べたかったんじゃないの?」
「それに、明日は、ホワイトデーよ。その前夜祭のつもりだったんじゃないの?」
 ニヤッとゆかが笑った。
「ホワイトデー?」
「あらあら、あかねったら、ホワイトデーを知らない訳じゃないでしょー?」
「無いない、ホワイトデーとは関係ないって。」
 改めて、手を横に振る。
「そーかな…。」
「何なら…ホワイトデーがらみだって賭けてもいいわよ。」
「まさか…。」
 その、「まさか」なのだが、相変わらずあかねは疎い。乱馬がそこまで考えているとは、到底思えなかった。

「でもあの様子じゃあ、今日はダメそうね…。」
 フッとあかねが溜め息を吐き出した。
 約束をしたとて、こうやって反故(ほご)にされることなど日常茶飯時だ。
「そうね…。あの様子じゃねえ…。」
 三人は逃げ惑う乱馬を見つめる。
「これじゃあ、あかねが気の毒だわ…。いい加減腹を決めれば良いのに…。乱馬君。」
「決めたところで…って感じかもよ…ゆか。あの三人が相手じゃあねえ…。」
 気の毒そうにさゆりとゆかはあかねを見た。
「ホント…優柔不断なんだから…。」
 ボソッと歯切れ悪く、あかねが吐きつけた。

『だったら、彼のことなど…忘れてしまえばいい…。きれいさっぱり…ね。』

 あかねの耳元で声がした。
 若い男の声だった。

 ハッとして辺りを見回したが誰も居ない。

「あかね?」
 急に頭を挙げたあかねを不審に思ったさゆりがあかねへと声をかけた。その時だった。
 あかねの頭上にそれは迫って来た。目の前に迫りくる、飛行物体。乱馬が投げ返した小太刀のこん棒だった。

 ひゅるひゅるひゅる…。

 そいつは放物線を描きながら、あかね目掛けて飛んでくる。
 当然、運動神経の良いあかねは、余裕で避けられる。と思って身体を翻そうとした瞬間だった。

『ダメ…逃さないよ…。せかっく見つけた極上の魂の持主なんだから…君は…。』
 そう声が響いたかと思うと、一瞬、リーンと耳元を鈴の音が通り抜けたように思った。
 人の耳には確実には捉えられないくらいに、小さな音だった。
「えっ?」
 と、思った瞬間、頭の中を、衝撃が突き抜けた。
 ビリッと電撃に撃たれたような感覚。頭の中を一瞬でかき回されたような違和感を覚えたのだ。
 次の瞬間、身体の動きが止まった。手も足も、固まったように動かなくなった。
 丁度その時だった。
 不味いことに、こん棒があかねの額を掠ったのである。

 ドサッ!!

 鈍い音と共に、あかねが地面へと倒れこむ。
 カランカランとこん棒が一緒に地面へと転がり落ちた。

「ちょっと、あかねっ?」
「きゃあああっ!」

 ゆかとさゆりの悲鳴が、辺りに轟渡った。


 その声に、回りに居た、風林館の生徒たちが、一斉に振り返る。
 
 グラウンドの真ん中で、三人娘とくんずほぐれつしていた乱馬も当然、足を止めて、振り返った。
 彼の視線に映し出された物。

「えっ!?」

 乱馬は悲鳴の上がった方に目を見やり、ドキッとした。
 視界に、倒れ込むあかねが映ったのである。

「あかね?」

 異変に気付いた乱馬は、あかねの方へ向かって、駆け出した。
 あかねの周りでは、一緒に喋っていたゆかとさゆりが蒼白になって、身体を揺り動かしていた。

「あかねっ!ちょっと、あかねったらっ!」

 シャンプーや右京、小太刀の攻撃には目もくれず、乱馬は倒れたあかねの方に向かって駆け出した。そしてあかねの身体をがっしりと我が手に抱えると必死で叫んだ。
「おいっ!!あかねっ!」
 乱馬は夢中であかねを呼び覚ました。でも、あかねは無反応のまま、目を閉じていた。
「しっかりしろっ!あかねっ!!」
 乱馬はあかねを自分の腕に抱えて揺り動かし続けた。しかし彼女からは何の反応もなかった。

「ちょっと乱ちゃん、あかねちゃんに…それが当たったんとちゃうやろか?」
 右京が傍らに転がっていたこん棒を指差しながら言った。
「そ、そんな…。何で。何で避けられなかったんだ?」
 乱馬は放心したまま、あかねを抱いていた。

 武道の嗜みがある、あかねがこん棒一つ避けられない筈がない。他の何かに気を取られていたのだろうか。

 異変を察した、下校途中の生徒達がぞろぞろギャラリーとなって集まり始めた。男子生徒も女子生徒も、輪になって集まって来る。教師を呼びに行った者もいた。
「担架…担架を持って来いっ!」
「いや、救急車だっ!誰か早くっ!!」
 集った連中はざわめき立ちながら、あかんねを抱いた乱馬を取り巻いていた。
 あかねは力なく、乱馬の腕の中でじっと動かず目を固く閉じたまま、身動(みじろ)ぎひとつしない。

「おいっ、あかねったら…あかねーっ!」
 乱馬の雄叫びが校庭をこだまする。その顔から血の気が引いて行った。
 


三、

「幸い、飛来物は間一髪、直撃しなかったようですね。額の傷はかすった時にできたもののようです。他に致命的な外傷もなく、脳波にもCTにもMRにも異常は認められませんから、軽い脳しんとうを起こしたのでしょう。 
 検査中に動かれても大変でしたから、少し、薬で眠っていただいていますが、もうそろそろ目覚めるでしょう。何、二、三日で退院できますよ。」
 病室に来た医師が、急場を聞いて慌ててやって来た天道家の人々にそう告げた。

 あかねは学校近くの総合病院に担ぎ込まれたのだった。
「ありがとうございました。」
 あかねの父、早雲が深々と頭を下げる。
「私はこれで。何かありましたら枕もとの呼び鈴で看護師を呼んで下さい。」
 医師は軽く会釈すると、看護師と共に病室を出て行った。
 ドアが静かにしまった後、慌てて駆けつけた天道家の人々は、皆、一様にあかねを不安げに見守り続けていた。
 
 白い病室の壁に、ぼんやりと、集まった家族たちの影を映す。

 あかねはベッドに横たわり、昏々と眠っていた。

 医師によると、MRなどの、動かせない検査中に目覚められるのも不味いので、薬で眠らせているということだった。目立った外傷は無かったが、少し頭に傷があったからと、包帯がぐるりと額にまかれていた。それが痛々しく映る。
 あかねの父、天道早雲をはじめ、かすみ、なびき、パンダの形をした乱馬の父・玄馬、そして母・のどか。天道家に住まう人々が、心配げに顔を覗かせていた。
 そして、ベッドから遠い、部屋の片隅に一人。ぽつんと、乱馬は黙ったまま、腕組して突っ立っていた。

 重苦しい空気が、病室を包み込む。

(もし、このままあかねが目覚めなかったら…俺のせいだ…。)
 グッと、喉の奥にかみ殺す、言葉。
 心は千路に乱れていた。

 救急車で搬送された時、付き添ったのは、乱馬だった。

 校庭まで呼びこまれた救急車。
「どなたか、一緒に病院まで付き添ってくれませんか?」
「俺が行きます…。」
 手を挙げたのは、乱馬…それから、保健室の看護師だった。
「悪い、天道家へ伝えてくれねーか…。あかねが倒れたって。俺が病院へ付き添ったって…。」
 三人娘へと瞳を流し、そのまま、あかねに寄り添って、救急車に乗り込んだ。
 ガタガタと乗り心地が良いものではない。ましてや、あかねは真っ青に口を結んだままだ。
(あかね…。)
 グッと拳を握りしめて、彼女を見詰める。
「大丈夫…そんな顔しないの。早乙女君。」
 学校の看護師が乱馬へと声をかけた。それに無言で頷き返す。
 指に差し込まれた心電図。それは、しっかりと心音とその波動をモニターに刻んでいた。

 だが、あかねは意識を取り戻すことなく、総合病院へと担ぎ込まれた。

 あれから、息のつまりそうな時間が、どのくらい続いたろうか。
 三時間…四時間…いや、それ以上か。

 天道家の面々が大慌てでやってきて、さっき、やっと、重苦しい控室から、病室へと通されたのだった。


「う…ん。」
 あかねは小さく声を立てると、ゆっくりと目を開いた。
 医師の言ったとおり、麻酔から覚めたようだった。

「あ、あかね…。」
 最初に声を掛けたのは、父親の早雲だった。
「あかねちゃん。」
 続いて天道家の長女かすみ。彼女が目覚めたあかねを覗き込みながら声を掛けた。
『あかねちゃん』
 パフォパフォ言いながら、パンダのまま家を飛び出したらしい玄馬が看板で呼び掛ける。

(良かった。気が付いたか。)
 
 皆の背後から、乱馬はちらっとあかねを見詰めて、特大の溜息を吐き出した。
 目覚めたあかねに安堵したのだ。
 気が気でなかった乱馬も、少し人心地が戻りかけた。
 だが、一同の安心はすぐに、裏切られることになった。
 
 あかねはたくさんの顔に覗き込まれても、それに答えることなく、きょとんと視線を辺りに泳がせるだけだった。
 どうやら、自分の置かれた状況を把握できていない様子だった。
 否、それだけではない。
 一呼吸置かれて、あかねの口を吐いた言葉が、衝撃的だったのである。
 
「あの…失礼ですが、皆さんは?」



「あかね?」
 早雲がいきなり何を…という表情で訊き返すと、
「あかねって…あの。誰です?もしかして、あたしのことですか?」
 と、つぶらな瞳を瞬かせた。
 始めは軽い冗談かと誰もが思った。

「何言ってるの。あかね。」
 最初になびきが声をかけたが、あかねは呆然と見詰め返すばかりだった。
「もしかして…あかねちゃん…。自分が誰かわからないとか…。」
 かすみの言葉に、場に居た全員の表情が凍りつく。

「あの…どうして、あたし…あの…思い出せない…ああ、あたしは…あたしは誰?」
 そう言うとあかねはそのまま頭を抱え込んで、ベッドの上にうずくまってしまった。





「記憶障害ですね。」
 あかねの異変に病室へ掛け込んで来た医師は、気の毒そうに言った。
 皆は不安に駆られながら、医師の説明を熱心に聞き入っていた。
「脳波やMR、CTの画像には異常が認められませんから外科的には大丈夫でしょう。ちょっとした衝撃で、一時的に混乱し、記憶が吹き飛んだと考えられますね…。脳はデリケートですからね。でも、日常生活には不自由はしないと思います。脳はデリケートではありますが、同時にタフなものでもありますから…。」

 医師は淡々と言い続けた。それが職務だから、或いは仕方がないことだろう。
「あの、それで、あかねの記憶は戻るのでしょうか?」
 当然の疑問を早雲が真っ先に問い掛ける。
「それは、なんとも…。今日明日中にもどる可能性もありますし、長くかかることも…。申し上げにくいのですが、こればかりは…。」
 医師は要領を得ない答え方をした。
「まさか、一生…。」
 縋るように早雲が問い掛けると、
「最悪の場合は…。」
 医師は言いにくそうに、語尾を飲み込んで言った。
「努力はしてみます…。皆さんも患者さんを刺激しないように暖かく見守ってあげて下さい。ご家族の愛情が或いは失った記憶を早く甦らせることもありますから。」
 医師の言葉は虚しく病室に響いた。

 一番の衝撃を持ってその言葉を聞いたのは他ならぬ乱馬だっただろう。

(俺のせいだ…俺のせいで、あかねは…。)

 グッと握りしめた拳。

 彼の胸中では激しい自戒の念とあかねへの想いが一気に荒れ狂い始めていた。

 あかねは打たれた鎮静剤が効き始めたのだろう。興奮をさせては不味い。そう思った医師が、処置をしたのだった。安静第一と考えたのだろう。
 何時の間にかベットの中で静かに寝息をたてていた。誰も何も医師に言い返すことができなかった。重苦しい空気が一同の上を流れる。

 医師が立ち去った後、天道家の者と居候達はあかねの枕元でこれからを語り合った。
「焦ったところで仕方がないわね…。大丈夫、あかねちゃんは皆さんのことを思い出しますわ。」
 長姉のかすみがおっとりと、重い口を開いた。
「じたばたしたってそれしか方法もなさそうだしね…。」
と次姉のなびきガ続けた。
「そうね。今は皆であかねちゃんを見守ってあげましょう。大丈夫、きっと大丈夫よ。」
 乱馬の母、のどかが、おっとりとなびきの言を受けた。
「あかねー。あかねー。」
 早雲は横でそう言いながら涙に暮れた、その横では玄馬まで一緒になって泣いていた。そう、でかい図体のパンダのままで、おいおいとすすり泣く。

…何で、こんなことに…
 原因を作ってしまった自分への悔恨の念。何もできない不甲斐なさ。
 乱馬の心の葛藤が始まった。
 堪らなかったのは、誰も原因を作ってしまった乱馬に、悪態を何一つも言わないでいたことだった。
 どうして、いつも、三人娘から逃げ惑う事しかしようとしなかったのか。

 
「くよくよしたって始まらないわ。」
 かすみはのほほんと言ってのけた。案外、この天道家の長姉は、他の誰より肝が据わっている。弱そうに見えて、芯は強い。
「乱馬君だけのせいじゃないって…。あの子たちの攻撃が招いた災いみたいなもんだしね…。」
 一部始終を見ていたらしいなびきもそう言って珍しく慰めてきた。
「乱馬、あなたは、あなたができる範囲のことをあかねちゃんにしてあげなさい…。」
 のどかも優しく乱馬をとりなすのだ。

 そんな慰めじみた言葉を、乱馬はじっと耐えながら聞いていた。いや、耳には入っていなかったかもしれない。

(俺の顔も、いままで重ねてきた二人の日々も、あかねは全て忘れてしまったというのかよ…それも俺のせいで。ちきしょう!!…)
 彼はひとり、拳を握り締めていた。
 涙は出ずとも、心で泣いていた。




 病室の近くで笑う者の影があったことを、その場の誰も気が付かないでいた。
 その場に居た者たちは皆、あかねの記憶喪失が人為的に引き起こされたものだとは思いも寄らなかった。
 不幸にして引き起こされた事故だと信じて止まなかった。
 そう、誰一人、彼女にさし迫っていた「禍」に気付くことが出来なかったのだ。

(ふふっ、計画の第一段階は成功だね…。)

 人影は愉快げに笑って、病室の窓傍の、樹の上から、あかねを眺め続けていた。

(いずれ、頭に受けた傷が癒えた頃、お迎えに参りますから…天道あかねさん…。)

 そう言って、空気に溶け込むように、人影は消えてしまった。



つづく


 最初に作ったプロットはフロッピーディズクの中にお眠りになっているので取り出せません。もう、殆ど覚えていないし…。
 それほど古いプロットです。ほったらかして十年以上過ぎました。
 「偽頁」に投げ出しているのとは、題名が同じでも、多分、全然違うタイプのストーリーに変化すると思います…。
 色々試行錯誤の末、結局、書きなおすことにしました。
 もっとも、最初から「竹取物語」と「ヤマトタケル譚」を意識していたことだけは確かです…。高校生のころからかぐや姫譚をオリジナルとして書きたかったので…。そのプロットを引っ張っていますが…形として残っていないので、ほぼ忘れかけとります。だって、高校卒業したの、1980年だもの…。35年経過してるから、覚えてたらお化けだし(ぉぃ
 ただ、決め台詞や決めシーンだけは、幸い、頭の中に消えずに残っていますので、そこはしっかりと書きたいと思っています。
 

 


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全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。=






 最初に作ったプロットはフロッピーディズクの中にお眠りになっているので取り出せません。もう、殆ど覚えていない…それほど古いプロットです。ほったらかして十年以上過ぎました。
 「偽頁」に投げ出しているのとは、題名が同じでも、多分、全然違うタイプのストーリーに変化すると思います…。
 色々試行錯誤の末、結局、書きなおすことにしました。設定も大幅に変える予定です。やっと、手を加えるだけの物語が組めそうな気がしてきたので…(気だけで頑張る)
 ただ、決め台詞や決めシーンだけは、幸い、頭の中に消えずに残っていますので、そこはしっかりと書きたいと思っています。


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