◆神奈備

第二話 神奈備の泉の巫女


一、

 二人は光る玉に導かれるように、神々しい泉のほとりに出た。
 周りを降りてくる狭霧も、その泉の周りだけは晴れていて、余計に神秘的に見える。

『こっちです。媛様はあそこへ…。』

 不思議な玉は二人の前を一度巡ると、すっと泉のほとりへと誘導する。

「すげえ…。」
「綺麗。」
 
 言葉に尽くされない、神々しい光がさあっと囲んでいる木の上から注ぎ込む。透明度の高い泉がふつふつと湧き上がる。水面は清んでいて、底まで見えて揺らぐ。水底には緑の藻が漂っている。そして、その底には、祭祀にでも使うのだろうか。鏡や土器の破片が沈んでいるのが見えた。

『あそこです。』

 光はそれだけを言うとすっと消えるように見えなくなった。

 光が指し示した方向には、樹齢が何百年もあろうかという木が、見えないほどの枝葉を広げて立っていた。この木自体が信仰の対象にでもなっているのだろうか。注連縄が張り巡らされている。
 真ん中には人が入れるほどの穴がぽっかり開いていて、そこから人が顔を覗かせていた。
 あかねは目をこすった。立っている人影が、白く光って見えたからだ。
「人間じゃないのかしら…。」
 思わずそう言葉が漏れた。
「あん?」
「だって、人間はあんなに光らないわよ。」
 言われてみて納得する。あかねも自分も、光には包まれていない。だが、そこに立っている人は明らかに、自ずから輝いているではないか。
「お化けか何かかな。」
 こそっと耳打ちする乱馬。

「良く参られましたな。」

 傍らからしゃがれた声がした。
 視線を移すと、一人のろうばがうやうやしく玉串を持って立っている。彼女も少し光って見えたが、中央に立つ、女性とは比べ物にならないくらい、光り方が鈍かった。
「あちらに媛様がお待ちでございます。」
 婆さんは静かに突っ立ったままの二人を案内した。

「ようこそ。人間界から来たお二人さん。」
 神々しい光に包まれた女性が、口を開いた。
 碧成す黒髪はふわりと背中辺りで一つにくくられて、腰まで垂れ下がる。額には白い鉢巻のようなものを結び、左脇に榊のような常緑樹の枝を挿している。
 衣装は白装束。着物のような前あわせの衣に裳のようにひらひらとした袴。首からは勾玉の首飾りをさげている。中央には一際目立つ大きな白い勾玉が胸元で揺れていた。
「私はこの神南備(かんなび)の産土(うぶすな)を守る巫(かむろみ)、瑞枝媛(みずえひめ)です。」
 女性は静かに言った。

「かんなび?うぶすな?かむろぎ?…。なんか意味不明な早口言葉みてーだな。」
 乱馬がぽつんと言った。言葉が難しすぎたのだ。
あかねも同じことを思ったが、さすがに口には出さなかった。

「これ、失礼な物の言い方をするではない。本来ならば、ここは人間など入り込めない聖地なのだぞっ!」
 横から婆さんが口を挟んだ。
「常滑(とこなめ)、構わぬ。年端(としは)の行かぬ者たちゆえ、わからなくて当然です。」
 媛は常滑と呼んだ婆さんを嗜めてから再び向き合った。

「説明しましょう…。神奈備とはこの山の名前。そして、産土(うぶすな)は土地のこと、巫(かむろぎ)は巫女のことです。つまり、私は、この神南備という名の土地を守る巫女です。そして、瑞枝媛というのは、私の名前です。」

「何だ、そういうことか。」
 乱馬が見上げる。
「ちょっと、ちゃんと、全部、意味わかってんの?」
 あかねが横からつついてくる。
「だいたいな…。」
「もう、いい加減なんだから。」

「これこれ、媛様の前でごちゃごちゃ言うでない。」
 婆さんが突っ込む。

「そなたたちに折り入って頼みたいことがあって、玉藻を使ってここへ呼んだのです。」
 瑞枝媛は二人を見比べながら言の葉を継いだ。
「玉藻?」
 乱馬の目が大きく瞬いた。
「さっき、そなたたちをここへ連れてきた光の玉のことですよ。」
「ああ、なるほど…。で、媛様はどんな用があって俺たちを呼んだんだ?」
 乱馬の問い掛けに、媛は少し顔色が曇った。
「実は、この神南備の世界に、異変が起こってしまって、困り果てているのです。この森が、何者かによって壊されようとしているのです。」

「何者かに壊される?」
 乱馬の問い掛けに媛はこの世界の異変についてとうとうと話し始めた。

「私はこの世界を守っている精霊の巫女です。この世界はあなたたちの人間界と違う次元に存在する、精霊たちの世界なんです。精霊は人の形をしているものもあれば、鳥や獣の形をしているものも、多種雑多、この神南備で平和に暮らしていました。
 ところが、或る日、私が年に一度のお篭りに入っている間に、多次元世界から侵略者が現れました。そいつは、闇を牛耳る者。この世界の神々しさを奪い取り、泉を汚すために、ここに祭っていた幸御魂(さきみたま)に呪いをかけたのです。」
 媛の顔はみるみる苦渋に溢れ始めた。
「呪いをかけられた幸御魂はたちまち崩壊し、中から幸御魂を構成していた三つの聖魂が離散してしまったのです。聖魂がなくなった幸御魂は力を失い、この世界の秩序が乱れ始めました。あなたたちも見たでしょう?大きな大蛇。」
「ああ、俺たちを襲ってきた奴か。」
「元々あの大蛇も大人しい、普通の精霊だったんです。でも、幸御魂が力を失い、大地に邪悪な気が目覚め、ああいう風に精霊たちが一斉に大型化したり巨悪化して、神南備の森を我が物顔に徘徊しては争いを起こしているのです。」
「で、俺たちは何をすればいいんだ?邪悪かした精霊たちと戦えとでも言うのか?」
 媛は首を振った。
「いいえ。呪いをかけられて飛散した、三つの聖魂のうちの二つを探し出して欲しいのです。」
「探し物…?」
「宝探しみたいなもんか…?」
 乱馬とあかねが問い返す。
「そうです。幸御魂を構成していた聖魂は三つ。赤色の荒御魂(あらみたま)、青色の和御魂(にぎみたま)、そしてここにある奇御魂(くしみたま)です。」
 媛は自分の首から下がっている首飾りを指した。どうやら、その真ん中に収まっている白い大きな勾玉が「奇御魂」らしい。」
「奇御魂だけは、この常滑が何とか飛散せぬようにつかみ取ってくれました。でも、他のふたつはどこかへ飛んでいってしまったのです。そう、そなたたちには、飛んでいった荒御魂と和御魂を探して欲しいのです。」
 媛はゆっくりと二人を見比べた。
「なあ、そんなに大事なもんなら、自分で探せばいいんじゃねーの?」
 乱馬はぶっきらぼうに、媛に言った。

「媛様がご自分で探し出せたら、おまえたちなど召喚せぬわ。」
 傍らの常滑の婆さんが、じろっと乱馬を見ながら答えた。

「あん?」
 乱馬は大きな目を婆さんに向けた。
「媛様はこの泉を守る巫女様。ここから離れられぬのだ。」
「だったら、婆さんが行けばいいじゃねーか。」
「ワシもここを離れられん…。」
「じゃあ、他の家来は?」
「いちいちうるさい坊主じゃなあ。他の精霊たちは、闇の巫女の妖気に触れて、巨大化、邪悪化してしまったのだ。媛さまが忌み篭りしておられる間にな。
 我らはこの泉から離れられぬ、神南備の他の精霊たちは好き勝手に暴れまわっておる。だから、外世界から助っ人をここへ召喚する以外に方法はなかったのじゃよ。」
 婆さんが乱馬をぎろりと見ながら言った。
「三つが揃わないと、幸御魂は浄化できないのです。次の満月までに幸御魂の呪いを解いてを浄化できなければ、この神南備の地は闇の者たちに完全に支配され、滅んでしまいます。お願い、私の代わりに聖魂を探し出してください。」
 媛は憂いを帯びた目を二人に向けた。
「おい。どうする?あかね。」
 乱馬はふっとあかねの方を見返した。
「…うーん…あたしにきかれても…。」
 二人とも戸惑いを隠せない。

「引き受けて貰えねば、元の世界へは帰れぬよ…。そなたたちは…。」
 常滑婆さんが、ふつっと言い放った。
「おいっ!それはどういうことでいっ!」
 乱馬は顔色を変えて婆さんを見返した。
「おまえたちは選ばれてここへ召喚された者。聖魂が取り戻され、幸御魂が浄化されなければ元の世界には帰れぬ…そういうことだ。」
「そ、そんなあ。」
 あかねが、情けない声を出して、へたりこんだ。
「ごめんなさいね…。そなたたちをここへ呼ぶのに力を使いきってしまったの…。だから、幸御魂の呪いを浄化し、元の力を取り戻さねば、そなたたちを帰すことができないのです…。」
 媛が気の毒そうに見詰め返した。
「ちぇっ!だったら、聖魂を探し出さなきゃ仕方ねえーってことじゃねーか。しゃーねえ…手ぇ貸すか。」
 乱馬はいとも簡単に言ってのけた。
「あんたねえ、軽すぎるわよ。それ。」
「そっかあ?」

「媛様、本当にこの者たちに頼んで大丈夫なものなのでしょうか?」
 二人のやりとりを見ながら婆さんが不安げに媛を見返した。
「大丈夫よ。思金(おもいかね)がここへ召喚してきたんですもの…。」
 媛はにっこりと微笑んだ。

「ここに奇御魂があります。」
 媛はやおら自分の首飾りに手をかけると、それを取り外した。
「これをお持ちなさい。」

「ひ、媛様。それはっ!」
 慌てて常滑の婆さんが媛を嗜めた。

「いいのです。常滑。三つ揃わなければ聖魂は役目を果たせません。」
 常滑を制してから、媛は乱馬に言った。
「荒御魂と和御魂は、この奇御魂と同じ大きさをしています。荒御魂は赤色、和御魂は青色をしているのです。三つの聖魂は近づくと互いに光り始めます。」
「じゃあ、御魂が近くにあると光るんだな。」
 媛はこくんと頷いた。
「二つの聖魂、どちらかが傍にあると奇御魂が輝き始めます。それを目安に探せば良いのです。」
 媛は首飾りから中央にあった奇御魂を取り外した。そして、それを布袋に入れて、乱馬に手渡した。
「これをそなたに預けます。きっとそなたたちを他の聖魂の方へ導いてくれるでしょう。それから、これを。」
 媛は右手をぱっと差し上げた。と、一瞬光が輝いて、何も持っていなかった媛の手の中に、現れた。大と小の剣がふた振り。
「太陽の剣は乱馬が、月の剣はあかねが持つと良いでしょう。」
 媛はにっこりと笑ってそれを二人に手向けた。
 太陽の剣には太陽の形が、月の剣には三日月がそれぞれ、鞘に描かれていた。太陽の剣は金色に、月の剣は銀色に光り輝いている。

「媛さま。」

 また焦ったのか、常滑が間に入ろうとした。
「常滑。良いのです。この二人にもそれ相応の武器は必要です。何もなしで行かせる訳には参りません。」
「でも…。」
「そう心配しなくても、きっと、この刀剣を使いこなすことができましょう。彼らは思金がここへ召喚した者たちなのですから。」

「よくわからねーが、ま、いいや。預かっとくぜ…。」
 乱馬は剣を道着の黒帯に差し込んだ。あかねもしぶしぶ、乱馬に促されて、紐で背中に結わえた。

「まずは、私の忠実な精霊、「吉備津彦(きびつひこ)」を探しなさい。彼が居れば、何かと助けになってくれるでしょう。吉備津彦はこの笛に反応してやってくるでしょうから、この泉から外へ出たら、吹いて御覧なさい。」
 そう言って小さな竹笛をあかねに手渡した。
「必要なものは、あとはこれね。」
 媛は返す手の中から、小さな巾着を二つ出した。
「これは、五色豆です。小さな一粒だけれど、食べればお腹がたちまちふくれ、飢えを満たすことができます。回復能力も少しはあるから役に立つでしょう。」

「何だか、ロールプレイングゲームみたいね。武器とかアイテムとか。」
 あかねが小さく呟いた。
「あん?何だ?そりゃ。」
「あんたRPGも知らないの?」
「知らねーっ!」
「ゲームとかやんないの?」
「やるわけねーだろ!んなもん、貧乏な俺んちにあるわけねーし…。」
「友達の家とかでは?」
「放浪生活してっから、親しい奴もいねえ…。」
「情けないわね。」
「うるっせえっ!」

「これこれ、またこの子達は脱線して。」
「ほほほ、仲が良いのね。」
 その様子を媛と常滑が眺めた。

「それから、神南備の精霊たちは闇の力に操られて凶暴になっているのだけれど、身体に埋め込まれた黒い勾玉を、さっき渡した剣で突いて浄化してやれば元の姿に戻ります。」
 
「ほらほら乱馬、ぼけっとしてないでちゃんと訊いときなさいよ。じゃないと、後が大変よ。」
「おめえが訊いてるから大丈夫じゃねーか?」
「あのねっ!人を頼りにしないの。」

「ほらほらいい加減にして。媛様が困っておられるぞ。」
 常滑がまた制止に入った。

「満月まであと五日です。それまでに、何とか神南備の森から聖魂を見つけてください。」
 媛はすがるような瞳を二人に手向けた。
「任せとけっ!」
「乱馬、大丈夫なの?頼りなくみえるけど…。」
「んなことねーぞっ!」
「どうだか…。」
 
「さっき、出てきた穴から外へ出て、吉備津彦をまず探すのだぞ。おまえたち。」
 常滑が本当にわかっているのかという目を向けながら念を押した。
「さっきの大蛇、居ないでしょうね…。」
 あかねが心配げに呟いた。
「大丈夫だろ。」
 乱馬はあっさりとしたものだ。
「何を根拠に。」
「勘だ。」
「もお、いい加減なんだから。」

 万事こんな調子で、二人は泉を出発した。


「媛様、本当に、あの者たちで大丈夫なのでしょうか?」
「常滑は思金がしくじるとでもお思いなの?」
 瑞枝媛は傍の大木を見上げながら言葉を放った。
 ざわざわと大木が枝を揺らせた。
「ほら、思金も大丈夫だと言っていますわ。」
「でも、子供ですよ。ここへ召喚したのは幼すぎませぬか?」
「ふふふ。常滑は心配性なのね。無垢で素直な子供たちの方が、闇の巫女、夜見媛(よみひめ)につけ入れられなくていいのでしょう。邪悪な心は子供には巣食い辛いものでしょう?それにあの子たち、とってもいい瞳の輝きをしていたわ。」
 羨ましそうに水面を眺めた。
 そこには乱馬とあかねの様子が、映し出されている。
「往年の瑞枝さまと井津樹(いつき)どのを見ているようでございますなあ。」
 常滑は一瞬、目を細めた。
「そうね…。あのくらいの年頃は、穢れもとがもなかった。純情で無垢で居られたわ。」
 瑞枝媛は寂しそうに遠い目を手向けた。
「媛様。」
「いいのよ、常滑。私のこの巫女としてふさわしくない曖昧な思いが、今回の禍を呼んでしまったようなものですから。」
「媛様。」
「一眠りするわ。あの子達を助けるために力を解き放たねばならない時が、いずれ遠からず来るでしょう。巫女の役割を果たさなければならない。だから…。」
 瑞枝媛は寂しげな微笑を一つ、常滑に返すと、大木の穴の中へと静かに消えていった。




二、

 辺りは霧が立ち込めていた。
 その中に吸い込まれてしまったのか、音一つだにしない森の静けさ。
 乱馬とあかねはそっと岩穴から外を伺ってみた。先刻、大蛇が突っ込んだ穴が、生々しく岩肌をさらけ出していた。穴は入った時よりも確かに少し広がっているように見えた。

「あいつの気配はないな?」
「え、ええ…。多分。」
 あかねも恐る恐る辺りを見回す。
 霧の向こう側の森は、どんよりとくぐもっていて、さっきまで居た、泉の畔とは裏腹に、妖気を孕んでいるように思えた。

「これからどうするの?」
 あかねは不安げに乱馬を見た。
「どうするったって…。このままじゃ、元の世界に帰れねーんだろ?だったら、媛様に言われたとおり、残り二つの聖魂を探すしか、しょうがねーじゃん…。」
 乱馬はすらりと答えた。
「確かに、そうだけど…。」
「心細いのか?ひょっとして、母ちゃんのところへ帰りてえとか。」
「ば、ばかっ、そんなことはないわよ。」
 乱馬の言い方がぞんざいだったのであかねはむっときた。本当のところは心細くて仕方がなかったのだが、本来持っている「勝気」な性分がむっくりと首をもたげてきたようだ。
「なら、良いけど…。泣き喚かれたってなあ、こうなっちまったものは仕方ねーからな。」
「あんた、あっさりしてるのね。」
 あかねはじっと乱馬を見返した。
「スチャラカ親父に日ごろから苦労かけられっぱなしだしよ、こんなことくれえで参るほど、柔じゃねーよ。さて、行くか。」
 乱馬はすっと答えると、穴から這い出た。
 この男の子には恐怖心などというものはないのだろうか。
 そう思いながら、あかねは彼に続いて歩き始めた。
 だが、乱馬はあかねを待つ様子なく、勝手にどんどん先に行く。この少年、幼すぎて、女の子の歩調に合わせるほど、長けてはいなかったのだ。あくまでマイペース。
 それを追いかけるあかねは溜まったものではなかったが、これまた、勝気な性分ときている。足を取られ、転びそうになるのを耐えながらも、文句一つ言わずに、乱馬の後を必死でくっ付いて歩いた。

「見たこともねーような、木や草が生い茂ってやがるな。」
 必死のあかねとは違って、乱馬は辺りの様子を観察する余裕があったようだ。歩きながら、じっと、草木の生い茂り方、辺りの様子を伺っていた。
「見たこともないって?」
 あかねは息を切らせながらも、乱馬に問いかけてみた。
「ほら、足元に生えてる苔やシダだって、普通の山との生え方が違うんだ。それに、こんなに大きなフキだって見たことねえ。」
 あちこちを指差しながら乱馬は答えた。
「普通の山と違うって、そんなことあんたにわかるの?」
「俺は、山で修行することが多いからな。こういう山や谷は慣れてんだ。」
 野や山を自在に駆け巡る野生児の目が、この森を評定している。
「やっぱ、異世界っつーのは本当なんだろうな。」
 乱馬は無感情で答えた。
「あたしたち、帰れるのかなあ。」
 ふと心細げに呟いたあかねに彼は続けた。
「ぐじぐじ考えててもしょうがねーぞ。前に進むことを考えねーとな。」
「あんたってポジティブなのね。」
 あかねがふっと言葉を吐いた。
「ぽじてぶ?…何だそれ。」
「自分の都合の良い方に物事を考えるってことよ。かすみお姉ちゃんがいつも言ってるの。ポジティブにいなさいって…。嫌なことがあっても、にこにことしていたら、悪いことはどこかへ吹き飛んでしまうってね。」
「ふうん…。良くわからねー言葉だけど、おめえの姉ちゃん、良いこと言うよな。そのとおりだと思うぜ。」
 乱馬は足を止めないで話しながら前に進んだ。あかねは足場を取られて、少し遅れながら進む。
「ま、あんたの場合、何も考えてないって感じもするんだけどね。」
「あん?何か言ったかあ?」
 前を行く乱馬には良く聞こえなかったらしい。

 暫く行くと、川原に出た。

「ふう、やっぱり川があったか。」
 乱馬は茂みを腕で取っ払いながら、そう呟くように言った。
「やっぱりって?」
 少し遅れて入ってきたあかねがそれに応じる。
「道を歩きながら地面を見てたんだが、水がちょろちょろこっちへ向けて流れてたろ?ひょっとして水場があるんじゃねーかと思ったんだよ。」
「へえ…。そんなことまでわかるの。」
「わかるさ。山に慣れてる俺にはな。ま、これで飲み水くれえは確保できたってことさ。この森、結構緑が生い茂ってるからな。ちょっと行けば良い水場があるとは思ってたけど。」
 乱馬は流れる水面に手を突っ込んで答えた。
「ちめてえ…。ふう、生き返るぜ。」
 清流をすくって口へと運ぶ。
「うんめえっ!」
 喉元をゴクンと水が通ってゆく。
「ひゃあ、あんたね。その水の中に毒でも入ってたらどうするつもりなのよ。」
 あかねが驚いて乱馬を見た。
「大丈夫だよ。ほら。」
 彼が指差す方向で、何かがちょろちょろと動いていた。
「さ、魚?」
 数センチの小魚が、仲良く尾びれを動かしているのが目に入った。
「毒水だったら、魚なんて住めねえだろう?心配性だなあ、あかねは。」
「でもね、この世界はあたしたちの世界とは違うんでしょう?毒水の中を泳ぐ魚かもしれないじゃないっ!」
「まあ、確かにおめえの言うとおりかもしれねえけどよ。あんまりぐだぐだ考えてると、何もできねえぞ。」
 と切り替えされた。ぐうの音も出ない。
「ほら、おまえも飲んでみろよ。落ち着くぜ。」
 この男の子にはかなわないと、その時ふっと思ってしまった。自分と同じ学年の小学生くせに、どこか達観している。この少年と一緒なら、いつかは元の世界に帰れるだろう。そんな希望を持てるような気がした。
「本当だ。美味しい。」
「な?」
 乱馬がにっこりと笑った。
 喉元を通り過ぎる冷たい感触。何より、飲みつけた都会の水道水のような、嫌な塩素の匂いもしない。無味であったが、どこかまろやかな甘さがある。これが自然の恵みなのだろう。

「さてと、気も落ち着いてきたようだし、いっちょ、媛様が言ってたとおり、何とかヒコってのを呼んでみっかな。」
「吉備津彦よ。」
 乱馬はごそごそと懐をまさぐっていた。それから、媛様に貰った竹笛を出す。
「おめえさあ、たて笛得意か?」
 ふっと言葉を継いだ。
「たて笛ってリコーダーのこと?」
 あかねはきょとんと問い返す。
「ああ、それだそれ。学校の音楽の時間にいつもやらされる奴。俺、苦手なんだよな。上手く吹けねえ。」
「うーん…。あんまり得意でもないけど…。」
「じゃ、頼む。吹いてみてくれ。」
「え、あ…。まあいいけど。」
 あかねは乱馬から竹笛を受け取ると、口元へと持っていった。
「適当にやるわよ。」
 そう言うとふうっと息を吹き込んだ。

 スー、スー…。

「あれ?」
 笛は鳴らない。息が漏れて聞こえるだけだ。
「もう一回。」

 スー、スー…。
 
 音の芯が捕らえられることができず、虚しく息が漏れるだけだ。

「結構難しいわ。これ。」

 子供でも扱いやすいように、すぐに息が入って音が出るリコーダーとは勝手がずいぶん違うようだった。あかねが何度か試したが、音にはならない。

「ちぇっ!音が出ねえと、吉備津彦は呼べねえよな。貸してみな。今度は俺が吹いてみる。」
 乱馬はあかねから笛を横取りすると、さっと己の口元へと当てた。
「あ、ちょっと、あんた。」
 あかねが驚いて彼を見返した。
 乱馬はすぐさま、あかねが吹きかけた笛を口元へと咥えてこっちを見返す。
 笛はさっきまで吹いていたあかねの唾液がついている。それを拭うことなく、気にも留めないで、この少年は口に咥えてしまったのだ。実はあかねはそれに驚いて声をかけたのであるが、乱馬は悪びれる風もなく、何だよという視線を投げかけて返した。
「べ、別に、いいわ、何でもない…。」
 あかねはちょっと恥ずかしげに言い置くと俯いてしまった。
 「間接キッス」。言い換えればそうなる行為を、何も考えていない相手に伝える方が照れくさくなったのである。

「変な奴。」
 そう言い放つと、乱馬は思いっ切り、くわえた笛に息を吹き込んだ。


 ピー、ピイイイッー!

 笛は乱馬の息に反応して甲高い音を出した。

「お、鳴ったぞ。」
 彼は色めき立った。そして、調子に乗って再び吹く。

 ピーーーーッ!

 笛は森の奥までこだまして響き渡った。

「吉備津彦、来るかしら。」
 あかねは不安げに辺りを伺う。

 と、上空が俄かに暗くなった。
 ゴオオッと音がして、何かがこちらへ飛んでくるのが目に入る。
「吉備津彦か?」
 乱馬が見上げたその瞬間だった。
 飛んできたそいつは、いきなり彼らの横へと首を突っ込んできた。大きな目をぎょろつかせてだ。
 そいつは、大型の恐竜ほどの大きさがあった。子供の視線には、なおさら大きく映る。

「あぶねえっ!」
 咄嗟に乱馬はあかねを抱えて走った。
 血走ったそいつの目がこちらを見据えて再び上空へと舞い上がる。

 霧の向こう側にそそり立つその生き物の影。
「見ろ、あいつ、竜だ。」
 乱馬は声を張り上げた。
「竜?」
 言われて目を凝らしたあかね。その目に飛び込んで来たのは、灰色に輝く不気味なウロコと靡く背の毛。そして、赤く光る目に鋭く突き出した口元。頭には鹿の角のような二つの突起物。鳥のようにひび割れた小さな手足には鋭い爪が光っている。
 絵本から飛び出してきたことがあるような、そいつ。確かに、竜の形にをしていた。

「な、何であたしたちを襲ってきたの?」
 あかねも目を丸くしてそいつを見返した。
「そ、そんなこと俺が知ったこっちゃねーだろっ。また、来るぞっ!」
 乱馬が身構えた。
 一度上空に大きく競りあがったそいつは、再び方向を見定めると、するすると長い胴体をうねらせて、二人の方へ襲い掛かってきた。長い首は乱馬とあかねを囲うように、地面を砕きながら上下左右する。大きく裂けた口元からは、よだれがだらだらと流れ出している。

「こいつ、俺たちを食うつもりか?」
 乱馬はぎゅっと腰に結わえていた剣を持った。するっと柄から抜けた剣。
「あ…。」
 乱馬は感嘆の声を上げた。
「この剣…大きくなるのか?」
 抜けた剣は、鞘に納まっていたときよりも一回りでかくなっていたのだ。
「乱馬見てっ!」
 あかねが竜の眉間を指差して叫んだ。
 乱馬とあかねを見下ろしている竜の眉間に、どす黒い色をした勾玉が妖しく光っているではないか。
「乱馬、あの竜、きっと闇の力に操られて暴れてるんだわ。」
「闇の力?」
「瑞枝媛様が言ってたじゃない。神南備の精霊たちは闇の力に操られて凶暴になってるって。」
「あ、そんなこと言ってたっけ。」
 竜は容赦なく、再び攻撃態勢に入った。
 二人の前で竜が動いた地面が盛り上がる。
「どわっ!」
 足元がぐらついたが、乱馬は必死で竜の胴体を交わした。

「乱馬、あの眉間の勾玉よ。あれをその剣で突いてみて。黒い勾玉はその剣の力で浄化されるって、媛様そんなことを言ってたわ。」
 あかねは乱馬の傍で必死で叫んだ。
「んなこと、急に言われても…。」
「ぐずぐずしてたら、二人とも竜に食われちゃうわよ。」
「わかった、やれば良いんだな…あかね、…おまえはここ、動くなよ。」

 乱馬はあかねに促すと、右手で剣を引き抜いて構えた。
「でやあああー!」
 そして、剣を左右に振りながら、竜の頭の方へと突っ込んで行く。
 竜は一瞬、その切っ先に躊躇ったが、すぐさまとってかえして、突っ込んでくる乱馬目掛けて身体をくねらせた。
「させるかあっ!」
 竜からみれば、小さな少年は、するすると身軽に竜の頭を避けた。

「凄いっ!やっぱり、乱馬は強いわっ!」
 岩陰から見ていたあかねは、目を丸くした。無駄のない乱馬の動き。ちょこまかと動き回り、竜の頭を翻弄している。
 やがて、竜はその長い胴体に、自分の身体を巻きつけて、もつれさせてしまった。乱馬はどうやら最初からそれを狙っていたようだった。
 頭が胴体に絡みついた竜は、バランスを失ってどおっと地面へと倒れこんでしまった。
 あかねのすぐ傍に、竜の尻尾がだらりと垂れる。あまり気持ちのいい光景ではない。

「へっ!そうなったら動けねえだろっ!」
 乱馬がすっと竜の傍らに立った。
 だが竜は、絡まった頭を持ち上げて、乱馬に向けて口から炎を吐いた。
「おっと!」
 乱馬はかろうじてそれを避けた。炎が真っ赤に燃え上がりながら、乱馬のすぐ傍を通り抜ける。
「いい加減、大人しくなりやがれーっ!」
 地面をだっと蹴り込んだ彼は、剣を振りかざすと、眉間目掛けて振りかぶった。そして、剣を立てて一気に眉間の中央に輝く黒い勾玉を突き刺した。

 グワアアアアー!

 一瞬、竜の長い胴体が戦慄いた。
 と、乱馬の突き出した切っ先から、溢れんばかりの光が迸った。いや、正確には剣で貫いた勾玉が発光したのだ。
 まばゆいばかりの光の洪水。それに飲まれた時、竜の身体から一気に黒い煙のようなものが立ち上がった。
 シュウシュウシュウとそいつは、激しい音を立てて、周りの霧の中へと吸い込まれ消えてゆく。

「え?」
 すぐ近くで見ていたあかねは一瞬目を疑った。
 灰色に照り輝いていた竜の身体が、黒い煙が逃げてしまうと、みるみる深い緑色へと変化を遂げたからだ。赤く光っていた瞳も、いつの間にか水晶玉のようにおだやかな色へと変化する。大きくせりあがったいた竜の身体も、しゅるしゅると縮んで、三メートルくらいのコンパクトサイズになってしまった。
 剣を突き立てた乱馬本人も、そのままぽかんとその変化(へんげ)を見詰めていた。
 

「ふう…。助かっただ。」

 すっかり小さくなってしまった竜が、にっと笑いながら乱馬とあかねの方へと円らな眼を差し向けた。


 
 つづく





産土(うぶすな)
 本来は人の出生地(故郷)を意味します。
 また、「産土神」という土地を守る神のこともさします。
 「産」という言葉は「むすひ(産巣日または産霊)」という概念から来た言葉とも言われていて、
日本固有の自然神信仰の基となったと考えられ、平たく言えば「天地や万物に宿っている神霊」とい
うような意味にもなります。

巫(かんなぎ)
 覡とも書きます。この他に「かむなぎ」とか「かうなぎ」と読ませることもあります。
 神秘的な力を持って神事に預かる者を意味します。神に使えて神楽を舞ったり、神託や神事を行う
者で、多くは女性です。現在では「巫女(みこ)」と呼び習わされる方が一般的ですが、この作品で
はあえて古い呼び名を使いました。(…てか、私って、この言葉は「かんなぎ」って読ませるのが好
みだったりする…。)


御魂(みたま)
 その「産霊」(むすひ)の信仰の中心に御魂というものがあります。
 荒御魂(あらみたま)、和御魂(にぎみたま)、幸御魂(さきみたま)、奇御魂(くしみたま)が
これにあたります。
 犬夜叉の「四魂の玉」もこの四つの御魂が宿っているということです。(「奥義皆伝」による)
 荒御魂は荒々しい力を、それに対となして和御魂は温和な力の神霊を表します。奇御魂は神秘な力
を、そして幸御魂は幸福にする力を秘めた神霊です。
 この作品では、独自解釈で扱いますので、ご了承ください。









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