◆神奈備


第一話 狭霧の出会い

一、

「あかね、迷子にならないでね。」
 後ろで姉の声がした。
「うん…あんまり遠くには行かないよ。」



 麦藁帽子をかぶった一人の少女が、元気に旅館の玄関先から走り出した。真っ黒に焼けた肌に映えて見える黄色のノースリーブのワンピース。
 胸元にはオレンジ色のリボンがひらひらと揺れる。目的は、旅館の目の前に広がる神々しい湖のほとり。
「きれいっ!」
 瞳を輝かせて、あかねは辺りの空気を吸った。
 折しも、夏休み。
 久しぶりの家族旅行。父親と姉二人と共に、都会の喧騒を離れてやって来た二泊旅行だ。
 元気溢れる小学生四年生のあかねは、好奇心で一杯だった。

 綺麗に手入れされて観光地化しているとはいえ、少し目を移すとと、森が山並みに続いて見える。
 蝉たちがかしましく、木々の上から鳴いている声が当たり一面に木魂する。湖の水面は照らしつけてくる真夏の太陽光線に光り輝き、御伽の世界の入り口のように見えた。
 あかねは湖に背を向けると、宿屋の主人に教えてもらったとおりに、貸しボートの看板の方に行ってみた。
『貸しボート乗り場・一時間五百円』
 そう大きく書かれた文字看板の裏手。そこに、言われたとおり、古びた石段が見えた。その両脇から、鬱蒼と茂りこんでくる木々の並木。上がり口には苔むした石碑がひっそりと立っている。
『官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)、御魂神社(みたまじんじゃ)』
 そうかろうじて読めたが、勿論、あかねには興味がない。まだ小学生なのだから、漢字もよく読めない。「神社」という言葉がわかる程度のものだった。
 宿屋の主人によれば、この古いお社は小高い丘の上に鎮座していて、湖が見渡せるのだという。
「湖の向こう側に沈む真っ赤な夕日とその照り返しは、神秘に満ち溢れているから、見にいくと良いよ。」と言われたのだ。
 その言葉に、好奇心が湧きおこった少女は、夕暮れにならないうちに、先にまず探検しておこうと思ったのだ。
 すぐ上の姉のなびきに、行こうと誘ったが、
「二度も足を運ぶのは面倒だから夕方でいいわ。」と断られた。
 一番上の中学生の姉、かすみは荷物の整理中。
 父親は「一風呂浴びてからね。」と言った。
「まあ、社(やしろ)までは一本道じゃし、この時間は観光客もうろうろしているから、探検してみるとええ。」
 宿屋の爺さんにそう言われて、じっとしているのも退屈だったあかねは、一人、飛び出して来たというわけだ。



「この上ね。」
 あかねは階段を見上げた。

 石段はあるが、手すりもない。寄付者や信者の名前が彫られた石灯籠や石碑が神社らしく、階段の両脇に立てられてはいるが、あまり手入れはされていないようだ。
 石段も石碑も苔がいっぱい生えている。鬱蒼と茂りこんだ木のせいで、天上からの陽光も殆ど届かない。
 だが、この上へ出ると、風光明媚な景色が拓けると、宿屋の爺さんは言っていた。
「行ってみようっ!」
 恐怖心よりも好奇心の方が勝っていたあかねは、何迷うことなく、石段へと足をかけた。

 真夏とはいえ、木陰の石段はどことなくひんやりとしていた。湧き水でもあるのだろう。石段の脇からは水気も滴っている。急でもなく、ゆったりとせり上がっている石段を、一段一段踏みしめながら先を急ぐ。
 途中、小さな石灯籠が、ぽつねんと立っていた。
 その傍には、低い石の鳥居もあった。
 鳥居をくぐると、空気の流れが微かに変わったような気がして、あかねは思わず立ち止まる。
「あれ…?」
 ふと足を留めた。
 そこから階段が右手の方へと折れていたからだ。
 宿屋の爺さんは、階段を真っ直ぐに上がっていけばいいと確かにあかねに言っていた。途中で曲がっているいるとは言わなかった。
 石段は真っ直ぐでやなかった。真っ直ぐは、どんつきになっていて、山肌が露出していた。
 暫くあかねはそこで考えていたが、今更、引き返す気にもなれなかった。
「先へ行ってみよう。」
 あかねは右へと折れた石段を上がり始めた。
 最初は広かった石段はだんだんと両側から狭くなり、いつか、土の道へと変わってしまう。
 数分間、上ったが、社のようなものはどこにも現れなかった。

「おかしいなあ…。」
 さすがに心細くなった彼女は、引き返そうとやっと決意した。
 今上がって来た道を今度はゆっくりと下りだす。
 足元がでこぼこしているのを我慢して、降り始める。何分かそのまま下へ。だが、一向にさっき出た石灯籠の曲がり口には辿りつけない。
「一本道だったよね…。」
 下っていた筈の道がいつのまにか上がりになっているのにあかねは気がついた。
 明らかに変だった。
 来たときは、一本調子の上りだけだった筈である。下ったところなどなかった筈だ。
「もしかして、迷っちゃった?」
 立ち止まって辺りを見回す。

「え…?」
 立ち止まってみて驚いた。
 いつの間にか辺り一面に霧が立ち込め始めていたからである。うっすらとしか道は見えない。突然、蝉時雨の中に、ヒグラシがカカカカカカカと鳴きだした。それを受けるように、先でももう一匹、ヒグラシが鳴きはじめる。

「どうしよう…。」

 あかねはすっかり気を動転させていた。
 深淵とした森の中に一人投げ出されてしまったことに気がついたのだ。
 霧はますます深くなってくる。それにあわせるように、あたりも薄暗くなってきた。つんと鼻につく、湿った森の匂い。
「とにかく、降りなきゃ。」
 あかねは意を決すると、再び歩き出す。だが、いつか道と呼べるものはなくなってきていた。ぎゅっと手を握りながら、あかねは先を急ぐ。

 と、その時だった。

 バサバサッ!

 と頭上で音がした。
 その音にビクンとして立ち止まる。
「キキキキキ、キーキーッ!」
 上をカラスくらいの鳥が飛び立って行った。
「何だ、鳥かあ…。」 
 ほっと胸を撫で下ろす。

 ガサガサガサッ!

 すると、今度は脇のほうから、草木を薙ぎ払いながら、何かが突進してくる気配を感じた。

 トトトトトトト。
 動物の駆けるような音が近づいてくる。

 と、がさっと大きな音がして目の前の茂みが開けた。
「きゃあっ!」
 正面から大きな猪が突進してくるのが見えた。あかねはどうしてよいか、一瞬動作が躊躇った。

「動くなっ!!」
 後ろから、人の声がした。

「え?」
 
 木の上からそいつはたっと己の横に降り立った。そいつはあかねを庇うと、突進してくる猪に向けて蹴りを一発。

「ぶぎぎーっ!!」
 真正面からそいつの蹴りをまともに食らった猪は、一声張り上げると、よたよたと目の前をふらつく。そして、方向をふらりと変えると、再び脇の茂みへと消えていった。
 ガサガサと奴が遠ざかる音が抜けてしまうと、辺りは再び、何事もなかったかのように静かになった。




二、

「ふう…。行っちまったか。」
 あかねの脇でそいつが、汗を拭う動作をした。それから、ふっとあかねを振り返った。
「怪我なかったか?」
 そう問われても、咄嗟には言葉は出なかった。
 声をかけてきたのは、己と同じ背格好の少年。白くくすんだ道着を着ていた。帯は黒色。足は裸足。そして、髪の毛は長く、後ろ一つにくくりあげて縛っている。
(男の子?)
 きょとんとあかねは少年を見返した。
「おい、何とか言えよ。大丈夫か?」
 そいつはあかねへ言葉を投げる。はっとしたあかねはやっとの思いで口を開いた。
「え、あ…。あたしなら大丈夫。ちょっとびっくりしただけよ。」
 と取り繕うように答えた。
「なら、いいか…。」
 少年は、にっと笑った。
「あの…。」
 あかねは小さく切り出す。
「あん?」
「た、助けてくれて、ありがとう…。」
「たいしたことじゃねーよ。」
 少年は頭をぼりぼりと掻いた。
「ねえ、ところで、湖の方へ降りる道、知らない?」
 あかねは意を決して彼に尋ねてみた。見たところ、地元の少年かと思えたからだ。
「湖?」
 彼は一瞬小首を傾げた。腕を組む。
「うーん…。あったけなあ…湖なんて…。」
「もしかして、知らない…とか?」
 心細げな表情になったあかねを見て、少年は言った。
「おまえ、道に迷ったのか?」
 少年は灰色の瞳を見つめ返してきた。
 こくんと不安げに頷くあかねの頭。
「そっか…。そりゃ、大変だな。湖かあ…。」
 少年はじっと考え込む動作をした。
「親父ならわかるかもしれねーな…。聞いてやろうか。」
 暫く考えて言葉を吐いた。
「親父って…。お父さん?」
「ああ、一緒にこの山で修行してんだ。親父ならわかるんじゃねーかな。」
 あかねの顔が少し明るくなった。大人が居るということは、何とかなるだろうと思ったのだ。

 と、ポツンと冷たい大きな水滴が、あかねの頬に当たった。

「やべっ!夕立だ。」
 少年は一瞬、嫌な顔を空へと向けた。
「ここじゃあぶねー。こっちへ来いっ!」
 そう言うと、あかねの手を引っ張った。
「え?」
「走れっ!」
 彼の声の背後に、いきなり、稲妻が走った。
 と、ごろごろと轟く雷鳴。
「雷?」
 手を引っ張られたあかねは駆けながら言葉を吐いた。
「ああ、雷だ。山の雷は荒れ狂うからな。近づいて来る前に安全なところへいかねーと。」
 少年は、ずいずいとあかねを引っ張った。
「こっちだっ!」
 促されるままに走り出す。ぽつぽつと天からは雨の滴りが零れ始める。山の天候は変わり易い。ざあざあと降り注ぐまでに、そう時間はかからなかった。
 だんだんと濡れる地面。つるつると滑りそうになるのを必死で耐えながら、彼に続く。
「おっし。あそこでいいや。」
 少年は、岩肌へとぽっかり開いた穴へとあかねを誘った。

 ゴロゴロ、ドッシャ―ンッ!

 二人、その穴へと駆け込んだと共に、すぐ近くで轟いた雷鳴。
「きゃあ…。」
 思わず、必死で少年にすがる。
「大丈夫。ここなら雷だって横走りはしねーよ。」
 咄嗟にあかねを庇いながら、少年は落ち着いた声で言った。
「雷と雨が通り過ぎるまで、暫くここへ居ればいいさ。」
 思わず、飛びついていたことに気がついたあかねは、はっとして彼の胸元から離れた。
 少年は鈍いのか、全く意識している素振りはない。
「雨が上がったら、親父のところへ行って、帰り道訊いてやっから、心配するな。」
 濡れた道着を手で払いながら、少年は言った。
「う、うん。」

 意識したのは自分だけだったと、少し安心してあかねも洋服をはたいた。
 山の嵐は思ったよりも激しい。太陽の光はすっかり隠れ、まだ夕暮れには早い時間なのが信じられないほど、辺りは暗い。その暗闇を浮き上がらせるように、時々走る稲妻。
 雷も、都会で訊くのより、ずっと大きいような気がした。他に騒音がないせいなのだろうか。
 雨脚も速く、バラバラと地面や岩肌を打ちつけてくる。木々の枝葉は吹き付けてくる風にゴウゴウと音を立てながら唸り声を上げる。
「ものの三十分もすれば、通り過ぎるだろうさ。この辺り、毎日こうなんだ。だけど、侮れないからな。山の雷は上からだけじゃなくて、横にも走る。だから、危険なんだ。木の陰に隠れるより、こういう岩肌の横穴に入るのが一番なのさ。」
 慣れたもので、少年はどっかと地面へ腰を埋めた。
「おまえも座れよ。立ってたって疲れるだけだぜ。」
「う、うん…。」
 促されて地面を見る。と、もそもそと這いずり回る虫が見えた。
「ひっ…。」
「もしかして、怖いのか?」
 少年はいたずら坊主のような瞳であかねを見返した。
「だって…。」
「しょうがねえなあ…。」
 彼は手で虫たちを追っ払った。
「ほら、これなら座れるだろ?」
 あまり気持ちが好くはないが、我慢して腰を下ろす。

 落ち着いてしまうと、ほっと心が和んだ。
 じたばたしてもしょうがないと、あかねも肝っ玉を据えた。
 人心地がついたら、互いの身上調査が始まる。

「おめえ、迷子って言ってたよな。この辺の子じゃねーんだろ?」
「え、ええ。そうよ。家族で旅行に来たの。それで迷っちゃって…。」
「ふうん。どっから来たんだ?」
「東京よ。ねえ、あんたも、この辺りの子じゃないんでしょう?修行だって言ってたけど、武道やるの?」
「ああ、俺、親父と二人、あっちこっちへ修行の旅してんだ。」
「お家は?」
「……一学期の終わりに、前の家はほっぽり出されたからなあ。この山での修行が終わったら、今度は千葉へ行くとか言ってたけど。親父はきまぐれだから、わからねー。」
「へえ…。何だか大変そうね。…。で、歳はいくつ?何年生?」
「四年生だよ。十歳だ。」
「あ、あたしと同じだ。あたしも四年生。」
 ふっとこぼれる笑顔。同じ歳だということだけで、不思議な連帯感が生まれるものだ。
「名前、訊いてなかったね。あたしは天道あかね。あかねでいいわ。よろしくね。」
「あ、俺は早乙女乱馬。乱馬でいいよ。」
 はにかんだ笑顔がこぼれる。
「ところで、あかね。おめえも武道、やってるだろう?」
 乱馬はあかねに切り替えした。
「何で?」
 突然の問い掛けにあかねは驚いた。確かに、自分は道場の娘だ。父親と毎日のように汗を流している。
「だって、さっきの猪が出て、俺が飛び出した時、受身を取ってたろ?あの動きは、柔道だの剣道だの空手だの、何かやってねーと取れねえさ。それに、突っ走ったとき、あんまり呼吸も乱れてなかったし。」
 鋭い観察力であった。あの瞬時にそれだけを感じ取っていたのだ。正直舌を巻いた。
「なるほどね…。確かに、あたしも武道はやってる。瓦なら三個くらいかなあ。一気に叩き割れるの。」
「へえ。それだけ割れたらたいしたもんじゃねーか?」
「あんたも凄いわね。猪を一発で追っ払っちゃうなんて。」
「まーだまだだよ。武道家としてはな。」
「あんた、武道家志望なんだ。」
「あったりめえだろ?じゃねーと、親父にくっついて、わざわざ修行なんてことやらねーよ。俺はもっと強くなるんだ。絶対世界一の武道家になってやるってな。そういうおまえはどうなんだ?ただのお稽古事でやってんのか?」
「うーん…。まだ良く考えたことないなあ。勿論、強くはなりたいわよ。道場継がなきゃならないから。」
「へえ、おまえんち、道場あるのか…。」
「そ、おんぼろだけどね。」
 
 この頃のあかねは、まだ、男子というものへの対抗意識はそう強くなかったかもしれない。年齢的にも幼い彼女は、まだ肉体の差が男と開いていたわけではないし、異性に対する対抗意識もさほど強いものではなかった。だから、身構えることなく、対等に、乱馬と話ができた。
 いや、ただ互いに「異性」を意識しなかっただけなのかもしれない。
 あかねはクラスメイトや幼馴染の男子と接するよりも、もっと砕けて、初対面の彼と話している自分に、全く気がつかなかった。もう少し年端がいけば、初対面ですらすら話せることの不思議さに気がついていたのかもしれないが、このときは意識すらしなかった。
 対する乱馬は、殆ど生まれて初めて、女子と対等に話していた。彼の場合、放浪生活が長い分、どうしても他者との関わりは希薄になる。どこの土地に行っても、一匹狼で過ごしてきた。男子はともかく、女の子との係わり合いも殆ど無しで今まで過ごしてきた。そんなも、彼も、気負うことなく、ごく自然にあかねへと言葉が流れた。
 数年後、この二人は「許婚」として再び出会うのであるが、勿論、そんな運命の絆など、知る由もなかった。



三、

 四方山話(よもやまばなし)を二人でしているうちに、雨も雷もどこかへ去ってしまった。

「お…。雨もいい具合に上がってらあ。」
 辺りが静かになったことを肌で感じた彼は、ひょいっと穴から外を眺めた。あれだけ荒れ狂っていた天候は、すっかり回復していた。だが、霧だけは晴れずに、どことなく森全体が燻っている。
「そろそろ、動くかな。」
 乱馬はあかねを促した。
「この辺りは詳しいの?」
「任せとけって。ここへ入って二週間は経つからな。地形はばっちりだぜ。」
 ドンっと胸を叩いて見せる。
「足元、気をつけろよ。雨でぬかるんで滑りやすくなってるからな。」
 前に立って歩き出す。
 確かに、山道を歩くことにも慣れているのだろう。裸足にも関わらず、どんどんと先に行く。
 手こそ繋いでいなかったが、何となく彼の背中が頼もしく見えた。後ろで揺れる、長い髪。
 だが、彼の言葉とは裏腹に、一向に森からは抜けられなかった。

「おっかしいなー。ぼちぼち、テント張ってあるところに出てもよさそうなんだが…。」
 乱馬は小首を傾げた。
「ひょっとして、あんたも迷った?」
 あかねは小さく問いかえす。一人で迷うよりは心強いが、いい加減、山を降りないと、父や姉たちが心配して探し回ることだろう。
「大丈夫。こんなときは、こうすれば親父が答えてくれるさ。」

 乱馬は親指と人差し指を丸く爪先であわせると、口元へと持って行った。

 ピーッ!

 指を咥えて、口笛を吹く。その音は森中に木魂していった。
 それから耳を澄ませてじっと待つ。だが、反応はない。
「おっかしいな…。聞こえる筈なんだが。も一回。」
 乱馬は再び口へ指を当てて、思い切り息を吹き込んだ。

 ピ、ピーッ!!

 これも木魂するくらいに強く吹いた。
 だが、返事の合図はない。
「親父の奴、昼寝でもこいてやがんのかな。」
 いつもなら、すぐさま、返事が返ってくるのだろう。だが、乱馬の期待とは裏腹になしのつぶてだった。
 どうしようかと考えをめぐらせる前だ。

 ガサガサっと目の前の茂みが大きく揺れた。

「乱馬っ!あ、あれっ!!」
 あかねの瞳が大きく見開いた。
「ん?」
 促されて、音のした方へと乱馬も視線を投げかけた。
「うわ…。な。何だ?」

 さすがの彼も飛び上がらんばかりの声を張り上げた。
 霧の向こう側に妖しく光る二つの眼が見えたからだ。ズズズズっとそいつは不気味な音をたてて、乱馬たちの方へと近寄ってきた。

 シャアアア。

 嫌な音がそいつから漏れた。
 思わずごくんと二人唾を飲み込んだ。

「だ、大蛇…。」
 あかねが乱馬の方へと身を寄せてきた。

 狭霧の向こう側から姿を現したそいつ。自分たちの数倍はあろうかという、大蛇がこちらをじっと見据えている。ぐるぐるとトグロを巻き、舌先をちろちろと出している。
 にんまりとそいつが笑ったように見えた。

「ふふふ…。甘酸っぱい匂いがすると思ったら、人間の子供か。こいつはラッキーだな。」

 そいつは低い声を出した。

「いや、この蛇、喋ってるわ。」
 あかねの身体に力が入った。それを制して、乱馬もぐっと足を踏ん張った。
 だらだらと大蛇の口からよだれが滴り落ちる。

「しめしめ…。二人も居るよ。柔らかそうで美味しそうな子供だこと。」
 どうやら、二人を食べたがっているらしかった。
 シャアアーっとそいつは静かに這い寄ってくる。
「あかね、逃げるぞっ!」
 そう一言吐き出すと、乱馬はあかねの手を取った。だっと身を翻して、蛇とは反対側の方向へと逃げ始めた。

「ふふふ、逃げたって無駄だ。おとなしく私の腹の中へ納まれ。」
 
 乱馬とあかねが駆け出したと同時に、奴も動きを早めた。ずるずると地面を引きずる音をさせながら、大口を開けて襲い掛かってくる。バキバキと木を薙ぎ倒すことなど、気にも留めないで身をくねらせる。
 訳がわからなかった。人間の言葉を介する大蛇。どこか、不思議な森にでも彷徨いこんでしまったとでも言うのだろうか。
 だが、目の前の情景は夢ではなかった。草木で手足がすれて血が滲み出してくる。

「くっ!」
 追いついてきた、その裂けた口元へ、乱馬は傍にあった岩を持ち上げて投げつけた。
 バキバキと音がして、蛇はその岩を噛み砕く。
「こ、こいつっ!岩を砕いちまった。」
 乱馬は再びあかねの手を引くと、だっと駆け出した。
 あの口に捕まったが最後、骨ごと噛み砕かれてしまう。そんなことは御免蒙りたい。一緒に走るあかねも目が血走っている。
 二人とも自分たちの目の前に迫ってくる現実に、思いを巡らせる余裕などなく、必死で逃げ惑う。
 と、道がそこですっぱりと途切れた。
 霧のすぐ向こう側に、ごつごつと立ち蓋がる断崖絶壁の岩肌を見つけたからだ。切り立った崖の底。上ろうにも足場はない。周りに目を転じても、逃げられるような空間は開けていなかった。
 岩肌を背にして、乱馬はあかねを庇いながら、大蛇を睨み付けた。

「さあ、おまえたちは袋のネズミだよ。後はない。」

 ゆらりと目の前で揺れる血の色をした大蛇の舌。それがぺろりと舌なめずりした。乱馬は脇に生えていた木の枝をパキッと折った。そして、その棒切れを武器のようにぎゅっと握り締めた。
「あかねはここに居ろ。」
 乱馬は後ろで怯える少女に声をかけた。
「でも、乱馬は…。」
「俺なら大丈夫さ。」
 所々に葉が残っている枝の棒を握り締めて乱馬はあかねを振り返った。

「へっへっへ。柔らかそうな肉肌だこと。人間なんて、この森に迷ってきたのは久しぶりだからねえ。男の子を先にばっくりと食べて、女の子の方はゆっくりと舐めながら飲み込んでやろうかしらね。」

「俺はおめーのエサになんかなる気はねーっ!」

 乱馬が棒切れを持って飛び出した。

 シャアアと大口を開けて、待ってましたとばかり大蛇が彼を目掛けて頭を振った。乱馬は地面を蹴り上げると、高く飛んだ。
「でやーーーっ!」
 それから、持っていた棒を一気に付きおろすように飛び降りた。
「乱馬っ!」
 あかねが思わず叫んだとき、乱馬はひょいっと大蛇の舌先を蹴り上げて、身体の位置を変えた。バチンと蛇の口が空を切って閉じる。だが一瞬早く、乱馬は射程距離から離れて、上に高く飛び上がっていた。そして、持っていた棒を逆手に持ち替えた。
「えいっ!!」
 乱馬は無我夢中で、蛇の大きく見開いた目に向けて、棒切れを突き刺していた。
「ぎやああああーっ!!」
 思わぬ反撃に、左目を突き刺された蛇は、もんどりうって大地を揺るがせた。
「あかね、あっちへ走れーっ!」
 着地ざまに乱馬は叫ぶと、だっと駆け出す。
 あかねも乱馬の指差した方向へと、猛ダッシュして駆け出した。

「うおのれえーっ!!」
 目に棒切れを突き刺したまま、大蛇が大きく蠢いた。
「絶対、逃しはせぬっ!まてーっ!人間どもっ!」
 
「待てっつーわれて待てるかよ。」
 乱馬もあかねも必死であった。食うか食われるかのエサの瀬戸際。
 と、ふわりと何かが鼻先をかすめた。掌にすっぽりと入るくらいの光の玉が、逃げ惑う彼らの元をふわふわと舞い降りてきた。

『こちらへ…。』

 はっと思う間もなく、玉はそう確かに声を出した。
 ふわふわと行き先を案内するように、目の前を飛来する。
 後ろからは大蛇が木々を薙ぎ倒しながら乱馬たちを追い縋ってくる。

『早く、そこの岩の裂け目へ!』

 光は力強く二人を導いた。

「乱馬、あそこ!」
 あかねの指先に、そそり立つ絶壁に岩の割れ目が見えた。
「お、おうっ!一か八かだ、飛び込めっ!」
 二人は夢中で、目の前に開いた岩の割れ目へと、身体ごと突進していった。

 バリバリバリ…。

 後ろで大きな音がした。乱馬たちを追ってきた、大蛇も一緒に岩の割れ目へと首ごと突っ込んできたのだ。だが、岩は、人間の子供がやっと通れるくらいの小さな割れ目に過ぎなかった。そのままつんのめって、大蛇は岩に突き刺さるようにして止まってしまった。

「畜生っ!もうちょっとで旨そうな人間の子供をエサにできたのにい…。」
 顔を岩肌に突っ込んだまま、大蛇は尻尾をじたばたと上下に揺らせていた。

「へっ、ざまあみやがれ!」
 一度去った危機に、安堵の胸を撫で下ろしながら、乱馬は小気味良く笑った。さすがのあかねも、息があがったようで、肩ではあはあと呼吸していた。
 彼らをこの穴へ導いた光が、再び彼らの上をすうっと舞い降りてきた。

『私に付いて来てください。姫様がお待ちでございます。』
 光ながらそう話した。
「姫様?」
 乱馬はきょとんとその光を見詰めた。
「どうする?あかね。」
 まだへたり込んでいる少女へとそのまま視線を流す。
「付いて行くしかないよ、乱馬。だって、後ろでは大蛇がこっちを睨んでるじゃない。あそこから出るわけにもいかなかったら、ついて行くしかないわよ。多分。」
 肩で大きく息を吐きながら、あかねはその問いに答えた。確かに彼女の言うとおりだ。後門の大蛇では身動きも取れなかった。
「わかった。その姫様ってー奴のところへ案内しろよ。」
 ぞんざいな言葉で玉に切り替えした。

『じゃあ、こちらへ。付いて来て下さい。』
 玉は洞窟の奥のほうへと二人を誘い始めた。洞窟内の湿った空気がツンと鼻をつく。真っ暗な洞穴の足元を、ほのかに照らしながら、玉はどんどんと奥へと突き進んで行く。足元の悪い洞穴を、ゆっくりと気をつけながら、二人は玉の案内を乞い、先へと進んで行った。
 どのくらい進んだのだろうか。洞窟の空気がふっと変わった。風が正面から吹いてくる。
「出口…。」
 玉の誘う先に光が見えた。日の光のような淡い輝き。
 玉はずんずん前へと誘うように飛び続ける。二人はゆっくりと出口に立った。

「ここは…。」

 二人は思わず洞窟の出口で立ち尽くした。そこは木々が鬱蒼と茂った中にふっと浮かび上がるような、美しい小さな泉を湛えた水辺だったのだ。太陽の光はどこにも見当たらないのに、きらきらと揺れる金色の水面。そして背後に迫る深き緑の森。
 神々しいまでの輝きが溢れる場所であった。

『ここは神南備の森の聖域です。さ、姫様はあちらでお待ちかねでございます。』
 玉は呆然と立ち尽くす、少年と少女の間をふわりと飛んで見せた。
「行こうか…。」
「そ、そうね。」
 二人はこくんと頷き合うと、意を決して歩き出した。見たこともない、不思議な神南備の森の聖域へと。




 つづく






  書きだしたのは十年くらい前。従って、今の私の文章とは違っていると思います。
 ちなみにこの作品はパラレル作ではありません。
 子供の頃の二人を描いてみたくて書き始めました。
 小学四年生。まだ思春期の前であり、心も体もこれから成長し始めてゆくという「やんちゃ盛り」のギャングエイジ。
 高校生の彼らとはちょっと違って、もっと素直で、率直に感情を表に出せるような。そんな頃の冒険譚です。
 やっぱり長くなると思います。いつもとちょっと変わった設定の乱あ神話ワールド。気長にお付き合いくださいませ。

神南備(かんなび)
 甘南備とか神奈美などとも書します。
 神を祭った森や山、飛鳥の森を表す古語。
 この作品では固有名詞のように使います。


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