第九話 狩られる者たち


一、

 そろそろ、太陽が南中する時刻だ。
 魔物は息を潜めたように、あれ以来、気配をあらわにしていない。魔を寄せ付けない太陽が、分厚い嵐の雨雲の向こうに輝きを放っているからなのだろうか。
 皆、身体を横たえ、じっと英気を養っていた。誰彼、起き上がってしゃべってもよさそうなものだが、互いの安静を邪魔するようで、皆、婆さんに習って、黙って横たわっていた。
 中には本当に眠ってしまった者も居る。少なくとも、婆さんと乱馬、それから、最年少の凛華に関しては、本当に、うつらうつらとやっているように見える。
 外の嵐は、まだ続いていて、雨も風も止む気配が見えない。いきなり熱帯低気圧ができあがって、台風でも生まれたのではないかと思うほど、荒れに荒れている。
 横たわっても眠れぬままに、あかねは悶々とし続けていた。いや、この場合、眠れる方が珍しいわけで、あかねが異常なのではなかろう。

 が、この部屋に結界を張って、篭り始めて数時間も経とうという頃。そろそろ、真昼に近い時間帯になろうとしていた。
 
 眠っていた、乱馬の瞳が、いきなりパチクリと開いた。かと思うと、がばっと起き上がった。

「来るぜ!」
 それは、警戒の言葉だった。
 乱馬の急変に、部屋中に緊張が走る。

「来るって何が?」
 あかねが問いかけると、
「決まってらあ…化け物だ。」
 そう言い終えないうちに、婆さんも起き上がっていた。
「さすが、武道の達人ね。気配が読めるの?」
 にっと婆さんが乱馬に微笑みかける。
「当たり前だ、だてに修行してねえぜ。」

「やつは、真下に居るみてえだ。」
 乱馬の瞳が険しくなった。
 真下と言われて、横になっていた連中が、ガバッと起き上がる。床下に化け物が居るとなると、あまり気持ちの良いものではないだろう。
「大丈夫、結界は平面だけじゃなくって、上下も有効よ。」
 婆さんが落ち着いた言葉で言った。
 
 と、とたん、結界を張っていた四隅の道具が、カタカタと揺れ始める。

「いやあっ!」
 凛華がガバッと跳ね上がるように起きて、傍に居た乱馬にぴたっと身体を寄せてきた。
「大丈夫だよ。怖がらなくても。俺や婆さんがみんなを守るから。」
 乱馬が背中の凛華に言った。
「あかね、凛華を頼む。」
 そう言うと、あかねに凛華を託した。彼女が一緒では、戦い辛いからだ。
「うん、わかった。あたしに任せて。」
 と頼もしげにあかねが返答する。そして、怯える最年少の少女を優しく、見つめた。
「怖がらないでって言う方が無理なのかもしれないけれど…。大丈夫。」
 凛華があかねに引っ付いた。肌と肌が触れ合うだけで、少し、恐怖は軽減されるものだ。ましてや、まだ、十歳の前半といえば、子供だ。

「できるだけ、壁面から、離れて、中央へ集まってね。」
 婆さんが部屋のみんなに言い渡す。
 外の嵐が、また、酷くなったようだ。バラバラと窓に水滴が当たり始める。そればかりか、また、雷が鳴り始めたようだ。

 と、目の前が見えなくなるほど、光った。そして、次の瞬間、ドオーンっと激しい地響きと共に、大音響が響き渡った。

「きゃああっ!」
「いやああっ!」
 その場に居た、娘たちが、身を寄せ合って耳をふさいだ。

「近くに雷が落ちたか?」
 乱馬が口走ったとき、ふっと天井の灯りが消えた。電源元近くに雷が落ちて、停電でもしたのだろう。
 昼間だから、真っ暗になったわけではないが、外は大嵐。思った以上に、暗く感じた。

 その暗さに乗じて、何かが部屋の中を蠢いた。
 いや、そんな気配を察したのだ。もちろん、その気配を感じたのは、武道の達人でもある乱馬だけだった。
 言い尽くせない嫌な感じが体中を、突っ切った。ぞくぞくっと背筋に悪寒が走る。
 
「なっ?」
 
 ゆっくりと背中を振り返る。嫌な気配を感じた辺りには次郎太がいた。
 
「おっさん?」
 声をかけようとして、ギョッとした。
 と、そこに居た、次郎太の様子が豹変したのだ。
 ブルブルと痙攣するように、身体が震えている。顔つきもこわばっている。
「次郎太さん?」
 その場に居た皆が、一瞬、息を呑んだ。
「ぐわあああっ!た、助けてくれええーっ!」
 つんざくような悲鳴が、次郎太の口元からもれた。そして、そのまま、前のめりに、ズンッと床に倒れこんだ。

「じ、次郎太さんっ?」
 何が彼の身に起きたというのだろう。一同、固唾を呑んで、次郎太を見守る。
 すると、どうだろう。倒れた次郎太の身体が、みるみる真っ青に変色していくではないか。

「しまった!既に奴らは、次郎太さんを手中に収めていたっていうのっ?」
 婆さんが悲痛な叫び声をあげた。

『ふふふふふ、一人、狩った。』

 どこからともなく、不気味な声が響いてきた。立浪の声色だ。

『最初の獲物は、そこの船乗りだ。ふふふふふ。』
 その声と共に、ゆっくりと次郎太が立ち上がる。口元からは、ふううっと臭い吐息が漏れてくる。顔も手も足も、露出している肌は血が凍りついたように蒼白い。瞳は空ろに明後日を向いている。

『さあ、やれっ!我が傀儡(くぐつ)よ!結界を中から突き崩せ!』
 立浪の声に応じるように、次郎太が動いた。
 ぐわああっと奇声を発しながら、立ち上がり、おもむろに四隅に置かれた、呪術具をなぎ倒しにかかった。

「おっさん!てめえ、何をしやがるっ!」
 乱馬が止めに入ったが、間に合わなかった。
 ゴロゴロと四隅に置かれた呪術具が全て、倒れてしまった。
 すると、バリバリと音を立てて、何かがはじけ飛んだ感覚がした。

「結界が崩壊したわっ!」
 婆さんが悲痛な叫び声をあげる。

『結界は壊れたぜ、お客様たち。さあ、どうするかね?』
 不気味な声は、面白がるように、言葉を放った。

「ここは、逃げるしかないわね。」
 婆さんの決断は早かった。
「皆、こっちへっ!」
 そう叫ぶと、ガラガラッと窓を開いた。

「お、おいっ!外へ逃げる気かよう?」
 乱馬が咎める。
「結界を張ったとき、あらかじめ活路は見出していたのよ!さあ、早く、外へっ!」
 吹き付けてくる暴風雨の中、窓から婆さんが最初に飛び出した。
「さあ、早くっ!迷っている暇はないわっ!」
 婆さんに促されて、娘たちはその後に続いた。
 もちろん、「操り人形」と化した次郎太が、それを阻止しようと、襲い掛かってくる。
「くらえーっ!」
 さっきまで仲間だった次郎太を打つのは忍びなかったが、ここで怯むと、皆が危ない。乱馬は、気弾を次郎太目掛けて打った。 
 もちろん、相手を殺すわけにはいかないから、手加減して打った。

「ぐえええっ!」
 気弾を浴びて、次郎太が痛々しい声をあげる。既に人間の言葉ではなかった。漏れてくるのは、動物のような咆哮だ。

 乱馬が次郎太にけん制を与えている間に、次々と、窓から出ていく。シンガリは乱馬だ。
 身を乗り出すと、窓の外は非常通路のような狭いベランダが建物沿いに続いていた。
「避難通路みてえだな…。こいつは。」
 いつの時代に作られたのか、断崖に沿うように、通路が確保されていた。人の手が入っていることだけは明らかである。
 だが、殴りつけてくるように降り注ぐ暴風雨に、足元も視界もかなり悪い。


『おや、その部屋から逃げるのかい?…。どこへ逃げても無駄だよ…。一人ひとり、丁寧に狩ってあげるからね、お客様。』
 結界を突き崩した余裕からくるのか、魔物の声が愉しそうに言った。

「畜生!余裕かましやがって!」
 忌々しげに、乱馬が口走った。全身、雨水に濡れそぼって、びしょぬれだ。これでは、男にも戻れない。
 ずんずんと先に進む、婆さんたちの後を挟むように、追って行く。

「こっちよ!」
 あらかじめ考えていた逃げ場へと、婆さんは順を追って一同を導いてゆく。
 他にあてもないから、ひたすら、婆さんに続く以外、道はない。
 結界が剥がれて、事態が急変したのだ。
 外の通路とはいえ、一応、柵はついていた。海の塩気で錆び付いてはいるが、しっかりと柵の役目は果たしている。もし、柵がなければ、こんなにすいすいとは逃げられまい。
 だが、ずぶ濡れになっている足元は滑りやすく、怪我をしないように、はやる気持ちを抑えつつも、慎重に逃げた。
 やがて、一つの扉の前で婆さんが止まった。

「どう?乱子ちゃん。この扉の向こう側は…。」
 暗に、気配を探れと言わんばかりの言い方だった。
 乱馬は気を研ぎ澄まし、扉の向こう側の気配を探る。
「誰か居る!」
 その言葉に、一気に緊張が走った。
「まさか、化け物?」
「さあ…。でも、それに近いかもしれねえ。そこだっ!」
 バンと乱馬は扉目掛けて、気弾を放った。
 シュウシュウと音がして、ドアが破ける。
 その向こう側から覗いていた者。それは、メイドの一人、「かえで」であった。

「こなクソッ!」
 乱馬が二発目の気弾を打とうと身構えた時、婆さんがグッと乱馬を引き寄せた。
「危ないっ!」
 その声と共に、かえでの目の前で火花が飛び散る。

 バンッ!バンッ!

 と爆裂音が二発、立て続けにとどろき渡った。
 続いて、ボロボロッと零れ落ちる。銃弾だった。

「ピストルか?」
 婆さんが止めてくれなければ、真正面から乱馬に当たっていたろう。

「でやああっ!」
 怯まずに、乱馬は手刀を振り上げた。そして、メイドが構えていたピストルを叩き落す。カランカランと乾いた音がして、ピストルが回りながら床に落ちた。
「おまえに用はない!」
 かえでの瞳が怪しげにゆらゆらと光ると、それに合わせて、乱馬を飛ばさんばかりの風が海のほうから吹き上げてくる。

「くっ!」
 腕を前に十文字に構えると、吹き飛ばされぬように、足元を踏ん張る。風に煽られて、半壊していた扉が、柵を越えて飛ばされ、落ちていく。
「凄い風!」
 あかねも凛華を抱えながら、耐え忍ぶ。他の皆も飛ばされぬように、必死だった。

「用があるのは、娘、おまえだ!」
 すっと、かえでの右手が、千秋を指差した。

「え?私?」
 と、千秋の身体がふわっと浮き上がった。
 その瞬間、かえでの指先から、鎖のようなものが数本、ぱっと伸び、空へと浮き上がった千秋の身体を絡め取る。
 それは、一瞬の出来事だった。

「キヤアアアアッ!」
 つんざくような千秋は悲鳴と共に、身体に鎖を巻かれたまま、空を舞っていた。

「千秋さん?」
 あかねが駆け出して彼女の手を掴もうとしたが、紙一重のところで届かなかった。
 ぐんっと風に背中を押されて、千秋はそのまま、かえでの待ち受ける元へと飛ばされる。

「させるかっ!」
 乱馬が千秋を絡め取ったかえでに、体当たりを食らわせようと、助走して突っ込んだ。だが、その寸前に、千秋を抱えてかえでが後方へと飛んでいた。その飛躍距離は人間離れしている。さながら、化け物の証のような飛翔だった。

「一人、狩った。こやつ、私の獲物。おまえたちも、すぐに狩られる。逃げ場などどこにもない。うふふふふ。」
 そうにやっと笑うと、千秋を抱えて、かえではすうっと、屋敷内の奥へと消えていった。


二、

 かえでが居なくなると、暴風はすうっと止んだ。
 雨風はまだ、激しく降り続くが、風に煽られて吹き飛ばされる危険はなくなった。

「千秋ちゃんが連れ去られた…。」
 ずっと行動を共にしてきた、桃代が嘆いた。
「畜生!どこへ連れて行きやがった!」
 気配を探る事ができても、限度がある。千秋と彼女をさらった、かえでとかいうメイドの気配は、ふっつりと途切れた。

「これで、明らかになったわね。彼らの目的が…。」
 婆さんが搾り出すような声で、言った。
「奴らの目的だって?」
 問いかけた乱馬に、逆に婆さんは切り出した。
「乱子ちゃん、近くに魔物は居ないかしら?」
 言われて、すぐに、気配を探る。
「大丈夫、今のところ、気配はねえ、魔物は近くには、いねえよ。」
 その言葉を訊くと、安心したのか、婆さんがふううっとため息を吐き出した。
「千秋さんが、こうもあっさりと捕らえられるなんて…思いもよらなかったわ。」 
 と婆さんが言う。

「これからどうするんだ?また、建物内へ入るのか?」
 と、問いかける蒼太。
「ええ、外だと風雨がきつすぎるからね。あまり長い間雨風に晒されていると、体力を消耗するだけでしょう?」
 婆さんが言った。
「中に入って大丈夫なのかよ。化け物館だろう?」
 世話になっている次郎太が、狩られて、ショックを隠せないのだろう。必要以上に慎重になって、蒼太が問いを続けた。
「仕方がないわ。ここは、お婆さんの言うとおりにしましょう。不安なのはわかっているけれど、いつまでも雨に打たれているわけにはいかないわ。」
 年長者の橙子が、不服そうな蒼太をなだめすかす。
「わかったよ、中へ入ろう…。」
 渋々承諾し、壊れた扉から、中へと入った。
 
 中はシンと静まり返っている。
 部屋ではなく、廊下の片隅だ。真っ暗な廊下が、ずっと奥へと続いている。

「ここは、何階だ?」
「少し傾斜がかった通路を逃げてきたから、地下二階か三階でしょうね。」
 婆さんが言った。
「ということは、俺たちが泊まっていた階よりも下ってことか。」
「多分ね…。」


「あの…。」
 そう言いながら、今度はあかねが婆さんに言った。
「凛華ちゃんが、気絶しちゃったようなんですけど…。」
 抱きかかえた腕の中を、覗きこみながら、あかねが報告した。
「あらまあ…。本当だ。気を失ってるわ。この子。」
 橙子が覗き込みながら、言った。
「この場合、気絶しちまってた方が幸せかもしれねーな。」
 乱馬が正直な感想を述べた。
「あ、あかねさん、凛華ちゃんを抱えるのは、僕が代わりましょう。じゃないと、きついでしょう?」
 蒼太がそう言いながら、あかねに手を差し伸べる。
 どうしたものだか、と、あかねは乱馬を振り返った。
「へええ…。優しいのねえ、蒼太君ってば。」
 橙子がにいっと笑った。
「男手は僕一人なんですから…。力仕事は当然でしょう?」
 と得意げに蒼太が言った。
「ちぇっ!すかしてやがる…。けど、確かに、今、男はおめーだけだからな。この場合、それで良いんじゃねえか?」
 乱馬が突き放すように言った。当然、本来はあかねの補助をするのは己の役目だと思っているが、今は女に変化している。しかも、あかね以外は彼の正体を知らない。ここで我武者羅に頑張っても、何の特にもならないと、悟ったのだ。
「そうね…。蒼太さんに凛華ちゃんは託すわ。」
 あかねも迷うことなく蒼太に託した。
 瞳を閉じたまま、凛華は首をうな垂れている。さっき、千秋が襲われた時のショックで気を失ったのだろう。蒼太は負担が軽くなるように、背中に凛華を背負った。

「さて、これからどうするんだ?」
 乱馬が問いかける。雨風が無くなった分だけ、彼にしてみればありがたい。全身ずぶ濡れになって、床に水が滴り落ちている。
「また、結界でも張って篭るのか?」
 水をしごきながら、乱馬が問いかける。
「あれだけの結界は瞬時には張れないわ。それに、もう道具も残っていないし。」
 婆さんが残念そうに言った。
「だったら、奴らの手に狩られるのを待つだけなのかよっ!」
 蒼太が怒ったように吐き出した。
 こんな場合、一番厄介なのは、内輪もめだ。何気ない一言が、互いの疑心難儀を生み出し、思わぬ落とし穴に落ちてしまうことが多々ある。
「第一、一体、あの立浪ってのは何なんだ?紫苑や他のメイドたちは…。」
 その蒼太の問い掛けに、乱馬も同調していた。
「そうだな…。婆さん、さっき奴らの目的がはっきりしたって言ってたけど…。どういう事だ?」

「これは、私の憶測なのだけれど…。」
 と前置きをした上で、話し出す。
「多分、次郎太さんが話してくれた、この岬に伝わる昔語りの再現が始まろうとしているんじゃないかしらねえ。」
「昔語りの再現だあ?どういうことだ?」
 乱馬が問いかける。
「恐らく、あの三つの話は、多分、同一の現象を物語っている…どこかで繋がっているのよ。つまり…。八百比丘尼は今でも生きているっていうこと。」

「ちょっと、待ってよ、お婆さん、八百比丘尼って伝説上の尼さんなんじゃあ…。」
「とても、信じられないわ!そんな話。」
 口々に、娘たちが言い放った。

「私が思うに、首謀者と考えられる、八百比丘尼はあのメイドさんたちの誰かの中に巣食っていると思うの…。思い出して御覧なさいな。
 最初の伝説は大海原の彼方から流れ着いた娘が女たちをぞんざいに扱った男たちを取り殺す話だから、いわば八百比丘尼伝説の一つの形。その後のお七の話にしても、御曹司の話にしても、「憑依譚(ひょういたん)」の一種でしょう?物の怪が人間に憑依して展開するミステリー。
 話の主人公の薄幸な娘たちに憑依したのが「八百比丘尼」だったとしたら?全部、繋がるんじゃないのかしらねえ…。 」
 婆さんの説明に、一同、黙り込んだ。
 確かに、何の脈絡もない昔話だが、奇妙な共通点はある。いずれも、岬を巡る話であり、最後は関係者が行方知れずになって終わっている。話の主体が全く解決していないのだ。

「ってことは、奴らの狙いって…。」

「憑依する対象、依代(よりしろ)を確保することよ。」
 婆さんが断言した。

 一同、シンとなる。

「先に行方知れずになった碧さんも、今しがたさらわれた千秋さんも、彼らが憑依する依代(よりしろ)として、搾取されたのよ。多分ね…。」
「依代だと?」
「ええ、依代よ。憑依とか神懸りとか言われている憑依現象に欠かせない「器」「傀儡人形(」よ。多分、彼らは、己の憑依体を確保する事を称して「狩り」と言ってるんじゃないかしら。」
「何のために、そんなことを…。」
「決まってるわ、次の数十年をこの世で安穏と生きるため…。」

 婆さんの予測には一理ある。まるで、見て来たような物言いに、乱馬の心に何かが引っかかった。

「そんな非科学的なこと…。あるわけないやん!」
 桃代が否定的な意見を述べた。
「いや、物事は科学的説明がつくようなことばかりじゃねえぜ。現に俺だって…。」
 そう言いかけて、乱馬は口をつぐんだ。
「俺だって?何?」
 興味深げに、婆さんが問いかけてくる。
「あ、いや、別に何でもねえ…。その、科学的説明が付く話ばかりじゃねえだろって言いたかっただけだ。」
 乱馬は必死でお茶を濁した。
「まあ、あんたなんか、世界の非常識の一つにはまることは確かな事ね。」
 あかねが突き放すように言った。
 
「とにかく…。対策としては、焼け石に水なのかもしれないけれど…。
 婆さんはそう言いながら、お札を取り出した。そして、そのうちの数枚を分けると、その場に居た全員に手渡した。
「これはね、魔除けのお札よ。強い気を持つ妖怪にはあまり効かないかもしれないけれど、もしものとき、逃げる隙くらいは作ってくれると思うの。各人、懐に忍ばせておいて。」
 そう言いながら、配った。
 誰もがお札を貰うことに意義を申し立てなかった。
 何が何でもここから抜け出したい。新たな悲劇的伝説の登場人物になることだけは、避けたいと、この場に居た誰もが思っていたからだ。
 結界が壊された今、お札など、屁のツッパリにもならないかもしれないが、この際、少しでも拠り所が欲しかった。
 各人それぞれに、思うところへと、お札を入れた。
 
「で?この先どうすんだ?」
 また、同じ命題に、乱馬は戻って尋ねた。
「そうね…。闇雲に動くと、それだけ危険度が増すから、軽い結界を張って、ここに滞在していましょうか。ここだと、逃げる活路も開きやすいし…化け物の来訪を察知する事だってできるでしょうから…。」
 婆さんが提案した。
「そうだな…。外にも通じる通路があるし…。闘いやすいし護りやすいかもしれねー。」
 乱馬ポツンと言った。
「海が静まってきたら、何とか船でここを出ましょう。」
「そうなることを祈りたい…わね。」

「いや、そう一筋縄じゃあ、いかねーみたいだぜ…。」
 乱馬が吐き出した。
「これはっ!」
 あかねも顔をしかめて、身構える。彼女もまた、武道家のタマゴ。乱馬ほどではないにしろ、気配を読むことが多少はできる。
「おめえも感じたか?」
 乱馬がにやっと笑う。
「笑ってる場合じゃあ、ないでしょう?この数は…。」
「ああ、一度に襲うつもりだな。こいつは、フンドシを締めてかからねーと…。」
「今頃、フンドシを締めてかかる女の子なんか、居ないわよ。」
「けっ!軽口叩く暇があったら、戦いの準備をしな。」
「言われなくても、やってやるわよ!」
 互いに、気合を入れ合う。
 「空元気も元気のうち」という言葉があるが、まさにそれだろう。意気消沈してしまえば、活路も見出せない。乱馬もあかねも、二人とも、ある程度の腕の持ち主だから、その辺りは理解していた。
「いいな!付いて来いよ!」
「勿論!」
 二人は、迫り来る「魔物」に向かって、身構えた。


三、

 外は、暴風雨がまだ続いていた。
 雨も風も止みそうにない。覆った厚い雲は、途切れる隙もなく、どんよりと重くのしかかってくる。


 
 虚(とみて)が去った後、紫苑は暫くまどろんだ。
 疲れが溜まっていたのか、力が尽き掛けていたのか、軽く目眩がしたからだ。
 ここのところ不眠不休だった上に、胡瑠姫(うるき)から命じられ、彼女にかなりの気を分け与えたから、そろそろ休息を取らねば、体力的にきつかった。
 人間と違い、数分も目を閉じて安静になり、横になれば、ある程度の体力気力は回復できる。
 本当に、束の間の休息だった。

「そろそろ、太陽の力が落ちてくる刻限になるな…。」
 時計は午後三時をさしていた。
 分厚い雲の上には、煌々と真夏の太陽が照らしつけているだろうが、あと数時間で陽は綿津見の彼方へ沈んでしまう。
「でも、さすがに、太陽光線を直接浴びていなくても、身体がだるいな…。俺にもそろそろ魂抜けが始まってしまったようだ…。」
 そう吐き出しながら、立ち上がる。寝室に飾られた、大きな姿見に己の姿を写し出す。上半身裸の身体は瑞々しいくらいに若い。肌の張りと筋肉とが身体を覆い尽くし、勿論、頭髪にも白髪一つない。
 五十年間、鏡を覗くたびに、そこへ写し出される姿は、何一つ変わってこなかった。そう、とうに刻まれていてもおかしくない「皺」も「白髪」もそこには無いのだ。老いを知らない肉体が、そこにはある。

「上辺には若いこの肉体も崩壊が近い…か。俄かには信じられないがな…。」
 そう言いながら、嘲笑した。

 この五十年間、老いない体で胡瑠姫様の身近に仕えた。彼女に乞われ、命令されるがままに、翻弄されてきた五十年。それは、まさに、地獄の時間だった。

「また、新たに繰り返される地獄の始まりか…。」
 紫苑は、ふっと、隣の部屋を見やった。
 妖しい良い香がたちこめ、眠らされている娘の姿が、薄いカーテン越しに透けて見える。
「碧とか言ったか…。彼女は室(はつい)の傀儡に決定だな。「室(はつい)」が宿るさくらには、己の傀儡を狩る力は残ってはいないだろうからな…。」
 と呟くように吐き出した。
「彼女を室(はつい)を遷しかえる、その前に…。」
 紫苑は、にっと笑って立ち上がると、そのまま、彼女の眠っている隣の部屋へと足を踏み入れた。
 その部屋に窓はない。
 部屋の片隅に、時代遅れの蜀台が置いてあり、そこに置かれたロウソクで灯りが灯されていた。紫苑が部屋に入ると、ロウソクの光はゆらゆらと妖しげに揺れる。
 じっと、寝入る顔を暫く見詰めたあと、紫苑はふわっと掌を上に身構える。
 そこに浮き上がってきたのは「黒い玉」だった。前に立浪を苦しめたあの、玉だ。
 紫苑は浮かび上がってきた玉を、きゅっと上に向けて小さく動かした。
 と、眠っていた碧の瞳がゆっくりと開かれていく。

「こ、ここは…。」
 意識を取り戻したのだろう。碧が辺りを見回した。
「あたし…確か…。」
 そう言いながら、瞳をゆっくりと部屋中に巡らせる。
 と、紫苑の瞳とかち合った。
「やあ、お目覚めかい?僕の眠り姫…。」
 思わせぶりに、紫苑が呟く。
 紫苑の出現に、脳裏に浮き上がってくる、意識を失う前の記憶。
 ビクンと碧の肩が震えた。
「紫苑さん、あなたは…。」
 逃げようとベッドから立ち上がったところを、紫苑はぎゅっと、碧の手首を絡め取った。
「僕の部屋に勝手に忍んで来たのは君の方じゃあ、なかったのかい?」
 と冷たく笑う。碧はその手を払いのけようと、必死で抗った。
「嫌っ!来ないでっ!私は…あなたのような男性とは…。」
「僕のような男性とは何?」
 碧の身体を押し倒しながら、紫苑が囁く。
「来ないでっ!嫌っ!誰かっ!誰か来てーっ!」
 碧が抗いながら、悲鳴に近い大きな声を張り上げた。

「お生憎様…ここには、誰も来ないよ…。」
 意地悪な笑みを、紫苑は碧に手向けた。

「嫌よっ!何するのよっ!」
 抗いつつ、必死で碧は叫び続ける。
「何って…。君が元々望んでいたことだよ…。君は元々、僕と愉しむために、ここへ来たのだろう?」
 くすっと紫苑が碧の耳元に息を吹きつけながら言った。
「ち、違うわ!あたし、紫苑さんとお話がしたかっただけよ。」
 涙目になりながら、碧が答える。
「ふふふ、あわよくば、こうなる事を望んだんじゃあないのかな?」
 紫苑は、ぐっと寝かせた碧の肉体の上に、覆い被さる。
「ち、違うわ…。」
 震える声で、碧が答えた。
「でも、男の部屋へ一人で入ってくるということは、こういう意思表示みたいなものになるのが、普通だよ。だから、君には拒否する権利などないんだ。」
 すっと、紫苑の手が、碧の身体を、ゆっくりと撫ではじめた。碧に容赦なしに、覆い被さる。
「あっ…。」
 その感覚にほだされたのか、碧の口から、色づいたため息がこぼれ落ちる。誘惑への誘いが、既に始まっていた。
 余裕があるのか、紫苑は、碧を愛撫しながら、囁きかける。
「ほら、だって、勿体無いじゃないか…。こんな美しい身体を、誰にも捧げないで傀儡となってしまうなんて。」
 そう、言いながら、紫苑は撫でる手を弱めたり強めたりして、碧の肉体へと迫った。
「あああ…。」
 その悩ましげな感覚に溺れ始めたのか、すすり泣きに似た甘い声が、碧の口を吐き始める。
「ほら、気持ちもほぐれてきただろう?そろそろ、僕に全てを託してくれたまえ。悪いようにはしないから…。君の中には胡瑠姫様が入るわけではないから、別に、処女でなくっても良いんだ…。ねえ。」
 着衣に手をかけ、ゆっくりと剥ぎ取ろうとしたその時だ。

 すっと二人の上に、人影が立った。

「何だ…。もう、邪魔が入ったのか。」
 紫苑の手の動きが止まり、すすり泣き始めた碧の肉体を放した。

「紫苑様…。そろそろ準備をなさいますように…。」
 抑揚の無い声がすぐ傍で囁いた。
 そこに立っていたのは、メイドのつばきであった。

「私と共に、来なさい!あの方が呼んでいらっしゃいます、紫苑様。」
 その声には人間的な感情が一切に無かった。
 ぐいっと引っ張られ、紫苑の身体が、ふっと浮き上がった。
 そして、黒い光に包まれて、一瞬のうちに、上へと運ばれる。
 紫苑は傍らのつばきに語りかけた。
「フン、あの方が目覚められたら命令口調か…。まあ、良い。」
 紫苑は
「つべこべ言わずに、早く来なさいっ!」
 つばきが紫苑を引っ張りながら動いた。
「うわあああっ」
 岩肌にぶつかって身が砕け散るのではないかと思うほどの速さでぐいぐいっと、上に引き寄せられる。つばきの背中に羽でも生えているのかと思えるような、飛空だ。
 迷路のような隠し通路をいくつも潜り抜け、引き寄せられたのは、天上に一番近い部屋。あの礼拝堂だった。
 天井の開閉型ドームは閉じられていて、空は見えない。が、外の嵐はまだ吹き荒れているようで、窓辺を雨風が打ちつける音が、まだ、聴こえてくる。

「さあ、紫苑…。あの方の御前へ。」
 そう言いながら、つばきは、礼拝堂の壇上近くへ立浪を引き摺った。つばきは見てくれの少女からは想像できない、馬鹿力で、引き摺る。どこからそんな力が湧いているのか、不思議な光景である。
 すっと、音も無く、壇上の前に降り立った。
 ステンドグラスが光源もないのに、色とりどりの光を放つ。その上には、黒水晶が鎮座していた。その表面には微かに光がある。蒼白い不気味な薄い光だ。

「玄武様…お望みどおり、紫苑を連れて参りました。」
 つばきは黒水晶に向かって、そう声をかけた。

 ドクン!
『待っていましたよ、紫苑。』
 水晶玉から男の声がもれ聞こえてきた。紫苑ですら、初めて聴く声だ。若い女ののような高い男の声。

『あの男をあなたの、伊奈魅(いなみ)の傀儡になさい!』
 黒い水晶玉はいきなり言を発し、紫苑へ直接命令した。

「あの男とは?次郎太ですか?それなら既に傀儡種を植え付けて我らが手中に納まっておりますが…。」
 紫苑が、玉に向かって言った。

『いいえ。違います。』

「では、蒼太という少年ですか?」

『いいえ…。それも違います。』

「では、誰を?彼ら二人以外に、男は居ませんが…。」
 不思議そうに、紫苑が尋ねた。

『今、地下へ飛ばされた者は、瑞々しき女性の肉体と逞しい男性の肉体、両方を併せ持つ、猛者です。名前を、確か「天道乱子」と言いました。』

「天道乱子ですか?彼女は女です。男ではなく…。風呂場でも確認しておりますが…。」
 そう言って、不思議がる紫苑に、玉は言った。

『いいえ、あれは男です。確かに今は女の身をまとっていますが、一皮めくれば、他の男たちとは格が違うほどに、瑞々しい男漢をしています。彼が良い。おまえの傀儡には彼がぴったりよ。…。両性具有の変り種。まさに、我が降臨するに相応しき身体…。ああ、狂おうしい程に…。あの身体を借りて再臨したい…。あの、天道乱子を我の元へ連れて来やれ!』

「しかし…。彼は「虚(とみて)」の獲物なのでは?」

『それは私の決定ではなく、胡瑠姫の独断です。虚(とみて)には勿体ない。私が欲しいくらいです…。だから、そなたに直々に命じます。彼を狩って、私のために、伊奈魅の傀儡になさいっ!』
 声の口調が激しくなった。
「うわああああっ!」
『ほら、返事は?』
「わかりました…。玄武様…。必ず、狩って来ます…。印南紫苑、その両性具有の人間を狩ります!」
『ならば、我が闇の力を少し、あなたに与えてあげましょう。紫苑よ…。』

 玉がそう発したした途端、紫苑の身体が宙へ浮き上がり、くわっと目が見開いた。
 シュウシュウと煙の如く、身体から力が湧きあがっている。漲る力。

『どうです?紫苑よ。』
 声が笑いを含みながら言った。
「凄い…。体中から力が湧きあがってくる…。魂抜しかかっている、伊奈魅の玉の中から突き抜けてくるような力が…。これなら、気弾を扱える奴を狩れる、確実に、狩れるぞ!」
 瞳がギラギラと輝く。
 だが、彼には見えていなかった。己の額に「牛」という紅文字が浮いた黒い玉が、くっきりと浮かび上がっていることに。
 鏡でもないと、己の姿を写さないから、気付かなくても仕方のないことではあった。

『ふふふ、つばきよ、おまえは忌々しき蒼龍の手の者を罠にかけなさい。彼から遠ざけるのよ。』

「はい、玄武様。」
 コクンとつばきの頭が前に揺れる。

「蒼龍手の者がまた、性懲りもなく、浸入したのでございますか?」
 紫苑が不思議そうに、水晶玉を見上げた。

『ああ、蒼龍の手の者がわしらを察知したようです。どういう呪術を使ったのか…。吾らを滅そうと動いています…。ククク。だが、奴らに簡単にやられる吾らではありません。
 そろそろ、陽が暮れる。そして、月が昇り始める。我々には時間がありません。わかるでしょう?急げ、急ぐのです!』
「今夜中に終結させねば、また、次の満月の夜を待たないといけませんからね…。」
『今夜中に片を付けなければ、傀儡たちの力が持つかどうかも危うい。もう、既に一人、魂抜けしてしまっているでしょう?これ以上、待てぬ、待てないのです。』
「さくらですか…。確かに…。」
『で、紫苑…。その少年を呪縛するために必要な本当の名前は、こうやって明かさせば良い。』
 狡猾な水晶玉が揺らめきながら、紫苑へと知恵を授ける。

「なるほど…。奴の「天道乱子」は本名ではない…というのですね?」
 紫苑が頷く。
『乱子は女の名前。必ず、男の本名があるはず。彼を捕縛するためには、本当の名前を知らねばなりますまい?』
「御意…。」

 妖艶な輝きと共に、黒水晶玉が揺れた。 

『あとは、おまえの手腕一つ。必ず、あの異端の少年を狩ってきなさい。良いね?紫苑、つばき…。』

「御意!」
「御心のままに。」

 水晶玉はその声を聴くと、満足したのか、すうっと視線を外し、また、半開きになった。そして、そのまま、黒い内面へと静かに消えていった。



 紫苑とつばきが上の礼拝堂を出たのと同じ頃、乱馬たちと魔物の闘いの幕が開けていた。
 奴らの手の者が、乱馬たちの居場所を襲ったのである。メイドたちの他に、立浪や彼に操られている次郎太も居た。
 どこへ逃げ隠れても、結果は同じと割り切ったものの、ここは化け物たちの棲家だ。彼らに有があるのは、避けて通れない。
 さっきの、千秋を奪取された単体の奇襲攻撃も厄介ではあったが、まとめてこられると、その場は修羅場と化す。化け物たちも、一網打尽を狙ったのだ。
 そう、そろそろ太陽が光を失う時間にさしかかっている。心なしか、雲で覆われた空が、暗くなってきたような気がする。
 闇が動き始める前に、捕獲を完了させる必要が、彼らにはあったのだ。

「でやあああっ!」
「たああああっ!」
 腕に覚えのある、乱馬とあかねは、化け物相手に果敢に攻撃を加えていく。勿論、他の娘たちも、おのが身を守るため、そこら辺にあった掃除道具などを手に、武器として振り回して、化け物たちの襲撃に対した。
 メイドたちは、こぞって力は弱いようだが、打てども打てども、立ち上がり、しつこく攻撃を仕掛けてくる。
 日頃から鍛えている、乱馬とあかねはともかくも、他の娘たちは、すぐに息があがった。蒼太も凛華を庇うのが精一杯である。婆さんにいたっては言うに及ばずだ。
 最初に撃退されたのは、他ならぬ、鈴音婆さんだった。
 占い師らしく、持てる札や呪術で化け物たちと対していたが、化け物もしたたかに考え抜いていた。
「次郎太…あのババアをやれっ!」
 立浪の指示に従い、次郎太が鈴音婆さんを襲ったのである。化け物に操られているとはいえ、次郎太はまだ、人間である。人間を退散させるのに、退魔術や札は効かない。
 乱馬やあかねも、己の降りかかってくる火の粉を振り払うのに精一杯で、婆さんを擁護する余裕がなかった。
 次郎太の腕力と婆さんの腕力。その違いは火を見るように明らかだ。
 次郎太は容赦なく、婆さんの胸倉を掴んで、引っ張った。

「しまったっ!」
 逃げる間もなく、次郎太に掴まれてしまった婆さんは、悔しそうに吐き出した。息は既に上がり初めている。
「くっ!」
 握った退魔札も、次郎太には無効だった。
「でかした!次郎太!そのまま、そこの穴へ投げ入れろっ!」
 立浪が婆さんを掴んだ次郎太に指示を与える。彼はその指示通り、壁に無造作に開いていた穴目掛けて、婆さんを投げ入れたのだ。

「きゃあああっ!」
 婆さんは悲鳴をあげながら、穴へと吸い込まれ、落ちていく。

「お婆さんっ!」
 傍でその様子を目の当たりにしたあかねは、一瞬、闘いの気がそがれた。
 そいつがいけなかった。
 その一瞬の隙を、辛くも突かれてしまったのだ。

「小娘っ!我が瘴気、その身に受けてみよっ!」
 立浪の瞳が怪しげに光った。そして、彼は手にしていた煙玉を投げつけてきた。ボンとそいつは、あかねの目の前で弾け、臭気が流れだした。
「これは…。痺れガス?」
 その息を真正面から浴びせかけられた途端、あかねは、一瞬、立っていられないほどの立ち眩みが起こった。周りの景色が点滅して揺れ始める。
 ぐっと足を踏ん張って、倒れこまないように身構えたが、そのまま、床へとへたってしまった。それ目掛けて、立浪の強肩が襲いかかる。

「あかねっ!危ねえっ!」
 乱馬が横から飛んだ。
 そして、あかねを庇って、飛び出した。
「させるかああっ!」
 そう言いながら、飛び出したのだ。
「かかったな、小娘っ!」
 立浪の瞳が、ふっと笑ったような気がする。
 立浪の身体の動きが急に止まった。予め、乱馬の動きを読んで、誘うべく、あかねを攻撃したに過ぎなかったようだ。始めから、立浪の狙いは乱馬だったようだ。

「くっ!」
 乱馬は態勢を整えなおすべく、くるりと床で一回転すると、気弾を打ち浴びせかけようと右手を握った。そして、起き上がり間際、身構えて、ハッとなった。攻撃目標の位置に立っていたのは、立浪ではなく、橙子の姿だったからだ。立浪は、乱馬を牽制するために、傍に居た橙子を絡めとり、己の盾にして笑っていた。
「どうだ?この娘の身体越しに攻撃はできまい?」
 勿論、乱馬の性格では、仲間を打つことはできない。
「卑怯なっ!」
 そう、叫ぶのが精一杯だった。攻撃の隙をそがれ、一気に形勢が逆転した。

「生死を賭した闘いに、卑怯という言葉はないのだよ?ふふふふふ。」
 立浪はジリジリと、橙子の身体を片手で締め上げながら、面白そうに言った。
「ごめんなさい…。乱子ちゃん。」
 苦しそうに橙子が詫びる。

「行けっ!あかねっ!」
 乱馬は無我夢中で叫んだ。

「そんな事言ったって!あんたはどうするのよっ?」
 あかねは乱馬へと叫び返す。

「橙子さんは俺が何とかするっ!」

「何言ってるのよっ!この状況で闘う気?」
 あかねは怒鳴る。

 そんなあかねを、乱馬は無我夢中で己の傍から突き放した。そして、自分から、あかねの傍を離れた。

「俺のことは良いから、おめーは逃げろっ!蒼太っ!あかねを頼むっ!」
 そう叫ぶと、手に溜めた気を、あかねたちが居る真横の壁に向かって解き放った。立浪を打てないなら、壁を崩して、あかねたちが逃げる隙を与えようと、瞬時に判断したのだ。

「うおおおおっ!」

 乱馬の放った気弾は、壁を打ち砕く。

「乱馬あっ!」
 無我夢中のあかねは、思わず、乱馬の本当の名を叫んでいた。乱子ではなく、乱馬だ。

 ガラガラと壁が大きく崩れ去っていく。メイドたちが、放心したまま、壁の崩落をじっと見詰めていた。

「己よりも、他の人間を護ったか…。なかなか、見上げた奴だな…。」
 立浪が笑った。
「うるせーっ!」
「動くなよ…。今度気弾を浴びせかけたら、この、娘の命はないぜ。」
 そう言いながら、立浪はバリバリと目の前で変化し始めていた。再び、化け物の姿がおどろおどろしく、立浪の身体から正体を現した。
 乱馬の立つ後ろからメイドが現われて、彼の身体を掴んだ。
「うっ!」
 物凄い力だった。さっきまで相手していた、メイドたちとは、力の加減が全く違う。千切れんばかりの怪力で、乱馬を絡め取った。
「くそっ!何なんだ?この怪力は…。」
 乱馬が忌々しげに吐き出した。今の己の持てる腕力で、このメイドの力を振り切るのは至難の業だ。そう思った。最早これは、人間の力ではなかった。もっと別の違和感を感じ取っていた。しかも、この娘には「気」がない。気配がないのだ。

「ふふふ、つばき。やっと来たか。」
 立浪は彼女に問いかけた。
「はい…。紫苑様のところへ立ち寄っていたので、遅くなりました。」

「そうか…。さて、このお転婆娘を絡めとれたところで…。萌黄。」
 そう言って、別のメイドを呼び寄せる。
「この橙子とかいう娘はおまえの獲物だろう?違うか?」
 と問いかける。
「はい、わたくしの獲物でございます。」
「だったら、おまえの洞(ほら)へ連れて行け!」
 すいっと横に橙子を投げて、身体ごと、メイドの萌黄に託した。

「こっちの娘はどうします?」
 つばきが乱馬を絡め取りながら言った。
「ワシが食らう…。」
 にっと、立浪が笑った。
「く、食らうだと?」
 乱馬はきつく、立浪を見上げた。
「ああ、おまえは、傀儡には向かん。胡瑠姫様の指示通り、全てワシが食らってやる。この先、この「虚(とみて)」様の中で血肉となるんだ。
 再び、シュウシュウと音をたてて、立浪の身体がそこへ現れた。変身がとけたのだ。だが、嫌な感じはそのままだった。まるで、立浪の姿を借りた化け物がそこに居るような、違和感がそこにあった。

「けっ!俺を食らっても不味いだけだぜ。」
 乱馬がにっと笑いながら、答えた。

「それは、俺様が味わって、決めることだ。」
 そう言うと、立浪はパチンと指を鳴らした。
 と、足元がゴゴゴと轟音をあげて、暗い穴が開ける。さっき、婆さんが落ちたのも、この穴倉だったと思われる。
 立浪はつばきと共に、その穴倉へと身を投じた。ふわっと、つばきに捕獲されたまま、乱馬の身体も浮き上がる。
「うわああああっ!」
 意志がある風が吹き荒び、そのまま、穴倉へと乱馬たちを導いて、落ちていった。
 
 
 

 


一之瀬的戯言
 「呪泉洞」が長期休眠に入る前は、この章で掲載が止まっていました。
 したがって、第十話からが、初お目見えになります。
 複雑な話ですから、途中から読んだのでは、何のこっちゃになるかも…書いている方も、加筆修正するのに、頭から読まないと、何のこっちゃ…でしたので。

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