第八話 虚


一、


 執事の立浪から変化した化け物が、目の前で大きく揺らいでいる。その後ろ側には、人形のように無表情なメイドたちが四人、立ち並んでいるのが見える。
 乱馬の後ろには、あかねや宿泊客たちが、恐れおののきながら、化け物たちと対峙している。
 まさに、窮地だ。
 後ろ側には長い廊下が薄暗く続く。が、この奥には、未知の魔が待ち構えているようで、くるりと背を向けて逃げるのもかなわなかった。
 外の嵐が、ますます激しさを増し、ゴウゴウと音をたてて、窓ガラスを叩いた。このままでは、窓ガラスが破れるのではないかと、危惧する激しさだ。

(この場でこいつらと戦うしかねえか…。)
 乱馬ははっしと、化け物を見上げた。
(戦うにしても…。女のままだと不利だな…。)
 だが、この場に、変身の源のお湯はない。部屋に戻れば備え付けの湯沸し器が置いてあったが、この場から取りに戻るのは不可能だ。
 彼の額からは、玉のような汗が滴り落ちる。乱馬は化け物と対峙しながら、様々、考えを巡らせた。どんな窮地に立たされても、闘志を失えば、即ち、そこに待ち受けるのは「敗北」だ。どのような小さな活路でも活かす…。それが早乙女流の極意だと、常に口を酸っぱくして、親父から言い含められている。
 気弾を一発、ぶちか増すにしても、相手には気の使い手だと、さっきの攻撃からわかっているだろうから、軽くいなされる可能性が高い。何しろ、己の後ろには、守らねばならない存在が多く存在する。あかねをはじめ、女性たちを守りながら戦うのは、それだけ、不利ということだ。
 それに、建物内を逃げたとしても、どこへどういう風に逃げれば有効なのかもわからない。何より、ここは奴らの居城だ。
 頭脳のありったけを使って、どうするべきなのか、己の活路を探す。
 このまま戦うにしても、何か、有効な方法がある筈。

『お守りはちゃんと、肌身離さず持っておきなさいよ。そして、追い詰められたら、迷うことなく、このお守りを発動させなさい。相手目掛けて投げれば、必ず発動する筈だから…。』

 記憶の片隅から、語りかけてくる声。それを思い出したのだ。
 そう、怪談がお開きになったとき、そう話しかけてきた婆さんの声が脳裏で反芻された。

(一か八か…。)
 乱馬は、懐にそっと手を差し入れ、お守りをまさぐる。
 それは、確かに懐に存在した。
(この際、婆さんの言動を信用して、発動させる勝負に出るしかねーか…。)
 そう腹づもりをすると、どっしりと構えられた。

「どうだ?諦めたか?…くくく…。さて、誰を狩ろうかな。」
 目の前の化け物は余裕をかましながら、一同を見渡す。思わず、ぞくっとなる表情だった。相手は勝どきをあげたと思っているようだ。
「逃げたくば、逃げれば良いぞ…。但し、この館は我々の棲家。それに、外は大嵐。海の孤島…。早かれ遅かれ、皆、我らに狩られる運命ぞ。」


「それはどうかな?」
 乱馬はにっと笑った。
「南無さん!これでも食らいやがれっ!」
 乱馬は懐に収めていた、鈴音婆さんのくれた、お守り袋を、思いっきり化け物目掛けて投げ込んだ。活路を見出すべく、行動に出たのだ。

 化け物のおどろおどろしい顔の真正面に、シュッとお守り袋は飛んだ。
 そして、化け物の額に当たる。
 と、バンッと音がして、化け物の目の前でお守り袋がはじけた。

 もうもうと煙がたちこめ、中から白い「お札」が数枚、弾け出してきた。何やら文字のような物が書かれてある、真っ白いお札だった。

「うぎゃあああっ!」
 化け物の顔が引きつった。お札の出現により、ずずっと後ずさりする。どうやら、お札の効力が発動したようだ。彼の後ろに居たメイドたちも、お札は苦手なのか、蜘蛛の子を散らすように、ささっと後退する。

「退魔のお札かあ?こしゃくな!」
 化け物が目の前で喘いだ。
 みるみる、化け姿が元の立浪に戻る。どうやら、妖力が落ちて、化け物の姿を保つ事ができなくなったようだ。

「こっちよ!こっちへいらっしゃいっ!」
 乱馬たちの背後から、鈴音婆さんの声が響いた。
 一瞬、信用してよいのか否か、迷ったのだが、お札の効力を目の当たりにした乱馬たちは、その声の方へと、走り出す。
「こっちよ、この部屋へ皆、早くっ!」
 婆さんの声を頼りに、乱馬たちはくるりと身を翻すと、一斉に声の誘う方へと逃げた。
 先頭は次郎太と蒼太だった。次郎太は一番幼い凛華をがっしと抱え込むと、そのまま逃げた。凛華が足手まとい候補の第一になるのが目に見えていたからだ。乱馬はシンガリを勤める。背後を警戒しながら、女たちを婆さんの方へと逃がした。

「小癪なっ!追えっ、追えーっ!」
 背後に居たメイドたちをけしかけた。
 立浪に戻った怪物は、乱馬たちを追いかけようとしたが、舞い散る白い札に、四苦八苦している様子だった。ある程度、効力のあるお札のようであった。立浪もメイドたちも、あたふたと、その場に押しとどめられて四苦八苦している。
「火で滅却しろっ!札さえなくなれば、恐くはないっ!」
 立浪の号令に、メイドたちは、懐からマッチ箱を出す。そしてマッチ棒を一本出しては摺って、一枚一枚、舞い散るお札に火を点けた。
 お札は火を受けて、みるみる燃え広がり、灰燼と化す。灰になったところで、効力がふっつりと切れるようであった。
 メイドたちは、マッチすりと札燃やしの作業を、地道に続ける。が、元々札が苦手な化け物たち。なかなか上手く燃やしきれない。
 
 その間、時間が稼げた乱馬たちは、とにかく逃げた。婆さんの声が導いたのは、乱馬たちが泊まっていた客室の外れにあった一室であった。
 まだ、客室にしきれないで残った、だだっ広い部屋だ。
 中へ入ると、フンとカビ臭い臭いがした。長い間、使われず、湿った空気を閉じ込めていたのだろうか。中はガランとしていた。客室にするには、少し小さい角部屋だったので、捨て置かれ、そのままにされたのだろうか。
 婆さんは、全員が入るのを確認すると、バタンと扉を閉めた。そして、持っていたお札を手馴れた手つきで扉に貼った。

「これで良いわ!」
 と、にっこりと笑う。
「完全無比じゃないけれど、暫くはこれで凌げる筈よ。」

 中はガランとして、何もない。ただの四角い部屋だった。真ん中に裸電球が寂しげに揺れている。それを灯して、やっと、人心地ついた。
 ハアハアと息を切らせて、それぞれ、床にどっと座り込む。一体、己たちに何が起こっているのか、まだ、全てを理解したわけではない。
 
「婆さん、怪物に襲われたんじゃなかったのか?」
 乱馬が最初に口を開いた。疑問を解決しておかなければ、次へ向かえない。そんな気持ちの動きが読み取れる。

「ホホホホ…。あらかじめ、危険を察知して、この部屋に結界を張っていたのよ。」
 と涼しい顔で言った。
「結界だあ?」
 怪訝な顔つきをした乱馬に、鈴音婆さんは言った。
「そうよ…。結界よ。ほら、見て御覧なさいな。」
 婆さんは、部屋の四隅それぞれに、視線を送った。
 部屋の四隅の床に、白い懐紙が広げられ、その上に塩が盛ってある。そして、神社の御祓いに使う白い紙が長く垂れた棒が塩に突き立てられている。

「あれは…。」
「魔除けの結界…。この部屋を魔物が浸入しないように結界を張ったの。」
 婆さんが言った。
「何で結界なんか…。」
「あら、他にこの屋敷内のどこへ逃げれば有効か、あなたわかって?この化け物の棲家のどこが安全なのかしらねえ。」
 と婆さんは乱馬に畳み掛ける。
「う…。」
 返答に詰まっていると、婆さんが言った。
「勿論、完全無比じゃないけれど、時間稼ぎはできるわ。その間に、どうするかここで話し合うこともできるでしょう?それに…。何より、逃げるにしても一度態勢を整えないと、闇雲に逃げ回るだけでは、事態は打開できないわ。」
「こ、こんな結界、本当に効くのかよ。」
「まあ、見ていなさいって。」
 半信半疑の乱馬を軽くいなして、婆さんが言った。
 が、乱馬たちが、婆さんの張った結界の、その効力を思い知るのに、時間はかからなかった。

 奴らはすぐに追いついてきた。そして、部屋のドアの前に立って、言った。

「おのれえっ!結界が張り巡らされてあるっ!口惜しやっ!」
 外から立浪の悔しそうな声が響いてきたのだ。
 魔物に反応したのか、風も無いのに、四隅に置かれた紙がカサカサと音をたてて微動した。
 結界の障壁が魔物の浸入を拒否していた。
「おのれえっ!必ず、貴様らをそこから引き摺りだしてやる!そして、一人一人、狩ってやる!今のうちに、束の間の休息を愉しんでおくんだな。」
 と捨てゼリフを残して、化け物たちはどこかへ姿をくらませてしまった。
 気配がみるみる遠ざかり、張り詰めていた結界の緊張も一気に解けた。

「行ったわ。」
 婆さんの声に、一同、ほおおっと、長いため息を吐く。
 一気に緊張がほぐれ、皆、それぞれ、尻餅を付いたように、ペタンと床に座り込んだ。一番幼い凛華は、ひしっと抱いてくれている次郎太に捕まったまま、床に下りようともしない。それだけ、衝撃が大きかったのだろう。小刻みに身体が震えているのがわかった。

「一応、急難は去ったわよ。」
 婆さんがにっこりと微笑みかけた。
 だが、ここへ入ったは良いが、いつまで、この急場しのぎの結界で耐え忍ぶことができるのか。そして、何よりも、全員、無事にそれぞれの居るべき場所へ帰れるのか。
 そんな疑問を押し殺し、まず、乱馬が口火を切った。

「説明してくれよ!婆さんっ!あいつら、一体何なんだ?俺たちは何で襲われた?それから、何で、婆さんは奴らが豹変して襲ってくるって予測できたんだ?」
 疑問だらけだっだ。どれもこれも、皆が訊きたがっていることばかりだ。

「どこから話したら良いのかねえ…。私は奴らを滅ぼすためにここに来たって言ったら、信用してくれるかねえ…。」
 婆さんが乱馬たちを見据えながら言った。
「まあ、ゆっくりとお茶でも啜りながら…。」
「お茶だあ?」
 また、乱馬の声が響き渡る。
「ここに結界を張るついでに、いろいろとね…準備をしていたのよ。ほら、あかねちゃん、そこのポット取ってちょうだい。あ、橙子さん、お茶菓子はそっちの袋に入ってるわ。」
 婆さんが指図し始める。
「何を悠長なことを…。」
 乱馬が呆れ果てていると、婆さんが笑いながら言った。
「ここで焦っていたって、状況は何ら変わらないわ。それよりも、落ち着くことが大切よ。腹が減っては戦もできないでしょ?」
「この状況で腹ごなしなんか…。」
「この状況下だからこそ、どっしり構えないと、ほら、あんたも手伝って。」

 てきぱきと身をこなして、女性たちは九人分の茶菓子とお茶を用意した。
 ちょっとした、茶話会のような雰囲気に和みそうになったが、状況を把握しておかなければ、何が何だか疑問ばかりが頭に点等している。



二、

「さて、どこから話しましょうかね…。」
 婆さんがお茶をすすりながら、ゆっくりと口を開いた。
 今は、化け物と対峙している緊迫感は全くない。

「そうだな…。まず、婆さんは何者かってところから、お願いしようかな…。ここへ来たのも偶然じゃ、ねーんだろ?」
 乱馬がまだ口をへの字に曲げたまま、問いかけた。
 婆さんが結界を張りに部屋を抜け出したという時点で、ここへの訪問が偶然では無いことは明らかだ。

「私?私はしがない占い師よ。」
 婆さんはにっこりと微笑む。
「占い師?」
 一同、気をそがれたような瞳で、婆さんを見た。
 確かに、今の婆さんは、作務衣のような着物を着ている。また、首から長い襟紐のようなものをだらりと引っ掛けている。良く見れば、占い師のそれらしい雰囲気を漂わせている。
「ええ。都心の占いの森で小さな店を出しているの。」
 婆さんの答えに、乱馬がきびすを返す。
「占いの森?何だそりゃ?」
「あら、知らない?若い子の間では有名な占いスポットよ。占いの店がビルの中にごちゃごちゃっと詰まっている占い館よ。あたし、知ってるわ。仕事や恋愛に行き詰ったとき、時々行くのよ。」
 橙子の瞳が輝いた。それを受けて、桃代も言った。
「あ、うちも雑誌で読んだことがあるわ。何でも、そこに店を構えるのは占い師の夢みたいなことが書いてあったわ。」
「占い師の夢ねえ…。で?そこの占い師さんが、何だって、こんな物騒なところへお出ましたんだ?」
 乱馬は婆さんに率直な疑問をぶつける。

「私のところへ、この企画に当選した方が占って欲しいって尋ねて見えたのが始まりなのよ。」
 婆さんはニコニコしながら言った。
「何で、わざわざ婆さんのところへ、その、当選者が占いに?」
「さあ…。まあ、知っていても企業秘密ね。占いをしにきた方の個人情報は、他人様には教えないのが、セオリーよ。ね。」
 とすっとぼけた答えが返ってきた。
「でもね、日本のそこかしこに占いって稼業は案外、浸透しているのよ。驚くような大企業や有名人が、己の判断をつけるために、占い師に占ってもらうってことも、多々あることなの。それが本当に己の繁栄に必要なことなのかどうなのか…。」

「占いで将来を知るだあ?…何か、無責任な考え方だな…。」
 乱馬が愚痴っぽく吐き捨てる。
「あんたは、占いなんか、これっぽっちも信じないもんねぇ。」
 あかねが横から口を挟む。
「当たり前だ…。己の道は己で切り開く。その代わり、己で判断したことに責任を持つ…。あらかじめ決められた未来なんて、知るのも嫌だね。」
「ふーん…。私は占いを信じても良いわ。悪い指針が出るのなら、それを改める判断材料に使えばよいし。良い指針が出れば、自信を持って行動できるもの。」
 橙子が若い女性らしい意見を言った。
「うちは良い占いは信じるけど、悪い占いは信じひんわ。ごっつう、関西人らしい意見でご免やけど。」
 現実的な意見を桃代が述べる。

「まあ、占いに関して感じることや思うことは、人それぞれ違うわね。乱子ちゃんみたいな子が増えたら、稼業としてやっている私たちプロの占い師は、おまんまの食い上げになっちゃうけれどね…。
 それはさておき、その娘さんの占いをした結果、感じちゃったのよ。この企画には何か裏があるってね。どう表現したらよいのかしらねえ…。星宿が私をここへ導いたのよ。大いなる陰謀を暴き、それを解決するのは、私の仕事だってね…。だから、来たのよ。その子の代わりになってね。」

「なるほどねえ…。だから、年令詐称してもぐりこんだって訳かよ。婆さん、確か、都合で来れなくなった孫娘の代わりに来た…って言ってたよな。」
 初日の顔合わせの時に、紫苑に年令と素性を尋ねられた時のことを思い出しながら、乱馬は言った。
「嘘も方便、方便。まあ、良いさね。そっちは。」
 カカカと高笑いする、ふてぶてしさ。

「あの…。鈴音さんの占い得意分野は何なんです?」
 橙子が尋ねた。占いに少なからずも興味がある彼女は、真剣に問いかける。
「占星術よ。」
「ってことは、乙女座とか山羊座とかいう、一番ポピュラーな?」
 千秋の問いかけに、婆さんは首を横に振った。
「ううん、私の占いは西洋占星術じゃないの。西洋占星術の占い方を全く知らない訳じゃないけれど…。ま、私のやる「東洋占星術」は、乙女座や山羊座とは呼ばないわね…。まあ、同じ天体を見る占星術だから、無関係じゃあないんだけれど…。
 私の専門の占いは「密教占星術」と称される分野なの。」

 また、聞きなれぬ言葉が耳に飛び込んでくる。

「密教占星術…ですか?」
 橙子も首を傾げながら、尋ね返した。ピンとこなかったのだろう。

「ええ、俗に『宿曜経(すくようきょう)』という密教にある占いの技法よ。」
 婆さんは答えた。
「密教…ですか。弘法大師や伝教大師とかが、平安期に中国へ渡って持ち帰ったという…。」
 そっち方面に明るいのか、千秋が目を輝かせた。
「こーんなところで、日本史のおさらいかよ…。」
 苦手な日本史知識の話が持ち上がったので、乱馬が苦い顔をする。
「あんたは、日本史も苦手だものねえ…。」
 あかねが冷たく茶々を入れてきた。
「その「も」っつうのは何だよ?」
「日本史以外でも苦手はたくさんあるじゃないのさあ。英語とか数学とか…。得意なの体育だけだし。」
「まるで俺が馬鹿みてえな言い方すな!」
 乱馬は口をへの字に曲げる。

「ほほほ、話が前に進まないと、いくら時間があっても足りないから、乱子ちゃんもあかねちゃんも、お口にチャックね。」
 婆さんは、また、口喧嘩しそうになった、乱馬とあかねを制しながら言った。
「宿曜経を簡単に言えば、日、月、火星、水星、木星、金星、土星の太陽系七星とほうき星、それから謎の星「羅喉(らごう)」を合わせた九つの星「九執(くしゅう)」と、中国星座の「十二宮」「二十八宿」で占うやり方よ。」

「それのどこが簡単なんでい?チンプンカンプンだぜ…。」
 乱馬が吐き出す。
「いいから、あんたは黙って。わかんないなら、聞いてりゃいいわ!」
 あかねが乱馬の袖を引いて制した。

「十二宮と二十八宿は、西洋占星術の十二星座に対応する、密教版の星の並び、つまり中国製の星座…ってことで理解しておいてちょうだいな。これを説明していたら、いくら時間があっても足りないわ。
 で、質問の本題に移るわね…。」
 婆さんが微笑みながら言った。

「私が宿曜経の星曼荼羅を見ながら、占っていたら、出ちゃったのよ。その子の身代わりになってこの旅行に参加して、負の一族を滅しなさいって、占い結果がね。」

「負の一族だあ?」
 ますます、わからん、と乱馬が声をあげた。
「負の一族って、さっきの怪物と怪人たちのことね、きっと…。」
 と、一人納得している、婆さんに乱馬が冷たく言った。
「確かに…化け物だから、負の一族には違いねえけどよ。」

「とにかくね…。ここで発生する魔物たちの陰謀を打ち砕くのは、占い師である私の宿世なのよ。」

「いくら、宿世とか言ったって、何でわざわざ、こんな辺鄙(へんぴ)なところまで出向いて来たんだ?」
 乱馬の問いかけに、婆さんは強く答えた。
「もちろん、私も、店のことがあるからねえ…。かかわるつもりは毛頭なかったんだけど…。ま、これも運命と割り切ったのよ。化け物退治…そそるものがあるじゃないの?」
 年を取ってもなお、婆さんは意気揚々としていた。
 が、上手くはぐらかされたような気もしないではない。

「で?一番肝心な部分を訊くけど、婆さんの占いでやつらの正体がわかったのかよ?」
 乱馬が率直に問いかけた。

「さあね。」

「さあね?無責任過ぎねえか!こらっ!」

「無責任も何も…。与えられた情報量が少なすぎるからねえ…。だいたいの憶測はついてるんだけど…。」
 いきなり、婆さんの声が低くなった。

「憶測でも良いから、話せっ!わかってること!」
 そろそろ、いらついてきた乱馬が、乱暴に言葉を吐き出す。
「おやおや、乱子ちゃんはせっかちでいけないねえ…。目上にはもう少し、優しく声をかけるものだよ。」
 婆さんは全然、こたえていない。年の功のなせる業なのだろう。
「いずれにしたって、わかってることは、奴らが人間じゃあないこと…かねえ。それから、何かの理由で、ここに居る私たちを必要としている…ってことね。例えば、エサにしたいとか…。」

「エサ…。」
「そうよね、狩るとかいう言葉を口にしていたし…。」
「或いは、吸血鬼のような生気を吸い取る部族なのかも…。」
 不安げに、娘たちは顔を見合わせた。
「まあ、海坊主とか海獣とか海の海魂(あやかし)の一種なんでしょうね…。」
 婆さんが答えた。
「冗談じゃないぜ。あんな化け物に食われてたまるかってんだ。」
 蒼太が忌々しそうに吐き出した。
「大丈夫だよ…。おめえみてえな野郎には、頼まれたって喰らいつかないんじゃねえか?食らうなら、若い娘だろう。普通。肉とか柔らかいだろうしよう。」
 乱馬が毒ずく。
「イヤ、怖いっ!」
 乱馬の言葉を受けて、いきなり凛華が耳をふさいで、うずくまった。
「もう、わざわざ、子供を怖がらせて、どうするのよ!馬鹿ッ!」
 あかねがポカッと乱馬を殴った。
 
「この先はどうするんだ?お遊びで、どうこうできる相手じゃないことは、確かだぜ…。外はまだ、嵐が吹き荒れているし…。」
 次郎太が難しい顔をしながら、窓の外を見た。

 嵐は止む気配もなく、激しく雨が降り続いている。

「そろそろ夜明けね…。海魂(あやかし)の妖力が、一番弱まる時刻を迎えるわ…。とにかく、今は休養しておくに限るわね。」
 婆さんは、余裕の表情を見せながら、そう答えた。

「海魂(あやかし)の妖力が一番弱まる時刻?」
 あかねの問いかけに、こくんと婆さんは頷く。

「夜明け、新しい太陽が昇る時間は、魔が退散するとき。だから、魔物の妖力が一番弱まる刻限でもあるの。それは、万国共通ね。妖怪やお化けの殆どが、太陽光を嫌うでしょう?」
「でも、太陽の姿は見えないわ。」
 と、千秋が言った。
「姿が見えなくても、太陽は雨雲の向こう側で昇ってくるでしょう?夜が明ければ、空が明るくなるわ。光が弱くても、太陽光は魔物には禁忌なの。少なくとも、太陽の光がピークに達する、正午ごろまでは、魔物は動かないでしょうね。」
「ってことは、夕方から夜にかけて…が勝負か。」
「多分…。だから、今のうちに、逃げるにしても隠れるにしても、体力を養っておかなくっちゃね。皆さん、睡眠が中途半端になっているでしょう?」
 婆さんが笑った。
「こういう場合は、できるだけ栄養分をつけて少しでも体力回復をはかる…それに尽きるわね。」
 そういいながら、婆さんがゴロンと横になる。
「お、おい。誰か交代で見張るとかしなくて良いのかよ。」
 焦った乱馬がそう吐き出す。
「大丈夫よ、中から結界を突き崩さない限り、魔物に対処できる。それに、私の作った結界は頑強よ。中からでも突き崩せないわよ。ためしにやってみなさいな。」
 そういいながら、おもむろに乱馬の背中を押した。

「わたっ!な、何だあっ?」
 咄嗟に押されて、バランスを崩してしりもちをつきそうになる。そして、壁に身体が触れようとした途端、ビリビリビリッと、衝撃が体中に走った。
「うげええっ!なっ、何しやがるーっ!」
 電極を受けた衝撃に似たものが、体中を乱れ飛んだ。

「ね?人間でもこの有様だから、化け物はもっときついわよぅ…。」
 にたりと、婆さんは笑った。

「とにかく、眠らなくっても、身体を横たえておくだけで、睡眠時の休息の七割は得られるって話だから…。食べるものを食べて、飲むものを飲んで、出すものは…そこのドア向こうのトイレに出して…休息する。それが魔物と対決する前の営みね。
 あがいたところで、何も始まらない。しばらくは横になって、英気を養いましょうね。」
 婆さんは、ふわあっと大きなあくびをした。
 釈然としない気持ちもあったが、ここへ、婆さんの言うとおり、安静の一途だと、一同は納得した。
 それぞれ、場所を確保して、思い思いの姿勢で休息をとる。

 乱馬もごろんと横になると、そのまま、目を閉じて、休眠に入る。いずれにしても、この先、気弾や気砲をたくさん使わねばならぬ場面に遭遇するだろう。強い気技を打つためには、休養は欠かせない。
 それに、元々、度胸が据わっている部分もあり、腹をくくると、他の者たちよりも思い切りが良かった。
 一番先に寝息が漏れてきたのは、乱馬であった。

「散々、悪態を吐いてたくせに…。こういうところで、すぐ寝息をたてられるのは、あんたくらいよねえ…。ふてぶてしいと言うか、大胆不敵というか…。ったく、もう…。」
 ふううっと、あかねはため息を吐き出した。


三、

「申し訳ございません、紫苑様。」
 立浪が紫苑の前で頭を垂れていた。

「捕獲失敗の上に、結界を張られた…のですか。」
 表情一つ変えることなく、紫苑が言い放つ。平坦な物言いの中に、かえって凄惨な雰囲気が漂っている。
「はい…。言われたとおり、あの老婦人と乱子とかいう味噌っかす娘を排除しようと動いたのですが…。老婦人は姿がなく、乱子という娘には、いささか傷を負わされました。」
 立浪は恐縮しきっている。紫苑の怒りを恐れているようでもあった。
「思った以上に、武道の使い手なのだな…その、天道乱子とか言う小娘は。」
「はい…。攻撃の隙がなく、気技も自由に使いこなしておりました。男顔負けの使い手でした。」
「ほう…。気技を。」
 立浪の報告を聞きながら、紫苑が腕組みする。
「女でなければ、傀儡にできるのに…勿体無い。」
 と、ため息を吐く。
「傀儡とは?虚(とみて)の…でございますか?」
「そうだ…。虚(とみて)としては、なかなか面白い傀儡に育つでしょうねえ…。しかし、女であれば虚(とみて)の傀儡にはなれません。残念ながら、彼女に虚を遷すのは却下だな…。」
 と紫苑が言った。
「虚(とみて)はやはり、次郎太でございますか?それとも、彼が連れてきた蒼太とかいう少年ですかな?」
「それは、あの方が決めること。われわれが関知することではなかろう?が、今までの経験から、蒼太をお望みかもな…若い方が気を溜め込みやすかろう?」
 紫苑が冷たく言った。
「まあ、良いだろう。あの方と胡瑠姫(うるき)様が始動なさるのは闇の帳が降りて、月が昇り始めて以降のことだ…。」
 紫苑は、静かに言った。

「しかし…。あの、田中鈴音とかいう婆さん、魔除けの結界を見事に張ってみせる手腕など、やはり、只者ではなかったか…。」
「はい。それは見事な密教系の呪術の使い手です。まるで、こちらの動きを計算尽くしているような感じで、先手を取られました。」
 と立浪が忌々しげに言った。良いところまで追い詰めておきながら、目の前で獲物を逃した悔しさがにじみ出ている様子だ。
 
「最初から食わせ者なようなところがあったが…。いずれにしても、一筋縄ではいかないか…。」
 紫苑はゆっくりと腕を前に組みながら、立浪を見上げた。彼の後ろ側には、メイドたちが、無表情で立っている。いずれも、感情など抜け落ちた、蒼白い顔をしている。質の良いマネキン人形のような不気味さを漂わせている。

「でも…。今夜は満月…。いかに術者が優れていようとも…所詮は人間のなせる技。我らが魔手からは逃れられぬ。優れた術者や武道の達人は、虚(とみて)を太らせる良きエサになる。立浪、いや、虚(とみて)よ、彼女たち二人はおまえが喰らい、次世代の虚(とみて)の力として蓄えよ。それが胡瑠姫様の、ご命令だ。」
 紫苑が言った。

「その前に、どうやって、あの結界を解かれるのです?強固な結界で、はがすのに苦労しそうですが…。」

「その点は大丈夫…。結界は張った者を葬るか、中から突き崩せば、呆気なく崩れさるものであろう?」
「中から…でございますか?」
「ああ、そうだ。次の一手は既に、打ってある。違うか?」
 くすっと紫苑が笑った。冷たい笑いだった。
「わかりました。アレを使うのでございますね?」
 立浪が確認するように言った。
「使える駒は、惜しまずに使う…。そうすれば、首尾よくやれるさ。わかったら、さっさと準備にかかれ。立浪。」
 追い立てるように、紫苑が言い放つ。冷たい支配者のようだった。
「それから…。他のメイドたちは、予定通り、魂遷(たまうつし)の準備に入らせる。狩りが始まるのだ…くくく。」
 と、追加注文も忘れない。
「もう、各人の獲物は決まっているのですか?」
 立浪が問いかける。
「余計な心配は無用だ。それは、おまえには関係のないことだろう?」
 突き放すように紫苑が答える。
「すいません、余計な詮索でした…。私は私に与えられた仕事のみをします。」
 立浪が静かに答えた。感情を押し殺したような、ものの言い方だった。どうやら、立浪は紫苑のことが気に食わないところがある様子だ。互いの言葉遣いから、上下関係が明らかであるが、絶対的な主従ではないようだ。

「おまえはおまえの獲物のことだけを考えれば良かろう。おまえの獲物は「次郎太」だ。」
「はい、わかりました。」
「それでよい。すべてはあの方の御心のままに…。そうすれば、我々にも、安息が訪れる。何もかも終わりにできる…。立浪、おまえもそれが望みなのだろう?」
 その問いかけに、立浪は押し黙った。
 少し間をあけて、「はい。」と小さく返事を返した。

「紫苑様はこの後、どうされるのです?夜までお休みを?」
 立浪は、また余計なことだと知りつつも、紫苑の動向を尋ねた。

「胡瑠姫様が夜に備えて休まれているのだから、私も…。でも、休む前に、少し…。」
 そう言いながら、紫苑は奥を目を細めながら見つめた。すっと外される眼鏡。
 そこにはベッドが置いてあって、女性が一人、目を閉じたまま横たわっていた。術で眠らされているのか、動かない。
 立浪はその紫苑の動作で、彼がなそうとしていることが、理解できた。

「わかりました。出て行ったらドアには鍵をかけておきます。」
 立浪はくるりと背を向けながら、紫苑に言った。
「そうしてくれるとありがたいねえ…。メイドたちにも、中へは入らぬよう、言い含めておいてくれるとうれしいが…。」
「もちろんです。さあさ、君たちは下がって己の役目を果たしなさい。紫苑様がじきじき呼ぶまでは、ここへ入ってはならない。それから、各人、私が結界を崩したら、狩りに入りなさい。各々の獲物は決まっているのでしょう?」
 と立浪は後ろに居並んでいるメイドたちを諭すように言った。それから、己も、部屋を辞して、外へと出て行った。

「紫苑様の本質はちっとも昔とは何も変わっておられない…か。私も…。」
 ふっと浮き上がる寂しげな表情。だが、その感情は、すぐさま、身体の中に居る「別の存在」に打ち消された。
『何、感傷に浸ってやがる?早く、言われたことをしろっ!貴様はともかく、俺様は結界を張った術者と俺様を足蹴にしたあの娘を、一刻も早く、喰らいたいんだ!のろまの木偶の坊め!』
 魂を心の奥底から脅されているような、嫌な気分だった。
「わかったよ…。言うとおりにするよ。虚(とみて)…。」
 立浪は己の中に居る、魔物に向かって、そう吐き出した。
『そうだ…。魔力が蘇るまでに、すべてやっておけよ。俺様は暫し、お前の中で惰眠を貪る。その間に、婆と味噌っかす娘を狩る準備だ。良いな?でないと、さくらと言ったか?おまえの許婚だった娘。魂遷が終わったら、あいつを真っ先に食らうぞ。』
「…わかった。言うとおりにしよう。」
 立浪は諦めたように、そう吐き出した。
『よしよし、俺様はお前の中で、今しばらく、惰眠を貪ろう…。次に交代した時に全力を尽くせるようにな…。』
 そう言いながら、虚(とみて)は立浪の心の底に沈んでいった。

「往ったか…。」
 ふううっと立浪は大きなため息を吐き出した。
 おそらく、紫苑の部屋を辞したから、まだ、力が戻らない虚(とみて)が急速に縮んだのだろう。
 
 虚(とみて)。
 この化け物を身体の中に入れられて、もう、半世紀は経ってしまった。
(何故、俺だけ、人間の時の記憶が残っているんだろう…。他の傀儡には、とっくに人間的感情など崩落して久しいというのに…。)
 立浪はふっと後ろを顧みた。傀儡の無表情のメイドたちが、のろのろと廊下を歩いて行く。
「彼女たちの魂が持つ純朴な心は、とっくの昔に消滅している…か。傀儡人形…嫌な言葉だな。どうせなら、彼女たちのように、人間として在りし日の記憶が全てなくなってしまえば、苦しむ事はなかっただろうに…。」
 一つの扉の前で、立浪は大きなため息を吐く。
 この扉の向こう側に、魂抜けが始まったさくらが、横たわっている筈だ。すぐ傍に居るのに、手を差し伸べられない傀儡人形の悲しさが、虚(とみて)が眠りに就いた心の中に充満していく。

「畜生!」
 ドンと一つ、立浪はさくらの部屋のドアに向かって、こぶしを叩き付けた。

 ビクッとして、他のメイドたちが、立浪を見上げる。

「あ、いや良いのだ。皆、下がってさっき言ったとおりを実行しなさい。また、後で会おう…。」
 そう目配せすると、メイドたちはそれぞれ、蜘蛛の子を散らすように、あてがわれたそれぞれの部屋の中へと消えていった。

「一度、部屋へ帰るか…。」
 立浪もまた、己の執務室へと足を手向けた。乱馬にやられた傷が、ずきずきと、まだ痛む。右足を引きずりながら、暗い部屋へ入る。

「あれも、夏だったな…。」
 立浪は微かに残る、人間の記憶をたどり始める。
 紫苑と己、いや、ここに居るみんなが「傀儡人形」ではなく、「人間」だったころの記憶だ。

 夏のバカンスだと言って、学生時代の友人の別荘に誘われた。しかも、プロポーズを決めたばかりの婚約者を伴って来ても良いと。まだ、あくせく、みんなが働いていた時代だったが、親が某国の戦争特需景気で金をしこたま儲けてくれたおかげで、夏休みくらい自由になった。親の子飼いの部下たちは、そんな自分を色眼鏡で見ていた。
 友人たちへ、婚約者をお披露目する目的で、気軽に参加した。
 今、思えば、それが全ての始まり…いや、終わりだったのだ。
 嵐の夜に紛れて、海からやってきた「七匹の魔物」たち。その首謀者は名前を「お七」と言った。明治時代後半、この館の持ち主だった男の妾として、住まわされた薄幸の美女、忽然と消えた、あのお七だった。そして、彼女に付き従う四名の女と二名の男が共にここへ来た。
 「お七たち」の中には「魔物」が巣食っていた。悠久の時を人間の中へ寄生して生き続ける化け物たちだった。お七には「胡瑠姫(うるき)」と称される化け物の「親玉格」が巣食っていた。何十年か毎に、若い娘に魂ごと憑依し、悠久の時を生きてきた化け物だ。
 その「化け物」が新たな寄生体を求めて、再びこの島へ舞い戻って来たのだ。
 化け物に魅入られた、この海の果ての館。そこで目の当たりにした信じがたい事件。それに、巻き込まれてしまったのだ。
 あの時、この島の館に居合わせなければ、さくらと共に化け物に蹂躙などされなかったものを…。

 悔やんでも悔やみきれない悔恨が、立浪の中にはある。
 
 自分は、散々、いたぶられた挙句、婚約者だったさくらの目の前で、その時はまだ「お七」に憑依していた「胡瑠姫」に姦通されたのである。お七の受難からとうに半世紀以上は経っていた筈だ。だが、現れたお七は老齢では無かった。若い女の肉体をしていた。
 動きを封じられた状況に身に置かれ、自由が効かない中、貪られるようにお七に慰み者にされた。
 愛する女ではなく、愛する女の目の前で「童貞」を奪われてしまったのだ。男としての沽券もその時全て潰えた。
 あの時、さくらの心は凍り付いてしまった。そして、心を凍らされたまま、化け物に巣食われ、彼女も蹂躙されたのだった。
 そして、お七は散々、己をもてあそび、生気を吸い上げていった。一度、契っただけで、老齢とも言えそうな身体にされてしまったのだ。みどり成していた髪の毛は白髪になり、張りのあった肌には皺が刻まれる。一気に五十歳ほど年を取ってしまった。
「でも、あの時、胡瑠姫(うるき)様がさくらに魂遷できなかっただけでも、良かったのかもしれない…。」
 立浪は、そう考えることで、己を慰めてきた。
 もし、胡瑠姫がさくらに魂遷していたら…。そう考えると、背筋が冷たくなった。
 紫苑が言ったように、胡瑠姫(うるき)がさくらを傀儡にし得なかったのは、不幸中の幸いだった。でないと、牛玉を与えられ「伊奈魅(いなみ)」となった紫苑とさくらが、睦み合うのを、間近で見ていなければならなかったろう。あの胡瑠姫なら、やりかねない。立浪の目の前で紫苑と契ってみせることなど、嬉々としてやってのけるだろう。人に己の情事を見せることなど、恥じらいとも何とも思っていないのだ。いや、それどころか、面白半分、わざと契って見せる、そんな魔性の邪淫が胡瑠姫にはある。
 愛する女を他の男に寝取られ、それをじっと耐え忍ばなければならない地獄は、言うに及ばない。
 もともと、胡瑠姫(うるき)は、さくらに憑依するつもりだったのだから…。
 さくらに憑依することを、阻止できただけでも、良しとしよう…。そう思って「虚(とみて)」を抱えたまま、五十数年生きながらえてきた。

「今夜、あの娘たちの中の誰かが胡瑠姫(うるき)様に憑依される…。そして、他の者はさくらたちメイドのように魂魄を壊され、胡瑠姫(うるき)様の下僕(しもべ)となって、次の半世紀を生きる…。これが運命だ…。あの娘たちの…。
 そして、虚に選ばれた男は真っ先に、胡瑠姫様に生気を奪われるのがならわしだからな…。五十年前の私のように…。」

 できれば、胡瑠姫(うるき)の野望を阻止し、娘たちを助けてあげたい。だが、虚(とみて)に身体と心を支配されている以上、立浪にとって、それは叶わぬ夢であった。

「また、同じ惨劇が繰り返される…。この地で…。」

 「虚(とみて)」の数百年に渡る記憶が、走馬灯のように時折、脳内へビジョンを見せるのだ。数多の青年が「胡瑠姫様」が憑依した女人に姦通された。ある者は恋人の前で、ある者は妹や姉の前で。その後受ける、苦しみの半世紀と共に、強烈なビジョンを見せてくる。
 望まぬ契りを強要される苦しみは、何も女性ばかりが持つものではない。身体を束縛され、女に慰み者にされる犯され方は、男にとっても、屈辱だった。

 己に宿る、男の傀儡たちの複数の記憶が、一気に、立浪の脳内を循環する。

「やめろっ!やめてくれーっ!」
 ハアハアと立浪が、ビジョンを押しのけた。
 恋人の前で望まぬ交わりを持たされた己と、先人たちの苦しみの記憶と…。

 死ぬことでしか、呪縛から開放されない己を呪いながら、立浪はこの五十年あまりを生きてきた。辛い生だった。時折、姿を変化させることを強要して心から沸きあがってくる「虚(とみて)」。奴の、虚の存在は「別人格」のそれに近かった。
 奴が浮き上がると、怪獣化し、海辺で遊ぶ若い娘や子供を食らうことを強要された。禁断の人食いをやってのける悪しき海魂。それが、「虚(とみて)」だった。
 カラカラになった咽喉。発作のようなビジョンは、風のように吹き荒ぶと、一瞬で通り抜けてしまった。

 虚(とみて)が次の傀儡に魂遷されたら、己の人生も終わりに出来る。死ねるのだ。そして、やっと、安息が得られるのだ。
 強く、そう思って、やっと、気が鎮まった。
 ふうっと汗まみれになって、その場へへたり込む。

「記憶は埋もれてどこかへ往ったか…。」
 忌々しい記憶は既に掻き消され、又、静寂がそこに残る。
 激しく波打った鼓動も、再び、安寧を取り戻した。
「もう少し、もう少しの辛抱だ。今夜、月が昇れば、全ての辛苦から解放される…。僕は自由だ…。」

 五十年前に目の当たりにした、前の虚(とみて)をかたどっていた侍が灰燼と化し土に戻ったシーンを思い出す。彼も長らくの不本意な人生の終わりには、心から笑っていたではないか。
 己も、さくらも一緒に灰燼となるだろう。土塊になって、今度こそ、永遠に彼女と一緒になるのだ。それが、己に残された、一筋の希望であった。

「さて…。」
 立浪は立ち上がった。
 くさくさ考えていても、仕方がない。ここでぐずぐずしている余裕など、今の己にはない。
「そろそろ、夕べ、それとなく酒と混ぜて飲ませた傀儡種が次郎太の中で萌芽する頃だな…。さて、それを契機に厄介な結界を崩しにかかるか…。」
 そう、呟きながら、結界が張られている部屋の真下へと、歩いて行った。








一之瀬的戯言
 そろそろ、本格的にミステリーが動き出す…っと。
 で「虚」で「とみて」と読みます。決して「ホロウ」じゃないです!「BLEACH」じゃないし…。
 読み方で引っ張ったソースがわかった方って…もしかして「ふしぎ遊戯」派?(ぉぃ
 実は二十八宿の玄武、北方七宿から拝借してきました。当然、「うるき」も。
 当然、他の七宿も登場します…ネタばれか…まあ、ええか。


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