第五話 妖の胎動


一、

 昼食が終わる頃、俄かに空模様が怪しくなり始めた。
 この季節、湧き立つ入道雲に駆り立てられるように、天気が急変することは、多々あること。昼前は、水平線の空と海が交わる辺りに、白い入道雲がわき上がっているのが見えたが、それが、この岬の上まで大きく、出張って来た。しかも、雲色は白から不気味などす黒い色へと変化を遂げている。
 真夏の激しい太陽光を浴びて、先端部分が不気味に光っている。
 一雨、いや、一嵐来そうな予兆だった。

「さて…。私は部屋で休ませて貰おうかしらねえ。」
 食後の珈琲も飲み干さぬうち、鈴音婆さんが最初に席から立ち上がった。
「休む?婆さんも調子悪いのかよ?」
 隣から乱馬が声をかけた。
「いいえ、身体は、ほら、このとおり元気よ。でも、昼寝は私の日課なのよ。昼寝をしない日が数日間も続けば、身体も変調をきたしてしまうでしょう?年寄りが寝込んだら、迷惑かけちゃうし、ねえ。」
「はあ…。」
「タダでさえ、昨日はこちらへ来るのに、昼寝できなかったじゃない。今日はちゃんと、昼寝の時間をとらないと、へたっちゃうかもしれないわ。」
 そう言いながら婆さんは、チリンとベルを鳴らして、メイドを呼んだ。
 婆さんの呼び鈴をきいて、メイドがすぐに現れた。
「そこの、メイドさん。悪いけれど、昼寝をしたいの。これからすぐに、ベッドメイクをしてくださらないかしらねえ。」
 現れたメイドは、黒いシックな長袖のメイド服に真っ白なエプロンを重ねて着ている。頭にはメイド仕様のレースの頭巾が可愛らしい。
「あ、はい。かしこまりました。すぐにお支度いたします。」
 メイドは軽く会釈して、婆さんの要望に答えるべく、ホテルの方へと立ち去る。

「じゃあね。乱子ちゃん。皆さん、また夕飯の時にでも。」
 他の娘たちにも軽く会釈して、婆さんは部屋へと戻って行った。

「昼寝ねえ…。ま、婆さんじゃなくっても、こう暑いと惰眠を貪りたくならあな…。」
 と乱馬は背中を見送りながら言った。婆さんが昼寝してまで、体力を保とうとしているのは、占いから予測された「災厄」から身を守るためなのかもしれない。そう思ったのである。

「私も部屋で休もうかしら…。」
 婆さんを見送って、そう言いながら立ち上がったのは碧だった。
「碧さん、昼寝なんかするの?」
「お子様なみやなあ…。」
 と千秋と桃代が彼女に声をかける。
「午前中、プールサイドで陽に当たりすぎて疲れちゃったのよ。夕方まで惰眠を貪ってくるわ。メイドさん、私のベッドメイクもお願いできるかしら?」
 と別のメイドへ声をかけた。
「かしこまりました。」
 もう一人のメイドが頭を下げて、碧に付き添い、食堂から消える。

「さて、俺たちもお暇しようか…。」
 と、次郎太が暇乞いをする。
「ええ?おじさん、もう月浦へ帰るのか?」
 蒼太の顔が曇った。
「ああ、俺たちは納品業者だ。客人とは違う。ほれ、帰るぞ!蒼太。」
 と、彼が立ち上がりかけた時だ。
 窓の外から閃光がきらめいたかと思うと、ドーンと一発、轟音がとどろき渡った。
 一呼吸置いて来る、ズズズという地響き。

「きゃっ!」
 思わず身をすくめる女性たち。

「ちぇっ!思ったよりも早く、天気が崩れやがったか…。」
 乱馬が窓の外を見た。
 どうやら、今のは雷が近くへ落ちた音のようだった。
 ズズズズズと地響きがして、嵐の始まりを唐突に告げる。
 父親と共に、野修行を行う彼にとって、天気の変わり始めは、敏感に察知できる。雲行きから夕方頃、一雨来そうだと、踏んでいたのだが、予測時間よりも早く降り出してしまった。

「この荒海を越えて帰られるのは、危険ではございませんか?」
 執事の立浪が気を利かせて、次郎太に話しかける。
「ああ、確かに、この分だと、海は荒れまくっているだろうなあ…。」
「小さなポンポン船じゃあ、いくら舵取りの腕が良くても、逆巻く荒波は乗り越えられないかもしんないぞ、おじさん。」
 心配げに蒼太が声をかけた。
「そうかもしれないな…。」
 うーんと唸り声を上げながら、次郎太が考え込む。
 確かに、小さな船で、荒波起つ海を越えていくのは危険だろう。まだ、雨が降り出したばかりとはいえ、相手は夏の嵐だ。通り雨とはいえ、降る時は激しい。侮る事はできまい。
 難しい判断を迫られていた次郎太に、立浪が提案する。
「こんな荒波の中を帰らせて、遭難でもされましたら、後味が悪うございます。次郎太殿、ここは一つ、何もおもてなしできませんが、今宵は泊まられて、明日、早朝に帰帆されてはいかがですかな?」
 と声をかけた。
「なあ、おじさん、甘えようぜ。俺、こんな豪華なホテル、一度泊まってみたかったんだ。」
 蒼太の瞳が、キラリと輝いた。正直な若者の心情だろう。
「そうさなあ…。泊めてくださるというのなら、お世話になるのも悪い話じゃないな。」
 次郎太も同意した。
「正直、俺も、豪華ホテルに、興味が無いわけじゃないしな。執事さん、お世話になっても、本当によろしいので?」

「どうぞ、どうぞ、ご遠慮なさらず。紫苑さまも同意見でありましょう。部屋は…生憎、地下一階の部屋はお嬢様方で全部塞がっておりますから、地下二階でもよろしゅうございますかな?」
 と立浪が言った。
「ああ、物置だろうが、何だろうが、この際、泊めていただけるなら、贅沢は言いませんぜ。」
「やったー!」
 思わず、悦ぶ、蒼太少年。

 ただでさえ、訳のわからない妖しい水晶玉の事を気にしなきゃならないのに、あかねに好意を抱く少年の事案まで抱え込むハメになろうとは。…乱馬の胸中は、複雑だった。

「一泊の恩義に報いるため、今夜の魚料理は、俺がさばきましょうかねえ?何、猟師と言う商売柄、魚をしめてさばくことにかけちゃあ、慣れ切ってますぜえ。」
 次郎太が執事に言った。
「そうしていただければ、助かります。豪快な漁師の魚料理、嵐に閉じ込まれたお客人にとっても、慰めになりましょうから…。」
 と執事が言った。
 その言葉を黙って、傍で聴きながら、乱馬は小首を傾げた。
(こいつ…。この執事のオッサン…。まるで、嵐はずっと続くとでも言いたげじゃねーか。ふつう、こういう夏の夕立は、せいぜい、二、三時間しか荒れ狂わねーもんだぞ…。そんなに長い間、吹き荒れるものなのかよ…。)
 そうだった。波が収まるまで、休航というのなら、納得がいくが、今夜はここへ泊まれと薦めるのが、いかにも妖しかった。しかも、こんな大事な事を、主人の紫苑の承諾も得ないまま、執事の身の上で即断している。
(変過ぎる…。まさか、最初っから、このオッサンたちを引き止めるために嵐も仕組まれたとか…。)
 さっき、午前中、プールサイドから鈴音婆さんと、肩を並べて見詰めた「荒波の結界」を、一瞬、思い浮かべる。
(この嵐も、水晶玉に引き起こされたものとしたら…。)
 そう考え及んで、ブンブンと頭を横に振った。
(いけねー、いけねー!まだ、謀(はかりごと)がどんなものかもわかっちゃいねーんだ。謀があるかどうかもわかんねーのに…。それに…。あの婆さんだって、信用できるとは限らねーしよう…。
 このまま、予測だけで突っ走るわけにはいかねー。冷静にならねーといけねーんだ!しっかりしろっ!早乙女乱馬!)
 そう考えをめぐらせて、顔を上げると、あかねと蒼太が楽しそうに歓談しているのが見えた。
(今は…。得体の知れねえ陰謀よりも、実害バリバリの、チャラ男だな。)
 と、考えを改めた。このまま、あかねと二人きりにしたら、何が起こるかわかったものじゃない。嫉妬心に勝るものはなかった。凡そ、「冷静」とは言い難い正反対の方向へと意識が向かっている。

 嵐は、一向に収まる気配はない。夏の熱気に煽られて発達した入道雲が、一気にウップンを晴らすかのごとく、雷を景気良く、放出し続けている。
 女子供は、雷が苦手なもの。腕力には自信があるとはいえ、あかねもひと皮剥けば、女子高生。本人は無意識でやっているのだろうが、キャアキャアと色っぽい金切り声を、景気良く上げ続けている。その傍らで、鼻を伸ばしている、蒼太少年。
 女子大生の碧と桃代も、雷はあまり得意では無いらしく、あかねと一緒に、キャアキャア言っていた。
 冷静なのは、乱馬と橙子の二人。さすがに、二十代後半ともなってくると、キャアキャア騒げる年齢ではないのだろうか。乱馬も雷は荒修行で慣れている。父親と共に野山を駆け巡ってきた、乱馬にとっては、恐るるに足らずの自然現象なのだろう。しかも、ここはちゃんとした屋根の下。野外で鳴る雷に比べると、逃げる必要がないだけ、気分的にも楽だった。

「たく…。キーキー、キャーキャー、そーんなに雷は恐いものなのかねえ。」
 と、乱馬は冷たい瞳であかねを見返す。
「うるさいわね!野生児のあんたとは違うのよ!あたしは!」
 雷が鳴るたびに、びくつきながら、あかねはそう吐き捨てた。
「大丈夫、あかねさん。僕がついてます。」
 と、何を思ったか、蒼太がポンと胸を叩いた。漁師の卵だけあって、筋肉も適度についている肉体。
 また、稲光。今度はすぐ傍に落ちたようで、ドッシャンと轟音が鳴り響く。
「きゃああっ!」
 意識していなかったのだろうが、あかねは傍の蒼太にぴたっとくっついた。
「ここや屋根の下だから、大丈夫ですよ。」
 鼻の下を伸ばしながら蒼太が受け答える。ちょっと嬉しいハプニングだったのだろう。
 それを見て、更に乱馬は気分を害した。
(何であんな奴にくっ付くんだよ!)
 と言いたげに、あかねを睨んでいた。

「あらあら、こちらでは若い者同士が、恋のアバンチュールかしら?」
 千秋が笑いながらあかねと蒼太を冷やかしにかかる。
「べ、別にそういうんじゃないです…。」
 と、あかねは否定したものの、乱馬が女に変化している以上、他の連中から見れば、カップルの誕生に見えたのかもしれない。

 乱馬にはますます面白くない事態であった。



二、

 そのうち、雷は遠ざかった。が、雨は止む気配がなかった。夕立がそのまま、本降りになってしまった。そんな感じだった。

「三時のお茶でございます。」
 そう言いながら、立浪がメイドを引き連れて、ワゴンに茶器を並べて入ってきた。
 午後からも泳ぐ予定が、雨のせいですっかり狂ってしまった。嵐の中、歓談しながら過ごすにしても、そろそろ口が寂しくなりかけていたので、ティータイムはとてもありがたかった。
 銀の皿に盛られたのは、色とりどりのセロファン紙に包まれた、チョコレートやクッキー。近所の駄菓子屋で売っているものとは違い、明らかに「高級品」面したお菓子である。
 乱馬も蒼太も、物珍しい菓子に、躊躇なく頬張る。
「あんたさあ…。もうちょっと上品に食べたら?」
 あかねが乱馬を腕で突付いたくらいだ。
『恥ずかしいわよ!ちょっとは考えなさいよ!あんた、今は女の子なんだから…。』
 耳元でボソボソ小言。
「うっせー!どう食おうが俺の勝手だろ?」
 と、にべも無い乱暴な返答。
 こうやってやけ食いでもしないと、やってらんねー…という意識が脳内で働いている。蒼太に媚びを売るあかねに対して、俺の存在も忘れるな…と態度で示しているのだ。十七歳にもなって、ガキっぽい行動であった。
 だが、鈍いあかねがそこまで乱馬の心情を理解しているとは思い難い。

「碧、起きてこないわねえ…。」
 千秋がふっと漏らす。
「婆さんも、まだ寝てるみたいだな…。あまり長時間寝たら、夜、寝られなくなるっぞ…。」
 乱馬がお菓子にぱくつきながら言った。

「珈琲のおかわりをお持ちしましょうか?」
 立浪が後ろから声をかけた。
「お願いしますわ。」
 橙子がカラになったカップソーサーをテーブルに置きながら頼んだ。
「午後はやっぱり、これがなくっちゃね…。」
 さすがに大人の女性だ。珈琲が良く似合う。珈琲は苦手な乱馬やあかねたちお子様とは味覚も違うようだ。
「かしこまりました。すぐにお持ちします。」
 
 立浪に言われたのだろう。
 おかわりの珈琲と灰皿を持って、メイドがやってきた。
 最初の日に、乱馬とあかねのベッドメイクをしてくれた、さくらという名前のメイドだ。相変わらず、蒼白い血色の無い顔色をして、もくもくと働いていた。
「お待たせいたしました。」
 丁寧に頭を下げながら、橙子のカップに珈琲を注ぎ入れた。コプコプと良い香をたてながら、珈琲が煙を上げて、白いカップに入っていく。
「インスタントではなく、サイフォンで淹れた本格的な珈琲ね。この香は、ブルーマウンテンかしら?」
 と、珈琲通らしき橙子が嬉しそうに言う。
「はい。おっしゃるとおり、ブルーマウンテンでございます。」
 メイドが丁寧に答えた。
「はあ…。都会の喧騒から離れて、こうやって海辺のホテルでいただく珈琲は格別だわ。幸せよ…。ああ、生きていて良かったわあ…。」
 胸いっぱいに珈琲の湯気を吸い込みながら、橙子が嬉しそうに言った。

 メイドは一礼をして、その場を離れた。
 …と、そこに会していた者は、誰もがそう思った。

 が、その時だ。
 ガタンと大きな音がして、足元から崩れ落ちるように、メイドが床へと倒れ伏した。糸が切れた操り人形の如く、その場に突っ伏した。

「め、メイドさん?」
 橙子やあかねたちの声が、ホールいっぱいに響き渡る。

「いかがなされましたか?」
 バタバタッと音がして、置くから立浪と他のメイドたちが、一斉に駆けつけてきた。

「メイドさんが倒れ込んじゃったんです。」
 焦りながら千秋が言った。
「おい、さくら!さくらさん!」
 メイドの名前を呼びながら、立浪が抱え上げる。
「あ…。大丈夫でございます。す、少し立ち眩みがしただけでございますから。」
 弱々しくメイドが答えた。意識はあるようだった。
「ホテル開業の疲れが出たのでしょう。ここのところ激務が続いておりましたから。」
 そう言いながら、立浪は、ひょいっとメイドのさくらの身体を軽々と抱き上げる。
「今日は交代して休みなさい。紫苑様には私の方から申し上げておきましょう。」
「ありがとう…ございます。」
 メイドは恐縮しながら、弱々しい声で言った。客人の前で倒れ込んで、気恥ずかしさがあったのかもしれない。
「失礼しました。この娘を下の部屋で休ませて参ります。萌黄(もえぎ)、茅野(かやの)…ここの後片付けは任せましたよ。」
 そう言って、さくらを連れて、下がって行った。

「やっぱ、体調が悪かったんだな。あのメイドさん。」
 乱馬があかねにこそっと言った。昨日、部屋へ荷物を運び込んでくれたのは、あのさくらとかいうメイドだったが、その折から、顔色が悪いと気にはなっていたのだ。
「持病で持ってるのかしら?」
 とあかねがも同調する。
「ま、疲れが溜まってたんじゃねえのか?体力だけで勝負している、おめーとは違うのかもな。」
「なんですってえっ?」
 バカにされたあかねは、また、乱馬を睨み返す。
「にしても…。あの立浪って執事も、相当、鍛え上げてんな。」
 と、付け足すようにポツンと言った。
「は?」
 怪訝な顔をして、あかねが問い返す。
「ま、あのメイドさんの体重も軽いんだろうけど、赤ん坊とは訳が違うんだぜ。それを軽々と抱き上げてたじゃねーか…。相当、足腰を鍛えてねえと、ああ軽々しくは持ち上げられねえぞ。」
「そういうものかしら?」
「ああ…。多分…。」
 再び、何か、胸に引っかかったような気がした。
(やっぱ、ただのホテルの執事じゃねえなあ…。ボディーガードでも勤まるんじゃねえか?あのオッサンは…。)
 執事が去った方向を、険しい顔をしながら、見詰めた。
(それに…。さくらに萌黄に茅野…か。源氏名みてえな名前のメイドたちだな…。)
 疑い始めれば、名前一つも虚構に聴こえてくる。メイドたちの名前の雰囲気が揃いすぎているのも、気になることの一つになった。
(メイドはあと二人、居たよな…。他の奴らは何て名前だろう…。)
 そんな事を考えながら、また、菓子を頬張った。
 


☆  ☆  ☆

「で?さくらは倒れ込んでしまったというのですか?」
 奥で紫苑が、ことの仔細の報告を、立浪から受けて、顔を曇らせていた。
「ええ。こう、崩れ落ちるように、ぱったりと床に倒れこんでしまったようです。さっき、わたくし自ら、下のメイド部屋へ連れて行って、休ませました。」
 報告した立浪も、浮かない顔をしていた。
「ご苦労様…。で?意識は?」
「まだ、あります。でも…。かなりアレの力が弱くなっているのは確かでございます。もうそろそろ、限界なのでありましょう…。既に「魂抜け(たまぬけ)」が始まっているようでございます。」
 と声を落としながら、言った。
「限界に、魂抜け…か。嫌な言葉だ。」
 紫苑の顔がますます険しくなる。
「さくらだけではありません。他のメイドたちも、それぞれ力が弱くなっている様子であります。魂抜けが始まるのも時間の問題かと…。」
 立浪はぼそっと言った。
「おまえはどうだ?立浪?」
 紫苑が率直に尋ねた。
「わたくしでございますか?わたくしは、まだまだ、このとおり、ピンピンしていております…。」
 立浪は己の左胸辺りに右手を置いて、覗き込みながら答えた。
「そうか…。でも、魂抜けは急に起こることもあるから、油断は禁物だ。せいぜい気をつけなければならないぞ。立浪。」
「あ、はい…。」
 立浪は続けて言った。
「紫苑様は如何で?お顔色があまりよろしくはありませんが…。」
 と返す言葉で問い返していた。心配げに紫苑を見詰める。
「僕かい?僕もいささか疲れたよ。少し力を使いすぎたようだ。」
「力を…でございますか?」
 静かに立浪が尋ねた。
「さっき、「胡瑠姫(うるき)様」に呼ばれてね…。少しばかり生気を差し上げてきた。」
 と口元を軽く押さえながら、紫苑は言った。ペロリと下で上唇を軽く舐め上げる。それから、軽くため息を吐き出した。きれいな紫苑の顔立ちが、ますます妖艶に輝く。
「そう…生気を差上げたのでございますか…。」
 反芻するように立浪が言い置く。少しばかり立浪の顔が曇ったのを、紫苑は目敏く気付いたようだが、気にも留めずに続けた。
「だが、その現場を、客人の一人に見られてしまってねえ…。僕としたことが、不覚だったよ…。」
「客人に見られた…、すわ、大変なことではありませんか。」
 立浪は、驚きの声を張り上げた。
「大丈夫…。ちゃんと、手は打ってきた。元々、僕に惚れかけていたみたいでねえ…。御しやすかったよ。とっても…。」
 と、にっと笑った。
「先ほどからラウンジを昼寝のために下がっていかれた、碧様でございますか?」
 立浪が、ずけずけと名前を出して尋ねた。
「ああ、そうそう、その娘だ。たまたま、すぐ傍に、つばきが居てねえ…。補助してくれたよ。僕一人だったら、少しばかり厄介なことになっていたかもしれないが…。」
 紫苑はゆっくりとことの顛末を話していく。
「つばきは、あれでいて、力が強いからねえ…。胡瑠姫様に生気を差上げている現場を見られた折、すぐさま、碧様を押さえ込んでくれたんだよ。本当に、気転がきく、良いメイドだよ、あのつばきという木偶(でく)は。」
「それから、どうされたのです?」
 興味深げに、立浪が問うた。
「娘には傀儡種(くぐつだね)を与えてやった。」
 と、紫苑が言い切った。
「もう、傀儡種を植えつたたのでございますか?」
 立浪が、驚きの声を張り上げた。
「ああ、遅かれ早かれ、傀儡種を植えつけてやらねば、傀儡玉は馴染まんだろう?」
 くすっと紫苑が笑った。
「胡瑠姫様は何と?」
「一部始終を見ておられたから、特に何もお叱りの言葉は無かったよ。手筈どおりに事が運ばないのはままあること、仕方があるまい。』と、笑って許してくださったよ…。でも、その分、激しく僕の生気も据われてしまって、もう、ヘトヘトだよ。口では優しい言葉をかけてくれても、実際は激情の塊さ…。」
 ふうっと紫苑がため息を吐き出した。
「では?碧様は?」
「傀儡種は胡瑠姫様が上手く措置してくださったよ。今は種の萌芽に大事な身体だ。そのまま、眠らせて、ベッドの中さ。それに、「あの方」の措置は完全無比だ。開扉(かいひ)の儀式の時間までは眠り続けておられるかもしれないね…。」
「でも、何故、碧様に見られてしまう事態となったのです?」
 立浪は、まだ納得がいかないのか、紫苑に質問を続ける。
「碧さんは、どうやら、僕を誘惑するために、自分から「昼寝する」と言って、皆さんのところから辞していらっしゃったようなんだ。」
「紫苑様を誘惑でございますか?」
 立浪の顔が曇った。
 どうやら、碧はラウンジを離れて、自室で昼寝をする振りをして、紫苑と二人きりになるチャンスを虎視眈々と狙っていたようであった。
「ああ。胡瑠姫様が施術した折に、吐き出してくれたよ。何でも、ここへ来た時から僕に気があって、誘惑してあわよくば深い仲になろうと思ったそうだ。なかなか、やるねえ…。今の若い娘は。昔とは大違いだよ。」
 紫苑は、にんまりと笑いながら言った。
「胡瑠姫様が傍におられたので、碧さんをこの腕で抱く事ができなかったのは少し残念だったけれどね…。胡瑠姫様が居なければ、せいぜい、僕がお相手してさしあげれられたのに…。」
 紫苑は少し、残念そうに吐き出した。
「好色でございますな…。紫苑様は…。そんなことをお言いだと、胡瑠姫様だけではなく、「あの方」の怒りにも触れられますぞ。」
 立浪が苦笑いして、彼を見上げた。
「何、胡瑠姫様は僕が居なければ、立ち上がることも動くこともできなくなられる…。「あの方」とて、数百年、いや先年以上あのままだと伺う。ヌシ様たちの目が届かぬところで、何をしようが、とやかく言われる筋合いなど、無いね。」
 と冷たく言い切った。
「それに、まだ、もう一晩ある。生娘もまだ、たくさん手付かずのまま残っている。一人くらいは我が腕に直接抱いて、愛撫しながら、生気を吸い上げて差上げたい…。」
 にやりと紫苑が笑った。
「また、お戯れを…。」
 立浪が言葉を濁す。どうやら、立浪は軽い言動は嫌いなのかもしれなかった。
「だって、そうだろ?傀儡玉を与えられた女性は、男と交わることもなく、傀儡となって一生をヌシ様たちへ捧げるのだよ。現に、メイドだって、殆どが生娘のまま傀儡となっている。
 女としての官能を知らないまま、生き人形となるなんて…。勿体無いじゃないか。」
 と紫苑は力説した。
「だからといって、紫苑様…。」
「僕だって、この五十年、好き勝手に女を漁ることができないできた。時折、己の生気を保つため、胡瑠姫様に新鮮な気を差上げるため、結界を越えて人間界へ行き、女性を狩る事はあっても、五十年も女性との自由な交わりを我慢させられたんだよ。…っと、これは、君も同じか。立浪。」
 そう言って、意地去るな瞳を立浪に向けた。
「立浪、君もこの際だ。あの娘たちのうち、気に入ったのが居れば、交われば良いんじゃないかな?それとも、まだ、さくらのことが忘れられないか?ククク…。」
 からかうような瞳を立浪に投げる。立浪はその問い掛けには答えなかった。ただ、じっと、睨むように紫苑を見返していた。
「何だよ…立浪。その攻撃的な瞳は…。」
 そう言って、抗う事ができない、立浪を虐める。
「あ、いえ、別に…。何でもございません。」
 立浪は視線を背けた。
「胡瑠姫様がさくら嬢をご自身の傀儡にし得なかったのは、不幸中の幸いだったんじゃないのかな…。じゃないと、伊奈魅(いなみ)玉を埋めた僕と、君の許婚だったさくら嬢が定期的に睦み合うのを、間近で見ていなくっちゃならなかったからね…。
 そうならなかっただけでも、良かったと思わなければ…。ねえ、立浪。ククク。」
 甘い声で紫苑は立浪を翻弄する。
「紫苑様もすっかり変わられてしまいましたね…。」
 立浪は、ただ、それだけを言い置くにとどめた。紫苑に手を挙げるわけにはいかなかったからだ。いや、手を挙げたくても挙げられなかった。呪縛がなければ、恐らく、紫苑の頬を張り倒していたろう。

「僕は何も変わっちゃいないさ…。五十年前とね…。君も多分、そうだろう?」
 紫苑はそれだけを言い置くと、くるりと背を向けた。だから、立浪から紫苑の表情は凝視できなかった。
 それをわかった上だろうか、紫苑が声を落として続けた。
「そうだ…。そろそろ「あの方」が、儀式の準備に入りなさいと言っておられた。まずは、禊(みそ)ぎだと…。」
「禊ぎでございますか?」
「ああ、そうだ。そろそろ、どの娘にどの傀儡玉を与えるか、選定せねばならないからねえ…。その、確たる方法に、湯占い(ゆうらない)は有効だろう?」
「湯占いでございますか。」
 立浪はコクンと頭を垂れた。
「そうだ。それぞれ、最初に選んで浸った薬湯によって、どの傀儡玉を与えるかの参考にする、湯占いだそうだよ。」
「明晩でもよろしいのでは?」
「いや…。明晩だと遅い。いち早く湯占いをしろとの、「あの方」のご要望だ。「あの方」は何かを感じておられるんだろう。何か強い力が、我らの目的を邪魔しようとしていることを、しきりに気になさっておられたよ…。
 さくらが倒れたのも、それのせいではないかと、危惧しておられてね…。」
「わかりました。仰せのままに取り計らいます。」
 立浪は一礼した。

「とにかく、あと一晩の我慢だよ。明日の夜、満月が上れば、お互い、こんな因果な世界とは惜別できる。「あの方」からの呪縛からも解かれるんだ…。
 …だから…互いに最後の晩くらいは羽を伸ばそう。せいぜい、最後の饗宴を楽しもうじゃないか…。なあ、立浪。」

 それだけを言うと、紫苑は部屋を出て、何処かへ行ってしまった。恐らくは、若い客人たちのところへ行くのだろう。残り少ない夜のアバンチュールを楽しむ、娘を選びに…。

「紫苑様…。あなたは哀しい人だ。…もちろん、この私もですが…。」
 立浪は、己の心情を搾り出すように、紫苑の背中に向けて、静かに吐露した。




三、


「さて、皆さん。この館には実は大浴場があるんですよ。」
 と、戻って来た紫苑が、ラウンジでゆったりとくつろいでいた面々に語りかけた。

 さっき、立浪に指示した「湯占い」を実行しにかかったのである。
 勿論、娘たちは、そんな「裏」があるということは、知る由も無い。

「大浴場があるんですかあ?」
「それはそれは…。」
「皆でわいわい入る大浴場もなかなか情緒があって好きよ。」
 と娘たちはそれぞれ無邪気だ。

「昨日はまだ、ボイラーが上手く作動してくれなくって、ご案内できなかったんですが、昼間、メンテナンスをしましたから、今夕からは使えますよ。」
 と紫苑が口上を述べる。
「退屈しのぎに、是非、楽しんできてください。皆さんの客室よりも下の地下二階にあります。」

「そそれは混浴かい?」
 蒼太が速攻尋ねた。乱馬は傍で眉を潜める。

「いえ…。残念ですが、混浴ではありません。此度は女性客の皆様に楽しんでいただくため、女性専用とさせていただきます。蒼太様。」

「まあ、それが妥当だな…。おめーは予定されていた客人じゃなくってオマケみてえなもんだしよう!」
 と乱馬がざまあみろと言わんばかりに冷たく言い切った。

「大浴場には、七色の美人湯と称して、様々な効用がある薬湯が七つ、用意されています。順に入るも良し、一つに決めて入るも良し…。楽しんできてください。その間に、夕食の準備をしておりますので。」
 と紫苑に促されて、女性たちは、いそいそと大浴場へ向かう。
 勿論、乱馬は辞するはずだった。
 だが、他の女性たちに阻まれて、結局は、同行する羽目に陥る。何の準備も要らないから、とい理由で、ラウンジから浴場へ直行したことに起因する。

(お、おい!これは不味い展開だぜ!)
 浴場といえば、湯。乱馬にとって湯といえば、男に戻る手段。
 焦ったが、抜け出す機会もない。
 散々、悪態を吐いた後だからか、あかねは全く、助け舟を出してはくれなかった。フン!と言わんばかりに、冷たい。
 連れて来られたのは、ワンフロアもあろうかという、広い浴室。
 確かに、いくつもの湯船が中に作られていて、それぞれ、湯気をあげている。

(ぎえええ…。このまま、湯に浸けられたら…男に戻っちまうじゃねーか!)
 内心、憔悴していたが、逃げる機会を逸してしまった。というのも、脱衣所に入るや否や、皆、何のためらいも無く、衣服を脱ぎ始めたからだ。ここに、男は居ない。そういうことになっていたから、遠慮もなかった。
 ただ、あかねだけは、さすがに乱馬の前ということもあり、彼の視線に入らないような場所に陣取っていた。
 が、回りは見事に、女体、女体、女体。昼寝を済ませて合流した鈴音婆さん以外は、若く弾けた身体だ。
 まともに凝視すらできなかった。乱馬は俯き加減で、己の着衣を取った。
「何、恥ずかしがってんの!ほら、さっさと脱いで、入りましょう!」
 お節介なことに、橙子お姉さまが乱馬の隣に立って、そう、促す。
「は、はあ…。」
 気もそぞろでドキドキしつつ、乱馬は仕方なく風呂場へと足を踏み入れる。
 もうもうとあがる湯煙。それぞれに、目に付いた湯へと、吸い込まれるように入っていく。
 あかねなど、吟味する間もなく、かけ湯すると、すぐ近くの浴槽に身体を沈めた。さすがに、乱馬に長時間裸体を晒す気はないのだろう。

(ど、どうしよう…。)
 あたふたとしていると、
「乱子ちゃん、早く入りなさいよ!」
 などと、あかねが意地悪く声をかけてくる。彼が入れないことは、彼女が一番理解している。

(後で覚えとけよ!あかねの野郎…。)
 グググッと握った拳に力が入ったが、このまま、背を向けて出て行くわけにもいかず、ほとほと困りかけていた。が、一声、声が上がった。
「つめたーい!これ、水風呂だわ!」
 と。

(しめたっ!これだっ!)
 乱馬は一目散、わき目も降らずに、水風呂だと声がかかった方向へ足を手向けた。確かに、良く観察すると、その湯船からは煙は一切立ち昇っていない。
 思い切って、右手の先を、湯船につけてみる。
(確かに、水だ!)
 迷うことなく、この湯船に一直線。バシャンと浸った。

「ちょっと乱子ちゃん!そこ、水風呂よ!」
 今しがた、声を挙げた、千秋が驚いて乱馬を見やった。

「いーえー、あのー、あたしは水風呂が好きなのぉ!猫肌だから、お湯は苦手なのぉ!好きにやらせて頂戴!」
 と苦しい言い訳をしながら、水風呂に浸る。水和む、夏場でよかったとはいえ、地下水をくみ上げたのか、随分、水温は低かった。ぶるるっと身震いしながら、どっぽりと湯船に浸っている。

(バーカ!)
 冷たい瞳が、乱馬を追いかける。あかねであった。

(ちくしょうー!何で俺だけがこんな目に…。)
 うるうると涙を目にためながら、女体を呪う。安穏とした湯には浸れない。その悔しさで心は満ちていた。
(ああ、変身体質じゃなかったら、こんな気苦労しなくてすんだのに!)
 水風呂の中で、惨めに浸りながら、ふううっとため息を吐き出す。
 そんな乱馬の傍に、鈴音婆さんがふらりと近寄ってきて言った。
「あなたも、随分、苦労しているようね…。」
「おかげさまでね…。水風呂は最高ですわ…。おほほほほ。」
 ひねくれた口ぶりで言い返す。
「水は古来より、神聖な禊ぎ方法よ。どうして、あなたが湯に浸りたがらないかはわからないけれど…。水で禊ぎをすることは、決して無駄にはならないでしょうね。」
「そういえば、婆さんは湯に浸らないのか?」
 と乱馬が問いかける。
「湯辺りしそうだから、先に退散するわ。本当は、私が水風呂へ入ろうと思っていたんだけれど…。あなたが入っちゃったからねえ。」
 そう言うと、鈴音婆さんはとっとと風呂場そのものから出て行った。

(何しに風呂場まで来たんだ?あの婆さんは…。)
 その後姿を見送りながら、乱馬は小首を傾げた。本当に、出会ったときから、不思議をいっぱい持っている婆さんだった。


「そうか…。水風呂を選んだ娘が一人…。それから、あの老婦人は、湯に浸りもしなかったか…。」
 紫苑が難しい顔をしながら、風呂場の中の様子の報告を受けた。
 報告したのはメイドの茅野だ。無口だが、芯はしっかりした娘のようで、脱衣所から中の様子を伺っていたのである。
「後の娘は、それぞれ好きな湯を選んで入ったにも拘らず…か。」
「やはり、あの老婦人、田中様と申されましたかな…。何やら怪しいですな…。胡瑠姫様が危惧しておられる、強い力とは、この方が絡んでいるのやも…。」
 立浪が心配げに覗き込む。
「今の段階では、何とも言い難いね…。」
 紫苑は腕を組みながら答えた。
「昨夜は魔水晶の月光洗礼を受けませんでしたし…。この度の湯にも触れずでございますよ。充分、怪しいご婦人でございますよ。何しろ、年齢を詐称して、ツアーに紛れ込んでこられたのでございますよ!」
 立浪が続けて、力説する。
「それに、魂抜けで倒れたさくらは、その直前、このご婦人の部屋へベッドメイクしに入っています。」
「何だって?それは本当か?立浪。」
 紫苑の顔がきつくなった。
「はい、昼寝するからメイキングしてくれと…。その後、お茶の給仕をしていて、あの体たらくでございます。紫苑様。
 もしや、あのご婦人は、我々の正体を知っていて、何かさくらに仕掛けたのではないでしょうか?」

 その言葉を暫し、飲み込むように、紫苑は考え込んだ。

「確かに、田中様は霊感が人並み以上に強いのかもしれない…。恐らく、男と交わったことがない女性なのではないか…。男と交わらぬ生まず女、つまり、年配の処女は、卜占や霊感が人並みはずれて強くなるとも言う…。」
「きっと、何かあるのでございますよ。紫苑様。」
 立浪が言い切った。
「確かに、あのご婦人は、怪しい存在ではあるが…。だが、立浪、もう一人、怪しい人間が居よう?」
 紫苑は、立浪に話し掛けた。
「もう一人でございますか?」
「天道乱子…だよ。」
「天道乱子…。確かに、あの娘は男言葉を操り、立ち居振る舞いも男っぽい…、少し異色の娘でありますな。」
「ああ、ツアーへの参加の仕方も、強引さが漂っている。一人ではなく、二人参加で、しかも、最初来る予定だった娘ではない…。つまり、そこで既に、運勢が大きく変動しているということだ。」
 紫苑は難しい顔をした。
「湯占いはどうだったのです?」
 立浪が興味深げに、尋ねてきた。
「彼女は湯ではなく水風呂を選んだそうだ。」
「なっ!水風呂を…ですか?」
 有り得ないと言わんばかりの声。
「ああ。乱子という娘は、禊ぎの水だ。湯には一切、近寄らなかったそうだ。」
「もしかして、湯に漂う不浄なものを察知して…。」
「かもしれぬし、ただの偶然かもしれぬ…。が…、いずれにしても、老婦人も男勝りも、我々には必要のない存在。違うかね?」
 紫苑はにやっと笑った。
「今夜、あの二人を始末せよ!…と。胡瑠姫様から指示があった。」
 その言葉に、立浪は黙り込む。
「聴こえなかったか?今夜、早々に始末せよ…だ。これが、何を意味しているか、わからぬ、君ではなかろう?立浪。」
 紫苑は意地悪い表情で問い返す。
「ぎ、御意…。そういう命が下ったとあらば、わたくしは、それに従います。」
 立浪はくぐもった声で言った。
「不服かね?立浪。」
 紫苑の瞳が怪しく光る。
「でも、君は拒む事ができない…そうだろう?」
 そう言いながら、すうっと左の掌を上に向ける。と、紫苑の掌に体内から小さな玉が浮かび上がった。黒くてくすんだ禍々しい玉だ。そいつが、ふうっと鈍く光った。

「わああああっ!」
 その玉の黒い光を目にした途端、立浪が頭を押さえつけ、その場に喘ぎ始めた。

「始末の仕方はおまえに任せるそうだ…。何なら、二人を食らっても良いぞ、立浪。いや、虚(とみて)。」
 にんまりと紫苑が笑った。
 「虚(とみて)」という言葉に、苦しんでいた立浪の顔つきが変わった。顔が激しく強張った。暫し、その場に佇んだ。心臓の発作でも起こったかのように、グッと左胸を押さえて、苦しげな吐息を吐き出し始めた。
「どうした?虚(とみて)と変わらぬのか?立浪よ…。」
 紫苑の声に反応するように、立浪の穏やかな顔つきが消える。メキメキっと立浪の顔の皮膚に皺がより、ひび割れる。
 そこに、浮かび上がったのは、立浪とは別の者だった。

「本当に、食らってもよろしうございますか?紫苑様。」
 立浪の発する声は、一段低くなった。シュウーッと口元から毒々しい吐息が漏れる。
「ああ、食らっても差し支えはない。二人を食らえば、また、新たな妖力を得られるのではないか?虚(とみて)よ。何なら、若い乱子という娘とは契ってから食らっても良いぞ。おまえも女と契るのは久しぶりだろう?立浪は莫迦がつくほど「生真面目」な人間だからな…。素のままでは誰とも交わらようだしな…。くくく。」
 と紫苑が笑う。
「胡瑠姫様が良いと許可してくださるなら、喜んで。」
 と、虚(とみて)と呼ばれた怪物が答えた。
「胡瑠姫様は構わぬとおっしゃったぞ。おまえの好きにしろとな…。」
「ありがたやありがたや…。ふふふ、若い娘と下半身を交えたまま、頭から生気を食らう…。嬌声がそのまま断末魔の悲鳴に……。さぞかし極上の生気をおいしくいただけましょうや…考えただけでもゾクゾクきますわい。」
 それにつれて、立浪からチロッと舌が出た。人間のものではない、蛇の先割れた赤い舌だ。口元が耳まで裂け、化け物の形相へと変わった。
 当人は女乱馬を翻弄しつつ、がぶりとやる姿を想像をしているらしかった。だらだらと避けた口元からヨダレが滴り落ちた。
「ほら、まだ、闇の時間ではないぞ、虚(とみて)。その格好、まだ、娘どもに見せるわけにはいかぬだろう?立浪の中に戻れ!」
 そう言うと、紫苑は掌の玉を再び、化け物の前に翳した。
 と、おどろおどろしい魔物の表情から、人間の立浪の表情へと、みるみる、変化を遂げる。
 何事もなかったかのように、血が通って人間の表情がそこに戻った。
 紫苑の掌の玉も、いつの間にか、彼の体内に消えていた。

「ふふふ、おまえの中の魔は既に目覚めているよ…。立浪。」
 挑発するように、紫苑は再び、立浪に言った。
 その問い掛けに、立浪は黙ったままだ。胸の辺りに違和感を感じたのか、懸命にそこをさすっている。心なしか、ブルブルと震えているように見えた。
「案じることはない。魂遷しの時間が近いというだけのことだ。おまえの中に巣食う魔も時間が迫っている事は了承済みだ。この私のようにね…。」
「私は…。」
 立浪は汗を滴らせながら、苦しげに紫苑を見返した。
「もう、後戻りは出来ないんだよ…。さっきも言ったろ?あと少しの我慢だよ。明日の夜、満月が上れば、呪縛から解き放たれる…。
 おまえも、安穏を願っているのなら、抗わないことだ。「あの方」と、胡瑠姫様の命令にはね…。」
「紫苑様…私は、貴方ほど、冷徹になれません。だから、こうやって悩んで…。」
 訴えようとする立浪を、振り切るように、紫苑は言った。
「悩み苦しむだけ無駄なんだよ…。私もおまえも、魔物に魅入られた者の宿命からは逃れられない。己が望まなくとも、私たちの中の魔物はヌシ様たちに至極、従順だ。そうやって、共に、悠久の時を生きながらえてきたのだから…。」
 紫苑は再び背を向けて、言った。
「もう行け…。立浪。命令に抗う事はできぬ。それはおまえが一番知っていることだろう?」
「は、はい…。わがままを申し上げて申し訳ございませんでした。」
 立浪はその場で一礼した。
「わかれば良い。あまり、ここへ長居していると、台所を手伝うと言っている、漁師の次郎太に、怪しまれる。」
「わかりました、もう行きます。」
「そうだ、機会を見つけて、次郎太と蒼太にも、傀儡種を与えておけ。食事に混ぜてもよかろう…。奴らも札として使えるからな…。ふふふ。」
「御意。」
 立浪はペコンと頭を下げると、支配人室を辞した。

「そう、誰も抗う事はできないんだよ…。もう、運命のサイは投げられてしまったのだから…。立浪…。おまえも…あの娘たちも。…そして、僕自身も…。」
 紫苑は立ち去る立浪の気配を追いながら、独り言を言った。
 その紫苑の表情が、僅かだが、憂いに帯びていた事に、立浪は気付かなかった。









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