第四話 占い


一、

 翌朝は、良く晴れていた。
 真っ青な夏空が広がり、朝から気温も高かった。
 建物の中はエアコンがきいているので、高温に対する不快感はゼロであったが、窓越しに差し込める陽光に、気温の高さが窺い知れるというものだった。

「ふぁああ…。良く寝た。」
 乱馬は大あくびしながら瞳を開いた。が、すぐ傍に違和感を感じた。柔らかな感触。
「なっ!」
 そのまま固まった。あかねが己のすぐ目と鼻の先で、すやすやと健やかな寝息をたてながら、目を閉じていたからだ。彼女を包み込まんばかりに、身を寄せ合っていたのだ。
 ギシギシと身が固まるのを、自覚しながら、ドキドキ高まる胸の鼓動を押さえ込もうと、必死だった。これが男の身体だったら、朝から貪り食らいついていたかもしれない。そんな、軽い目眩を覚えながら、凝視せずには居られなかった。

「う…ううん。」
 乱馬が起き上がったのに気付いたのか、それとも、カーテン越しに注がれる太陽光に眩しさを感じたのか、あかねの瞳がゆっくりと見開かれた。

「よっ!お、おはよ…。」
 ぎこちなく右手を上げて挨拶してみる。にこやかに笑っているつもりだが、口元が引きつってくる。
「あ…。おはよ。」
 あかねも、気まずさからか、恥ずかしそうに目を反らせた。

(か、可愛い…。)
 こみ上げてくる「想い」を必死で押さえつけながら、平常心を装う。ともすれば、寝起きのあかねの可愛さに、狼狽しそうなのを、ぐっと堪えた。慌てているとか、焦っているとか、あかねの前には絶対に晒したくはないし、悟られたくも無い。

「き、着替えてメシ…行こうぜ。」
 と促す。
「そ、そうね…。着替えましょうか。」
 床にしゃがみこんで、カバンから着替えを取り出す。
 ガサガサ、ごそごそ。互いに無口だ。何をどう話せばよいのかもわからない。気後れしそうな時が静かに流れていく。

「ちょっと…あんた。」
 あかねが溜まらず口を開いた。
「あん?」
 何だと言わんばかりにあかねを振り返る。
「あのさあ…。ちょっと、あっちへ行ってて欲しいんだけど…。」
 と洗面所のあるバスルームを指差す。
「何でだ?」
 咄嗟に尋ねていた。
「何でって…着替えるから…。」
「良いじゃん。今は女同士なんだしよう!」
 そう答えた乱馬に、剣幕が飛んだ。
「何、バカ言ってるのよ!あんたが良くっても、あたしは困るの!」
「どうしてだ?」
「どうしてって、あんたは元は男なんでしょうが!あたしの着替えを見たい訳えっ?」
 金切り声だった。
 そうだった。身体は女体化していても、精神は健康な男子そのもの。
「ご、ごめん!悪い!俺が男なの、忘れてたぜっ!」
 そそくさと、チャイナ服を持つと、ドアの向こう側に消えた。

「たく…。もうちょっと、気を遣いなさいよねえ…。」
 真っ赤に顔を染めながら、あかねが着替え始める。
 ブラジャー姿など、いくら許婚でも、早々見せられるものではない。相変わらずの鈍い男に、はああっとため息を漏らす。それだけ、己は異性を感じさせない存在なのかと、疎むことも有る。

 そんな朝の騒動を越えて、二人、朝食が準備されているという、ラウンジへと上がる。一同が会して、朝の食事だ。
「へえ、しっかりと朝ご飯なんだ。それも、洋食の。」
 出されたのはパンや玉子料理。それからスープやシリアル、フルーツといったオーソドックスな朝食メニュー。これに、フレッシュジュースと珈琲が揃えば完璧だ。
「何か、人数が足りねーみたいだけど…。」
 辺りを見回して、乱馬が言った。
「ああ、凛華ちゃんが居ないのよねえ。」
 と橙子が答えた。
「夜更かししすぎて、朝、起きられなかった口かあ?」
「そうみたいね…。」
 それはそれで無理もない話しだ。昨夜は何だかんだと言っても、それぞれが部屋に戻ったときは日付が変わっていた。それから倒れ込む夜に朝まで眠ったとしても、子供には短い睡眠時間だ。
「ちょっと具合も悪そうだったわよ。だから、もう少し寝てなさいって、置いてきちゃったんだけど。」
 と、橙子が言った。
「後で食事は僕が部屋まで持って行きますから。」
 給仕している紫苑が、そう言いながら笑った。

「ねえ、紫苑さん。」
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど…。」
 女子大生トリオが紫苑を引き止めた。
「何でしょう?」
 にっこりと微笑んで、紫苑が大学生たちの傍で立ち止まった。
「携帯電話が使えないのよ。」
「あたしもなの。昨夜から何度も、友達にメールしようとしたんだけど、さっぱり繋がらないのよねえ。」
「ウチもそうやねん。三人ともあかん、っつうことは圏外なんやろか?」
 女子大生たちはそれぞれ携帯電話をかざしながら、カタカタやっていた。
 今や、携帯電話無しでは生活できないくらい、若者を中心に普及している。
「ああ、それでございますか。ここは海の孤島。辺境の地にございますから、携帯用のアンテナが近くには無いんで、繋がりにくいのですよ。」
 立浪が横から割り込んできた。
「えええ?」
「うっそぉーっ」
「参ったなあ…。」
 三人三様にリアクション。
 さすがに、現代っ子だ。携帯が使えないというのが、信じられない様子だった。
「正式オープンまでにはアンテナをこの建物の屋上に建てようと思っております。 いえ、本当のところを言うと、間に合わなかったんです。特に、電波関係の施設は。工事がかなり押してしまいましてねえ…。申し訳ありませんが、今回のツアー中の携帯電話の使用は諦めてください。」
 と、紫苑がなだめる。
「仕方ないか…。」
「せやなあ…。無いものねだりしてもなあ…。」
 ふううっと女子大生たちの口々からため息が漏れた。

「それよりも、天気も良いみたいですし、午前中は屋外のプールへどうぞ。」
 とにっこりと微笑む。
「プールだってえ?んなものがあるのか?」
 驚いた乱馬に紫苑が答えた。
「ええ。こんな断崖絶壁ですから、海に下りることはできません。ですから、せめても、絶景を見ながら、プールで泳ぐ…そういう趣向もありかと思いまして、ラウンジの向こう側から行けますよ。」
「海端に来て、プールねえ…。」
「あ、でも、水は海水です。真水を作って入れるよりも、目の前の海の水を利用した方が簡単ですから。」
「海水プールなのかよう…。」
 二度びっくりだった。
「でも、困ったな…。水着なんて持って来てないわよ。」
 と千秋が言った。
「裸で泳ぐのもええかもよ。客はあたしたち以外に居らんし…。」
「そうねえ…。裸でプールで泳ぐのも一興かしらん。」
「女同士だったら、温泉にでも浸ってる気分かもねえ…。」
「じ、冗談じゃねーぞ!俺は女の裸なんか見たくねえぞ!」
 身体は女でも、意識は男だ。裸の女に囲まれて泳ぐなど、できるはずもあるまい。
「あんた、また、馬鹿なことを口走って!」
 あかねが慌てて、乱馬を止めに入る。
「同調しろとまでは言わないけど、とにかく、落ち着きなさい!」
 となだめすかす。

「はははは、水着なら、ちゃんとご用意しておりますよ。」
 立浪が言った。
「この夏の新作コレクションを幾つかセレクトしてご用意させていただいております。サイズも、いろいろございますから、是非、着用して泳いでください。無論、無償で、ご使用後はお土産に差上げますよ。」

 その言葉に、一同は色めき立つ。

「わああ、サービス良い!」
「是非是非、水着を着て泳がせてください!」
「お食事が終わりましたら、上のラウンジにお越しください。ご用意しておきます。」
 と立浪が言った。

 女という生き物は「サービス」とか「ただ」という言葉が大好きなのか。乱馬は小首を傾げながら、他の婦女子たちを見詰めた。

「婆さんはどうする?」
 乱馬が尋ねる。
「そうねえ…。私は泳がずに、水際で良いわ。今更、水着なんていうのも、肌年齢が、日焼けを許さないでしょうから。」
「無難な判断だな。」
 あかねには聴こえない声で、ぼそっと、また、失礼な言動。だが、婆さんは笑うだけで、不機嫌にはならなかった。



「うわああっ!」
「絶景かな、絶景かな!」

 煌々と輝く太陽を頭上に、目の前には海。日本海が眼下に広がる。風光明媚というよりは、ただ、広がる大海原。太平洋の荒波とはちょっと違う、北方の海だ。だが、この季節、日本列島はどこへ行っても暑いことには変わりなく。

「でも、こーんな海に近い場所にプールやなんて…。贅沢やわあ。」
「しかも、海水を使ってるんでしょう?ほら、真水よりも軽く浮けるわ!」
 大学生たちが水着ではしゃいでいる。
 砂浜がないのが少し寂しかったが、天蓋にあるプールはそれなりに、特別な気分を味わえた。
 あかねはしっかり、浮き輪持参。水着と共に置いてあったのを、ちゃっかりと持って来た。カナヅチの彼女にとって、浮き輪は水泳時の必需品だ。それを、胴回りにすっぽりとかぶって、バチャバチャと水際を楽しんでいる。
「たく…。そこまでして、水を楽しみてえかなあ…。」
 傍をつかづ離れず、乱馬がすいすいと泳いでいる。
「うるさいわね!あんたにカナヅチの心情なんて、わかんないでしょう!」

「何や、あかねちゃん、泳がれへんのんか?」
 と関西弁で桃代があかねに声をかけた。
「え、ええ…。恥ずかしいんですけど…。」
 あかねがにっこりと微笑んだ。
「教えたろか?泳ぎ方。」
 そう、言葉を手向けたが、それを脇から乱馬が口を挟んで止める。
「やめときなって!こいつのカナヅチは筋金入りなんだ。どんなに巧みに教えても、絶対に泳げやしねえ。」
「何よ!その言い草っ!」
 案の定、あかねがヘソを曲げる。
「だから、泳げるなら、とっくに泳げるようになってるっつーの!ったくうっ!一学期のプール授業でも全然まともにならず、高校のプールをぶっ壊したのは、誰だっけかな?」
 ちろっと冷たい視線をあかねに投げる。
「あれは、あたしだけの仕業じゃないわよ!ひなちゃん先生や校長先生だって!」
「はん!屁理屈こねるなよ!おめーの特別授業のせいで壊れたんだぜ!あれは。」
「そ、そんなに激しい特別授業やったんか?」
 横から、興味深げに桃代が尋ねた。
「ああ。プールサイドまでひび割れガタガタだし、水は抜けちまうわで、二学期もプール授業ができるかどうかの瀬戸際だな。あれは。」
「ちょっと想像できないなあ…それ。」
 汗がたらりと流れ出す。乱馬はあかねに向き直って言った。
「わかってっか?ここは学校じゃねーの!確かに、あれは校長やひなちゃん先生も絡んでの上だったから弁償しなくても良かったけどよ、ここの場合は違うぜ!弁償するとなると、物凄い額を請求されるぜ!それでも良いのかよ?」
「……。」
 あかねは悔しそうに黙り込む。
 ここが海であれば、壊すだの壊さないだの、あまり細かい事は気にしないが、確かに、天蓋プールだ。壊すわけにはいくまい。
「だから、泳げるようにコーチしてもらおうだなんて、思うな!せいぜい、浮き輪でぽっかり浮いて、楽しむ程度で我慢しとけよ。」
「わかったわよ!泳げるようになろうだなんて、一切思いません!いーだ!」
 プイッとあかねはソッポを向いて、浮き輪片手に再び、プールへと浸った。その脇を桃代が水へ飛び込む。水飛沫が上がって、きらりと光った。あかねの浮き輪がふわふわと、桃代がたてた波に揺れて動く。
「乱子ちゃんは泳がないのぉ?」
 水の中から碧が呼び立てた。
「あ、俺、良いです!あんま、泳ぎたい気分じゃねーし!」
 と返した。
 そうなのだ。広い外海と違って、ここは溜まり水。しかも、煌々と照らしつけてくる太陽光で、水の温度はかなり高くなっている筈だ。
 そう、プールの水の温度によっては、身体が反応してしまう可能性が高いのだ。つまり、水を温水と身体が判断すれば、男の身体に戻ってしまう。そうなれば、不味いだろう。苦汁の判断だった。
「俺、プールサイドで身体焼いてます。」
 そう言いながら、熱くなった水際に腰をかける。
 バシャバシャと水飛沫を上げながら、あかねが碧と桃代、千秋の間に混じって泳いでいる。その脇をすいーっと気持ちよさげに橙子が背泳しているのが見えた。
 
「やれやれ…。不便な身体だぜ…。」
 悪たれ口をたたきつつ、乱馬はふっとため息を吐き出した。

「ここ、良いかしらん?」
 乱馬の脇に、鈴音婆さんがやって来て座った。日除けの白と青のパラソルが、太陽光を遮る。太陽光の直撃を避けるように、婆さんは長袖のアロハシャツとズボンをはいていた。勿論、サングラスとサンバイザーも忘れていない。完全防備のリゾート客だ。
 ベンチシートの上に置かれたロングチェアーに横たわるように座り込む。
 婆さんは、泳がないで、完全に見学を決め込んだようだ。
 立浪が気を利かせて、傍らのテーブルに氷が入った飲み物を置いてくれた。オレンジ色が涼やかに見える。が、回りの気温が高いためか、氷が溶けて、カランと音をたてて崩れる。
「ホント、あなたたちって仲が良い恋人みたいねえ。乱子ちゃんは、何かとあかねちゃんの世話をやきたいみたいだし…。ねっ。」
 婆さんは意識的に乱馬をじっと見て言った。
 一瞬、乱馬の肩がぎくっと動いた。
「こ、恋人だなんて、そ、そんなこと、ありえないでしょう?嫌だなあ、鈴音さんったらあ。」
 と、わざと女の子らしい甲高い声で言ってみせる。
「ほら、そうやって、はぐらかそうとするところが、とってもミステリアスなのよねえ…。本当は、あかねちゃんの事が好きなんでしょう?乱子ちゃんは。」
 ぐいっと迫って来る、婆さんの円らな瞳。このまま見詰められていると、魔法にでもかかりそうなそんな気がして、思わず、意識的に視線を外してしまった。
「うふふふふ。思ったよりも、ずっと素直ねえ…。乱子ちゃんったら。わかりやすいわ。」
 と笑った。
「か、からかわないで下さい!」
 そう言い張るのが精一杯だった。
「別に、からかってなんか居ないわよ…。ちょっと、忠告しておいてあげようかと思っただけ。老婆心からね。」
 と、ウインクする。
「ちゅ、忠告?」
 穏やかでない言葉が吐き出されて、乱馬は怪訝な顔を婆さんに手向けた。



二、

「そーんな恐い顔しないの!実は、私はねえ、占い師なのよ。」
 と、また、コアな言葉が鈴音婆さんの口から飛び出した。
「う、占い師だあ?」
 ポカンと口を開けて、乱馬が婆さんをまじまじと見返した。文字通り、占いで生計をたてているようだ。
「勿論、プロよ。ええ。これでも、その道じゃあ、ちとは名の知れた占いばばあなのよ。私。」
 占い師と言われても、どう、言葉を返せばよいかわからず、乱馬は、ただただ円らな瞳を見つめ返すだけだ。婆さんの形からは、占いの「う」の字も出てきそうも無い。
「でね、ちょっと、気になって、あなたの事を占ってみたんだけど…。」
「は、はあ…。」
 別に占って欲しいと頼んだわけではない。気のない返事を返した。
「はっきり言って、あなた、この旅行中の運勢は、最悪ね。」
 きっぱりと婆さんの口が言い切った。
「なっ…。」
 あまりに、きっぱりと即断されたので、二の句がつげない。
「女難、水難、あらゆる災難が怒涛の如く、あなたに押しかけてくるわねえ…。」
 そう言いながら、婆さんはごそごそっと懐を探って、何かを出してきた。
「だから、これ。」
 そう言いながら、乱馬の鼻先に「お守り袋」を取り出した。キンキラの金糸が入った真っ赤なお守り袋。中央には「安産」と書かれている。
「おい!何なんだ?このお守りみてえなのはっ!」
 受け取るのを躊躇しながら、乱馬が言い返す。
「お守りよ。」
 婆さんはにっこりと微笑みながら言った。
「だから、何で俺に安産のお守りなんだよっ!まさか、こんなふざけたお守りを俺に売りつけようだなんてこと…。」
 唾を飛ばしながら、乱馬ががなる。こういう、押し売りはごめんこうむりたい。
「古代から女性のお守りは安産と決まっているでしょう?」
 と婆さんはにべもない。
「だからあっ!俺に安産は関係ねーっ!子供なんか産めねのーっ!」
 はあはあと呼吸が荒くなりながら、言い切る。

 暫く、間合いがあった。真夏の太陽が、煌々と二人を照らしつけてくる。

「ふっふっふ、語るに落ちたわね。」
 鈴音婆さんは、再び、にんまりと笑った。
「ああん?」
 何が言いたいのか、さっぱり読めずに、乱馬が問い返す。
 長い間炎天下に晒されて、婆さんの言動がおかしくなったのかとさえ、思った。
「あなた…どうして、子供なんか産めねーって答えたのかしらねえ?」
 と意味深に笑う。
 思わず、息を飲んだ。
 身体が女性化しているとはいえ、内臓全てが女性化しているか否かは見えないからわからない。泉に落ちた者の姿を借りるだけだから、子を成せない可能性の方が高い。いや、乱馬は己で子供を産み落とす、などということは絶対に考えたくなかったろう。
「言ったでしょう?私はその道じゃあ、ちっとは名の知れた占い師だって。…ふふふ、ずばり、あなたは女じゃない。」
 ガンガンと真上から照らしつけてくる太陽に、少しばかりくらっとなった。
「お、俺は、お、女でいっ!ほれ、胸だって、あらあっ!」
 と、水着をガバッとめくって見せる。そこに現れたのは、豊満な胸。
「ま、見てくれは一応、女体だけどね…。いろんな占い道具で伺ってみたけれど、どの占いも必ず言うのよ。あんたは女じゃないってね。」
「だったら、これをどう、説明してくれるんだ?」
 わざわざ、女体をむき出して見せる。
「ふふふ、見てくれは女よね…。でも、果たして、心まで女なのかしら、さてお立会い。」
 すっと、婆さんは乱馬の心臓辺りを指差して言った。
 乱馬の肩がぎくっと競りあがる。心音も高鳴った気がする。
「見てくれがどうであれ、あなたは女ではない…。私の占いは、どれもそう結論付けてくれるわよ。」
 乱馬はびくびくしつつも、鈴音婆さんの言葉を受けて立った。
「そこまで言うのなら、その、占いっつうので俺の正体、わかってんじゃねえのか?」
 とカマをかけた。どうせわかるわけはない、と高を括ったのだ。
「そうねえ…。あなたのその天道乱子ってのが本名ならね、もうちょっと筋道立てて占いできるんだけど…。本名の文字を一文字しか使ってない…だから、残念ながら、その偽名のままじゃあ、私が占えるのはここまでね。」
 意味深な言い方だった。まるで、あなたのことは全てお見通しよと言わんばかりに。
 乱馬はぐうの音も出なかった。本名でないことまで、占いで見透かされているというのだろうか。何よりも、本名の一文字しか使って居ない…そんなコアな情報をどうやって、手に入れたというのだろう。
「何なら、本名を教えてくれたら、もっと詳しく占ってあげるわよ。例えば、あのあかねちゃんって娘との行く末とか…。」
「いや…。要らねー。占いで将来が見えたって、面白くもなんともねえ!第一、俺は占いなんて信じたかねー!」
 と、突っぱねた。

「そうね…。占いはあくまで「指針」。待ち構える困難を乗り越える手立てを見つけ出す一つの方法でしかないわ。…。あなたのように、何も聞かないのも有る意味、正解だわね。」
 鈴音婆さんは、にっと笑った。乱馬よりも人生経験が長い分、人間も長けているのだろう。

「だからこそ…。来るべき災厄に備えて、これをあなたに持っていて欲しいのよ。あ、もちろん、差上げるわ。ビジネスで言ってる訳じゃないから。」
 そう言いながら、振り出しに戻って、安産のお守りを差し出した。そして、半ば強引に乱馬の掌に、それを置いた。
「騙されたと思って、持っておいて…。あなたが、あの娘を守りたいって強く思っているのなら。」
 と付け加える。
 あかねを守りたい…。その思いは他の何にも譲れない。ましてや、得体の知れない水晶玉の件もある。乱馬がそれ以上、否定しなかったのは、心に引っかかる物があったからだ。
「なあ…。もしかして、婆さん…。その占いって奴で、意識的に昨晩、先に部屋へ帰ったのか?」
 と、率直に尋ねていた。
 えっというような表情を、婆さんは一瞬手向けた。
 少しの間を置いて、コクンと頷いて見せた。
「もしかして、乱子ちゃん、あの水晶玉に、何か見えたんじゃないの?」
 婆さんは逆に問いかけてきた。
 まるで、己も見たような口ぶりで。
「あ、ああ…。あかねや他の連中には見えなかったみてーだが…。」
 隠していても、仕方が無いし、もしかしたら、アレが何だったのか、わかるかもしれないと、鈴音には本当の事を言った。
「そう…。見えたの…。ってことは、やっぱり、あなたはただの女の子じゃないってことね。」
 と、小さい声で言った。
「なあ、何で俺にだけ見えて、他の奴らには見えなかったんだ?」
 乱馬は思わず問い質していた。
 暫く、鈴音婆さんは考え込む素振りを見せた。そして、言葉を選びながら、話し始める。
「私はあの場へ居たわけじゃないから、はっきりとしたことは言えないけれど…。あの水晶玉からは禍々しい霊気のようなものが流れていたことだけは確かね。」
 と言った。
「禍々しい霊気だって?」
「しっ!声が大きいわ。」
 鈴音婆さんは乱馬を促した。どうやら、他の連中には聞かれたくない話らしい。
 大声を制されて、乱馬はぐっと詰まった。確かに、ここのホテル関係者に聞かれては不味かろう。
「私が部屋に戻る前に、垣間見た光、あの月明かりでぼんやりと浮かび上がった水晶玉の霊気は、常識範囲を超えていたわ。…それだけは確かだわね。」
 と言った。
「禍々しいものか…。確かに、清々しいものではなかったな…。」
 乱馬の脳裏に、あの、不気味な半開きの瞳が浮かび上がる。もし、あれが半開きではなく、真っ直ぐに見開かれていたら、果たして平常心を保つ事ができたかどうか。自信は無かった。
「とにかく、このお守りを持っておきなさい。きっと、あなたの身を守ってくれる筈よ。」
 鈴音婆さんは、乱馬へ言い含めた。
「何でそんなに親切にお節介をやいてくれるんだ?」
 お守りを見詰めながら鈴音婆さんに問いかける。
「そりゃあ…。何か事が起きれば、私だって巻き込まれる公算が高いもの。」
「けっ!結局は己が身のため…でもあるわけかよ!」
「まあ、そういうところね。あなたに降りかかる災難は、全て、この島全体にふりかかる厄難でもある…。だから、その厄難を避けることは…。」
「己の身の保全もできるっつーことか。」
 そう言いながら、乱馬はお守りを手に取った。
「ま、いっか…。確かにあの水晶玉には何かある…。それから、ここに招いたあいつらの腹にも何か一物有りそうだしな。ありがたく、受け取っとくよ。」
「そうそう、素直な子は大好きよ。」
 と婆さんは笑った。
「別に、婆さんに好かれたって、何の得にもなんねーけどな。」
 にっと、笑って、そのお守りを懐へとしまい込む。
「肌身離さず、持っておきなさいね。もしもの時に、必ず役にたつことを保証するわ。」
「保証ねえ…。」

「さて…。新たな客人が、この島にお出まししたみたいだわよ。」
 婆さんは笑って、沖合いを指差した。
「あれは…。」
 小さなポンポン船がこちらへ向かってやってくるのが見えた。見覚えの有る船体。
「昨日、私たちが乗せていただいた、次郎太さんの船ね。」
 婆さんが笑った。
 そういえば、新鮮な魚を届けて欲しいと、交渉していたのを思い出す。急に予定していた漁師からキャンセルを食らったとか何とかで。
「これで、役者が揃ったわ…。それから、舞台設定も。」
「舞台?」
「ええ。余興に舞台設定はつきものでしょ?」
「余興の舞台ねえ…。何か、いけ好かねーなあ…。」
「ほら、見て。」
 婆さんは皺で覆われた指先を、すっと次郎太のポンポン船の方向へ手向ける。
「あん?」
 言われるがままに、海へと目を凝らす。
「あの、白い高波。それから、激しい海流。」
「ああ、昨日もあの辺りで船が思いっきりぐらついたな。」
 今、まさに、次郎太の船がその辺りの荒い海域に浮き沈みしている。少しばかり、苦労して高波を乗り越えようと足掻いているようにも見えた。
「他の海域は静かな海なのに、あそこだけは荒いでしょ?」
 と、婆さんが得意そうに言った。
「それがどうしたんだ?」
「ふふふ…。あれはね、「結界」なのよ。」
「け、結界だあ?」
 唐突な言葉に、再び声が荒れた。
「ほら、また…。声が大きい。」
 と婆さんが笑いながら説明した。
「あの荒い海の波は、まさに「結界」なの。こちらとあちらを隔てるね。海は一見穏やかだけど、ちょっとした海流の流れや海底の地形などの影響で、流れが出来るし、渦巻きだって巻くわ。わかるわよね?」
「ああ、何となく…。」
「でも、それが人為的に作られたものだとしたら?」
「人為的に作るって…どうやって?」
「呪力よ。」
「じゅりょく?」
「ええ、呪術、方術の類で人為的に作り出す結界。」
「まさか…。あの海流がか?」
 乱馬は俄かに信じられなかった。呪術など、あまりに非科学的すぎる。
「世の中、科学だけで割り切れるものじゃないでしょ?…恐らく、あなた自身が一番それを良く知っていると思うけれど。」
「あ…。」
 そうだった。己の身体は、その典型例だ。どんな理屈をこねられても、水と湯で男と女を行き来しているではないか。
「婆さん…。本当に俺の正体、知ってるのか?」
 と思わず、尋ねていた。
「……。御し難いわねえ…。私の能力じゃあ、手に追えないようだもの、あなたという存在は。」
 と婆さんは含み笑いをした。
「でも、何のために「結界」だなんて作ってんだ?」
 乱馬は呟くように言った。
「私にも詳らかなことはわからないけれど…。結界をはる行為には、聖域とそうでない場所とを区別する意味が一番強いかもね。ほら、神社にある鳥居なんか、その一例ね。昔は血の触りがある女性は鳥居をくぐる事すらできなかったわけだし。」
「へええ…。」
「墓場で言えば六地蔵ね。墓守の意味もあるけれど、そこから先は死人と対峙する世界だって一種の境界線。その番人が六人の地蔵ってわけ。」
「じゃあ、婆さんは、あの高い白波や渦巻きが、結界だって言うのかよ。」
「多分ね…。」
「誰が何のために結界なんか張ってんだ?」
「恐らく、私たちを招いた紫苑さんたち…。案外、あの水晶玉が成せる技なのかもしれないわねえ…。あれだけの妖気を放っているんですもの。結界なんて楽勝に作り出せるんじゃないかしらね。ほら…。船が通り過ぎた後を見て御覧なさいな。」

 乱馬は言われるままに、目を凝らした。
 視力は良い方なので、ある程度、波の動きはわかる。

「げ…。さっきよりも海流が…。」
「流れがきつくなったでしょう?」
 と鈴音婆さんが、得意げに言った。

 彼女が指摘したとおり、さっきよりも渦の個数が多くなったし、白波も高い。これだけ離れたところから確認できるのだ。まるで、船が通り過ぎるのを待っていたかのように、滄海が意志を持ったように、不気味にうねり始めるのが見えた。

「あれが、結界…。」
 乱馬は呆然と荒ぶる海を見た。
「あの結界を越えて帰還できるか否かは…多分、あなたの腕にかかっているわ。乱子ちゃん。」
 婆さんはにっと笑った。
「けっ!面白いじゃねーか。何のために俺たちを結界の中に連れ込んだのかは知らねーが…。」
 ぐっと乱馬は握りこぶしを作った。
「もっとも、占いだって外れることはあるわ。でも、何かが起こるわ。今夜辺りから。ううん、もう始まっているかもしれない。」
「婆さんは未来が読めるのか?」
 乱馬は真顔で尋ねた。
 その問い掛けに、婆さんは大きく首を横に振る。
「占いはあくまで指針を指し示すだけ。全てが見通せる訳じゃないの。人は無限に可能性を秘めているの…。だから、完全に未来を読むことは出来ない。」
「そっか…。己の手で拓いていくしかねーか…。上等だ。」
「とにかく、待つのよ。こちらから仕掛けることはできないわ。相手の正体と目的がはっきりするまではね。」
「わかった。先走りはしねー。」
「必要に応じて、あなたを助けるから、安心して。」
「心強いんだか、なんだかよくわかんねーけどな。」
「まずは、紫苑さんたちが何を企んでいるのか。見通しをつけなければ…。そのためには、もう少し私に時間をちょうだいね。」
 と婆さんはにっこりと微笑んだ。
「ああ、せいぜい、期待してるぜ。」

 何か、婆さんに上手く乗せられたような気もしないでないが、紫苑たちが水晶玉の魔力を元に、何かを企んでいることだけは確かだ。
(あの婆さんだって、怪しいものだぜ…。)
 そう思ったが、ここは乗せられておく以外に、手立てはない。
(ま、いいか。)
 乱馬はぎゅっと安産のお守りを懐へと収めた。
 ここから無事に帰還できるように、努力をするだけ。
 そう腹をくくった瞬間でもあった。


三、

 次郎太は少年を一人、浜から連れて来た。
 あかねたちと同じく、高校生。名は蒼太(そうた)と言った。
「夏休み、こいつの親に頼まれて、仕込んでやってんだ。」
 と次郎太の隣で、せっせと積んできた魚を運んできた。
 ちょうど、プールから上がって、昼食の時間にさしかかっていたので、一緒にということで、次郎太も蒼太も荷物運びに一段落つくと、ラウンジに上がってきた。

「俺たちの分まで、用意していただいて、恐縮です。」
 と次郎太が笑った。
「ほれ、おまえも礼を言え!」
 とポンと蒼太の頭をはった。
「あ、ありがとうございます。」
 今風の若者らしく、ぼそぼそっと声を出す。
「いえ、一人増えるも二人増えるも、大して変わりはないですから。」
 と執事の立浪が受け答えた。
「しかし…。いつの間に、こんなきれいな館が出来たのか…。」
 次郎太と蒼太は物珍しそうにき、キョロキョロ辺りを見回す。
「魚はありがたく受け取りました。さすがに、活きが良い物ばかりですな。」
 立浪が改めて礼を言う。
「生憎、主人は席を外しておりまして…。後でお礼を差上げますので、暫くは、ここで客人と共に昼食を楽しんでくださいませ。」
 と立浪が言った。

「そういや、紫苑さん、居ないわねえ。」
 千秋がつまらなさそうに言った。

「紫苑様は直々、凛華さまのところへ昼食をお運びになって、あちらでお召し上がりになるときいております。」
 立浪は説明した。
「凛華ってあの小学生の子のことね?」
 橙子が尋ねる。
「昨日遅くまで起きていて、起き上がれなかっただけかと思ってたんだが…。病気か何かか?」
 と乱馬が尋ねた。
「医者に連れて行かなくて大丈夫なのか?何なら帰りの船で岸まで送ってやるぜ。」
 ひょっこりと次郎太が話に割り込む。
「ええ、そこまでどうこうというわけではなく…。一種のアレですよ。我が家が恋しくなったというか…。凛華さまはまだ、十歳ですから。」
 と立浪が含みを持たせながら言った。

 「そういうことか。」と一同、何となく納得した。

「もっとも、親元はなれて初めて泊まったのなら、ホームシックにかかっても不思議じゃないしね…。」
 あかねが言うと、
「お嬢様育ちなのかねえ…。何かもやしっ子みてえで、嫌だな…。あぐっ!て、てめー何しやがるうぅぅっ!」
 あかねは乱馬を羽交い絞めにして、次の句をつげないようにしながら、続ける。
「紫苑さんは、気を利かせた訳ね。優しいのねえ。あんたと、全然、違うわねっ!」
「るせーっ!やめろふっ!痛ひふぁねーか!」
「もっと痛くしたげようか?」

 ここまで来ると、夫婦漫才…いや、姉妹漫才だ。

「あんたら、ほんまに、おもろいわ…。Y本入ったら、売れっ子コメディアンになれるんちゃう?」
 と、桃代が笑い転げながら言った。

「でも、次郎太さん。」
 鈴音婆さんが、次郎太を見た。
「あなたって、全然、若狭の言葉遣いじゃないわね。もしかして、他所から来て、この海で漁師になった方?」
 と、ずけずけと尋ねる。
「あはは…。わかりますかねえ…。」
「わかるも何も、イントネーションが関東方面ですもの。」
 婆さんは、にっこりと微笑んだ。

(ちぇっ!このババア…。一筋縄じゃいかねーな。鋭すぎるぜ!)
 あかねに顔をしたたか引っ張られて、痛めつけられ、ヒリヒリしているのを我慢しながら、乱馬は婆さんを見返した。

「実は、最近、関東から流れ着いて、この辺りの魚場で漁師を始めたばっかりなんですよ。こいつと一緒に。」
 と、蒼太の頭をポンと叩いた。
「もしかして、息子さん…ですか?」
 と今度は橙子がずけっと訊いた。
「いや…。親戚の子…です。ま、いろいろ複雑な事情がありましてね…。一人前の漁師に仕込んでやってくれって、頼まれたのもあって、こうやって、学校が夏休みの間は鍛えるつもりで二人で漁へ出てます。
 あ、でも、俺は元々違う土地で漁師をやっていたもんで…漁そのものは初心者じゃありませんぜ。近海の魚場はだんだんと隅っこに追い遣られてますからねえ…。」
 少し憂いた表情を見せる。中年男の悲哀が、程よく艶っぽく現れる。
「流れ着いた土地じゃあ、結構、いろいろ気苦労があるんじゃありませんこと?」
 年齢を重ねた分、その辺りの苦労がわかるのだろうか、それとも、得意の占いで少しは背後が見えるのか、鈴音婆さんが、ポツンと言った。
「まあね…。渡世するためには、いろいろありまさあ…。特に、日浦の連中は、余所者は絶対に受け入れてはくれませんからねえ…。月浦の連中にも偏見はたーっくさんありますぜ…。でも、文句ばっか言ってても始まりませんっすからねえ…。海に繋がる仕事をしていられるだけで、まだ、俺は幸せ者でさあ。」

「何か、めっちゃ、泣ける話やんか…。」
「うんうん、感動した!」
 桃代と碧が頷きながら訊いている。

(たく…。一癖も二癖もありそうな、連中ばかり揃ってきた…っつう感じだな…。)
 乱馬は次郎太の方から視線をずらして、横のあかねと蒼太の方へと釘付けられた。
 後見人の次郎太の話など、聴く耳も持たぬのか、さっきから、蒼太が一所懸命にあかねに話しかけているのが気になったのだ。
 蒼太は、軽口を叩きながら、あかねにモーションをかけている。
 それだけでも腹がたつのに、あかねときたら、警戒心もなく、彼の軽口に応じながら、楽しそうに会話をしているではないか。
 傍耳を立てれば、本当に他愛の無い軽口だった。

「ねえ、どこから来たの?」
「東京よ。」
「へえ…。東京かあ…。魅惑的な響きだなあ…。俺なんか田舎暮らしでさあ。」
「東京って言ったっていろいろあるわよ。どっちかというと、ウチは下町にあるし。」
「下町かあ…。でも、都心には近いんだろ?俺なんか、都会っつうても小浜や敦賀という地方都市さ。」
 田舎言葉が恥ずかしいのか、変な関東言葉で立て続けにあかねと話している。あかねとあわよくば仲良くなりたいという、下心が見え隠れしているのは明らかだ。
(あんの野郎…。あかねも無警戒な…。たく!)
 乱馬の嫉妬心がムラムラと頭をもたげてきた。

「都会人ったって、この娘は田舎人よりも頑丈だし、力も強いわぁん!あんたが思っているよりも、よっぽどオカチメンコよ。」
 ぬぼっと二人の間に割り込む。とにかく、あかねと二人きりで良い雰囲気を作らせることだけは阻止せねばなるまい。許婚の意地として。

「何よ…あんた。いきなり。」
 あかねの語調が強くなる。乱馬が唐突に声をかけたことよりも、いきなり悪態を吐き出した来た事に腹をたてたのだ。
「その、オカチメンコって何なのよっ!」
「あら、知らない?器量に欠けた娘っ子っていう意味よ。あんたそのまんま。どえっ!」
 最後にあかねの鉄槌が乱馬に下った。顔を思いっきり肘で直撃されたのだ。
「ててて…。それがオカチメンコってんだ、バカ!」
「何ですってえ?」
 ゴゴゴゴゴとあかねの背後に、黒い影が燃え上がる。
「あんたねえ、いい加減にしないと、こうよっ!」
 
 ドッカンガラガラ…。ぷしゅーっ…。

 あかねの怒気の餌食となった乱馬が、床に叩きつけられた。

「あらあら、派手にやらかしてるわねえ…。女難、暴力事件…ってところかしら?」
 こそっと婆さんが乱馬に耳打ちした。

「あかねさんって、腕力があるんですねえ…。武道か何かやってるでしょ?身のこなしが素人には思えないなあ。」
 嫌がるどころか、瞳を輝かせながら、声をかけてくる。乱馬の予測では、あかねのオカチメンコぶりを目の当たりにして、蒼太は手を引く…筈だったのである…が…俄然、雲行きがあやしくなってきた。
「え、ええ…。これでも一応、武道家を目指して頑張ってますけど…。」
 ぼそぼそっと答える。
「すっげえ!俺も武道をやってんだ!ほら、漁師って体力勝負じゃん。腰に力を入れて気張らなきゃならんときもあるし、だから、空手やって、足腰鍛えてんだ。俺。」
 と、武道繋がりを強調し始める。
「へええ…。空手かあ。」
「あかねさんは?柔道?空手?それとも、合気道?」
「徒手系の武道よ。流派は無差別格闘流っていうの。」
「無差別格闘流?」
「ええ。柔道や空手、合気道などの徒手武道を全部併せ持った、激しい武道よ。」
「へええ…。すっげえなあ。武道をやる女の子って、どっちかというと、ブッサイクなのが多いけど、あかねちゃんはかわいいね。」

「なっ!」
 乱馬の顔がヒクヒクッと動いた。
 彼にとって「かわいい」とは、女性に対する最大級の褒め言葉である。それを、いとも簡単にあかねに向かって言い放つとは。

「ねえねえねえ、あたしも無差別格闘流の流派なの。あかねちゃんと同門よ!」
 と、再び二人の間に割り込む。
「あ、そう。君もやるの。」
 と素気無い答えが返って来る。乱馬のことなど、アウト・オブ・眼中である。
 それが更に乱馬に追い討ちをかける。
(こいつ…。あかねに好意、持ちやがったな…。)
 ピキピキと乱馬の脳内にひびが入った。
(絶対に二人きりにはしねーぞ!あかねは渡さねーぞ!)
 沸々と心に嫉妬心が芽吹く。あかねが彼になびくとは思えないが、彼にとってあかねは格好の恋のターゲットになり得る。己の中に男の血が流れるから良くわかる。あわよくば、ひと夏の恋のアバンチュールをあかねと…などと、下心が燻っているに違いない。
(あかねは鈍いし、無防備だからな…。)
 乱馬の嫉妬心はメラメラと音をたてて、心で燃え盛り始めた。




一之瀬的戯言
 地名や海の雰囲気は、想像で書き込んでおります。つまり「絵空事」であります。
 敦賀辺りは、学生時代に日帰りで泳ぎに行ったくらいです。原発の近所で泳いだのですが、そのせいか水がきれいな海であったと記憶しております。

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