第十五話 終焉

一、

 蒼い気炎をあげたまま、乱馬は、はっしと玄武を睨み上げていた。

 ゴオゴオと音をたてながら、蒼い炎は燃え盛り、ゆらゆらと陽炎のように、乱馬の身体をくゆらせる。

「あかねから手を離せっ!」
 噛み潰すように口から言葉を吐き出し、ゆっくりと乱馬は手を前にくべる。
 そして、一気に、蒼太目掛けて、蒼い気弾が飛んだ。

「うわああああっ!」
 あかねを襲う寸前の、蒼太の身体が、気弾をまともに食らって、天を仰いだ。
 ビリビリと感電したような、蒼白い光が、蒼太の身体を包み込むように強襲する。
「ぎやああああああっ!」
 蒼太は両手で頭を抱え込むように、その場で悶絶し始める。人間の身体など、一溜まりもあるまい。それくらい、激しい気弾だった。
 やがて、彼の胸元から、黒い玉が飛び出して弾けた。カランコロンと床に弾け飛ぶ。
 玉を弾き出された蒼太は、投げ出されるように空中から床へと叩きつけられる。そのまま、地を転げた。

「乱馬?」
 そのあまりの激しい攻撃に、あかねは気圧さた。
 彼を見返し、ぎょっとした。
 真正面に捕らえて映る乱馬は、みるみるその形相を変えていくではないか。
 乱馬では無い、別の人格が彼の中から染み出してくるように見えた。思わず、背中がゾクッと戦慄した。


 
『き、貴様…。な、何だ?』
 乱馬の気配が変わったのに気付いたのは、あかねだけではなかった。玄武もぎょっとして、彼を見据える。

『我、目覚めり…。この少年を傀儡に、汝と闘わん!玄武っ!』
 彼の口から、別物の声が響き渡った。
 既に、乱馬は「心(なかご)」に支配されていたのだ。
 穏やかさは微塵もなくなり、激しき蒼い戦士が乱馬の心へと湧き立つ。

『貴様…。そうか、貴様は蒼龍の…。』
 玄武はにやりと笑った。乱馬の中に目覚めた力の正体がわかったようだ。

『然り!我が名は蒼龍の戦士、心(なかご)』
 乱馬の口から声が漏れた。

『フン!蒼龍の手の者が、お前の中に潜んでいようとは…!笑止っ!』
 玄武が嘲笑った。
『蒼龍の手の者が目覚めたとはいえ、所詮は小者。玄武の黒水晶玉を後ろ盾に持つ、我が身とは、格が違うぞ。』
 玄武はしきりに畳み掛けた。

 にっと、乱馬の口元が笑った。
『弱き奴ほど、良く吠える…。』
 そう言いながら、玄武を挑発し始めた。明らかに乱馬の雰囲気ではない。別の何者かにとって変わられていた。

「乱馬…。あんた、一体どうしちゃったの?」
 あかねは傀儡貝に束縛されたままの、動かぬ体で、乱馬を見下ろした。
 明らかに乱馬が変だ。そう思った。

『ふん!たかだか、眷属の分際で、玄武を束ねる儂に挑もうとでも言うのか?』
 玄武が笑いながら、乱馬を見下ろす。

『ならば、試してみるか?我が、蒼龍の力を。』
 ゴゴゴゴと乱馬の立っている床面が、唸りを上げ始めた。このまま、ホテル諸共、崩壊してしまうのではないかという程の、地鳴りだった。

『ふふふ、そこまで言うなら、汝が技を放ってみよ!儂も容赦はせぬぞ!くふふふふ。』

 玄武が仁王立ちしながら、乱馬の前に立った。そして、傍に、あかねを束縛している傀儡貝を呼び寄せる。乱馬との合間にあかねを盾として、据えた形だった。
 乱馬は、あかねを巻き添えにしなければ、己を攻撃できない。
 玄武のしたたかな計算だった。
 愛する娘を盾にすれば、乱馬は本気で気弾を打てない。その間に、自分が、気の刃を、乱馬目掛けて振り放てば、間違いなく、乱馬を粉砕できる。そう思ったのだ。


『ふん!それで、我を牽制しているつもりか?』
 乱馬はにっと笑った。
 いやそればかりか、あかねが盾にされているにもかかわらず、すっと身構え、気を溜め始めた。

『馬鹿な!そのような強大な気を、こちらに向けて撃てば、この小娘も、無事では居られぬぞ!そんなこともわからぬおまえではなかろう!』
 と玄武が焦る。

『フン、その娘がどうなろうと、我が心(なかご)の心情には一切、関係の無い事。いざ!覚悟っ!玄武っ!』
 乱馬の手が玄武目掛けて、大きく突き出された。

 あかね諸共、玄武を粉砕するべく、飛び出した壮絶な「気弾」。

「来るっ!」
 あかねは、ぐっと歯を食いしばって、衝撃に身を晒した。このまま、この身が打ち砕かれようと、仕方のないことと、腹を括った瞬間でもあった。壮絶な気は、あかねごと、玄武を飲み込んでいく。

 白んだ光が、一同の頭上に降り注ぐ。まるで、小さな核爆裂でも起したような、閃光が弾ける。

 その瞬間、あかねの目の前に、影が飛び込んできた。影はがっしとあかねの身体を掴んで、傀儡貝から引き剥がし、空へと駆けた。
 まばたきをするくらいの、一瞬の刹那だった。

「くっ!」
 影はあかねを抱いたまま、激しく床に転げて倒れる。ゴロゴロとあかねごと、絡み合うように、投げ出された。鈍い打ち身の痛みが、全身をかけめぐったが、何とか無事に受け身を取った。

「鈴音お婆さん?」
 あかねはハッとして、己の身体に張り付いた人影に声をかけた。そこには、傷だらけになった、鈴音婆さんの姿があったからだ。身を挺して、乱馬の壮絶な気弾から、あかねを救ってくれたのである。
「ふう…。何とか間に合ったわね。もう少し遅かったら、アウトだったわ。」
 もうもうと砂塵を上げる中、婆さんが、埃でくすんだ顔をあかねに手向けてニッと笑った。
「たく…。予想はしていたけれど、あかねさん諸共、襲いかかるなんて…。心(なかご)の奴…。」
 婆さんは苦笑いした。

「乱馬は?玄武はどうなったの?」
 あかねは、上空を仰ぎ見た。あの気弾は、確かに目の前で弾け飛んだからだ。


『うぎゃあああああああああっ!』
 反対側で、空をつんざくような、激しい悲鳴が、空を轟いた。
 あかねを通り越して飛んだ、気弾が、容赦なく、玄武に襲い掛かっていた。そこに見えたのは、爆裂系の気弾ではなく、相手を粉砕するまで打ち続ける、持続型の気弾だった。
 乱馬の両手から伸び上がったゴオゴオと蒼い気の炎が、玄武の硬い体に襲いかかり、激しく燃えていた。バチバチと玄武の亀の硬い甲羅をも焦がす勢いだ。
 見ようによっては、彼の放った気が龍の形になり、玄武を食んでいるようにも見えた。



『その身を滅するまで焼き尽くせ、蒼き炎!』
 まだ、下から気焔を出し続けている乱馬が唸った。
 
 やがて、嫌な臭いが鼻をつき始めた。玄武の臭気がそのまま、やけ焦がれるような、生臭さ。思わず、あかねは顔をしかめて、鼻元と手で覆った。

 乱馬の気弾に焼き尽くされたのか、ずるっと甲羅から玄武の本体が抜け落ちて来た。
 どさっと、重い音がして、玄武の甲羅と中身が、バラバラに床に投げ出された。
 目は恨めしそうに、くわっと空を向いて見開かれたまま、呻き声をあげながら、玄武が斃れる。見ているだけで、気分が悪くなった。

「乱馬っ!」

 そう言いながら、乱馬に近寄りかけたあかねを、婆さんは引き戻した。

「ダメッ!あかねちゃん!彼から離れてっ!」
 その手を婆さんが、必死で引き戻した。

 その瞬間だった。

『ただでは死なぬ!タダでは死なぬぞっ!』
 玄武の呻き声が、湧き上がった。

 ドンッ!

 激しい気炎と共に、玄武の甲羅が爆発した。

「えっ?」
 あかねの目の前を、玄武の砕かれた甲羅が飛び散った。すっと、あかねの腕に片鱗が当たり、赤い血が滴り落ちた。
 その、痛みを感じるよりも早く、婆さんが飛び出してきた。
「危ないっ!伏せてっ!」
 婆さんは、立ち尽くすあかねの身を身体ごと引き倒し、地へと薙ぎ倒す。
「何っ?」
 倒れる刹那、己の目の前を、黒い霧がもわっと塊になって横切った。禍々しい嫌な感じがする。

「あれは、玄武の瘴気よ。吸い込んだら、無事ではいられないわ。」
 婆さんが、背後から説明してくれた。

 その黒い煙は、乱馬の方へと一目散で、襲い掛かった。
 まるで、意志があるかのように、乱馬の上で巡回する。そして、むわっと乱馬の顔に群がった。

「うわーっ!」
 溜まらず、乱馬が悲鳴を上げる。
 息ができないのか、天を仰いで苦しんだ。
 みるみる、顔色がどす黒く変化し始めた。

「乱馬あっ!」
 あかねが声を枯らして、叫んだ。身を乗り出して、彼の方へ行こうとするのを、婆さんが強い力で制した。
「ダメっ!あかねちゃん、あなたまで巻き込まれるわ!」
 婆さんが止めに入る。
「でも、乱馬がっ!」
 あかねは、婆さんを振り切ろうとした。だが、婆さんも必死であかねを引き止める。

「落ち着いて、あかねちゃん!彼を、彼の力を信じてっ!」
 その一声で、あかねの動きが止まる。
「信じる?」
「ええ、信じて。彼は負けない。そんなに弱い人間じゃないはずよ!ここは堪えて!この瘴気に押されて、彼の身体の中から、心(なかご)が弾け出すまでは!」
 婆さんが必死で、あかねを留めた。
「でも…。」
 
 
 ブスブスと煙る乱馬の口元から、蒼白い気が一気に抜け出てきた。
 それは、黒い煙を巻き込みながら、上へと舞い上がる。

『ククク、これが蒼龍の「心(なかご)」の力の源か?』
 黒い煙の中で、玄武の声が不気味に響いた。
『素晴らしい…。蒼龍の力が、こんなにも素晴らしいものだとは…。ククク。』
 黒い煙は更に上昇を続けた。
 月明かりが、さあっと天上から再び差し込めると、黒竜の形に形勢されていく。



「なっ!玄武が変化した?」
 呆気にとられたまま、あかねは、黒い竜を見上げて吐き出した。
「良いの…。あれで。」
 婆さんが傍らから、答えた。
「良いって…そんなわけないでしょう?」
「たった今、。「心(なかご)」に玄武が憑依したのよ。」
 婆さんは、冷静に言い放った。
「予定通り、玄武は「心(なかご)」を己の中に取り込んだわ。」
 鈴音婆さんは、嬉しそうに笑った。
「予定どおり?それって、どういう意味です?」
「ふふふ、私は、玄武が心(なかご)に憑依するように、仕向けたのよ。上手い具合に、玄武は心(なかご)の玉に興味を示してくれたわ。こちらの意図するとおりにね。」

 オオンと雄叫びを上げながら、黒い竜があかねたちを見下ろしていた。瞳は赤く燃え上がり、不気味に輝く。

『ククク…。気に入ったぞ。この新しき身体。』
 玄武が得意満面に、龍の中から声を吐き出した。
『これは面妖じゃ!ふふふ、わははははっ!』
 狂喜乱舞するかのごとく、玄武は暗闇を駆けている。



二、

「たく…。冗談じゃねーぜ。」
 傍らで、乱馬が、声を出した。
 黒こげになったチャイナ服を、脱ぎ捨て、黒ランニングとズボンという格好になった乱馬が、そこに立っていた。
 彼の発する気からは、狂気が抜け、いつもの乱馬のものと同じになっていた。
 心(なかご)を吐きだして、人間へと戻ったのだ。
 パンパンと黒こげの埃をはたき落としながら、むっつりとした表情を、婆さんへと手向ける。

「乱馬っ!無事だったの?」
 あかねは、恐る恐る、声をかけた。

「ああ、何とかな…。」
 そう言いながら、ズンと婆さんの方へ険しい瞳を手向けた。

「こらっ!婆さん!心(なかご)があんな暴れ竜だったなんて、俺は訊いてねーぞ!」
 乱馬は口元を拭いながら言った。良く見ると、乱馬の唇がいささか切れて、赤い血が滴り落ちている。
 
「仕方がないでしょう?話す時間もなかったしね。」
 婆さんはすんなりと言い切った。

「たく…。飛んだ食わせ物だな。俺を利用して、玄武と心(なかご)を融合させやがって…。」
 乱馬は婆さんを睨みつけながら、続けた。
「最初っから、玄武と心(なかご)の同化を狙ってやがったな?このババアっ!」
 
「あーら、よくわかったわねえ…。」
 婆さんはクスッと笑った。悪意があるのか無いのか、判断がつきかねるほどの、邪気のない答え方だった。

「どういうこと?乱馬。」
 あかねが小首を傾げながら尋ねた。

「この戦いの根源にあるのは、海魂同士のイザコザだよ。人間の入る余地なんてねー。それが証拠に、「心(なかご)」の奴、おまえをためらうことなく、攻撃したろう?」

「え?あたしを攻撃?」

「鈍いな…。さっき、俺の身体を乗っ取った「心(なかご)」が、お前を粉砕してもかまわねえって、本気で玄武目掛けて気弾を放ったろうが…。」

「あ…。」
 あかねも思い当たったようだ。

「婆さんが突っ込んでこなけりゃ、おめーは、確実にやられてたぜ…。あいつは、制御する気持ちなんて、これっぽっちも無かったんだからな。」
 憎々しげに、乱馬は天を仰ぐ。天では黒龍が乱舞しながら舞い上がっている。

「たく…。玄武といい、蒼龍といい、どっちもどっちじゃねーか!この、クソババアっ!」
 乱馬は、鈴音婆さんへと乱暴な言葉を投げつけた。

「そう…全部、わかっちゃったのね…乱馬君。」
 婆さんは笑った。

「わからいでかっ!心(なかご)の奴が俺の中から抜け去り際に…。まあ、良いや…。
 婆さんには、あとで、きっちり、落とし前付けてもらうとして…。
 いい加減、決着をつけなきゃならねーしな…。」

「決着?」
 尋ねるあかねに、
「あれだよ…あれ。まだ、戦いは終わっちゃいねーだろ?」
 そう言いながら、乱馬は上空を見上げた。

 そこには、心(なかご)を吸収した玄武が、こちらを笑いながら、見据えていた。白い月明かりに照らされて、不気味に輝く、黒い怪物。

「奴め、心(なかご)を取り込んで、余裕かましてやがる。」
 乱馬は、侮蔑の表情を手向けた。
「尻尾巻いて、逃げる?乱馬君。」
 鈴音婆さんが、にやにや笑いながら、問いかけて来た。
「まさか…逃げるかよ…。もっとも、逃げたってムダだってのは、婆さんだってわかってるだろ?」
「そうね…。海は荒れているし、結界だって閉じられている。どこにも逃げ場はないわね。」
 婆さんは答えた。
「たく…人が窮しているのに、笑いやがって…このばばあ。」
 乱馬は面白くない顔を手向ける。
「あら、窮しているようには、感じられないんだけど…。私は…。」
 婆さんは、乱馬へと吐き出した。

「何か、策でもあるの?乱馬?」
 追いつめられている割には、落ち着き払っている乱馬に、あかねは不思議そうに尋ねた。

「ああ、一つだけ、方法がある…。奴に、この技が効くかどうか…。一か八かの大きな賭けになるがな…。」
 乱馬は黒龍を睨みあげた。

「十中八九、効くと思うわよ…。私は。」
 婆さんが、隣で笑った。

「だろうな…あとは、奴を粉砕できるほどの威力を、今の俺が出せるかどうかだが…。」

「弱気ね…。あんたらしくもない。」
 その言葉を受けて、あかねが吐き出した。
「言ったな…この野郎。人の気も知らねーで…。楽じゃねーんだぞ!」
 とふくれっ面。
「なら、あたしも一緒に戦うわ。」
 あかねは、真っ直ぐに乱馬を見据えた。
「また、カヤの外に追いやろうだなんて、考えないでね!あたしはあんたの傍で、一緒に戦う。あたしだって、武道家のはしくれよ!」
 強い言葉だった。

 ふっと、乱馬の頬が緩んだ。

「わかったよ…。相手は、得体の知れねー化け物だ。どこへ逃げても逃げ遂せる訳じゃねーしな。
 その代り…俺の傍を、離れるなよ!」
 乱馬はあかねへと言った。
「ええ、死んでも離れないわっ!」
「馬鹿っ!死んだら、元も子もねーだろがっ!」
「馬鹿で悪かったわねっ!」

 あかねは、すっと乱馬の後ろ側に立ち、右手を彼の背中へ向けて差し出した。それから目を閉じ、軽く深呼吸を始めた。

「わかってんじゃねーか…。」
 乱馬が笑う。

「あたしを何だと思ってるの?あんたの許婚よっ!わかるわよ、このくらい。」
 あかねの声が弾んでいた。
「良いか、熱くなるなよ!」
「あんたこそ、あたしの気を無駄遣いしたら、承知しないわよっ!」
 そう言うと、己の気を乱馬へ向けて、送り始めた。
 清涼な気が、乱馬の身体を流れ始める。やがて、その気は、乱馬の中で、静かに高まり始める。

「私も協力するわね。」
 鈴音婆さんが笑った。
「そうだな…。婆さんはサポートしてくれ。俺の技の威力が高まるように…。」
 乱馬は言った。
「わかった、任せてちょうだい。」
 そう言うと、婆さんは、ブワンと、乱馬とあかねの足元が、蒼白く光った。
 鈴音婆さんが、何か、結界を発動させたのだ。
 八角形を基盤とした陣が、崩壊しかけた礼拝堂の床へと広げられる。
 その作動と共に、足元から冷風が、湧き上がる。その冷風は、陣を基盤に、ゆっくりと足元を回り始めた。

「やっぱり、婆さんは食わせ者だぜ…。たく…俺のやろうとしていることを、見抜いてやがる…。」
 ニッと乱馬は笑った。


『ふふふ、おまえたちが、何を仕掛けようとしているかは、わからぬが…。最強の身体になった、儂には効かぬわ!おまえたちを粉砕して、屍骸を食らってやる…。むろん、吾輩の攻撃で肉体が少しでも残っていればの話だがな…。』
 上空で、黒龍が笑った。

 月が雲間から顔を出した。
 嵐はどこかへ過ぎ去って行ったようだ。月に照らされて、波間が美しく揺れ渡る。

「けっ!窮鼠だって、猫を咬むかもしれねーんだぜっ!」
 乱馬は黒龍を焚きつけた。

『ならば、試してみよ!』
 黒龍は嘲りながら、乱馬へと言葉を投げつけた。

「もちろん、頼まれなくても、試してやらあーっ!行っけえーっ!飛竜昇天破ーっ!」

 乱馬は叫びと共に、拳を上へと突き上げた。

『フン、そんな気流、蹴散らしてやるっ!』
 黒龍は、己目掛けて飛んでくる、飛竜昇天破の烈風へ対した。
 たかだか、勢いのよい風…その程度しか思っていなかったようだ。

 飛ばされそうになりながらも、乱馬は、じっと、上空を睨みあげる。後ろ側にいる、あかねも、風を受けながらも、必死で、己の闘気を乱馬の背に当てた手から送り続ける。
 婆さんの結界は、二人が飛ばされないように、まるで磁石のように、足元をしっかり支えながら、冷気を増強していく。

 だが、乱馬が撃ち込んだ、気流は、黒龍の予想を反して、黒龍を飲みこまんばかりに、突き抜けて来る。さながら気の弾丸だ。
 真っ直ぐに突き上げた冷気は、辺り一面に、漂っていた、嵐の後の蒸し暑い空気を巻き込みながら、上空へと吹き上がって行く。

『馬鹿な!こんな小さな気弾なのに、何故、粉砕できん?こちらへ、真っ直ぐ、飛んで来るのだ?』
 黒龍が慌てふためいた。吹き飛ば¥せると高をくくった分、対処するのが遅れたのだ。
 即ち、上空で増幅した激しい渦巻から、逃れることができなかった。
 
『ぐ…。小癪なっ!』
 上空で、竜巻に巻き込まれながら、足掻くが、どうにもならない。長い尻尾の身体が面白いほど、竜巻に巻き込まれて、ぐるぐると回り始める。

「乱馬っ!もう一発!」
 あかねが後ろから叫んだ。
「おうっ!お見舞いしてやるぜ。俺とあかね…それから、婆さんの増強パンチが効いた、最強の気の塊を…。
 飛竜昇天破変形、飛竜爆炎破ーっ!」

 婆さんが敷いていた布陣から、ボッと紅い炎が上がった。その炎が、乱馬の飛竜昇天破の激流へ乗って、上空へと駆け上がる。まるで、迦楼羅が舞い上がるように、その炎は、黒龍を飲みこんで行く。

『畜生!何故だあ?何故、最強の俺様が、…こんな…こんな、小さな、人間如きにやられるなんてーっ!』

 ギャアアアアーッ!
 炎に包まれた黒龍が、断末魔の叫びを、月夜へまき散らした。

 乱馬もあかねも、それでもなお、気を緩めることなく、上空向けて打ち上げ続ける。

 激しい炎が、一気に燃え上がったかと思うと、やがて炎は小さくなり、そのうち、上空で消えてしまった。炎が消えた後に、黒龍の影も形も残ってはいなかった。

「勝った!」

 不意に乱馬の背後のあかねから、力がこそげ落ちたような気がした。
「あかねっ!」
 乱馬はハッとして、地面へとぶつかる刹那、あかねの身体を、己の腕に絡め取っていた。
 力尽きたのだろう。抱きとめたあかねは、気を失っていた。微かに、笑みを浮かべたまま。

「たく…相変わらず、無茶しやがる…。全ての気を使い切ったのかよ…俺の技のために…。
 少しは、気を残しておくもんだろーが…。馬鹿…。」
 たまらず、ギュッと抱きしめる。



三、

 上空から、大中小。三つの玉が、弾き出されて、地上へと落ちて来た。

 カラン…コロン…ドスン…。
 
 玉が転げる音が、三回響いた。
 水晶玉と「心(なかご)」。そして、「女(じょ)」と書かれた玉だった。
 かなり上空から堕ちて来たのに、傷一つついていなかった。
 
 婆さんは、おもむろに、その玉を、両手で拾い上げた。最初に小さな文字の書かれた玉を二つ、それから、水晶玉は抱え込む。

「玄武…あなたが心(なかご)の玉を飲みこんだ時点で、負けが決まっていたようなものなのよ…。
 乱馬君が打った技、飛竜昇天破は心(なかご)を打ち砕ける、数少ない技の一つだったから…。」
 と呟くように言った。

「やっぱり、婆さんは、俺の技の威力をあらかじめ知ってやがったのか…。」
 気力を使い果たしたあかねを、腕に抱きながら、乱馬は、婆さんの背後へと立っていた。

「あたりまえよ…。私は占いで何でも紐解くわ…。」
 婆さんは大事そうに水晶玉を抱えながら言った。

「占いねえ…。たく、一番肝心なことは、内緒にしやがって…。」
 乱馬は婆さんを睨みつけた。

「あら…何のことかしら。」

「すっとぼけるな!婆さん…いや…蒼龍の傀儡(くぐつ)と言った方が、しっくりくるのかな…。」

「ふふ、やっぱり、乱馬君は私の正体に気付いていたのね…。そうよ、私は鈴音ではないわ。鈴音の身体を借りているだけ…。」

「やっぱり、そうか…。」

「どこで気づきました?」

「俺に心(なかご)を預けた時から、何となくな…。そして、心(なかご)が俺の中で覚醒しやがったときに、確信に変わった。
 俺に心(なかご)を託したのも、この結末を望んでのことだったんじゃねーのか?婆さん…いや、角(すぼし)なんだろ?てめーは…。」
 
「そこまでわかったのね。いかにも、私は角(すぼし)。蒼龍の長。」

「蒼龍の親玉が何故、婆さんに憑依しているんだ?」
 乱馬は睨みつけた。
「そんな怖い目をしないで欲しいわね…。仕方が無かったのよ…。玄武は、我ら蒼龍一族の負の心が生み出した化け物。
 貪欲な人間と関わったために、穢された水晶玉が意志を持っていたが故に、生み出されてしまった海魂。」

「水晶玉が意志を持つだあ?」

「この水晶玉は、我ら、海魂の宝珠だった。我ら蒼龍の一族は、この水晶玉を清めながら、海の傍で暮らしてきたの。今より、遥か昔からね…。
 ある時、ふとしたはずみから、水晶玉が人間の手に渡ってしまったの…。今から、千年くらい前の話になるかしらねえ…。
 嵐で遭難した船が、我らが潜んでいた島の結界を破って流れ着き、月明かりに光っていた、この水晶玉を見つけてしまった。船夫は水晶玉を持ち帰り、この、岬に社を作って祀ったの。
 
 ほら、次郎太さんが話した、むごい話を覚えていて?女たちを囲って、ここで次々犯し、毒牙にかけた頭領様の話。」

「ああ…。気分が悪くなるような、昔話だろ?」

「ええ…。あれが、真実だったとしたら、どう?」

「おい…あれは真実だったのか?」

「ええ…。見せかけは寺として作られたお堂の内部に、水晶玉も仏像と共に安置されていたのよ…。
 そして、頭領様たちが繰り広げる血の饗宴を、間近で見ていたとしたら…。
 水晶玉に、女たちの怨念や悲しみが、染みついていった結果、水晶玉の中に魔物が生まれてしまった…。
 あなたも見たでしょう?黒水晶の中に浮かび上がった、不気味な瞳を。」

「あ…あの、まつ毛の長い、目の玉…か。」

「あれは、ここに囲われた女たちの恨みの権化。
 …そして、魔物が萌芽した頃、悪いことに、我が一族の中の者が、水晶玉を取り戻しに来てしまった。
 次郎太さんは「比丘尼」と言っていたけれど…それが、胡瑠姫だったの。」

「胡瑠姫って…あかねを乗っ取ろうとした、あいつか?」

「ええ…。
 胡瑠姫は私の妹だった。ある嵐の夜、絶海の結界を解いて、私は胡瑠姫に、水晶玉を取り戻してくるように頼んだの。
 水晶玉に禍の気を読んだから…。これ以上、人間界へ置いておくのは、良くないと、蒼龍の長として、命じたのよ…。
 それが悪かったみたい…。私の占いの未熟さが招いた最悪の結果だったわ。

 悪鬼の塊のような人間が巣食う流島へ渡った胡瑠姫は、当然の如く、人間たちに見つかってしまった。
 胡瑠姫を見染めた、頭領様は彼女を慰み者にしてしまったわ。でも、それがいけなかった。
 水晶玉の魔力と頭領様の強欲は、胡瑠姫を壊してしまったの。
 頭領様の名は、「イナミ」。これが何を意味するか、あなたには想像がつくんじゃないの?乱馬君。」

「伊奈魅と胡瑠姫…。紫苑と凛華か…。」

「こうして穢れた水晶玉の妖力に惑わされた胡瑠姫と伊奈魅の、さすらいの饗宴が始まったのよ…。
 胡瑠姫は伊奈魅の生気を吸って、命を長らえる。人間の肉体は永遠じゃない。だから、数年ごとに、その依代を変えながら…悠久の時をこの閉ざされた空間で生きて来たの…。
 百年に一度、若返るために、結界を解き、人間を惑い入れ、その気を貪る…。あなた方が体験したような、殺戮の饗宴が繰り返されて来たわ…。
 そして…この身体の薫さんの妹さんとその許婚も…その犠牲になった。」

「で?てめーは、何故、婆さんの身体に巣食ってやがる?婆さんに憑依したのか?」
 乱馬は険しい顔を手向けてにじり寄った。

「薫さんは、奴らに復讐するために、我らの島に棲みついたわ。
 昨晩、あなたに言ったこと…それが、彼女の真実偽りない決意だった。新たな悲劇を生まぬため、水晶玉を取り戻す…そして、奴らの計略を尽く打ち砕く…。
 彼女の占いの力は、教えた私をも凌駕するほどに成長したわ。
 でも、彼女は…志半ばで…その生涯を終えてしまった…。」

「死んだ…ってことか?」
 乱馬は真っ直ぐに、婆さんを見つめる。
 コクンと婆さんの頭が揺れた。

「私は…彼女が死んだ時、何迷うことなく、彼女の意志を継いだ…。何故なら…彼女を、薫を愛していたから…。」

「愛して…って、おまえ、まさか…。」

「この姿からは想像できないだろうが、私は男なのでね…。
 死の間際、薫は私に、全てを託したんだよ。身体ごと憑依して、遂げられなかった目的を果たしてくれないかとね…。
 無論、彼女の申し出を反故にはできなかった…。」
 さびしげに揺れる、婆さんの笑顔。

「さて…。太陽が昇りきってしまうまでに、我らは東海の島へ帰らねばならぬ。人間界の空気は、我らにとっては、刺激が強すぎる…。せっかく、邪気が抜けた水晶玉が再び穢れるようなことがあれば、今までのことが全て水の泡だ。
 君たちも、元の世界へ帰さねばならないし…。」
 本当の自分を吐露したせいか、婆さんの口調が、男っぽく、明らかに変わった。

「おい…。ここの状況はどーすんだよ?」

「何、心配は要らないよ…。
 このツアーに参加した人間は皆、無事だ。多少の怪我人は出たけれどね…。
 適当に記憶を改ざんして、我らの痕跡は消してしまうよ…。」

「記憶を消す…。」

「あまりに、強すぎる刺激だったろう?…君はどうする?記憶を残すか…それともきれいさっぱり消してあげようか?…できれば消した方が色々後先、楽だけどね。」

 少し間をおいて、乱馬は言った。
「俺の記憶は消さねーでいいや…。」

「あかねちゃんの記憶は?」

「こいつの記憶は…。消した方が無難だろうな…。」

「彼女の記憶は消してしまうのかい?せっかく、強い絆が生まれたようなのに…。」

「たとえ、あかねの記憶が無くなっても、絆は切れねーよ…。
 俺とこいつの絆は、そんな簡単に切れることはねえ…。今回のことで、良くわかった…。」
 腕に抱いたあかねの顔を覗き込みながら、ふっと緩む口元。
「なるほどね…。強い絆…か。」
 ふっと、婆さんは寂しげに笑った。
「おめーにだって、絆は存在してるんだろ?片割がこの世から消えちまっても、切れない絆がよー。だからこそ、おめーは、婆さんの意志を継いだんだろ?
 それに…胡瑠姫との絆も…。そいつを引き寄せるために、戦った…それで良いんじゃねーのか?」

「まあ、当たらずしも、遠からずだね…。私には私の事情があったからね…。で、本当に、良いんだね?君の記憶は消さずに、このままで…。」

「ああ…。一人くらい、婆さんの戦いぶりを覚えていた人間が居た方が、婆さんも満足するだろうしさ…。そうだろ?」

 そう語る乱馬の視線の先に、東雲の朝焼けが広がり始める。

 暗い夜は明け、新しい光が、海の傍から生まれる。









 ポンポン船が、岸へ向けて前進する。
 辺りの波は穏やかだった。
 中年の船頭とその助手の若い男が前後に分かれて操舵する。舵取りは次郎太。蒼太は最後部に陣どり、少し荒い波間を見る。
 肩を寄せ合って、乗りあっているのは、うら若き乙女たち。OLの立花橙子に学生の来島碧、川中桃代、藤峰千秋。それから、高校生の乱子とあかね。
 乱馬は女の姿に戻っていた。のどかが作ったあかねとおそろいのワンピースに身を包み、あかねの隣にちょこんと座っている。
 
「あーあ、散々だったわよねー。台風で、建物に被害が出るなんて…。」
「ホテルは、しばらく営業できないんだってさー。」
「無料招待だったから、文句は言えないか…。」

「まあ、人的被害が無くて、良かったべさー。お嬢さんたち。」
 次郎太が日に焼けた顔をほころばせて笑った。

 大学生たちと船頭のやりとりを聞き流しながら、乱馬はムスッと、白波を眺めていた。




 角(すぼし)は太陽が昇りきる前、術を発動させ、居合わせた人々から玉を抜きとり、記憶をごっそり、別のストーリーへと置き換えた。
 ここで起こった、忌まわしき事件…そのことごとくを、皆、忘れ去ってしまっていたのだ。
 紫苑以下、ホテルの従業員たちも、角(すぼし)の呪力で作った、間に合わせの傀儡人形たちだった。嵐でホテルが半倒壊し、次郎太さんの船で帰って行く…。
 ホテルの従業員が、ずらりと桟橋に整列し、一行を見送る…。そんなところから、始められた、茶番。
 



 本物の従業員たち、立浪も桜も、萌黄も茅野もかえでも、既に息絶え、灰塵へと帰し、潮騒の海で静かに眠っている。紫苑も凛華と共に、潰えた。
 傀儡の玉は、角(すぼし)が集めて、水晶玉と共に持ち去った。
「婆さんの身体はどうすんだ?あいつらと一緒に、海へ帰してやんねーのか?」
 乱馬は、別れ際、角(すぼし)へそんなことを問いかけた。
「まだ、この身体には生気が少しばかり残っていますからね…。灰塵に帰すには、今しばらく時間がかかります…。」
「どのくらいの時間がかかるんだ?」
「そうですね…あと数年…。その時が来たら、私がこの地へ薫さんをお連れしますよ…。」
「それまで、おまえは、婆さんと共に、その身体に居座り続けるのか?」
 と、意地悪く尋ねてみた。
「そういうことになりますね…。この身体に浸み渡った、悲しみや苦しみを少しでも和らげながら、見守ります…。私には、そのくらいしか、彼女にしてあげるられることはないですから…。」



 愛にはいろいろな形がある…。
 が、報われない愛は切ない。
 次に御世があるというのなら、今度こそ、一緒になって欲しいと思う。






「何、ムツッとしてるのよっ!あんたらしくない!」
 横からあかねが、突いてきた。
 彼女も、すっかり記憶が抜け落ちている。
「別に、愛について考えてただけでいっ!」
「はああ?」
 何を言い出すのかという顔を、あかねは乱馬へと手向けた。
「何、寝ボケたことを言ってるのよ?」
「うるせーよっ!俺が愛について考えちゃ、いけねーのかよっ!」
「気持ち悪いわよ…。」
「あん?」
「あんたが、そんなこと考えるだなて…何か、悪い物にでもとりつかれてる?」
「うっせえっ!…色々あったんだから、しゃーねーだろ?」
「色々あったって?」
 ハッとして口をつぐむ。そう、あかねには、忌まわしい記憶は無い。
「まあ、色々だ。…ったく、とっとと元の姿に戻りたいんだよ!」
 と周りに聞こえない小声で吐き出した。
「仕方ないでしょ?今、戻ったところで、この水飛沫じゃあ…。」
「だよな…。たく…。」
「東京へ帰ったら、付き合ってあげるわよ…。」
「あん?」
「だから…鬱憤晴らし。まだ、夏休みは続くから、付き合ってあげるって言ってるのよ。」
「鬱憤晴らし…ってどこへ行くんだ?」
「海水浴とかプールとか…。」
「こらっ!それじゃあ、鬱憤晴らしになんねーだろーがっ!」
「あ…。」
 海水浴もプールも女のままでなければならないことを、忘れていた。
「たく…これだもんなあ…。」
 苦笑いしながら、乱馬は溜め息を吐きだす。
「じゃあ、どんなところに行きたいのよ。」
「うーん。例えば、お化け屋敷とか…。」
「はあ?」
「おめー、お化けは苦手だろ?その…きゃーっとか、怖いー!っとか。くっつき放題!」
「何考えてるのよっ!このどスケベっ!」
「うるせー!ただでさえ、女で溜まってんだ!うっぷん晴らすなら、そのくらいつきあえっつーのっ!」
「変態っ!」
「何だと?この男女っ!」
「るさいっ!女男っ!」

 だんだんとヒートアップしていく二人。
 乱馬の本性を知らない周りの人たちにとっては、不可思議な会話だった。
 周りが引いていく様子に、構うことなく、二人、痴話げんかを続けて行く。


 その空には、白いカモメが二羽、遥かに蒼い海原を渡って行った。
 嵐を呼んだ、黒い雲影は、もはや、どこにも存在していなかった。














2006年10月 最終話で手が止まる…どう物語を閉じるか迷った末、そのまま放置
2011年11月12日 加筆・修正・完結


一之瀬的戯言
サスペンスを書きたかったのに、しっかり、ファンタジーになっとるし(汗
う〜ん…かなり手ごわかった…。


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