第十四話 覚醒


一、

 乱馬は触手の魔の手を避けながら、必死で逃げ惑った。
 だが、逃げてばかりでは、埒が明かない。
 攻撃を避け、逃げ惑いつつも、考える。防、逃、孝の三義から成り立つ、早乙女流の奥義「敵前大逃亡」だ。
「気弾で様子を見るか…。」
 そう、決意すると、グッと床に踏ん張って、気弾を浴びせかけた。

 ドン!

 と爆裂音が響く。獲物目掛けて伸びてきた触手を、気弾で切り裂きにかかる。
 玄武の触手が何本か、乱馬の気弾で切断された。
 だが、それと同時に、バラバラと、液体が降り注ぐ。触手の切り口から、細胞液のような、透明な液体が降り注いで来た。
 嫌な匂いが、辺り一面に漂う。臭気が強い、液体の臭いだ。
 シュウシュウ、シュワシュワと音がして、そこら中の床や壁、調度品に、生々しい溶かされた痕が出現する。
「うわっ!消化液かっ!」
 慌てて、祭壇の陰に飛び込んだ。
 乱馬が気弾で引き裂いた触手の切り口から、容赦なく、消化液がこぼれ落ち、辺りにまかれたのだ。
 少し浴びた黒いランニングシャツは、ところどころ溶かされた痕が残る。
 
『ふふふ、無下に切ると、触手から直接、消化液が降り注ぐぞ。』
 玄武が笑っていた。

「畜生!やっかいだな。」
 乱馬は辺りを見回した。
 その間にも触手は乱馬に触れようと、襲ってくる。また、肌が触手に触れ合って、裂けた。
「痛ってええ!くそ!」

『ふふふ、そろそろ降参しては如何かね?』
 玄武が、小ばかにしたように、乱馬を見下ろした。

「降参なんかするかよっ!」
 乱馬は触手の合間を避けながら逃げ惑う。
 触手は乱馬を容赦なく、襲い掛かる。少しでも息を抜いて、触手に捕まれば、「ジ・エンド」だ。だが、玄武の方も、簡単に勝敗がついては面白くないとでも思っているのだろう。すんでの紙一重のところで、攻撃の手を緩めていた。逃げ惑う乱馬を、もてあそぶように余裕で追い回している、そんな風にも見えなくない。
 だんだんに、体力的にきつくなってくる。息も上がり始めた。

『いつまで、逃げ遂せることができるかね?』
 余裕で乱馬を見下ろしながら、触手攻撃してくる玄武。

 逃げ惑いながら、乱馬は懸命に気を溜め始めた。
 狙い撃ちにされるため、止まって気合を入れるわけにはいかないから、なかなか集らない。それでも、少しずつ、手先に気を集めた。

「丁度良い具合に、身体も火照ってきやがったぜ…。へへっ!このくらい気が溜まれば、あの技は打てそうだ…。」
 乱馬は、にっと笑った。手には、どこから持ち込んだのか、ライターを握り締めている。
「やるっきゃないな…。いや、やってやるっ!」
 彼なりに、反撃の機会を伺っていた。このまま、終わってたまるものか、という必死な思いもある。
 しつこく襲い掛かってくる、玄武の甲羅の触手を、必死で避けながら、攻撃の間合いをはかりはじめた。

 玄武は玄武で、触手を駆使して、乱馬を執拗に追いかけた。乱馬を追い詰めて、体力が無くなったところを、一気に叩こうという魂胆らしかった。
 乱馬は魔水晶が鎮座していた辺り、玄武が壊さずに残していた壁際へと、いつの間にか、追い込まれていた。その事に気がつかない乱馬ではなかったが、追い込まれるままに逃げた。その結果が、行き止まり。壁を背後に追い詰められた格好だ。

『ふふふ、袋の鼠だぞ。小僧!覚悟は良いか?』
 玄武が巨体を横たえながら、乱馬を見下ろしていた。彼の甲羅からは、何十本、いや、何百本とも思えるイソギンチャクのような赤い触手が、乱馬を襲うタイミングをうかがいながら、そこに揺れている。

「へへっ!覚悟も何も…。おめえ、俺の身体を伊奈魅に与えるつもりじゃなかったのかよ…。溶かしちまって良いのか?」
 と、乱馬はなじった。まだ、気が少し足りない。そう思ったからだ。少しでも気を溜める時間を稼ぎたかった。

『ここへ来て、命が惜しくなったか?人間とは弱々しいものだな…。ふふふ、大人しく、おまえが傀儡玉を受けるのであれば、溶かすのは許してやるが…。どうだ?』
 そう言いながら、妖しく光る、玄武。
 くちゃくちゃと口元を動かして、咽喉元から、ゴボッと音をたてて、玉を吐き出す。胡瑠姫との闘いの中で、何処かへ転がった玉を、玄武が取り込んでいたようだ。「牛」という文字が、くっきりと浮かび上がっている黒玉だった。

「うげ…。口から吐き出した玉を受け入れる気にはなんねー!」
 少し、げそっとした顔つきで、乱馬は即答する。
「この身が喩え、滅んだとしても、絶対に、おまえの傀儡になんか、なってたまるかってんだ!」
 続けざまに、勢い良く吐きつけた。


『そうか…。ならば、死ねっ!』
 玄武が乱馬へと吐きつけた。そして、改めて、触手を全部、ゾワゾワと動かして、乱馬目掛けて襲い掛かった。

「へっ!覚悟するのは、てめえの方だ!玄武っ!」
 乱馬はがっしと右手にライターを持って構えると、腰を引いて、一気に玄武目掛けて技を叩きつけた。すでに彼の左手には、玄武へぶっ放す「気」が溜っていた。気を撃つと同時に、その気へ向けて、ライターの火を引火させたのだ。

 ブオオオッ!

 大きな音と共に、乱馬の手先から、真っ赤な火焔が玄武目掛けて、襲い掛かった。

「ぎゃああああっ!」
 玄武が火だるまになるのに、時間は要さなかった。みるみる間に、玄武の背中が、赤い炎に包まれ、燃え上がる。触手が炭になって燃え尽きる。

「どうだ?玄武っ!」
 乱馬がにっと笑った。
「下の部屋に居たとき、次郎太さんから貰った、ライター…。こんなところで役にたつとはな…。」
 乱馬は、触手の消化液で溶かされかけて、傷ついた腕を眺めながら言った。

『くそう…。小僧!このままではおくものか!そこで暫く、首を洗って待っておれっ!』
 
 玄武は床を火だるまのまま、転げまわると、そのまま、崖を転がり落ちて、海中へとダイブした。

 ズッドオオッと上がる水飛沫。
 乱馬は必死で水飛沫を避けた。水がかかると、女に変身を余儀なくされる。それを避けたのだ。
 激しい気炎と共に、玄武は、海面へ真っ逆さまに落ちていった。

 まだ、闘いは終わって居ない。
 乱馬もそれは良くわかっていた。

「奴はこんなんじゃ、死なねーよ。死なねーよな…。」
 闘いはこれからだ。ぎゅっと、掌を握り締めた。

 風がゴオオッと唸ったような音が、辺りに鳴り響いた。
 天上の月が、妖しく光り輝く。大きく空を浮かぶ白い光。心なしか、赤みがかったようにも見える。橙色に近い月だ。
 妖気を孕んだ海面が、不気味に蠢いている。そんな、感覚を乱馬は感じ取っていた。
 玄武は、甲羅に食らったダメージを回復させようと、海面下で足掻いている。そう思った。
 あれくらいで死にはしないだろうが、触手を根こそぎ焼き尽くした。触手とて彼の身体の一部器官だ。全く、ダメージを食らっていないわけではあるまい。
 次に奴はどんな方法で、戦いを挑んでくるのか。じっと、その刹那を待つだけだった。


 
 乱馬と玄武の闘いの火蓋が切られ、上階の気が、激しく動いている。
 下へ向かって足を動かしているあかねと婆さんにも、気の乱れが、手に取るように伝わってきた。
 あかねは婆さんの伴われて、階段から下へ降りたは良いが、本心は、乱馬の傍に居て、彼の闘いを見届けたかった。
 彼が足元の二人に気を取られて、技をかけきれないかもしれないという大きな危惧が生れたため、渋々、その場を離れることにしたものの、闘いの行方は気になる。
 後ろ髪を引かれるとは、、まさに、このような状況下を言うのだろう。

 時折、あかねは後ろ側を、心配げに振り返る。

 さっきから、気が嫌に静かになった。あれほどまでに、激しく動いていた気の塊が、すうっと消えた。
「乱馬…。」
 あかねは、思わず、乱馬の名前を呟いていた。まさかと思うが、乱馬がやられたなんてことは…。ブンブンと頭を横に振る。
「ダメよ、万が一、だなんて考えちゃ!」
 弱気に考え込むと、そのとおりになりそうで恐かった。乱馬の負けは即ち、敗退ということになるからだ。
 
「あかねちゃん…。乱馬君なら大丈夫。きっと、玄武を倒してくれるわ。」
 婆さんはそう、声をかけた。彼女もまた、あかねの心の動きが手に取るようにわかっていた。婆さんもまた、気が嫌に静かになったことを、気にかけていたのである。ただ、気を辿ると、乱馬が倒されたというわけではないことがわかる。彼の気は健在だ。だが、玄武の気が変だ。どこをまさぐっても、奴の気が存在していない。
 まだ、乱馬によって倒されたというわけではなさそうだった。忌々しい玄武の妖気は、まだ、この館内に充満しているのが、良い証拠だ。

「きっと、乱馬なら、怪物を倒せる。」
 あかねは己に言い聞かせるように、呟く。
 待つという行為が、傍で一緒に居るよりも、数倍辛いということは、良く知っているつもりだ。確かに、非力な己では、力添えなどできないし、足手まといになるのは目に見えている。良くわかっているつもりなのだが、それでも、割り切れない思いが、あかねにはあった。
 何故、そんな思いが生れるのか。これが、生死を賭した闘いであるからだろう。
 勿論、乱馬が負けることなど、考えたくもない。だが、一抹の不安が、あかねの心を過ぎっていた。

「あかねちゃん…。乱馬君の闘いはともかく、私たちの闘いも、まだ終わっては居ないみたいよ…。」
 下へ行く婆さんの歩みが止まった。と、険しい顔を暗い廊下へと手向けた。
 あかねの表情も、硬くなる。

 何かの気配をその向こう側に感じたのだ。それも、あまり良くない気配。

 そこには、次郎太が立っていた。
 シュウシュウと口から臭い息を吐きつけ、視線も定かではない。あまり出くわしたくない類の、遭遇だった。

「彼は虚(となみ)に支配されているわ…。即ち、敵ってことになるかしらね…。」
 婆さんの顔は険しい。
「敵か…。」
 あかねの表情も硬くなった。ここで出会った以上、素通りではすむまい。暗い地下二階。
「見て、次郎太さんの胸。」
 婆さんが指差した先には、傀儡玉が次郎太の胸元に、妖しげに揺れていた。
「まだ、身体の中に飲み込まれていないのが、幸いかもしれないけれど…。」
「どうしてです?」
「身体に飲み込まれていないということは、即ち、まだ、虚になりきっていないということ。」
「だったら、あの玉を粉砕してしまえば…。彼は元に戻れるのね?」

 あかねはなりふり構わず、駆け出していた。

「ダメっ!あかねちゃん!無闇に近づいちゃあ!」
 婆さんが後ろからがなったが、間に合わない。

「やあああっ!」
 あかねは次郎太の胸目掛けて、手刀を振り降ろす。
 にっと不敵な笑いを浮かべた次郎太が、すかさず、あかねの腕を掴んだ。はっとして、あかねは横に飛び退こうとしたが、間に合わなかった。
「つっ!」
 次郎太がペロッと赤い舌を出しながら、あかねへと襲い掛かる。
「でやっ!」
 婆さんが、持っていた「お札」を次郎太目掛けて投げつけた。白い魔除け札だ。次郎太の眉間へと張り付いた。

「ぎやあああっ!」
 
 激しい声がして、掴んでいた手をパッと離す。

「あかねちゃん!こっちへ!」
 婆さんが叫んだ。

「でやああっ!」
 ただでは離れないと言わんばかりに、あかねは離れ際に、次郎太の胸目掛けて、右足蹴りを食らわせた。
 ドンと鈍い音がして、次郎太は後ろに尻餅をついて倒れ込んだ。

「たく、無茶しちゃダメよ…。傀儡玉を身体に飲み込んでいなくても、玉の妖力は決して小さくはないんだから。それでなくても、まだ、あなたにはダメージが残っているでしょうし…。
 それに…。お客人は…どうやら一人じゃないようよ…。」
 再び、婆さんの表情は険しくなった。暗がりの向こう側に、他の人影を見つけたからだ。

「碧さん…。それに、桃代さんや千秋さん、橙子さんも…。」
 四人の女性たちが、ぞろぞろと列を成して、現れた。そろいに揃って、横並びに、無表情で並び立ち、行く手を阻む。
「ご丁寧に、操り人形が全員集合ってところね。」
 婆さんが苦笑いしながら振り返った。
「操り人形って…。皆…。」
「胸を御覧なさい。次郎太さんよ同じように傀儡玉が胸元で光っているでしょう?」
 婆さんの指摘に、目を凝らすと、確かに、胸元に黒い玉が不気味に光っていた。次郎太と同じように、他の女性たちも正気を失っているようだ。一切、言葉を介さないで、じっとあかねと婆さんを見ていた。思わず身震いするような凍りついた視線で。

「ちょっと厄介かもね…。相手が相手だもの。」
 婆さんは苦笑した。逃げるにしても、真正面から突っ切っていかねばならない。かといって、闘うにしても、多勢に無勢。いや、それよりも、厄介なのは仲間を傷つけるわけにはいかないことだろう。自分よりも明らか、腕力がありそうな次郎太になら、多少は荒技をかけても平気だろうが、他は元は非力な娘たちばかり。本気を出して傷つけるのも気が引けた。
「あまり考えている猶予もないようね…。」
 婆さんが言った。
 ジリジリと傀儡たちは、二人との間合いを詰めている。
「だからといって、やられっぱなしってわけにはいかないわね。」
 婆さんはすっと、懐から札を数枚出した。
「良い?私が札で一時、彼らを呪縛するから、その間に突っ切るのよ。」
 とあかねに声をかけた。
「でも、そう、強い呪力ではないから、とにかく、捕まらないように突っ切って…。後の事は、ここを突破してから考えましょう!」
 婆さんが言った。
「わかりました。」
 あかねもコクンと答えた。

 どう、襲ってくるか、わからない不気味さはあるが、とにかく、この場は逃げの一手だ。

「いくわよっ!妖魔、退散!」
 婆さんが合図と共に、持っていたお札を、傀儡たちに向かって貼り付けた。
 さすがに、格闘系ではないものの、気技を会得しているだけあって、正確に魔除け札を傀儡たちに飛ばして貼り付けた。
 傀儡たちの動きが一斉に止まる。その間を潜り抜けて、前方へ一気に走る抜ける。老体とは思えない身のこなしで、鈴音婆さんもあかねに続く。だが、暗い廊下の先に、もう一人、伏兵が潜んでいたのだ。

「きゃああっ!」
 あかねの悲鳴が聞こえた。

「どうしたの?あかねちゃん!」
 鈴音婆さんが、ぎょっとしてあかねを見た。
 そこに、もう一人、現れたのだ。
「蒼太君!」
 そう。次郎太の元で漁師修行している、あかねと同年代の少年がそこに立っていた。そして、あかねの腕をがっしりと掴み、羽交い絞めにする。
 婆さんが渋い顔をした。
「くっ!彼も操られているのねっ!」
 婆さんは、魔除け札を懐から取り出して、彼に貼り付けようとした。だが、札は彼の前には効力が発揮できないらしく、ふっと吹く息で吹き飛ばされた。
「しまった!蒼太君には傀儡玉は埋められていない!この札は使えないっ!」
 悲痛な叫びだった。傀儡玉は全部で七つ。「女(胡瑠姫)」「牛(伊奈魅)」「虚(とみて)」「斗(ひつき)」「危(うみやめ)」「室(はつい)」そして「壁(なまめ)」の七つだ。数からしても、蒼太に埋められる玉はない。

 蒼太は不気味な笑みを浮かべたまま、あかねを捕らえていた。
 
「やめてっ!やめてったらっ!」
 あかねも格闘家のタマゴ。力は男子にも負けない自信があったが、胡瑠姫のダメージがまだ身体に残っている上、今の蒼太の人間離れした力強さの前には、成す術がなかった。振りほどこうにも、振りほどけないのだ。がっしりと掴み取られ、身動きすらできない。

「何故、彼は動けるの?」
 婆さんは焦りながら、蒼太を見返す。彼の瞳は、虚ろだった。
「もしかして、玄武が直々、操っているの?」
 婆さんの予想は当たっていた。

『我の元に、来い!蒼太…。』
 どこからともなく、不気味な声が響いてきた。

「玄武っ!?何故、声がっ!」
 婆さんの瞳が鋭く光った。
 すると、下から、勢い良く、大きな気が浮上してくるのが、わかった。
「なっ?下から?」

 すぐ傍の床面が盛り上がった。
 モコモコ、ボコボコッ、メキメキッ!
 と音がして、床が壊れる。

「え?」
 呆気にとられて、手向けた視線の向こう側、ズボボボボと音を立てながら、玄武の巨漢が上昇してくるではないか。心なしか、さっき上で見たよりも、一層に黒く光っているように見えた。
 玄武の後に引き続いて、蒼太の身体が浮き上がった。勿論、手に、あかねを羽交い絞めにしたままだ。
「いやああああっ!」
 悲鳴と共に、あかねの頭ががっくりと垂れた。

「あかねちゃんーっ!」
 声の限りに叫んだが、婆さんにはどうすることもできなかった。
「しまった!玄武の奴、乱馬君が手に入らなかったから、今度は蒼太君を伊奈魅にするつもりねっ!」
 すぐさま、上へ追おうとしたが、その場を、次郎太、そして四人の娘たちに阻まれた。
「行かせない…そういうつもりね…。」
 婆さんは身構えた。このままでは埒が明かない。一刻も早く、あかねを追わなければ、大変なことになる。
 だが、目の前には敵がずらりと、頭を並べている。しかも、まだ、完全に傀儡になったわけではなく、人間の魂がどこかに残っている人形たちばかりだ。

「どうする?彼らを薙ぎ倒して、あかねちゃんを追うべきか…。それとも、他の皆を解呪してから行くべきか…。」
 婆さんは、迷いながら、前方を見詰めた。
 


二、

『小僧…。よくも、我が触手を燃やし尽くしてくれたな…。』

 海水に飛び込むことによって、甲羅の触手に燃え広がった火を消した、玄武がゆっくりと海面から立ち上がってきた。羽もないのに、すうっと、真っ直ぐ、海面からせり上がってくる。さすがに、海魂の王だけはある。
 あれだけびっしり生えていた触手は、全て抜け落ちたのか、影もない。燃え粕か、黒コゲの炭が甲羅にへばりついて、甲羅は更に、忌まわしさを増していた。ゴツゴツした黒い甲羅が、不気味に月明かりに照らされて、光っている。

「へっ!さすがに、あれくらいじゃあ、死にはしねえか…。」
 乱馬が吐きつけた。

『当たり前だ…。玄武様が人間如きの攻撃にやられてたまるか…。』
 言葉とは裏腹に、少し玄武の気が荒らいでいる。それなりに、今の火焔放射で、ダメージを食らっている様子だ。

『貴様…。許さぬ!最早、貴様を生かしておこうなどと、考えるのはヤメにした…。』
 玄武は乱馬を睨みつける。
『それから、罰を与えてやる。貴様にとって、一番、屈辱的なな…。ふふふ。』
 そう言いながら、いきなり、火焔を乱馬目掛けて浴びせかけてきた。

「わたっ!てめえも火焔を吐くのかよっ!」
 乱馬が横とびしながら、炎を避けた。

『ふふふ、当たり前だ。火は元々、冥界のもの。この炎でおまえの身体を焼き尽くしてやろうか?』

「じ、冗談じゃねーぞ!てめえはガメラかっ!」
 子供の頃観た、怪獣映画の画像が、脳裏に浮かぶ。今の玄武は、ガメラのような風体で、しかも、火を噴出してくる。
「あちゃっ!あちちっ!」
 火の粉を振り払いながら、乱馬は逃げ惑う。
 もうもうと辺りが炎に包まれる。
「焼き殺すつもりか?畜生…。」
 炎に煽れらながら、乱馬の身体は火照りだす。建物の基盤は木。しかも、古い木材も混じっているのか、良く燃える。
 たまらなくなった乱馬は、ぎゅっと拳を握り締めると、体内の気を一気に爆発させた。と、火は乱馬の気に押されて、吹き飛んだ。ゴオオッと乱馬の気弾が、火を駆逐していく。少しは息がつける。そう思った時だった。

「なっ!?」
 ドクンと、床が波打った。
 と、月明かりが天上から降り注ぎ、床面へと照らしつける。蒼白い図案が床面を浮き上がった。
 パアアッと射してくる光と共に、床が妖しく光り輝いた。
「結界?」
 気付くのが遅かった。それは、玄武が放った魔結界だったのだ。
「くっ!」
 乱馬の足の動きが止まった。
 これでは、玄武の放つ灼熱の炎の格好の的だ。乱馬は前のめりに身構えた。飛んできた火を気で薙ぎ払おうと、咄嗟に思ったのだ。
 だが、玄武は、乱馬に炎を吹き付けることはなかった。
 ゆっくりと、乱馬の少し斜め上に陣取って見下ろしてくる。明らかに形勢は逆転した。 

『ククク、乱馬よ、ただ、倒すのは面白くない。この玄武様に刃を向けたのだからな…。儂の溜飲も下がらぬ…。だから、これから、良き物をおまえに見せてやろう…。冥土の土産としてな…。ククククク。』
 陰気な笑いを浮かべると、オオンと一声、戦慄いた。何かの合図のような声。

「なっ!?」

 崖下からゆっくりと、現れた人影に、顔をしかめた。
 ゆっくりとそこへ現れたのは、蒼太だったからだ。

「ふふふ、新しい「伊奈魅」を紹介しよう。こやつが、おまえに代わる新しい伊奈魅。」
 そう言うと玄武はふっと口元から何かを蒼太の胸目掛けて飛ばした。乱馬が砕いた筈の黒い小さな玉だった。その玉は蒼太の胸元へ、吸い付くように張り付いた。
 シュウシュウと蒼太の口元から、黒い息が煙となって、立ち上がる。

「玄武!貴様、どういうつもりで…。」
 乱馬が下から険しい顔で見上げる。

『どういうつもりも、こういうことだ…。』
 玄武は不敵な笑みを浮かべると、クンッと長い首をもたげた。
 それを合図に、再び浮かび上がる影。大きな貝殻だった。見覚えがある二枚貝。傀儡貝の床であった。
『どら、おまえに良く見えるように、真正面へ向けてやろう。』
 玄武の声と共に、傀儡貝がゆっくりと真横になって開いた。
 見覚えの有る面影が、ゆっくりと玄武の背後に現れる。傀儡貝に貼り付けられたあかねの姿があった。
 

「あかねっ!」
 乱馬の顔が一層に険しくなる。
 あかねは、何か術をかけられているのか、口をあけて何か言おうとしているようだが、声は漏れても言葉にならない。懸命に目で何かを訴えかけている。
「てめー!あかねをどうするつもりだ?」
 と激しい勢いで吐きつける。

『決まっている。彼女を「伊奈魅」に与えるのだ。「胡瑠姫」として。』

「なっ、何だとっ?」
 乱馬の声がますます、荒くなった。

『愛する者が伊奈魅にもてあそばれ、女にされる様を、貴様はそこで見ながら黄泉路につくのだ。ふふふ、これほど、面白い見世物は他にあるまい?』

「いい加減にしやがれっ!」
 乱馬は身体を動かそうとしたが、足はしっかり固定されていて、身動きすらできない。

『貴様は、そこから真正面から、愛する者が他の男に溺れていく艶美な姿態を見ながら我が炎に焼かれ、絶命するのだ。』
 そう言うと、玄武は口元から火を乱馬に向けて噴きつけた。

 ボッと音がして、彼を捉えている結界へと、炎は燃え移る。乱馬の身の丈の半分ほどの真っ青な炎が、みるみる、彼を円陣に取り巻いた。赤くない蒼白い炎だ。ガス火のそれよりも、妖艶な炎だった。
 そして、直接炎は肌には触れていないが、燃え盛る勢いで、肌は焦がれ始める。
「うわっ!」
 思わず、その熱さで声が漏れる。

『これは冥界の炎。そこらへんにある人間界の炎とは、身体に感じる温度が違う。傍に立っているだけで、耐えられぬほど熱かろう?ふふふ。』
 
「てめえ…。マゾッ気があるな…。畜生!」
 と乱馬は吐きつける。

『さて…。蒼太よ。いや、伊奈魅。その娘を存分に犯せ!そして、おまえのその手で胡瑠姫にしてやれ。この娘がおまえの愛撫で喘ぐと、自ずから胡瑠姫の傀儡玉が出現する…。今しがた、そのように咒法をかけてやったわ…。ククク。』
 玄武は傍らに浮いたまま立っている蒼太に命じる。

「はい、玄武様…。仰せのままに…。」
 抑揚の無い声で、蒼太が言った。

「ううっ!あうううっ!」
 くぐもったあかねの声が、乱馬の耳にも届く。必死で身体を動かそうとするが、彼女を縛る傀儡貝の結界はしっかりと、あかねを捕らえて放さない。
 何かにとりつかれたように、蒼太はあかねの方へ向かって歩み出す。

『どうだ?愛する者を他の男に目の前で寝取られる心情は?ククク。』
 玄武は、愉しげに乱馬を見下ろしていた。

 絶対絶命の大ピンチだった。
 このままでは、あかねを蒼太の思うが侭にされてしまう。
 彼はあかねをその手中におさめようと、動き出す。

『伊奈魅と胡瑠姫が結ばれたら、儂は、再び、この地へと降臨する。このような醜い姿を捨て、人型となりて、蘇るのだ。ふふふ、長きに渡って、この瞬間を待ち焦がれてきた。』
 玄武が笑った。陰湿な笑い。身の毛も弥立つような笑いであった。



三、

 乱馬が大ピンチを迎えていた頃、階下でも動きがあった。

 襲い来る傀儡の娘たち。婆さんの札で一時は動きを止められても、札の効力はすぐさま解けるのだ。
「月の魔力が増している!」
 婆さんは窓から差し込む、月明かりに、顔を思い切り曇らせる。
 満月の力が、婆さんの力を抑える如くに、満ちる。傀儡たちも、それを知っているようで、貼られた札を月明かりへと、一斉に身を乗り出すのだ。すると、月明かりから蒼い炎が立ち昇り、身を縛る札を焼きつくす。そして、再び、婆さんを襲う。その繰り返しだった。
 しかも、一人で四人を相手にせねばならず、明らかに婆さんに負がある。

「このままじゃ、埒が明かない。この子達を攻撃できれば、簡単にことは済ませられるんだけど…。」
 相手は傀儡にされているとはいえ、人間だ。婆さんの性格からしても、傷つけるのもためらわれた。その上、「心(なかご)」の力の殆どが乱馬に移行した今、「加減して戦う」ということが、難しくなっていたのである。
「それに、上はかなりヤバイことになっていそうね…。」
 天上の月の魔力が、乱馬の形勢の不利を告げている。
「紫雲の一つさえ、浮かんで来ない…。」
 婆さんは、娘たちの攻撃をかわしつつ、天を仰いで呟いた。
「このままじゃあ、玄武の思う壺…。どうにかして、上に行かないと…。」
 焦るばかりで、突破口すら見いだせない。

 ハアハアと荒い息を吐きながら、婆さんは四人の娘たちと間合いを取る。
 この老体では、とっくに力尽きていても良さそうだが、その辺は「蒼龍」の意志を受けている身の上だけあって、若者とさほど動きと変わらない。が、それとて、永遠に続けられるものではなかった。
 相手は玄武が生きている限り、無限の力を得続ける傀儡の化け物たち。瞬発力はないが、それでも、有る程度の破壊力を秘めている。うかうかしていると、彼女たちにやられてしまう。
 そろそろ、スタミナも切れ、限界が近い。自覚できるだけに、ジリジリと追い込まれている。

「仕方がないわ…。温存しておきたかったけれど、この力を使い切るしか方法はない…わね。」
 婆さんは再び、白いお札を懐から取り出して、両手に翳した。傀儡たちは、表情一つ変えることなく、ジリジリと婆さんとの間合いを縮めてくる。
 婆さんが己の気を札に移し飛ばそうと、間合いを取った瞬間だった。

「ナコサタラ、ソワカッ!」
 呪文と共に、背後から気の欠片が飛んできた。
 目の前で炸裂する。

「きゃああっ!」
 傀儡のうち、橙子に見事に命中した。ザザザッとそのまま、糸が切れたように橙子は床へと倒れ伏す。
 シュウシュウと音がして、コロコロと胸の玉が弾けて落ちた。

「ナコサタラ、ソワカッ!」
 もう一方からも、同じく呪文が聴こえ、今度は桃代に命中した。
「いやああっ!」
 悲鳴を上げて、桃代も悶絶する。彼女の胸からも、黒い玉が飛び出し、床へと転げる。ゴトン、カラカラ…。玉は床を転げまわって、婆さんの足元で止まった。

「誰っ?」
 婆さんは、驚いて後ろを振り返る。大きく見開かれた瞳に映し出されたのは、立浪とさくらだった。

「さくら姉さん!士郎さんもっ!」
 思わずその名を叫んでいた。

「待たせたわね…。薫っ。」
 さくらがニッと笑っていた。

「開化したのね…蒼龍の力が。」
 婆さんがニッと笑った。

「ええ、身を散らす寸前にあなたに貰った、この玉が、再び生気を与えてくれたわ。ほら、士郎さんも…。」
 とはにかみながら振り返る。

「良かった…。もう蒼龍の玉は、姉さんたちの身体を受け付けないかと思ったけれど…。」
 婆さんが笑った。
 さくらと士郎の胸元に揺れる、蒼い玉。さくらには「角」、立浪には「尾」という文字がくっきりと浮かんでいた。
「皆から離れてホテルの部屋で二人きりになったとき、貰ったこの玉で、私はまだ、若さを保てているわ…。そして、虚の玉を抜き取られた士郎さんにも、この玉を与えて、彼はまだ、生きながらえている。」
 さくらは妹に向かって言った。
「だから、弱いけれど、あなたを助けるくらいの力は残っているわ。ここは、私と士郎さんに任せて、あなたは、上へ!見届けなければならないんでしょ?玄武と蒼龍の戦いを。」
 さくらが吐きつけた。
「そうね…。行かなくちゃ…。」
 婆さんはぐっと、上を向き直る。

「彼を死なせるわけにはいかない…でしょう?」
 さくらが微笑む。

「え、ええ…。」
 婆さんは何かを言いたげに、二人に向き直った。が、さくらはそれを敢えて制した。

「早くっ!一刻の猶予も許されないわ。ここは、私と士郎さんに任せて!この娘たちは、必ず、生還させるから。もう、他の誰一人、犠牲者を出さないわ…。それが、最期の私たちの役割。」
 さくらが、微笑んだ。
「それが、玄武に逆らえずに悪行を続けた傀儡の僕らのしめくくり(罪滅ぼし)でもあるんだから…。」
 士郎も笑った。そこに、一縷の曇りもない。紫苑の執事として彼に長年つき従った「虚(となみ)」の片鱗は影も残っていないようだった。

「わかった。後は任せたわ。」
 婆さんは意を決したように、くるりと二人から背を向ける。そして、さっき、降りてきた階段へと急いだ。
 今生の別れ。そうなりることは薄々わかっていた。蒼龍の玉を胸に埋めているとはいえ、元は玄武にもてあそばれた体。さくらも立浪も、そう、命の時間は残っていまい。
「ありがとう、姉さん!義兄さん!」
 後ろに向かって、そう叫びながら、婆さんは駆けた。
 その背後を、次郎太が襲い掛かったが、一瞬早く、立浪が妨害を仕掛けた。
「おまえの相手は、この俺だ!決着をつけようじゃないか…。虚(となみ)よ。」
 激しい口調で、立浪は次郎太を挑発しかけた。

「ぐおおおおおっ!」
 それに呼応するように、次郎太は婆さんから背を背けると、立浪を襲い来る。
「でやあああっ!」
 「虚(となみ)」に憑依されたもの同士の、因縁の死闘が幕を切って落とす。

「間に合って!いえ、間に合わせてみせるっ!」
 婆さんは、その死闘の合間を縫って、よろめきつつも必死で階段を駆け上がっていった。



 再び、最上階。

 あかねに伸びる、蒼太の魔の手。
 身体も動かなければ、声も自由に発せない。
 言葉にならない呻き声で、あかねは動かぬ身体をくねらせて身をすくめる。だが、ビクとも動かない。
 真正面から己を捕らえてくる、蒼太の瞳は、艶かしく妖しく光り輝くオスの獣の輝きを放つ。

『ククク…。伊奈魅よ。そやつがおまえの新しい胡瑠姫だ。今までは胡瑠姫に翻弄される側だったが、今回はおまえが胡瑠姫を翻弄しろ。うずくだろう?おまえの中のオスの部分が…。』

「はい…玄武様…。」
 抑揚の無い声で、玄武に答えようとする、蒼太。

『さあ、伊奈魅。おまえのその逞しきオスの身体で、胡瑠姫を快楽へと導いてやれ。』
 妖しく響く、玄武の声に呼応して、ゆっくりと蒼太があかねの美しき肢体へと手を伸ばす。
 
 その目前、乱馬は俯き加減に、炎に焼かれながら、怒りをたぎらせていた。

「てめえ…には、あかねは、絶対に渡さねえ…。」
 そう、大きな声ではないが、ドスのきいた声で呻(うめ)くように吐き出す。
 怒りでわなわなと、身体が震えている。ぎゅっと拳を握り締め、食いしばる唇から鮮血が滴り落ちる。

『あん?負け惜しみか?動けぬ身体ではどうすることもできまい?見よ!貴様の思い人の姿態を。あの場で伊奈魅に痴れるまで翻弄される様を、見詰めながらな。わっはっはっは。』
 玄武は嘲るように笑い飛ばす。

「何がそんなに可笑しい?人の魂や気持ちをもてあそび続けるのが、そんなに愉しいか?玄武っ!」

 乱馬の瞳に、燃え盛る蒼い炎が移ったようにも見えた。

「放せっ!伊奈魅っ!その汚れた腕をあかねから離せーっ!」

 乱馬の燃える闘気が一気に乱馬の体内から湧き上がった。
 玄武が放った蒼い炎はメラメラと音をたてて、彼の闘気へと巻き込まれた。

 それは、乱馬の中に何かが奮い立った瞬間だった。

 オオンと乱馬の背後で何かが雄叫びを上げた。明らかに乱馬とは違う、別の影が背後にちらつく。
 乱馬の瞳の中にすっと浮かび上がる、別の影。
 ゴオゴオと音をたてながら、蒼い炎は、乱馬の周りに燃え盛っていった。

 

 







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