第十三話 玄武

一、

「交わるの…。ここで、あなたは…。この娘、あかねと。」
 
 どおおっと、礼拝堂中に、妖気が立ち上がった。

「交わるだってえ?」

「ええ、そうよ…。あなたも、そう望んでいるはずよ…。この娘も「あなたとなら良い」って言っているわ。」
 すっと、あかねの手が乱馬の身体に触れた。
 そして、はらりと、上着を脱いだ。まとっている布は、彼女が好む白色のランジェリー。
 しなやかで、美しい彼女の肌は、今、まさに、月明かりを浴びて、美しく、そして艶かしく、輝き始める。
 その膨らんだ胸元に、見慣れぬ遺物があった。良く見ると掌に収まるピンポン玉くらいの玉だった。紅く怪しげに光っている。

「さあ、この伊奈魅の玉を身体へ受け入れ、胡瑠姫を受け入れたあかねと、男と女の営みを、ここでなさい。早乙女乱馬。」

「じ、冗談じゃねーぞ!な、何なんだよ!その、人権を全く無視したような、命令は!」

「全ては玄武様の御心のままに…。あなたたちなら、玄武様を降臨させる器となる好き玉を生み出せるわ。」

 乱馬は水を浴びせられ、女にされ、つばきに捕らわれたまま、人生最大のピンチを迎えようとしていた。

 礼拝堂にも、妖気が辺りに充満し始めていた。
 黒水晶から発するものなのか、それとも、あかねの体内に忍んだ「胡瑠姫」が発しているものなのか。いや、案外、両方から出ている妖気なのかもしれない。

「な、何を…。」
 乱馬が困惑しきった表情をあかねに手向けた。
 今は、女に変化しているというものの、心は元気な十七歳だ。とても、あかねの下着姿など、凝視できない。

「乱馬ってウブねえ…。あなただって、水を被れば、女の子の身体をしているっていうのに…。」
 そうあかねの口調を真似て言いながら、乱馬の耳たぶをペロッと舐めた。
 ぴちゃっという嫌な音と吐息が、すぐ乱馬の傍で漏れる。ピクンと身体が反応する。
「ほら、この娘の身体に反応している。」
 くすっと胡瑠姫が笑った。
「てめえ、何しやがるっ!」
 乱馬が怒鳴った。
「ま、そなたを蹂躙するのは、今しばらく後にして…。先にこの玉を埋めてあげるわ。」
 そう言いながら、紫苑の身体から出て来た黒い宝玉を取り出した。
「これは、伊奈魅の宿る、傀儡玉よ。まずは、これをそなたの身体に埋めて傀儡にしてあげる…。」
 胡瑠姫は掌の先にそれを持ち、天に高く掲げた。
 と、さあっと降り注ぐ、月の光を宝玉を翳して当てる。
 待っていましたと言わんばかりに、玉は月光を受け、妖しく蒼い光を放って輝き始めた。
 その玉を唐突に、乱馬の胸の谷間に宛がった。

「てめえ、何をっ!」
 抵抗できない乱馬は、胡瑠姫の成すがままにされるしかない。

「この玉をそなたの身体に埋めるわ。玉が身体に埋まってしまえば、そなたの心身は伊奈魅のものと取って代わる。新たな伊奈魅は女にもなれる。だから、女の身体にも通してなじんでもらわなきゃね。そのために、一旦、女にしたんだから。」
 くすっと胡瑠姫が笑った。
 
「うわっ!」
 ぐいっと押し付けられる玉。胸の中心に、焼け付くような痛みが走る。と、玉が吸い付くように、胸の谷間に貼り付いているのに気がつく。玉はそれ以上、彼の身体には入っていかないようだった。
 激痛は遠のき、胸の辺りの違和感が、動かぬ身体には気持ち悪かった。

「何だ?この玉は…。躊躇するように、途中で止まってやがる…。」
 乱馬は吐き出した。

「ふふふ、ここから先の進み具合は、そなた次第ってことよ…。乱馬。」
 胡瑠姫があかねの顔で微笑む。

「俺次第?」

「そなたがわらわの虜となり、この玉を受け入れると決意した時、玉はそなたの身体の中へ深く沈む。そして、伊奈魅と完全に同化するの。伊奈魅の思考はそなたの物となる。
 いえ、あなただけじゃない。この娘、あかねの玉も、完全に身体に沈む。そして、我が身と一体化するわ。
 他の娘や次郎太に埋めた玉も、身体に沈み、新たな傀儡一族で、この島に棲み、次の魂遷の時まで静かに暮らす。…素敵でしょう?」

「ちっとも、素敵な話じゃねえぞ!くぉらっ!」

「さあ、まずは伊奈魅を受け入れなさい。そして、私と交わるの。伊奈魅を受けたあなたとの交わりは、魂遷の完了と玄武様を再臨させる玉の誕生を示す…。快楽が新たな玄武様をこの娘から生み出すの…。この娘の身体を借りて、私は一晩で玄武玉を産み落とすわ。」

「一晩で玄武玉を産み落とすだあ?」

「ええ、玄武様を入れる玉よ。伊奈魅と胡瑠姫の最初の交わりで作り出す…。そう、あなたとこの娘の交わりでね…。あなたの童貞とこの子の処女を玄武様に捧げて産みつける…。」

「じ、冗談じゃねー!俺とあかねの純愛を何だって思ってやがるーっ!」

「ククク…。ほら、月光が降りてきて、ますます、黒水晶玉に魔力を与える…。」
 胡瑠姫はゆっくりと、黒水晶へと、目を転じた。魔の瞳が、輝いた。月の光を真正面に受け、また、少し瞳が開いたように思える。

 大きな黒水晶と身体に埋め込まれた黒玉と、その二つは満月の光を浴びて、交互に光を放ちながら、妖艶に輝いき始める。まるで、玉同士が心を通わせているようにだ。

「さあ、時は満ちる。汝、元の姿に戻れ!早乙女乱馬っ!」
 

「うわああっ!」
 二つの海魂玉の光に目が眩んだ乱馬。その時、身体の変調を感じた。水を浴びた訳ではないのに、ふくよかだった胸は平にならされ、つばきが縛っていた手足がきつくなる。身体が大きくなり、再び、男へと変化を遂げた。

「やはり、伊奈魅の傀儡は男の姿でないと、ねえ…。」
 くすっと胡瑠姫が笑った。

「畜生!好き放題しやがって!」
 乱馬が胡瑠姫を見やる。

「さて…。満月もそろそろ天空に差し掛かる。時は満ちたわ。」
 
 そして、乱馬を捕らえている、つばきに声をかけた。

「つばき。」

「はい、胡瑠姫様…。」
 乱馬を捕縛していたつばきの顔が蔓下から、再び現れた。
「つばき、胡瑠姫では、こやつの雰囲気が出ぬ。わらわを呼ぶときはこの娘の名、あかねで良い。」
 と笑った。
「わかりました、あかね様。」
 つばきが返答した。

「けっ!名前の呼び方を変えようとも、おめえがあかねの上の意識に乗っかったままだったら、同じだぜ。」
 と、乱馬が吐き捨てる。

「さあ、どこまでその強がりが通用するか…。せいぜい、この娘の中から、楽しませてもらおうかねえ…。うふふ。
 つばき、彼を祭壇へ上げろ。」

 とつばきに命じた。

「祭壇ですか?」

「ああ、祭壇だ…。玄武様が降臨なさる玉を作るのだ、それなりの場所でないと、不味かろう?」
「はい…。では。」

 つばきの手足となった蔓草の先は、そのまま、部屋の端まで流れるように這い出していき、何やらスイッチの電源を入れた。

 ガクンと音がして、黒水晶が、空から平面へと降りてくる。それと、同時に、すぐ下の床が、クンと上がって来た。
 確かに祭壇のような長方形の檀だ。しかも、ダブルベッドくらいの大きさである。
 蒼いシーツのような錦糸が、上にかぶされていた。ちょっとした、悪趣味のラブホテルのダブルベッドのような感じだった。

「うわっ!何しやがるっ!」
 つばきはお構い無しに、そのまま、乱馬を壇上へと押しやった。
 そして、彼が壇上に乗ったのを確認すると、つばきの蔓の呪縛が、これ見よがしに解かれた。

「ちぇっ!束縛していなくても、俺を逃さねえってか。」
 乱馬が苦笑いした。
「でも、俺は、黙ってやられるほど、お人好しじゃねえーっ!」
 つばきから開放されたことによって、気の流れが復活した。かのように思えた。
 だが、彼の放った気は、尽く、祭壇の中へと吸い込まれていく。自在に扱えないのだ。
 そればかりか、そこから一切、動けなくなってしまった。身体を縛られていないにも関わらずだ。

「無駄だよ…。この祭壇は傀儡貝を繋いで作ってある。一度、虚(とみて)によって、傀儡貝の寝心地は体感したろう?だから、この祭壇の上にある以上、そなたは私の物。」
 くすくすっと、胡瑠姫が笑った。
「さっきの貝床と同じ理屈で、俺を引きつけているって訳か!こなくそっ!」
 乱馬は足掻いたが、動けない。
 悪魔の微笑みだ。愛する人の姿を借りて、巧みに語りかけてくる。
「さあ…。乱馬。この娘を愛しているのなら、その手に抱け。」
 胡瑠姫はそう言いながら、あかねの身体を駆って、艶かしく乱馬を誘惑し始めた。
 傍の黒水晶が、妖しく不気味に光を放った。
 
 ドクン!

 その光と共に、乱馬の心臓が大きく波打った。
 胸に埋め込まれた、伊奈魅の玉が、妖しく共鳴し始める。一つ、脈打つごとに、何故か、心がすっと己から出ていくような錯覚に捕らわれる。代わりに入ってくる「邪な心」。
 あかねをこのまま、己の物にしたい…という、欲望が、心の底から湧きあがってくる。

「ダメだ!何考えてる、俺はっ!」
 乱馬は必死で、邪を追い出そうと足掻く。
 だが、足掻けば足掻くほど、邪は、心の扉をこじ開けようと、どす黒く蠢く。そんな感じに苛まれた。

「己が身に、己が本能に正直になれ、早乙女乱馬よ…。そなた、この、あかねをその手に抱きたかろう?」

 目の前のあかねの声が、いたぶるように誘い掛けてきた。

「自制心など捨てよ!我慢などするな…。己に正直になって、愛する者をその手に抱け…。」
 暗示をかけようと、妖しげに揺れる、あかねの瞳。その魔性の輝きに、乱馬の心は千路に乱れた。
 
「あかね…。」
 すっと、伸ばされかけた手。だが、それを、必死で振り切ろうと足掻く。
 夢と現実の間に居るように、乱馬の心は揺れていた。
 だが、胡瑠姫も昔年から生きてきた「魔女」。黒水晶の妖しげな光と共に、乱馬へと甘い誘惑を囁く。

「乱馬…。そなた、この娘が欲しくないのかえ?」
「欲しい…。でも、ダメだ…。俺はあかねを汚せねえ…。」
「許婚だから?それとも愛しているから?」
「どっちもだ…。だから、我慢しなくっちゃ、なんねえ!」

「そなたは充分に我慢してきたのであろう?同じ屋根の下に暮らす、居候として当然の美徳のように…。でも、あかねは待っている…。おまえのその逞しい手で抱かれる日を…。」
「俺の逞しい手で…。」

「ああ、そうだ。女の幸せは愛する男と床を共にすること。その栄えある最初の契りを射抜くのに、何のためらいがあろうか…。」
「ねえ、乱馬…。乱馬来て!あたしを愛しているなら…。」
 言葉巧みに、胡瑠姫は乱馬の核心へと囁きかける。悪魔の誘惑だった。
 必死で抵抗を試みようとしていた乱馬だが、身体の中央に埋め込まれた「伊奈魅の玉」の魔力とすぐ天上にある「黒水晶」のダブルヘッダーに、だんだんに自制心を欠いていくのがわかった。
 「自制心」の欠如と共に、湧き上がってくるのは「欲望」。
 胡瑠姫は乱馬の「欲望の闇」の部分へ向かって、巧みに語りかけていたのかもしれない。

「愛しているのならば、何を躊躇などする必要があるの?…ねえ、あたしが嫌いなの?こんなにも、乱馬、あんたを愛しているのに…。」

 胡瑠姫は突然、あかねの口調へと変化する。あかねの深層へ入り込んだ化け物にとっては、口調や仕草を真似ることなど、造作もないのだろう。
 乱馬の傍に、切なげに寄り添ってくる。
 良い匂いがあかねの身体から漂ってくるような気がした。
「あかね…。」
 思わず、手をあかねの身体にかけ、ハッとして引っ込めた。

(ダメだ!こんな風に奴らに翻弄されたまま、あかねと結ばれるのはっ!)
 咄嗟で自制心が働いたのだ。
(何か方法があるはずだ!この事態を打開させるために!)
 足掻きながら、色々考えた。だが、良い方法は見つからない。
(こら!鈴音婆さんが俺の中に沈めた「心(なかご)」の力ぁ!力貸しやがれ!たく…。何、無関心装ってるんだ!)
 だが、返事はない。だんだんに、気が焦りだした。


「乱馬…。お願い…。あたしを、このまま、女にして。」
 あかねの瞳が、妖艶にゆらゆらと目の前で潤んで揺れた。
「あたし、最初に寝る男は、乱馬だと決めていたの…。」
 凡そ、普段のあかねの口からは聞けないような誘惑の言葉が、次々と口をついて流れ始めた。と同時に、深層から湧き上がってくる「内なる声」。

(あかねを抱け…。乱馬よ。)
 そいつは、乱馬に畳み掛けるように語りかけて来た。

(あかねはおまえに抱かれたがっている。愛しているのなら、男らしく抱いてやれ。乱馬よ。)
 実は、それは、乱馬の肉声ではなかった。乱馬の胸に突き刺さった「黒い玉」の伊奈魅が乱馬の心へ浸入を果たし、そこから語りかけていたものだ。だが、あたかも、己の心から湧き上がってくる、本心の声のように思い始めていた。

 最初は、必死で抗っていた乱馬だが、だんだん、その瞳から生気が消え始める。遠のき始める「理性」。代わりに湧き上がってきたのは「欲望」。
 内なる声は欲望を心地良く刺激し始めていた。

(あかねを抱け…。抱いてやれ、乱馬よ。そして、彼女を手に入れてしまえ…。その強い肉体で。)

 どのくらい、本能と理性の間を漂っていたのだろうか。
 恐らく、そう長い時間はかからなかったと思う。

「あかね…。俺が、抱いてやる…。」

 ズブズブっと音を立てて、黒い玉は乱馬の肉体へとめり込み始めた。自分で埋まっていくような、そんな不気味さだった。そう発した先から、ズブズブっと音をたてながら、乱馬の胸の中に、黒い玉が少しずつ沈んでいく。やがて、玉は乱馬の体内へと取り込まれて、消えていった。

 
 


二、

 と、遂に、乱馬の手はあかねの肢体へと伸び上がった。
 仰向けになったまま、伸ばした手に、しっかりと、あかねの身体を引き付ける。
 下から伸び上がってきた逞しき腕は、あかねの身体を己の方へと引き寄せた。
 身体に感じる、あかねの重み。それから、柔らかい肌。

「わかった…。抱いてやる…。来い…あかね。」
 いつしか、乱馬は、そう、語りかけていた。
 その瞳からは光が消え、ただ虚ろげにあかねを見詰めていた。

「ククク…。堕ちたか…。伊奈魅の手に…。伊奈魅は奴の心を握ったか…。」
 くすっと胡瑠姫が笑った。

 と、月明かりが一層にきらめいたように見えた。
 黒水晶の中の瞳が、くわっと見開かれていく。
 乱馬の胸の表面が、それに反応するように、ひとたび、鮮明に輝いた。乱馬の中に入った黒い玉の発した光だったのだろうか。

「堕ちたわ…。完全に…。」
 にやっと、あかねの口元が笑った。
「後は、あかねと交わる間際、玄武様が月の光と共に、乱馬の胎内へ潜入させ、そのまま、この娘の胎内へ解き放たせれば、良いだけだ…。さすれば、玄武様を遷す玉が誕生する…。玄武様の再臨が陽の目を見るのだ!」

(さあ、あかね、彼を快楽の淵へと誘え…。そのまま、強く結ばれよ。契りを交わせ。)
 胎内から胡瑠姫が声をかけた。コクンと、あかねの頭が揺れた。
 あかねの手が乱馬の方へとしなやかに伸びる。

「乱馬…。来て、あたしのところに…。」

「ああ、行ってやるさ!」
 乱馬はがっしとあかねの身体を抱いた。
 壊れてしまうのではないかと、思わんばかりの力で抱きしめた。
 静かなる月が、二人の抱擁を真上から見詰めている。

「乱馬?」
 ハッとして、あかねが乱馬の顔を覗き込んだ。
 と、背中に感じた、鋭い痛み。白い札が、あかねの背中にべったりとくっ付けられていた。

「ぎやああああっ!き、貴様、何を!」

「けっ!かかったな、胡瑠姫っ!俺の身体ははじめっから伊奈魅なんか、受け入れちゃいねえぜ!」

「なっ、何だと?どういうことだ?」

 乱馬は胸をクンと張って、中からポンと、伊奈魅の玉を叩き出した。玉がコロコロと音をたてて、床に転げ落ちた。そいつを思いっきり握り締めて粉砕する。

「な、何故だ?何故、伊奈魅の玉が弾き出された?」
 あかねの口を借りながら、胡瑠姫が尋ねた。

「知れたこと!俺の中には、とある力が先に眠っていたんだ。そいつのおかげで伊奈魅は俺を支配することはできなかったんだ!」

「とある力だと?」

「ああ…。婆さんが別れる間際に俺の中に入れてくれた、「心(なかご)」って東方蒼龍の意志の力がなっ!でやああっ!」
 乱馬は身体中の気を充満させた。そして、解き放つ。

「覚悟しやがれっ!汝、胡瑠姫!我が早乙女乱馬の手によりて呪縛されよ!」

「うわああああああっ!ぐええええええっ!」
 あかねの身体から、黒煙が俄かに立ち昇る。あまりの苦しみに耐えかねて、あかねの胎内から抜け出てきた。
 あかねの胸から、一緒に、黒い「女(うるき)」の玉が転げ出した。コトコトと音をたてて、こいつも床を転がった。あかねは、意識を失ったまま、床に倒れ込んだ。
 シュウシュウと黒煙をあげて、「女(うるき)」の玉が床を這い回っている。
「どうだ?あかねから玉をはじけ出してやったぜ。」
 乱馬が得意満面、胡瑠姫に語りかけた。

「お、おのれええ…。」
 胡瑠姫の玉が、悔しそうに床で喘いでいた。傀儡から出され、肉体を失い、逃げ惑い、転がり続けるだけ。

「さあ、どうする?胡瑠姫さんよ!」
 乱馬が上から覗き込む。

「こうなったら、おまえを女にしてやるわっ!つばきっ!水を浴びせかけなさいっ!」
 上からバシャっと、水が滴り落ちる。

「おっと!」
 乱馬は機敏に避けた。

「気炎桜花弾っ!でやああああっ!」
 バンッと気炎が弾けた。その場から離れていたつばきに向けて、気を解き放った。最近、会得した、気技だ。桜の花びらのように気弾を対戦者目掛けて飛ばす。そして、バチバチっとショートした電灯の切れ先を、気でつばきへと飛ばした。

「うぎゃあああああああ!」
 つばきの身体に、ショートした電線の火花が引火した。つばきの身体を核に炎が立ち上がる。そして、瞬く間に、身体中も燃え広がる。断末魔の叫びを上げながら、のた打ち回っているのが見えた。

「けっ!そいつのその身体は、海松で出来た木偶なんだってなあ…。木は炎系の技に弱い!違うか?」

 つばきは、黒煙を上げ、そのまま、黒い炭の木偶へと変化と遂げる。哀しき木偶人形の最期であった。

「胡瑠姫、おめえは俺のあかねを翻弄しやがった!てめえは、絶対に許さねえっ!」
 乱馬は転がり続ける胡瑠姫の玉、目掛けて言った。気が彼の身体を充満していく。

「その役目は僕にさせてください…。」
 そう、言いながら、唐突に、乱馬の目の前で立ち上がった奴が居たのだ。
 さっき、伊奈魅の玉を抜かれた「紫苑」だった。紫苑が、ハアハアと荒い息を上げながら、そこに立っていた。

「紫苑?てめえ…。」
 乱馬が身構える。

「大丈夫、人間に戻った今の僕はあなたの敵ではない。僕は…。僕と妹の人生を変えた、この海魂玉たちが憎い!だから、せめて、僕の手で…。砕かせてください!」
 そう言いながら、足で玉を踏みにじっていた。
「紫苑…。貴様…。わらわを足蹴で…。伊奈魅!伊奈魅は居らぬか?」
 だが、伊奈魅の玉は見当たらなかった。もう既に、どこかへ逃げ出したのか。
「胡瑠姫様…。お覚悟!」
 
 バリンと音がして、玉が砕け散った。
 紫苑が、持っていたこん棒で、思い切り、玉を叩きつけたのだ。硝子のように脆かったのか、玉が粉々に砕け飛ぶ。

「己…。人間の分際で…。このわらわを…。砕きやるとは…。無念…。」
 そう、言いながら、胡瑠姫を宿した海魂玉は事切れる。

「やった…。やったぞ!俺は…。」
 そのまま、紫苑がなだれるように倒れ付した。

「紫苑!」
 乱馬が声をかけた。が、すぐさま、声を飲み込んだ。目の前の紫苑の姿が、年老いた人間のそれになっていたからだ。さっきまでの若い肉体は、急激に衰える。
「紫苑、おまえ…。」
 乱馬の瞳が大きく見開かれた。
 年老いていたのは、紫苑の身体だけではなかった。傍に倒れている「凛華」の身体も、少女のそれから、老婆へと移り行く。

「長い年月、肉体の老化は全て、海魂玉によって止められていました…。が、玉を抜き去られて、一気に、止まっていた時が、僕の上に押し寄せて来たようです…。これが僕ら傀儡の運命……。肉体は朽ちるのを止められるが、決して永遠の命を得たわけではないんです…。」

 あまりの衝撃に、乱馬は口を継ぐ事ができなかった。

「良いんです…。これで…。昔年の恨みを晴らせました…。この胡瑠姫は僕の、この年の離れた妹を依代に好き勝手してくれました…。望まぬ兄妹の口付けまで強要して…。汚れた僕はいざ知らず、何も知らない無垢な妹の心まで踏みにじった…。
 その罰を受けるべき…は…この胡瑠姫だけではなく…僕も…。だから…。」
 どおっと、膝から、紫苑が倒れ込んだ。
「凛華…。不甲斐ない、非力だった兄を…許してくれ…。せめて、次の世は穏やかに…。暮らそう…。」

 紫苑は傍で倒れている、凛華の方へと、手を伸ばしながら、そのまま、息が途切れた。重ねられた手から、さらさらと肉体が、風化して崩れ去る。骨も残さないように、砂塵となり、目の前から消え去る。

「紫苑…。おまえ…。」
 乱馬は、長いため息をその場に吐き出した。

「小さな人間の命を、もてあそんで来て、おめえは…。それで満足だったのか?」
 と、乱馬は背後へと吐きつける。
 誰も居ない筈の礼拝堂が、ドクンと不気味な唸りをあげたように思えた。
「それでも、尚、悲劇をくり返し、人間の命をもてあそぼうと、狙っているのか?おまえは!」
 キッと乱馬は背後を振り返った。

 そこには、黒い水晶玉が、月光を受けながら、不気味に光り続けていた。
 その、中には不気味な瞳が、浮かび上がっていた。しかも、時が満ちたのか、虚ろではなく、しっかりと乱馬の方を見据えていた。

「勝負だ!出てきやがれっ!玄武!」
 乱馬が気焔と共にきつい言葉を吐きつけた。


 バリン!

 と、水晶玉から、黒煙がもうもうと立ち昇る。
 やがて、煙の中に一つ目の小さな物体が姿を現した。真っ黒な亀の甲羅を持ち、蛇の顔をした、柴犬くらいの小さいが不気味な黒い海獣だった。

「けっ!正体を現しやがったな!黒い玄武め!」

『小僧ワシをじかに呼び出すとは!後悔するぞ!』

「望むところだ!来いっ!」
 乱馬はぐっと立ち上がった。

『ふふふ、まあ、待て。闘いにはまだ早い。魔結界!』
 その声と当時に、玄武はガルルルと獣の鳴き声のような怪音を発した。怪音波も同時に発したのか、バリバリと天上の窓ガラスが破けて落ち始めた。
「なっ!」
 何をしようとしたのか、乱馬は、崩れてくる天井の破片に驚いた。グンと身体を伸び上がらせ、とりあえず、自分のところへ降り注ぐ灰燼を気でぶっ飛ばした。足元にはあかねが居る。彼女に怪我を負わせる訳にはいかない。

「こっちよ!乱馬君!」
 と、聞き覚えのある声が、すぐ近くで響いた。
 鈴音婆さんの声だ。

「はっ!」
 乱馬は傍に倒れているあかねを抱きかかえると、ダッと駆け出して、声の下辺りに、転がり込んだ。
「婆さん、無事だったのか。」
 乱馬は滑り込んだすぐ背後に向けて声をかけた。
「ええ、しこたま、つばきにやられたんだけど、何とか、ここまで自力で這い上がってきたわ。」
 婆さんがにっこりと微笑みかける。体中、水浸しになった痕が伺える。ボロボロになりながらも、比較的元気そうだ。
「這い上がって来たって…まさか、断崖絶壁を登って来たのか?」
 呆れがちに乱馬は婆さんを見た。
「ええ、そうよ。崖を上るのが一番手っ取り早いと思って…。気技を使い使い、伝ってきたわ。」
 とさらりと言ってのける婆さんも婆さんだ。
「ここに簡単な結界を張ったから、灰燼くらいなら凌げるわ。」
「そりゃあ、ありがてえや…。」
 天井から無数に降り注ぐ、ガラスの破片や木片が、乱馬たちの居場所を、避けていく。

「乱馬…。」
 今の衝撃を受けたせいか、あかねが意識を回復した。
「おっ、あかね!気がついたか。良かった。」
 少しホッとした顔を手向けた。
「ここは?あたし…。」
「詳しい話は後だ。まずは、降りかかる火の粉を払わなきゃなんねえんだ。」
 乱馬は、荒れ狂うように雄叫びを上げる「黒い玄武」を横目に険しい顔をした。
「何…あの化け物…。」
 さすがのあかねも、血色を失いそうになった。それほどまでにグロテスクな怪物が、目の前に不気味な姿を曝け出していた。
 しかも、さっきまで、小さかった怪物が、短時間の間に、大きくその姿を膨れ上がらせているではないか。

「玄武も結界を張っているわ。ほら、それが証拠に、彼の上にも灰燼が降り注がないで避けていくでしょ?」
 と婆さんが、指を指した。
 確かに、器用に天井から降り注ぐ、ガラスや木屑の破片が、玄武の玉周りを避けて落ちていく。

「何のために結界なんか張りやがったんだ?」
 乱馬が玄武を振り返りながら、尋ねる。
「もっと強い力を得るため…。だと思うわ。」
 婆さんが答えた。
「強い力?」
「ええ…今までは黒水晶の魔の力に支えられてきたけれど、それに代わる、力を取りこんでいるわ。見て?満月を。」

 婆さんが指差す方に、月明かりが、さあっとさしこめる。玄武はその光を、背中に浴びて、不気味なほどに光り輝いている。

「満月の光を浴びて、玄武は力を増殖させている。確実に、私たちに勝つために…だから、結界を張った…。そんなところね。」

「何、冷静に分析してやがるっ!ならば、結界を破ればっ!」
 乱馬は結界を撃とうと身構えた。それを、婆さんは横から慌てて、止めに入った。

「ダメよ。気弾くらいでは、結界は吹き飛ばせないわ。それより、あなたの力を奴に与えてしまうようなもの。」

 彼が張った結界は、黒く歪み、中で化け物姿の玄武が、余裕の笑みを浮かべながら、こちらを睨みつけている。

「玄武は本格的に始動したのね…。満月の月明かりが、彼の強力化を助けている。」
 婆さんは天上を仰いだ。そこには、真ん丸い月が浮かんで、こちらを見下ろしている。
「満月は美しいものではあるけれど、夜の闇を広げる魔性も持ち合わせているの。」
「あん?」
「つまり、光源が明るければ明るいほど、対する影は濃くなる…ってことね。昼間は太陽が支配する世界だけれど、夜の闇は月が支配する世界。新月の方が闇が深いって理解されがちだけれど、闇に巣食う魔物たちにとっては、満月の方が魔力を蓄え易いのよ。」
「…よくわかんねーな…。」
 首を傾げる乱馬に、あかねが横から口を挟んだ。
「こういうことじゃないの?ほら、昔から狼男は満月を見て変身するし…。百鬼夜行も満月の夜じゃなかったっけ?」
「昔から、重大な自己や犯罪は満月の日に起こりやすいっていわれているのと、同じ道理ね。」
 婆さんがあかねの言葉を受けて言った。
「そうなのか?」
「そうなのよ…。統計学的にも、満月の夜は事件や事故が多いってデーターが出ているそうよ。」

「で、本題に戻るけど、何であいつは結界を張って、強大化しようとしてるんだ?」

「あなたを倒して、降臨するため…なんでしょうね。」
「なるほど…。小さいままじゃあ、俺は倒せねーってか。上等だ!」
 乱馬の瞳がギラギラと輝き始めた。
「何、暢気なことを言ってるの?ああなった玄武は、どのくらい力を秘めているか、わかったものじゃないわよ。」
 婆さんが真顔になった。
「日本の古来には「柔よく剛を制すって言葉があるだろ?大きいからかなわねーなんて、俺は一切思っちゃいねーぞ。」
「強気もそこまでいくと、国宝級ね…。」
 ふっと婆さんの頬が緩んだ。

「ということで…おめえと婆さんは、一旦、この場から速やかに退散しろ!」
 と乱馬はあかねへと吐き出した。

「今でも後退しているわよ。お婆さんの張った結界にも護ってもらっているし…。」
 渋るあかねに、乱馬は畳み掛けた。

「あいつとの闘いは、これからますます激しくなる。婆さんの張った小さな結界一つで、護りきれるもんじゃねえんじゃねーか?」
 眉間に皺を寄せながら、乱馬が問いかけた。

「そうね…。せいぜい、降って来るチリや破片を避けるくらいしか、この結界は役にたたないわね。」
 と婆さんが言及する。

「悪い…。二人が俺たちから見えるところに居たんじゃあ、俺も本気を出せねえ…。二人を巻き込んじまう可能性が高いからな…。」
 乱馬も正直な気持ちを吐露する。
 婆さんの結界が万能でないならば、思う存分闘えない。また、玄武がどんな卑怯な手を使って来るかも読めなかった。彼女たちを盾に使われたら、自分の攻撃の手が緩むのも、至極当然なことだ。
「玄武は、おめえらを気遣いながら闘える様な柔な相手じゃねえ。」
 乱馬の瞳が険しくなった。

「あかねちゃん、後は乱馬君に任せて、私たちは下へ行きましょう。でないと、彼が思う存分に闘えないわ。」
 乱馬の空気を読んだ婆さんが、あかねに言った。
「でも…。」
「後ろ髪が引かれる思いなのはわかる…。でも、私たちがここに居たんじゃあ、彼は本気を出せない…。私たちを傷つけるわけにはいかないと、力を加減して技をかけてしまうでしょう。そうなれば、勝てる勝負も負けて終わるわ…。それでも良いの?」
 理屈では充分、わかっている。
 が、なかなか、頭で割り切れる者ではなかった。
「でも、あたしはあんたの戦いを見届ける、義務ってのがあるわ。だって、許婚だもの。」
 と、あかねが食い下がった。
「ダメだ!この闘いは、おめーには無理だ。それは、おめー自身が一番良くわかってんだろ?まだ、胡瑠姫に身体を支配されていたダメージだって、残ってるはずだ。」
 乱馬はあかねを見やった。気力で立っているものの、戦うところまで体力は回復していまい。トンとあかねの肩を押した。と、あかねの足元が覚束ずにふらつく。
「そら見ろ!そんな状態じゃあ、俺の方が気になって、闘いに集中できねえ!俺の目は節穴じゃねえぞ!」
 悔しかったが、彼の言うとおりだった。身体は立っているのがやっとの状態だ。乱馬は己の事を良く見ている…。だからこそ、後退を命じている。心から。

「俺があいつを倒す。だから…。おまえは、下へ行け!」
 乱馬が強く言った。

「わかった…。この場から離れるわ…。」
 あかねは、息を一つ吐き出すと、思い切ったように、乱馬に言った。
「よーし、素直が一番だぜ。」
 乱馬が白い歯を見せる。
「何、しょってるのよ…。たく。」
「うるせー!」
 互いに顔を見合わせて、にっこりと笑った。
「でも、約束して。絶対勝って、戻ってくるって…。」
 あかねは真顔だった。
「ああ、わかってる。」
「あたしをこの年で後家にしないでね。」
「アホ!結婚もしてねえのに、後家ってことはねーだろ!」
 いきなり何てことを言い出すのかと、乱馬はあかねを見やったところで、あかねが乱馬の頬に軽く触れた。
 一瞬、止まる、二人の時。
「お、おまえ…。」
 相変わらずウブな乱馬が顔を赤らめる。
「この続きは闘いに勝ったら…ね…。だから、絶対に負けないで!乱馬っ!」
 

「青春ねえ…。」
 婆さんがくすっと笑った。

「さて…。そろそろ気合入れねーとな…。奴の、玄武の変化もそろそろ終わりみてえだ。」
 乱馬が真正面を見据えて言った。
 大きくなった玄武の気が、いきなり高まったからだ。
 ゆっくりとこちらを向き直る。

「乱馬!絶対に勝ってよっ!勝たないと、承知しないんだから!」
 視線があった乱馬に、あかねはそう吐きつけた。

「ああ、任せろ!」
 そこに立っているのは、闘争心に燃え滾った、青年であった。
 グッと親指を立て強気を表明する。
「早く行け!戦いの幕が上がる前に…。」
 あかねは婆さんと二人、階段を駆け下りて、その場を離れた。闘いの場から離れるのは忍びなかったが、乱馬を信じて、去るしかなかった。



三、

『小僧!恋人との今生の別れは終わったか?』
 変化を終えたのだろう。玄武が乱馬に語りかけた。
 化け物でも、言葉を介している。
『わざわざ、最後の時を待ってやったのだ。恩にきるんだな。』
 と、余裕の笑みだ。
 乱馬があかねたちに後退するように説得している間に、玉の中から抜け出て、大きさも数倍になって巨大化した玄武が、そこに居た。
 黒い大きな岩のような甲羅と、鋭い歯を持った爬虫類のような顔つき、そして、長い尻尾。特徴的な怪物だった。

「けっ!誰が今生の別れをしたって?」
 乱馬はキッと真正面から玄武を見上げた。
 己の身の丈の数倍はある、玄武の身体。変化の時に現れた、不気味な黒い霧のような空気が煙っている。壊された建物の天上からは、蒼白い月の光が、二人の姿を、照らし出していた。
 あれほどまでに荒れ狂っていた海は、今は穏やかだ。空も晴れているようで、たくさんあった雲も吹き飛んでいた。
 夏の蒸し暑さが、再び戻ってくるような夜の四十万。

『ふふふ。小僧!儂が勝ったら、おまえの身体を貰うぞ。』
 と玄武が不気味に揺らめきながら言った。
『それから、おまえのあの彼女も一緒にな…。』

「また、訳わかんねー御託並べやがって…。」

『おまえを倒したら、儂の新たな眷属として、おまえを牛(伊奈魅)、あの娘を女(胡瑠姫)の傀儡に、改めてしてやると言っているのだ。』

「そいつは、光栄だね!だけど、胡瑠姫の玉は、さっき砕いたぜ。見てなかったのか?」

『ふふふ、胡瑠姫は特別なんでね…。簡単に復活させられるんだ。儂が勝ったら、おまえたち二人、屍となり果てるまで、我が意のままにこき使ってやるぞ。』

「そいつは、俺に勝ってからの話だろ?」
 乱馬がダッと駆け出して動いた。
 まずは、様子見の気弾をぶっ放す。
 玄武の目前で、気弾がはじけ飛んだ。だが、一瞬先に、玄武がそれを避けて回り込んでいた。身体がでかい割には、動きが機敏だ。
「ちぇっ!かわされたか。」
 乱馬が吐きつける。
 と、今度は、玄武の方がいきなり、動いた。

「わっ!やべっ!」
 玄武の気配を察知した乱馬が、避けたのだ。
 玄武の攻撃は、長い尻尾から振り下ろされた、直接的攻撃だった。
 乱馬の傍で、もうもうと砂塵が舞い上がった。館の床も、メリメリと音をたてて、壊れた。紙一重のタイミングで、直撃を避けたのだ。

『ふふふ、思ったより楽しめそうだな。』

「てめえ、己の館を壊しちまって…。勿体ねえ!」
 乱馬が吐きつける。

『我が魔力でまた、建て直せば済む話だ。どこまで、儂の攻撃に耐え忍べるかな…。』

 グオオオッっと一声、雄叫びを上げると、玄武はにっと笑った。

『試してやろうか…。ククク。』

 次の瞬間、背中の甲羅から、幾本もの触手が伸び上がってきた。
「なっ!」
 乱馬は思わず立ち尽くした。背中がゾッと震えた。
 それは、不気味な姿だった。できれば、直視したくないような、おどろおどろしい程忌まわしい姿だった。晦冥の王に相応しい形相。

『どら、捕まえてやろうか?』
 玄武が触手を一斉に動かして、乱馬を強襲する。

「気持ち悪いっ!」
 乱馬は地を這いながら逃げた。
 スボボボと音を立てながら、傍の床や柱が容赦なく、這いながら近づく触手によって、薙ぎ倒されていく。
 良く見ると、焦げたような痕が床や柱の木片に出来上がっている。
「くっ!」
 避けきれずに、一本、触手が乱馬の左足を掠った。ズボンがシャッと避けて、火傷のような痛みが皮膚に走った。
「痛っ!」
 思わず声が漏れた。見ると、触手がかすめた皮膚からは、うっすらと血が滲み出している。火傷のような裂傷だった。
「やべえ!もしかして、こいつ、物を溶かす力を持ってやがんのかっ?」
 そう吐き出した。

『ご名答!こいつは元々儂の腹の中にある消化器官が持つ触手。そうら、消化液が先から漏れる。ククク、上手に逃げないと、触手に触れ、おまえを溶かしてしまうぞ。』
 玄武が目の前で笑った。

「ははは、本格的にやべえな…。」
 乱馬は嘯いた。どうやって、この危機を乗り越えるべきか…。
 闘いはまだ、始まったばかりだった。


 





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