第十二話 胡瑠姫と伊奈魅


一、

「凛華ちゃん、あなたは一体…。」
 そう問いかけたあかねに、凛華は言った。
「我が名は胡瑠姫…。玄武の巫女。」
 海魂は己の名前をあかねに告げる。口元には、妖艶な笑みが零れ落ちていた。ものの言い方も、少女のそれではなくなっていた。どこか命令調の口調になっている。

「喜べっ!我はそなたを、我が魂を移転させる傀儡に選んだのだ…ククク。」

「よ、喜べるわけないでしょう?そんな、訳のわからないことに!」

「黙れっ!」
 そう言い放つと、凛華がクンとあかねの目と鼻の先に掌を出した。
「しばらく、黙りやれっ!うふふ。」
 嫌な笑いを浮かべると、凛華はくるりと後ろを向き直った。

「紫苑…。こちらへいらっしゃい。今のでいささか、力を使い過ぎました…。この娘にいろいろ訊いて、次の行動へ移る前に…そなたが欲しいわ。」
 妖しい少女の瞳が、紫苑を流し見た。
「御意…。」

 紫苑はすっと、凛華の前にひざまずく。それから、ゆっくりと、凛華の小さな身体を包み込むように、両手で優しく抱いた。
 と、凛華の一回り小さな、手が、すっと紫苑の髪を掻き揚げた。とても、子供の動作とは思えない。
 いや、それどころか、あかねの目の前で、信じられない光景が展開していた。
 紫苑が凛華へ顔を近づけると、そのまま、唇を合わせたのだ。 
 目を背けたくても、視線は固まったまま、動かない。

(え?き、キッス?)
 
 あかねが度肝を抜かれるように目を凝らすと、青年と少女の、二人の永い接吻が始まったのである。
 ゴクンと凛華の喉がしなったようにも思う。夢中で貪るように、凛華は紫苑の唇を求めて、激しく、口元を動かしている。舌先が紫苑の口内へ押し込まれ、吸い上げているような動きだ。
 突然、凛華は下に仰向けに寝転がり、甘えるように、紫苑を誘う。紫苑は凛華の上から覆いかぶさり、優しく、体中を撫でながら、唇を合わせ続けた。
 じっと見ていると、こちらが恥ずかしくなる。青年が幼い娘とじゃれあっているのだ。

 数分間、その状態が続いた。
 あかねは目をそらせずに、その光景を見守り続ける。身体が硬直していて、動かないだけではなく、視線も外すことができなかったのだ。何かの意志が強く己の身体に絡んでいる、そんな感覚が突き抜ける。
 我々の交わりを見ておけ、と言わんばかりの感覚だった。

 やがて、二人は、ふううっと長いため息と共に、身体を離した。心なしか、紫苑の方が疲れて、大きく息をしているように見えた。それに反して、血色がなかった凛華の頬は、赤く艶やかに輝いている。

「ふふふ、気力を漲らせるには、若き男の気が一番よ…。本来なら、口だけではなく、もう一つの口元から、英気を吸い上げしものを…。前回、こんな、幼き者の身体を傀儡にしてしまったせいで…。長い間、わらわには、男日照りが続いてしまったわ…。」
 凛華はあかねを見やって続けた。
「わらわが何故この娘に憑依しているのか、問いたがっている顔だな、そなた。知りたいかえ?」
 にっと笑いながら、凛華が言った。
「わらわは、五十年前、この地で魂遷に失敗し、この娘、紫苑の妹の身体の中に寄生したのよ。」
「紫苑さんの妹さんの身体ですってえっ?」
 あかねが驚きの瞳を見開いた。
「ああ、この娘、紫苑と共に、この島の別荘地に来ておったのよ。
 本来ならば、まだ初潮を迎えていない少女は、傀儡には向かぬ。そのような者には用が無かった。それ故、この娘に魂遷などするつもりはなかったのだ。わらわは魂遷が終われば、虚(とみて)の童女を食らいたいという願望を満たすため、この娘は餌とするつもりで、地下牢に閉じ込め生かしておいた。
 だが、ちょっとした、手違いでねえ…。魂遷をするための傀儡が足りなくなったのだよ。」
「何で傀儡の数が足りなくなったの?ってことは、誰かが逃げたの?」
「ああ、一人、魂遷の刹那に、海へ逃れた娘がいたのだよ。双子の娘だった…。故に、魂遷する刹那で名前を間違えたのだ…。その隙を突いて逃げられてしまった…。」
 忌々しげな表情を一瞬凛華は手向けた。そして、更に続けて語る。
「逃げた娘は、暗い海へ落ちた。海の藻屑となって、生きてはおらぬだろうが…。
 既に、他の者への魂遷の咒法(じゅほう)は発動しており、他の若い娘へ遷るのは不可能だった。わらわの魂が一番最後に儀式を行ったのだ!」
 その時の、悔しさが思い出されたのか、凛華の瞳がますますきつくなる。が、一瞬それが薄れ、笑いが浮かぶ。
「もし、あの時、この娘の身体すらなければ、そのまま、我が身は消え果ていたかもしれぬが…。思い出したのよ…。この紫苑の妹を、虚(とみて)の餌にするために地下牢へ捕らえていたのを…ね。
 初潮を迎えぬ童女への魂遷は気乗りはしなかったが、あの時は選択の余地は無かった。仕方がなかったのだ…。すぐにでも魂遷せねば、その時憑依していた傀儡の身体から精気が抜け、わらわは滅んでしまうやもしれぬ…。」

「な、何てことを!妹の唇に平気でキスなんかするの?尋常じゃあないわ!」
 あかねが吐きつけた。

「それがどうした?傀儡になってしまえば、兄妹だろうと、恋愛関係だろうと、関係はない。現に、虚(とみて)を入れた「立浪」とメイドの「さくら」は、許婚同士だったのだぞ…。」

 「許婚」という言葉を聴いて、あかねがピクッと動いた。心が言葉に反応したのだ。


「傀儡は永劫に時を止めるのだ。傀儡となって捕らわれた途端、成長もしなければ、老いもしない。そのままの姿で次の魂遷が来るまでの時を過ごす…。」
 胡瑠姫が笑った。
「だから、メイドさんたちも紫苑さんたちも、若々しいままなのね。」
 あかねの表情が、一層、険しくなった。
「伊奈魅を身体に入れた傀儡は、時折、島の結界を越えて人間界へ出向く。そして、生身の人間から生気を吸って戻ってくる。その生気をわらわは、伊奈魅と身体を重ねて、吸い上げる…。
 だから、わらわの傀儡には若い娘の身体が一番なのよ…。うふふ、我が傀儡となるのは、おまえのような初々しい乙女だと更に良い…。」
「なっ!」
 あかねは絶句した。
「だが、五十年前、わらわが憑依したのは、まだ初潮も迎えぬこの童女だった。幼き童女の身体は未熟だからな…。男と直接交わることはさすがにできぬ。無理に交わったら、身体が壊れてしまうからな…。
 この娘に憑依して以来、わらわは伊奈魅と身体をあわせられず、こうやって、口からしか人間の生気を吸い上げることしかできなかったのだ…。口だけだと、あまりたくさん吸い上げられぬ。身体を合わせ、快楽を感じながら搾取すると人間の生気は妖艶さを増す。最高の活力源だったのに、五十年間、我慢せねばならなかったのだ。」

 凛華は、あかねに近づくと、嬉しそうに見上げた。そして、ぐるぐると彼女の身体に触れながら、見渡す。

「おまえのこの胸、平坦ではなく、やわらかく、ふくよかで丸い…。弾力と張りがある。形も良さそうだ…。」
 ピクッとあかねの身体が動いた。どこを触っているのよ!といわんばかりに目は吊り上っている。
「この胸、この腰、この尻の瑞々しきよ…。」
 そして、じっと股間を見つめる。
「それに、そなた…まだ、男を知らぬ乙女だな…。」
 胡瑠姫はにっと笑った。
「なっ!」
 あかねの顔が真っ赤に熟れる。何を尋ねるのと言わんばかりに。
「あの処女の血の疼きと初々しき快楽で、再び、女を始められる…。うふふ。だからこそ、わらわはそなたを傀儡に選んだのだ…。」
 ペロッと舌先を出した。
「おまえの痛みは我が痛み。おまえの快楽は我が快楽…。傀儡とわらわは一心同体。共に、これからの数十年…若いままで快楽を楽しもうではないか…。」
 その、あまりの艶かしさに、縛られたまま、あかねはぞくっと身の毛がよだった。勝気な瞳に、一抹の不安が広がっていく。

「これで、この幼き身体を抜けられる…。今度の傀儡は、生気を貰う時、男と唇だけではなく、身体全体を使って、深く交じり合えるのだよ…。あの、交わりの快感も、体中で受け止められる…。あな、嬉しや…。」
 じっと、あかねを見据える、瞳。身体は子供でも、その身体に潜んでいるものは、まさに「魔性」。

「あんたなんかに、勝手に身体を乗っ取られてたまるもんですかっ!」
 あかねは気焔を吐いたが、身体の自由はきかない。その言葉に、凛華は反応せず、すっと、近寄ってきた。

「汝、天道あかね…。」
 そう言いながら、胡瑠姫はあかねの顔を己の方向へと向けた。
「ご覧、我が漆黒の瞳を…。」
 縛られた体では、抵抗することもできない。必死で視線を反らせようとしたが、何故か、目は釘付けられて眼球が動かない。見たくは無いのに、胡瑠姫の顔へ手向けられていく。
 丸く円らな瞳が、そこに待ち受けていた。

 ドクン!

 漆黒の瞳と視線が合った時、鼓動が激しく唸った。
 閉じたいのに、閉じられない瞼。見たくないのにあわせられる視線。
 胡瑠姫の瞳の中は、闇色に包まれていた。その闇が、あかねの瞳いっぱいに、広がるようなイメージを受けた。どろどろした闇。漆黒が足元から迫り来る…そんな、感覚に襲われた。
 気がつけば、身体はガタガタと震え始めている。
 と、同時に、得も言えぬ恐怖があかねを支配し始めた。

(何?この感覚…。嫌、このままでは闇に飲み込まれる…。)

「恐いか?あかね…。そなた、そんなにこの先の闇が恐いか?」
 あかねの心の動きを察したのか、愉しそうに、胡瑠姫が尋ねた。

「でも、そなたには闇を受け入れてもらわねばならぬ…。」
 掌を受けに向けて、凛華は体内から黒い玉を一つ、浮かび上がらせた。その玉の表面には「女」という文字が紅く浮かび上がっていた。その玉の中から、なにやら人差し指と親指でつまみ出した。それは、植物の種に似ていた。
 種を取り出すと、再び、玉は凛華の掌に吸い込まれるように消えていく。

「これは、胡瑠姫の傀儡種。これを受け入れて後、数分で、おまえの身体の中に、胡瑠姫を迎える巣窟が萌芽する。」
 
 あかねは凛華の言葉に、首を横に振って抵抗した。

「ふふふ、おまえが抗う事はできないんだよ。ほら。」
 そう言いながら、無理矢理、凛華はそのまま、掌をあかねの心臓部へと黒い種を押し付けた。
 あかねの肌に触れ、どす黒い闇が、種から煙ったように見えた。
 と、種はまるで、あかねに吸い込まれるのを良しとするように、そのまま、胸にずぶずぶと埋もれていく。

「あああああっ!」
 あまりの不快さから、あかねは、蔓に縛られたまま、叫んだ。
「いやああああっ!」
 ゆっさゆさと蔓はあかねを抱え込んだまま、揺れる。が、勿論、解けるはずもない。体感したことがないほどの、気持ち悪さが胸を突き抜けていく。

「ふふふ、種を胸に沈めてしまえば、楽になる…。ほら、だんだん、不快感は遠のいて行こう?むしろ、不快感が快感へと変わる筈さ…。ククク。」
 あかねの目の前で凛華が笑った。

 ドクン、ドクンと埋められた種が、あかねの心臓の鼓動と共鳴しながら、脈打ち始めた。
 
「ああああああ、ううううう……。」
 種が体内に沈むにつれ、あかねの抗う声が小さくなっていった。
 そして、やがて、声は聞こえてこなくなり、俯いたまま、黙ってしまった。

 どのくらい沈黙していたのか。
 シュウウッと音が、あかねの口元から漏れてきた。いや、音だけではなく、黒い吐息が、煙のように口元から昇りたつ。
「種はしっかりとおまえの胸に定着したようだね…。ふふふ、今からおまえは胡瑠姫の傀儡。その種を通じて、我が身と繋がっている…。」
 にっと、凛華が笑った。
「そら…。」
 凛華はあかねを縛っていた蔓へ、術をかけた。と、はらりと、あかねを拘束していた蔓がすっぱ抜けた。そのまま、トンと、前のめりに手をついて倒れこむ。
 そのあかねの目の前に、手を差し伸べながら、凛華は言った。

「今から、あかね、おまえはわらわ、胡瑠姫の傀儡。今はまだ、この少女の内にある我が身、胡瑠姫を受け入れる器。
 月がのぼり、闇の力が満ちれば、おまえの中の種が萌芽する。その時、私はお前の中に遷るのさ。だから、おまえは私、私はおまえ…。仲良くしようぞ…。」

「はい、胡瑠姫様。」
 あかねの顔から、一切の表情が抜け落ち、意志が消えたように、じっと、凛華の方を眺めながら、声が漏れた。

「その前に…。あかね、お前に尋ねておきたいことがある…。 おまえと共に、この島にやってきた、あの両性具有の女…いや、本当は男か…。奴の名は、何と申す?」

「さおとめ…らんま。」
 尋ねられるままに、あかねの口が、ゆっくりと乱馬の名を象る。何のためらいも、そこには存在しない。

「さおとめ…らんまか。」
 凛華の反芻に、こくんとあかねの小さな頭が揺れた。

「伊奈魅…。奴の名は「さおとめらんま」と申すらしい。」
 凛華は後ろに佇んで、じっと、凛華とあかねの様子を見ていた紫苑へと語りかけた。
「あかね…。紫苑の胸に、その「さおとめらんま」という奴の名を、指でなぞりながら記せ。」
 凛華はさらに、あかねに命じた。

「はい…。」
 あかねはすっと立ち上がって、紫苑の方へと向かった。

「紫苑…。前をはだけて、彼女から奴の名を受けよ。」

「御意…。」
 紫苑は羽織っていたシャツの前ボタンを外し、そのまま、胸から腹にかけての肌をさらけ出した。見てくれよりも、しっかりしている男の身体が、そこへあらわになる。
「紫苑の身体の中央部へ、奴の名を上から下へなぞれ。」
 更に、凛華はあかねに命じた。

 細くて長い指が、紫苑の肌の前ですっと止まった。何かしらの戸惑いが、彼女には残っているのだろう。

「何を迷うことがあるか?おまえ、その「さおとめらんま」とかいう男を愛しておるのだろう?だから、わざわざ、伊奈魅を玄武様がおっしゃったとおり、次郎太からその、さおとめらんまという男に変更してやったのだよ。わらわの好意を無にするつもりかえ?」
 あかねの本心を覗くように、凛華が言った。
 ためらいがちに揺れる、あかねの頭。
「ならば、惑うな。その男を伊奈魅にすれば良い。さおとめらんまという愛する男を…。」

「乱馬を伊奈魅に…。」
 その名を告げられて、あかねの表情が変わった。うっとりとした表情を浮かべる。恋焦がれる乙女のような、妖艶な雰囲気が漂い始めた。
「そなたの中に植えた胡瑠姫の傀儡種は伊奈魅を待っておろう?どうじゃ?」
 たたみかけるように、凛華が問いかける。
「はい…。」
「おまえが愛する男を慕うように、おまえに与えた傀儡種は伊奈魅を求めているのだ。ふふふ。おまえの焦がれる相手は、その「さおとめらんま」という男ではないのか?」
 その言葉に、胸がズキンと反応した。
 普段は心の奥底に眠っている、乱馬を想う心が、疼きとなって、現れる。
「はい…。あたしが求めているのは、乱馬…。」
 あかねは無意識に口走っていた。
「相思相愛ならば、尚更、迷うことなどなかろう?さあ、紫苑の身体に、その男の名を示せ。でなければ、その男と結ばれる前に、紫苑がおまえの純潔を奪ってしまうかもしれぬぞ。それでも、よいのか?」
 その言葉と共に、目の前の紫苑の瞳が怪しく光る。
 あかねは恐れおののいたように、さっと、離れそうになった。が、紫苑はあかねの肩を、がっしりとつかんでいた。
「別に、僕はこのまま、君を繋がっても良いんだよ……。いや、むしろ、その方が嬉しいんだけれどねえ…。あかね。」
 紫苑の細めた瞳が、あかねを脅かすように見下ろしてくる。
 あかねは首を横に振った。

「おまえが、紫苑ではなく、そのらんまという男を望むのなら、その名を、そこへ示せ。さすれば、紫苑はおまえを放してくれるぞ。それとも、蒼太とか言ったあの若者に、伊奈魅の玉を埋めて、奴との交わりを強要させてやろうか?」
 誘惑と脅迫とが入り混じる、凛華の言葉。
 あかねは首を大きく横へ振った。

「ならば、ここへさおとめらんまの名前をなぞれ!」
 耳元で甘く囁かれた。

 おろされていたあかねの指が、再び紫苑の肌へと吸い付く。

「早乙女乱馬」。
 あかねの人差し指は、戸惑いながらも、その名をなぞっていった。

 「早乙女乱馬」。その五文字をなぞり終えたとき、紫苑の手が、あかねを放した。
 ふうっと、あかねの口から妖艶なため息がこぼれる。

「早乙女乱馬…。ふふふ、奴の名は早乙女乱馬…。」
 にたりと凛華が笑った。そこに浮かんだのは、子供の屈託ない笑いではない。大人びた嘲笑だった。
「これで、奴も我が手に落ちたも同然…。もうじき、奴がここへ来る…。伊奈魅の傀儡にされに…。くふふふ。」
 隠微な笑いだった。
 
「あかねよ…。もうすぐ、おまえの愛しき男がここへ現れる。精一杯もてなしてやろうぞ。」
「はい…。胡瑠姫様…。」
「素直な娘は好きじゃ、ククク。」
 あかねは表情を失ったまま、そこに佇んでいた。

「さて、紫苑よ、もう少し、我におまえの気を与えてたもれ。…。」
 そう言うと、すっと、紫苑を己の頬に手を添えた。
 紫苑は、乞われるままに、凛華を緩く抱き込んだ。そして、再び、合わされる、二人の唇。合わされた紫苑の口から湧き立つ気は、すっと凛華の中に入っていくように見える。
 背後の黒水晶が妖しく光った。月明かりもないのにだ。

「月が昇り始めたか…。」
 ふっと、凛華が笑った。
「戻って来たか、つばき。」
 と背後にすっと音も無く立った影に声をかけた。
「すみません、胡瑠姫様。しくじりました。」
 ポタポタと海の水が滴り落ちる身体で、つばきが頭を垂れる。
「断崖絶壁から、一緒に抱え込んで、海面に打ち付けてやりましたが…。あの婆さん、死ぬどころかケロッと海面から上がっていきました。」
 と、報告する。
「まあ、良い。あの婆さんをこの部屋から遠ざけたことは、褒めてやろう。海面から上がってくるのは、いくら、東方蒼龍の身内とて、並大抵ではあるまいさ…。」
「では、やはり、あの婆さんは東方蒼龍の…。」
「誰が宿っているかはわからんがな…。あの並外れた結界能力といい、断崖絶壁から落とされても生きていたことといい、あの婆さんに力を与えているのは、東方蒼龍の眷属の者と思って間違いなかろう。ことあるごとに、我らの計画を尽く邪魔しようとした奴ら、東の海魂…。」
 胡瑠姫は、粗方、婆さんの正体を予測していたようだ。それに、あからさまな敵意も持っている。
「ふふふ、いくら、婆さんが現れたとしても、もう遅い。
 もうすぐ、月の出と共に、玄武様の魔結界が発動する。他の眷属の者は魔水晶が作る魔結界を突き崩すことすらできまい。
 玄武様が降臨なされば、いかに東方蒼龍の眷属でも、止められはせぬ。
 日の本の国を支配したら、次は、東方蒼龍へと攻め入るのじゃ。ふふふ、ははは。」
 凜華は笑った。

「さて、つばき…。」
 凛華はつばきを流し見て言った。
「おまえにも、存分に働いて貰うよ…。」
「御意。」

「ほら、待ち人も来たようだ。」

 凛華はきびっと、扉の方を見た。
 強い気がこちらに向かってくる。

「紫苑とつばきは祭壇の下に隠れやれ。」
 凛華は二人にそう言いながら目配せした。
 紫苑はつばきと共に、祭壇の後ろ側へと身を潜めた。
「我は黒水晶の影に…。」
 凛華は水晶の近くに身を潜めた。

 ドアが乱暴に開けられ、彼が姿を現した。


二、

 バンッ!

 右手で思いっきり開いたのだろう。ドアが壊れんばかりの勢いの音が鳴った。
 ここまで、一気に駆け上がって来たのだろう。ハアハアと荒い息を漏らした。が、さすがに、普段の運動量が違う。すぐさま、息を整える術は持っている。深く腹式呼吸しながら、息を静めていく。

「あかねっ!無事かっ?」
 そこに、ぼんやりと立っていたあかねを見つけて、乱馬は声をかけた。あかねは、ゆっくりと乱馬の方へ向き直り、にっこりと微笑みかける。
 だが、その微笑に、何かいびつな物を感じた。許婚だから知り得る、あかねの異変。
「来てくれたの?」
 そう言いながら競りあがるあかねの細い腕。
 だが、乱馬は伸びてきた、あかねの腕を振り払った。
「あかね…。おまえ…。」
 乱馬の表情が、みるみる険しくなっていく。
 そして、祭壇の方向へと鋭い視線を手向けた。

「てめえら、あかねに何をしたっ!」

 乱馬は祭壇へ向かって、吐きつけた。
 シンと静まり返る、礼拝堂。

「そこに居ることはわかってんだ!出てきやがれっ!紫苑っ!」
 そう声を荒げた。

「さすがに、私の居場所などお見通しというわけですか。」
 紫苑がすっと、祭壇の後ろ側から身を現した。

「あったりまえだ。てめえがそこから、こちらを伺ってる気配なんか、素で読めらあっ!もう一人、そこに潜んでいるんだろ?」
 まだ、警戒を緩めないで言った。

「あら…。私のことまで、見通せたようね…ぼうや。」
 すっとつばきが出て来た。

「ああ。そこらの奴とは格が違うんでね…。」

「さすがに、虚(となみ)とやりあっただけはあるな…。まさか、君の本当の姿が、男だとは思いもよらなかったが…。」
「呪泉郷で溺れた間抜けだったのね。ぼうやは。」

「うるせー!黙りやがれっ!」

 つばきの放った蔑視的言葉に、乱馬は強く、刺激された。
 そのうえ、あかねに何かをされたと思い、怒り心頭になっている。
 結果的にはそれがいけなかった。激高は冷静な判断を誤ることがある。武道家の彼が、そのことを考えないわけではなかろうが、如何せん、あかねが絡むと、昔から冷静さを欠いてしまうことが多々あった。彼にとって、あかねの存在は、「諸刃の剣」なのかもしれない。彼女のために頑張れる部分と、彼女の危機に対して冷静さをつい、見失ってしまう部分と。
 今の彼は後者、つまり、冷静さを欠いてしまったのである。
 そう、紫苑とつばきにばかり目が行ってしまい、横に居る、もう一人の存在を見逃してしまったのだ。無論、胡瑠姫が瞬時に己の気配を隠したことにも起因はあろう。胡瑠姫は人間ではない。憑依体とはいえ、紫苑や他のメイドとは、格が違った。気配を悟られぬように消す能力も持っていたのだ。彼女は北方玄武の巫(カムナギ)でもあったからだ。
 彼女は身を隠したまま、虎視眈々と、獲物の様子を伺う。闘いからは、完全に一歩引いていた。

 睨み付ける乱馬の前に、紫苑が立ち塞がって言った。
「ねえ、君。君は既に、玄武様がお認めになられた。強い精神力と肉体を持っている…。僕は、争いごとは嫌いなんだ。だから…。どうだい?僕の中に居る、「伊奈魅様」の傀儡の後釜を引き受けてくれる訳にはいくまいか?」
 紫苑が、乱馬に申し入れてくる。到底、飲み込めない申し入れだ。

「けっ!いやーなこった!誰がそんな、わけのわかんねー!」

「あら、私たち海魂はわけのわかんない奴らではないわ。人類がまだ、二足歩行をもしていない遥か昔から、海に生きてきた一族よ。」
 つばきが笑っていた。
「君が嫌がっても、僕の中の伊奈魅は、君が欲しいと、さっきからずっと、僕の中でざわついているんだ…。」

「だったら、どうたってんだ?」
 乱馬が動いた。先制攻撃を仕掛けたのだ。

 ぶわっと、辺りの空気が振動する。
 まずは、気弾を一発、紫苑目掛けて打ち込んだ。
 
 爆弾か何かが爆裂したような、激しい風が、乱馬を軸に衝撃波となって流れていく。
 ゴオオッと音がして、紫苑やつばきの黒い髪が流れた。

「ふふふ、相当、気負い込んでいるんだね。でも、この娘が居れば、激しい攻撃はできない。そうだよね?」
 紫苑が笑った。彼は、一瞬の刹那にあかねを抱きあげていた。あかねは、心を動かされる事無く、じっと、紫苑の腕に抱かれたまま、放心している。恐がりもしなければ、驚きもしない。無表情なのだ。

「もう一度きく、おまえら、あかねに何をしたんだ?」
 乱馬は激しく叩きつけるように問いかけた。

「ククク、胡瑠姫様を迎える準備をしてあげただけだよ。心を手繰り寄せるため、傀儡種を植え付けてあげただけ。他に何もいじっちゃいない。…。」

「傀儡種だって?」
 乱馬の顔が曇った。

「ああ、身体の中で萌芽すれば、この娘は胡瑠姫様と一体化する。そして、この娘が我が一族の巫となるのだ。」

「そんな、異物をあかねに植えつけたのか?」
 乱馬はますます、心をたぎらせていく。

「この娘だけではないさ。他の次郎太や他の娘たちにも植えてやったわ。」
 紫苑の脇からつばきが口を挟んだ。
「もうすぐ、一斉に、魂遷が始まるのだ。そして、玄武様が再臨し、我が一族は、世界を蹂躙するのだ。」

「世界征服ってわけか…。だが、絶対にそんなこと許さねえっ!」
 再び激高した乱馬と、紫苑たちの闘いが幕を開く。
 あかねを彼らに捕らわれている以上、乱馬の分が悪かったが、だからと言って見ているだけとはいかないだろう。
 そこここで、建物を壊さない程度の、破裂音が鳴り響く。乱馬が気弾を打つ音だ。
 紫苑に抱えられているあかねに当てないように、細心の注意を払わねばならない。

「ククク、君は本気では撃てないようだね?」
 紫苑が笑った。

「てめえも俺の身体が欲しいから、本気で打ってこねえじゃねえか。」
 と、乱馬も負けずと吐きつける。

「でも、僕はこんなことだってできる。」
 そう言いながら、あかねをぎゅっと抱きしめる。まるで、乱馬に見せ付けるようにだ。
「なんなら、この可愛らしい唇に、ベーゼでもしてあげようか?」
 と紫苑は笑った。

 その言葉を聞いて、乱馬がますます、怒り始めた。

「いい加減にしやがれっ!」
 
 バンッと打った気が、あかねの前ではじける。
 ビクンと、あかねの身体がわなないた。両手で両耳を塞いで、怯えている。

「あまり乱暴だと、女の子には嫌われるわよ。」
 とつばきが、笑っている。

「わかった。あかねを攻撃できねえからな。先に、倒すのは、てめえにしたっ!」
 乱馬は予めそのつもりだったのか、身を翻して、つばきを強襲した。油断していたつばきは、いとも簡単に、乱馬に捕らえられた。
「へっ!捕まえたっ!紫苑、攻撃すんなよ。でないと、おめえの大事なご主人様の頚城(くびき)を落とすぜ。」
 とつばきの首へ腕を添えた。彼の手をもってすれば、容易いことだろう。だが、それは、つばきが人間である場合だけ。
「おまえ、私が誰かわかっていて、こんな戯事をおやりかい?」
 と、気取って尋ねる。
「ああ、わかっててやってらあっ!」
 乱馬がダッと動いた。やるのは今しかない!
 乱馬は懐から白い札を取った。婆さんに教えてもらったとおり、そいつをつばきの身体に貼り付けて言った。
「汝、胡瑠姫!我が手により呪縛されよ!」
 と。

 つばきが胡瑠姫を擁した傀儡ならば、この咒法は有効だったろう。だが、つばきは、ただの木偶だ。

「ククク、あはははは。かかったな、小僧!」
 乱馬に頚城を押さえ込まれていた、つばきが笑った。そして、身を翻して、乱馬のバックを取った。

「なっ、何でだ?何で、呪縛されねえっ?」
 乱馬が焦って叫んだ。手には白い札が握られたままだ。
「それは…。私が胡瑠姫だからよ。」
 脇から一人の少女が現れた。
「え?」
 ぎょっとした。そこに居たのは、自分たちが行動を共にしていた少女、凛華が立っていたからだ。
 そして、今度は紫苑が叫んだ。呪縛の咒法を。

「汝、早乙女乱馬!我に狩られよっ!」

 バキバキッと音をたてて、乱馬を捕まえていたつばきの姿が崩れ去る。人肌から、みるみる、蔓が触手のように伸び上がってきた。そして、一気に乱馬の身体へと巻き付く。
 手や足、胴体、部位を構わず巻きつかれてしまった。
「しゃらくせえっ!」
 乱馬は一気に気ほ放出させて、そいつを振りほどこうとした。だが、放った気は、触手から逆流してきた。

「うわああああっ!」
 思いっきり放った己の気に、焦がされた。激しい痛みが身体を貫く。
「くっそーっ!何だこの蔓はっ!」
「無駄よ…。おまえは胡瑠姫様の手に落ちた。早乙女乱馬よ…。」
 つばきの顔が蔓の幹から浮き上がって、笑った。
「畜生!名前で呪縛されたってことか?」
 乱馬は、キッと後ろを振り返る。
「そういうことよ…。あなたは、胡瑠姫様に捕らわれたの。生憎、あなたが傀儡となる「伊奈魅(いなみ)」は先人の紫苑本人ではなく、その主となる胡瑠姫様が狩られても良いって決まっているのよ。」
 そう言いながら、下を見た。そこには凛華が誇らしげに立っていた。

「何で、貴様らが俺の名を…。知っている?」
 乱馬は吐きつけた。知られる筈が無い己の名前を使われたことへの疑問が、一気にわきあがったのだ。

「しれたこと…。この娘に尋ねたら、すんなりと答えてくれたわ。」
 凛華が高笑いしながら、あかねを見やった。あかねは、紫苑の傍に、無表情で立ち尽くしている。

「あかね…。そうか、あかねに喋らせたのか。」
 ググッと乱馬は握り拳を握り締めながら言った。体内から、気を右手に集中させる。奇襲を仕掛けて、呪縛を破る、そういう戦法に出ようと思ったのだ。

 その様子を察したのか、凛華がにやっと笑いながら言った。
「無駄だ。そうやって、そこから気弾をこちらへ向けて打つつもりだろうが…。放つ前に、つばきが全部吸い上げてしまうよ。うふふ。」

 凛華がそう、乱馬に言った言葉はウソではなかったようだ。
 それが証拠に、力がカクンと抜けていく。手に集めた気が、どこともなく、消え去ってしまうのだ。
「くそうっ!完全にお手上げってことかよっ!」
 乱馬は吐きつける。

「さて、ショータイムの始まりだよ。紫苑。」

 そう言いながら、凛華は紫苑へ目配せした。と、わかっていますと言わんばかりに、紫苑が部屋の隅に行き、何やらスイッチを入れた。

 と、ガコンと音がして、天井がゆっくりと開き始める。天へ開いている天窓だ。
 空はすっかり暗闇に覆われ、夜空が広がっていた。あれほど吹き荒れた嵐も、いつの間にか遠ざかってしまい、雲間が切れている。その合間に、星の輝きも見えた。

「あかね、こちらへ…。」
 凛華が命じるままに、あかねは、ゆっくりと彼女の方へと歩み寄る。そして、凛華の前に、ひざまずいた。

「てめえ、あかねに何をするつもりだ?」
 乱馬が険しい表情で尋ねた。前に行こうと足掻いたが、動かない身体。手足にはつばきの身体から伸びた蔓の触手にがっちりと捕縛されていた。強固なまでに絡みつく蔓。
「何をって?決まっておろう…。胡瑠姫様が彼女の中へ遷るのだ。」
 紫苑がそう言った。
 凛華は隠微な笑みを浮かべた。勝ち誇った嫌な笑いだ。

「時が満ちる…。我が魂をこの凛華という少女から、遷す時が来たのだ。やっと、幼き少女の身体から、解放される日が来たのだっ!」

 凛華は天を仰いだ。
 と、雲間がすうっと切れ、月が姿を現した。
 今日は満月だ。
 欠けたることのない、真ん丸い月がこちらを見下ろすように、天に輝いていた。

「さて…。まずは、わらわから、この娘の中へ。」
 凛華はあかねに目配せする。と、あかねはすっと彼女と正面から向き合った。
 掌を合わせて、目を閉じる。
「汝、我が、胡瑠姫の御魂をその身の中へ受け入れるかや?」
 凛華がゆっくりと尋ねた。
「はい…。胡瑠姫様…。御心の赴かれるがままに…。」
 あかねはゆっくりと答える。
「その身を我に差し出すかや?」
「はい…。この身はあなたさまの物…。どうぞ、お入りください。胡瑠姫様…。」
 凛華はにやっと笑った。
「傀儡種は月明かりを受けて、あかね、そなたの中で萌芽したな…。良かろう…。もう、遷っても。」

「やめろーっ!あかね。奴らの言葉に耳を傾けるなーっ!奴を受け入れるなーっ!」
 乱馬が叫んだ。が、あかねの耳には届かないようだ。

「我、そなたの中へ御魂を転じん!」
 凛華の言の葉と共に、ゴオオッと波紋が波状に広がった。手と手を合わせてあかねと向かい合ったまま、ふわっと浮き上がる凛華の身体。と、一瞬の刹那、凛華の身体の中から、確かに何かどす黒い気のようなものが、あかねの身体に流れ込んだように見えた。
「あかねーっ!」
 乱馬の絶叫と共に、凛華の髪は後ろになびくように弥立ち、あかねの身体がピクンと小刻みに震えたような気がする。
 やがて、荒立った気がストンと収まりを見せる。そして、凛華の身体は、コトンと大きな音をたて、そのまま、床へと投げ出されるように倒れた。起き上がることも無く、そのまま、うずくまり動かなくなった。
 見開かれていた瞳は、ゆっくりと閉じられていく。
 今の今まで感じていた「悪しき気配」は、凛華の身体からは抜け去り、代わりに、あかねの身体から、漂ってくる。

「ふふふ…。うふふ…。」
 あかねの口から、あかねの声色で、別人の言葉が漏れてくる。
「凄い、凄いわ…。この娘の身体、思った以上に力もあるし、瑞々しい。わらわの傀儡に、相応しい上級品だわ…。」

「てめえ…。」
 乱馬ははっしと、あかねを睨みつける。あかねの清廉な微笑みが、胡瑠姫によって汚され、乱馬には別の人格に見えた。
「あかねの身体に乗り移りやがったのか…。」
 乱馬の怒りが、沸々と伝わってくる。

「そんな、恐い顔をしなくって良いわよ…。あなたにもすぐに、伊奈魅を遷してあげるわ。」
 そう言いながら、乱馬の方へと歩み寄った。
「紫苑…。来なさい。」
 胡瑠姫は笑いながら、紫苑を呼んだ。
 乱馬がここへ入ってきた頃は、表情豊かだった紫苑だが、ふつっと表情に人間らしさが途絶えていた。能面のように硬直した顔。無表情になってしまっていた。本当に紫苑なのか、疑わしくなるくらいに。
 胡瑠姫はあかねの細い手を使い、シャツの前ボタンを一つずつ外していく。前をひらりと肌蹴させた。紫苑のか細い肉体が露わになる。日に焼けることなどないのだろう。それとも、傀儡だからか、肌色は女性のように白く、腹筋も割れて居ない。まるで、病人のような、貧弱な身体だった。
 筋骨隆々に鍛え上げられた、乱馬の美しい肉体とは、全く対照的だった。
「伊奈魅…。彼があなたの新しい傀儡よ。」
 あかねはそう言いながら、すっと、紫苑の肌蹴た胸に手を当てた。
 と、ビクンと紫苑の身体が唸った。口から言葉こそもれなかったが、紫苑の顔がにっと笑ったように見えた。
「そう…。伊奈魅は、玄武様同様、早乙女乱馬の身体が、気に入っているのね…。」
 あかねは悩ましげに、乱馬の身体を撫で上げた。
 その手には、人のぬくもりが感じられない。

「さあ、早乙女乱馬の身体の中に入りなさい。伊奈魅。」

 そう言って、掌を彼の前に翳す。すると、紫苑の胸のど真ん中から、掌にすっぽり収まるピンポン玉くらいの黒い玉が、浮かび上がってきた。最初は出来物のように、皮膚が盛り上がり、それが次第に浮き出し、最後に紫苑の身体から抜けた。その玉を、あかねの長いしなやかな右手が摘み上げた。ずるっとした何かがまとわりついている。何かのタマゴのようにも見えた。
 玉を抜かれた紫苑は、お約束どおり、凛華のように、混沌としてそのまま床に崩れ落ちた。

「ふふふ、長きに渡って、伊奈魅のお世話、ご苦労様…。あなたとは唇以外では触れ合えなかったけれど…それなりに、おいしい気を、胡瑠姫のためにたくさん運んでくれて、礼を言うわ。
 もう、あなたの役目は終わったわ。
 お休みなさい。凛華ちゃん…あなたの兄と共に永遠に目覚めない眠りの中へ…。」
 その声は最早聞こえていないかもしれない。紫苑は瞳を見開いたまま、じっと動かなくなってしまった。抜け殻になってしまった傀儡。彼が辿る運命は、火を見るよりも明らかだろう。

「てめえ…。そうやって、幾つもの人間の身体を玩具のようにもてあそんで…。」
 乱馬が激しい表情であかねの中の胡瑠姫へと言い放った。

「そうね…。もてあそんでいるように、そなたには映るのかもしれないけれど…。我らが生きるためには、仕方がない犠牲よ。」
 あかねの口元が、にっと笑った。
「さて…。今度はそなたの番…。そなたに伊奈魅を紹介するわ。」
 そう言いながら、目の前に紫苑から取り出した玉を、翳してみせる。つばきの蔓木に絡めとられている身の上では、目と鼻の先に翳されても、触れることすらできなかった。気弾で壊そうにも、肝心な気は一転集中できない。
「そなたには傀儡種は使わない…。直接、私が、この手でこの玉を埋めてあげるわ…。それがシキタリだから。」
 にっと、あかねを借りて、胡瑠姫が笑った。
「五十年前に傀儡にする予定だった、桜の姉、薫って言ったかしら、彼女が海へと投身してしまって…、伊奈魅を受け入れた紫苑にやってあげられなかった事を、乱馬、そなたには全部やってあげられる。」
 くすっとあかねの顔で胡瑠姫が笑った。
「でも、その前に…。」

 彼女は、いきなり、乱馬に向かって、水を浴びせかけた。どこに隠し持っていたのか、バケツを持って、ばっしゃりといった。

「てめえっ!この期に及んで、何、いちびってやっがるーっ!」
 女に変化した乱馬が、激しく罵った。

「あら…。本当に、水で女に変化(へんげ)するのねえ…。」
 胡瑠姫がゲラゲラと笑っている。あかねに馬鹿にされているような気がして、とても不愉快な気持ちになる乱馬。
「玄武様が眷属として気に入られるのがわかるわ…。そなたのその身体なら、玄武様を再臨させるに相応しい。自由に男と女を入れ替われる、優れた身体…。それが核となる…うふふ。」
 くすっと乱馬の頬に手を触れながら、悪魔の笑みを浮かべる。

「玄武様だと?誰だ、そいつはっ!」
 水を滴らせながら、乱馬が言った。

「私たち、北方玄武の一族を束ねる御方よ…。訳あって、今は黒水晶の中に眠っておられる。ほら、あそこに。」
 あかねがさした指先には、黒水晶が不気味に光り続けている。玉の中に、あの不気味な瞳が、浮かび上がってきた。ここへ最初に訪れた晩、見紛ったかと思った、あの禍々しい瞳が、そこに映し出されていた。
 その中にこちらを伺う瞳は、この前よりもはっきりと姿を浮き上がらせていた。いや、それだけではない。凍れる視線が、乱馬の肉体をじっと見詰めて来る。その視線が痛いくらい、不気味さを漂わせている。
 
 あの時は半開きだったが、今は殆ど見開いているように見えた。どこを向いているかわからなかった視線が、こちらをじっと見ているようにもようにも思える。

「ほら…。乱馬、あかね、そなた方が所望なのよ。玄武様は…。」
 ゾクゾクっと乱馬の全身に鳥肌がたつ。
 ここに来た晩、最初に感じたあの、嫌な感覚が、全身を覆い尽くす。
 只者ではない。あれは、魔性の者だ。彼の魂がそう警鐘を発する。

「そなたの両性具有の素晴らしい肉体から発せられた精に頼れば、素晴らしい玄武様を再臨させられる。」

「どういう意味だ?それは…。」
 はっしと睨みつける乱馬に、胡瑠姫は余裕で答えた。

「交わるの…。今、ここで、あなたは…。この娘、あかねと。」
 
 どおおっと、礼拝堂中に、妖気が立ち上がった。

「交わるだってえ?」

「ええ、そうよ…。あかねと交わって、それから、玄武様を降臨させる美しき玉を生み出してもらうわ…。ねえ…。」
 すっと、あかねの手が乱馬の身体に触れた。
 ぞわっと乱馬の身体が唸った。
 あかねの顔で胡瑠姫が迫って来る。その、魔の手から逃れる事はできるのか。
 緊張感が、彼の上を支配し始めていた。

 



 


 







一之瀬的戯言
 島の名前や地名は創作です。適当につけました。
 で、何で舞台が北陸方面かと言いますと…。ネタバレしそうなんで、また後で(こら!
 また、まだ完結しておりません。今、暑さと戦いながら現在、多分最終話になる第13話を仕込み中です。
 本格的サスペンスを書きたかったのですが、やっぱりファンタジーになっとるし…(苦笑
 あ、途中でやばい表現なども出てきますので、そちらが苦手な方は避けてくださいませ。


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