第十一話 蒼龍

一、

「婆さんも悪運が強いな…。今、ここに居るってことは、魔の海から生還したってことだ。」

 乱馬がため息を吐きながら言った。
 鈴音婆さんの口から、五十年前の衝撃の事件の真相が、語られていた。

「闇の海で漂っていた私は、ある浜辺へ打ち上げられたの。

 何日も漂い続け、もう駄目だって思った時、潮の流れが引き寄せるように、私を導いてくれたの。
 上がった地は小さな島。地図にも載って居ないわね。彷徨う島、常人には見えない島。それが蒼龍島(せいりゅうとう)だったの。」
「蒼龍島?」
「ええ、蒼龍一族が暮らす、静かな島よ。気付くとそこの浜辺に打ち上げられていたの。」
「蒼龍一族?」
「ええ、蒼龍一族…人間じゃなかったわ。彼らは人魚だった。」
「人魚だあ?」
 乱馬が驚いた。
「ええ、そこの人たちには、魚の尾びれがあったわ。男女共々ね。私を助けてくれた人たちは、人間とは違う、別の種族だった。
 そう、私が流れついた場所は、人魚たちが結界を張って暮らす島だったの。
 そこは結界に護られた見えざる島で、決して人間や船舶は出入りできないようになっていたわ。でも、何故か、結界が開いて、私が紛れ込んでしまった。」
「何で、わざわざ結界なんか張ってあるんだ?」
「それは…彼ら、蒼龍一族が平穏に暮らすための、措置だったそうよ。
 古来、人魚は人間にとって、見世物の対象だったでしょう?人間はずるくて、貪欲。人魚の身体の秘密を知れば、人魚狩だって始まるかもしれない。
 実際、結界が無かった、古代社会では、人間たちは、好んで人魚を狩っていたそうよ。」
「人間が何故、人魚を狩るんだ?見世物にでもするためか?」
「ほら、次郎太さんが昔語りで言っていたでしょう?人魚の肉には、不老不死の作用がある…って。覚えてない?」
「んなこと、言ってたっけかなあ…。」

 乱馬は首を傾げた。他の部分が強烈過ぎて、人魚云々の話は忘れていた。

「古代社会では、人魚の肉を食(は)めば、不老不死を得られる…なんてね、そんな言われがまかり通っていたそうよ。まあ、人魚さんたちに言わせれば、そんなことは、妄言らしいわ。人魚の肉を食べたところで、不老不死になるわけではない…。でも、少しだけ若さと寿命を延ばすことはできたらしいわ。
 若さを保ちたい人間たちは、海洋へ出たついでに、人魚を狩る。

 人魚たちは、自分たちの身を、海洋の果てに隠してしまうことにしたそうよ。」

 私は、自分の身の上に起こった事を、懸命に話したわ。信じてもらえなくても良い、とにかく、誰かに話して少しでも、恐怖や姉を残してきてしまった己の罪に耐えようとしていたのかもしれない。
 人魚たちは黙って私の御伽噺を聞いてくれたわ。
 そして、一言言ったの。

『それは大変だったね…ここで暮らすが良い。』とね。

 行くあても無かったし、帰る術も思いつかなかったから、私は、その島に逗留することに決めたわ。」

 婆さんの瞳は真剣だったので、作り話でもなさそうだった。

「人魚ねえ…。んなのが、存在するのか…。まあ、さっき俺がやりあった化け物だって、居るくれーだから、嘘じゃねーんだろうがな…。」
 乱馬は、婆さんへと静かに声をかけた。

「海洋には、人魚だけではなく、人間の知らない種族が幾通りか居るそうよ。総じて、「海魂(あやかし)」と呼び習わすわ。」
「あやかしねえ…。海坊主とか、蛸坊主ならわかるけど、人魚も海魂になるのか?」
「ええ…人魚も人間から見れば、海魂の類ですもの…。
 で、彼らは、東方蒼龍、南方朱雀、西方白虎、北方玄武…。おおまかに、その四つに分けられるそうなの。
 訊いた事があるでしょう?それぞれ四方には東方蒼龍、南方朱雀、西方白虎、北方玄武の四神が配されているって。」
「えっと、確か、中国の考え方だよな?日本の飛鳥時代の古墳の壁画なんかに良く描かれた四神獣だろ?」
「ええ…。
 人魚たちによれば、日本の近海には、東方蒼龍とそれから北方玄武、その二つの海魂の種族が居るらしいわ。
 人魚たちは、蒼龍一族と呼ばれる。それに対して、北方玄武と呼ばれる海魂が居る。」

「もしかして…その、北方玄武が奴らなのか?」
 乱馬の突っ込みに、婆さんは首を縦に振った。

「ええ…。そういうことになるわ。」

「でも、あいつらに、尾びれは無かったぜ?」

「尾びれはなくても、化け物に違いは無かったでしょう?」

「そうだな…。人魚みてーに優雅じゃねえ、見てくれからしても、不気味な化け物だった。」
 乱馬は頷いた。
「ってことは、あいつら北方玄武は、その、東方蒼龍とかいう一族とは、根本的に何か違う生き物なのか?」

「ええ、そういうことになるわね。」
 婆さんが頷いた。

「じゃあ、あいつら、北方玄武ってのは、一体何なんだ?」

「元々、玄武も蒼龍と同じ根っこの一族だったらしいのだけれど…。」

「同じかあ?あの、化け物が人魚と同じ生き物なのかあ?」
 乱馬が驚きながら、問い質す。

「ええ。いつの間にか「生」に執着するあまり、独自に進化してしまったと、蒼龍の人魚たちは言っていたわ。
 どうも、人間と交わりを持った辺りから、おかしくなったみたいなの。」
「人間と人魚の交わりだあ?」
 乱馬は怪訝な顔を手向けた。
「どういうふうに交わったのかは、私にはわからないけれど、玄武は人間と人魚の混血のなれの果てらしいわ。
 人間は邪気が強い生物なんですって。その邪気を己が身に取りこんで、玄武は独自に変化を遂げていったそうよ。
 それに対し、蒼龍の一族は必要なだけを自然界から取り込み、地味に生きることを選んだ一族。人間との交わりも持たず、隔絶した絶海の孤島にひっそりと身を寄せて生きる人魚の一族…。
 悠久の時を穏やかに流れてきた、一族。人間の邪気に触れぬよう、普段は、大海の名も無き島に結界を張って隠れ住んでいるの。」
「婆さんがそこへ入っても、奴らは平気だったのか?」
 乱馬が鋭く質問した。
 婆さんも人間の女だ。当時は若かったろうし、人魚と誤って交わる可能性だってあったはずだ。

「まあね…。ある咒法を私に施してくれたから、一緒に暮らせたわ。」
「ある咒法?」
「ええ…。人魚たちが私の邪気に当てられないように…私に咒法をかけたのよ。」
「咒法ねえ…。俺からは、普通の人間にしか見えないが…本当は、尾びれがあるとかか?」
「尾びれなんか無いわよ。」
 婆さんは笑った。
「でも、私も蒼龍の結界の中で、ずっと彼らと一緒に暮らすために、咒法を受け入れたの。そうぜざるを得なかった…。
 何故なら、蒼龍の結界から外へは簡単には出られなかったから。帰りたくても帰れなかったの。もちろん、人魚たちも私を人間界へ帰したくても、帰せなかった。」
「あん?」
「さっきも言ったでしょう?人間と隔絶するために、蒼龍一族は、強い結界を張っていたって…。その結界は、数十年に一度しか開かないらしいのよ…。」
「強い結界ねえ…。」
「その結界が開くのは、数十年に一度、数日間だけ、結界が緩むらしいわ。北方玄武の魂遷が近づく頃。その邪気に当てられて、蒼龍の島の結界が緩むそうなの。
 だから、私がその島へ流れついたのだけれど…。
 残念ながら、私が気付いた頃は、結界は固く閉じた後だったわ。
 今度開くのは、数十年先…。そう聞かされた時は、目の前が真っ暗になった。

 落胆に暮れる私に、角(すぼし)は、すすめてくれたわ。」
「すぼし?」
「蒼龍の長(おさ)の名前よ。
 角(すぼし)は呪術の達人でもあったわ。
 
 出る事が敵わない結界なら、蒼龍一族の術を身に付けて、次に、結界が開いたら、現世に帰り、北方玄武の魂遷計画をブッつぶすという目的を持てば良い…とね。
 
 それを目方に、私は、北方玄武の企みをブッつぶすために、修行してきたの。…私たち姉妹のような犠牲者を、二度と出さぬために…蒼龍一族の呪術を身に付けたのよ。」

「そいつが、占いって訳か。」

「占いと侮る事無かれ。大海の孤島で星を読むうちに、あなたの強い光を感じたわ。その強い星の光があれば、北方玄武の企ては無に出来るって、私の占いは告げていた…。
 そして、時が満ち、結界が緩み、私は、戻って来たの…人間界にね…。」
 婆さんは、ニッと笑った。」

「それからもう一つ、あなたに言っとかなきゃね…。」
「あん?」
「私の中には、蒼龍の七宿、「心(なかご)」が眠っているの。」

「心(なかご)?」

「『心(なかご)』と呼ばれている東方蒼龍の眷属よ。心穏やかな海魂よ。」

 婆さんは、きびっと乱馬を見つめて言った。

「おい、何でそんなのが、婆さんの身体の中に眠ってるんだ?」
 乱馬が、恐る恐る尋ねた。

「さっき、言ったでしょう?私が結界の中で生きていくために必要な咒法を施されたって…。その咒法が、これ…。
 つまり…蒼龍の七宿、「心(なかご)」を身体の中に受け入れたの。私が海魂を取り込めば、海魂と同化できるわ…。これが、その証…。」

 婆さんは左腕をまくしあげた。すると、腕の上腕部が鈍く光り始め、そこに「心」の文字が浮かび上がる。青丹の文字だった。

「じゃあ、婆さんも、立浪とかいうおっさんと同じように…。」
 乱馬の顔がみるみるうちに曇った。

「同じかもしれないし、同じじゃないかもしれない…。
 ただ、私は、立浪やホテルのメイドたちとは違うわ。「薫」という人間の心を失ってはいないわ。「それに、心(なかご)」に変化することもない。
 そんなことは、どうでも良いの…。
 私はね…。この「心(なかご)」の力を自ら望んだのよ。姉さんたちの魂を救い出し、玄武の守り神でもある黒水晶を元に戻さねばならないの。そのための布石よ。」
「黒水晶を元に戻すだあ?あの、不気味な黒水晶のことだよな?」
 乱馬が尋ねた。

「あの水晶は元は、透明だったのよ。黒水晶ではなかったの。しかも、蒼龍一族の一族の宝珠だったの。
 でも、玄武はその水晶玉を奪ったの。奴らの手に渡って、水晶は汚されていき、いつしか真っ黒に変色してしまった。
 狩られた人間の魂が黒水晶に蓄積された結果、負の禍が生じたのだと言われているわ。無理やり、現世から引き剥がされ、狩られた人間の恨みや辛み、そして悲しみや苦しみが変化し、水晶を黒く汚してしまったのでしょうね。
 これ以上、黒水晶を汚せば、必ず、人間界に禍が生まれる。
 黒水晶を清め、元の透明に戻すのが、蒼龍一族の望みでもあるの。姉さんたちの仇を討ち、黒水晶を取り戻す…それが、私の強い望み。
 そのためには、何だってやるわ。」

 黒い不気味な水晶が元は透明だったとは、勿論、初耳だし、想像もつかないことだった。

「じゃあよう、黒水晶を清めれば、あかねたちは憑依されねーんだな?」

「ええ。でも、あの黒水晶は負の力がたまり続けているわ。いずれ、あの中に玄武の名を語る魔人が生まれると思っていたけれど…。その危惧が迫っているみたい。あなたも見たでしょう?不気味な瞳。」

 乱馬はハッとした。
 ここへ来た初めての夜、月明かりに照らされる水晶玉の中に、確かに見た「不気味な瞳」。半開きになって、虚ろだった片眼の瞳。
 乱馬は脳裏にあの「半開きの瞼」を思い浮かべ、ぞくっと背筋に冷たいものが走った。

「闇に侵された玄武をこの世界へ降臨させてはいけないわ。」

「その、玄武が降臨したらどうなるんだ?」

「今よりも、もっと強い魔性が生まれる。この世を脅かしかねない、強い魔性。北方玄武は世界を真っ黒に、闇色に変えてしまうつもりなのかもしれない。
 ねえ、乱馬、奴らの計略をつぶすためにも、あなたの力を貸してちょうだい。」

「わかったよ…。けっ!乗りかかった船だ。俺が手伝ってやらあ…。」

「あら、頼もしいわね。」
 婆さんが笑った。

「ただし、俺の優先目的は、あかねの救出だぜ。それだけは言っとくぜ。あかねは俺の許婚だ…。だから、俺はあかねを護ってやらねばなんねー。
 あいつをみすみす魔の手に与えてしまうわけにはいかねーからな。」

「許婚かあ…なるほどねえ…じゃあ、あなたに私の力の殆どを託すわ。乱馬君。蒼龍の、心(なかご)の力の一部を受け取って!」

「え?」
 唐突に、婆さんは乱馬の身体へとタッチした。
 掌から、送られてくる、気の力。沸々と体内に取り込まれる、鈍い光。
「な、何だ?この力…。」
 不思議な力だった。身体が一瞬、ゾクッとわなないたような気がした。

「思ったとおり、あなたの中には相当な潜在力が眠っているわね。」
 婆さんがにっこりと微笑んだ。

「潜在力?」

「ええ、蒼龍を凌駕するくらいの大きな力…。」

 乱馬には思い当たる節があった。そう、女傑族の婆さんから伝授してもらった技「飛竜昇天破」。その力をさしているのではないだろうか。

「必ず、今託した「心の力」が役に立つときが来るわ。刹那でこの力は開闢される。私には生憎、この力は使えないの。」
「何だかよくわかんねーが…。わかった。」
「最後に、私が占った結果を告げておくわ。あくまで、占いだから、微妙にずれが生じるかもしれないけれど…。参考までに訊いておいて。」

 乱馬はこくんとうなずいた。もともと、占いなど信じない性質だが、この際、きいておくべきかと判断したのだ。現実主義者の彼にしては珍しいことだ。


「玄武の黒巫女、胡瑠姫(うるき)はメイドの「つばき」さんの中に居る可能性が高いわ。」

「黒巫女胡瑠姫…。確か、立浪の奴も、その名を口にしたな…。」

「ええ、端的に言えば「巫女(みこ)」ってところかしら。古代より北方玄武の口寄せとして君臨してきた「巫女」の末裔。それが「黒巫女」なの。」

「そいつが、つばきってメイドの中に居るんだな?えっと、つばきってメイドは確か…。」
 乱馬はつばきの容姿を思い出そうとした。

「ええ。さっき、私を奈落へと突き落とした、背が高くて髪の毛が短いメイドよ。」

「ああ、あいつか。」

「それから、虚(とみて)は立浪に居たから、伊奈魅(いなみ)は紫苑ね。この二つは男にしか憑依できないの。
 桜には「室(はつい)」が居たわ。これは直接私が確かめたの。この他に、「斗 (ひつき)」、「危(うみやめ)、「壁(なまめ)」が萌黄、かえで、萱野の三人のメイドたちのいずれかに巣食っているわ。」

「何だか良くわかんねーが、そいつらがそれぞれに巣食っているってんだな。」
「ええ。それから、私が占ったところ、胡瑠姫はあかねさんを狙っている。」
「誰が誰に憑依するってえのは、誰が決めるんだ?紫苑か?」
「まさか。各人の能力に合わせて、選ぶのは、巫女、胡瑠姫。北方七宿を総括する親玉よ。」
「その、胡瑠姫ってのは…確か。」
「つばきというメイドの中にいるわ。彼女、お七に少し似ているらしいの。」
「お七に似ているだってえ?」
「ええ、私の中の「心(なかご)」が仕切りに、そう告げてくるの。」

「全て「魂遷」は胡瑠姫が握って、これまでも、悲劇を繰り返してきたわ。
 紫苑も立浪も、その駒でしかないわ。
 でも、気をつけて。奴らはあなたをも狙うかもしれない。」
「何でだ?」
「多分、あなたが男だということは、さっきの虚(となみ)との戦いの中で、敵側に大きく知れ渡ってしまったでしょうから…。七宿のうち、「虚(となみ)」と「牛(いなみ)の二人は男でないといけないの。
 だから、次郎太さんと蒼太くん、二人をこの世界へ引き寄せたのでしょうけれど…。三人を天秤にかけたら、あなたが一番強い。だから、傀儡の変更を模索しているかもしれない。」
「つまり、俺を傀儡にしようと企んでいるかもしれないってことか?」
 婆さんはコクンと頷いた。
「充分有り得ることよ。彼らはより強い男の肉体を望むわ。だから、傀儡にされないために、注意して欲しいの…。傀儡術は名前で縛るの。あなたの名前を奴らに知られないこと。その一言に尽きるわ。名前さえ、知られなければ、狩ることはできない、傀儡にすることができないの。」
「わかった、だから、名前を語るなってんだな?」
「そういうこと。それから、これを。」
 婆さんは懐からお札を出した。まだ、幾つかの札を手に隠し持っているらしい。まずは白い札を渡した。
「この札は?」
「胡瑠姫が襲って来た時、迷わず使いなさい。『汝、胡瑠姫!我が手により呪縛されよ!』って唱えて胡瑠姫の身体に貼れば、発動するわ。その動きをとめることが出来る。そして、これ。」
 婆さんは青い札を渡した。青色の札など、珍しい。
「こいつもお札だな。」
 墨字でそれらしき凡字が書かれている。
「これは最後に使うと良いわ。玄武を封じる魔札よ。本当は使わせたくないんだけれど…。」
 と婆さんの顔が少し曇った。何か、使わせたくない理由があるのだろう。
「でも、この場合、こんなことを言っている場合じゃないから…。玄武が出てきたら、最後の切り札として使いなさい。」
 真っ直ぐに乱馬を見ながら言った。
「わかった。使わせてもらう。」
 乱馬は迷うことなく、お札を二枚受け取った。

 と、婆さんの顔が見る間に曇った。
「どうした?婆さん。」
 乱馬がハッとして彼女を見返す。
「いけない!満月が昇る刻限に近づいている。」

「満月?」

「ええ、今夜は満月。奴らが「魂遷」を行えるのは、魔の力がみなぎる、満月の夜だけ…。」

「何だって?じゃあ、今夜さえ乗り切れば…。」

「魂遷は延期されるわ…。でも、黒水晶を浄化させる、大きなチャンスの夜でもあるの。
 急がなきゃ!」
「具体的に…俺は何をすればよい?」

「あなたは、水晶玉が飾られている礼拝堂へ行って頂戴。そこで、魂遷をしようとして集っている、奴らを滅して欲しいの。
 気弾を奴らに浴びせて、傀儡玉と呼ばれる、小さな黒い玉を彼らの身体から抜けばよいわ。」
「気弾を浴びせるだけで良いんだな?」
「ええ。さっきあなたに託した、心(なかご)の力が、彼らを浄化して、禍々しい玉を体内から放り出してくれるわ。」

「わかった。婆さんはどうする?俺と一緒に行くか?」

「私は…。逃げている客人たちを助けながら、別口で上に行くわ。まだ、彼らに狩られていない人が残っているかもしれない…。運が良ければ、上で再会しましょう。」
「ああ、倒されるなよ…。婆さん。」
「あなたもね。」

 乱馬は正面から見据え、天上を目指して、岩肌を登り始めた。
 その姿を見送りながら、鈴音婆さんは、ひとりごちる。

「悪く思わないでね…。乱馬君。あなたを散々、利用することになりそうだけど…。」

 それから、婆さんは横の穴へと入って行った。



二、

 婆さんが己の過去を洗いざらい乱馬にぶちまけて居た頃、こちらにも、己の醜い姿を曝け出す者が居た。
 乱馬にやられて、敵前逃亡を企てた、立浪である。
「くそうっ!あいつは一体、何なんだ?何故、女から男に変化をした…。確かにこの目で見た…。」
 ハアハアと荒い息を吐き出しながら、立浪は声を絞り出した。
 裏通路を使って、何とか執務室に戻った。執務室は、あかねと蒼太が頑張っている地下二階よりも更に一階下の地下三階の片隅にある。暗く歪んだ部屋だ。電気もつけずに、その場に倒れ込む。
「しこたま、やられてしまったか…。虚(とみて)の奴も傷が深いのか、浮き上がって来もしないな…。ははは、ざまあないな、虚よ。」
 自嘲気味に笑った。
 壁際まで行き、そのまま、壁を背にへたり込む。

「精力種(ちからだね)…。あれを使うか…。」

 ハアハアと荒い息を投げかけながら、空を睨んで喘ぐ。執務のデスクの引き出しに、手を伸ばすと、ガサガサと漁り始める。そこには、黒い小さな種が入った小瓶が入っていた。震える手で、そいつを持ち上げ、そのまま、フタを回しあける。
 ジャラジャラッと音がして、中から、小粒が掌へ迫り出してきた。
 無我夢中でそいつを掌ですくい上げると、口に押し付けるようにして、放り込んだ。ベタッとした錠剤の舌触り。そいつを、水なしで唾と共に、咽喉の奥へと流し込む。
「こいつで、少しでも、生命力を回復させないと…。」

 いつもなら、酷い怪我をした時や疲れた時は、この錠剤がすぐ効いて、また、気力が身体からわきあがってくる。今回もそれを期待したのだが、身体の中からは、何の変化も現れなかった。そればかりか、息すらも整わない。

「畜生…。やっぱり、僕にも魂抜けの時が迫っているのか…。」

 立浪は、そのまま、壁を背に、ふうっとため息を吐き出した。
 こういうことは始めてだ。いや、ここまで敵に身体を傷つけられた事は無い。時折、海岸で遊ぶ人間や小さな船を操る人間の生気を吸いに出かけて、激しく抵抗され、いささか身体に傷を作ることはあったが、ここまでこっぴどくやられたのは初めての経験だった。
 虚の身体の折に傷つけられた場所と同じ場所に、人間に戻っても、傷が浮き上がって、痛々しく腫れ上がり血が滲み出していた。肋骨(あばら)や内臓の一つや二つも、折れているかもしれない。全身に痛みが充満している。

「この種子で、何でも治せるんじゃなかったのか…。」
 痛みに耐えながら、立浪が呟く。

「仕方がないわ。種が効かないほどに、あなたの身体が傷つけられ、同時に、魂抜の「刻限」が迫っているんですもの。」
 暗闇の向こう側から、女性の声がした。

「誰だっ!」
 立浪の顔が険しくなった。
 そこに居たのは、つばきだった。
「つばき…。何しに来た?破れた我が身を、嘲笑いに来たのかっ?」
 
「確かに、面白い光景だけれど、そうも言ってられないわ。…やっぱり、やり損ねたのね。玄武様が言っていたとおりになったわ。」
 無表情に、つばきと呼ばれた女が、ゆっくりと立浪に話しかけながら近づく。
 ゴクンと唾を飲み込む立浪に、さらに女は話しかける。
「さっきの戦いの様子…ずっと、見ていたわ。玄武様と一緒に。」
 唾の瞳が妖艶に輝いた。
「玄武様が目覚めた…のか?」
「ええ、とっくに。」
 無表情だったつばきの中に笑みが浮かんだ。妖しい微笑みだった。
「玄武様と一緒に見ていたって、俺様とさっきの女の闘いをか?おまえ、婆さんを穴へ突き落として、俺と乱子を導いてくれた後、紫苑のフォローのために、上の階に行ったんじゃないのか?」
 立浪の顔が曇る。
「いいえ、ずっと、あなたの傍であなたの様子を見させてもらっていたわ。だって、玄武様に言われたんですもの…。あなたがあの乱子って子を蹂躙できるか否か、しっかり見ておくようにってね…。」
「な、何だと?さっきの、あれを見ていたのか?」
 立浪の顔が更に険しさを増す。
「当然よ、さっきのそれが私の役目ですもの。」
 すいっとつばきは、立浪の傍に降りてきた。
「何のために、そんなことを…。」
 ハアハアと立浪の吐息が荒くなる。脂汗が額から頬を伝って、下へ落ちた。

「何のため?決まってるわ。玄武様降臨のためよ。他に理由なんて、無いわ。玄武様は、天道乱子を伊奈魅(いなみ)に据えるおつもりみたいね…。」
 無表情のまま、つばきが言った。
「あいつを、伊奈魅にだって?」
「ええ、あなたも見たでしょう?彼女の本性を。うふふ。もう一度、言うわ。これは玄武様の命令よ。わかる?」
 つばきは愉しげに笑った。

「玄武様の命令は絶対服従だな…。」
 自嘲気味に、立浪が吐き出した。

「ええ、そのとおりよ。胡瑠姫様の命令よりも優先しなければならないわ…。
 でも、立浪…いいえ、士郎。
 あなたには、まだ、在りし日、人間だった頃の心が残っているわね。さっきの体たらくを見て、明らかになったわ…。」
 つばきは、静かに言い放った。

「人間の心…そんなものはとっくに…。」

「朽ち果てたとでも断言するつもり?」
 唾の口元が上に上がった。
「あなたには、迷いが残っているわ。いえ、贖罪したいとでも言うのかしら?」
 クスッとつばきが口元で笑った。無表情を通してきた彼女が笑うことなど、珍しいことだ。
「だったら、何だと言うのだ?」
 立浪は声を振り絞って尋ねた。顔面は蒼白になり始めていた。このままだと、動けなくなるのも時間の問題だろう。

「あら、居直ったわね!立浪。」
 また、クスッとつばきが笑った。

「ここらで、人間である立浪を、永遠の眠りに就かせてあげなさいって…。玄武様が私におっしゃったのよ、立浪。」
 
「眠り?」
「ええ、あなたの中に残る人間の心が、眠りを欲しているのでしょう?この先は観たくないと…。違うかしら?」

「でも、僕がこのまま、斃れてしまったら…。虚(とみて)の玉は一体…誰が…。」

「それは、心配には及ばないわ。新しい傀儡は、ちゃんとそこに連れてきたもの。」

 つばきの促しで、立浪が後ろを振り返ると、そこには、次郎太が佇んでいた。

「あの男にもう、私の中に居る虚を渡せというのか…。」
 立浪がつばきを仰ぎ見た。
 つばきの冷たい手が、きゅっと立浪の右手を引っ張って握り締めた。
 振りほどこうにも解けない。そのくらい強い力がつばきにはある。
「ええ…。そういうことになるわ…ね。」
 つばきは、立浪の前にすっと近づくと、掌を心臓へ向けて、翳した。

 ドクン!

 つばきの声に反応して、一瞬、立浪の心臓が鼓動を打ったように見えた。
 すると、どうだろう。

 つばきの手が立浪の心臓辺りに、ズブズブと音を立てて、飲み込まれていく。

「ウウウウウ…。うわあああっ!」
 立浪は、苦しげに喘いだ。
 当然だ。己が肉体の中に、つばきの右手が入っていくのだ。
 勿論、抗おうとしたが、そこに縛られたように、動く事すらかなわなかった。

「見つけた…。虚(とみて)の玉…。」
 つばきの動きが一瞬止まる。ニッとつめたい微笑が、彼女の口元に浮かび上がった。
 つばきは、立浪の身体の中へ入れた手を、ぐっと手繰り寄せるように、引き上げた。
 
 ズブッ!

 嫌な音を立てて、立浪の肉体から、つばきの手が再び、外へと現れた。その指先には、小さな透明の玉が握り締められている。

「うっ!」
 立浪は、そのまま、つばきが手を入れていた傷痕を押さえ、壁をベタッと背をくっつけ、力を失う。身体から、血の気が一斉に、引いていくような感覚に襲われた。

「おまえの身体から「虚玉(とみて玉)」を抜き去ったわ。ほうら。」
 そう言いながら、つばきは、取り出した小さな玉を、立浪の鼻先へと翳して見せる。
「これで、おまえはお払い箱。あと、数分で朽ち果てるわ。」
 つばきが、冷たく言い放った。

「ふん、これで、化け物とさよならできる…か。」
 フッと立浪の口元に、微笑が浮かび上がった。

「良かったじゃない…立浪。五十年間、虚の宿主、ご苦労様…。後は、ここで静かに死の時を待ちなさい。」
 クスッと最後に笑うと、つばきはくるりと背を向けた。
 そして、傍らに立っている次郎太にそいつを差し出した。

「さあ…。今度はあなたにこれを…。」
 つばきは、玉を左手に持ちかえると、すっと、次郎太の心臓の上辺りに、その玉を押し付ける。そのまま、つばきは、玉をクンッと右手の人差し指で押した。と、どうだろう。ズブズブと次郎太の中へと沈み込んだ。
 ビクンと次郎太の身体が、一瞬、動いたような感じだった。
 彼の瞳は虚ろで、空を泳いでいる。とても、正気で居る風には見えなかった。
 玉は次郎太の胸にお吸い込まれる事無く、皮膚に張り付くようにして、途中で止まった。少しだけ、その身の中に埋めて、そのまま、浮き出している、そんな感じである。

 グオウッ!

 次郎太は獣に似た雄叫びを、そのまま、上げた。
「ガルルルルル…。」
 次郎太は膝を突いて、へたり込む。

「どうした?何故、玉は身体に吸い込まれぬ?」
 苦しい息を吐きつけながら、立浪がその様子を見て、つばきに問いかけた。

「ふふふ。今回の魂遷は特別なの。」

「特別の魂遷だと?…どういうことだ?」
 苦しさを忘れて、つばきへときびすを返した。

「玄武様が再臨されるのよ…。この世界にね。」

「玄武様が再臨…まさか…。」

「そう。そのまさか…の時を迎えるの。」
 つばきは笑った。乱馬のことをさしているようだ。
「玄武様は人間の身体を軸に、再臨されるのよ。ふふふ、そうしたら、今度は、人間界に玄武の力を示して、この小さき、日ノ本という国をまずは、海の底へ導かれる。数多、この北の中海に眠る、吾らが玄武の民の魂を、一つ一つ、人間へ埋め込み、傀儡にするの。壮大よねえ、この葦原の中つ国の住人、一億数千万を傀儡にする…。
 北方玄武が、この国を支配するのよ…。素敵でしょう?」

「また、あまたの悲劇がこの国で生れるというのか?…」
 立浪は苦しい息の下から、喘ぎながら言った。

「あなたはこれで、役目が終わったから、この先の修羅場を見ないで済むわ、良かったわねえ…。さあ、眠りなさい…。魂が抜けたその身体に、最早、精魂は尽き果てるわ。
 次郎太!あなたはまず、他の傀儡たちと合流なさい。そして、狩った新しい傀儡の胸に玉を埋め、束ねてつれてくるの。わかった?」
 
 次郎太はわかったと言うように、くるりと背を向けて、その場から立ち去る。
「頼んだわよ、次郎太…いえ、虚(とみて)。」
 つばきは、傍らの次郎太に声をかけると、そのまま、すううっと浮かび上がった。
「じゃあね、立浪。ゆっくりとおやすみなさい…。もう、会うことはないわね。うふふ、あははは。」
 高笑いが上へ消えていく。
 その声と姿を、薄れゆく意識の中で、立浪は見送る。



「もう、終わったのか…。俺はもう…。終わりか…。」
 立浪は、苦しげに吐き出した。




「いいえ、終われないわ。まだ…。一矢を報いないで、このまま終わる事はできないわ…。士郎さん。」
 懐かしい声がすぐ傍で聞こえた。
「君は…。」
「桜です…。」
 ゆっくりと士郎の下へと近づいてきた人影。メイド姿のさくらだった。

「何もかも思い出しました…。魂抜けしたから、あなたのことも…。ここで起こった、忌まわしい事も、全て…。」
 そう言いながら、歩み寄る。
「桜、何故…。君は動ける?魂抜けしてしまったにもかかわらず…。」
 不思議そうに士郎は桜を見上げた。
「もう少しだけ、動けるように、薫がこれを、蒼龍の傀儡玉をあたしにくれたからよ、士郎さん。」
 娘は己の胸元を肌蹴て見せた。底に浮かび上がるのは、蒼い玉だった。

「薫?君の妹さん?」
 士郎の顔が不思議そうに桜を見上げた。
「ええ…。妹の薫がここへ尋ねてきたんです…。」
「おい、生きていたのか?薫君が…。」
「ええ、名前を「田中鈴音」と偽っていましたが、あの子は確かに薫でした。五十年を一気に飛び越えて…。」
「田中鈴音…。あの老婦人が…。そうか、そうだったのか…。ははは。彼女は薫だったのか。」
 立浪の目には涙が浮かび始める。
「士郎さん…。あなたにも薫が分けてくれた、蒼龍の傀儡玉を…。」
 そう言いながら、桜は士郎に手をかざした。
「これは?」
「私やあなたの魂抜けした身体に少しの間だけ、力を与えてくれる…。この力で今まで出来なかった奴らに一矢を報いるという行動を起すの…。」
 少しだが、立浪の身体に力がみなぎった。
「本当だ…力だ…。」
 そういいながら、立浪は立ち上がる。
「桜、君が魂抜けしていしまったにも関わらず動けるのは、この蒼龍の玉のおかげなんだな?」
「ええ、紫苑さんや他の皆さんに悟られぬように、じっと、倒れたふりをしてきました…。でも、満月が昇り始めた今、それも必要なくなりました…。満月で力を得るのは、何も玄武海魂だけではない…。蒼龍海魂も…。」
「では、そろそろ、魂遷が行われる時刻に…。」
「そろそろ、刻限でございましょう。真っ先に胡瑠姫様が行われると思います…。前のことがありますから…。」
「何故、君は僕に力を?」
「それは…。この悲劇をここで終わりにさせるためです。行きましょう、士郎さん…。微力な力で私たちで何ができるかはわかりませんが、薫が与えてくれた、この蒼龍の力で、彼らの企てを阻止しましょう…。今際まで。」

「わかった…。君がそういうのなら…。我らを引き裂いた、あの化け物たちに一矢報いてから…。眠りに就こう。永遠の…。」
 二人はゆっくりと立ち上がった。
 そして、その場からゆっくりと歩きだす。



三、

 岩伝いに外へ出ると、いつの間にか嵐は止んでいた。すっかり陽は落ちて海は闇に包まれている。
 風がごおっと音をたてて、雲間を裂いていた。その合間に、星が見え隠れする。
「もうすぐ、東雲(しののめ)から満月が上がる。魔が満ちる時…。でも、今度は負けない。絶対にっ!」
 鈴音婆さんは、キッと鋭い視線を上方向へとに差し向けた。
 そこには、一人の女性が立って、こちらの様子を伺っていたのだ。

「つばきさん…。いえ、お七。」
 鈴音婆さんの厳しい声が飛んだ。

「あら、私の古い名前を知っているの?」
 くすっとつばきが笑った。
「ええ、見紛うことはないわ。何故なら、私は五十年前も、ここであなたと遭遇しているんですものっ!」
「それはそれは、面妖な…。もしかして、あの修羅場の中に居たとでも?
「ええ、居たわ!あの修羅場に。」
「ならば、傀儡にされた仲間の仇でも討ちにでも来たのかしらん?」
「ええ、そのとおりよっ!」
 だっと婆さんが走りこんだ。
「無駄なことを…。」
 鈴音婆さんとつばきの対決が始まった。

「でやっ!」
 鈴音婆さんは腕に隠し持った鎖を、つばき目掛けて投げ込んだ。とても、老女の動きとは思えないくらい、素早く気焔に満ちていた。
「しゃらくさい!」
 カンとナイフを投げて、つばきはそれをかわした。
「やるわねっ!でも、これなら、どう?」
 鈴音婆さんは、再び、鎖を投げつける。それが、つばきの胴体に絡みついた。
「こんなもの、振りほどいてあげるわっ!」
 わっしと絡め取られた両腕に鎖が巻きついた。

「なっ!?抜けないっ!」
 つばきは、絡んだ鎖を解こうと足掻いたが、動けば動くほど、身体にきつく巻き込んで来る。

「当たり前よ。呪縛札をばっちり、貼ってあるのよっ!」

「くっ!呪縛札だと?あなた、何者?ただのおばあさんじゃないわねっ?」

「だから、言ってるでしょう?五十年前、あなたとここで遭遇したって。だから、あなたの名を呼んで呪縛することだって、できるのよ!汝!胡瑠姫っ!我が力の前に屈せよ!」

 その名に、ビクンとつばきが反応した。

「どう?呪縛された気分は?」
 婆さんが勝ち誇ったように、後ろに回った。

「くくく。うふふ、わっはっはっは。」
 つばきが、転げるように笑い出す。
「胡瑠姫?」
「我が名は胡瑠姫などではないわ!だから、その名では呪縛できませんことよっ!残念だったわねっ!」
 そう言うと、ダッと鈴音婆さんの身体を蹴り込んだ。

「しまった!おまえは胡瑠姫ではないの?」

「気づくの遅いよ!勘違い婆さん。私は胡瑠姫ではないの。玄武様に作って頂いた木偶(でく)。だから、動けるのっ!」
 そう言うと、容赦なく、断崖絶壁から、そのまま下へと婆さんごと身を投げ出した。

「わあああああっ!」
 鈴音婆さんの身体は、つばきと共に、真っ逆さまに、下の海へと飲まれていく。
「共に、海の藻屑と消えましょう。鈴音婆さん!」
 そう言いながら、二人の身体は海へと激しく打ち付けられた。


 ザブンと白波が立ち上がって、ぶくぶくと白い泡が浮かび上がってくる。それと同時に、ぷっかりと「つばき」の肢体が浮かび上がった。良く見ると、木目が露出し、さながら、木製人形が身投げしたような感じだった。

 と、そこへ、蒼い光が差し込んだ。どこからともなく、飛んできて、婆さんの身体を光に包み込む。
 ぱああっとその光が弾け飛んだ時、婆さんは、波間から顔を出した。

「ふうう…。危ない、危ない…。私まで身を引き裂かれるところだったわ。角(すぼし)様の力が浮き上がらなければ、確実に、絶命していたわね…。」
 婆さんは、ゆっくりと立ち泳ぎしながら、傍にあった、岩場へと手を延ばす。
「てっきり、彼女が「胡瑠姫」だと思っていたけれど…。彼女は木偶だったのね。」
 そう言いながら、ふううっと、大きなため息を吐き出す。
 そして、断崖を見上げた。

「急がなきゃ!つばきが胡瑠姫じゃなかったとしたら…。あかねさんが危ないっ!」
 婆さんは、周りを見回しながら、足場を探す。そして、上に上がる努力を始めたのである。




 婆さんが立ち去った少し後、バラバラになって漂っていた木偶人形の手や足や胴体が、ゆらゆらと波に揺られながら、一所に集ってきた。まるで、一つ一つの部品に「意志」があるかのようだ。集った身体の部品は、一つ一つ、パチン、パチンと不気味な音をたてながら、くっ付き始める。
 そう、自己修復され始めたのだ。
 やがて、人型となった木偶は、鈍い光を放った。蒼白い不気味な輝きがその辺りの海面に満ちる。
 木偶から発せられていた光が、すうっと消えた時、木偶がゆっくりと動き始めた。

「ふふふ…。とどめを刺さずに、行ってしまったよ。あの婆さんは…。」
 再び、つばきの顔がそこにあった。木偶とは思えない、肌の張り、そして艶。
「ツメが甘いね。その甘さが、命取りになるとも知らずに…。」
 ふううっと浮きあがった木偶は、そのまま、海面の中に潜って行く。恐らく、この海面の下に、上に上がる近道があるのだろう。生身の人間では出来ない、木偶だけが可能な長時間潜水。静かに、静かに、つばきは海中へと消えて行った。
 


 さて、こちらは、地階に残された者たち。

 乱馬と鈴音婆さんが消えた後、あかねたちはそれなりに、苦戦を強いられていた。
 千秋と橙子は既に敵の手に落ちていた。
 残るのはあかねと蒼太、そして桃代と凛華。
 但し、戦力となり得るのは、あかねと蒼太。この二人。
 気を失った小学生の凛華はともかく、桃代も戦力外だ。千秋と橙子を持っていかれた段階で、既に戦意は消失している。
 迫り来る、メイドたち相手に、あかねや蒼太の拳が唸る。
 放心している桃代の傍に、気を失った凛華を寝かせ、その周りに、急場しのぎの結界を婆さんから貰った札で、見よう見まねに作った。
 その前で、あかねと蒼太は共に気焔を吐く。
 メイドたちは力は弱くとも、疲れを知らない傀儡であった。拳や蹴りにて倒れても、再び起き上がって襲ってくる。まるで、不死身の人形を相手にしているようだった。
「キリがないわ!」
 あかねが吐きつける。自分に乱馬のような気技が打てたら、少しは状況も変わるだろう。だが、今の実力では気技など無理だ。
 地道に、襲い来る、メイドたちの攻撃をかわしていくしか、術がなかった。
 だが、動きが一向に衰えない、メイドたちに対し、そろそろ息が上がり始める。スタミナが切れてきたのだ。
 このまま、無造作に闘い続けていても、いずれ、力が尽きてしまうだろう。相手は、それを待っているかのようだ。無理せず、弱らせるために、適当に対決しているような、あかねは、そんな嫌な感じを受けていた。

 ふと気付くと、いつの間にか、メイドたちの後ろ側に、紫苑が立っていた。
 彼は闘いに参加せず、にやにや笑って、見守っているだけだ。

(馬鹿にしてっ!)
 あかねはなかなか終止符を打てない闘いに、疲れと共に苛々を溜めていた。得てして長い戦いは冷静な判断を失うもの。相手が男だと、更に、ムキになる欠点が彼女にはあった。
 穴から落ちた乱馬は、這い上がってくる気配がない。乱馬だけでなく、一緒に吸い込まれた、つばきと立浪の姿も、ここへ上がって来ないから、やられたと決まったわけではない。幾度と無く修羅場を潜り抜けたことがある乱馬のことだ。いずれ、己の前に平然と現れるだろうと、思っていた。
 いや、乱馬のことを考える余裕は、だんだんに失われていく。
 
 ハアハアと息が敵にもわかるほど、漏れ始めた。
 玉の汗が全身から吹き出てくる。心臓は激しく波打ち、体温も相当に上昇しているように思う。
 ちらりと横を見ると、蒼太もかなり苦しいらしく、大きく肩で息をし始めていた。

 紫苑がパンパンと手を叩く。
 と、メイドたちの動きが突然に止まった。身構えたまま、あかねと蒼太から間合いを取って、後ろへ引いた。あかねたちも、追撃はやめ、そのまま、そこで、息を整える。
 すると、メイドたちの間を割って、紫苑がしゃしゃり出て来た。

「ねえ、もうそろそろ、闘いに終止符を打たないかな?お二人さん。」
 と、穏やかに声をかけてきた。
「君たちはよくやったよ。これ以上、君たちに、傷を負わせるわけにはいかない。大切なお客人だからね…。」
 薄ら笑いを浮かべた。

「冗談じゃないわ!誰が、あんたたちみたいな、化け物に降参なんかするものですかっ!」

「本当に、元気なお嬢さんだ。だが、これを見ても、そう言い続けられるかな?」

 紫苑の瞳が怪しく輝いた。
 そして、また、ポンと手拍子を一発、打った。

 あかねの傍らで荒い息を整えていた、蒼太に、異変が走る。ビクッと肩を一つ、揺らせると、そのまま、前につんのめるように両手を着いた。
 それから、やおら、立ち上がると、ゆっくりと、紫苑の方へと歩み始めた。

「蒼太君っ!どうしたの?」
 あかねが厳しくとがめた。が、彼は一向に歩みを止めない。すっと、紫苑の前に立つと、そのまま、ひざを着いて、足元にひざまずく。まるで、主に忠誠を誓う家来のような、そんな光景だった。

「ククク、おあいにく様だねえ…。彼は既に、我が手に落ちているんだよ。」

「どういう意味?」

「ふふふ、昨晩のうちに、彼は僕が狩ったんだよ…。既にね…。」。」
 紫苑は冷たく微笑む。

「きゃああっ!」
 背後で女性の悲鳴がとどろき渡る。
 はっとして、そちらへ視線を流すと、桃代が萱野に後ろから襲われていた。


「あと、残っているのは、君とその小さな娘さんだけだよ…。」
 桃代の傍で震えている、凛華とあかねを、紫苑は指差した。

「くっ!」
 あかねはダッと飛び出すと、そのまま、凛華を抱えて、逃げ始めた。何はともあれ、ここで捕まりたくは無い。
 そう、思ったのだ。

「逃げても無駄だというのに…。困った娘さんだ。」
 紫苑はにいいっと笑った。それから、手をかざすと、前に平伏している、蒼太の頭へと右掌を乗せた。
「まあ、良い…。蒼太。我が傀儡よ、伊奈魅がおまえに命じる。いま逃げているあの二人を特別室へ追い込め。」

「はい…。」
 無表情に化した、蒼太が、ゆっくりと立ち上がると、あかねと凛華を追い始めた。

「凛華ちゃん、走れる?」
 あかねが胸に抱えた凛華へと尋ねた。
 ブルブルと首が横に揺れる。この状況で、己の足で逃げろということ自体、幼い子供には無理難題かもしれない。
「じゃあ、振り落とされないように、しっかりとあたしに捕まっていて!」
 馬鹿力だけはある。何が何でも逃げ切ってみせる。
 そう、思い込み、ひたすらホテル内を駆けた。階段を上がりのぼりし、行き当たりばったりで逃げる。

 その実、あかねは、紫苑と蒼太によって、ただ、一点へと追いやられようとしていたのだが、そんなことを考え付ける余裕など、一切ない。
 何度か、足がもつれて、倒れこみそうになるのを、必死でこらえた。
 暗い階段を上がり、見慣れぬ廊下を潜り抜け、一つの扉の前に出た。コツコツと、後ろ側から、追手が迫ってくる。

「あの扉の向こうに隠れ場所を見つけて、しばらく身を潜めましょう!」
 あかねは、胸に抱きかかえた凛華に言った。

 キイイイと扉を開ける。
 と、広い空間に出た。

「ここは…。」

 見覚えのある大広間だった。
 そう、あかねは礼拝堂へと来ていたのである。

「意外に早かったではありませんか。」
 真正面から、声がした。
 ぱっと灯りがついて、目を凝らすと、そこには、さっきまであかねたちの後ろ側に居た筈の紫苑が、薄笑いを浮かべながら、こちらを見ていた。
 背後からは、蒼太が追いかけて来る。

「しまった!挟まれたわっ!」

 してやられたと思った。どうやら、紫苑は、蒼太を使い、この礼拝堂へと自分たち二人を追い込んだようである。
 前後挟まれるような形になった。

「もう逃げないのですか?」
 余裕をかましながら、紫苑があかねに話しかけてきた。

「くっ!こうなったら、戦うしかないわ!」
 あかねは決意を固めると、胸にしがみついている凛華に向かって言った。
「ごめんね、お姉ちゃん、あいつらと戦うことに決めたわ。だから、ここで降りてちょうだい。とばっちりを受けないように、部屋に隅にでも、行っててくれると助かるわ。」
 だが、凛華は首を縦に振らない。それどころか、ぎゅっとあかねの胸元をつかんできた。
 怖くてあかねから離れたくないのだろう。

「大丈夫…。きっと、お姉ちゃんが何とかするから。」
 なだめすかしてみるものの、凛華はうつむいたままだ。
「お願い、このままだと戦えないの!」
 そういいながら、凛華を離そうと手を伸ばす。
 くすっと胸の中で、凛華がそう言いながら笑ったような気がした。
「うふふ、お姉ちゃんは、もうこれ以上戦う必要などないんだもの…。」
 そう、胸元から聞こえてきた。
 えっと思って、凛華を見る。
 と、凛華がにっこりと微笑みながら言った。

「何故なら、お姉ちゃんは私の傀儡となるんだもの。」
 クスクスっと凛華が笑った。

「どういう意味?それは?」
 問い質そうと、凛華を覗き込んだ途端、激しい違和感に襲われた。

「汝、呪縛されよ、我が意のままに、天道あかねっ!」

 名前を呼ばれると同時に、足元から蒼白い光が輝きわたった。ぞわっと全身の毛が弥立ち、身体がそのまま、固まったように動かなくなった。

「り、凛華ちゃん?こ…これは…。」
 そう口元がかたどったとき、胸から凛華が顔を上げて、言った。
「汝、天道あかね…そなたは、私の傀儡。」
 すると、子供のものとは思えない、妖艶な笑いが、凛華から浮かび上がってきた。

「ど…どういうこと?」
 あかねが動かぬ身体をよじらせながら、凛華を見たときだ。
「出でよ!我が束縛樹!」
 凛華がそう言葉を解き放った。
 すると、ゴゴゴっと音がして、床から蔓が伸び上がってきた。そのまま、柱のように生い茂り、みるみる、何層もの蔓木ができあがる。そして、その蔓木から伸びた蔓がそして、あかねの身体を絡め取ると、縛り上げてしまった。 両手を上で交差させ、胸や下腹部はしっかりと木の幹に抱え込まれ、足首にも巻きついてしまった。
 
「凛華ちゃん、あなたは一体…。何でこんなことを!」

 凛華はすっと立ち上がって、縛られたあかねを見上げながら、言った。

「我が名は胡瑠姫。おまえのその穢れ無き美しい身体を、傀儡として貰い受けるわ…。」
 妖艶な瞳が、凛華の中に浮かび上がった。少女の中に眠る、別人格の瞳。まさに、それは魔性の輝きであった。








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