赤きバラの情熱
第二話 晩秋の憂鬱

   

一、

 銀杏の葉がひらひらと庭から舞い落ちるのが見える冷え込んだ早朝。
 乱馬はきょろきょろと辺りを伺う。ちゃぶ台の上には、朝ご飯がずらりと並べてあった。


「あかねなら、とっくに学校へ行っちゃったわよ。」
 背後からなびきがトンと背中を叩いた。ギクッとして振り返る。
「もう学校へ行っただあ?」
 と素っ頓狂な声をあげた。
「あかねはあんたに言って無かったのか…。放課後だけじゃ間にあわないからって、朝も早くにでかけることになったんだってさ。集合時間が七時だから、文化祭が終わるまでは六時半出だって。」
 なびきは焼きあがったばかりのトーストを片手に居候へと語りかける。
「六時半出か…早いな…。」
「あかねにはそうでもないんじゃないの?あの子は真面目に毎朝走ってるから、朝起きは慣れてるしさあ…。朝寝坊な乱馬君とは違うわよ。」
 トーストにマーガリンを塗りながらなびきはふふっと笑いかける。
 意味深になびきは乱馬をそのにやけた視線でなぞる。
 壁にかかっている柱時計は七時半きっかりを指していた。
「ちぇっ!英語の宿題プリントを写させて貰おうと思ってたのによ…。」
 ふうっと溜息を吐き出した。
「あら…昨日の晩のうちに写させて貰わないからよ…。」
 なびきがクスッと笑った。
「しゃーねーだろ?宿題があること自体、忘れてたんだしよー…。」
 ブスッと乱馬は答えた。
「そうか、乱馬君、気を遣った訳か…。」
 なびきがニヤッと笑った。
「あん?」
「あかねってば、夜は何かゴソゴソやってるから…。声かけ辛かったんでしょ?睡眠時間を己の宿題の為に削らせるのも気が引けてさあ…。」
「んなんじゃねーよ…。」
 顔を真っ赤に吐きだした。当たらずしも遠からずだったからだ。
「ま、宿題は諦めなさいな…。」
「ちぇっ!また、ひなこ先生に絞られるな…。こりゃ…。」
 フウッとこれみよがしに溜息を吐きだした。

(何だよ…。あかねの奴。早出するならそう言えばいいじゃねえか!俺だって同じクラスなんだぜ…。)
 当然のごとく、乱馬は面白くないというような顔をしていた。
(やっぱ、ゆうべのうちに、一言、釘刺しておくべきだったかな…。)

 いつもは朝のトレーニングに励む彼であったが、たまに寝坊してしまう。
 今朝もそうだった。一緒に寝ている玄馬が目覚し時計を誤って止めてしまったらしいのだ。いい気持ちで惰眠を貪って目覚めると七時を過ぎていた。
 あかねのいない朝の食卓はポツンとしている。そんな感じを受けた。
 早雲や玄馬、のどかやかすみも食卓を囲んでいるのにである。横のあかねの空間だけがポカンと空いていて、何となく物足りない。

「あかねちゃん、大丈夫かしらね。かなり疲れが溜まっているみたいだったけど…。」
 のどかがご飯を茶碗につぎながら言った。
「体力だけは人の倍以上あるから平気でねえの…。」
 乱馬は冷たく吐きだした。
「そう言えば、朝ご飯、食べていったのかしら、あの子。」
 長姉のかすみが、ふっと言い放った。
「さあ…。食べた形跡はないわね…。」
 なびきが返事する。
「顔色悪かったようにも思えたわ。夕御飯もかなり残していたみたいだし…。」
 かすみはしきりにあかねのことを気にしていた。
 長年、妹たちの母代りを務めてきた長姉だけのことはある。

 乱馬は黙ってもくもくとご飯を口へ運んだ。気にしていない風を装いながらも心の中では、様々、想いが廻る。

(あかね、あいつ、この前から睡眠時間削ってやがるよな…昨日なんか、殆ど眠ってないようだし…。いい加減体調、崩しちまうぜ…朝ご飯を食べずに出掛けるなんて、無謀もいいところだぜ…。)
 
 あかねは健康体だ。殆ど風邪もひかないし、胃腸も丈夫だった。
 だが如何せん、抱え込んだ実行委員の雑用のせいで、寝不足が確実溜まっているだろう。
(あいつ、要領が悪いからな…。)
 学園祭で使う小道具を何かをごそごそと帰宅してからも作っている様子だった。
 要領が悪いというよりも、不器用すぎて、何事にも時間が人の倍以上かかるという決定的な欠点が彼女にはある。しかも、生真面目な彼女は、不器用であるにも拘らず、手を抜くことを知らないのである。
 いや、不器用であるが故に手を抜けないのかもしれない。乱馬から見ても、悪循環になっているように見えた。

 そろそろ体力も限界に近づいている筈だ。

 だが、面と向かってそう言葉を継げない。天邪鬼な性格は、相変わらずであった。


 と、そこへぐらっときた。
 ガタンっと家が唸った。
「地震よっ!」
 なびきが一番先に叫んだ。
 ややあって、ガタガタと小さく揺れ出した。
 家族たちは皆、箸を持つ手を止めて、身構える。いつでも逃げ出せる状態を作って沈黙する。
 ミシッと壁が一度だけ音を立てたが、それだけですぐに揺れは収まった。
「最近、良く揺れるなあ…。早乙女君。」
 早雲が持っていた新聞を手に収めながら乱馬の父親に向って言葉を投げた。
「そうさなあ…。このところ、小さいが、毎日のようにぐらっと来てるよなあ、天道くん。」
「天変地異の前触れか何かだろうかね?」
「さて…。」
「あ、震源地が出てる。」
 テレビをふつっとつけたなびきがニュース画面を見た。速報で上にテロップで流れる。
「えっと震源地は練馬区じゃと?…ここら辺りなか?」
「この辺に断層なんてあったかしら…。」
 玄馬とかすみが言葉を交わした。
「日本中断層だらけみたいなもんだし、この辺に断層が無いって言い切れないでしょ?震源の深さは数十キロ。震度は一。局地的な弱震ね。特にどこにも被害がないみたいだし。」
 冷静ななびきはそう分析するとまた食事に戻った。たいした地震ではないと判断したのだ。
「とにかく、何事もなくて良かったわ。」
 かすみがのほほんとお茶を飲みながらそう言った。
「さて。あまりぐずぐずしてたら遅刻するわよ!」 
 なびきは乱馬を促すと、たっと立ち上がって登校準備に入る。
「おっと…。いっけねえ!もうこんな時間だ。」
 乱馬も慌ててご飯をかっ込んだ。

 
☆ ☆ ☆

 さて、こちらは同時刻の風林館高校。

 勿論、ここでもグラッと来ていた。


「あーびっくりした。でも良かった、小さな地震で。」

 教室の中で、公子と顔を見合せながらあかねはホッと溜息を吐きだした。
 東公子。生徒会執行部役員にして二年F組の学祭実行委員長だ。でっぷりとした体格の、将来、やり手のオバサンになるに違いない、女傑であった。

「折角ここまで仕上げておいて、また作り直しじゃあ洒落にならないからね。」 
 そう言いながら公子はあかねを見返した。
 今、懸命に作っているのは、内装の装飾品だ。オカルト喫茶と銘打った以上、凝ったものに仕上げたい。そういうテーマで作っていた。
 

「東さぁん、これ飾ってみない?」
 部屋の端っこから響く男性の声。
 あかねと同じクラス実行委員の大上柊だった。
 つい先頃、風林館高校に転入したばかりの少年だ。
 何でも帰国子女で、祖父が西洋人だという。栗毛色の髪をさらさらと後ろになびかせて、なかなか洒落ている。
 性格も社交的な好青年。二学期に入ってから転入してきたばかりだというのに、自ら手を挙げて実行委員に名を連ねた。
 その彼が大きな紙袋を抱えてドアから入って来た。

「大上君…いいわよ、なかなかセンスあるじゃない。」
 東は柊に向ってそう言葉を投げた。
 手にしていた紙袋から出て来たのは、バラのドライフラワーだった。赤いバラの乾燥したものだった。
「オカルト喫茶に相応しい、バラのミイラね。」
 とゆかが言った。
「バラのミイラって…。どういう表現よ。」
 さゆりが苦笑する。
「それ…大上君が作ったの?」
 あかねが問いかけた。
「まーね…。僕んち、バラがたくさん咲いてるんだ。だから、時折、こうやってバラのドライフラワーをたくさん作ることがあるんだ。そのおすそわけだよ。」

 紙袋から良い香りが立った。ドライフラワーが芳しく匂うのかと不思議に思った。

「何か、良い香りが漂ってくるわ。ドライフラワーって香るの?」
「まさか。これはふりかけてある香水の香りだよ。いわゆる、ポプリやサシェさ。」
「ポプリやサシェ?」
「ああ…。西洋風な匂い袋みたいなものだよ。玄関先や部屋の片隅に置いて、匂いを楽しむんだ。」
「へえ…。さすが、帰国子女!」
 ゆかが言葉を挟んだ。
「ま、姉が好きなんだけどね。こういうのを作るの。」
 と大上はにっこりと笑った。

「大上くんってお姉さんが居るの?」
 後ろから言葉尻を捕えて、ゆかが問い掛けた。
「ああ…、居るよ。」
「ふーん。兄妹で同じ学校なのね。」
「天道さんのところもそうだろう?姉さん、なびきさんだっけ?姉が一緒のクラスだって言ってたよ。」
 柊はにこにこと笑いながらそう答えた。
「え?なびきお姉ちゃんを知ってるの?大上くん。」
「当然さ。有名だもんな…。しっかりものの商売人だって。」
 あかねは思わず真っ赤になった。そう、姉のなびきは名うての商売気質を持っている。事あるごとに何でもお金儲けに結び付けてくれるものだから、妹としては時々穴に入りたくなるくらい恥ずかしくなるのだ。
「大上くんも、姉に何か買わされたとか…。」
 こそっと聴いてみた。
「まあね…。」
 ふふっと楽しそうに彼は笑った。
(もお…。お姉ちゃんったら…。まだ転校したての彼までその毒牙にかけたんじゃあ…。)
「大丈夫だよ…。僕に必要な情報を少しばかり買っただけだから。」

 大上は笑い転げている。
「ねえ、今日の帰り、準備が跳ねたら、皆で大歓喜のラーメンでも食べに出かけない?」
 さゆりが顔をほころばせながらあかねに問い掛けてきた。
「うーん…。」
「ねえ、行こうよ、あかね。」
 後ろのゆかも声をあげた。
「そうねえ…。あそこのラーメン、たまには食べたいわねえ…。」
「僕はパスね。」
 大上は言った。
「そっか…大上君は四時半で下校しなきゃならないんだっけ。」
 とゆかが残念そうに言った。
「ああ…。仕方がないよ。いつも、そこまでしか手伝えなくてごめんよ。」
「あ、別にかまわないわよ。手伝って貰えるだけで、もう、大歓迎なんだから。」
 とゆかが笑った。


「ほらほら、おしゃべりはそこまでよ。時間なんてあっという間に過ぎるんだから。ラーメンが食べたいなら、サクッとね。」
 パンパンと公子は手を叩いた。

「公子も行くの?」
「当り前でしょ?」
 と公子はニッと微笑んだ。
 その場に居た実行委員たちは一斉に色めく。
 あかねはふつっと息を吐いた。出来れば早く家に帰りたかった。
 夜は夜でずっと遣り残した宿題のようなお針仕事をちまちまと根を詰めている。夕べも気がついたら深夜になっていた。そう。ここのところまともに睡眠時間を取っていない状態であったのだ。
 思った以上に、今朝は身体が重い。
 そう、なんとなく身体の変調を感じ取っていたのだ。今朝起きた時から、いや昨夜床に就いた頃からだるかった。疲れが溜まっていて、その身体にガタがきはじめていたのだ。休養が欲しい。それに脂っこいラーメンを食べられるかどうか。自信がなかった。何しろ、お腹が何となくもたれていて、今朝は朝食も抜いて登校してきた。
 が、その場の雰囲気を壊したくもない。弱音など、決して吐かない…それがあかねだった。

 愛想良く承諾をしてしまうのであった。
 
(乱馬が知ったら、しかめっ面されるかもしれないわね…。)
 と溜息を吐いた。
 ゆうべ、玄関先で、何か言いたかった様子だったからだ。結局、なびきが割って声をかけてきたために、言いかけたことをそのまま置いた。
 途切れてしまった、言葉。きっと、彼はあかねへ苦言を言いたかったに違いあるまい。「準備もいい加減にして、休む時は休めっ!」…などと。

 優柔不断男、乱馬はなかなか本音を見せようとはしなかった。が、折に触れて、時々、優しさの片鱗を見せることがある。かと思えば、喧嘩を吹っ掛けてくる。
 あかねも気の強さなら、乱馬の上を行くので、つい、売られた喧嘩をムキになって買ってしまうのである。可愛げのない女…と乱馬は言うが、そのとおりだと自分でも認識していた。もう少し可愛らしさを身につけたいと思うこともあるが、今更なのだ。キス一つまともに交わしていない「許婚」。それが突きつけられた現実の姿でもあった。
 「呪泉洞」の戦い直後の祝言がぶち壊れた後も、何の進展も無いままだ。
『未遂とはいえ、祝言を挙げようとしたんだったら…もう、いい加減に覚悟を決めたら?』
 という周りの意見を余所に、相変わらず、つかず離れず…「親が決めた許婚」の関係をだらだらと続けていた。
 乱馬の想いが己の上にあるのか、それとも否か。本人がああいう複雑で優柔不断な性格な以上、現時点では何も望めなかったし、あえて望もうとも思わなかった。
 それを良いことに、相変わらず、右京やシャンプーや小太刀は、三人三様、乱馬へと攻勢をかけている。あかねに一歩、先を越されたという思いが強いのか、ここのところ、彼女たちの包囲網は厳しくさえなっているような気がしていた。
『たまには、別の男子と仲良くして、乱馬君をやきもきさせてみたら?』…などと、友人たちが見かねて、あかねをけしかけることもあった。
 もちろん、そんな器用なことができるあかねでもない。
 
 互いの想いを共有できずに月日だけが過ぎて行く。複雑な両想い…それが乱馬とあかねの現状であった。


 
二、

 その日は一時間目から体育だった。
 あかねたちは、少し早めに準備を切りあげて、更衣室へと入った。

 同じクラスとはいえ、体育の授業は男女別で行われるのが普通だったが、この日は違っていた。
 体力測定も兼ねた、男女合同授業だったのだ。

(参ったな…。)
 あかねはフウッと溜息を吐きだした。
(乱馬、あたしの不調に気がついちゃうかな…。ううん、あの鈍感男が気付く筈ないわよね…。そうよ…気付かせちゃダメよ、あかね。)
 着替えながら己に喝を入れてみる。バンバンと手で頬を叩いてみた。
 本当は、体育を見学したいほど、朝から身体が気だるかったのだ。
 
「あかね、早く着替えなよ!」
「予鈴鳴ったわよ。」
 ゆかとさゆりがあかねに声をかけた。
「うん!ごめん!お待たせ!」
 あかねは作り笑いを浮かべながら女子更衣室を出た。
 太陽が眩しい。くらくらするほど陽気がいい春のグラウンド。
 ひらひらと銀杏が舞い落ちてゆく。散り染めだ。枯れ葉の絨毯が地面いっぱいに、真っ黄色に広がる。
「行く秋かあ…。もうすぐ冬ね…。」
 ふっと言葉が漏れた。

「早く、あかね。授業が始まっちゃうよ!」
 少し先でさゆりが呼んだ。
 外は長袖の体操服の上にジャージを羽織った。今朝は少し寒かった。
 男女二列になり、合計四列で授業の開始を待つ。
 体育教師は男子担当と女子担当の二名。それぞれ記録帳を持ってくる。
「さあ、今日は体力測定だぞ!各人頑張って、最高得点を狙えっ!」
 体育教師の佐津間が言った。生徒たちは「さつま」という読みからから「芋間(いもま)」と呼び習わされる陸上部の顧問教師だ。
 そう、秋の体力測定は、それぞれ学年上位が発表されることになっていた。

 準備体操から始まって、まずは軽くランニング。
 あかねはふっとなりそうな暑さに気を取られながらも、我慢してランニングしはじめる。いつもなら何ともない軽いランニングだったが、晩秋というのに、少し脂汗が額から滲んできた。
 肩で息をしながらそれでもなんとかグラウンドを一周した。

「ようしっ!まずはマット運動からだ。」
 芋間は大声を上げた。
 砂場の横にどっと倒れこむように座ってあかねはぼんやりとクラスメイトたちが動いてゆくのを横から眺めていた。
 乱馬が立った。
 背が少し伸びたのではないかとあかねはぼんやりと彼を見詰めた。
 すっと息をして、彼は前転から空中前転へと投じる。見事な身体さばきだった。思わずその美しさに魅了されるのはあかねだけではない。

「さすがよね…。乱馬くんは。」
 さゆりが横で感心していた。
「当然や!乱ちゃんは運動神経抜群やで!何しろ、うちの許婚やから。」
 右京がはしゃいでいる。
「いいの…。あんなこと言わせておいて…。あかね。」
 さゆりがこそっと耳打ちするほどだった。
「別に…。どうってことないわよ。」
 あかねは重い身体を揺らしながら答える。
「本妻の余裕ってところかな?」
 さゆりはうふふと笑った。
「本妻って…。乱馬とあたしはそんな関係じゃないから…。」
 ぼんやりと虚ろに答えた。
 ともすれば沈んでしまいそうな身体をひきずりながらも、受け答えする。
 勝気さだけは誰にも負けない。あの乱馬でさえも負かしてしまいそうなほど気丈な彼女。体調の不具合など、ぱっと見ただけでは誰も分からないはずだ。
 だが、思いとは裏腹に、やはり体調は最悪を極めていた。

 次の演技の走り幅跳び。着地に失敗して尻餅をついた。
 らしくない失敗だった。

「大丈夫?」
 傍で記録を取っていた大上柊が声をかけたほどだ。見事に無様に尻で着地してしまった。
「ええ、大丈夫よ」
「ほら、手を貸すよ。」
「あ…ありがとう。」
 笑顔で答えたあかねの白い手を、大上が引っ張りあげる。その光景を乱馬は少しムッとした表情で見詰めていた。
(あかねは俺の許婚だぞ!気安く触るなよ!)
 心の中で思いっきり吐きだした。無論、声にはしない。

 起き上がった拍子に、掌に鈍痛が走った。
「痛っ!」
 失敗した拍子に砂の中へ手が滑って少し傷が付いてしまったようだった。昨日、バラのトゲが刺さった辺りが、チクンと痛んだ。もうバンソウコウは貼って居なかったが、少し赤みがかっているように見えた。と、少しばかり血が滲みでていた。

「弾みで刷りむいちゃったの?保健室へ連れて行ってあげようか?」
 大上が声をかけて来た。
「保健室だなんて、大げさよ。かすり傷だから…舐めておけば治るから。」
 何とも早原始的な方法である。
 あかねは砂を手で払って、血の出た辺りを見た。それからはあっと息を吹きかけて血が止まって固まるのを待った。血が出たと言っても本当に少しのことだった。
「本当にいいの?」
 大上はあかねへと言葉を継いだ。
「ええ。大丈夫。」
 あかねはにっこりとほほ笑みかえした。

 それをムッとした表情で乱馬は見詰めていた。
 この頃、あかねは彼と親しく話していることが多い。学園祭実行委員として、一緒に居ることが多くなったせいか、大上が気易くあかねに話かけている光景を目にしていた。
 愛想の良い笑みを大上に向けるあかね。許婚としては、面白くない光景だった。
 大人げなく、対抗心がメラメラと燃え上がり始める。

「じゃあ、次の人っ!」
 大上は何事もなかったように次の演技者の記録を取り始めた。

 乱馬の番が回って来る。
 と、何を思ったか、走り幅跳びなのに、空中で一回転して見せた。
 思い切り踏み込んで高く飛ぶ。そして、くるりと一回転して見事に着地して見せる。 
 目立つ気が無いとは言わないが、お茶らけて見せたのである。どうでい…という瞳をクラスメイトたちへと手向ける。

「おおーっ!」
 と当然のごとくどよめきが起こる。
 
「こらっ!早乙女っ!これは走り幅跳びだぞっ!真面目にやれっ!」
 芋間から苦言が飛んだ。
「へーい…。」
 と切り返す、気の無い返事。

「もう乱馬ったら…調子に乗っちゃって…。」
 あかねは苦笑いした。
「早乙女君…絶好調ね…。」
 ゆかがこそっと吐き出した。
「でも…ほら、大上君も結構やるじゃん。」
 さゆりが指を指した。

 ザザッと音がして、大上が着地を決めていた。

 芋間が叫んだ。
「おおおっ!こりゃあ、学年新記録だな。早乙女より二十センチ幅が大きいぞ。ったく…早乙女が真面目にやっていたら、同じくらい飛べたろうに…。」
 と呟く。

「へええ…乱馬を上回る奴が世の中には居るんだな…。」
 大介が感心したように言った。
「大上すげえ…。」
 ひろしも同調する。
 その言葉に、乱馬は再び、ムッとした表情を手向けた。

(油断してるからよ…。)
 あかねは返す瞳で、そう心根に吐きだしていた。
 
 
 次は、鉄棒のメニュー。懸垂(けんすい)から上がって、できる者は連続逆上がりをしてみせる。
 それが今日のメニューの中では一番きつい演技かもしれない。

 乱馬はひょいっと手を掛けると、朝飯前で懸垂から起き上がった。流石に鍛えこんでいる身体だ。
 皆その見事な筋肉に目を見張る。懸垂は力技。だから、筋肉が盛り上がるのである。
 鍛え抜かれ、均整の取れた筋骨。鎖骨へと汗が滴り落ちる。
 乱馬は上でバランスを取ると、ひょひょいと逆上がりをする。それだけでは物足りないのか、次第に車輪へと転じる。
 本当は柔らかい鉄棒でないと危険な技であるが、彼の手にかかるとそんなことはお構いなしだった。 
 何度か勢い良くクルクルと回ると、飛び上がって空中回転を翻す。そして見事に着地する。
 体操選手真っ青な離れ業をやってのけた。
 思わず拍手が唸る。
「ふうん…。噂どおり凄いんだね、早乙女君。僕も頑張らなきゃ…。」
 記録係の大上が乱馬に向って好戦的な言葉を投げた。
 至って平坦に答えた。
「ああ…おめーの技も見せてみろよ…。」
 と乱馬も負けじと言い放った。
「うん…そうするつもりだよ。」
 にっこりと大上は微笑み返した。

(こいつ…。)
 何故か空寒い空気を、その微笑みから乱馬は感じ取っていた。格闘家の勘とでも言うのだろうか。得体の知れないモノをこの大上から察したのである。

 自分の番になると、ジャージを脱ぎ去った。良く見ると、均整の取れた肉体をしている。物腰の柔らかさとは裏腹の、力強い動きを醸し出す身体。
(相当鍛えこんでやがるな…。一見、細面に見えるが…とんでもねえ野郎だ…。)
 乱馬は鋭い瞳で大上を見据えた。普段、肉体など人目に晒すことは無い。制服の下に隠されている。

 息を一つ吐き出すと、大上はさっそうと鉄棒へと手をかけた。
 演技を見ながら乱馬はそう思った。基本演技はその人の体力と技量が良くわかるのである。こと鉄棒に関してはそうだ。誤魔化せない力技。彼もひょいっと懸垂から上にあがって、定められた逆上がりだけをクルクルとやってのける。まるで乱馬に手の内は見せないとでも言いたげであり余裕を持っていた。


 乱馬はやはり厳しい目を向けた。
「凄い!大上くんもやるじゃん。」
 さゆりが声を張り上げた。
「すごいわ…乱馬君と引けを取らないわ。」
 ゆかも瞳を輝かせている。
「そーか?うちはそう思わんわ…。乱ちゃんの方がかっこええ。」
 後ろから右京がそう評した。
「あかねは?どう思う?」
 さゆりが問いかけると、
「ま、トントンってところかな…。」
 そう答えた。
 実のところ、大上がここまで凄いとは思わなかった。放課後、実行係の準備で一緒になることが多いが、そんな肉体を学生服の下に隠しているなど、思いもよらなかったからだ。
 大上のことが大いに印象付けられたことは、否めなかった。


「次っ!女子だっ!」
 芋間が笛を吹いた。

 何人かのクラスメイトの演技の後、いよいよあかねの順番が回って来た。
 身体の気だるさは、長時間、肌寒い外へさらけ出されていた結果、だんだん頂点へと達し始めていた。
 女子は懸垂は無理だからとそのまま連続逆上がりでも良いという。だが、あかねは手を抜くことを知らない、これまた生真面目な少女であった。
 というよりも、下手に不通にやろうとしたら、乱馬がうがった瞳を手向けるだろう。そう思いつめてしまったのだ。通常のあかねなら、懸垂からの逆上がりなど、お手の物だ。
 あかねはふうっと深呼吸した。そうやって息を整える。

「やっ!」
 気合を入れて鉄棒へと手をかける。そしてぐっと引き寄せて懸垂から上へとあがる。
 この辺りは格闘少女を自負しているだけあって流石だ。
「ほお…。天道さんもすごい。」
 大上が目を瞬かせた。

(まずいっ!)
 乱馬はハッと顔をあげた。
(やっぱり…あいつ!)
 そう思うと腰をあげて低く身構えた。何時でも飛びだせる態勢を取る。

 あかねは懸垂から上へとあがった。その時、異変があかねを襲った。
 逆上がりへと体勢を移ろうとして、一瞬、意識が途切れたのだ。
 クルンと鉄棒を回ろうとして、天上を見上げた途端、くらっときたのだ。
 太陽の光が青空を掠めて、目に飛び込んで来る。
(眩しい…。)
 そう思った刹那、つい、鉄棒から手を離してしまった。
 バランスを失ったあかねは、意識まで混濁してしまった。万有引力に引き寄せられて、身体はまっ逆さまに地面へと吸いつけられてゆく。
 意識の向こう側で、クラスメイト達の悲鳴が聞こえたような気がする。ゆっくりと落下しながら、フッと意識は暗転して行った。



三、

 次に、目覚めた時、白い壁と蛍光灯が目に映った。
「…ここは…?」
 あかねはふうっと息を吐いた。

「気がついた?天道さん。」
 若い女性の声がした。目を転じると白衣を着た女性がにっこりと微笑む。
「八重子先生?」
 あかねはそう呟いた。
 道神八重子。保健婦の先生だった。まさにここは保健室のベッドの上。

「天道さん、朝から調子悪かったんじゃないの?」
 八重子先生はじっとあかねを見つめた。
「いえ…あの…。」
 あかねは思わず口篭った。図星だったからだ。
「熱があるわ…。そんな身体で体育なんかやるから。今日のところは早退しなさいな。」
 八重子先生はそう言った。
「でも、あたし…。学祭の準備が…。」
「無理しないでいいわよ、あかね。」
 カーテンの陰からひょいっと顔を出したのはクラス委員長の公子だった。
「身体の方が大事なんだから。あかね。じゃないと、早乙女君に申し訳が立たないわ。」
 と公子が言った。
「え?乱馬に?」
 キョトンと言葉を投げ返した。

「そうね…ここへ担ぎ込んできた時の早乙女君の剣幕を、あなたに見せてあげたかったわね。」
 八重子先生が笑った。

 あかねが鉄棒から手を滑らせたとき、乱馬はいち早くそれを察知して、迷わず両手を伸ばしてダイビングしたのである。落下の紙一重のところであかねを受け止めたというのだ。

「あれは、感動ものだったわよ。」
 と公子が笑った。
「さすがに運動神経が良いわねえ…。早乙女君は。」
 八重子先生もニッと笑った。
「あかねはいいな。羨ましいな…。」
 公子がポツンと言葉を投げた。
「どうして?」
 と、あかねは問い返す。
「だって…。本当に乱馬くんってあなたのこと大事にしてるのが、ありありと伝わってきたわよ。受け止められるのも凄いけれど、あなたの異変をちゃんとわかってたみたいだもの。以心伝心って、あれを言うのね。あかね。」
 あかねを辛くも受け止めると、彼は一瞬、和やかな表情をあかねに向けたと公子は言うのだ。だだっ子を抱き上げるようなそんな柔らかさに満ちていて
『たく…。心配ばかりかけやがって!』
 と独りごとのように囁いたそうだ。
 それから保健室に運んできて、あかねの身体をわかっているように八重子先生に告げたそうだ。
『あかねは、今朝から調子が悪かったみてえだ…。先生、多分、回転した拍子にくらくらっときて、軽い貧血状態に陥ったんだろーぜ。朝ご飯も食べてないみたいだったし、夕べのご飯も殆ど咽喉が通ってない筈だから。それにあまり寝てないみたいだしな…。』
 と。
「私、彼に睨まれちゃったわよ。あまりこいつに無理させるなって感じで。」
 公子は笑った。
 あかねの身体はかあっと熱を持ち始めた。
 乱馬がそこまで自分の事を見ていてくれたのがなんだかくすぐったいと思ったからだ。

「でもあたし…。家には帰れない…。やっぱりまだ準備が…。」

 そう言いかけたとき、声がした。

「ダメだッ!」
 乱馬がドアの傍に立っていた。手にはあかねの通学鞄を持っている。
「でも…。」
「でももクソもねえっ!とっとと帰れっ!」
 それからは強引だった。有無も言わせずにあかねを自分の背中へと背負い込む。
「ちょっと、乱馬っ!」
 焦るあかねに彼は言った。
「じゃ、先生、お願いします。」
 彼は八重子を見返した。
「任せなさい。」
 ニッと八重子先生は笑った。
 帰りは八重子先生の運転で送ってもらうよう、話がつけられていたようだった。乱馬はあかねを担ぎ上げると、ダッと白いボックスカーのドアを開く。
「大人しく寝てろっ!」
 後部座席にあかねを押し込むとそう吐きだした。
「でも…。」
「だからあとは俺に任せておけって。あかねの分まで働いてやらあっ!それで良いだろ?」
 そう言い放つとパタンとドアを閉めた。

「本当、彼、あなたのこと心配してるのね。それと、良く観察してるわねえ…。感心しちゃうわ。」
 エンジンをかけながら八重子先生が笑った。それには答えないで、あかねはじっと座席へともたれかかった。

 あかねを乗せた車を複雑な表情で見送る乱馬。そしてクラスの実行係のまとめ役、公子。
「さて…こうしちゃいられないわ…。さくさくと働かないと…。あ、乱馬くん、あかねの分よろしく頼んだわよ。」
 公子はそう問いかけた。
「おう!任せとけっ!あいつ以上に働いてやらあっ!」
 乱馬はそう呼応する。
「おー、おー、頼もしいこと。」

 走り去る車と、生徒会室へと歩き去る乱馬たちを、校舎の屋上からじっと見下ろす視線があった。
 時計台の脇。影になっていて、下からは見通せない。


「ねえ、柊、どうしたの?さっきから…黙り込んじゃってさあ…。」
 長い髪を風になびかせながら一人の少女が言った。少女というには、少し大人びた感じだった。上背もある。色白く細い。おまけに、髪はブロンズ色だった。
「由依(ゆえ)か…。」
 そう口にして振り返る暗い瞳。
「ねえ…。どう?ここの生活は…。慣れた?」
「ああ…。それなり楽しいよ…。」
「それより…。今朝の地震…。」
「ああ…多分、奴が目覚めたんだろうぜ…。」
「やっぱり…柊もそう思って?」
「由依も感じたのか…。」
 フッと柊は笑った。
「で?どう?使えそうな子は見つかったの?」
「いや…。まだだよ。」
「ふうん…。のんびりしてるのね…。柊らしくない…。」
「でもないよ…。焦って事を仕損じたくないからね…。それに、奴もまだ本格的に行動を開始して無いだろうし…。」
「でも、動き始めるのは、時間の問題よ…。」
「だろーうね…。で?由依はどうなんだ?見つけたのか?」
「ふふふ…秘密。」
 そう言って笑った。
「ちぇっ!秘密かよ…。まあ、いい…。良い時間になったし…僕はこれで退散するよ。」 

 柊は由依にそう言うと、柵を離れ、由依にクルリと背を向けた。

「どこへ行くの?」
 由依が声をかけた。
「教室だよ。」
「まだ、昼休みの終わりまで時間があるわよ?」
「準備委員会っ!もうあまり日数が無いから、サボる訳にはいかないんだよ。」
 と面倒くさそうに言葉を返した。
「ふーん…柄に似合わず、真面目ぶってるのね。」
「お互い様だよ…。由依だって随分、猫を被ってるじゃないか。」
「ま、せいぜいしくじらないように、お互い、頑張りましょうね…。」
「もとい…そのつもりだよ。」

 そう告げると二つの影は屋上から消えた。

 嵐の予感。
 物語は動き出した。


つづく


   

 

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