◆天高く 第三部
第九話 波乱の予感



一、

 目の前に現れた、二人の鬼神。
 男は「前鬼」、女は「後鬼」。それぞれ、男の乱馬と、出会った頃の長髪のあかねの姿をしている。
 
『俺たちか?俺たちは、この山を守る穏(おん)の精霊で、俺は前鬼…そして、こいつは後鬼。よろしくな…早乙女乱馬。』

 前鬼が、軽く乱馬へと問いかける。

「てめー…。何で、俺の名を知っている?」
 乱馬の顔が、険しくなった。
 この鬼に、己の名前を名乗った記憶は一切ない。

『結界を越えた時から、おめーの頭ん中を探っていたからな。だって、』
 ニッと前鬼が答えた。

「もしかして…。俺の姿形をしていることと、関係してんのか?」
 と問いかける。
『いや…姿形は関係ねーよ。おまえには、俺の姿が自分の形に見えてるらしいけど…。そもそも俺たちは、実体のねえ存在だから、見えない奴の方が、多いんだ。感じる奴だってほとんどいないんだぜ。で、見える奴は、己の形に念写されて見えることが多いのさ…実際、おめーもそーだろ?』
 と、理解に窮する言葉が返って来た。
「つまり…霊的存在ってことか?」
『まあ、広義にはそうなるか…。俺たちの実体は潰えて久しいしよ。魂だけが、この山に留まった…ってところかな。あ、でも、幽霊という種族とは違うぜ。恨みや辛みでこの世に残ってる奴らとは根本的に違うからな。』

 気軽に話しかけてくる前鬼に対して、後ろ側から後鬼が、険しい表情で見つめてくる。その視線の冷たさに、チラチラと後鬼を見やった。
 長い髪を後ろになびかせていた頃の、あかねの姿をしている。
 己を受け入れていなかった頃を思い出さずにはいられない。ここまで、険しくはなかったが、許婚としての己を拒否していた「かわいくねえ」頃のあかねの姿と重なる。

『おまえ、俺たちの力を求めて、この山へ来たんだろ?』
 唐突に、前鬼が言った。

「鬼修行…それが、おめーたちの力を求めるためのものを意味してるなら、そーなんだろーな…。」
 ポツンと答えた。
 乱馬自身、この修行の意義を測りかねていた。
 大峰山中という、古代から修行場として崇められてきた山で行う修行だ。何らかの意味があるとは思われる。が、所詮、観月流に身を置く格闘家ではない。
 「鬼の波動」とやらを得るだの、観月流の当主になる男にしかできない修行だの。抽象的な通り一辺倒な話しか、情報として持ち合わせなかったからだ。
 しかも、裏観月流の氷也と闘うには、ここでの修行を納めねば、力でかなわないとも言われている。


『おまえ…自分の思考には、主体がないのかえ?』
 後鬼が、険しい表情のまま、問い質して来た。

「主体が無えっていうより、訳がわかってねーというのが、本当のところかな。」
 と言葉を投げた。
 すると、途端、怒気のような荒れた気が、後鬼の身体から発せられた気がした。
 格闘家の本能として、思わず、腰を落として身構える。

『っと…。手荒な真似はよしな!後鬼。』
 前鬼が思わず、乱馬と後鬼の間に入りこんで来た。
『何で、そんな奴をかばう必要がある?前鬼。』
 前をふさがれたことに腹を立てたのか、後鬼の怒気が、上昇したように見えた。

(ひえええ…。おっかねえ…。あかねの姿をしてるから、あかねを見てるようだぜ…。)
 不謹慎にも、そんなことを思ってしまった。

『へええ…。おめーの嫁御(よめご)は、あかねっていうのか…。』
 前に立ちふさがった前鬼が、からうように乱馬を見やった。
 もちろん、それを聞いて、乱馬の表情は驚愕に変わる。
(もしかして…こいつ…。俺の思考を読んだのか?)
 そう思った。
『へへ、俺の前では、隠しごとは出来ねえ…。』
 前鬼は得意げに、笑っている。
「ま…まだ、あかねを、嫁にした訳じゃねえ…。」
 ぼそぼそっと乱馬が吐きだす。
『契ってねーのか…。いいねえ…。純粋な奴…俺は好きだぜ。』
 緊張を和らげようとしているのか、それとも、茶化しているだけなのか…。どうも、前鬼という鬼は、軽いらしい。それに比べて、後鬼は不機嫌な面を改めようともしない。

『後鬼はどうやら、女に変化できるおめーが、気に食わねえみてーだな…。』
 チラッと振り返りながら、前鬼が言い放った。
『ああ、気に入らないね。何もかも!』
『たく、しょうがねえ奴だな…。』

 後鬼と前鬼。この鬼たちのやり取りを、目の当たりにしながら、思わず苦笑がこぼれる乱馬だった。
 鬼神なのに、どこか、人間臭いところがある。二人のやりとりは、己とあかねのやりとりにも似ているところがあると思った。

『こいつに、聞きたいことがいっぱいあるからね。わらわは!』
 後鬼が言葉を投げつけた。

『まあ、おめーは思考を読めねーから、それも仕方ねーか…。それに、俺も、まだ、全部を把握した訳でもねーし…。いーだろ…。好きに聞きな。但し、殺すなよ!』
 そう言いながら、すっと、真横へと避けた。

「殺すなよって…。おい…。」
 思わず、引きつり笑いがこぼれた。

 と、ブンと、洞窟の様相が一変した。

 ハッとして、辺りを見回す。
 今まで、ごく普通の山中の洞穴だったのに…白んだ空間がいきなり開けたからだ。
 足元も天上も前も後ろも右も左も、ただ、寂寞とした真っ白い空間だった。
 洞窟の岩も土壁も植物の根も、何もかも、消え果る。
 真正面に、後鬼。そして、少し離れたところに、腕を組んで前鬼がたたずんでいるのが見えた。まるで、「戦いの見物をするぜ。」という感じでこちらを見ている。

『この山を預かる穏の精霊として、そなたには、問い質さねばならないことが多いからね。それに…。わらわは納得していない!貴様が本当に男なのかをねっ!』
 もわっと立ち上がった闘気に、ハッとした。
「この感じ…もしかして、一昨日の晩やりあったのは、おめーか?」
 乱馬の方から問いかけていた。
『然り!あの洞窟で闘ったのは、わらわじゃ!』
 あかねの声色ではあるが、しゃべり方は違う。そのしゃべり方も、一昨日の「妖」と同じ抑揚があった。
 現代口調の前鬼に比べると古典的だ。あからさまにしゃべり方が違う。
『そなた、どうして、昨日は女体化していた?あれは、変装ではあるまい?肉体も確かに女じゃった。』

「ああ…。そうだな。あの時は雨が降ってたからな…。」
『雨?天候と関わりがあるというのかえ?』
「変化の要は天候じゃねえけど、全く関係ねーわけでもねえ。百聞は一見に如かず…か。ここに水を出せるか?」
 と問いかける。
『水?』
「ああ…水だ。」
『それがあれば、女に変化できるのかえ?』
 後鬼が真剣に見つめてきた。
「ああ。否が応でも変身しちまうよ。見せてやろうか?」
 
 その言葉を聞いた途端、後鬼は手を上にさしあげた。
 すると、白んだ天上から、水がバシャバシャと滴り落ちる。

「うげっ!こら、水をかけるにしても、もっと穏やかにしろよっ!」
 水を頭から浴びせかけられた乱馬は、みるみる女へと変化してしまった。

『へええ…。なるほど…。水で変化できるのかえ…。面白い。』
 後鬼がにっと笑った。
 その背中に、ゴオッと闘気がみなぎるのを、乱馬は見逃さなかった。
(攻撃される!)
 そう思って、その場から飛び退いた。

 ドーン。

 いきなり、後鬼の指先から、弾け飛んできた気弾。真っ白な世界が一瞬、煙を噴き上げた。

「こらっ!てめー、いきなり何しやがる?」
 乱馬はシュタッと着地すると、後鬼へと声を荒げた。
『知れたこと!この前の決着をつけるのじゃ!』
「は?戦いは終わったんじゃねーのか?」
『あの時は傀儡の術しか使えなかったが、今は、この身体がある。だから、真っ向勝負じゃ、小娘!』
 そう吐きつけると、再び、後鬼の気弾が炸裂する。
「うげっ!一体全体、何なんだ?ただの凶暴鬼女かよーっ!」
 いきなりの後鬼の戦闘宣言に、たじたじになりながら、声を荒げる。

『後鬼め…そうくるか…やっぱし…。』
 やれやれと、前鬼が吐きだした。
『おい、乱馬ぁー。本気で闘わねえと、死ぬぜー。』
 と、乱馬へと声をかけてきた。

「本気でって…止める気はねーのかよっ!」
 後鬼の投げつけてくる気弾を、器用に避けながら、思わず高い声を張り上げた乱馬。
『こんな面白いこと、俺が止める訳ねーだろ?』
「はあああ?」
『ちょうどいいや。俺もおまえの力量が知りてーし…。高みの見物をさせてもらわあ。』
 前鬼に軽く、言い渡すと、戦いに巻き込まれないように、すうっと上空へと浮き上がった。

「何なんだよ!そんなの、聞いてねーぞおおおっ!」
 思わず、怒声を放った乱馬。

『ふふふ、逃げ惑っているばかりじゃあ、わらわには勝てぬぞ!小娘!』
 後鬼が笑いながら、追いかけてくる。当てる気があるのかないのか。指先から投げられる気弾は、乱馬のすぐ横をすり抜けて行く。

「小娘じゃねえー!俺は男だあああっ!」
 
 白んだ世界に、女乱馬の声が、えんえんと響き渡った。



二、

 乱馬が後三日の修行に入った、ちょうどその頃のことだった。

 別の深き山の奥。地底にぽっかり開いた穴から、這い上がって来た若者が一人。
 全身は泥まみれ、顔も真っ黒で、目だけがぎょろりと光っている。
 何とも言い難い、欝々とした禍々しい雰囲気が全身を覆っていた。もし、視線が合えば、そのまま、襲い掛かって来られそうな荒んだ感じの青年。

「終わったか…氷也。」
 
 地上で待ち受けていた老人が一人、上がって来た若者へと声をかけた。
 老人は、観月氷三郎、そう、裏観月流の爺さんだ。
 這い上がって来た若者は、その弟子、観月氷也。
 凍也に傷を負わされ、倒されてから、二か月が過ぎた。
 病身だった凍也と違い、大怪我を負っていたが、半月も療養すれば、傷は癒えていた。血みどろの戦いになった割には、回復も早かったのだ。

 氷也はムッとした表情を、氷三郎へと手向けながら、コクンと頷いた。
 元々、不愛想な若者だったが、いつも以上に表情は硬い。

「その様子だと、鬼と契約はできたようじゃな。」
 ニッと爺さんは笑った。
「ああ…。かろうじてできた。」
 不機嫌なまま、言葉を投げつける、氷也。その様子を流し見て、氷三郎が言った。
「ということは…完全に調伏できた…という訳でもなさそうじゃな。」
 それに対する答えはなく、ただ、沈黙を通す氷也。氷三郎が指摘したとおりだったからである。
 無言のまま、山を下り始める。慌てて、その後を追いながら、氷三郎が声をかけた。
「やっぱりな…。単身では完全調伏は成し遂げられんかったか、やっぱり。」
「ああ…。」
 一言、氷也は氷三郎へと言葉を投げた。
「茨木(イバラギ)の苗木が要ると言われたのだろう?」
 氷三郎の言葉に、ピクンと氷也の身体が反応を示した。
「あの、鬼なら言いそうな事じゃ。茨木恋しさに、わがままを言いよるわい。」
「茨木というのは何だ?じじい。」
 氷也は氷三郎へと問い質した。
「あやつ、茨木のことは、おまえに説明せなんだのか?」
 氷三郎は氷也へと声をかけた。
「ああ…。」
「なるほどのう…。ガキ扱いされたな。おまえ。」
 氷三郎が高笑いした。
「確かに、ガキ扱いしてやがった。」
 ムスッとした表情を手向けながら、氷也が言い捨てる。
「ああ、おぬし、まだ、女を抱いたことがないからのう。」
 クスッと氷三郎が笑った。
「そいつは…じじいも似たようなもんじゃねーのか?」
 と氷也は吐き捨てた。
「ま、当たらずしも遠からじじゃな…。ワシには女房はおらぬからのう。」
「みろ、俺だけを、ガキ扱いするな、じじいっ!」
 ジロッと険しい瞳を、氷也は爺さんへと投げつけた。

 氷三郎を突き動かしている物、それは、「表観月流の長老、寒太郎への怨恨」であった。
 実の妹を、寒太郎にもてあそばれた…という、現実があったからだ。
 寒太郎は若いころ、この氷三郎の妹と恋愛関係に陥った。だが、お家の事情から、その妹と連れ添うことはできず、寒太郎はみさきの祖母と婚姻を結び、氷三郎の妹と別れたのだった。
 そこまでなら、ただの悲恋話で終わったかもしれない。だが、寒太郎が捨てた氷三郎の妹は、その時既に身ごもっていたというから、問題が複雑化してしまったのである。 
 寒太郎は氷三郎の妹が己の子を孕んだことは、知らなかったという。
 そのうえ、更に、氷三郎の妹は産後の肥立ちが悪く、早くして亡くなったというから、さらに、深刻化した。
 妹に手をつけられ、捨て去り、更に、子供を身ごもらせ、しまい目にはその子の命と引き換えに、早死にされてしまったのである。兄の怒りは、恨みへと変わり、いつしか、寒太郎はもちろん、表観月流を壊すことが、歪んだ目標となってしまっていたのだった。
 妹の子を裏観月流の跡取りとして、育てることに必死になり、婚期を逃してしまったことも、頷ける。
 その妹の忘れ形見も、二人の男子を残したまま、交通事故という禍で、夫婦諸共、早世してしまったのだ。
 その男の子のうち、兄の氷也は裏観月の後継者として氷三郎が育てた。そしてもう一人、弟の凍也は表観月流へと預けたのだった。

 凍也を表に預けた頃から、具体的に、寒太郎への復讐は始まっていたのである。

 氷三郎の思い描いた復讐はこうだ。

 孫たちを鍛え上げ、裏の鬼と契約させ、表をぶっ潰すこと。
 凍也は内側から、氷也は外側から、表の家をかき乱して、壊滅されることを思い描いていたはずなのだ。そのために、凍也を表へ預けたのに…。
 物心が付くかつかぬころから、凍也は表の一人娘、みずきへ関心を寄せてしまっていた。
 寒太郎が氷三郎の意図としたことを見抜いたのか否かは不明だが、早い時期に、みさきとの許婚に凍也を宛がおうと考え、行動していたことに、気づいたのだった。
 しかも、凍也も格闘センスは抜群で、寒太郎を師と仰いで、幼きより、表の跡目候補として、真っすぐに武道を突き進む青年へと育て上げられてしまった。
 氷三郎の目論見に手を貸す次第にはならなかったのである。
 ここ数年来、幾度となく、凍也に接触し、裏観月流の血を引く子孫の「当然の使命」として、表観月を潰す手伝いをしろと、言い続けたが、ついぞ、凍也が首を縦に振ることはなかった。それより、むしろ、裏だの表だのの「いさかい」や「怨恨」を武道の中に持ち込むこと自体を嫌っていたようだった。
 凍也は真っすぐ過ぎた。

(ふん、あやつも、寒太郎に上手く操られていたに過ぎんか…。だから、早死にするのだ…。)
 いや、凍也が早死にしたのも、、妹の血を色濃く受けついていたのかもしれなかった。が、決してそれは口には出さなかったし、凍也の死への悲しみの感情を、表に出すことも決してなかった、氷三郎だった。

 
「とにかく、あいつに言われたぜ。力を貸して欲しかったら、茨木に与える苗木を用意して来いってな…。で、その苗木ってのは何なんだ?植物か?」
 ムスッとした表情で、氷三郎へと言葉を吐き出した。
「そこから、説明せんといかんのか。朱点め、何もこいつに話してないのか。」
 やれやれと、氷三郎が溜息を吐き出してみせると、
「だから、ちゃんと説明しろ、じじい。茨木って何だ?」
 氷也はますます不機嫌になる。

「茨木とは、あいつの情婦の名前じゃよ。」
 すっと、氷三郎が言い放った。
「情婦?」
「ああ、情婦じゃ。まあ、今の言葉に置き換えたら、未婚の妻…みたいな表現になるのかのう。」
「未婚の妻だあ?」
「ああ…。鬼には戸籍などないから、未婚の妻じゃ。」
「ってことは、つまり、茨木とはあいつの恋人っていうことか?」
「恋人より上位の関係じゃ。恋人には肉体関係が必ずしもからまんが、情婦は違う。主に、肉体関係を持った相手という意味になるからのう。」
「茨木があいつの情婦だったのは頷けた。でも、鬼の気配は一つしかなかったぜ。その茨木って鬼はどーしたんだ?鬼は形骸的な存在だから、死とは無縁なんだろ?」
 氷也の問いかけに、氷三郎は答えた。
「茨木は純粋な「穏(おん)の精霊」ではないからな。」
「あん?」
「茨木は元は人間だったのじゃから…。」
「人間?人間が鬼になれるのか?だったら、鬼神の力を借りるより、自身が鬼神化すればいいんじゃねーのか?」
 氷也は氷三郎へと詰め寄った。
「単純に考えれば、そうなるのだろうが…。今の時代になっては、無理な話よ。人間が鬼神になることは。」
「何故だ?」
「鬼になるためには特殊な食物を食べねばならんが…その食物は途絶えて久しい。」
「鬼になるために必要な、食べ物?何だそれは…。」
「一説には龍、一説には人魚。はたまた一説にはオロチ…。いずれにしても、手に入らぬ伝説上の幻の食べ物じゃよ。」
「伝説上の食べ物か…。じゃあ、無理か。」
 氷也はそう言うと、ギュッと握りしめた氷三郎の道着の襟元をパッと放した。
 その襟元をただしながら、氷三郎は言った。
「茨木は「穏(おん)の精霊」ではないから、復活させるには、ある物が必要なんじゃよ。」
「まさか、伝説上の食べ物…とか言わねーだろーな?」
 じろっと氷也は氷三郎を見やった。
「人間の女じゃよ。おまえの女房となる女がいい。」
 さらっと、氷三郎は、とんでもないことを言い放った。
「女房だあ?おい、みさきを連れて来るとか言い出すんじゃあ…。」
「みさき…か。それもありじゃと思っておったが…。辞めた。」
「辞めた?」
「ああ…。この前は惜しくも凍也に敗れたからのう…おまえは。」
 その言葉を聞いて、再び、ムスッと氷也は口を結んだ。何度、思いだしても、腹立たしい負け試合だ。氷也もそこそこ勝気な性質だったので、負けを蒸し返されるのは嫌いだ。
 その表情を見ながら、氷三郎は言い放った。
「何…。そんな顔をするな。候補の娘なら、もう決めてある。みさきより、もっと、ふさわしい女をおまえに与えてやる。じゃから、奴から預かった物をこちらへ寄越せ。」
 そう言いながら、氷三郎は氷也へと右手を伸ばした。

 その、行動を見て、氷也はしばらく考え込んだ。素直に、氷三郎に従って良いのか、戸惑ったからだ。

「おまえ、預かって来たのじゃろう?茨の欠片を。」
 ニヤリと笑いながら、氷三郎は早く渡せと言わんばかりに、手を動かした。

「本当に、任せて大丈夫なんだろーな?じじい。」
 あまり乗り気がしない氷也に、
「なあに、ワシとて、女を見る目へ確かじゃぞ。心配ないわい。」
 と胸を張って見せた。
「だから…独身貫いてるから、心配なんだ、俺は…。」
 ぼそぼそっと氷也が、吐きつける。その言葉が耳に入ったか否か…。
「明日中に連れて来てやるから…おまえは、ねぐらへ帰って、身体を休めたら、朱点に言われたように、準備しておけ!」
「ああ…わかったよ。言っとくが、不細工連れてきたら、承知しねーぞ!」
 渋々承知して、氷也は懐から、朱点という鬼に持たされた「茨の欠片」を、氷三郎へと手渡した。
 
「ほう…これが、「茨の欠片」か。」
 受け取りながら、しげしげと眺める氷三郎。
 それは、ただの木の枝に見えた。いや、枝というより、樹の幹に近い。くすんだこげ茶色で、生きている感じは全くしない、ただの木の欠片だった。が、「茨(いばら)」というだけあって、一センチほどの角のような棘(とげ)が二本、突き出している。
 「茨(いばら)」つまり、バラの木だ。観賞用に作られている今のバラではない。あくまで山に生えている原生のバラの木だ。日本の野山にも、バラは自生していた。
 その、「茨の欠片」は、指で氷三郎は、せば、突き刺さって、血が出そうなほど、尖がっていた。
 手を傷つけるのもいやなので、持っていた手ぬぐいで、くるくる巻いて、道着の胸元へとしまい込む。
 氷也は黙ったまま、氷三郎の動作を、じっと見つめていた。

 氷三郎は、「茨の欠片」をしまい込んでしまうと、すっくと、姿勢を正した。それから、くるりと百八十度回転し、歩き出した。

「とにかく、ワシに任せておけ!これで、あいつらに一泡、吹かせてやる!対決の日が楽しみじゃわい!はっはっはっは。」
 笑い声を響かせながら、山道を悠々と下って行った。

「ほんとに、大丈夫なんだろうな?じじい…。」
 遠ざかる背中を見詰めながら、氷也は、小さな声で呟いた。
 


三、

 終焉を告げる、ベルの音が、けたたましく鳴った。
 ここは、とある大学の校舎の中。程よく、セントラルヒーティングがきいた教室の中。
 ふうっと溜息を吐き出し、鉛筆をそっと置く。

「これから答案と問題用紙を集めます。受験生の皆さんは、筆記具を置いて、座ったまま、次の指示をお待ちください。」
 教壇の上から、試験監督が声を響かせた。
 その声を合図に、後ろから順番に、補佐の人たちが、一斉に、答案用紙と問題用紙を集めていく。
 あかねは、手を膝に置いて、答案用紙が集められていくのを待った。
 ふと、眺めた窓の向こうに、薄い青空が広がっている。
 今日は首都圏も穏やかだった。春の日差しとまではいかないが、陽だまりの窓辺は温かい。
 答案用紙と問題用紙、両方を集め終わると、
「それでは、これで入学試験を終わります。受験生の皆さんは、忘れものがないように、再度周りを確認してから、速やかに解散してください。」
 と、声が響いた。
 一斉に、受験生たちが、片づけを始める。
 それぞれ鞄に筆記用具を詰め、上着を羽織って、ぞろぞろと、出口へ向かて歩き始める。

「どうだった?あかね。」
 廊下に出ると、別の教室に居た友人が、あかねを見つけて近寄って来た。
「うーん…。まあまあかな。さすがに、数学はちょっときつかったわ。」
「だねえ。結構難しかったよねえ。」
 試験の感想を言いあいながら、駅の方へ向かって歩き出す。
「あかねはここで終わりなの?」
「うん…。国公立は受けないからね。」
「そっか。私学一本なんだ。」
「もちろん、ここだけじゃないけどね。みかは?」
「私も国公立はパスよ。あのセンターじゃ出願しても門前払いだろうから。あと、もう一校受けるんだ。」
「そーか、まだ、完結してないのね。」
「うん。だから、まだ勉強しなくっちゃ。」
 はあっとため息が漏れた。
「で、乱馬君は?」
 そら来た。いつも友人と行き会うと、必ず聞かれる、乱馬のこと。
「乱馬は進学しないからね…。」
 と、素直に返事を返した。
「らしいね。結構、有名どころから推薦の話来てたのに、全部断ったんだよね。」
「うん、まーね。」
「卒業したらどーするの?結婚するの?」
 好奇心が満ちた顔で、戸惑いもなく聞いてくる、ゆか。親しいからこそ、ぐいぐいと突っ込んでくる。
「する訳ないじゃない。じゃないと、大学受験なんて、しないわよ。」
 と苦笑いを浮かべながら、否定に走る。
「別に、結婚してても、大学は通えるんじゃないの?」
「だからー、乱馬は卒業したら、修行に出るんだって!」
「修行?」
「うん。多分だけどね。」
「無差別格闘の世界に入るんだ、やっぱり。」
「まあ、あいつが普通の仕事に就く訳ないじゃん。」
「そーよねえ…。プロの格闘家になる訳か。で、あんたのところの道場をいずれ継ぐ…のね。」
「さあ…。」
「さあって、曖昧(あいまい)ねえ。」
「だって、仕方ないでしょう?あいつ、これからのこと、何も話してくれないしさあ。」
 ぼそぼそと歯切れの悪い本音が出て行く。
 
 そう。つまり、結局…乱馬は、卒業後のことに関しては、殆ど何も話してくれないままだった。
 わかっているのは、卒業したら修行に出るということだけだ。
 どこへ行くのか、期間はどうなのか、具体的なことは、一切、口にしていない。というより、ああいう、大雑把な性格の奴なので、何も決めていないと思った。いや、多分、行き当たりばったりで、修行行脚するつもりなのだろう。

「でも、あかねはある程度、決めてるんでしょ?すぐにとは言わないまでも、いずれは彼と一緒になって、無差別格闘を全国に知らしめていくつもりなんでしょ?」
「まーね…。そういうことになるかなあ…。」
「結局のところ、どーなのよ?あんたたち。」
「どうって何がよ。」
「少しは関係、進んだの?」
「別に…変わり映えないわよ。」
「プロポーズ…まだ、されて無いの?」
「だから、あたしと乱馬は…。」
「そう言う関係じゃないって、言い張ってるけどさあ…。ここんところ、右京や小太刀や中国娘の猛攻、激しくなってるんでしょ?あたし、良く見かけるもん。全力疾走してあの子たちから逃げ惑ってる乱馬君をさー。」
「そーなの?」
 ドキッとしてみかを見返す。
「まあ、誰がどー見たって、乱馬君はあかね以外を選ばないんでしょーけど。でも、しっかりしっぽ捕まえておかないと、駄目よ。」
「……。」
 どう返答して良いか、わからなかった。

 確かに、「好きだ」という意思疎通の段階は終わっている。たまに、キスだって、してくれる。
 だが、それ以上の関係には至っていない。
 誰も信じないかもしれないが、晩熟な超純愛を貫いている自信はあった。
「乱馬君も優柔不断だけど、あんたも相当なものね…あかね。」
 それに関しては否定できない。ゆかの言う通りだ。
 多分、乱馬も同じ気持ちなのだろうが、これ以上の関係を進めることが「怖い」のだ。
 乱馬だけを「優柔不断」と責めることができない。
 出会って以来、「好き」という言葉は、心の中で迷走し続けている。
 乱馬の優柔不断な追いかけっこを見るたびに、己の優柔不断さにも嫌気がさす。と同時に、乱馬が今、そばに居ないことへの不安な気持ちが、一気に肥大していくのを感じていた。
「たまには、あんたが積極的になるのもいいんじゃないの?待つだけの女なんて、あかねらしくないわよ。」
 
 みかとは、そんな話をして、別れた。


 そう、最後の入試が終わった。
 今まで、勉学に集中していた緊張が、解けていく。
 我慢していた、心が一気に解放され、流れ込んでくる「雑念」もとい、「純粋な思考」。

(乱馬…大阪で上手くやってるのかな…。)
 ゆかと別れてから、ずっと、乱馬のことを考えているあかねが居た。
(ゆかの言う通り、たまにはあたしから攻めていかなきゃ、ダメなのかな…。大阪…行こうかな…。やっぱり迷惑かな…。)



 天道家へ帰宅したころは、すっかり日の光も力を失いつつあった。
 もうすぐ、夕闇が迫り、街灯にも灯りが燈るだろう。

「ただいまあ…。」
 玄関に引き戸を開けて、見慣れない履物が置いてあるのを見つけた。
 今時珍しい「草鞋」がちょこんと並べてある。
 八宝斎かと思ったが、あの爺さんは地下足袋愛用者だ。
「お客様かな?」
 そう、思いながら、コート―を脱ぎ、階段へと足をかけた。
 と、かすみが、客間から出てきて、あかねを呼び止めた。

「あら、いいところに帰って来たわね。あかねちゃん。」
 のほほんと話しかけられ、階段を上がろうとしていた足が止まった。
「あ、お姉ちゃん、ただいま。」
「おかえりなさい。今さっき、大阪からわざわざ観月流のお爺さんが来てくださってるの。」
「大阪…から?」
 怪訝な顔を手向けながら、かすみへと問いかける。
「そう。乱馬君がお世話になっている…えっと…。」
「もしかして、寒太郎のお爺さん?」
「そうそう、その方よ。」
 にっこりとかすみは微笑みかけた。
「今頃、何の用事で寒太郎爺さんが来たのかしら。」
 首をかしげながら、それにこたえる。
「なんでも、お迎えに来たって言ってらっしゃったわよ。」
「お迎え?」
「大阪に一緒に来て欲しいんですって。」

 その言葉に、あかねの顔が一瞬、明るくなった。ということは、乱馬に会える。
 あかねの顔色が変わったのを見て、かすみはにっこりと微笑みかけた。
「とにかく、着替えて手を洗ったら、すぐに客間に来てね。」
「はーい。」
 長い返事を投げかけると、トトトと自室へ向かって階段を駆け上がる。

 どうして、寒太郎自らが、あかねを迎えに来たのか。今、この場では理由がわからない。何かの必然性があって、あかねを迎えに来たのだろうが、意図は不明だ。
「ま、お爺さんに直接聞いたらいいか。」
 そう思いながら、コートや制服を適当にハンガーへひっかけると、引き出しから普段着を引っ張り出して、大慌てで着替えた。
 愛用している赤いスカートと、白い丸首のブラウスにアラン模様のセーター。
 さっと、姿見で確認すると、客間へと急ぐ。

 客間と言っても、茶の間の横の座敷をさす。ソファーや椅子がある訳ではない。
 東京には珍しい純日本風家屋の天道家。ごちゃごちゃした装飾品は無いに等しい。道場付きの旧家らしく、襖で仕切った畳の部屋が並んでいる。そのうちの南向きの日当たりのよい一室に、お客が来た時、通すことになっている。
 茶の間よりちょっと高級感がある大きなテーブルと、座布団。それから床の間との八畳間。それが天道家の客室だった。
 廊下側ではなく、茶の間側から襖を開けて中に入る。
 と、確かに、道着姿の老人が見えた。
 挨拶をしようと、顔を覗き込んで、驚いた。
 
 そこに居たのは、寒太郎老人ではない。別人だった。それも、寒太郎とは真逆の立場に居る人間。
 凍也と闘った氷也の後見人として、一緒に居た、嫌味な老人が、ちょこんと座っていた。

『何で、あなたがここに居るの?』
 きつい声で問いかけようとした。が、瞬時にあかねの視線をとらえた、氷三郎の瞳の強い光に、ブルッと悪寒のような震えが全身に走った。
 グッと吐き出しかけた言葉は、喉の奥に押し込められた。舌も口も滑らかに回らない。
 その有様を見て、爺さんがニッと笑いかけた。

「あかねちゃん、まずは座りなさいな。」
 かすみは、爺さんの前の席へと、あかねを誘う。
「あ…はい。」
 やっと一言、声を発すると、そろりと腰を下ろして正座した。
 見ると、早雲と玄馬も同じ席について、話が弾んでいたようだった。
「あかね、観月流のご当主が、自ら迎えに来てくださったんだ。大阪へ行くよね?」
 と早雲が、ニコニコと笑いかけてくる。
「あ…あの…。」
 チラッと氷三郎爺さんを流し見ながら、早雲の言に対する返答に窮する。
 前に座っているのは、「寒太郎」ではない。別の人物だ。そう、言いだしたかったが、何故か、言葉に乗らないでいた。
「乱馬もきっと、あかね君が来るのを、首を長くして待ち受けているぞ。わっはっは。」
 珍しく、パンダではなく、人間仕様の玄馬が、カラカラと笑っている。
「試験の全日程も今日で終わったし、最初に受けたところの合格通知も来ていたよ。」
 満面の笑みを浮かべて、早雲が言った。
「え?合格?」
 その言葉に、少しあかねの顔が和らいだ。
 一応、第一志望はその次に受けたから、滑り止めの一つの合格通知だったが、それはそれで、ホッとしたのだ。これで、浪人せずにすむ。
「合格、おお、それはめでたいですなあ。」
 わざとらしく、裏観月流の爺さんが身を乗り出して手を叩いている。
「で、みども、あかねさんだけに耳に入れたい話もありますで、ちょっとの間だけ、席を外していただけませんやろか。」
 少し、わざとらしい「関西弁」で氷三郎爺さんが、早雲や玄馬、かすみの三人の席払いにかかった。
「おっと、そうですな。いろいろ、あかねにしか言えない、事情も、おありのようだ。早乙女君。」
「そうじゃな。打合せとかもあるじゃろうし…一旦、席を外しますか。」
「その間に、お夕食でも準備しますわ。」
 早雲、玄馬、かすみと、三人はあかねを残して、客間から立ち去って行く。

 トン、と襖が音をたてて、閉まった。そのあと、立ち去って行く足音を聞きながら、
「ふふ…これで、人払いもできたし…。おまえさんも、聞きたいことが山ほどあろうし…。」
 と、不敵な笑みを浮かべながら、氷三郎はあかねの方へと開きなおった。
「ええ…。ちゃんと、話を聞かせて貰いましょうか…。裏のお爺さん。」
 強い視線を氷三郎へと投げかけたあかね。
「どうして、表のお爺さんの名を語って、ウチに来たかも含めてね。」

「奴の名など、語っておらんぞ。ワシは「観月流の当主」として、おぬしを迎えに来たとしか、言っとらんわい。「表」と「裏」の違いはあるが、ワシも観月流の当主には違いあるまいが。…それに、勝手におぬしの家族が、「観月寒太郎」と勘違いしたまでのこと。」
 と白を切った。

「じゃあ、手短に聞きますけど、何故、裏のご当主が、直々に、あたしを迎えに来る必要があるの?」
 ムスッとしながら、肝心なことを、あかねは問い質していた。
 表観月流にとう留している乱馬だ。表の寒太郎が迎えに来るなら理解できるが、それと敵対する勢力でもある裏観月流の氷三郎がここに来るのは、合点がいかない。

「もしかして、あの、乱馬という男…。何もおまえさんに説明していなかったのかのう…。聞くと、受験しとったということだから…。」
 と、思わせぶりなことを言い出す。
「説明?乱馬は、凍也君が入院して人出が足りないから、大阪に駆り出されてるだけじゃないんですか?」
 逆に己の情報を相手に知らしめる言葉を投げ返してしまったあかね。
「ほう…。乱馬はそのような出まかせを言って、大阪に立ったのか。」
 わざとらしい腕組みをしながら、あかねをチラッと上目遣いで覗き見る。かなりの「役者ぶり」だった。
「出まかせ?」
 氷三郎の言葉尻を捕まえて、つい、きびすを返してしまった。こうなれば、相手の思う壺だ。氷三郎の誘導にはまりこんでしまったことに、気付かぬまま、身を乗り出してしまうあかね。

「そうか…。乱馬はおまえさんに、真実は告げておらんのか。」
 再び、思わせぶりな言葉を投げかけた。
 あかねの瞳に猜疑心が浮かび上がってくるのを、楽し気に見つめながら、ほくそ笑む。
「真実って何よ!大阪に手伝いに行くって他に、何か理由でもあるわけ?」
 単純と言って退けられるほど「純粋」なあかねである。相手が、何故、煽り立てるような言葉を投げかけてくるのかを考える「周到さ」もない。
 ここになびきが居れば、状況も変わってくるのだろうが、あいにく、そんな日に限って、なびきは不在だった。

「おぬし…凍也がどうなってしまったのか、知らぬのか?」
 ついに、氷三郎は、持てる最大の言葉の爆弾をあかね目がけて投げおろした。

「凍也君?あんたがけしかけた氷也君に負わされた傷がまだ癒えてないんで、静養してるんでしょ?」
 
(そうか…。乱馬め、この娘には何も告げずに居たのか…。これは、好都合だな。)
 とほくそ笑む。

「凍也は死んだよ。」
 と、淡々とした表情のまま、言葉を投げた。

「え…今…何て…。」
 驚きの表情を手向けたあかね。その時、彼女の心に、一瞬の付け入る隙ができてしまった。激しい動揺が彼女の心を揺さぶったのである。

「凍也は死んだ。」
「そんな…口から出まかせを…。」
 震えるあかねの声に対して、氷三郎の声は非情に響いた。
「出まかせではないぞ。寒太郎め…おまえの許婚をみさきに娶せようという腹づもりで大阪に呼んだんだぞ。」
 あかねに対して、もっと心を揺さぶる言葉を投げつけた。
「え?まさか…そんなこと…。」
 その言葉のは、あかねの心をえぐり始める。
「あんたの許婚は、凍也を倒したことがあるんじゃろ?凍也亡き後、観月流がほっとくとは思えんしな。」
 ふふっと氷三郎が笑った。
「凍也君が死んだってどういうことよ…。そんなに怪我がひどかったの?」
 問い質すあかねの声は震えていた。
「怪我に殺された訳じゃない…凍也は、我が妹と同じ病に倒れただけだ…。」
 ポツンと、小さく、氷三郎が言った。その言葉に、微かな哀愁が含まれていたのを、あかねは見逃さなかった。
「同じ病?」
 きびすを返そうとしたとき、氷三郎は、キッとあかねを見つめた。その目の光に、捕らわれて、途端、あかねの思考が止まった。

「とにかく、一緒に来てもらおうか…。天道あかね殿。」
 サッと額に氷三郎の左手の人差し指と中指がくっつけられた。それからは、あっという間だった。その手があかねの額に三角形をかたどる。最後に、かたどった三角形の真ん中を、ツンと突いた。

 ぶわんと、身体の中に、得体のしれない波動が取りぬけていく。

 ほんの一瞬のできごとだった。

 パンと軽く、氷三郎が手を打った。
 ハッとあかねの瞳が開く。
「……。」
 うつろな瞳で、畳表を見ていた。

「とにかく、素直にワシに、従って貰おうかのう…。」
「はい…。」
 あかねは、己が心、そこにないまま、氷三郎の言葉に、「是」を唱えていた。




つづく



一之瀬的戯言
やっとこ、大きく物語が動き出しました。
あかねも物語の根幹部にかかわってきます。あかねをどう絡ませようかと、考えた末、こう来たか…みたいな。あかねのからませ方で、十年近くほったらかしていたのでありました。そして、考えあぐねた末、再び、夫婦鬼を登場させることに…。
大学時代、説話文学で卒論を書いたせいで、異形譚やその専門書、論文を読み漁っておりました。その頃、いつか書いてみたいと作っていた「鬼を絡めたオリジナル話」のプロットをここで使うとは思わなかったけれど…。(三十年以上前のプロットなので、文字としては現存せず、頭の中だけに片りんが残っている状態)
昔、作ったプロットが、記憶という引き出しから、どう、乱あに変換されて、頭の中から湧き出てくるか…楽しみながら書いておりました。


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