◆天高く 第三部
第八話 鬼、現る



一、

 乱馬の放った最大級の「猛虎高飛車」。
 この数日間の修行で培った「観月流の技」を乗せて打ち出した「猛虎高飛車」は、美しい黄金の気焔をあげながら、洞窟内へと轟き渡っていった。

 天井から水が流れ落ちてくる。
 その水が洞穴の床へ当たると同時に、もうもうと上がる、白い煙。
 瞬く間に、洞内は、熱気と白い煙に包まれていった。
 シュウシュウという音も、四方から響いてくる。

『小娘…一体、おまえ、何をした?』

 一瞬、飛び散った怪しの煙が、再び、姿を現した。

「へへっ!知れたこと…。本来の姿に戻っただけだ。」
 煙の中から響いてきたのは、男の声。
 そう、男の姿に戻った乱馬が、はっしと怪しの煙を睨みつけながら、立っていた。

 何故男に戻れたのか。
 それは、ここが、石灰質の土壌だったおかげだ。
 石灰を高温で焼いた生石灰には、水を含ませれば発熱する性質がある。乱馬は滴り落ちた水が煙を出したことに、着目したのだ。
 化学の授業の時に、習ったことを、あの刹那、思い出したのである。万年赤点の乱馬に対して、あかねが山を張って教えてくれた、化学変化の話の中に、石灰の性質。生石灰に水をかけると熱を持つという話を。
 鍾乳洞は土に混じった石灰石が、水の浸食を経て石柱や石筍を作り出すことも、確か一緒に教えてくれた。鍾乳洞のような石灰があるということは、かつてこの山系が海の中にあったというということも示唆している。
 つまり、このあたりは大昔、暖かい海の底でサンゴ礁に覆われていたということだ。

 熱気をはらんだ猛虎高飛車を打って、襲って来た人形を粉々にしたのも、石灰の性質を利用したものだった。石灰を猛虎高飛車の熱で粉状にして生石灰に変化させたのだ。
 そして、うまい具合に天井のすぐそばを走っていた水脈も刺激して、適量の水を生石灰へと浴びせかけることに成功したのだ。
 つまり、生石灰の粉へ、雨水を浴びせかけ、熱反応を引き出したのである。
 発した熱は、瞬時に、高温に達し、降り注ぎ続ける雨水を湯へと変化させた。

 その水を全身に浴びることで、男に戻ったのであった。


「まだ、戦いは終わってねーぞ…。受けてみるか?俺の最大技を。」
 乱馬の目論見は男に戻ったことだけで終わった訳ではなかった。
 石灰石の反応のおかげで、洞内は熱気に満ち溢れている。そう、ここに熱源が生じたということ。
 その熱源を利用して、最大級の技を打つ。そう「飛竜昇天破」がぶっ放せる状況になったということだ。
 心から激情を抜き去り、冷気を手先に集中し始めた。
 観月流の修行のおかげで、らせんのステップを踏むことなく、熱気を己へと集中させることが可能になっていた。
 洞内を巡っていた熱気が、乱馬を中心に、ぐるぐると吸い寄せられていく。
 対して、体内は熱い闘気を沈め、冷気を高めていく。
 おそらく、「飛竜昇天破」をこの場で放つと、この洞窟など、瞬時に木っ端微塵にできるくらいの威力が出るだろう。

『……。』
 目の前の怪しの煙はしばし、沈黙した。
 そして、一言、乱馬へと投げた。
『よかろう…。おまえが男と化した今は、戦いを続ける意味がなくなった。そなたの本性が、男なのか女なのかは、今は問わぬことにしよう…。』
 すうっと、煙が洞内へと溶け込み始めた。と、同時に、洞窟に立ち込めていた「殺気」も消えた。
『それに、もう、夜明けじゃ…。朝が降りて来た。夜は終わりじゃ…。』
 そう言った途端、洞窟の入口付近から、一筋の光が差し込めてきた。
 暗かった洞窟内が、いきなり、ぱあっと明るくなる。
 もう、怪しの煙も居なくなっていた。

 粉々になった、石灰も、再び固形化し、洞窟の壁や床の石柱や石筍へと戻る。
 周りは、何も無かったかのように、ただの鍾乳洞へと戻っていく。

「へへ…。勝ったってことかよ…。」
 そう言いながら、乱馬は膝元から崩れ落ちた。満ちていた冷気も、洞内に立ち込めていた熱気と共に消え去る。
 朝の光が差し込めてきたと同時に、身体からすべての気が一気に抜け去っていったのだった。


『なかなかやるじゃん、おまえ…。』
 意識の向こう側で、また、別の声が乱馬の耳元で聞こえて来た。
 だが、その声に応えるだけの気力は最早残っていない。
 また、さっきの妖(あやかし)かとも、思ったが、明らかに別の声だった。闘った妖は女の声だったが、今、話しかけてくる奴は男の声だった。
 声も、己に似ているようにも思えた。案外、内なる声なのかもしれない。 
 薄れゆく意識の中で、そう思った。
『あいつを退散させるなんてよー。気に入ったぜ。』
 そう言われたような気がするが、もう、意識は沈んでしまっていた。

『戦闘不能か…。まあ、しかたねーな…。いいぜ、後は俺に任せな。ここであったことは、口外しねー方がいいぜ。それだけ、覚えときな。』
 声はそう言うと、すっと消えていった。



「おい…乱馬君、乱馬君よ!」
 誰かにゆすられて、目が覚めた。
 呼ばれた方へ顔を傾けると、寒太郎爺さんが、そこに居た。
 どうやら、彼が揺り起こしてくれたようだ。
「あれ、じーさん?どうしてここへ?」
「修行が始まる前に、言っとったやろ?三日目の朝に迎えに来てやると。」
「迎え?」
 がばっと起き上がってみて、驚いた。
 ここは、鍾乳洞ではなく、出発点の、山小屋だったからだ。
 しばらく声を継げないでいると、爺さんがしゃべり始めた。

「三日間で、かなり腕をあげたようやな。」
「え?」
「気でわかるで。冷気の扱い方も、観月流の技も、一通りは使いこなせるようになったようやな。」
 鋭い眼光が、乱馬のそばで光っていた。
「流派が放った刺客も、ことごとく粉砕してくたようやし…。」
「ああ…あれ、やっぱり、てめーの差し金かよ。」
 ムスッと不機嫌な顔を差し向けながら、爺さんを見返す。
「こっちの意図もすぐに見抜いたようやし…。」
「わからいでか!わざと言わなかったんだろ?やっぱ、あれか?流派の技を俺には習得させなかったとか、そーゆーんじゃねーのか?」
「まあ、そう、カリカリしなさんな。当然やろ?凍也の名代とはいえ、おまえさんは、観月流派の一門やあるまい?」
「そーだな。そう、易々と、余所者には流儀は教えられねえよな…普通。」
 不機嫌な表情でそれに対した。
「そーゆーこっちゃ!でも、おまえさんは、ちゃんと理解して会得したようやしな。さすがに、凍也が見込んだだけある男やな。っほっほっほ。」

(やっぱ、食えねえじじいだな…。)
 冷静に分析しながら、乱馬は爺さんの言い分に耳を傾ける。

「まーいい。完全とは言い難いけど、観月流の技をある程度、身につけられたから、それに関しちゃ、感謝するしかねーな。」
 身体をどっこらしょと起こしながら、それに答えた。

「まあ、それだけ暴れまわったんや、今日はヘトヘトやろ?」
 爺さんは太眉毛から小さな目をしばたたかせながら、乱馬をチラッと見た。
「ああ…。もう、駆けまわる気力も残ってねーぞ。」
「もう少し、余裕があると思ったが…。」
 チラチラと乱馬を眺めながら言った。
(最後の鍾乳洞の件がなかったら、ここまでやられてねーけど…)
 そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 耳元に囁かれた男の声を思いだしたからだ。

『ここであったことは、口外しねー方がいいぜ。それだけ、覚えときな。』
 そう言われたことを思いだしたからだ。
(あいつ、観月流とつるんでいるって感じでもなかったし…。それに、あの洞窟での戦闘は、人間の仕業じゃねえ。山の神か…それとも、妖の仕業か…。)
 
「仕方ねーだろ?俺はこの修行場は初めてなんだぜ。慣れてるてめーらと一緒にすんなっつーのっ!俺を襲って来た奴ら、しょっちゅう、ここで修行してんじゃねーのか?」
「ほう…そこまでわかるんか?」
「わからいでか!己の庭見てーに駆け巡ってたんだぜ?地形や道をきちんと知ってなきゃ、無理だ。あの程度の力しか持ってねー連中じゃあな。」
 負け惜しみともとれそうな言葉を、寒太郎へと投げ返していく。
「ま、力配分のことは良かろう。行き当たりばったりの修行では、これがおぬしの限界じゃろうしな。」
「限界…ねえ…。」
 グッと拳を作りながら、不快な顔で吐き出した。

(ま、あの鍾乳洞の戦闘のことは、やっぱ、言わない方がいいだろうな…。それにしても、あの煙の化物は何だったんだ?俺が女化してたことを、かなり怒っていたようだし…。)

 寒太郎爺さんが持ってきた握り飯とお茶で、軽い朝食を済ませると、山小屋を出た。一旦、温泉郷へ戻り、今日一日は休養するという。
 山道を下りながら、乱馬は寒太郎へと問いかけた。

「なあ、爺さん。」
「あん?」
「この修行場には、化物が居たりするのか?」
「何じゃ、藪から棒に。」
「いや、山を駆けながら、何となく、霊気のようなものを山全体から感じたような気がしたんだけどよ…。」
 咄嗟にごまかしながら、問いかける。
「まあ、古来からの修行場やからな、ここは…。それに、熊野にも近い。化物の類がかっ歩しておっても、不思議ではあるまいよ。」」
「熊野って…あの世界遺産の熊野か?」
「当たり前や。大峰山系は金剛山系はもちろん、熊野山系とも繋がっておるしなあ…。三重、奈良、和歌山、大阪は、いや、日本列島は山で繋がっておるんやで。…ところで、おぬし、熊野の「クマ」の意味を知っておるか?」
「あん?熊がたくさん出る…とか言うんじゃねーだろーな?」
「日隈(ひのくま)の「クマ」が語源やよ、多分な。」
「ひのくま?ヒグマか?」
「動物の熊やないぞ。「くぼみ」とか「日陰」という意味の「クマ」や。つまり、「熊野」という土地の名は、太陽の当たらない鬱蒼とした山々が続く原野…ということになるんかな。」

 実際、熊野の神々は、記紀神話の創世の神話に出てくる夫婦神の、女神、「伊邪那美(いざなみ)」と深いかかわりがあるとも言われている。伊邪那美(いざなみ)が最後に産み落とした火の神「火之迦具土神(ほのかぐつち)」に焼かれて死んだ場所や、伊邪那美の陵墓がある場所が「熊野」という説も存在している。
 日本アルプスほどの標高は無いが、吉野、大峰、熊野、金剛の山々には、今なお人を寄せ付けない、神々しい雰囲気を、持っているのだ。

「わしら観月流は元々、陰(いん)の力を統べる祭祀(さいし)の一族やったからのう…。」
「祭祀の一族?」
「ああ。神祀(かみまつ)りをする一族ってところやろうかのう。もっとも、武士(もののふ)が力を持つようになった、戦国時代以降、その様子がガラッと変わって、武道と一体化したんやがのう…。」
「武道と祭祀か…。古い家なんだな。」
「ああ、そうや…。せやから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の如く、色んな念が流派の中にたんと埋もれとんや。」
「なるほど、確かに、胡散(うさん)臭い雰囲気がプンプンするよな…。」
「はっはっは。乱馬君にかかると、そういうことになるのか。」

(確かに…胡散臭いことだらけだもんな…。)
 それ以上、口にはせず、言葉をグッと腹の中へと飲み込む。

「この大峰山中は、陰の力を得るのに、ちょうどええ修行場なんや。せやから、祭祀を兼ねて、観月一族はこのあたりで昔から修行しとったという訳なんや。」
「陰の力ねえ…。」

「陰と陽」あるいは「陽と陰」。その対する力の存在意味は、正直、乱馬には未知の世界だった。
 早乙女流の中にも、陰陽をかんがみた技があった。「海千拳」と「山千拳」だ。あれは、乱馬の親父の玄馬が編み出したスチャラカ技ではあったが、「こそ泥」と「強盗」つまり「裏」と「表」の対で構成されていた。

「陰の気を扱うからこそ、鬼の力を持つことは、我が一族の「悲願」とされてきたことなんや。」
「鬼の力…。」
 その言葉に、唾をゴクンと飲み込んだ。

(もしかして…。俺が昨晩、相手にしていたのは…鬼?)
 そう、石柱や石筍(せきじゅん)から現れたのは「鬼人形」だった。鬼人形を操ったのだから、その大元が鬼だとしても、辻褄はあう。

「後三日の修行は、その、鬼の力を得るために籠る、洞窟修行や。」
「洞窟修行?」
「ああ。このあたりはカルデラ地形を有しておって、鍾乳洞が多いんやで。」
 再び、ピクンと耳が動いた。
「鍾乳洞?」
「洞川温泉にも、面不動鍾乳洞や五代松(ごよまつ)鍾乳洞、蝙蝠(こうもり)の岩屋や蟷螂(かまきり)の岩屋とか、見学できる鍾乳洞や洞穴があるんやで。」
「へええ…。鍾乳洞ねえ…。」
「おまえさんに明日から籠ってもらう鍾乳洞も、この山の中にあるさかいにな。」
「鍾乳洞へ籠る?それが、後三日の修行なのかよ?」
 怪訝な顔で寒太郎を見返した。
「ああ。そこで鬼の力が授かるか否かは、わからんがな…。でも、己の力を顧みることも含めて、籠る価値はあると思うで。」
「でも、俺は、観月一族じゃねーし、観月流の一門でもねーからな…。鬼が力を貸してくれるとは思えねえけどよー。」
「わっはっは。鬼は気まぐれだとも言われてるしなあ…。」


 そんな、話をしながら、川元の温泉郷へと降りて来た。
 この洞川温泉。温泉郷としての歴史は浅いらしい。温泉自体も、ボーリングによって掘り当てられたものだそうだ。温泉郷というよりは、元々、大峰山系への入山の門前宿場町として、連綿と歴史を綴ってきた。
 源泉の温度も、二十五度前後と低く、温泉というより温水に近いという。



二、

 寒太郎が懇意にしているという旅館へと、その日は乱馬も泊まることになった。

 部屋は、一人部屋。
 冬場、特にこの時期の平日は、雪に閉ざされることも少なくなく、宿泊客もまばらなのだそうだ。
 国道にも雪が積もることが、頻繁にあるので、夏場の方が人出が多いのも、頷けるところだった。
 小さな旅館だったので、泊まりの客人も、寒太郎と乱馬の二人きり。寝室は別でも、食事は一緒にじいさんの部屋で食べた。
 派手な温泉地のイメージは全くない。浴槽も地味で、露天もなく、こじんまりしていた。
 メインストリートの街道を歩いてみたが、同じような木造の旅館ばかりが、軒を連ねて並んでいる。
 日が落ちて、提灯に火が燈ると、余計に寂しく感じられた。

「いろんな場所に修行に行ったけどよー。すげーな…ここのレトロさは。」
 お膳を前に、しみじみと爺さんに話しかけた。
「まあ、元々修行で栄えた宿場町やったしなあ…。昔は遊郭なんかもあったんやで。」
「遊郭?」
「ああ、せや。激しい修行の前後に、女を買いたいのは、男の本能みたいなもんやしなあ…。」
「ふーん…。」
「おまえさんかって、許婚が恋しいんとちゃうんかのう?」
「いや…。俺は別に…。」
 あかねのことを、こんなところで持ち出して欲しくは無い。ムッとした表情を浮かべた。
「ははは、青いのう…。乱馬君は。」
「うるせー!」

 食事が終わった後、部屋に戻ろうとすると、引き止められた。

「これを乱馬君に預けとかんとあかんな。」
 そう言いながら、懐から差し出された、小さな箱だった。
 トンとテーブルの上に置かれた小箱。
「これは?」
「修行するための、手形みたいなもんや。」
 と、寒太郎が言った。
「手形ねえ…。」
「開けてみたらええ。」
 そう言われて、小箱の蓋を開くと、中から、宝石箱が出てきた。指輪などと納めるビロードの箱だ。

(もしかして…。)

 パカッと開くと、中から黄色い鉱石が現れた。

(やっぱり…レモン水晶…。)
 そう思ったが、とぼけた。みさきの母に、別のレモン水晶を預けられたが、それは秘密だと念を押されていたからだ、

「これは?」
 半ば、スッとボケながら、乱馬は寒太郎へと問いかけた。
「レモン水晶や。」
「レモン水晶?」
 思わず、問い返していた。みさきの母が乱馬に渡したレモン水晶は、確か、みさきの母の姑、つまり、寒太郎爺さんの正妻の形見だと言っていたのを思いだしたからだ。
「ああ。せや。これが無いと、修行場には入られへんし、鬼修行もできひん。」
「へええ…。レモン水晶か、初めて見るぜ。」
 一通り感心してみせる。猿芝居だが、仕方があるまい。
「鬼修行の鬼洞窟は、いわば、観月流当主の修行場。普通の弟子は、前修行までで奥義伝達は終わる。この先ができるということは、特別なんや。」
「なるほどねえ…。秘儀ってことかよ。」
「せや。この修行は観月流派の男しかできないことになっとる。」
「女人禁制の山でするんだったら、そーなんだろーな…。」
「観月流に嫁ぐ女は、このレモン水晶を持って嫁に来ることが、ずっと義務づけられとってな…。結納と共に預け入れることになっとる。その水晶を証として、観月流の当主は後修行をすることになっておるのや。で、これは、みずきが、観月流の当主となる凍也に渡す筈やっレモン水晶や。」
「なるほど…。みずきさんが凍也に渡す筈だったものなのか。」
 しんみりしながら、その水晶を見る。
 電灯の下で、淡い黄色のレモン水晶が、チラッと輝いたようにも見えた。
「で、これを俺に、預けるってか…。」
 ふっと溜息を掃き出しながら、寒太郎を見た。
「ああ…乱馬君は、凍也の名代やからな…。」
「わかった…。これが無いと修行ができねーんだな?」
 改めて、寒太郎に問い質した。
「せや、後三日の修行を受けてもらわねば、表の代表として、裏とやり合うことも許されへん。せやから、氷也と闘うためには、その修行を飛ばすことは、まかりならん。」

 少し、嫌な予感もよぎった。
 観月流の当主となる者が、嫁から渡されるという、レモン水晶だ。
(まさか、この水晶を盾にして、みずきとの婚儀を迫るつもりじゃ、ねーだろーな?この、タヌキじじい…。)
 
 しばし、沈黙が乱馬の上を駆け抜けた。

「修行を受ける証として、鍾乳洞の祭壇に置かんとあかん決まりになっとるから、これを受け取らなければ、何事も始まらんぞ。
 微妙な乱馬の心の動きを読み取ったのか、寒太郎が揺さぶりをかけてきた。
「これを祭壇に?」
「ああ。一旦、置かれた証の石は、そこから動かすことはできひん。凍也の名代を受ける乱馬君やからこそ、これを渡しておく。この石を証として、明日からの三日間を、その洞窟周辺で過ごしてくれたらええ。」
「わかった…。」
 
 そう言って、手を出したところで、あれっと思った。

(嫁入り道具の一つとして、持ってくることが義務づけられる石…なんだよな。で、観月流の当主となる者は必ず受けなければならない修行の証…として、その修行場に置いてくることになってるのなら…。何で、みさきの母さんは、レモン水晶を俺に渡せたんだ?)
 胸元にあるレモン水晶は、みさきの母が「姑の形見」だと言っていた。姑とは寒太郎爺さんの正妻…の筈だから、ここに存在していることに、大きな疑問がのしかかる。

「なあ…じーさんも、その修行を受けたんだよな?」
 と軽く問いかけた。

「ああ、もちろんじゃ。」
「いくつくらいの時だ?」
「そーやな…。三十になるかならんかのころやったな…。」
「ってことは、結婚してから…なんだよな?」
「せや。ばーさんと一緒になって、新婚気分が抜けたころやったなあ…。」
 と、目を細めた。
「じゃあ、その、嫁さんも、これと同じようなレモン水晶を持って来たってわけか。」
「当然じゃ。そんなことを聞いてなんとする?」
「あ…いや、じゃあ。みさきの父ちゃんも、おばさんが持ってきた水晶を使って、修行したんだよな?」
「当たり前のことを聞くな。」
「そーか…。凍也もこの水晶で、受ける筈だった修行か…。わかった。凍也の名代を受けたんだ。俺が持っておくぜ。」
 
 疑問は解決せず、謎が深まったが、とりあえず、乱馬は、その石を箱ごと預かることにしたのである。




(おばさんも、これを預けただけで、修行に必要になるっていうこと以外は、何も言ってなかったよな…。)
 胸元に御守袋と一緒に揺れる、レモン水晶へと意識を飛ばしながら、ふうっとため息が漏れた。
 あの後、もう一度、寝る前に風呂へ浸って、早めに布団へと入ったのだ。
 できるだけ、体力をベストの状態まで回復させたかった。
 三日間、夜の山を駆けたせいで、かなりの疲労が身体にたまっていた。気を使い果たした影響が、まだ、身体の節々に残っている。
 それに、最後に入った鍾乳洞と妖のことも気にかかる。
 考えれば考えるほど、謎が、次々と浮かんでくる。

(もしかして…昨日の鍾乳洞で出会ったのは…明日、相手にしなきゃなんねー鬼なのか?)
 ギュッと御守ごと、レモン水晶を握りしめる。視線を横に反らすと、たたんだ道着の上に置いた「寒太郎爺さんから貰ったレモン水晶の箱が目に入る。
 凍也が使う筈だったレモン水晶…それから、みさきの祖母が持って来たという形見のレモン水晶。
 
(俺の胸にあるレモン水晶って…一体…。みさきの祖母は二つ、嫁入りに持って来たのか…或いは、爺さんは本来使うべきレモン水晶ではない物を使ったのか…。)
 ゴロンと寝返りを打った。

 さわさわと、窓辺の向こうから川のせせらぎが聞こえてくる。窓の向こうの対岸には、龍泉寺という寺があり、役行者が見つけたという泉が、今は池として存在しているという。
 役行者とその式神だった前鬼・後鬼という鬼たちの伝承が、辺り一帯に、残されているのだ。

(昨日俺が相手した奴だって…。実体は無かった。白い煙だけの存在だったのも、気になるぜ…。)
 そうだ。乱馬が実際に闘ったのは、白い煙が生み出した、数多の石筍(せきじゅん)の鬼人形たちだった。
(それに…。俺は、確かにあの洞窟の中で、気力を使い果たして倒れ込んだ筈なんだ…なのに、目覚めたとき、山小屋に戻ってた…。誰かが俺を、山小屋まで運んだに違いねーんだ…。運んだ奴と闘った奴は、違う…。)

 考えれば考えるほど、疑問は迷路へと入りこんで行く。

(ま…考えても、結論は出ねえか…。)
 ならば、思考をやめるべきだろう。そう思った。
(ちゃんと、寝なきゃな…。ベストに戻さねーと、修行にもならねー。」
 パツンと電灯のリモコンを押した。
 部屋は、暗闇に包まれる。
 相変わらず、川が流れる音だけが、響いてくる。川に接している窓の方から、しんしんと冷気が降りてくるようにも思った。
 三日ぶりにちゃんとした布団の上に身を置いた。
 が、セントラルヒーターなどない、昔気質の宿。
 分厚い綿布団に、行火(あんか)。断っておくが、電気行火ではない。豆炭が入れられた、昭和レトロな行火だった。
 思わず、身震いして、頭をすっぽりと布団にねじりこみ、行火を引き寄せる。
 身体に直接当てると、低温やけどをするから、離して置くのが本来なのだそうだが、そうも言っていられない。
(たく…。昨日まで山ン中を走り回ってたんだよな…。普通、山ン中の方が、寒いに決まってるんだが…。今の方が寒いってーのは、どういう理由なんだ?…)
 そうだ。ここは屋根の下。しかも、布団の中だ。なのに、冷えがしんしんと降りてくる。空腹でもないのに。
(なあ…あかね…。天道家も寒いが…ここはもっと寒いぜ…。おめーが居ないせいなのかもしれねーな…。)
 思いっきり丸まって、胸の御守にそっと触れる。
(あかね…。)
 瞳を閉じると、彼女の笑顔が浮かんでくる。
(己の力を信じて、突き進んでいくしかねーよな…。だから…せめて、想いだけでも、抱いていてー…。)
 深くい息を吸い込んで、眠りへと身を任せた。
(あかね…。)
 愛しい名前を、意識の下で呼びながら。







(あかね…。)
 ふと、乱馬の声が耳元でしたと思った。

 ハッとして、目を開く。
 机に突っ伏して、つい、うつらうつらやっていた。
「乱馬…。」
 慌てて、起き上がった。が、彼がこの屋根の下に居る訳はない。
 フッと、机の上に飾ってある写真を見た。桃幻郷へ行った時の集合写真がそこに飾られてある。
 乱馬のそばにはシャンプーや右京がちゃっかりと写りこんでいる。が、そんなことはどうでも良かった。
 あの日のことが、遠い昔のようにも思う。口ごもってはいたが、確かに乱馬はこう言った。
『おまえ、今の俺のままでいいって言ったじゃねーか…。俺も今のままのおまえが…好きだ。』
 最後はほとんど声になっていなかったが、桃幻郷の泉を壊す刹那、そう言ってくれた。
 大切な思い出がいっぱい詰まっている、写真。それから、乱馬がクリスマスにくれた、写真立て。
「乱馬、頑張ってるのかなあ…。あたしも、頑張らなきゃね…。明日で、一応、全部終わるんだから…。」
 写真立てを手に、そんな言葉を語りかける。
 そう、終わるのだ。受験という戦いが。
 後は、結果を待つだけの身になる。最初の合格発表も明日だった。

「合格すれば、大阪に行く。」

 そのつもりでいた。

「さて、あと一問解いたら、寝よう…。」
 伸び上がって、再び、鉛筆を持った。これで、受験勉強が終わる。そう思いながら、数式を立てて問題を解き始めたあかねだった。




三、

 翌朝は、良く冷えた晴天だった。
 朝は底抜けに冷えていたが、風は無い。太陽が上空へ上る頃には、陽だまりはポカポカとするだろう。
 「三寒四温」という言葉が示すように、立春を過ぎると、春に向かって、徐々に気温が上がる日が出始める。

「さて…行くか。」
 宿屋を出て、寒太郎と共に歩き出す。方角は、前三日の修行をした女人禁制の山の方だった。
 川のせせらぎを聞きながら、車道を行き、やがて、山道へと入って行く。
 そして、前に通り抜けた「女人禁制」の結界を越えて行く。
 山小屋の方ではなく、真逆の南の方へ向けて、今度は歩み出す。
 この山に関しては初心者も同然な乱馬だ。連れて行かれるのが、どこなかは、さっぱり見当がつかない。
 それに、再び、登山道をそれて、険しい山肌に沿う獣道へと分け入って行く。
 道なき道を下がったり登ったり。ちょろちょろと、そばを小川が流れて来る。昨日の雨で、水かさが増しているようにも思った。
 美味しい水が湧く里と、宿屋の人たちが言っていたように、この山は湧き水が多いと思った。生命の源である水。それが豊かな山だということは、生命力にあふれている。
 昼日中故に、山の気配は淀みなく、済んでいる。化物や鬼がかっ歩する気配は全く感じられない。
 大峰山の稜線は、相変わらず、雪を携えている。標高を上がっていくごとに、ひんやりとした冷気が漂い始めるかとも思ったが、乱馬たちが行く場所は、そう冷え込んでいないような感じがした。
 代わりに、気温が急激に上がったせいと、雨が降ったせいが相まってか、進んで行くごと、靄がかかり始めた。湿度も気温も、思ったより高い。

「霧がかってきたな…。じーさん。」
 前を行く寒太郎に、乱馬は話しかけた。だんまりを通して歩いていると、霧に姿を隠されて、はぐれてしまわないとも限らないからだ。こんな時は、父の玄馬も饒舌になっていたことを思い出す。
「まあ、この先は、いつ行っても、雨か霧…そんな天候が多い山の端やからなあ…。もしかして、この霧に怖気づいておるんか?」
「まさか!でも、こんなところで迷ったら、修行場にも行けねーだろ?」
「まあ、そうじゃな。…もしかすると、この山がわしらを拒絶しておるのかもしれんが…。」
「拒絶される筋合いはねーぞ。山に恨まれるようなこともしてねーし。じーさんなら、長く生きて来た分、山に拒絶されることもあるかもしれねーがよ!」
 と口を尖らせる。
「それより、本当にこっちであってるんだろーな?修行場って言っても、そう何度も来るような場所じゃねーんだろ?」
「まあな…。山駆けの修行でも、こっちにはあんまり来んからなあ…。」
「大丈夫なんだろーな?道に迷ったとか言うなよ。」
「はっはっは、信用が無いなあ…。大丈夫。道しるべなら、ちゃんとある。」
 そう言いながら、顎を道端の方へと差し向ける。と、石仏がいくつか並んでいるのが目に入った。
「あれは?」
「観月流の先祖が置いた道しるべの石仏や。」
「道しるべねえ…。」
「半里置きに並べてある。気が付かんかったか?」
「気付く訳ねーだろ?んなもん。」
「注意力が足りぬのう…。」
「確かに、そーかもな。」
 ムスッとした表情を浮かべながら、先を急ぐ。このままでは、霧に多い尽くされるのは時間の問題だろう。そうなった時、目的地へたどり着けなければ、どうなるか。考えるだけでも、憂鬱になる。
「そう、投げやりになるな。目的地はすぐそこや。」
 そう言いながら、寒太郎は、ある地点を指さした。
「ほら、あそこにあるのが、鍾乳洞の入口や。」

 霧の向こう側に、岩場が見えた、と、確かに、その岩肌の中に、ぽっかりと開いた洞窟が見えた。ご丁寧に、入口に、それっぽい「注連縄」が張り巡らされている。

「この中で、三日三晩、籠ってもらうだけの修行や。」
 そう言いながら、入口付近まで来ると、徐(おもむろ)に、寒太郎は乱馬の背中をトンと押した。
 と、いきなりの不意打ちを食らって、乱馬の身体が洞窟の入口へと入ってしまった。
 トトトと足が結界を越える。

「こら、じじい!いきなり何すんでー!」
 と、洞窟から出ようとするのを、寒太郎は手を差し出して、さっと止めた。
「結界を一度越えれば、三日三晩、戻ったらあかん!今出たら修行をやめたことと同じになるで!」
「おい、こら!だったら、何でいきなり背中を押しやがった!」
 あからさまに、放り込まれたようなものだ。
「おぬしに隙があったから、つい、背中を押してもーたわ。」
 と、言い訳か冗談か、わからないようなことを言い出す始末だ。
「隙があった、俺が悪いってゆーのかよ?じじいっ!」
「ほーっほっほ、ちょっとした悪戯や、許せ。」
 と、屈託ない笑顔を手向ける。
「まーいい。確かに油断してた俺も悪い…けど…。鍾乳洞で修行とか言ってなかったか?」
「あん?」
「おい…ここのどこが鍾乳洞なんでえ?どう、すっ転んでも、ただの洞穴じゃねーか!」
 とがなりたてた、

「ほう…おぬしの目には、鍾乳洞には見えんか。」
 などと、今度はすっとボケ始める。

「じじい!ひょっとして俺をからかってるのか?」
 グッと拳を握りしめる。

「いや…。そういう訳やないわい!この洞穴は、見る人によって、形態を変えるとも言うでな…。そーか、おまえには鍾乳洞には見えへんのんか。」

「じゃあ、じじいはどーなんでい?これが鍾乳洞に見えてるのかよ?」
 と逆に問い質す乱馬。

「ワシにも、ただの洞穴としか映らんから、安心せい。」
 これまた、方向が見えない返答を返される。

「あのなあ…。……まあ、文句を言っても始まらねえよな。」
 乱馬は諦めて、背負って来たリュックをその場に下ろした。
「とにかく、ここの中で三日三晩を過ごせばいいんだよな?」
 と再確認する。

「せや…。その通りや。三日三晩おったらええ。で、昨日言ったとおり、懐(ふところ)のレモン水晶を、この奥にある祭壇に、ちゃんと置くんやで。」
 と念を押すことも忘れなかった。

「ああ…。わかってる。」
「レモン水晶は持ってきたろうな?」
「ここにあるぜ。」
 そう言いながら、箱を取り出した。
「よろしい…。では、三日後、ここまで迎えに来てやるさかいにな。」
 と爺さんは言い置いた。
「ってことは、また、温泉郷で湯治か?いい身分だな。」
「そう言うな。年寄りにはそのくらいしか楽しみは無い。」
「あんな退屈な温泉郷で、何日も過ごせるもんだぜ。」
「ほっほっほ。洞川だけが温泉場やあらへんで。」
「あん?」
「ちょっと足を延ばせば、天の川温泉なんかもあるしなあ…。」
「観光客気分かよ…こっちは真面目に修行しよーってーのに…。」
「だからと言って、一緒に修行する訳にはいかんやろうが。」
「まーな…。で、本当に、洞穴に入るだけで好いんだよな?特に瞑想しろとか、そういう決まり事は無いんだな?」
「ああ。洞穴の奥へ行くなり、何なり好きなようにすればええ。」
「洞穴の奥?深いのか?その穴は。」
「まあ、行ってみればわかる。」
「行って、戻って来れねえとかいうことは…。」
「あったら、わしは今ここにはおらんわい!」
 はははと寒太郎は笑った。

「まあ、後三日の修行は、精神修養のようなものや。気楽に行け!」
 それだけ言い置くと、くるりと背中を向けた。

「たく…。わかったよ。ちゃんと三日後、迎えに来いよ。じゃねーと、裏との戦いもできねーかもしれねーんだからな。」
 結界の中からそう吐き出した時は、既に、寒太郎は元来た道を戻り始めていた。

「……。いい加減なもんだぜ。あのタヌキじじい。」

 恐らくこの穴は、ただの洞穴に過ぎないのだろう。
 なのに、何故「鍾乳洞」と言ったのか。単にボケていただけのことなのか。
 乱馬にはわからなかったが、石柱も石筍も無い、ただの黒っぽい岩壁だ。奥に広いという感じは確かに漂っているが、それも、どこまで期待できるやら。
 そのうえ、何ら、鬼気と差し迫ってくるものもない。
 一昨日、雨宿りしたあの「鍾乳洞」の禍々しさとは、比べ物にならぬくらい、普通の洞穴だった。

「開祖以来、誰も、鬼の波動は習得できねーとか…みさきの母ちゃんも言ってたしな…。それに、ここはただの洞窟だ。鬼なんか棲んでる気配もねーしよ…。」
 どうしたものかと、入口のところで座り込む。
 奥に入ってしまえば、日の光は届かない。いや、入口付近でも、そう、太陽光の恵みにありついている訳ではなかった。薄暗く、光も弱い山の中だ。

 一応、リュックで背負って、修行で使うだろう小道具は持って来た。特に何も言われなかったし、三日三晩籠るなら、やはり、ある程度の食料の備蓄も必要だった。
 カップ麺や缶詰め、それから、煮炊きできる最低限の装備も持って来ている。
 そのあたりは、父親と共に、しょっちゅう、山を駆けて来た経験が役に立っていた。
 前三日のような寝床も無いし、寝袋も持って来た。
「ま、いいや…。深く考えるのはやめとこう…。」
 
 かなりの重量を、ここまで背負って来たのだ。そのリュックをドサッと地面へと投げ置いた。

「えっと…。奥の方に祭壇があるって、じいさん言ってたよな…。まずはそいつを確認するか…。」
 昼間とはいえ、洞窟の中は暗い。ここは手軽にと、持って来たリュックの中から、龕灯を取り出す。小屋から拝借してきたものだ。もちろん、寒太郎にも了解は貰ってある。ろうそくも麓の温泉郷で、束で買ってある。

 丁寧にマッチを擦って、ろうそくへと火をともす。火種を消さないように、そっと、龕灯の釘へと、ろうそくを差し込んで、固定した。

 ほわっと、辺りが柔らかい炎の色に包まれる。

「さてと…。祭壇に行くとして…。どっちのレモン水晶を証として、置くべきか…。」
 首の紐を手繰り寄せ、御守袋と一緒に結わえつけてある帰着へと手を伸ばす。寒太郎から直に預かった「凍也のレモン水晶」も合わせて、一緒に手に持つ。
「どうするかなあ…。」

 そう、思案に暮れていた時だった。

 ろうそくの炎が、一瞬、揺らめいた。

 と、そいつの気配がすぐ側で立った。

 えっと思って振り返ると、そいつがニッと笑っていた。
 ろうそくに映し出されたその姿を見て、腰を抜かすかと思ったほど、驚愕した。

「え…ええええ?な…何で俺が、そこに居るんだ?」
 つい、そう声を張り上げてしまった。

『へええ…。おまえには、己の姿形に見えとるんか…。この俺が…。』
 声色まで、そっくりそのままで、そいつが、ニッと笑って白い歯を見せる。
 と、笑った奴の口元から、己には無いものが見え隠れしていることに気付いた。
 それは、牙だ。犬歯の位置に、見事な牙が四本、見えている。それともう一つ、乱馬には無いものが、頭のてっぺんにもくっついている…。それは、ニョキッと伸びた「角」だった。

「おまえ…。俺じゃねーな?」
 と、目を見開きつつ、そう問いかける。

『ああ、ちげーよ!俺はおまえじゃない。当然だろ?』
 フンと鼻息で笑い飛ばしながら、そいつは即座に答えた。

「おめえ…もしかして…鬼か?」
 と問い質す。

『ま、おめーら人間はそう呼ぶかな…俺たちのこと。』
 そう言って、牙を見せながらニッと笑った。

「俺たち?」
 鬼の返事を聞いて、すぐさまきびすを返した。「たち」という「接尾語」がくっついている…ということは、一人きりではない訳だ。

『おーい、後鬼。こいつ、俺の姿が己の姿に見えるらしいぜ。』
 と奥へ向かって声をかけた。

『何だ…じゃあ、やっぱり、男で正解か…。』
 奥からそう声が響いてきた。それも、どこかで聞いたことのあるような声色だった。
 ハッとして、その声の主を見た。

「え…ええええ?な…何で、俺だけでなく…あかねがそこに居るんだ?」
 が、良く見ると、これまた、あかねにも、牙と角があった。それも、額からにょきっと二本の角が生えているではないか。
 それに、短い髪ではなく、最初に出会った頃の、ロングヘア―のあかねの姿を借りていた。


『へええ…。俺が自分に見えるだけじゃなく、後鬼の姿もちゃんと見えてるってことは…。そーか、隅に置けねえなあ、おめえ…。契りを交わした女が居るってことかよ…。へへへ。聞いたか、後鬼。こりゃあ、愉快だ。』
 乱馬の姿をした鬼が、ニヤッと笑った。どうやら、喜んでいるようだった。

「い…一体、おめーら…何なんだ?俺の姿やあかねの姿をしてるなんて…。」

『俺たちか?俺たちは、この山を守る穏(おん)の精霊で、俺は前鬼(ぜんき)…そして、こいつは後鬼(ごき)。よろしくな…早乙女乱馬。』
 そう言って、前鬼は嬉しそうに笑った。


つづく




一之瀬的戯言
前鬼と後鬼。役小角の式神の夫婦の鬼。生駒の菜畑で暴れまわっていたのを、小角がひっ捕まえて改心させ、式神として使役していたという伝説があります。私が住んでいる生駒市に「鬼取(おにとり)」という地名や、役行者が修行したと伝えられる場所(宝山寺など)も残っています。
以前「東雲の鬼」という長編を書きましたが、その折いろいろ調べ回ったことを元に、この作品も構成していますが、彼らとは一線を画したキャラで書いています。なお、洞川温泉郷は後鬼の子孫が作った里だという伝説があるそうです。で、昨秋、お泊りしてきたので、洞川辺りの描写はそのあたりの記憶をもとに、書き流しています。五代松鍾乳洞にも行きましたが、エキセントリックで面白かったです。
当然、フィクションなので、嘘もいっぱい書いております。生石灰のことなどは、適当なので、ご了承ください。


(c)Copyright 2000-2016 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。