◆天高く 第三部
第七話 前三日の修行



一、

 立春の時期にもなると、だんだん日照時間も長くなり始める。
 それでも、山の日暮れは早い。
 それが、山の中であれば、なおさらのことだ。
 午後四時も過ぎれば、太陽の光も力を失い、日暮れて行く。六時ともなれば、辺りは暗くなる。
 ましてや電気も通らない山奥だ。日暮れてしまえば、真っ暗になる。

「さてと…。」
 ほぼ、真っ暗になったところで、山小屋を出た。

 「龕灯(がんどう)」と呼ばれるろうそくを用いた携帯電灯を片手に、歩き始める。江戸期に用いられたこの木製の携帯電灯。いわゆる、ろうそく版懐中電灯だ。
 寒太郎爺さんに案内された、山小屋の中にあった。
 この山小屋、観月流派の者が、山修業を行うのに使う小屋だということで、時折、修行に誰かが利用するのであろう。見てくれのオンボロさはさておき、案外、中はこぎれいにしてあった。
 寝床があり、布団とまではいかないが、毛布があった。また、火をくべられる、囲炉裏も設えてあったし、炭や固形燃料もあった。自由に使っていいと、寒太郎に言われていたので、その好意に甘えて、夕刻まで寝床で身体を休めていたのだ。

 というのも、寒太郎によれば、夜、この山中を駆けることが修行になるというのだ。刻限は日没から夜明けまで。
『鬼は、夜、跋扈(ばっこ)するものやからなあ…。その鬼の力を求めようとするならば、夜修行するんが、あたりまえやろ?』
 寒太郎はそんな言葉を乱馬へと残し、自分はさっさと、麓(ふもと)の洞川温泉で湯治しつつ、刻限までを待つらしい。

 日が没してから、急激に気温は下がり始めた。
 着て来た、セーターにスラックスという格好から、道着へと着替えていた。チャイナ服でも良かったろうが、格闘家の正装は、やはり道着だろう。白い道着に黒帯を締める。
 足元には、草鞋(わらじ)を履いた。普段は、裸足で野山を駆けているが、夜の修行だ。足元は真っ暗。しかも、雪がちらちらと残っている。子この冷気だ。凍結もしているだろう。いくら山修行に慣れているとはいえ、夜の山は、裸足では危険すぎると、彼なりに判断してのことだった。
 意外かもしれないが、山へ修行に入るときは、草鞋を数足、持ち歩いていた。下手に靴をはくよりも、裸足に近い草鞋の方が、しっくりくるのだった。
 草鞋の上には、足袋(たび)をはいていた。素足でもよかったが、夜道にはどんな危険が潜んでいるかわからない。暗い分、足元は不安定だ。少しでも、傷を負う確率を避けたかった。

「何か、仰々しいことになっちまったな…。」
 天を仰ぐと、星が見えた。一応、今夜は晴れていた。
「ま、何事も起こらなきゃいいがな…。」
 女人禁制の結界をくぐってから、何か、「不吉な予感めいたもの」が彼を取り巻いていた。
 今は晴れているからよい。でも、山の天候は、猫の目のように、コロコロと変わる。
 雪ならまだしも、もし、雨でも降ろうものなら、どうなるか。
 女人禁制を自ら侵してしまうことになるのだ。
 ブンブンと頭を横に振った。
「今は考えねー方がいい…。とにかく…。じーさんに言われたとおり、山を駆け抜けるか。」

 寒太郎によれば、一本道。細い獣道を外れさえしなければ、容易にひとめぐりできると言っていた。
 不安要素があるとすれば、川をいくつか横切らなければならないということだけだろう。
「ま…いいや。気に病んでも仕方がねーしな。変身したところで、俺自身は男だ。」
 そう言いながら、道端へと立つ。
 左右、一つずつ道が付いている。
「右へ入って進めってじじいが言ってたよな。」
 右奥へと続く道へと龕灯を照らす。と、矢印を掘った石を見つけた。
「やっぱ、こっちからは入れってことだよな。」
 矢印を照らしつつ、上を見てハッとする。
 己の身長より少し高いところから、それはつり下がっていた。縄と白い紙。そう、注連縄(しめなわ)である。
「結界…か。」
 すうっと、大きく息を吸い込んだ。
 この結界を越えて思いっきり行け…。そう、暗示されているような気がしたのだ。
 道の全容は全く見えない。この先、山へ入ったら、星空さえも見えなくなるだろう。
 山の精気は不気味に思えるほど、澄み渡っていて、その清々しさが、返って人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。

「さて…行くか。」
 グッと丹田に気を入れる。
 全身に闘気を張り巡らせていく。
「よし!」
 パンパンと柏手を打ち、行く手に向かって、拝礼する。これから入る山へと、敬意を表したのだ。

『山には神が棲んでいる。神は守護神にもなるが、怒らせると祟り神ともなる。その山を使わせてもらうのだから、挨拶はおろそかにはするなよ。誰だって、己が住処を荒らされては面白くないものじゃからなあ。』
 子供のころから、耳にタコができるくらい、玄馬(父)に言われ続けて来た。
 山の神はすぐに豹変することもある。夏山で雷雨に見舞われ、雷が横に走ったのを目の当たりにしたことがある。また、足を取られて、急な斜面を転げ落ちたことも、一度や二度ではない。樹から枯れ枝が落下してきて、すんでで直撃を免れたこともある。侮ってはいけないことは、子供のころから身を持って体感していた。
 故に、入るときは、いつも真摯に、修行の無事を祈らずにはいられない。
 しかも、夜駆け修行は、あまり経験が無い。

「ほっ!」
 気を引き締めると、龕灯片手に、辺りの気配を伺いながら、速足で歩み始めた。

「夜駆け」と言っても、駆け足になる訳ではない。こんな、不慣れな山道で駆けるときは、その必要があるとき以外はしない。
「結構、奥深い山だな…。それに…信仰の山だけあるぜ。精気が満ち溢れてやがるぜ。」
 身体に受ける冷気には、邪悪なものは一切含まれていないような気がした。それどころか、己の身体が洗われていくような気もした。
「っと…。気をそらすと、足を取られるな。根雪も凍結してるし…。気をつけねーと。」
 先ごろの冬将軍のせいで、降雪した雪が、根雪となって、山肌にところどころへばりついている。このあたりまで、人は来ないらしく、細い道の上にも雪は覆いかぶさっていた。日が当たる場所は溶けていたが、山影になるところは、溶けずにそのまま残って、さらに、凍てついていた。足袋もすぐに濡れそぼち、足元から冷えてくる。

 と、何かの気配を、真正面から感じた。

(何か来る!)
すぐさま、龕灯の明かりを吹き消した。そして、かたわらの木の枝へとつかみかかり、みるみる高い木の上へとのぼりつめる。
 そして、枝葉の中にすっぽりと隠れると、すぐに己の気配を断った。じっと息を凝らして、辺りを伺う。

(あれは…。)

 闇に紛(まぎ)れて、幾人かの気配を感じた。
 鬼や化物の気配ではない。人間…それも、一定レベル以上の闘気を、持っている奴らばかりだ。


「奴は、どこに行った?」
「さあ…。横道へ反れたんやないか?」
「どっか、隠れよったか。」

 おそらく、乱馬を探しているのだろう。あちこちで、関西弁が聞こえた。
 更に息を殺して耳を澄ましてみると、耳を疑うような言葉が漏れ聞こえた。

「本気で行っていいんやな?」
「ああ、寒太郎師匠がそう言ったんやから、ええんとちゃうか?」
「かなりな使い手らしいぞ。若衆があっという間にやられたらしいわ。」
「なら、その敵討ちやな…。」

 一人二人ではない。数十人は居る。
 みんな、一様に、黒っぽい道着を着ている。会話の内容から察するに、観月流の道場の者たちだろう。

(たく…。そういうことか…。昨日、道場で出迎えた連中はたいしたことがなかったが…。ここで、俺に当てるつもりだったってことかよ…。あのタヌキじじい。用は、闇討ち修行じゃねーか!)
 闘気を悟られぬよう、平常心を装いつつ、じっと、息を潜める。
 飛竜昇天破の使い手でもある乱馬は、「氷の心」を得とくしている。従って、気配を断つことなど、お手の物だ。
(あいつら、本気で仕掛けてくるだろーな…。面倒くせえ…。でも、売られた喧嘩は買わねーとな…。多分、多少 手荒くぶっ飛ばしても、文句は言われねーだろ…。よっし…。)

 丹田へと瞬時に気を溜めた。
 ポッと掌へと、その気を浮かせる。ソフトボール大の気の魂が、右掌へと浮かびあがった。
 そして、人影が密なところ目がけて、気弾を放った。

「でやあああ!」

 投げると同時に、気弾が山の斜面へと当たって砕け散る。

「うわあっ!」
「何だ?」

 乱馬の急襲に、どよめき声が上がった。

「上に居るぞ!」
「反撃だ!」
 冷静に分析しながら、乱馬の居所をつかんだ者も居る。
 が、乱馬とて、狙い撃ちにされる気はさらさら無い。
 上っていた樹から飛びあがると、無造作に気弾を浴びせかけた。

「猛虎高飛車!」

 今度の気弾は、一発目の比ではない。
 派手な光が、ボンと山の斜面を走る抜ける。

 ドッゴーン!

 炸裂音と共に、弾け飛ぶ人影。

「うわああ!」
「やられた!」
 次々、倒れ込む人影。
 だが、ここに集結した中には、凍也ほどではないにしろ、山に慣れている者も居るようで、乱馬目はけて、反撃を仕掛けてくる猛者も居た。

「っと!」
 乱馬の真横を、冷気が走って行く。すんでで、その気を捉えて、真横へ飛ぶ。
 と、避けた乱馬目がけて、また、別の方向から、冷気の気弾が襲い掛かってくる。
(さすがに、冷気の扱いが上手い流派だぜ。ったく…。山の冷気を、ふんだんに使ってきやがる。)
 乱馬も冷気を扱うことが得意だが、冷気で冷気を抹消するのも、かなりのエネルギーを使う。しかも、冷気ばかりで、熱気は無い。あったとしても、この冷え方だ。熱気を巻き込むための、螺旋のステップは、踏めない。
(ちぇっ!面倒だな。こっちが、熱気を浴びせかけてもいいんだが…。わざわざ、己の場所を知らせてるみてーなもんだから、狙い撃ちされねーとも限らねーし…。)
 気配を再び闇の中に消して、身をひそめた。
 相手はかなりの人数が居るようで、倒しても倒しても、次々と、気配が現れる。
(一体、どのくれー居るんだ?百人はかたいか…。にしても、みんな、ビンビンに殺気をぶつけてきやがるな…。たく…。)
 と、再び、乱馬の気を捉えた奴が居たようで、ビシッと冷気の刃が乱馬目がけて飛んできた。

(っと!…。この技は確か…氷気斬(ひょうきざん)…。己の冷気に周りの冷気を巻き込んで氷の刃を作り、敵を貫く観月流の技…だったっけか。)

 今度は別の方向から、冷気の塊が襲って来た。

(これは流氷弾…か。)

 次々と、繰り出される、観月流の技に、興味が移り始めた。
 全て、寒太郎から預かった、「観月流奥義」という冊子に、図で示された技だった。

(きっと、これはあれだな…。あの本に載っていた技を、きちんと会得しろってことだな…。)
 乱馬なりに出した結論だった。
 凍也の名代を務める以上、観月流の技を完全に会得できねば、意味をなさない…寒太郎はそう言いたいに違いない。前三日の修行は、おそらく、観月流の技を極められたかどうかを試す修行。乱馬の場合、初心者とはいえ、凍也を破った実力の持ち主。ならば、三日で使いこなせ。そういうことなのだろう。
 この修行を経て、対戦する相手もまた、裏とはいえ、観月流を名乗る氷也だ。
 観月流の技をきちんと会得することは、相手を知る上でも、必要不可欠だ。
 一応、一通り、「観月流奥義」の冊子は目を通したが、全てを実践できたのではない。
 この場に居合わせたのが、観月流のある一定以上の使い手ならば、稽古相手に不足は無い。

(けっ!面倒だが…。ここは、真面目に観月流の各技を、会得してやるぜ…。打ってこられた技をまんま、切り返して、相手を倒していけば、三日間で、ある程度の技は会得できるはず…。)
 そう決意すると、丹田に気合を入れなおした。

「来いっ!そのまま、そっくり、打って来た技、打ち返してやらあっ!」

 それから数時間。
 山の中で、散々、観月流の「兄弟子」たちとやり合って、身体を動かし続けた。
 暗がりの中に居たため、相手の気の動きを必死で探らねばならなかったが、かえって、集中して技の本質を見抜けたように思う。
 というのも、技は目で追うだけでは、会得できない。
 常人が数年かかって覚えていく他流派の技だ。目で動きを追っていただけでは、技の本質は見抜けない。
 が、視界が利かない故に、じっと、神経を研ぎ澄ませることで、技を仕掛けてくる相手の気の動きが、返って良くつかめた。
 観月流は「冷気」を扱うのを極意としているだけあって、冷気の扱い方云々が技の基本にはある。
 凍也と対決したときや、凍也対氷也の試合を見ていた時に感じていた。
 凍也と闘ったときは、熱気を呼び寄せるのに、随分、苦労したのだった。凍也本人からは、一切、熱気は感じられなかった。異常なまでに「冷気」に特化された技の数々。氷也もまた、冷気を、良く扱いこなしていた。

 乱馬の「飛竜昇天破」も最後に打ち出すのは、氷の闘気だ。
 故に、一晩で、それなり、容易に「冷気」を扱えるようになっていた。
 冷気を孕んだ山での修行が意味するもの…それを、最大限に生かして己が血肉に変える。

 さすがに、一晩、気を集中して、相手を観察し、なおかつ、相手の攻撃を避けながら、己が糧と成す修行は、心身ともに、疲弊へと追いやられていた。
 東雲の空が、明るくなり始めた時、一斉に、山に孕んでいた殺気が引いて行った。
 ハアハアと息を荒げながらも、小屋へと立ち戻り、木の扉を開くと、中へ、転がり込んだ。
 致命傷はないものの、そこらじゅうに、小さな血の塊ができている。道着も泥だらけだ。
 だが、それを脱ぐ気力も失せていた。
 とにかく、まずは、気力を回復させなければ、ヘトヘトだった。

「畜生…。あいつら、俺の足元を見て、寄って集(たか)って、痛めつけやがって…。」

 己が技で我武者羅に闘えば、おそらく、もっと、簡単にケリはついただろう。だが、それでは、観月流の技を会得できない。ぎりぎりのところで踏ん張って、耐えながら、必死で、乱馬なりに、一晩で、観月流の基本技を身に着けたつもりだった。
 多分、今夜も、奴らは乱馬を叩きに来るに違いない。或いは、もっと、レベルが高い奴らが、乱入してくるかもしれなかった。

「昼間は休養しろって、爺さんも言ってたからな…。」

 息が整ってくると、手あたり次第、食い物を腹へとぶち込んだ。
 カップ麺や缶詰。持って来たものや、ここに置いてあるもの。
 とにかく、腹を満たしたかった。
 そして、満腹すると、そのまま、ドッと寝床へと倒れ込む。もう、起き上がるのも面倒だった。
 それほど、身体は疲労困憊していた。体中の筋肉が、うねり声をあげて、どうにかなってしまいそうだった。

『乱馬…。大丈夫?』
 遠のく意識の上で、あかねの声が響く。夢路を辿るなかで、彼女の声が柔らかく、そして、心配げに響く。
『ああ…。大丈夫だ。疲れただけで、どこも傷ついちゃいねえ…。』
 音にならない声で、語りかける。
『そう…ならいいけど…。』
『心配するな…。一寝入りすれば、回復する…。』
 ふわっと、柔らかなあかねの手が己の身体を包んでくれているような、感覚にとらわれた。おそらく、疲れ切った脳が見せた幻なのであろう。が、その、和らいだ気の中へと、身を委ねた。
『あかね…。』
 心で彼女の名を呼びながら、降りて来た眠りへと誘いこまれる。
 
 トクン…トクン…。

 波打つ自分の心音に合わせて、胸の辺りが、ほんのりと熱を帯びたように思う。
 そこには、あかねとおそろいの御守。そして、みさきの母から預かった「レモン水晶」と「謎の石」がある。全部、一緒に、脈打ってくるような気配を感じながら、深い眠りへと誘われていった。




『へええ…。おまえ…あいつらの仲間…ってわけじゃないのか…。なのに、やるねえ…。やっぱ、面白い奴だな…。』
 
 今度はあかねではない、全く別の声が、脳内で響いた。
 もう、応えるのも億劫になっていた乱馬は、眠ったまま、その声に耳を澄ます。

『そのうちあいつとも闘うだろうが…。死ぬなよ…。死なずに、闘い抜けよ………。』

 声の主はそう告げると、ふっと気配を消した。


二、

 二日目も、夜の訪れと共に、山を駆け抜けた。
 襲い来る、観月流の弟子たちも、遠慮なく、乱馬へと戦いを仕掛けてきた。
 彼らの技を盗み、己の解釈で会得していく。その繰り返しだった。
 常人が数年かけて学ぶ技を、三日でやり遂げなければならない。
 対する乱馬も必死だった。

(たく、どいつもこいつも、手加減するつもりはねーらしいな…。もっとも、手加減されて嬉しい訳でもねーが!)

 己が持ち技はできる限り封印して、観月流だけを使う。
 が、時たま、自然と身体が反応して、つい、早乙女流の技が飛び出してしまう。その度に、しまったと思うのであった。
 二日目も、ヘトヘトに疲弊して、朝を迎えた。

 夜明けと共に、乱馬を相手にしていた人影はすっと立ち去って行く。
 山の中に漂っていた「殺気」も消えた。
 ホッとして、山小屋へと戻る。そして、倒れるように眠りに就く。
 二日目は食べ物も摂る気力も失せてしまっていた。昨日のダメージも完全に癒えているとは言い難いところに、再び、荒行だ。
 弱音を吐くほどではないにしろ、身体は正直だった。
 スタミナを得るために、食べなければならぬだろうが、休眠への欲求を抑えることはできなかった。
 小屋の中へ入るや、寝床へと、倒れ込む。
 そして、やおら、瞳を閉じる。
 すぐさま、眠りが降りてきて、その淵へと身を任せる。

 もう、何も考える余裕は無かった。
 ただ、ひたすらに、眠る。それだけだった。

 そして、再び、訪れる、夜の帳(とばり)。

 夕刻。日が傾き始めた頃に、むっくと寝床から這い上がった。
 十二時間近く、眠っていたろうか。
 それでも、疲れが完全に取れた訳ではない。一晩中山を駆け巡っていたから、身体の節々に痛みが走る。
 が、今夜もまた、駆け抜けなければならない。

「さてと…。飯…食っとかなきゃダメだな…。」
 朝、戻って以来、何も口にしていなかった。
 さすがに、腹は減り切っていて、ぐううっと元気よく啼いている。空腹で闘わせるな!…そう主張しているようだった。
 戦いの前に、満腹になるほど食らうのは禁物。試合に臨む前などは、空腹、かつ、欲望をたぎらせている方が理にななっているという。戦国時代より以前の武士(もののふ)は、数日前から女断ちして、戦いに出たとも言われている。戦場に女は禁物…ということで、小姓などが、大将の欲望のはけ口として使われていたことは、暗黙の了解だった。
 性欲と無縁ではなかったが、未だ、許婚に手を出せぬ「晩熟(おくて)」の乱馬だ。「女断ち」は意味を成さぬが、食欲だけは断ち切れなかった。
 それに、一晩で、数十人を相手するのだ。ある程度、空腹を満たしておかねば、夜明けまで身体のスタミナが持つまい。
 周りに置いてあった、食料にがっついた。
 固形燃料を使って、やかんに湯を沸かし、カップ麺を作る。こういう寒々としたところでは、温かいものが一番の御馳走だ。無我夢中、麺をすすり、汁を飲む。身体の芯からぬくもっていく。
 もちろん、一杯で足りる筈もなく、もう一つ、湯を注ぎ入れる。
「あー、うめー。こんなものに美味さを感じるなんて、ろくでもねーんだろーが…。後は、肉だな…。」
 もちろん、こんな山奥に動物性たんぱく質は期待できない。狩りをすれば、猪や鹿や野ウサギくらいは捕まえられるだろうが、修行前だ。無駄な体力は使えない。
 鞄をごそごそとあさって、ビーフジャッキーや魚肉ソーセージを取り出す。手っ取り早い補給源だ。それから、あかねが気を回して入れてくれた「栄養剤」も口にする。
 サプリメントで足りない栄養を補充するのは、不慣れな乱馬だったが、
『これからの時代は、こういうサプリメントも大いに利用して、栄養補充を効果的にしなくちゃね。』
 とか言いながら、あれこれ、詰めてくれたのである。
 彼女は、秋の大会で足を痛めた頃から、東風先生などに、いろいろ教えて貰って、栄養補助剤の知識を少しずつ勉強し始めたようであった。志願する大学で、スポーツを科学的に分析する方面の勉強をしたいと言っていた。
『いずれ、乱馬(あんた)を支えるために、必要なことを、いっぱい勉強しようと思っているの。』
 年末の帰りの新幹線で、そんなことを言っていた。

「ま、効率的に栄養補給できるなら、飲んでおいても支障はねーか。」
 いくつか手に取り、一気に口へ放り込む。そして、水で胃袋へと押し流す。どうも、薬を飲んでいるようで、あまり気持ちの良い感じはしない。
 

 外に出ると、今夜は星の姿が無かった。
 そう言えば、昼過ぎ頃から、太陽の気配が消えていたようにも思った。
 暗くて良く見えないが、曇天なのだろう。故に、凍えるほどの寒さは無い。むしろ、少し、気温が和らいでいるようにも思えた。
 なんとなく、湿っぽい感じがした。天候が下り坂に向かっていると思って間違いあるまい。ということは、降るならば、雪ではなく、雨だと思って間違いなかろう。
 どっちにしても、乱馬の身体には、有りがたくない天候には違い無かった。

(ま、暗闇の中だから、女に変身しちまっても、多分、相手にはわかんねーだろーけどな…。)

 気になる点と言えば、女に変化すると、パワーが落ちることくらいだろう。数十人を相手する場合、パワーの減少は命取りにもなりかねない。そこだけが、心配だった。
(パワーが落ちる変わり、体重が減るから、スピードは上がるし、それで、対処するしかねーか…。とにかく、前半が勝負だぜ…。雨が降り出す前に、とっとと、片付けるっきゃねーな。)
 グッと気合を入れ、全身の気を研ぎ澄ませる。

(今夜も、今までと同じくらいの数…か。)

 居る居る。感じるだけでも、数十人は、乱馬が結界を越えるのを、今か今かと待ち受けている。
 全員、闘気を手繰らせて、今夜こそ、滅多打ちにしてやろうという気がありありとわかる。
 今夜が前三日修行最後の日だ。

(この二日で、一応、基本技の打ち方は分かった…。今夜は、その、応用編の仕上げ…といくか…。)
 軽く身体を動かして、準備運動し始める。型は早乙女流。打ち込んだり、蹴りまわしたり。
 一通り、腕や足を動かすと、ふうっと深呼吸を何度か繰り返す。だんだんに満ちた来る闘気。
 己へ手向けられる「殺気」を気にも留めず、いつもどおり、パンパンと勢いよく柏手を打つち、山に向かって、深く拝礼する。そうやって、山の神に挨拶をすませ、気を引き締めて、結界へと立った。

 日付が変わった頃だろうか。
 懸念していた雨が降り出したのは。

「ちぇっ!やっぱ、降って来やがったか。」
 恨めしそうに、空を見上げる。当然、星もなく、ただ、暗闇だけが続く山の中。月明かりも当然、無い。
 岩陰に再び、身を投じたが、雨は激しくなる一方で、女に変化するまでに、そう、時間を要しなかった。

 
「行くぜっ!」
 気合を入れると同時に、暗がりへと駆けだした。
 龕灯は置いてきた。灯りがあると、相手にここに居ると教えているようなものだし、戦いの邪魔になる。
 敵も何人かは龕灯や提灯を手にしていたが、位置につくと、さっと消し去っているようだ。

 ダダッと駆けだした乱馬は、一気に敵へと攻撃を仕掛けた。
(さっきから、雨の匂いが漂ってきやがる…。そう、ちんたらもしてらんねーな。今夜はさっさと倒していかねーと!)
 グッと両手を後ろへ引いた。

「でやあああっ!食らえ、猛虎高飛車ーっ!」

 観月流の冷気を用いた技の数々を会得するために、最初の一発を打ち出して以来、あえて使わずに、封印していた、乱馬の得意技の一つである。
 それを、一発目にぶちかました。
 それも、ただの「猛虎高飛車」ではない。乱馬なりに、今回の修行の成果を、盛り込んでいた。
 「闘気」ではなく、「冷気」を全身に巡らせて、一発、打ったのだった。

 いつもは、黄金色を帯びる闘気が、ひときわ、青白く輝いた。

 ドオーンッ!

 青い閃光と共に、弾け飛ぶ、気弾。
 激しい破裂音だけではない。
 引き続いて、バリバリ、バリバリ、とそこらじゅうで、何かが割れたような音が鳴り響く。
 欠片が弾け飛ぶ音だった。
 冷気をこめたせいで、打ち出した猛虎高飛車が丸ごと、凍っていたのである。そして、爆裂と共に、氷の欠片と化した凍った気が、気弾の炸裂と共に、割れて一斉に飛び散ったのだった。
 つまり、頭上で大きな氷の塊が割れたようなものだから、下に居た敵たちにはたまったものではない。
 槍のようにとがった氷の欠片が、縦横無尽に落ちてくる。しかも、気の塊だから、もっと具合が悪かった。溶けると同時に、次々と破裂したのだ。
 案の定、猛虎高飛車が炸裂した周りの敵から、大きなどよめきがあがった。
 むろん、一発でとどめる気はさらさらなかった。

 ドーーン!

 ドーン!

 ドーーン!

 数発、猛虎高飛車特別冷気仕様を、連打して見せたのだった。
 思いもよらぬ、激しい技の連打に、敵勢は総崩れ。
 逃げ惑う者も出る始末だった。

 何度も修羅場をくぐってきた、乱馬だ。命のやり取りをしたのも、一度や二度ではない。
 つまり、この場に居る誰よりも、戦い慣れていた。

「へへ…かなりの人数が減らせたかな。」
 敵陣が、混乱を極めている間に、次の動作へと移る。
 今度は自ら、敵陣の中へと突撃していった。

「でやーっ!たああっ!とうっ!」
 目を見張るばかりの肉弾戦を畳みかける。
 しかも気合を込めて打ち込む拳と足だ。当たらずとも、敵を吹き飛ばす威力。夜陰に紛れて、乱馬を襲いに来た連中が、面白いように乱馬に倒されて行った。

「ちっと、飛ばし過ぎたかな…。」
 ある程度、相手を倒してしまうと、今度は、一転、沈黙に徹する。
 このような、数を相手する戦いに置いては、攻撃ばかりしていたのでは、身が持たない。相手も、心得た者も居るようで、乱馬がへばってきたろころを捉えようと、わざと前線から身を一歩引いている奴も居た。
 そいつらの垂れ流している気配が、面白いように乱馬にはわかっていた。
 闇の中に、まだ、数十人の観月流の使い手が潜んでいる。
「こっちも、少し、加減しねーと、身が持たねーしな…。」
 まだ、夜は始まったばかりだ。
 そっと、岩陰に身をひそめ、暫く休むことにした。
 この辺りには、大きな岩がゴロゴロしていた。
 岩陰にすっぽりと入ると、息を殺して気配を断つ。並みの人間ならば、この暗がりで乱馬の気配を捉えることは不可能に近かろう。実際に、数人の人間が、辺りを探りつつ、乱馬の潜んでいる岩陰のすぐ先を、知らずに通り過ぎている。気配を断つことも、修行では重要課題になる。見つかれば、攻撃すればいいだけのこと。
 気配を読み間違えて、味方同士、やり合う気配も感じられた。
 あまりに気配を断って、静かにしていると、つい、眠気が降りてくる。昼夜反転しているとはいえ、暗闇は眠気を誘う。が、眠ってしまえば、相手に見つかった時にやばい。
 眠気が限界にきたとき、そっと、その場を離れる選択をした。

 再び、野戦に戻ってみると、敵は乱馬の気配を感じ取り、再び襲い掛かってくる。
 が、一対一で乱馬にかなう敵など、居なかった。
 それでも、果敢に乱馬へ挑んでくる。その見上げた根性だけは、買ってやるべきだろう。

 何人かめを相手していた時だった。
 空から、水滴がポツリ、ポツリと落ち始める。

「ちぇっ!やっぱ、降って来やがったか。」

 ボタボタと滴り落ちる雨粒。すぐに雨脚が早くなり始めた。
 みるみる、乱馬の肢体が、縮まっていき、女化してしまうまで、そう時間がかからなかった。
 タタタタと走り抜ける歩幅が小さくなり、視界も低くなる。乱馬の前に躍り出て来た敵が、その姿を見て、へっという顔を傾けた。
「でや―っ!」
 相手が驚く暇も与えず、その身体へと蹴りを一発。威力が男の時ほどないにしろ、破壊力がゼロになった訳ではない。
「何故…こんなところに女が…。」
 そう言いながら、仰向けに倒れて行く敵に対して。
「俺は女じゃねえ…男だ!」
 と吐き捨てて見せた。が、いかんせん、誰がどう見ても、女としか思えない姿かたちに成り下がっていた。

「くそっ!俺の変身体質がバレるのは、良かねーよな…やっぱ。」

 乱馬はそう吐き出しながら、斜面を駆ける。

「夜の修行で良かったぜ。近くに来るまで、俺が変身したことは悟られねーから…。それに、あと数人ってところだろー。」
 襲い掛かってくる敵に対して、攻撃の手を緩めることなく、からんでゆく。
「後は、どのタイミングで男に戻るかだけだな…。」
 一応、雨が降るかもしれないと、懐にステンレスボトルを一本忍ばせて来た。が、こう、雨足が速いと、ボトルの湯をかぶって、戻ったとしても、また、すぐに女に変身してしまうだろう。
「やっぱ…小屋に戻ってから浴びる方がいいだろうな…。」
 夜明けには、寒太郎爺さんも小屋へと上がってくるだろう。寒太郎の目をどうやって欺くか。問題はそれだけだ。
「爺さんに俺の本性が知られるのも、良くねーだろーし…。ま、出たところ勝負だな。」

 ガサガサと草をかき分けながら、山道を駆ける。
 雨は一向に止む気配はない。それどころか、雨脚が一層、激しくなってきたようにも思う。
 と、目の前の地面に足を取られた。ぬかるんでいたのだ。こんなところを敵襲にあえば、命取りにもなる。
「っと!」
 手からダンッと気を発し、尻もちをつくのをすんでで避けた。
 と、案の定、真正面から己に向かってくる気配を感じ取る。
 態勢を整えなおすと、その気配へ向けて、己が気弾を投げ放った。

 ドンという音と共に、「うわああっ!」っという悲鳴が上がる。倒れた奴の頭上を越えて、再び、茂みへと身を寄せた。と、また、再び、人影が乱馬を襲う。
「ちぇっ!まだ、結構残ってやがるな。今ので俺の位置がわかったから仕方ねえか。」
 舌打ちをすると、わざと空の気弾をそこへ浴びせかけた。そして、すぐさま、そばに生えていた太めの樹木へと、一気に駆け登った。己が打った空の気砲を聞きつけて、再び集まって来る敵襲を待ち受けて、一気に樹の上から気弾を浴びせかけて叩こうという、腹づもりだ。
(来る…。一人、二人…六人…いや、八人か。)
 高枝の上から、集まって来る人数を確認する。その人数に応じて、計算尽くした気弾を浴びせかけようと思った。女化してしまった身の上だ。できるだけ、スタミナを温存したかった。
 ぎりぎりまで人を引き寄せておいて、一気に攻撃へと転じる。

「猛虎高飛車!」
 もちろん、冷気も一緒にこめて、下方へと繰り出した、必殺技。

 集まった人影は、高いところから振り下ろされた気弾に成す術なく、打ち据えられた。
「ぐわああ!」
「無念!」
 乱馬の振り下ろした気弾に、バタバタと倒れて行く。

「よっし…。かなりの人数を減らせたな。」
 シュタッと高枝から地面へと降り立った。
「あとどんくらい、居るかはわかんねーけど…。まあ、朝までには何とかなるか。」
 雨は止むことなく、ザーザーと降り注いでくる。
 と、辺りで、ゴロゴロと流れ落ちる水の音も響いてきた。
 どうやら、川が近くにあるらしい。いや、急な雨に、地面へ吸収しきれず、溢れ出た水が、斜面を滑り落ちていくうちに、流れを作ったのかもしれない。こんな雨の夜だ。水の流れの方へ行くのは危険だ。
 そう判断した乱馬は、敵がやって来た方向へと、歩み始めた。途中、再び、敵に遭遇するかもしれないが、敵が潜んでいた辺りに戻った方が、未曽有の自然の脅威からは遠のく…そう判断したのだった。
 暗がりの中を、一歩、一歩。辺りの気を探り、足元を確かめながら、ゆっくりと斜面を上がって行く。が、行けども行けども、単調な森林が続く。
 半時も進んだろうか。一向に、新しい道が開けない。そればかりか、同じところをウロウロと回廊しているのではないかとさえ、思えてくる。
 というのも、一向に、水の流れ落ちる音から遠ざからないのだ。水の音を背中にしている筈なのに、いつの間にか平行している…そんな感じだった。
 雨音とは違う、別の音。ゴロゴロと流れていく音。いくら離れようとしても、すぐ側の暗がりから響いてくるのだ。

「変だな…。」
 
 さすがに、乱馬も、おかしいと思って、歩みを止めた。
 そして、辺りを見回す。
 が、暗い山の光景だけが続いている。下手に道をそれると、それこそ、本格的に迷うかもしれない。
 近しい友人に「良牙」という方向音痴がいることを思いだして、思わず苦笑した。
「まさか…大阪とか東京まで、迷い出るってことはねーだろーが…。ここは、夜が明けてくるまで、ここに居た方がいいかもしんねーな…。」
 降りしきる雨の中、このまま、進んでいても、冷たい雨に、体力を奪われるだけだと、思った。
 適当に雨をやり過ごせる、高木の根元や岩窟が無いものかと、辺りを見回す。と、ぽっかりと洞穴が、近くにあるのに気が付いた。
 入り口に、張ってある注連縄が目に入ったので、何らかの神仏でも祀ってあるのだろう。
 実際、駆け抜ける山の中には、大峰山の修行者が石に彫った野仏や祠のような「曰く付きな人造物」がそこここにあった。石像だったり、祠だったり、ただの注連縄だったり。その実態は千差万別であったが、何かしらの信仰へのこだわりが感じられた。
 山への畏敬の念が強い大和の民族性もあるのだろう。乱馬が良く父親に連れられて籠った、奥多摩や日光、筑波辺りの山中でも、そういった人造物は目を引いていた。
『山は昔から異界として、恐れられておったしのう…。死者の魂が集い来る場所だとか、神々が降りる場所だとか。』
 スチャラカな父、玄馬でさえも、山への畏怖は忘れはしなかった。山で判断を間違えると、途端、命にかかわることも、良く見知っていた。
 この大峰山の辺りも、決して標高は高くはないが、修験道の祖、役行者が駆け巡った山だ。何がしかの未知なる力をはらんでいても、おかしくは無い。

「ここで、雨風を避けさせてもらうか。」
 周りに適当な場所も無かったので、この岩屋に入って、やり過ごすことにした。

 その洞穴は、岩が二つ合わさってできた入口を持っていた。女性化した乱馬が、ちょっと身をかがめるくらいの入口だ。
 どのくらい奥が深いのかは、入口に立っただけではわからなかった。
 さすがに、注連縄をくぐるのは、少し気が引けたが、入口付近でちょっと休ませてもらうだけだからと、ゆっくりと足を踏み入れた。
「こ…こいつは…。」
 入ってみて、驚いた。
 入口こそ小さかったが、中は広い空洞が開けていたからだ。灯りは無いので、どこまで続いているかはわからなかったが、深そうな雰囲気があった。
 それだけではない。よく見ると、壁は白っぽく、上と下に石柱(せきちゅう)や石筍(せきじゅん)が、幾重にも伸び上がっているのが見えた。

「これって…。鍾乳洞か?」

 灯りを持っていたわけではないので、詳細はわからなかったが、石灰石でできているような感じだった。
 
 乱馬が玄馬とよく分け入る、奥多摩にも、鍾乳洞は存在する。従って、初めて入った訳ではないが、まさか、大峰山中にて、出くわすとは…。
 しかも、そこそこ大きな鍾乳洞だった。

「ここいらも、鍾乳洞ができる石灰岩を含んだ土地なのか…。」
 
 さすがに、奥まで入るのは、気が引けたので、入口付近に適当な、石筍を見つけ、そこに座ろうとしたその矢先だった。

 サアアッ

 と、洞穴の奥から、一陣の風が吹き抜けてきた。
 まるで、侵入者へ警告をあらわにしたような、生温い風だ。
 その中に、ただならぬ気配を感じ取った乱馬は、腰を下ろすのをやめて、身構えた。
 何か、とてつもない物が、己に向かってくる。そんな感じを、風の匂いの中に、嗅ぎ取った。
 風はぐるぐると乱馬の周りを嘗め回すように巡った後、白い塊となって、洞窟の奥側へと陣取った。
 信じられないことだが、白い煙上の渦巻が、そこに舞っている。

「何だ?てめえ…。」
 思わず、声を張り上げていた。
 グッと拳を握って、いつでも、飛びかかれるように、腰を低く構える。

『おまえこそ…何者ぞ?ここが、女人禁制の修行場と知って、入って来たのかえ?』
 白い煙から響いて来たのは、少し低めの女の声だった。
 妖気というより、怒気が満ちているように思った。おそらく、乱馬を女性だと思って、怒っているのだろう。

「それがどうした?」

 本性は男だと言い張ったところで、受け入れてもらえるとは思えない。
 今の己は、雨に降られて、完全に女体化していることも、また、事実だった。
 故に、そう答えるしか無かった。

『ほう…。女人禁制と知っていて、結界を越えたと言うのか。』
 声と共に、煙がワアッと一回り大きくなった。
 
「だったら、どうする?」
 気後れしては負けだと、乱馬は腹の底から、そう吐きつけた。

『知れたこと…。ここで、おまえを始末するだけのこと!』

 煙がパアッと弾け飛んだ。
 攻撃を開始したと言って良かろう。

「ちっ!仕方ねえ。」
 乱馬も身構えた。

 飛び散った煙は、地へと舞い降り、そのまま、石筍へとへばりつく。
 すると、石筍が、一つ、また、一つ。形を変え始めた。
 頭が生え、手足が伸び上がる。そいつらは、人形(ひとがた)へと転じて行く。
 いや、人ではない。
 よく見ると、恐ろしい形相をし、額の両側に一本ずつ、二本の角を生やした「鬼」たちが、次々と起き上がってくるではないか。

「けっ!俺一人に多勢かよ…。」
 はっしと睨みつける乱馬に、女の声が笑いだす。

『ほほほ、怖いかえ?ならば、尻尾を巻いて逃げるかえ?』

「いや…俺は逃げねえ。」

『ならば、容赦はせぬ。存分にかわいがってあげようぞ!』

 その声を合図に、鬼たちが一斉に、襲い掛かって来た。

「猛虎高飛車!」

 おそらく、石灰質の洞穴だから、崩れ去ることも念頭に入れねばならないだろうが、力を配分して、加減するなどと、悠長なことは考えている余裕は無かった。

 ドオオン!

 乱馬の闘気が洞穴の中で弾け飛んだ。
 バラバラと人形の鬼たちの身体が吹き飛ぶ。

「一応、物理攻撃は有効ってか…。」
 もうもうと崩れ去って行く、石灰人形たちを見ながら、吐きつける。

『小癪な真似を!もう、手加減やせぬ!せぬぞ!小娘!』
 女が再び、怒声を浴びせかけてきた。
 今度は、洞窟の奥側ではなく、入口をふさぐように、煙が舞い上がった。
 そして、合図を送るように、ブワンと洞内の空気を振動させた。
 と、にょきにょきとさっきの倍の鬼たちが、そこに出現し始める。瞳は真っ赤に輝き、一斉に乱馬へと襲い掛かった。

「最初っから、手加減なんてするつもりは、ねーんだろ?だったら、来いよ!相手になってやらあっ!」
 乱馬も気合を入れて、立ち向かっていく。

「猛虎高飛車!」
 再び、得意技で、向かってくる鬼人形たちを打ち砕く。
 バラバラと砕け落ちても、すぐに、別の鬼人形たちが、石筍から這い出して来る。

「これじゃあ、キリがねえ…。」
 ハアハアと息が上がり始めた。夕刻からずっと、闘い続けている乱馬だ。己が気力も、そろそろ底が見えてきた。

『どうした、小娘。もう力尽きたかえ?』
 憎たらしげに、煙が笑った。

「確かに…このままじゃあ、気力が尽きちまう。お湯も無ぇ…。」
 滴り落ちてくる汗を、右手で拭いながら、辺りを見回す。
 悪いことに、持ってきたステンレスボトルは、戦っているうちに、どこかへ落っことしてしまったらしい。つまり、女に戻るツールを見失ったということだった。
 そうしている間にも、一つ、また、一つ。鬼人形たちが、石筍から生まれ出てくる。
 洞窟内は石筍や石柱に満ち溢れている。本当に、このままでは不味いと思った。
「畜生。出口もあいつが塞いでいて、外に出るのもままならねえか…。どうする?あと、猛虎高飛車も良く打てて、三発といったところだしな…。かと言って、火中天津甘栗拳くらいの技じゃあ、粉砕すらできねえ…。相手は鬼神だ。」
 もうもうと立ち込める、石灰岩の粉塵に、こほこほと咳も出始めていた。
「ここで勝負を投げ出したら…俺はここで終わっちまう…。考えろ、必ず、勝機はある筈だ…。」
 
 と、ポタポタと天井から水が滴り落ちて来た。
 さっきから放っている猛虎高飛車で、どうやら、洞窟の上の地盤が緩み、雨水が滴ってきているようだ。
 その水滴が落ちる先を見て、ハッとした。
 よく見ると、乱馬が粉砕した鬼人形の粉塵の上辺りから、もうもうと煙が立ち上がっているのが見えた。

「何故、煙がこんなところに立ってるんだ?」
 もう一度、煙を見やって、頷いた。

「そうか、ここは鍾乳洞。…あの鬼人形の材料は、石灰石!それに煙が上がっているということは…。」
 今度は天井を見上げた。どうやら、地下水脈が近くにあるようで、一定の量の水が滴り落ちているのを確認した。
「外はまだ、雨が降ってるよな…。」
 ギュッと、乱馬は拳を握りしめた。

「へへ、俺にも勝機はあるってことか…。ただ、残された気の量は少ねえ…。これを有効に使わねえと…。」
 窮地に追い込まれているのに、何故か笑みがこぼれ落ちた。
 はああっと、丹田に気合を入れた。そして、一気に己の中にめぐる気を、一瞬で高温に、変換した。

「猛虎高飛車、高温仕様!」
 ギリギリのところまで、鬼人形たちをおびき寄せると、今度は高温にまみれた、黄色い猛虎高飛車を浴びせかけた。
 ズッガーン!バリバリバリ…。
 炸裂音と共に、すぐに凍結した気の塊が、鬼人形たちをみるみる粉々に粉砕していく。欠片一つ、残さぬほどに、ボロボロと砂のように砕けて、洞穴の床へと落ちていく。

『ふふふ、小娘、血迷ったか?そんな気弾を浴びせても、人形はいくつも作れるというのに…。』
 あざ笑うように、煙がゆらめいている。
 その揺らめきと共に、再び、鬼人形たちが石筍から、再び、いくつもの鬼人形が立ち上がって来る。

「来い…もっとたくさん、這い出して来い!俺が、この猛虎高飛車で粉砕してやる…。もっと、もっとたくさん、来いっ!」
 そんな言葉を、洞窟いっぱいに叫び出した。

『ふん、小娘め。恐怖で心が壊れたかえ?よかろう…。お望み通り、鬼人形でこの洞窟を満たしてあげようかえ。』
 その声と共に、石筍や石柱がざわざわとざわついた。そして、今までの比ではない、鬼人形たちが、辺り一面に沸き上がり出した。


「へへ…。来い!もっと、来い!」
 乱馬は丹田に冷気をため込みながら、ニヤッと笑った。

 ザック、ザック…。
 這い出した己人形たちは、不気味な音を立てながら、乱馬の前に集まって来る。

(最大限に引き寄せてから打つ!)
 ギュッと両掌を胸の前に置き、握りしめる。その中から黄金の光が溢れ出して来る。
 観月流の冷気を扱う修行をしたおかげか、乱馬は、真逆の暖気も扱えるようになっていた。
 心頭滅却するのが冷気ならば、逆に己の気を沸騰させるのが暖気。つまり、熱気へと変換する。闘気は熱気に近い。故に、冷気より扱い易いのだ。

「行くぜ、最大限的猛虎高飛車!でやあああああっ!」
 
 乱馬の放った特大の猛虎高飛車は、美しい黄金の気焔をあげながら、洞窟内へと轟き渡っていった。


つづく



一之瀬的戯言
 最初にアップしたものから、修正しています。冷気を含んだ猛虎高飛車ではなく、真逆の熱気猛虎高飛車ということで、書きなおしました。

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