◆天高く 第三部
第五話 名代 



一、

 ふと気が付くと、夜が明けていた。
 時計の針は七時前だった。

「ちぇっ!もう朝か。」
 ふわああっと伸び上がると、そのまま、階段を下りた。
 まずは用を足す。
 
 そして、廁から出てきたところで、玄関が、ガラガラっと開いた。
 廁は玄関の横にあったので、入り口で鉢合わせになる。

「あ、乱馬君、おはよう。」
 そう言って入ってきたのは、中年の女性。
 みさきの母である。
 前回、大阪に来たときにお世話になっていたので、見知っている。

「おはようございます。」
 慌てて、朝の挨拶に転じる。まだ、パジャマ姿なのを、少し気恥ずかしく思った。

「朝ごはん、持って来てあげたからねー。」
 そう言いながら、上着を脱ぐと、台所へと入りこむ。
 舅の家だ。ここには、良く出入りしているのだろう。
「今朝も寒いわー。」
 そう言いながら、持って来た紙袋から、いくつかのシール容器を取り出すと、電子レンジに次々と投じる。
「俺、別に、コンビニ弁当でもよかったのに…。それに、道場の方の朝ごはんは大丈夫なんですか?」
 昨日着ていたチャイナ服に着替えながら、茶の間から声をかける。
「道場は、当番の弟子たちがやってくれてるから大丈夫やよー。それに、今日は私は道場におらん方がええからねえ…。」
「え?」

 不思議そうな顔を、彼女へと差し向けた。

「今日の会合には同席できんことになってるんよ。」
 せかせかと、台所で朝ごはんの準備をしながら、みさきの母はそう乱馬へと返答を返していた。
「なんでです?おばさん。」
「そういう、決まり事になってるさかいにね。…ということで、私と一緒に、朝ごはんや、乱馬君。」

 みさきの母は上機嫌で、温めなおした朝ごはんを、慣れた手つきで、茶の間の座卓へと並べて行く。

 切り身の焼き魚に卵焼きに野菜の焚き合わせ、それから漬物に味噌汁にごはん。
 一般的な日本の朝ごはんだ。天道家と違うところは、納豆が添えられていないことくらいだろうか。

「ほんま、観月流って、決まり事でガチガチに固められた古い体質の流派やからねえ…。言うたら、今日はつまはじきにされたみたいなもんや。ほら、遠慮せずに食べてな。乱馬君。」

「あ…はい、いただきます。」
 慌てて手を合わせると、乱馬は箸を手に取った。
 まずは、野菜の焚き合わせに手を伸ばした。
「うまい…。」
 思わず、うなった。薄味だが、味の芯はしっかりしている。そう思った。
「そう、良かったわ。」

 好い具合にすきっ腹だったので、もくもくと箸が進む。

「おかわりは?」
「いただきます!」
 そう言って、茶碗を差し出す。
「ええねえ…。気持ちのええ、食べっぷりやわ!男の子はそーでないとね!」
 これまた、変な、組み合わせで、慣れない家で二人きり。
 みさきの母はさすがに大所帯を束ねるおかみさんだけあって、豪快であった。関西のおばちゃんオーラも輝いていて、乱馬の前でも、一緒に、もりもりとごはんを食べている。

「おばさん、今日は道場には居なくていいんですか?」
 さっき、途切れたことを尋ねてみた。
「うん。今日は一日、お暇をもらってるんや。道場の一切のことは、男衆がやることになっとって、みさき以外のおなごは、残ったらあかんことになってるんよ。久しぶりのお休み貰うたってところかなあ…。」
「何か、いろいろ、大変そうですね…。」
「何、言うてんの!乱馬君、あんたは、その渦中に、これから放り投げられるねんで?」

 少し、語気を強めて、みさきの母が乱馬を見返した。

「え?」

「ほんまに、みさきも言うとったけど…。青いなあー。乱馬君は。」
 親と同等の年齢の女性なので、あからさまな反発はできなかったが、乱馬の表情が少し、固くなった。

「みさきから、いろいろ聞いてるんやろ?」
「ええ…まあ…。一通りは聞きました。」
 食べ終えて、箸を置きながら、乱馬は答えた。
「で、あんたは、どう思ったん?」
 ストレートに答えにくいことを問いかけて来た。
「まあ…面倒臭いかなあ…って。」
 ぼそぼそっと思ったとおりを投げ返す。
「やろーね…。ほんま、面倒臭いやろ?云々かんぬん、ごちゃごちゃと。」
 うんうんと、同意の頭が垂れる。
「で?乱馬君のとこの流派はどーなん?」
 好奇の瞳を輝かせて、みさきの母が尋ねてくる。
「先祖がどうだったか、俺は知りませんけど、早乙女流は、親父が創始者で、俺は二代目です。それに、道場は要らねーと宣言するような、野良むき出しの流派ですからね。」
「あかねちゃんのところは?」
「あいつのところも、似たようなもんじゃねーかな…。俺んところと違って、歴史を感じさせる道場は持っていますが、あかねの親父も、俺の親父と一緒の師匠に入門して、修行している時点で、前の流派を絶っちまったんじゃねーかと、俺は思ってるんですけどね。詳しくは知りませんが…。」
「でも、あかねちゃんと乱馬君は許婚なんやろ?」
 大阪のおばちゃんらしく、追及の仕方も、ストレートで遠慮がない。
「そいつも、親父たちが勝手に決めたことですからね。天道家に連れてこられた日も、従おうなんて気持ちは、全く無かったし…てか、今も従ったつもりは無いんですけどね…。」
 緑茶をすすりながら、ポンと言い放つ。
「でも、許婚であることはとっくに受け入れてるんとちゃうのん?」
 しつこく、質問が飛んでくる。少々、うざいと思った乱馬だが、みさきの母親なので邪けんにもできない。
「俺は、許婚として受け入たんじゃなくて、一人の女として、受け入れたんです、あかねは。」

 これが、乱馬の真意であった。
 許婚だろうがなかろうが…そんなことは二の次だった。許婚の件は、ただの「きっかけ」にしか過ぎない。

「それに、俺は…天道家の許婚という立場に甘んじるつもりは、無いですから。」
「一人の女性として、あかねちゃんを伴侶に望んでるんや、乱馬君は。」
「はい…早乙女乱馬の伴侶としてあかねを望んでいます。たとえ、それで、天道家と決裂したって、かまいません。そんときゃ、あかねを奪ってもいいって思ってますよ。」
 トンと湯呑を座卓に置きながら答えた。その想いは真実だ。力強いギラギラした瞳を、みさきの母へと手向けていた。

「こりゃ、やっぱり、おじーはんらに、凍也の後釜にあんたを据えるのは、諦めさせんとあかんわな。」
 ふうっとみさきの母が、ゆるい息を吐き出した。
「もとい、俺にそのつもりはありませんから。」
 乱馬もはっきりと拒絶の意志をあらわにした。

「やったら、さっさと東京へお帰り、乱馬君。」
 一言、投げられた。

「いや…。それもできません。」
 乱馬は拒否の言葉を発した。
「計略にはめられるのが、わかっとっても…か?」
「ええ、凍也とみさきさんに約束しちまったし、武道家の誇りにかけて、約束を破るわけにいかねーでしょ?」
「そんなに、守らんとあかんのん?あの子らとの約束って。」
 
 詰め寄る、みさきの母に、乱馬は静かに言った。

「ここで投げ出して、俺が東京へ帰ったら…表観月流は、裏観月流に、いいようにあしらわれるんじゃ無いんですか?そうなったら、凍也がこの前の闘いで、命かけた意味が全てなくなるし、みさきさんの凍也への想いも壊してしまう。凍也に化けて出られるかもしんねーですしね。俺をそんなチンケな男と思ってんですか?おばさんは。」

 きつい瞳で睨み返す。
 得も言えぬ、緊張が、乱馬とみさきの母の上を流れて行く。
 その流れを変えたのは、乱馬だった。

「ま、別に、理由なんか、どーでもいいんですけどね…。俺は。」
「え?」
 軽く疑問の声を吐き出した、みさきの母に、
「俺は、観月氷也と闘いてえ…。」
 グッと握りしめた拳。
「氷也君と?闘いたい?」
 きびすを返したみさきの母。
「武道家たるもの、強い者と闘いてーと思うのは当然のこと。その想いが無いのなら、真の世界一にはなれねえ!
 公式の場だろーが、決闘だろーが、氷也と闘いてえー。強いて言えば、そのために、ここに来たんです…俺は。」

 ふっと、みさきの母の頬が緩んだ。


「やっぱり、乱馬君も格闘バカやったんやね…。それ聞いて安心したわ。」
 そう言いながら、みさきの母は、そばに置いてあった鞄をごそごそやり始めた。

「この流れから行くと、乱馬君は裏観月流の使い手、観月氷也くんと死闘を繰り広げることは必定や。その気持ちがあれば、うん。大丈夫やね。」
 彼女は何かに納得したような言葉を投げると、小箱を一つ、取り出して来た。
「これ…あんたに預けとくわ。」
 ブロンズの紺色の箱が、乱馬の目の前に置かれた。
「これ?」
「開けてごらん。」

 言われるがままに、開くと、不格好な石の塊が二つ、中から現れた。
 淡い黄色い方は、幅は五ミリほど、長さは二センチほどで、先っちょが尖がったオベリスクの先のように尖っている。弾丸のような感じだろうか。
 もう一つは、二センチ弱の正八面体。ピラミッドを二つ合わせたような青みがかった透明の塊だった。

「宝石?」

 箱の中を見ながら、乱馬が不思議そうに、みさきの母へと問い質す。

「せや、宝石の原石やな。あげるんやないで、預けるだけやさかいにな。」
 みさきの母は意味深に笑った。
「預けるって…。何のためにこんな物を?」
 解せぬという顔を手向ける乱馬に、みさきの母は軽く言った。
「これから先、氷也と闘うんやったら、これの力が必要になるからに決まってるやろ?」
「はあ?」
「この黄色いのは、「月の石」って言ってなあ…。みさきの祖母、ウチのお姑はんが生まれ育った里で採石された珍しいもんやねん。嫁いだ時に、持たされたんやって。まあ、おばあはん持参の家宝みたいなもんやな。で、こっちの青いのは、みさきからの預かり物や。」
 二つの石を指さして、みさきの母が笑った。
「ちょっと、おばさん、そんな大切なもの、何だって俺に預けるんだ?」
 ますます困惑するばかりだ。最早、このやりとりそのものが、乱馬には、意味不明だ。
 が、みさきの母はお構いなしに、話し始める。
「ほんまは、あんたが、凍也の名代って決められてから渡した方がええんやろーけど…。あいにく、私は同席が許されてへんしな。みさきかって、この石をあんたに託すことを、誰にも悟られたくないから、私に渡してくれって託されたもんなんや。」
(だから…何で、これを俺に…。)
 答えになっていないという苦笑いを浮かべつつ、仕方なく耳を傾ける。
「私があんたに預けるこの石は「月の石」って言ってなあ、奈良の天川村で産出された希少な「レモン水晶」やねん。」
「はあ…。」
 どう、受け答えてよいやら、わからずに、曖昧な言葉を返していく。
「天川村は、お姑はんの出身地やさかいにな。それに、この石は、観月流の力の源、鬼の波動を習得するために、必要になるらしいから…そう思って、預かっといてくれたらええ。」
「鬼の波動の修行?」
「せや。乱馬君がそれを取得できるかどうかは、私にはわからへん。寒太郎爺さんでも、完全には使いこなせるようには、ならへんかったみたいやから…。」
「あの爺さんでも、使いこなせねー技?」
「技というか、気の流れと言った方がええのかもしれんけどね。うちの主人も若いころ、同じ修行したらしいけど、さーっぱりやったって言うてはったわ。」
「気の流れ…。」
 黄色の石を見つめながら、真剣な面持ちになった。
「ま、鬼の波動を得るために、月の石を使うなんていうのは、ただの伝説かもしれへんしね…。そこらへんは私にもわからへん。…というより、その鬼の波動を得たいっていうのが、表観月流の悲願らしいねんけど…表の開祖を含め、未だそれを得た者は居ないそうやから。」
「観月流には皆無…。そんな、技を余所者の俺が使いこなせるとでも?」
 問い質す乱馬に、みさきの母はにこっと微笑んだ。
「観月流以外に籍を置く余所者に、鬼が力を貸してくれるかどうかは、それは、私にもわからへん…。でも、試してみる価値はあるで、凍也君が生きていたら、多分、あの子も挑戦したと思うさかいに…。」

「凍也も…。」
 乱馬は、小箱を受けとりながら、考えこんだ。

「みさきが預けた石と一緒に、この巾着袋にでも入れて、懐放さず、持っておけばええわ。確かに預けたよ。それから、月の石をあんたに預けたんは、おじいはんには内緒やで。」
 そう言いながら、てのひらサイズの小さな袋を差し出した。

「わかりました…。預かっておきます。」
 乱馬はブロンズの箱から、その石を取り出すと、一緒に添えられていた、真綿にそれぞれの石をくるむと、巾着袋へと丁寧に入れて、懐へとしまい込んだ。



二、

「さてと…。そろそろ時間か。」

 柱時計を見上げながら、すっくと乱馬は立ち上がった。

 チャイナ服から道着に着替えた。道着で来いと寒太郎に言われていたからだ。
 
「っと…。巾着袋を持っておかねーと…。」
 みさきの母から預かった、石を入れた巾着を、脱いだ黒ズボンのポケットから抜き去る。
「貰ったんじゃなくって、預かったもんだからな…。落っことしてもいけねーし…。」
 徐に、胸をはだけて、御守を吊り下げた紐を手にする。そして、それを器用にほどくと、御守と一緒に結びつけた。
「こんなもんかな…。」
 再び、首に、吊り下げると、もう一度、道着の襟元をただした。黒帯も閉めなおす。
 そして、パンとわき腹を叩いて鳴らした。
「っと、行くか!」
 ガラガラっと引き戸を開けて、外に出た。
 靴は必要ない。裸足のまま、一歩を踏み出した。
 
 基本、冬でもくつ下は履かない。年がら年中裸足だ。
 道場で裸足なのは、常のこと。子供のころからそうなので、足の裏の皮も、分厚くなって、地面が痛いとも思わない。

 天上には、冬の青空が広がる。
 今日は雲一つなく、風も穏やかな感じだった。
 弱くはあるが、太陽が天井から照り付けてくる。
 午前十時少し手前。
 十時に観月道場へ来いと言われていた。ここから、数分歩いたところに道場はある。
 辺りを行きかう人は、道着姿のまま歩いて行く乱馬へと、不思議そうな視線を送って通り過ぎていく。

「結局、短時間じゃ、鬼の波動については、何もわからなかったな…。」
 青空を見上げながら、ふっとそんなことを思った。

 みさきの母は、片付けを澄ませると、立ち去った。
『せっかく、暇を貰ったさかいに、ミナミで映画でも見てくるわ。名代になれるように、がんばりや!って、凍也に勝ったくらいやから、心配ないかなあ。』
 と言って、出かけて行ったのだった。
 彼女が去ると、昨日、寒太郎爺さんから渡された、「観月流」の冊子を取り出した。
 「鬼の波動」なる技の記載がないか、確かめるためだった。
 墨字になれない乱馬にでも、読み解ける記述に、わかりやすい図解。
 詳細に読みこんで、実践したら、もっと高等テクニックがわかる仕組みになっているのかもしれないが、おそらく、入門書の類なのだろう。鬼の波動に結びつきそうな記載は、一切なかった。
「ま、言っても俺は観月流から見れば、部外者だしな…。そう簡単に高等テクニックを教える気はねえか…。それとも、誰も、その「鬼の波動」という技の正体を知らねえか…。」
 みさきの母は「開祖を含め、鬼の波動を得た者は居ない」と言っていた。
 それで、何も書きこみがないのかもしれない。
 乱馬も格闘バカの一端だ。「鬼の波動」という言葉に、引き込まれて行く。おそらく、氷也を倒すには、その技が必要になるだろう…。心が、そうざわつき始めている。

『それより、覚悟しときや、乱馬君。』

 みさきの母が去り際に言い残した言葉が、ふわっと浮かんだ。

『道場に一歩足を踏み入れた時から、あんたは、観月流の荒波に身を投じるんやさかい。気持ち、引き締めていかんと、食われるで。』

 その忠告が意味したものを、痛感したのは、道場のすぐ側まで来た時だった。

「たく…。いきなり、洗礼ってわけかよ…。」

 対面の歩道に立ちながら、グッと、道場の建物を見た。
 誰一人、表に出ていない。窓ガラスも全部しまっている。
 だが…そこから発してくる「殺気」は相当なものだった。
 通りすぎる人々は、道場の前を、平然と通り過ぎていくが、気が読める乱馬は、戸惑いを感じずにはいられなかった。
 中途半端に強いだけの武道家なら、足を踏み入れるのを躊躇ったに違いない。いや、足を踏み入れるまで、殺気ギンギンで迎えられるなどとは、乱馬以外の誰も想像がつかないんのではなかろうか。

「俺の力を試す気か?ま…。そっちがその気なら…。」
 青信号になったところで、横断歩道を渡る。渡っている間に、気合を入れていく。

 鉄筋五階建て。
 先月、数日ここへ泊めて貰ったから、初めてではない。確か、玄関を入ると、靴箱があって、その奥に、初心者が集っていた、板張りの道場があった。
「一階と二階にそれぞれ道場があったな。一回は初級、中級者が使って…二階が上級者用。三階に食堂と弟子たちの居所、それから四階と五階が観月家の家…だったっけ。」
 構造を思いだしながら、「観月道場」そう書かれた、ビルの入口へと立った。
 鉄筋だが、入り口はガラス張りの引き戸。自動ドアではない。

「あんまり本気になって、壊すのも本意じゃねーし…。」
 そう言いながらも、グッと全身に気を張り巡らせた。
「ま…いーか。あっちが仕掛けてくるんだし、出たとこ勝負で。」

 緊張はしたが、恐怖は無かった。むしろ、ワクワク感に満ちてくる。

「さーて、最初は、何人、仕掛けてくるか。」
 引き戸に手をかけ、中へと入る。
 靴を履いているわけではないか、そのまま、直接、玄関ホールを抜けて、道場の入口へ立った。

 いる、いる。
 ギラギラと瞳を輝かせて、一斉に、乱馬へと手向ける、「闘志満々の瞳」。

「頼もうー!俺は、無差別格闘早乙女流二代目、早乙女乱馬だ!義によって、凍也との約束を果たしに来た!」
 腹の限りに、大声を張り上げた。
 一応、名乗ったのである。

「よう、来なさった。そこから二階まで上がってきなされ。但し、たどり着けたらの話やけどな。」

 どこからともなく、寒太郎爺さんの声がした。

「じゃあ、遠慮なく、上がらせてもらうぜ。」
 そう吐き出した乱馬の声が、合図になった。

 どおっとなだれ込んでくる、道着姿の一団。みな、一様に、闘気を体中にみなぎらせている。

「でやあああっ!」
 開戦一番。
 乱馬は、両手を大きく広げて、ため込んだ闘気を一気に放った。

 バンッ!

 爆弾が弾けるような音がして、道場内の空気が歪んだ。そして、白い煙がもくもくと立ち上がる。
 
「うわー!」
「ぐえっ!」
「がああ!」
 乱馬の気に当たった者たちが、煙りの向こう側で、次々と床に倒れ込む音が聞こえた。

「ちぇっ!建物を壊す訳にもいかねーからなあ…。やり損ねちまったぜ。ったく、面倒臭え…。」
 ふうっと、溜息を吐き出す。
 それを、油断と見てとったのか、煙りの向こう側から、数人が、乱馬目がけて襲い掛かって来た。中には、気弾を解き放ってくるツワモノも居た。

「たく、わざわざやられに来なくてもいいのによっっと!」
 今度は、奥へ向けてと駆けだした。
「猛虎高飛車ぁ!」
 手をくっつけるように前に出し、駆けだした反動で身を翻す。そして、思いっきり前に、気弾を打ち付けた。

 バアアン!

 さっきより一段と大きな丸い気が、掌から打ち出された。しかも、烈風だ。
 バリバリと建物が揺れた。

 再び、落とされた蟲のように、這いつくばる、人影を見ながら、つぶやく。 

「これ以上の威力を出すと、建物が崩壊しかねねーからな…。たく、本気出したら、一発で沈められるものを…。」
 そう言いながら、辺りの気配を探る。まだ、無傷の者が居たら、容赦なく、打ち抜くつもりで、気合を手にため込むことを忘れなかった。と、幾人か、無傷の者もいたようだ。
「おい!言っとくが、後ろからでも、襲い掛かって来たら、容赦はしねーぞ。」
 と、息を潜めている敵に向かって、腸から声をかける。
 気を探れる者なら、乱馬の尋常ならぬ気合に、恐れおののいていたに違いない。いや、探れなくても、後ろから首をかこうと思う輩は居なかった。無傷でいるということは、二回の攻撃に加わらなかった奴らだ。臆病者がほとんどだろう。

「さてと…。二階へ来いって言ってたよな。」
 乱馬は、階段を目指した。
 エレベーターなどつけられていない、観月道場だ。
 階段の上で、己を狙っている奴が居るのは、わかりきっている。
 それを、どうかわずか。
 
「ま…。いーや。行き当たりばったりでいくか…。」

 そう言いながら、階段に足をかける。
 途中に踊り場があるが、勝負を挑んでくるなら、そこだろう。
 階段は人が二人すれ違っても余裕があるほどの広さがあった。踊り場には窓もある。両脇に手すりも据え付けられている。
 乱馬は平然と、一段一段、登りだす。

「一人…。二人……十人くれーか…。」
 階段の上で狙っている奴らを、気だけで探って行く。
「そろそろ行くかな…。」
 踊り場に足をかけたとき、さっと動いた。

 子供のころから、父親の玄馬に連れられて、野山を駆けて来た、野生児だ。
 彼にかかれば、階段だけが上に行くツールではない。
 幾人かが身体越しに、そして、幾人かが、気弾で乱馬を狙って来た。

 それを出し抜いて、手すりや窓辺、果ては、襲って来た奴らの背中を蹴りあげて、一気に上へと躍り出た。

「そーれっ!」
 最後は天井の蛍光灯へとつかみかかり、反動を付けて、扉の向こう側に降り立った。
 もちろん、それで終わった訳ではない。
 二階に現れた乱馬を、容赦なく、攻撃を仕掛けてくる、観月流の使い手たち。下に居たものとは、比にならないくらいのレベルの持ち主だった。
 一様に、気を扱えるようで、容赦なく、現れた乱馬を打ち据えようと、気を浴びせかけてきた。
「っと!」
 それも、織り込み済みだった乱馬は、ダンと床を蹴った。
 その跳躍は、人間離れしている。

「猛虎高飛車、乱れ打ち!ダダダダダ!」
 空を見事に舞いながら、方々へと気弾を浴びせかける。乱馬にとっては、取るに足らない軽い気弾だったので、途切れることなく、十発は連打したろう。しかも、「火中天津甘栗拳」を応用したものだから、そのスピードたるや、常人には打ち出してくる手先も見えなかったろう。

「これで、最後だ!」
 降り際に、左の掌を床へと張り出した。そして、掌の先から、一気に闘気を床に置くように炸裂させた。

 ドーーン!

 鈍い音がして、床がしなった。置かれた気が、音の波動が水を伝うように、乱馬の左手を軸に外側へと広がって行く。

「わあああ!」
「ぎゃあああ!」
 波動は、かろうじて、まだ闘おうと構えていた奴らを、なぎ倒していく。

「まーだやるかぁ?じーさんたちよー。」

 乱馬ははっしと、声をかけた。
 一段せりあがったひな壇から、こちらをじっとうかがっている人影へと、身構えて見せる。
 中央には寒太郎じいさん。その両脇にみさきとみさきの父、それから、流派の上位の人なのだろう。それなり、闘気をたぎらせた、壮年の男たちが、乱馬の戦いぶりに、じっと目を凝らしていた。


「ここまで!もう、よろしい!」

 中央にどんと座っていた寒太郎翁が、すっと右手を挙げて、終息を宣言した。


「どうや?最盛期の凍也と、勝るとも劣らない、格闘センスと度胸の持ち主でっしゃろ?乱馬君は。」
 ほっほっほ、と寒太郎爺さんが回りへと声をかけた。

「ふむ…。一切無駄のない動きやったな。」
「彼なら、充分、その器量は持ち合わせておる。」
「しかも、あれだけの技を連続で打って、息も乱れとらんな。」
「とはいえ、最近の流派の若い衆はなっとらんな!彼に一指も触れられずに終わるとは!情けなや!」
 各々の口から、様々な感想が漏れた。その声は、ことごとくしわがれている。寒太郎よりも高齢な年寄りも席を並べていた。多分、流派の長老たちなのだろう。

「彼は、去年の夏の大会で、凍也を負かしている、大和男児の若手の筆頭ですからな。」
 みさきの父が、胸を張って発言した。

「なるほど…公的試合で、凍也を負かしたのか…。」
「凍也を負かせる者が他流に居ようとは…。」
 感嘆の声が漏れる。

「どうやろ?皆の衆。」
 寒太郎が尋ねると、
「異議なし!」
「よかろう!」
「わしも異議なし!」

 それぞれの口から、賛同の声が沸き上がる。

「…たく、人を呼び出しておいて、試しやがって…。もうちょっと、まともな奴を当てて来いっつーのっ!」
 闘気を納めながら、口を尖らせた。

「ははは、ワシらは、おぬしの力量は、わかっておったが、どうしても、試させろと、こやつらがうるそーてなー。許してやってや、乱馬君。」
 寒太郎爺さんがニッと笑った。
「でも、これで、晴れて、凍也の名代を、あんたに託せることになり申した。乱馬君。」

(出たな…。人畜無害スマイル…。)
 心の中で、乱馬は身構えた。みさきやその母に、いろいろ垂れこまれた後なので、そうなるのも無理はない。

「みさき…。おまえもそれでいいな?」
 寒太郎爺さんが隣から仕切ってくる。
「凍也が、乱馬君に直々にお願いしとったさかい、異論はあらへん。」
 道着姿のみさきが、きっぱりと言い放つ。

「どうかの?裏観月流の当主、氷三郎殿よ。」

 ハッとして、乱馬は後ろを振り返った。
 そこには、あの、裏観月流の当主という爺さんが、唐突に現れたからだ。

(俺に気配を読ませなかった…。)
 背中をつうっと冷たいものが流れ落ちた。

 しばし、沈黙が流れた後、堰を切ったように、氷三郎と言われた爺さんが、言葉を発した。

「別に、それで、かまわんよ…もとい、こちらとしては、表観月流の看板を背負った奴が氷也と闘えればそれでよいこと…ふっふっふ。」
 相変わらず、不敵な笑みを浮かべて、佇んでいた。

「で、刻限はどう定めたい?」
 寒太郎爺さんも気圧されぬように、はっしと睨み返す。
 
 ちょうど、二人の爺さんに挟まれる形になって、乱馬は思わず、息を飲んだ。
 爺さんそれぞれの発している気に鬼気とした雰囲気を即座につかみ取ったからだ。八宝斎が二人居て、それぞれにらみ合っているような、そんな荒んだ空気が、道場内に流れている。
 ゴクンと唾を飲んだ。

「そうさなあ…。今から、十日後の二月十三日辺りでどうじゃ?」
 氷三郎が提案した。
「十日…そんなに日を置くのか?」
 寒太郎が聞き返す。

「何、そこの乱馬とかいう小僧にも、鬼修行をさせぬと、話にならんから、十日やろうというのに…。」
 ククッと氷三郎の口元が笑った。

「鬼修行じゃと?」
 ひな壇に座っていた、観月流の長老たちがざわつき始めた。
 寒太郎は、氷三郎をガン見しながら、叫んだ。
「鬼修行…おまえ、まさか…。」

「そうじゃ!既に、氷也は鬼修行に入ったぞ。」
 ニヤッと氷三郎の口元が笑った。

 乱馬は、静かにたたずみながら、じっと、寒太郎と氷三郎のやりとりを、見つめていた。
 観月流から見れば、部外者の乱馬には、鬼修行の正体がわからない。が、今朝、みさきの母が口にした「鬼の波動」という言葉を思い出していた。
(鬼修行ってーのは、鬼の波動を取得する修行なんじゃねーのかな?だとしたら…。)
 ギュッと胸元を握りしめた。この奥には、みさきの母から預かった二つの原石が御守と共に巾着袋に入っている。

「何故、きゃつを、鬼修行に入らせた?」
 ぐわっと見開く寒太郎の瞳。

「そんなの、決まっておろー?入替戦じゃよ…。」
「何?」
「聞こえなかったか、入替戦じゃ。わしは、掟にのっとって、表観月流と、裏観月流の入替を所望する!」

 氷三郎の言葉に、そこに居合わせた者、全員がざわつき始めた。もちろん、乱馬を除いてだったが。

「貴様が申し込みに来たのは…みさきをめぐっての勝負や、なかったのか?氷三郎!」
 寒太郎がはっしと氷三郎を見据えた。
「まさか!それは、もう、決着を見たであろう?氷也が凍也に負けた時点で、終わった話だ!」
 氷三郎は吐き捨てた。と、同時に、乱馬の肩もビクン動く。
「みさきは、氷也ではなく、凍也と結ぶ…その決着を見なかったとは言わせぬぞ。寒太郎よ。」
 わなわなと、寒太郎の肩が震え始めた。
「みさきをかけて闘うのではないのか…。」
 小さな声で吐き出す。
「ああ…。氷也もみさきには、興味がないようじゃしのう…。何、優れた血を残せる女は、他にも数多居る。最早、あれは過去の話じゃ。じゃないと、死んだ凍也も浮かばれまいよ。」
 クスッと氷三郎が笑った。それをグッとこらえながら、寒太郎は尋ねる。
「では、此度の決闘の目的は、みさきではなく、観月流そのものにあると、言うのやな?」
「そうじゃ。わしが望むのは、我らが表観月流の宗家を名乗ること。その、決闘を、ここへ申し込みに来たのじゃよ!嫌だとは言えぬぞ。凍也亡き後、ちゃんと、名代を立てたのだ。そこの名代とわが氷也が、命を賭して闘うのよ。」

 みさきもその父も、驚きで言葉が出ない様子だった。

「良かろう…。開祖以来、表、裏と二つに分かれ、それぞれの宗家が切磋琢磨し、入替戦も過去、多数、行われてきたという。今の裏と表が定着したのは、徳川末期やから、かれこれ、二百年近くになろうというもの。再び、優劣を競っても何ら支障はなかろう。むしろ、裏観月流当主の気概こそ、大切じゃ。」
 徐に立ち上がったのは、おそらく、ここの最高齢の御仁だろう。頭のてっぺんは剥げ落ち、耳上に残る毛は総白髪。もちろん、眉も口ひげも全て真っ白。
「そうじゃな…。そろそろ、入替戦をしても、かまわぬかな。」
「賛成じゃ。」
 口々に、長老たちは、挙手し始めた。

 チッという顔を、寒太郎爺さんは、氷三郎へと傾ける。

「よかろう…。その勝負、受けぬわけにはいくまい。かまわんかね?乱馬君。」
 最後に乱馬へと視線を流す。

「いいぜ…それで。氷也とやりあえるんだろ?いずれ、あいつとは、決さなきゃなんねーんなら、全力で戦い抜くまでだ。」
 乱馬は、腕を組みながら、答えた。
 元々、氷也とやり合う覚悟で、東京から出てきたのだ。
 凍也の名代として、受け入れられた以上、やり遂げるしかない。
「わかった。おぬしが、そう、言ってくれるのなら、断る道理もなかろうて。では、やはり場所は?」

「ああ。往馬結界だ。我が一族の争い事は、あそこでやり合うのが、掟にもあろう?」
 氷三郎が言い放った。
「そうじゃったな…。」

「まあ、楽しみにしておれ。是が非でも、わし等、裏観月流の底力を見せてやるからのう…。そこの小童(こわっぱ)。」
「何だ?」
 氷三郎から視線を投げられた乱馬が、ジロリと爺さんを見やった。

「ちゃんと、寒太郎氏に、鬼修行をしてもらえよ…。但し、その術式を得とくできるかは、ほぼ確率がゼロじゃがな…。氷也には裏の鬼修行をせいぜい盛大に施しておいてやる。…貴様はこの前の大会の覇者。従って、貴様に勝てば、氷也はそのチャンピオンよりも、強いことになる。」

「それは、俺に勝てた時の話だろ?」
 不快げに乱馬が言い放つ。

「ふふふ、お前に勝った暁には、わしらが表の当主じゃ。この道場諸共、我らがいただく。そして、おぬしらが、裏を名乗れ。」

「だから、それも、俺に勝ってからの話だろ?」
 表情一つ変えることなく、乱馬は吐き出した。

「虚勢を張れるのも今のうちじゃ。…おまえを血祭に上げたあと、氷也とその嫁を伴って、この道場を今以上に盛り上げてやるわい。せいぜい、十日後を楽しみにしておくが良い…。はははは。」
 氷三郎は、くるりと背を向けると、その場から遠ざかる。

「たく…相変わらず、嫌なじじいだぜ…。」
 背中を見送りながら、思い切り苦い顔をした乱馬であった。
 


つづく



一之瀬的戯言
レモン水晶(レモンクオーツ)
 黄色い天然水晶のこと。奈良県天川村産のレモンクオーツは、トラピチェ構造を持った希少な水晶だそうであります。今はほとんど採石されなくなったそうです。昨秋、洞川(どろがわ)温泉へ遊びに行った折、天川村産の小さいのを一つ、買いました。パワーストーンとしても秀逸だそうな…。(小さな欠片で作った指輪で8000円なり)



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