◆天高く 第三部
第四話 淡い思い出 



一、

 しんしんと夜は更けてくる。
 エアコンが無い部屋というところは、天道家と同じだ。
 押入れから綿布団を出して、すっぽりとかぶる。足元には、電気行火。とっくに男の身体に戻っていた。

 夕方一度、寒太郎翁が帰って来て、一緒に夕飯を食べたが、「明日の準備があるから、今夜はここには戻らない…」そう言って、寒太郎爺さんは、再び観月道場へと出かけていった。
 みさきとは、お寺から帰る途中で別れた。彼女も今頃は、道場の上にある自室で休んでいるだろう。

 夜行バスで来阪して、身体は極限まで疲れているはずなのに、なかなか寝付けない。
 寒太郎爺さんの家には、内風呂がない。銭湯へ行ったは良いが、帰り道、北風に吹かれて、返って身体が冷えきってしまった。夜空は晴れあがり、放射冷却がし始めていたので、余計だった。
 眠れぬなら、裏庭で観月流の型の稽古でもしようかとも思ったが、やめた。
 既に時計は午後十時を回っていた。こんな時間に裏庭で身体を動かすと、近所迷惑になることは明らかだった。
 幼少時より、父、玄馬と修行三昧の放浪生活を続けて来た彼にとって、枕が変わろうと、環境が変わろうと、さほど、問題なく、横になったらすぐに眠りに入れる性質(たち)なのに、今夜は全然眠気が降りてこない。
 一度、眠れないと意識し始めると、目がぱっちりとしてくるから不思議だった。
 眠っている部屋には、テレビもない。静かな部屋ではあったが、大きな通りに近いので、車の通る音がひっきりなしに響いてくる。東京の練馬にある天道家の方が、ずっと静かだと思った。
 眠れぬまま、豆電球だけの薄暗い天井を眺めていると、昼間のみさきとのやり取りが、頭に浮かんでくる。

 布団から、薄茶けた天井を見上げながら、様々、思いを巡らせて考え込む。


 みさきが言っていたように、寒太郎が何かを企んでいるのは、まず、間違いなかった。
 天道家に時々現れる、エロ師匠…こと、八宝斎の爺さんと、同じ類の雰囲気が、今の寒太郎には漂っている。
 八宝斎。一応、乱馬の師匠である。正確には、乱馬の父、玄馬と、あかねの父、早雲の師匠であって、弟子になったつもりはないが、あちらは、弟子として乱馬を扱っている節がある。
 傍目にはただの「スケベじじい」の八宝斎だが、その実、どのくらい強いかは、乱馬にもわからない。出自はおろか、何歳であるかも一切不明だ。八宝斎というのも、おそらく、本名ではないだろう。また、その頭の中はイビツで、何を考えているかわからない、文字通り、「得体の知れない爺さん」であった。
 対して、表観月流の前当主、寒太郎爺さんも、得体の知れなさが、漂っていた。見た目は邪悪な感じはしないが、裏側は得体が知れない。案外、八宝斎にも通じるほどの「腹黒さ」を持っていそうな雰囲気だった。
 ひと月前に大阪に来たときは、得体が知れない…といった印象は全く受けなかったのに…。いや、みさきに示唆されるまで、ここまで、得体の知れなさを感じ取ることは無かった。
 まだ、己が若造の証拠だ。そんなことすら感じられる。

 普通に考えても、寒太郎はかなりやり手の爺さんであるに、違いない。天道道場と比べても、観月流は、道場の大きさから、規模が違う。鉄筋建ての道場だったし、そこに集う弟子の数も、破格だ。そんな、大きな道場や流派を束ねてきた寒太郎爺さんだ。隠居していても、その手腕や影響力は衰えてはいまい。

(案外、氷也を育てた、裏観月流の爺さんより、腹黒いかもしんねーな、寒太郎じーさんは…。)

 そんな風にさえ、思えて来た。

 実際、寺でみさきに言われたことは、冷静に考えると、なるほどと思うことが多かった。
 大阪くんだりまで、乱馬を、電話一本で呼び出したことにしてもそうだ。てっきり、みさきが電話をよこしてくるものだと思っていたが、寒太郎爺さんが直々に、電話をかけて頼んできたのだ。
 凍也やみさきとの約束もあったので、返事一つで、ここまでやってきたのだが、今になって、冷静に考ると、観月流に利用されている感が、拭えない。

「いや、腹黒さは、みさきさんも相当かもしんねーな…。」
 そんな風にも思えた。
「考えてみりゃ、あいつも、寒太郎じーさんの血が流れてんだ…俺と同じ年のくせに、しっかりしている…というか、ちゃっかりしているというか…。」

 結局は体よく、寒太郎やみさきに、利用されているような、そんな気持ちにもなってきた。

「あれには…。本当に、びっくりしたけどよー。」
 ふっと漏れた溜息は、白い吐息としてこぼれ出る。

『ウチが、凍也と添い遂げられるように、手を貸して欲しいねん!』
 そう言って、深く頭を下げたみさきの姿が、瞼に浮かぶ。
『ここに凍也が残してくれた子が…おるねん…。』
 はにかみながら、お腹を指さした、みさき。

 結婚を決めて、周りにも認識された許婚であっても、まだ、祝言を挙げたわけではない。なのに子供がお腹に入ったということは…。
 純情な乱馬には考えられぬことだった。
 あかねにキス一つするにも、乱馬の場合、相当なエネルギーが必要だった。
 戸惑いに戸惑って、迷いに迷い抜いて、やっと、一回、軽くキスができる…そんな有様だったからだ。

 もちろん、乱馬も、健康的なごく普通の十八歳の青年。欲望と無縁ではない。しかし、その欲望すら、抑え込んでしまうくらい、こと、恋愛には純情だったのだ。人はそれを「晩熟(おくて)」と言う。

 許婚とはいえ、父親同士が勝手に決めてしまっていた。最初から望んだ関係ではなかった。相手は、最悪の跳ね返り娘だったし、彼女も己のことを、毛嫌いしていた筈だ。
 反発に反発を重ね、喧嘩ばかりしていたのに…いつから引き返せないくらいに、彼女を愛してしまったのか…。正直、今でもわからなかった。
 ただ、好きになってしまっても、出会い方が最悪だったため、なかなか、素直にはなれなかったし、天邪鬼な関係をずっと続けて来た。

(恋愛の対象…というより、喧嘩相手だったしな…。それが、気づくと、なくてはならない存在になってしまってて…。)
 多分、同じようなことを、あかねも思っているだろう。

 (ファーストキスまで、どんだけ時間を浪費したかもわかんねーもんなぁ…。)

 脳裏に浮かんだ、ファーストキッスの光景。

 天道家に来て、許婚にされて、二年近く時が流れたところで、やっと、かわしたファーストキス。

 一度、天道家に来て、まだ、日が浅かった頃、猫化して暴れまくったのち、そのまま、あかねのひざの上に乗っかって、唇を奪ったことがあったらしいが、乱馬の記憶から完全にフェードアウトしていたため、キスの数には入っていない。

 ファーストキス…。

 あれは、高三になる直前の浅い春のことだった…。
 八宝斎のせいで、大混乱に陥ってしまった、呪泉洞の祝言未遂から、そう、遠くは無かった…。
 未遂が多々あったにせよ、ちゃんとかわしたファーストキスより、祝言騒動の方が先だったことが、乱馬(自分)の晩熟(おくて)さを丸ごと物語っているではないか。
 
(そのファーストキスだって、どさくさに紛れたよーなもんだったっけ。)

 フッと自嘲的な笑みがこぼれる。

 そう、あれはバレンタインデー。
 日本では、女子から男子に愛を込めて、チョコレートという貢物を捧げる…そんな、行事に成り下がった、二月十四日。
 いつもの如く、チョコレートを手にした三人娘に追いかけられただけではなく、何だか知らないが、下級生やらクラスメイトやら、そこら中から、チョコレートが集まって来たあの日。
 あからさまに、あかねは、ご機嫌斜めだった。
 己の許婚がモテるということは、許婚から見ても、鼻が高いのではないか…などと、思うのは、男の身勝手。
 色とりどりの包装紙の包みは、あかねから見れば、煮え切らない自分たちの関係への、超絶的な皮肉の産物…としか、見えていなかったのであろう。
 しかもだ。あかねが用意していたのが、これまた、どうすればここまで不器用に出来上がる…と言った、「手作りチョコレート」。
「これ、あたしからのよ…。」とにっこり笑って差し出された不可思議な物体…もとい、あかね謹製チョコレート。
 本人の弁によれば、「形はともかく、味は一級品」ということだった。
 あかねと言えば、泣く子も黙ってはいられず、わき目もふらずに逃げ回るほど、名うての「味音痴」だ。
 どうして、レシピにない材料を、わざわざ「隠し味素材」として、混入したがるのか。理解に苦しんでしまう。
 案の定、差し出された包み紙は、近寄りがたい壮絶なオーラを解き放っていた。包装紙にくるまれてリボンがけされていても…だ。
 許婚として、彼女に不満があるとしたら、この、いかんともしがたい「味音痴」だろう。
 不器用なのはいい。凶暴なのも、己が強ければ律せるので、それも許せる。だが、「味音痴」だけは、どうにかして欲しい。彼女の場合、味音痴は、己の胃袋を破壊する凶器だった。
 真っ先に、惚れている彼女からのチョコレートを食べてやらねばならない…そんなことは、百も承知だが、どよどよした逆オーラを放っているチョコレートを目にすると、その気も萎えてしまう。
 「ありがとう。」と一言、にっこりと受け取っておけば、「事故」にならないことは、わかりきっていたのだが…。
 彼女との関係が、「喧嘩ップル」というのが、仇になる。つい、ストレートに雑言が言葉に乗ってしまうのだ。
『なあ…。これ…作るときに味見したか?』
 開口一番、問い質してしまった。
『してないわよ。』
 にっこりと微笑みながら言われたか、それとも、ムッとされたか…。さすがに、今となってはそこまで思い出せないが、こう切り返したことは覚えている。
『だったら…いーや。気持ちだけ、貰っとくわ。』と。
 その言葉を聞いたあかねが、烈火の如く、怒りだしてしまった。
『何よ!せっかく作ってあげたたのに!』
『だから、別に、バレンタインチョコなんて要らねえんだよ!バカ!』
 と喧嘩腰に言い返してしまう。その言葉の裏には「バレンタインだからって、特別なことしなくてもいいんだから。」という、本音が隠れているのだが…。
 どうせなら、その本音を上手に言葉に乗せて、やんわりと言ってやれば良いものを…そこまで、気を回せるほど長けてはいない。
 また、あかねも、直情的である。乱馬以上のストレートな性格。
 恋人たちの甘い行事も、二人にかかれば、「喧嘩が勃発する最悪の日」になってしまうから、ほとほと具合が悪いのだ。

 あの日も、かなり言いあったと思う。
 いちいち、細かな言葉までは覚えていないが、相当な悪口(あっこう)が、互いの口から吐き出されて行った。
 散々、言いあった後、乱馬の頬を思いっきり引っ叩き、あかねはその場から遁走した。

 数日間、口を利かないで、怒気が自然消滅するまで待てばいいだけだ。…そう高をくくって、溜息を吐き出した。
 だが、飛び出したまま、あかねは日が暮れても帰ってこなかった。
 夕飯時になっても、音沙汰がない。
 さすがに、乱馬も焦ってきた。
 家族の前では何事もなかったかのように、茶の間でテレビを見ていたが、ちらちらと、映し出されるテレビの時計に、イライラを募らせていく。
 家族も、激しく言いあったのち、あかねが飛び出して行ったことを目(ま)の当たりにしているから、じろじろと、乱馬を責め立てるような…いや、いつ迎えに行くのか…というような、好奇心いっぱいの瞳を手向けてくるのだった。
『あかね…遅いねえ…。』
 夕刊紙をくりながら、そろそろ迎えに行ってはどうかね?…といわんばかりの、雰囲気を最初に投げたのは、天道家の当主、早雲だった。その横で、『乱馬よ、様子を見に行け!』と、茶を飲みながら、パンダ玄馬が看板をささっと上げる。
『けっ!だーれが…。』
 座卓に肘をつきながら、否定に走る乱馬。
『あかねちゃん、上着も着ずに飛び出したままだから、風邪ひかなきゃいいけど…。』
 エプロン姿のかすみが、台拭きを持ってきて、夕飯を並べる前に座卓を拭きにかかった。
 そこに居合わせた誰もが、「迎えに行って来い」という視線を、冷たく乱馬に浴びせかけていた。
 が、ここで腰を上げれば、敗北を喫したことになる。乱馬もあかねと同じくらい、意固地な性格の人間だ。
『何だよ…。そんなに気になるんだったら、親父たちが行けばいーじゃねーか…。』
 ムスッとした表情で、頑なに拒否してみせた。
 と、背後でチンと金属音が鳴った。
 ハッとして振り向くと、母親ののどかが、気炎を立ち上げながら、真後ろに立っていた。しかも、日本刀を握りしめている。
『男らしく、あかねちゃんを迎えに行きなさい!乱馬。』
 声は大きくなかったが、そこはかとない凄みに満ちていた。ここで、逆らおうものなら、日本刀を振り下ろさんばかりの雰囲気が漂っている。
『ここは、素直に迎えに行けば?じゃないと、血の雨が降っても知らないわよー。』
 雑誌を片手に、他人事のようにつぶやいた。

『わかったよ!行けばいいんだろ?行けば!』
 天道家面々に見つめられる中、仕方なく、重い腰を上げたのだった。


二、

(ま、素直じゃないのは、あいつだけじゃなくて、俺も相当なんだけどな…。)

 暗い天井を見据えたまま、胸に結わえつけてあるヒモを引っ張り、御守を取り出した。「大願成就」と書いてある、青い御守だ。
 それを見つめながら、再び、淡いファーストキスの思い出へと思いを馳せる。



『たく…面倒臭え…。』
 重い腰を上げて、茶の間を出た。
 玄関に行く前に、二階へ駆け上がり、己の部屋に入ると、あかねが渡してくれた、あの不可思議なチョコレート入りの袋と、クリスマスにあかねが編んだ黄色いマフラーを取り出した。
『面倒ばっか、かけやがって。』
 すっと息を吐くと、再び、階段を駆け下りて、ガラガラっと玄関の引き戸を開ける。
 まだ、ほんのりと西の方は明るかったが、夜の帳が、降り始めていた。
 乱馬はしばらく、玄関先で足を止めた。じっと瞳を閉じて、静かに体中の間隔を研ぎ澄ませた。
 風がカタカタと引き戸を鳴らしながら、南の方向へと吹き抜けて行く。
 一分もそうしていたろうか。くわっと目を見開き、門戸を潜らずに、道場の裏手へと回って行った。
 それから、道場の脇に生えている、桜の木へと手を伸ばした。そして、桜の枝に手をかけると、するするっと登り始めた。
 幼少期より野山を駆けて来た乱馬だ。木登りなど、お手の物で、みるみるうちに、登って行った。そして、そこから、道場の屋根へと飛び移る。

『たく…。何やってんだよ…。ずっと、ここに居たのか?』
 道場の屋根に上ると、ぼそぼそっと声をかけた。
 と、道場の上で、人影が、ごそっと動いた。
 あかねである。
 スカートを抱え込んで、背中を丸めて、瓦屋根の真ん中に座っていた。
 当然、返答も返して来なかった。

『まだ、すねてんのかよー。』
 トトトっと瓦屋根を駆けて行き、あかねの前に立った。
 背中に手を組み、じっと、あかねを見据える。
 ツンと頭が横を向いた。
『いつまで、こんなところに座ってる気だ?そろそろ夕飯だぜ。降りたらどうだ?』
 そう言い放った乱馬に、無言のまま、シャッと手が伸びる。
『おっと…。こんなところで、暴れたら、落っこちて怪我するぜ。』
 その手を掴んで、抑えにかかる。
 本気を出せば、あかねを、捕まえることは簡単だ。ギュッとつかっかってきた両手首をつかんで、押しとどめる。
 あかねも分(ぶ)が悪いと思ったのだろう。すっと手から力が抜けて、抵抗をやめた。
 相変わらず、押し黙ったまま…。
『ま…ここは大人しくした方が安全だからな。』
 パッとあかねの手首を放すと、そのまま、あかねの横に、よっこらしょと腰を下ろした。
 明かりが灯った街が少し、展望できた。遠い西の空は、少しだけ赤みが残っている。が、真っ暗になってしまうのは、時間の問題だった。
『ほれ…身体が冷えきっちまってるんだろ?』
 そう言って、自分の首からマフラーを外すと、あかねの首へと巻き付ける。が、敵はまだ心を許してはいないようで、視線を合わせようともしない。ムスッと口を結んだまま、うつむいている。
 まるで、優しくされるのが、不本意だと言わんばかりの、かたくなな態度だった。
『たく…駄々っ子か…おまえは。』
 そんなあかねを見ながら、ボソッと吐き出した乱馬。
『うるさいわよ!』
 小さな声があかねから零れ落ちる。
『まーだ、怒気が抜けてねーのか?…ったく。ここで、頭を冷やしてたんだろーが…身体まで冷え切っちまってるじゃねーか…ったく。』
 しょうがないなあ…と言わんばかりの言葉を、投げつける。
『違うわよ。夕日けを見ていただけよ。』
『夕日をねえ…。でも、太陽はとっくに沈んじまったぜ。』
『残照も、きれいなもんよ。それに、星も輝き始めたし。』
 白い息を吐きながら、見上げる天上。
『ほれ…。』
 乱馬は、サッとあかねに紙袋を差し出す。あかねが作った手作りチョコレートが入った包み紙だ。
『何よ…あげたものを、突き返す気?』
 再び、怒気があかねを包む。
『いいやー、どーせなら、一緒に食ってみよーかと思ってよー。』
 ガサガサっと紙包みを開きながら、乱馬はあかねを見返した。
『一緒に?』
『ああ…。百聞は一見にしかずってな…。』
 包みから顔を出したチョコレートをパキッと一口大に割りほぐす。
『食ってやるから、ほら、おめーも一口、食ってみろっ!』
 一欠片を己の口に、もう一欠片をあかねの口に、放り込む。
 
 と、みるみる、あかねの顔が歪んだ。

『ほらみろ、不味いだろー。』
 乱馬も苦笑いを見せながら、あかねへと問いかける。
 コクンと揺れるあかねの顔。手でグッと口を抑え込んで、必死で飲みこもうとしている有様がうかがえた。
 普段のあかねなら、ここで、一声、乱馬を糾弾する非難めいた言葉が飛び出していたろうが、寒さと不味さで、すっかり打ちひしがれてしまったようだ。
『ゴメンなさい…。』
 ポツンと素直な言葉がこぼれ落ちて来た。
『ちったー反省したみてーだな…。』
 乱馬が、トン、とあかねの肩を軽く叩いた。その右手をそのまま、肩に置いて、己の方へ、あかねを引き寄せる。
『ま、これに懲りたら、今後は、ちゃんと、おめーの口で味見しろ!味見して平気なら、ちゃんと食ってやっから。』
『うん…。』
 小さな声でそれに答えた。
『約束だ…。』
 そう言いながら、わしわしっとあかねの頭を、右手で撫でた。いい子いい子するように。


(もう少し、恋の駆け引きに長けていたら、あそこの場面で、そっと唇にふれられただろうに…。それすらできなかったんだよな…俺は。)
 ギュッと、御守を握りしめた。


『っと…、あんまり遅くなっちゃ、みんなが心配すっからな。』
 ささやかな約束を取り付けた後、あかねを引き寄せた左手をそっと外した。

 太陽の残照は、西の端にすっかり消えていた。辺りはすっかり暗くなっていた。屋根から腰を上げて、あかねと一緒に立ち上がった。
 その時だった。
 思わぬ風が吹き抜けて、思い切り身体が煽られた。乱馬はその風に耐えられたのだが、あかねはそうはいかなかった。はいていたスカートがゴゴッと風にすくわれて、バランスを崩してしまったのだ。
 えっと思う間もなく、彼女の足元がぐらついた。そこは地面ではなく、屋根瓦の上だ。
 あっと思った瞬間、万有引力に引かれて、屋根の上から滑り落ちていく。
『あぶねーっ!』
 乱馬は咄嗟に瓦屋根を蹴ると、だっとあかねへと身を投げ出した。瞬発力は、あかねの落下速度を大きく上回る。
 あかねを空中で捕まえると、グッと右手で抱き寄せ、左手を地面へ向けて、気の塊を解き放つ。
 その反動で、受け身を取り、背中からあかねを抱えて、着地した。
 気弾のおかげで、ほとんど衝撃は無かった。が、一緒に着地したあかねは、乱馬へと必死でしがみついて、小刻みに震えていた。
 驚いたのか、怖かったのか。
 あらかじめ、わかった上での落下なら、こんなにしがみついてくることは無かろうに。

(無防備なあかねが、あの時、無性に愛しくなったんだっけ…。)

 日の光が消えた、闇の中だったことも、乱馬に発破をかけたのかもしれない。
 気づくと、腕に、あかねを抱きしめていた。
『たく…何、弱気になってんだ?…らしくねえ。』
『だって…。怖かったんだもん…。』
 これまた、らしくない、言葉を腕の中で吐きつけてくる。
『おめーでも、怖がる時があるんだなー。』
『悪い?』
 弱音を吐いた顔を見られたくないのだろう。じっと、乱馬の胸に顔をくっつけたまま、小さな声で反論してくる。
『いや…悪くなんかねーよ…。むしろ、嬉しい。素のおまえが見られたから…。』
 あかねの背中に回っていた右手をそっと外した。と、背中から手が離れたのを不安に思ったのか、あかねが乱馬を見上げた。暗がりの中だったにもかかわらず、あかねの表情がはっきりと、うかがい知れた。
『そんな顔…すんなよ。あかね…。俺はおまえの許婚だ。だから…。』
 外した右手を、あかねの左頬へと滑らせる。おそらく、その時の乱馬は、満面の穏やかな微笑みを、あかねへと手向けていただろう。
『…だから…。一緒に居て、ずっと、俺が守ってやる。』
 そう言ってから、瞳を閉じ、そっとあてた柔らかな唇。触れた瞬間、あかねの肩がビクッと上がったようにも思えたが、すぐにも力が抜けて、乱馬へと身体を預けて来たのがわかった。

 初めて自分から触れたあかねの唇は、柔らかで温かかった。たおやかな時間が二人の上を流れて行く。
 ほんの数秒の淡いくちづけ。深く、舌先をからめる余裕も無かった。
 それはあかねも同じようで、ただ、息を潜めて、静かに佇んでいた。

 さわさわと風が吹き抜けていく。抱き合う二人を祝福するかのように、いい香りが立ったような気がする。

 唇を放した時、はにかんで少しうつむいたあかねが、かわいく思えた。
 もう一度、あかねを深く腕の中に沈めて抱きしめた。淡いキスの余韻を楽しみながら、柔らかに背中へ手を回して、引き寄せる。
 ほんの、数秒の極上の時。いつまでも、こうしていたかったが、そろそろ家に入らなければ、家族たちが心配するだろう。それに、あかねの身体も冷え切っていた。

『戻ろうぜ…。いい加減に家に入らねえと、風邪ひいちまう…。』
『うん…。』

 抱擁を解くのが、こんなに困難だと思ったのは初めてだった。が、あかねにただの欲望で抱きしめたと思われるのも嫌だった。離れ際に、ポンと一つ、背中を叩いて、おもむろに、腰を上げて立ち上がった。
 と、あかねもそれに次いで、ゆっくりと立ち上がった。スカートのすそについた土を払い、二人、玄関の引き戸を開けて、何事もなかったかのように、「ただいまー。」と言いながら、三和土(たたき)を上がっていった。


 それが、記憶に残る、最初のキスの全容だ。

 喧嘩ばかりのあかねとの日々が、あの日から、少しずつ…本当に少しずつ、変わっていったと思う。



三、


(だけど…デバガメ家族の餌食にだけには、俺もあかねもなりたくなかったからなあ…。)

 やっと、キスまで交わせた二人だったが、以降、頻繁にできる訳でもなく。晩熟は相変わらず、変わらなかった。
 三人娘たちには相変わらず、言い寄られるし、あかねも九能や五寸釘にストーカーされていた。お互い、物騒な連中に追いかけらる日々を過ごしてきた。

 が、あのバレンタインの日、一つだけ、心に誓ったことがある。
 それは… どんなに、愛しい感情が高まっても、晴れて祝言を挙げるその時まで、それ以上を望んではならないと自分を律っすることだった。
 つまり、男と女の一線は超えないで、祝言を挙げて夫婦になるまで、彼女の貞操を守り切る。そう、決めたのだった。

 故に、あれから何度キスをしたか…ちゃんと指で数えられた。一つ一つの光景を、鮮明なまでに、記憶している。




(ま、キスって言っても、軽く唇を合わせた程度しか、してねーしな…。)

 舌先まで絡めた、濃密なキスは、秋口の大会の控室…と、昨日交わした、旅立ちのキス…その二つしか記憶にない。
 大会の控室でのキスは、足に負傷したあかねに、棄権を迫ったときに放ったものだ。聞き分けないあかねを何としてでも止めたかった、いわば、騙し討ちのキスだった。
(あんときゃ、あれぐらいしねーと、大人しくさせられなかったしな…。)
 ああでもして、あかねの気を削がなければ、あの負傷は長引いたに違いない。もちろん、キスした乱馬は真剣だった。偽りのキスではない。あの刹那、心ごと、あかねの全部を、唇で奪いたかった。少し乱暴だったと思ったが、強引にしかけたのだった。


 お互いの純朴なまでの想いを伝えあうために、深く唇を重ねたのは、昨日の「旅立ちのキス」が初めてだった。
 もちろん、軽く唇を合わせただけの、ライトキスも、強引に奪ったキスも、そこにこめられた、あかねへの想いは、全部、本物であることには、違いはなかった。

 でも…。余裕を持って、愛情をこめた、ディープキスは、まだ、昨日のキスだけだった。

(なのに…同じ、許婚同志でも、凍也とみさきさんは…子供を作るところまで行っていたなんて…。)

 子供を作ること…すなわち、性干渉を持っていたことと同義だ。
 性交渉を持つことは、純愛志向の乱馬とあかねには、まず、考えられないことだった。
 去年暮れの大会で、観月道場へ泊めて貰ったときにも、わざわざ一緒の部屋にされた…にもかかわらず、結局、手も握れなかった。互いの体温をすぐ近くで感じながら、枕を並べて眠っただけで、抱き合うどころか、キスすらできなかったのである。

 
『うちのお腹には、赤ちゃんがおるねん!』
 嬉しそうに、言った、みさき。
 息を飲んで、固まってしまった、自分。
『え…ええええ?』
 大声を張り上げた乱馬を、制しながら、みさきは言った。
『こらこら、大声出したら、あかんって…。ほんま、同じように許婚が居る身のくせに、純情なんやから、乱馬君は…。あんたら、やっぱり、まだ、身体を合わせてへんねんな。』
 やれやれと言わんばかりに、みさきは乱馬の顔をしげしげ眺めた。
『ほっとけ!身体を合わせる関係になる方が、よっぽど、変だぞ!』
『そーかな…。許婚なんやから、そういう関係になって、何が問題なん?許婚の癖に、プラトニック貫いてる方が、よっぽど変やと、ウチは思うけどなあ…。』

『価値観の相違があるのは良しとしてもだ…。お腹に子供が入るということは、ぶっ飛んでるだろう?許婚とはいえ、結婚した訳じゃねーんだろ?何考えてんだ?おまえらは!』
 つい、声を荒げた。子供ができたということは、避妊しなかった訳だ。許婚という段階は、まだ、家庭を作ったわけではない。いわば、その前段階だ。
『ほんまに…純粋培養なんやな、あんたとあかねちゃんって…。』
『だったら悪いか?』
 つい、声を荒げてしまう。
 破壊力の大きなみさきの『妊婦宣言』に、正直、理性がぶっ飛びかけている乱馬だった。

『で…いつ、わかったんだ?子供を授かったって…。』
『つい、五日ほど前のことや。風邪っけがあんまり抜けへんし、体調悪いのが続いてたから…というより、編やってピンと来て、産科へ連れてってくれたんは、お母はんやねんけどな。』
『ってことは…。』
 コクンとみさきの頭が揺れた。
『このことを知ってるのは、お母はんと乱馬君だけや。もちろん。お父はんにもおじいはんにも内緒や。』
『何で?』
『だって、あんたとウチをくっつけたがってる人らやで。こっちの爆弾見せたらあかんねん。』
『あん?』
『だから、ウチが凍也の子を身ごもってることは、最終兵器なんや。せやから、誰にも言わんとってな。やないと…ウチと結婚させられそーになったとき、太刀打ちできへんで!』

 みさきの父と祖父に、即座に打ち明けても、問題はないんじゃないかと思ったが、グッとこらえた。
 裏観月流との確執に、決着を見ていない以上、やはり、隠しておいた方が、得策なのかもしれない、そう思ったからだ。

『それで、何か月なんだ?一応、洗いざらい聞いとくぞ。』

『四か月って言われたさかいに、恐らく、秋口の大会で東京へ行った時に授かった子やと思うわ、』
『秋口…東京大会…って、おめーら、大会の時に、子作りに励んでやがったのかあ?』
『あ、言っとくけど、大会中はそんなアホなことしてへんで!ストイックやないと、大会には勝たれへんからな。』

 あっけらかんと、話すみさきに、少し呆れた乱馬だった。目の前の「おさげの女」の本体が「男」だということを、忘れているのではないかと思えてきたほどだ。少なくとも、異性に、ズバズバ話せるような内容ではなかろうに…。

『あんたに負けて、えろう、落ち込んどったさかいになあ…。あん時の凍也は…。』
『いい…具体的に話さねーで、いい…。』
 ついつい、手を前に突き出して、押しとどめた乱馬だった。
 でないと、あらぬ方向へと、妄想してしまいそうだったからだ。凍也とみさきが絡み合う姿など、想像するのもおぞましかった。

 まだ、凍也は身体に異変を感じて、検査を受けたとはいえ、余命幾ばくもないと、宣言される前だ。このような事態を予測だにできなかったことになろう。

『そんな身体でよく、この前の大会、出てあかねと闘えたな…みさきさん。』
 半ば、呆れるような顔でみさきを見つめた。
『暮れの大会の時は、まだ、懐妊を知らんかってんもん。だから、無茶もできたんやけどな…。年明けから、ずっと、微熱が続いてたさかいに、お父はんらが出てた隙に、ちょっと医者行こうかって、お母はんに無理やり引っ張って行かれてん…そしたら、子供が出来てるって言われて…。』
『凍也は…。知ってたのか?』
『うううん…病院連れて行かれたんは、凍也が死んでからやしな。せやし、凍也に報告したんは、お骨になってからや。』
 と、凍也の骨壺を見上げた。
『うち、この子を授かったって聞いたとき、めっちゃ嬉しかってん。凍也の忘れ形見や。ちゃんと産んで、観月流の跡取りにしたいねん…。この子が居れば、ウチ、凍也と未来永劫離れんでええんや。だから、頼むわ。
 ウチとこの子に降り注ぐ火の粉を、取っ払って欲しいねん!乱馬君。』
 再び、懇願する瞳を傾けたみさき。

『たく、俺が断れないと見越した前提で、話してんだろ?みさきさん…。それに、ここで断ったら、多分、凍也に化けて出られるんだろーしなー。』
『うん、凍也だけやのーて、ウチの生霊も化けてでるかもね。』
『じ、冗談じゃねーぜ…たく…。』
 乱馬は、はああっと吐き出した。それから、凍也の骨壺を見上げながら言った。
 と、雲間が晴れたのか、さああっと、本堂へ太陽の光が差し込めてきて、凍也の骨壺が一瞬、きらめいたように感じた。まるで、「頼む」と凍也に言われたような気がした。

『わかったよ…。俺も男だ。最後まで「名代(みょうだい)」の責務を果たすぜ。』


 そう、約束してしまったのだった。


(たく…なんか、みさきさんにも、はめられたような気がするんだよなあ…。てか、はめられたんだろうぜ…俺。」

 「大願成就」と書かれた青い御守を軽く握りしめながら、また、特大の溜息が、口から洩れる。

 乱馬のこの予感は当たっていた。否、想像を越えた厄介ごとが、次々と身の上に降り注ぐのだが、まだ、この夜は安穏と更けていった。
 そして、いつの間にか、御守を手に握りしめながら、深い眠りの淵へと、入っていったのだった。


つづく




一之瀬的戯言
いろいろ異論はあろうかと存じますが、呪泉洞の戦いは「二年生の冬場」だったと、無理やりこじつけて、この作品を書いておりますことを、お断りしておきます。あれだけの絆を作り上げるには、最低一年半はかかるのではないかと言うのが持論なのでありまして…。原作やアニメはその一年半を行ったり来たりしていると勝手に解釈して、この物語は創作してあります。
細かい事を言えば、原作は出会いが夏でアニメは春。で、本作はアニメ寄りの春の出会い解釈で書いております。あしからず、こちらもご了承くださいませ。


(c)Copyright 2000-2016 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。