◆天高く 第三部
第三話 みさきの秘密



一、


 ふうっと、長いため息がこぼれ落ちた。

 薄雲の上から、はっきりしない太陽が、弱々しい光を投げかけてくる。
 道路側に突き出した御門は、固く閉ざされている。誰彼もが入れるような有名寺院とは違って、呼び鈴を押して、入門を問わなければならないところは、一般家庭と変わらない。
 意を決してボタンを押すと、インターフォンから女性の声が返ってきた。

『はーい。どちらさまでしょうか?』
 
「観月みずきです。お参りに来ました。」
 間髪入れずに、それに答えたのは、ポニーテイルの娘。
 脇には、もう一人、薄水色のチャイナ服を着た「おさげの少女」が控えていた。
『どうぞ、お入りください。』
 ガタッと音がして、門扉が中へと開いた。

「へええ…。機械式なんだ。」
 おさげの少女が目を丸くして、開いた門扉を見つめた。
「さ…。こっちや、乱馬君。」
 みずきが、先に立って、おさげの少女を先導する。

 そう。みずきが伴って来たのは、早乙女乱馬。何故か、男ではなく、女に変化していた。
 みずきは、中から出てきた、上品な女性に、ぺコンと挨拶すると、
「こんにちは、この娘は凍也の友達やねん。お参りしたいって言うから、連れてきてん。あがってもええかな?」
 一応、寺の留守番と思われる中年女性へと、許可を取り付ける。

「かまへんよ。今日はおじゅっさん(住職のことを示す関西弁)がおらへんけど、ええかしら?」
 顔見知りなのだろう。女性はそう言いながら、乱馬をチラッと見た。
「べつにええよ。簡単なお参りに来ただけやし。おばちゃんも、気ぃ遣わんでもええからね。夕方は書道教室があって、忙しいんやろ?」
「まあね。」
「勝手知ったるお寺はんやから、適当に拝むだけやさかいに。お線香もろうそくも、場所わかってるし。」
「じゃあ、そうしてもらえると、おばちゃんもありがたいわ。」
「帰るときに、また、声かけるからねー。」

 そう、簡単なやり取りを経て、みさきは、乱馬を本堂へと誘った。
「こっち、こっちや、乱馬君。」
「お…おう。」
 あまり寺へは行きつけない乱馬は、きょろきょろしながら、みさきの後ろへとくっついていった。
「広くもないけど、なんとなく風情がある寺やろ?ここ…。太平洋戦争の大阪空襲の時も焼け残ったって言ってたから、結構、古いらしいで。」
 そう言居ながら、みさきはどんどんと奥へ入って行く。


 何故、乱馬が、女化しているのか。
 それは、半時ほど前のことにさかのぼる。



 朝、夜行バスで到着するや否や、宿となる寒太郎爺さんのところに行った乱馬とみさき。
 寒太郎から渡された「観月流」の奥義書を片手に、裏庭で汗をかいていた乱馬。対する、みさきは、それまでの疲れで、こたつで眠りこけていた。
 乱馬が身体を動かすのをやめたのと、みさきが眠りから醒めたのは、正午を過ぎた頃だった。
 青春時代はとかく、腹が減るものだ。
 見越して、寒太郎爺さんは、近所の店から「うどん」を取って、御馳走してくれた。
 ゆずの香がきいた薄いだし汁。濃い口しょうゆに馴染む乱馬には、上品に思えた。讃岐うどんのような腰はないが、口の中に、するするっと入る典型的な麺は、それはそれで旨い。
「冬はあったかいものに限るなあ…。」
 みさきが美味しそうに頬張るのを脇で見ながら、
「ああ…。そーだな。」
と、乱馬も頷く。
 道着姿のまま、着替えずに、そこへ座したまま、うどんのお椀を手に持ってすする。

 うどんだけでは足りなかろうと、おいなりさんも一緒に頼んでくれた。
 黒ごまが入った、典型的な関西のいなり寿司が、寿司桶に整然と並んでいた。
「へええ…いなり寿司も関東とは形が違うんだな…。」
 箸でおいなりさんをつまみながら、不思議そうに乱馬が言い放った。
「え?そーなん?東京と形違うのん?」
 みさきがその話題に食いついた。
「ああ。関東のいなり寿司は、三角形じゃねーぞ。俵型だ。」
「なんやそれ…。おいなりさんは、伏見稲荷の山の形をかたどってお狐はんにあげるから、山型が当たり前やのに…。」
「伏見稲荷?」
「京都の稲荷神社の総本社やん。赤い鳥居がいっぱい並んだ、有名な神社やん。知らんの?」
「お稲荷さんは知ってるけど、伏見稲荷には、行ったことはないな…。」
「おいなりさんの三角形は、伏見稲荷のお山の形からきてるんやで。」
「そりゃ、また何で?」
「稲荷神社の神のお使いのお狐はんは、揚げさんが好きなんやで?だからに決まってるやん。」

 そんな、悠長な会話を交わしながら、食べる昼ごはん。。
 何だか不思議な感じがした。
 
 みさきの隣に居るのが、凍也ではなく、自分だということ…。それに、自分の前にいるのが、あかねではなく、みさきであること。それに多少の違和感を覚えていた。
 が、みさきも、あかね以上に人懐っこい性格のようで、それなり、会話は淀みなく、流れて行く。
 関東人にはどちらかというと、耳障りに聞こえる関西弁も、久遠寺右京という幼馴染が近くにいるせいか、さほど、苦にならなかった。

「さて、わしは、明日の打合せがあるから、道場へ行くわ。」
 そう言って、先に食べ終わった寒太郎爺さんが先に、腰をあげた。
「あとは、好きに、ゆっくりしとったらええ。こたつで寝るもよし、修行するもよし。器はあとで店の人が下げにくるやろーから、洗って適当に、外に置いときや。」
 そう言い含めて、さっさと家から出て行ってしまった。

 言われるままに、器を洗い、玄関の外に出すと、二人、ちんまりと、和室に座った。

 二人きりになると、一転、会話は止まってしまった。
 話になりそうな、ネタもない。

 それにしても、男と女を放りだして、出かけていくなんて。間違いがあったらどうするつもりなのか。

 乱馬は、寒太郎爺さんの良識を少し疑いかける。
 まるで、わざと、みさきと放り出されたような気分になりかけていた。
 爺さんが帰って来るまでの時間を、どう過ごすべきか、もじもじしていると、みさきが話しかけて来た。

「ほんま…。乱馬君って奥手やねんなあ…ウチを、口説く気はないんかいな。」
 と、とんでもないことを言い出した。

「あったりめーだろーが!おめーは凍也の許婚なんだろ?口説けるかっ!」
 思わず、怒鳴っていた。
「じゃあ、ウチが凍也の許婚やなくて、フリーやったら、どーなん?」
「許婚だろーが、フリーだろーが、おめーに手なんか出さねーぞ!俺はっ!」
「そらそーやな…。あかねちゃんが居るもんなあ。乱馬君には。」
 クスッとみさきが笑った。
「おめー、俺をからかってんのか?もしかして!」
「うん。」
 素直にうなずかれ、カクンと肩が落ちた。
「あのなあ…。」
「ほんま、あかねちゃんのこと、根っから好きなんやなあ…。あんた。」
「う…うるせー!これ以上、からかうなっ!」
 真っ赤に顔を熟れさせた乱馬を見て、スッと、みさきが立ち上った。
「おい!どこへ行くんだ?」
「台所。」
 楽しげに、みさきは奥の台所へと進んでいく。水道をひねる音して、手にコップを携えて戻って来た。
 水でも飲むのかと、チラッと見上げれば、何を思ったか、みさきは手にしたコップを逆さまにして、ドバッと乱馬の頭の上から、冷水を注ぎかけた。

「くぉらー!何しやがんでーっ!」

 頭から水をかぶった乱馬は、みるみる、その身長を縮めていった。いや、変化したのは身長だけではない。
 呪泉の水に呪われた身の上だ。逞しい胸は膨らみを持ち、女体変化してしまった。

「ほんまに、女に変身できるんや、乱馬君って!」

「つ、冷たいじゃねーかー!このアマッ!」
 唐突に水をかけられて、怒声を発した乱馬。それを見て、みさきはゲラゲラと笑っている。

「くぉら!何で、てめーが、俺の変身体質を知ってやがんでーっ!」
 グッと拳骨を握りしめながら、みさきへと詰め寄る。
 しかし、動じることなく、
「うちに、乱馬君の変態体質を教えてくれたんは、あかねちゃんやねんけどなー。」
 軽々と言い放った。
「あかね…だって?あのバカ…俺の変身体質のことをみさきさんにしゃべってたのか。」
 もぞもぞと口が動いた。
「この前、うちの道場に泊まった時、こっそり教えてくれてん。その…なんて言ったっけかな?呪いの修行場。」
「呪泉郷だ。」
「そうそう、そこそこ…そこの泉に落ちて、水とお湯で、男と女が入れ替わる、変態体質になったんやろ?…。嘘やって思っててんけど、ほんまやったんやなー。」
「変態体質じゃねえー!変身体質だ!」
 気に食わない言葉尻を捕まえて、声を荒げる。
「ほんで、あかねちゃんがなー、水かけてみてもええって、言ってくれてたん、思い出したから、やってみたんやけど…。ホンマに変態体質やってんなあ…。」
 女体化した、頭の先からつま先まで、じっくりと見られた。
「だーかーらー、変態体質じゃなくて、変身体質でい!」
「たいして変わらんやん!変態体質も変身体質も。細かい事、男がごちゃごちゃ気にしたら、あかんでー!出世できひんで!」
 バシバシと大阪のおばさんよろしく、みさきが乱馬の背中を叩いた。

「たくー!何だってんだよー!わざわざ、人を女に変身させやがって。」
 まだ、怒りが収まらないらしく、ぶうぶうと乱馬が文句を垂れ続ける。

「だって、さっきから、乱馬君、もじもじして、全然、落ち着いてへんやん。」
「あん?」
「あんた、おさまりが悪いって、ずっと、思ってたんやろ?うちと、二人きりにされて。」

 図星だった。寒太郎が道場へ行ってしまった後、ぽつねんとみさきと二人、取り残されて、会話にも窮する状態だったのは、否めない。

「ウチかて、ちょっとなーって思ったし…。奥手なあんたやったら、もっと、身の置き場がないんちゃうかって。これでも、気ぃ遣こーてやってんやで。」

「これのどこが気を遣ってるってんだよ、ったく…。」

「で、あんた、何か、おじいはんの態度、変やって思わんかったか?」
「変って?」
「この前、大阪に来た時と、感じ変わってへんか?」
「あん?」
「ほんまに感じてへんのかいな…。おじいはん、あんたとウチとをくっつけたがってるみたいなんやで…。」
「えっ?」

 唐突なみさきの言に、目をぱちくりと見開いた。

「じゃないと、わざわざ、ウチにあんたを迎えに行かせへんかったやろーし、ここにこーして、二人っきりに置いて行くのも、変やって思わん?若いおなごとおとこが、狭い和室に二人きり…なんやで、今。」

「言われてみれば…。確かに。」
 乱馬も、改めて、今置かれている状態を、考えてみた。

「でもよー、俺にはあかねっていう許婚が居るんだぜ?あのじーさんも百も承知だと思うけど…。」
「ほんま、己の格闘家としての力量のこと、案外、わかってへんねんなー。それに、あんたも、相当鈍いみたいやなー。」
 チラッとみさきが乱馬を見返した。
「鈍いって、人をあかねみてーに言うなよ!」
「そーやな…。あかねちゃんも、かなり鈍い子みたいやしなあ…。あんたら、ほんまに似たものカップルやわ。」
 また、パンと背中を叩かれた。
「何、茶化してんでー!」
「まーそれは置いといて…。ちょっと、つきおーて欲しいところがあるねん…。」
「ってことは、どっかへ行くつもりか?」
 コクンと揺れる、みさきの顔。
「どこへ行くんだ?」
「凍也んとこや。」
「凍也のところ?」
「うん…。凍也のお骨(こつ)を預けてあるお寺や…。」
「お寺?」
「うん…。うっとこ道場やろ?凍也も落ち着かれへんやろうって、お寺さんに預かってもーてんねん。」
「わかった。道着で行ったら、変だろーから、着替えてくるわ。」
 乱馬はそう言うと、荷物のある、二階へと上がっていった。



「お待たせー!」
 さっと着替えて、降りて来た乱馬に、みさきが好奇な瞳を手向けた。

「へええ…。珍しい服、着るんやなあ…あんた。」

 薄水色のチャイナ上着に黒いズボン。乱馬から見れば、ごく普通の普段着だ。だが、大阪でこの格好をしたのは初めてだった。先月の大会の時は、のどかとかすみが見立ててくれた洋服で過ごし切った。
 だから、チャイナ服の乱馬が、みさきの瞳には、物珍しく映ったのだろう。

「あ…これな…。俺、東京じゃあ、この格好で普段、居るんだ。」
「へええ…。また、何で、チャイナ服なん?」
「親父と中国へ修行しに行って、女溺泉に落っこちて、女に変身するようになってからかな。中国でたまたま安かったからって、興味本位でカンフー服を買ったんだけど…この格好だったら、男でも女でも、どっちでもいけるんじゃねーかって思ってよ…以来、愛用してるってーのが、ま、理由っちゃ理由だな。
 この服、動きやすいんだぜ。軽いしよ…。滑らかに身体が動けるんだ。それに、ちょっと洒落てねーか?」
「うーん…洒落てるのかなぁー?あかねちゃんは、どう、ゆーてるん?」
「特に、何も言われたことはねーけど…。」
「あかねちゃんって、優しいんやなー。」
「どーゆー意味でいっ?」
「凍也がそんな服着とったら、ウチやったら、こっ恥ずかしゅーて、すぐ脱がすやろな。」
 失礼な物言いがみさきの口から流れ出る。
「そりゃ、凍也には似合わねえーだろー。俺だから似合ってるんだ。」
 乱馬は気にも留めずに、思ったままを吐き出す。
「あんた、けっこう、ナルシストやな。」
「一ぺん、殴ったろーか、おめえ。」
「女殴れるん?あんた?」
「…痛いとこ突くな、バカ…。」
 そう言いながら、握った拳を解いて見せる。
「口の悪さも、凍也に負けてへんな、あんた…。」
 みさきがニッと笑った。

「まあ、とにかく、一緒に来てくれるか?」
「ああ、このまま、じーさん待つのも退屈だし…俺も、凍也に手を合わせておきてーし。」
「言っとくけど、お骨とは格闘できひんで。」
「だから、そっちの手合わせじゃねーっつーのっ!」

 乱馬が女に変身したからなのか、乱馬からぎこちなさが抜けた。自然な会話が、二人の間に流れるようになった。
 「男と女」という、変な緊張感から解放され、違和感なく話せている。誰が見ても、二人は、仲良し女友達同志にしか思えまい。
 ここは、みさきの地元だ。すれ違った同世代の中には、彼女の知り合いもいた。

「みさき。久しぶり。良かった…元気そーで。」
「その子、誰?お友達?」
 乱馬を見て、不思議そうな顔で声をかけてくる娘も居た。
「うん。遠い親戚の子よ。凍也を拝みにわざわざ来てくれてん。」
 と、無難な答えを返していく、みさき。黙って乱馬は、少女たちの会話を聞いていた。
 
 瞳に映る今の乱馬は、女の子。この前の大会の男子部門を制したチャンピオンだとは、誰も思わないだろう。

「あんたが女の子に変身できてよかったわ。すれ違う、同級生に変な顔もされへんし。」
「あん?」
「だって、もし、男の子のまま肩なんか並べてとったら、凍也が死んでまだ間無しやのに、もう、男作ったんか…とか言われかねんやん。」
 ポツンと言われた。

 そうなのだ。まだ、凍也が旅立って、そう日数が経った訳ではない。

「先に、言っとくけど、この体質のことは、他の奴には内緒だぜ。」
「うん、当然や。今だけや。明日からは、ずっと男で居てくれんと、こっちかて困るし。あんたも、ばれたくないんやろ?」
「なあ…。それより…。俺が呼び出された本当の意味って、どーなんだ?さっき、寒太郎じーさんが、俺とおまえをくっつけたがってる…とか、変なこと言ってたろ?」

 ゆっくりと歩きなが、みさきに尋ねた。と、みるみる、みさきの顔が曇った。

「うん…。そのことについても、話しとかんと、あかんなーって思って、あんたにつきおうてもらってんねん。おじいはんの家やったら、いつ何時、茶々が入って、話されへんようになるかもわからんし…。凍也んとこで言うのが、一番ええかなあって思って…ウチ…。」
「ま、そーゆーことじゃねーかと、俺も思ってたんだが…。」

 そんな会話をかわしながら、しばらく足を進めると、今度は、みさきの道場の若い衆に出会った。がたいの良さと発する気で、ある程度の使い手であろうことは、乱馬にも容易に想像できた。
 すれ違いざまに、みさきを見つけると、そいつから声をかけてきた。

「あ、みさきさん。」
「どっか行かはりますん?」
 三人ほどの若い連中が、身を乗り出して、みさきへと声をかけてきた。
「どこって、凍也んとこへ行こうと思ってるだけやけど。」
 あからさまに、嫌な顔をして、素っ気なく彼らの質問に答えた。
「もう、二週間も経ちましたもんなあ…。まだ、忘れられしまへんよな…。」
「でも、気を落としてばかりやったら、観月流のためにもなりまへんで。」
「せやせや、みさきさんは可愛らしーんやし、新しい、恋をしてください。何なら、僕らがお相手してもええですよ。」
「困ったことがあったら、いつでも、僕の携帯にメールしてください。」
「いや、僕もみさきさんのこと、応援していますから。」

 何だこいつらは…。という不快な表情を乱馬は浮かべずにはいられなかった。場の空気の読めなさは、九能帯刀の比ではなかった。九能はくせっ毛を含めて天然だから、仕方がないと思うことが多いが、こいつらには、もっと下衆(げす)なドロドロした下心があるのが見え見えだった。

「大丈夫や。うちは強いさかい。いらん心配、みんなにかけへんから。それより、買い出しやろ?早く行かんと、お父はんが、うるさいで。」
 と吐き捨てると、みさきは、乱馬を促して、たったと足を速めた。


「たく…不愉快な連中だな。」
 乱馬がボソッと吐き出すと、
「ほんまにな!皆、凍也が息を引き取るのを、待っとったんやわっ!」
 憤怒の表情が、みさきを覆った。
「なーにが…みさきさん、僕の携帯にメールしてくださいや!…たく!まだ、凍也が死んで、半月しか経ってないんやで!」
 歩みと共に、みさきのボルテージが上がって行く。
「皆、観月流の当主の地位と財産に、目を眩ませてるだけやんか!それに、誰も、あんたらなんか、眼中にないっちゅーねん!あー、腹立つ腹立つ腹立つーっ!あー、むかつくむかつくむかつくーっ!めっちゃ不愉快やーっ!」
 やや後ろを歩きながら、思わず、乱馬が苦笑いしたくらい、みさきはカッカとしていた。

 そうこうするうちに、凍也のお骨が預けられているという、件(くだん)の寺へと、到着したのである。




二、

 みさきが乱馬を誘って来たところは、四天王寺から谷町筋沿いに少し北に行った寺だった。

 天王寺の阿部野橋を起点に、北に延びる「谷町筋」には、四天王寺を始め、お寺が多く集中しているか所がある。故に、昔から、「寺町」と呼ばれていた。
 大相撲の大阪場所が立つ、春三月は、この谷町筋の寺に相撲部屋が多く間借りして、興業を行ったことから、大相撲のごひいき衆のことを「タニマチ」と呼んだそうだ。


 靴を脱いで、たったかと本堂へと上がる。中は、ひっそりとして、人影は無かった。
 暖房具もなく、外と同じ気温だった。
 御本尊の仏像の名前は知りえない乱馬だったが、拝殿の脇の台座に置かれた、骨壺らしきものが目に入った。金ぴかの錦糸の布がかけられていて、まだ、新仏なのは、一目でわかった。横には戒名がしたためられた白木の位牌が並べられてある。四十九日の法要までは、白木の位牌が使われるのが、セオリーだからだ。
 本尊に一例すると、まっすぐにみさきはその骨壺の前に座した。
「もしかして…これが…。」
 問いかけた乱馬に、みさきはコクンと無言で答えた。
「そーか…。凍也か。」

 みさきは慣れた手つきで、マッチをすると、傍らにあった、蝋燭に火をともした。そして、これまた、慣れた手つきで、線香へも火をともす。
 一瞬、ボウッと選考に火が飛び移り、それを手でさっさっと振って、炎を飛ばす。と、赤い色を先端にだけ残し、線香が煙り始める。
 ろうそくと選考に火がともったことを確認すると、すうっと深い息を吸い込んで、みさきが合掌した。乱馬も一緒に、手を合わせた。
 何を、どう、祈ればよいのか、作法は知らない。でも、心で話しかけた。
『来たぜ…。凍也。俺がわかるか?こんな格好、してるけど、俺は早乙女乱馬だ。』
 そんな言葉を、脳内から吐きつける。
『お前に頼まれたこと、全うしにやって来たんだ。感謝しろよ。』
 などと、語りかける言葉が居丈高になるのも、乱馬らしいところだった。

「凍也、びっくりしたかもしれへんけど、この女の子、乱馬君やで。実は、あっと驚く、変態体質やねん、彼。」
「こら!変態体質じゃなくて、変身体質だって言ってるだろー!みさきさん!」
 思わず、言葉と共に、ジロリと険しい視線をみさきへと投げ返した。
「ほんま…。乱馬君の変身するとこ、あんたにも見せたかったわ、凍也…。」
 みさきを見ると、うっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
 何か、見てはいけないものを見てしまったように、さあっと怒気が乱馬から抜けていく。
 そう、まだ、凍也が亡くなってわずか、二週間が過ぎたばかりなのだ。彼女にとって、最愛の許婚だった凍也と、ここで静かに対面しているのだ。
 乱馬とて、人の子。しんみりとした面持(おももち)になった。
 
 凍也の死に目に立ち会ったわけではない、そして、凍也のお葬式に列席したわけでもない。凍也の死とは隔絶した場所に居た乱馬であった。が、ここへ来て、真新しい位牌と骨壺を見て、一気に、凍也がこの世から消えたことが、変えられぬ現実として、大きく迫ってきたのである。

「凍也…今日は、あんたに、色々言っとかんとあかんことがあるさかいに、今日は乱馬君と一緒にここへ来たんや。」
 みさきは、涙をぬぐうと、ビシッと姿勢を正して、凍也へと語りかけた。
 隣で、乱馬も、みさきの一句一言を聞き逃すまいと、神妙に耳を傾け始めた。
 
 いったい、みさきは、凍也と己の前で、何を語ろうというのか。
 さっき、道すがら、観月流の若い衆に声をかけられる前、言おうとしていた事に違いあるまい。ということは、自分とも関係がある話なのだろう。

「凍也、あんたがいなくなった後、ウチ、道場の中で、一人、孤立してしもーた。もう、誰も、信用できひん。信用できるんは、お母はんくらいや。…他のみんなは、あんたがうちの許婚やったってことすら、無かったことにしようとしてるんやから。」

 そう、最初に言い放ったみさき。その言葉にハッと息を飲む乱馬。

「あんたが生きてるときは、許婚の件を了承しとった、お父はんも、それからおじいはんも一緒になって、ウチに、次の許婚を宛がおうとしてはるんやで!腹立たしいわっ!ほんまに、ムカつくで!」

 はっしと骨壺を睨み据えながら、次々と吐き出すみさきの勢いに、隣に座していた乱馬の瞳が見開かれていく。みさきが話し始めたのは、おおよそ、己には想像だにしていない事だった。

「ちょっと…みさきさん?」

「乱馬君には最初から説明しとかんとあかんな…。うっとこの、観月流の掟についてから、順番に…。」
 そう言って、みさきは、お骨を横に、乱馬の方へと向き直って座りなおした。
 乱馬もすぐさま、結跏趺坐(けっかふざ)を組んで座った。元は座禅の座仕方だ。時折この姿勢で道場で瞑想する時に座るから、乱馬には正座よりも、結跏趺坐の方が身体に馴染んで楽だった。

「お父はんとお母はんの血を受けた子供は、ウチしかおらん。何かいろいろ複雑な事情があって、お母はんは、ウチを産んだ後、不妊になったらしいんや。せやから、観月流派の親戚筋は、お父はんに、外にでもいいから男児を産ませたかったみたいやけど…。お父はんは、そういう、現代社会からかけ離れた封建的な方法はとらはらへんかった。そこらへんは、お父はんも、しっかりとした考えがあったって、尊敬できるんやけどな…。
 でも、やっぱり、腹の中にあるのは、流派第一という考え方が根本にあるに違いない…。だから、凍也とウチを結婚させたかったんも頷けるねん。」

「で、みさきさんは、幼馴染の凍也と許婚になったのはどういういきさつだったんでい?俺とあかねは、親父同志が仲が良くって、勝手に決められたよーなもんだけどよー。」

「観月流では、直系の跡取りが男やのーて、女やった場合、その娘が十八歳になった時に、当主が認めた強い者と縁組して婿養子に迎え、次代の当主として婚儀を執り行う…そういう、決めごとがあるんや。せやから、うちが十八になる直前に、うちと縁組したい流派の未婚の男子を募って競い合わせたんや。」
「ってことは、武道大会みたいなもんを開催したのか?」
「ま、そーゆーことになるな。で、闘いに勝ち上がった凍也がその座を射止めた。」

「へええ…。幼馴染で兄弟のように育った凍也と、自然派生的に許婚になったのかと思ってたぜ。」
 乱馬は驚いて、みさきを見返した。

「割と、早いうちから、うちらは、相思相愛やったは確かやけど…、一族のしきたりを踏んで初めて、公な許婚同志に認められる。それが観月流の掟やったから、凍也もその掟を踏襲(とうしゅう)したまでのこと。
「へええ…。いろんな複雑な事情があるんだな…。」
「乱馬君もわかると思うけど、凍也の強さは、同年代では破格的やったから、軽々、一門のもんを倒して、ウチと許婚になったんやけどな。」
 誇らしげに、みさきが笑った。

「ああ…。凍也は誰よりも強かったろーな。」

 凍也と対決したことがある乱馬は、身体でその強さがわかっていた。
 格闘技の体のピークは、二十代と言われているが、そんな、年齢のギャップなど感じさせぬくらいに、凍也の実力は半端なかった。
(この俺と、同等に戦ったんだ。秋の大会の決勝戦だって、一歩間違えれば、俺の方が負けていたかもしんねえ…。)
 グッと拳を握りこむ。
 だから、余計に、夭折(ようせつ)したことが、悔やまれてならない。

「古い流派によくある話や。強い男と婚姻し、強い跡継ぎを産む。それが、観月流の当主の娘のありかたでもあるから…。」

(似たような話は、どこにでも、転がってるな…。例えば、女傑族もそーだよな。己を負かした男を夫とすべし…とかいう、とんでもねー掟に縛られて、珊璞が俺に固執するのと、変わらねえ掟だぜ。)
 そんなことを考えながら、再び、みさきの話へ耳を傾けた。

「凍也、あんたは、一族の手順を踏んで、ウチと許婚になったのに…。それを、無かったことにしようやなんて…。
 やったら、あの戦いは何やったん?裏観月流の跡目の氷也と、表観月流のメンツを駆けて、戦った、この前の決闘は…。」
 グッとみさきが、声を詰まらせた。

 最後の命の炎を、あの戦いの中に塗りこめて、見事に勝ちを奪って、全うした凍也の雄姿を、乱馬も忘れることはできない。

「ウチな…流派がそうやって、凍也のことを蔑(ないがし)ろにするんやったら、最後まで抗(あらが)うことに決めてん。せやし、凍也…あんたには悪いんやけど…。しばし、ウチは乱馬君と、おじーはんやお父はんの「計略」にはまったフリするさかい…。まずは、それを了承してくれへんかな。」
 きびっとした表情を、みさきは壇上のお骨に向かって、手向けた。

「おい…。それって、どういうことだ?」
 
 話がだんだんと、不可思議な方向へと流れ出したのを感じて、乱馬は、慌てて、みさきへと声をかけていた。「計略」だの「はまる」だの、聞き捨てならない単語が、みさきの言に混ざっている。

「これから、ウチのシナリオを説明するわ。凍也の前で、包み隠さずに。」

 「シナリオ」という、また、意味深な言葉が投げられた。
 みさきの様子から察するに、どうやら、一筋縄ではいかない状態に、既に己も巻き込まれてしまったらしい。
 まだ、事情を飲み込めてはいないにしろ、こうやって、大阪くんだりまで出てきた己は、既に逃れようがなく、その渦中へ身を投じてしまっているらしい。
 結跏趺坐(けっかふざ)のまま、グッと下半身に力を入れる。

「この前、ウチ、お父はんとおじーはんの話、聞いてしもーてん。」
「おじさんとじーさんの話?」
「うん、たまたま、疲れがたまって、二人が話しとった座敷の隣の茶の間のコタツの中で、うつらうつらまどろんでたんやけどな…。耳を疑うような話を、こそこそと二人で話とったんが、丸聞こえやってん。」
 
 ここまでは、まあ、どこにでもある状況だろう。
 内緒話が、実は筒抜けていたという、アレだ。

「で?どんな話だったんだ?」
「まー、一言で言うたら、今後の話やってんけど…。ウチ、疑ごうたわ。凍也の亡き後、観月流の跡取りとして、乱馬君、あんたを迎えようってな…。」

「な…何だってえええっ?」

 思わず、大きな声を張り上げてしまった。

「しっ!ここはお寺さんやで、あんまり大声出したら、怒られるで!」
 みさきは慌てて、乱馬の口をふさぐ。

「ご…ごめん、あんまり突拍子のない話だったから…つい。」
 辺りを見回しながら、小声で謝る。
「ま、えーわ。誰もおらんみたいやし…。」

「でも、俺にはあかねっていう許婚が居るんだぜ。寒太郎じーさんもみさきの父ちゃんも、知ってる筈だろ?」
「そんなこと、重々承知やと思うで…。」
「第一、みさきさんに、俺と許婚になれって…じーさんたちがそんなこと言って来たのかよ?」
「言う訳あらへんやろ…。でも、ガチガチに既成事実を固めて、逃れられへん用に細工して、あんたをウチと結婚させて、観月流の次の当主にする……そんなこと、おじいはんとお父はんが、ぼそぼそしゃべってたんやから…。」

「既成事実だあ?まさか、俺とみさきさんをそそのかして、色仕掛けではめようだなんてこと、本気で考えてんのか?あのじーさんたち……。」

「何、スケベなこと考えてんねん。」
 みさきが、女乱馬の腹を、肘で突いた。

「だって、その、既成事実ってゆーのは…動かぬ証拠写真みてーなのを撮ってだな…。」
「アホかいな…。いくら何でも、そこまで、考えてないと思うけど…。」
「じゃあ、さっき、二人きりに俺らをあの家に残したのは、どーなんでい?」
「あ…。」
「ほれみろ…。ツーショットのやばい写真とか撮るつもりじゃねーのかなあ…。」
「でも、誰の気配もなかったで…。」
「いや、わかんねーぞ…。隠しカメラとか、仕掛けてあるかもしんねーじゃんか。」
「あんた…、結構、気にしいやねんな。」
 ぽそっとみさきが言ったのに対して、
「しゃーねーだろ?事実、そーゆーの、得意な奴に、手玉にとられて、いいように扱われることが、しょっちゅーあるしよー。」
「はあ?」
 乱馬は、あかねの姉、なびきのことを暗に口にしたのだが、ここで言ったところで、みさきはなびきを知らないから、伝わる訳がない。
「あ…。東京での話だよ…。ちこっと、知り合いに、そーゆーのが得意な手練れがいてさー、毎度毎度、はめられて、あしらわれてんだ、俺。」
 ぼそぼそっと吐きつけた。
「なんや、友達の話かいな…。まあ、世の中には、そんな奴が、ぽつりぽつりおるわなあ…。情報ツウぶって、いろんなことに頭突っ込んで、いいように友達を使いまわす、姑息な奴って…。」
「ああ…、まあな…。」(俺の場合、あかねの姉だし…、将来、身内になるから、もっと厄介なんだけど…。)
 苦笑いを浮かべながら、みさきへと返す。

「とにかく…。あんたをうまい具合に口車に乗せて、ウチとの婚儀から逃げられへんよーに、何か企んでることだけは、確かやねん。」
「例えば、どんな?」
「凍也の立会人になった、あんたの立場を最大限に利用しようとか、こそっと言っとったさかいになあ…。」
「あん?どーやって、利用するんだ?」
「うん…こっからが肝心な話なんやけど…。明日、一族があちこちから集まって来て、今後のことを話し合うことになっとるんやけど…。」
「一族会議…みたいなものか?」
「そーゆーことやねんけど…。」
「あの道場に集まってかな…。」
「うん。昨日辺りから、準備に余念がないわ。さっき、道端であった若い弟子連中も、そのための買い出しで、街なか、うろうろしとったに違いないさかいに。」
「で?」
「その会議の中で、あんたのこと、凍也の名代に立てるって提案がなされるはずやから。」
「名代ねえ…。」
「うん…。乱馬君は強いさかい…。凍也の…いや、表観月流の一族の代理として、裏観月流の奴らと、戦わせたいって、おじーはんとお父はんは思ってはるみたいやから。」
「裏観月流って…観月氷也とあのじいさんのことか?」
 コクンとみさきの頭が頷いた。

「あの連中…まだ、みさきさんを娶ることを諦めてねーのかよ。その件に関しちゃ、この前、凍也が決着つけたんじゃねーのかよ。」
 腕を組みながら、乱馬が首を傾げた。

「小声でぼそぼそしゃべってはったから、ちゃんと聞きとれた訳やあらへんのやけど…。まだ、ごねてるらしいわ…裏のじーさん。何か、全国に散ってる、血縁の薄い観月流の傍流の連中にも、裏から手を回して、もう一回、表と勝負させろってうるさいらしいし…。その、矢面に、あんたをぶつけようっていう、腹づもりらしいわ、おじーはんとお父はん…。」
「それなら、信憑性がありそーだな…。凍也が表観月流で、一番強かったんなら…。他に、氷也と戦える力量の奴が居そーもねーしな…ってことで、俺が必要になってくるわけか…。」

「…あんたも、凍也と一緒なくらい、ナルシストな格闘バカやな…。自分のこと、そこまで自信持って強いって言えるやなんて…。」

「うるせー。一応、大会の覇者なんだぜ…。俺は…。凍也にも一回、勝ってるぜ。」
 ムッとして、みさきを睨み据える。
「あんたに睨まれても、怖ないけどな…。」
「なんだとー?」
「だって…。あんたは、あかねちゃんには頭があがりそーやないし。」
「ここで、あいつの名前を出すな!」

「とにかく、氷也とあんたを戦わせて、勝ったらそのまま、東京へは帰さんと、ウチと入籍させようって、本気で考えてるみたいやで。あの二人は…。」

「ありえねえ、話でもないってか…。」
「うん…多分…多分やけど、氷也とやり合う前に、うまい具合に、曖昧な感じで、あんたを口車に乗せて、証文書かして、それを盾にされる…みたいなことになるんやと思うで。あんた、頭、軽そうやから、ハイハイって騙されて、サインしそうやしな。」

「おい…怒るぞ…。それって、俺がバカだって言ってんのと、同義じゃねーのか?」
 ジロリとみさきを流し見た。

「いや、頭がいいとか、悪いとか関係なく、じーちゃんやったら、上手に化かしそうやもん。」
「確かに…。あの、タヌキっぷりは、相当、年季が入ってるだろーな。じゃねーと、大きな流派は牛耳れねーだろーし…。」
 うんうんと、乱馬は頷いた。
 一癖も二癖もありそうな寒太郎のことだ。若者を口車に乗せることなど、お茶の子さいさいだろう。

「ま…安心して。どんな口車に乗せられようと…ウチはあんたと結婚するつもりは、さらさらないし。」
「はっ!俺だってごめんだね!凍也に化けて出られたら、おっかねーし!」
「おっかないのは、凍也の幽霊やのーて、あかねちゃんの生霊とちゃうん?」
「うるせーよ!あいつのことは、今は関係ねーだろが!」
「関係ない…なんて、思ってないやろーに…。でも、表観月流の直系として、頼むわ。芝居でええから、おじーはんらに騙されたふりして、表観月流の名代として氷也と闘って。」

 がばっとみさきは、乱馬に向かって、三つ指をついて、その場に平伏す。

「お…おい、みさきさん。」
 慌てたのは乱馬だ。
 いきなり、低姿勢でみさきが、三つ指をついて深々と頭を下げている。

「お願いや。ウチが凍也と添い遂げられるように…手を貸して欲しいねん。」
 まだ、頭を下げたまま、みさきが、奇妙なことを口走った。

「って…。おい、みさきさん。凍也の奴はもう、この世から居なくなったんだろ?何だ?その、凍也と添い遂げるって…。」

「そのままの意味や。」
 みさきは、床の上から、乱馬を見上げて、そう吐き出した。瞳はギラギラと強い光を宿している。

「乱馬君が、氷也とやりあって、勝った暁には、ウチは凍也と添い遂げることができるねん。」
「お、おい…。凍也の奴は、死んじまったじゃねーか。死んだ奴とは入籍できねーぞ。」
 とこれまた困惑気味に、言い放つ。
 深く下げていた頭を起こし、みさきは、にっこりと乱馬に微笑みかけた。
「それは大丈夫。うちも凍也も同じ「観月姓」やもん。」
「そういう問題じゃねーだろっ!」
 乱馬は思わず、苦笑いしていた。
「凍也と添い遂げるってことは…。一生、他の男とは結婚しねーって意味なんだろ?そんなことしたら、表観月流の跡目はどうなるんでい?凍也にこだわって、生涯、おめーが結婚しないとなると…その、いろんな問題が生じるんじゃねーのかよ。」
 と率直に尋ねた。
「だから、ウチは凍也と添い遂げるねん…。それで…ええって言うてるやん。」
 みさきは、ほっと言葉を吐き出した。
「意味わかんねーぞ!おめえ…さあ、結婚して跡取り産まなきゃ、なんねー身だろ?そんなことしたら、おめーの代で観月流が終わってしまうんじゃ…。」
 と畳み掛けた乱馬に、みさきは、ふっと泥んだ顔を手向けた。

「大丈夫…。跡取りなら、ここに居るさかい…。」
 
 そう言いながら、すっと、己のお腹を指さした。

「はあ?」

「せやから、跡取りはここに居るんやって。」

「なっ!」
 乱馬の動作と声が、そこで、止まってしまった。
「みさきさん…まさか…。」

「そっ!ここに凍也とウチの愛の結晶が入ってるんや。」

「な…なんだってえ?」

 再び、瓦屋根が落ちてきそうなくらい、大きな女乱馬の怒鳴り声が、本堂の中を響き渡っていった。



つづく




一之瀬的戯言
 実はここに至るまで、何度か、ごっそり書き換えました。長いブランクから書きかけては止まっていましたが、そのたびに、導入部を悩む。
 以前、呪泉洞へ掲載していたお試し版を読んだ方ならわかると思いますが、最終稿も、ごっそり書き換えて、登場人物の性質が、結果、第二部までとはまるで別人格へと走りだしてしまいました。その確たるキャラが「観月寒太郎」。みさきと凍也のお爺さんです。



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