◆天高く 第三部
第二話 くちづけに込めた想い



一、

 大阪へ向かって、一路、夜行バスは夜道を走り続ける。
 
 長距離の夜行バスは初めての体験だったが、思ったよりもゆったりとしたシートでゆっくりと座れた。毛布を借りてそれを引っかぶって寝る。
 辺りはサラリーマンやら学生やら。東京大阪間という幹線バスなので、それなり乗客は多く、三列シートの殆どが埋まっていた。
 新宿のバスターミナルを出発すると、乗客たちは適当なころあいを見計らって、ランプを消し就寝する。目的地の「なんば」へ到着するのは早朝だ。それまで、寝て過ごすのである。
 窓辺の座席。乱馬は、頬杖をつきながら、眠れぬまま、カーテンを開いてぼんやりと窓の外を眺めた。昼間は動かない東京の幹線道路も、さすがに夜中近いとすいすいと走り出す。東京の夜景が煌々と瞳に映し出される。
 これから行く大阪や、立って来た天道家へと思いを馳せながら、車窓を眺めていた。

 あの格闘大会から、ひと月ほどしか経っていないにもかかわらず、再び、大阪へ旅立つことになったことを振り返る。

(たく…。みさきさんは、裏観月流や氷也のことも知ってたくらいなんだ。凍也の身体のことを、感づいていてもおかしくはなかったんだよな…。)

 ぼんやりと景色を眺めながら、対氷也戦の翌日、あかねが決勝戦に臨んでいた折、みさきと寒太郎爺さんと話したことを思い出していた。

『お爺はん、乱馬君、うち、悪いけど、殆ど全部、知ってるねん…。凍也の病気のことも含めてな。これ以降、うちに隠し事はしんとって欲しい。』
 ぎょっとしてみさきを振り返る、寒太郎老人。
『当然やん。凍也の様子が変やってことは、夏過ぎた辺りからずっと、引っかかっててん。』
 いつも傍に寄りそう許婚だからこそ、気付いていた異変。乱馬から見れば、みさきが凍也の異変に気付いていても何ら驚きはなかった。
 同じようなことが、あかねに起こっても、自分は気付けたろうし、気付けるだけの鋭さは持ち合わせていると自負している。
『たく、水臭いわ、凍也の奴。そら、うちがショック受けたらあかん…って、気ぃつこーて、隠し通すつもりやったみたいやけど…。いつも一緒に居るうちが、感づかへんわけ無いっちゅーねん!』
 怒ったように言い放ったみさき。
『お爺はん、うちのことなら気にせんでええで。凍也のアホがどうなっても、既にそれなりの覚悟、できとるさかいにな。せやなかったら、観月流の名は継がれへん。それは、うちが一番ようわかってる。』
 みさきの決意に溢れた顔を見て、これ以上、隠し立ては無用だ。そう悟った乱馬だった。

 その後、寒太郎老人に、凍也が居なくなった後の事を頼まれた乱馬。

『みさきは、ああ言ってますが、なかなか、どうして。流派にはガチガチの奴らが多いさかいになあ…。凍也が居なくなったらなったで、いろいろとあるのは自明の理。裏観月流も氷也も、このまま大人しく引き下がるとは思えんし…。
 乱馬君、ほんまはこんなこと頼めた義理やないんやけど…。』
 そう戸惑いながらも、言葉を継ぐ老人の深い皺が、痛々しく見えた。逆縁ほど、辛いことはなかろう。手塩にかけた孫の許婚が、不治の病に苦しむ姿など、寒太郎老人も見たくはなかろうに。

『爺さん、わかってるよ。そのゴタゴタの一切合財含めて、俺は、「立会人」を引き受けたんだ。…どこまで力になれるかはわかんねーが、手を貸すぜ。』
 あかねの決勝戦の時、そんな風に寒太郎とみさきに言い含めていた。
『凍也がいよいよあかんとなったら、あんさんを大阪まで、再び呼び寄せることになる思いますが…。』
『かまわねえーさ。幸い、風林館高校は三学期は自主登校だし、卒業後、俺は修行の旅に出る予定にしてっから、当面、こうしなきゃなんねーっつう予定は無え。だから、自由に動けるしな…。』
『そう言っていただけると、ありがたい。』
 涙声になりながら、拝みこむ爺さん。みさきはただ黙って、乱馬と爺さんのやりとりを聞いていた。本当はやり切れぬ思いで一杯だったろうに。


 爺さんが口にした「いよいよ」という事態。
 遂に、その日が来てしまった。


『凍也…。おまえさあ…あんまりに早すぎたんじゃねーのか…。くたばるのが…。』

 自問自答を繰り返しながら、乱馬は窓の外をぼんやりと眺めていた。
 用賀インターから東名高速に入った。ここから一路、高速で大阪へと走って行く。
 そこここから寝息がこぼれ始めた。少しでも休んでおかねば、明日がどうなるかわからない。そう悟った乱馬は、周りに気遣いながら、ゆっくりとカーテンを閉めた。
 エンジン音に耳を澄ませ、揺れに身を任せて眠ろうとしている中で、不意に己の名前を呼ばれたような気がした。

『乱馬。』

 柔らかな懐かしい声。

(あかね…。)

 つい、数時間前に別れて来たあかねの声。

(おめーも、やっぱり、眠れねー夜を過ごしてるのかな…。)

 ふっと、天道家を出る前、あかねと対峙したときの情景を思い浮かべた。


 アルバイト先に、今夕限りの暇を申し出て来た。いつもは、午後十時前まで働いているが、今夜立つと決めていたから、事情を説明し、午後七時半まで働いて、早めに辞して、天道家へと戻って来た。
 十時には天道家を出なければいけないから、これでも、ぎりぎりラインだ。
 とっくに前から荷物整理は終わっていたにしろ、最終チェックもあるし、夕飯も食べておきたかった。
 夜行バスには集合時間もある。

 帰ると、ごはんより先に、二階へと駆けあがっていた。
 あかねに、きちんと、大阪へ行くことを報告するためだ。

「精が出るな。」
 徐にドアを開いて、あかねの部屋に入った。
「ちょっと、あんたねえ…ノックくらいしなさいよ。レディーの部屋へ入る時くらい。」
 ぷくっと膨れた声が返って来た。
「したぜ。耳に入んなかっただけだろ?たく…。」
 乱馬がふっつりと言い放った。
「ん…。ほれ。」
 そう言いながら乱馬は、あかねに白い包み紙を差し出した。
「何?これ…。」
 赤い文字で「上」と書かれた白い包みだった。折られた袋のふちを開いてみると、中から赤い布切れで作られたお守りと青いお守りが二つ。

「氏神さんのお守りだよ。大願成就のな…。ほら、ありがたく受け取れ!」
 照れ隠しに、無愛想に言い放った。
「ありがとう…。でも、なんで二つあるの?」
 あかねはお守りをしげしげと眺めながら、切り返す。
「たくぅ…。鈍い奴だな…。よく見ろよ。」
 促されて、お守りをしげしげ眺めたあかねの顔が、ポッと薄桃色に染まった。

「ペア御守」
 そんな文字が、お守りに踊っていたからだ。

「これって…。」
 耳まで真っ赤になったあかねが、切り返して来た時、コクンと一つ、頷き返して、青い方のお守りを、すっくとつまみ上げた。
「そーゆーこと。一つはおまえんで、一つは俺のだ。わざわざ、貰ってきてやったんだ…ご利益はあると思うぜ。」

「うん…。ありがと…。でも…。」
 そう言いながらあかねは、お守から乱馬へと視線を移した。

「でも、何だって急に?」
 そう問いかけたあかねに、乱馬は静かに言った。
「ああ、ちょっとな…。俺、今夜、大阪へ行くことになったんだ。」
 とすぐさま、切り返した。

「え?」
 あかねの顔が、にわかに、こわばった。
 何を言っているのか、一瞬、耳を疑ったようだ。
「今夜、大阪へ?どーして?」
 つぶらな瞳が大きく見開いていく。

「実は、観月流の爺さんとみさきさんから、ちょっとの間、道場を切り盛りするの手伝ってくれねえかって頼まれてさ…。ほら、凍也がまだ完全に立ち直ってねーから、いろいろあるみたいなんだ。あそこの道場、ここと違って、でかいし弟子もたくさん居るだろ?何か、流派の行事もあるから、凍也の穴を埋めてほしいって頼まれたんだよ。」
「ここと違ってってのは余計よ!」
 ちょっと睨みながら、あかねが乱馬を見やった。
「おめーには、言ってなかったけど、東京へ帰る前にも、凍也からも、頼まれてたんだ。正月過ぎたら、流派の行事が目白押しで、いろいろ大変だから、もし、俺がまだ復帰できてなかったら、手伝えってな。泊めてやったんやから、その分、頼りにしてるからな…ってよー。たく…。」
「そーだったの…。知らなかったわ。」
「みさきさんも別れ際に言ってたろ?覚えてねーかな。」
「んー、そんなことを言ってたような気もするわ。」
「言ってたぜ、のそみに乗る前にな…。」

「…ってことは、凍也君、まだ病院に居るの?ひと月もあれば、退院できるでしょ?重症じゃなかったら。」

 にぶいあかねが、にぶいなりに、乱馬へと疑問をぶつけてくる。少し、心配げな表情を浮かべた。
 ちょっと、しまった…と思った乱馬だが、咄嗟にとりつくろう。

「氷也にやられた傷が、深かったみてーでさー、まだ、治りきってねーみたいだぜ。氷也の奴、結構、無茶苦茶やりやがったからな。完全に治すのに、春までかかりそーなこと言ってたぜ。ほれ、おめーだって、秋口、足をやられたとき、結構、かかったろ?あれと同じなんじゃねーか?」
「ふーん。そーなんだ。みさきちゃんも大変ねえ。」
「ああ…。で、その、どーにもならなくなってきてるみたいでさー。夕方、電話口で来てくれって頼み込まれちまったんだよ。まー俺は受験は関係ねーしな…。」
 とわざとらしく、明るく言い放った。
「そっか、夕方の電話って、みさきちゃんからだったんだ。」
 集中していても、電話の呼び音くらいは耳に入るようだ。
「いや、寒太郎じいさんからだったよ。…おめーには悪いとは思ったんだが…その…、断るのもなんだしな…。引き受けて、すぐに発つことにしたんだ。ほら、他の流派がどんな道場経営しているか、俺だって興味あるし…。」
「悪かないわよ。別に、あんたは入試を受ける訳じゃないものねー。それに、あんたが居なければ、珊璞たちが家に押しかけてくることもなくなるだろーし…。あたしにとっては、静かな環境ができるから、むしろ、がありがたいわよ。」
 動揺を隠したいのか、乱馬の瞳から視線を外して、泳がせたまま、あかねは言い放った。

 本当は傍に居て欲しい…あかねは己の本当の気持ちを即座に押し殺してしまったようだ。
 それが精いっぱいの虚勢であることは、乱馬にも良くわかっていた。
 
「いつまで大阪に居る予定なの?」
「さあ…ま、遅くても、三月の卒業式までには戻る予定だけど。」
「そんなに長引きそうなの?」
「だから、わかんねーって。行って様子みてみねーとな。案外早くに戻れるかもしれねーし。それより、おまえはとにかく、入試突破だぜ。ま、浪人することにはなんねーとは思うがよ。」

「そーね…。頑張らないとね…。」
 寂しげに笑い返したあかねに、心がキュンと唸りを上げた。

 それまで、耐えていた想いが、一気に逆流し始める。

「ごめん…あかね…。」
 そう言いながら、乱馬はがばっとあかねを両脇から抱きかかえてしまった。座っていた椅子から、容赦なく引きはがし、己の胸の中に沈めるように、ギュッと抱きしめた。
 あかねは、唐突の乱馬の行為に戸惑いつつも、抵抗という言葉が、抜け落ちてしまったようで、じっとしていた。
 筋肉質な肉体ですっぽりと、愛しき者の柔らかい身体を覆い尽くす。乱馬の腕の中で、あかねの心臓が激しく鼓動を打ってくるのが、面白いくらいにわかった。

(このまま、どこかへ連れ去りたい…。)
 男なら、一度は抱く想いに、身も心も締め付けられる。
 が、それはできない。ギリギリのところで踏ん張った。

「大阪へ立つ前に…あかね…少し…少しだけでいい、このままでいさせてくれ…。」
 柔らかな声で耳元で囁きかけるのが、やっとだった。
「うん…。」
 音にならない声で頷かれ、また、キュッと力がこもったように思う。いや、むしろ、こもったのは、力ではなく、熱気だったかもしれない。

 ほんの、数分、否、数秒が、永遠のときめきの中に居るように感じられた。

(覚えておきたい…しっかりと…この、あかねのぬくもりを…。)

 乱馬の想いには、一縷の曇りも邪念も無い。純粋に、愛しき者の柔らかな感触を、身体で覚えておきたかっただけだ。

「離れていても、俺の想いはいつもここにあるから…それだけは忘れねーで…試験、頑張れよ。」
 頭の上から、あかねへと囁きかける。
「う…うん…。ありがとう。あたしも頑張るから…乱馬も頑張ってね。」
 腕の中で返事を返すあかね。
 抱きしめていた腕を少し緩めて、頬へと右手を添えた。

「ああ…。俺も頑張れるように…あかねの想いも、ちょっとだけ連れて行くぜ…。」

 そう言って、そっと合わせた、淡い唇。
 柔らかな薄桃の唇をついばみ、吐息と共に、あかねの想いを吸い上げた。
 そして、最後に自分の想いも、あかねの中へと残すように、注ぎ入れた。


 数十秒の甘いときめき。
 そう、確かに、あかねの想いが唇を介して、心に流れ込んで来たように思う。

 今も、唇あたりに、熱がこもっている。

(あかね…。待ってろ…。何があっても、俺は、戻るから…。)

 徐に、胸に結わえてある「大願成就」と書かれた青い御守をそっと触った。
 あかねの胸には、赤いお守りが同じように結わえられているだろう。

 深くシートに腰をうずめると、そのまま、眠りへと落ちていく。



二、

 そのころ、あかねも、クンと大きく伸びあがり、寝返りを打った。
 「六当五落」という言葉があるが、五時間きりの睡眠時間を通して勉強にいそしむなど、多分、あかねには無理な話だ。最低でも七時間寝たい口だった。
 天道家は元々、静まり返るのが早い。あかねも、十一時には寝床へと入る。きっちり七時間は、睡眠を取り、六時過ぎには起き上がって、新しい一日を始める。
 日課にしていたロードワークはさすがに控えているが、起き抜けに、道着に着替えて、軽く身体を動かすことは忘れなかった。

『受験時間に体内時計を合わせておかないと、案外、脳が働かないわよ。』
 と、なびきがごく当たり前なアドバイスをしてくれていた。

 規則正しい生活リズムを崩すのは、良くないと、自分でもわかっていた。
 が、なかなか寝付けない夜もある。

 今夜がそうだった。
 しかも、乱馬が急に大阪へと旅立っていったのだ。

(今頃バスは、どこを走ってるのかな…。東名高速にはもう乗ったわよね。東京を離れて、神奈川に入ったかな…。)
 ちょこんと布団から顔を出して、思いを馳せる。

 もちろん、彼女には、乱馬の大阪行きが意味する、本当のことは知らない。
 鈍いあかねだ。小指の先も、凍也の病には、感づいていなかった。


 乱馬も、あかねだけではなく、早雲や玄馬、のどか、には、「まだ怪我で復帰できていない凍也の代わりに、観月流の道場を手伝って欲しいと言われた。」という表向きの理由を話しただけだ。
 本当の事情を知っているのは、かすみとなびきだけである。かすみもなびきもあれでいて、なかなか口が堅い。最初はかすみにだけ言っておくつもりだったが、鋭いなびきには隠し事は通用しない。そう思いなおして、二人に言っておくことにした。ちゃんと、なびきに事情を打ち明けて、釘を刺しておいた方が、かえって変に探られず、あかねに伝わらずにいられると考えたのだ。
 もちろん、なびきのことだ。口止め料を要求された。が、背に腹は代えられなかった。
 受験の正念場を迎えているあかねには、一切何事も告げないでくれ。と、しつこいほど二人には言い含めていた。


 長い接吻を終えると、乱馬はあかねの部屋を出て、遅めの夕飯を食べ、出立の準備にとりかかっていた。
 
「何日間になるかわからないからね。着換えは多めに持っていきなさいよ。」
 のどかが母親らしい気遣いを見せ、荷物の最終チェックを手伝っていた。
「んなに要らないよ。必要なら向こうで買えるし…後付でかすみさんに荷物を宅配便で送ってもらうように頼んだから。」
「お金が必要なら、いつでも言ってきなさいね。銀行のキャッシュカードは絶対に持っておくのよ。」
「いちいち言われなくてもわかってるって…。」
 仲睦ましい母子の旅支度。父親の玄馬は、何の手助けにもならず、パンダの図体を持て余しながら、ただ乱馬の周りをうろちょろするだけだった。
 あかねは、急な乱馬の出立にバタバタしている家族たちを眺めながら、茶の間に下りてきて、単語集を片手にそらんじていた。
 部屋に閉じこもって、机に向かっても、今夜だけは集中できそうになかった。旅立つ許婚の傍に、少しでも近いところに居たいという、精一杯の乙女チックな行動を発動させていた。

 乱馬が居なくなれば、天道家は火が消えたように静かになるだろう。

 彼を追い求めて、珊璞や、九能小太刀、久遠寺右京といった「自称許婚候補」たちの来訪や、九能や沐絲、良牙のちん入も、ぴたりと止まるだろう。
 正直、ここのところ、乱馬を求めて天道家に押しかけてくる、三人娘の節操のなさには、辟易していた、あかねだった。大阪の遠征から帰って来た辺りから、彼女たちの争奪戦は、今までより凄みが増していたようにも思った。
 大阪行き以来、優柔不断な乱馬が、あかねとの許婚を容認する方向へと態度を、緩やかながら、転換し始めたことに、彼女たちなり、「危機感」を覚えていたようだ。
 大阪から帰って、暫くは好いムードを醸し出していた。が、日を追うごとに激しくなる、彼女たちの前では、乱馬も表向きには、「優柔不断」に逆戻りしていた。 
 恋は盲目。
 追い求める方はそれなりに、「必死」にならざるを得ない。あの手、この手で乱馬に言い寄って来るのである。
 ただ、誰も居ないところでは、優柔不断さは身をひそめ、時折、優しさを見せてくれるようになっていた乱馬。相変わらず、奥手ではあったが、囁かな愛情を見せてくれた。
 二人の距離が縮まったことを、一番感じていたのは、あかねだった。
 今回、乱馬が大阪行きを決断した背景には、あかねの入試への影響を少なからず省みた結果なのではないかと捉えたあかねである。乱馬が天道家から居なくなれば、少なくとも彼女たちは天道家に用はなくなる。受験に集中できるように、乱馬なりに気を遣ってくれたのではないかと、思えた。

(別に、三人娘たちが乱入してきたって、あたしには影響ないし、気兼ねなんてする必要はないんだけどな…。)

 準備に余念無い乱馬をちらちら見ながら、参考書片手に、そんなことを考える。
 あかねにしてみれば、乱馬が天道家から居なくなる事の方が、大いに気になった。
(ううん、ダメよ、今は集中しなきゃねー。乱馬も精一杯、気を遣ってくれたんだし…。あたしはあたしの道を進むべく、今は入試に向けて頑張らなきゃ…。)
 ぐっと腹に力を入れて、再び、単語をそらんじる。

 まさか、乱馬の大阪行きには、もっと深い重大な意味合いが含まれていようとは…その時のあかねには、予想だにできないでいた。

 時計の針が十時を指す前に、乱馬は天道家を出発した。

 天道家の門戸の前に、ずらっと並んで、揃って、乱馬を見送りに出た。

 あかねも勉学の手を止めて表へと出た。普段着の上に、分厚いハンテンを着こんでの見送りだ。白いと息が口元から漏れるくらい、寒い。
「ちょっとの間、留守にするだけなのに、大げさ過ぎるぜ…。」
 送り出される乱馬は、明らかに照れていた。

 あかねに対して、ちらっと視線を流した乱馬に、つい、あかねは、頬を赤く染めたてしまった。
 まだ、生々しい熱い記憶がぐるぐると脳裏を駆け巡る。
 奥手の彼からは信じがたいほどの、情熱が籠った抱擁だった。
『あかねの想いを連れて行く…。』
 そう言って、求められたキス。まだ、あの時の、ドキドキが胸の中で脈々と波打っていた。

 連れて行かれた想い…それだけではない。逆に乱馬から流れて来た想いが、胸の中に留まってしまっている。唇にも、乱馬のくちづけの熱がまだ生々しく残っている。唇を通して入って来た乱馬自身の想いが、体中を駆け巡っているようで、まだ、胸は時めいていた。

「んじゃ、行ってきます。」
 と一同に向かって言い放つ。そして、ぺこんとお辞儀をすると、くるりと背を向けた。
 着替えなどの荷物を詰め込んだリュックを背に、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。
 バスの出発地は新宿だ。そこまでは電車で出る。

「いってらっしゃーい!」
 手を振り見送る家族たちに、後ろ手に手を振りながら、元気に道を進んで行った。

「乱馬君もいろいろ大変みたいねー。」
 と、なびきがあかねの肩をポンと叩く。
「あんたも、さっさと合格決めなさいよ。早く決まればあんたも、大手を振って、大阪へ行けるだろうから。」
「あたしが行ったって…何の足しにもならないんじゃない?」
 あかねはぷくっと膨れっ面で姉を見返す。
「まーそうかもしれないけど、乱馬君だって、あんたが居た方が、本当は心強いんじゃないのかしらねー?」
「どういう意味よ、それ。」
「深い意味なんてないわよ…さて、あまり外に長居してると、風邪引いちゃうわよ。」
「受験生に風邪は大敵よ。早くお家に入りましょうね。」
 とかすみが促して来た。
 びゅううっと空っ風が吹き抜けて行く。それに混じって、白いふわふわが空から零れ落ち始める。
「あーあ、雪、とうとう降って来ちゃったわー。こりゃ、寒くなるわ。」
 と、なびきが空を眺めている。
「お父さん、ストーブに灯油、入れておいてくださいなー。」
 と、かすみが父親たちに声をかけている。広い日本家屋の天道家だ。だるまストーブも幾つか使っている。原油高でも、それでも、光熱費としては「石油ストーブ」が一番安い。オール電化など夢のまた夢の天道家。
「早乙女君は良いねえ…天然ウールに覆われているからねえ…。」
「パーフォ!」



 ふっと、そんな、光景が、鮮やかによみがえる。
 あれから、三時間も経っていない。

 なのに、乱馬が遠くに行ってしまった寂しさが、しんしんと冷える部屋から、寒さと共に降りてくる。

 それにしても、何故に、ここまで心が乱れるのだろう。
 乱馬を大阪に行かせてよかったのか。
 漠然とした不安が、さっきから頭を横切っていく。それはあかねの「予知」だったのかもしれない。

「乱馬…。あたし、頑張るから…。待ってて。吉報を大阪へ届けるから。届けに行くから!」
 あかねはぎゅっと乱馬が手渡してくれた赤い「大願成就」の御守を握り締めた。

 いつも手放さずに持っておこうと、引き出しから毛糸を出してきて、すぐに首に結わえた。いや、正確には、乱馬に結わえて貰った。不器用すぎて、上手に御守に毛糸を通せなかったあかねに業を煮やした乱馬が『貸してみろ、俺がやってやる。』そう言って結わえてくれたのだ。あの長いキスの後に。

 この御守に、乱馬の残して行った想いが籠ったような気がした。
 
「寂しくなったら、これに触れば、ちょっとは元気が出るかな…。」

 手にした御守をしみじみと天井に翳しながら、そんなことを考えた。

「乱馬…。あたしも頑張るから…。あんたも頑張ってね…。おやすみなさい…乱馬。」
 乱馬とのくちづけを思い出しながら、そっと唇を御守にあてた。



三、
 
 バスの揺れが心地よく、うつらうつらといつの間にか、まどろんでいた。その気は無くとも、睡魔に引き込まれていく。
 が、身体を完全に伸ばして眠る布団ではない。硬いシートに背中ごと押し付けられてまどろむのだから、多少の苦痛が伴う。どこでも寝られると自負している乱馬であるが、眠りは浅かったようにも思う。


 辺りを見回すと、真っ暗な車内。まだ日は昇らず、明けぬ夜空が窓の向こう側には広がっている。

 少し肌寒く思えて、毛布をすっぽりと引っかぶる。車内は暖房が効いていたが、それでも、窓から伝わってくる空気は冷たい。
 そうこうしているうちに、再び降りてくる睡魔。目を閉じて眠りの淵に身を任せた。

 次に気がつくと、バスは目的地近くまで迫っていた。
 到着を知らせるアナウンスが車内を駆け巡る。乗客たちは思い思いに、荷物を整理し始め、ざわつき始めていた。乱馬も一度、背もたれに大きく上体をそらし、軽く固まった身体をほぐしにかかった。必要以上に不自然な力が、肩や腰に入っているように思えたからだ。
 そうこうしているうちに、バスは目的地へと到着した。

 難波のバスターミナル。大阪のバスターミナルの中でも、梅田と同等大きいバスターミナルだ。商都大阪に相応しく、日本中から人が集まって来る。東京ほど集中していないとはいえ、それでも人の数は多い。
 バスが到着すると、みさきがバスターミナルで乱馬を待ち受けていた。
 まだ、夜が白みだしたところの新しい一日。空気も冷たく、寒い。朝早いにも関わらず、みさきはじっと佇んで乱馬を待っていたのだった。


「みさきさん、わざわざ来てくれなくても良かったのに…。」

 驚いて乱馬が彼女を見やった。一緒に乗ってきた乗客たちは、それぞれの場所を求めて、一斉にバスターミナルから散り始める。まだ、早朝六時半過ぎ。それでもぼちぼち、旅人たちとは別に、朝早いサラリーマンや学生たちの姿が、ターミナルを行き交い始めている。大都会の朝は早い。
「あかねちゃんのお姉さんって名乗る人が、夕べ、家に電話くれてなあ…。乱馬君の到着予定時刻を教えてもろたさかいに、迎えに来てん。すすんで来たんやから、気にせんとって。」
 どうやら、かすみかなびき辺りが気を回して、みさきに連絡を取ってくれたようだった。
「そっか…。気を遣わせちまって、悪かったな…。」
 そう言い返しながら見下ろすみさきの瞳を見て、ハッとした。
 しばらく見ないうちに、みさきが少しばかり、痩せたように見えたからだ。いや、痩せたというより、やつれた…といった感じだった。明るい雰囲気も、どことなくひずんで見えた。

 と、同時に、嫌な予感が脳内を走った。


「みさきさん…。凍也は?凍也はどうしてる?」
 乱馬の問いかけに、みさきは無言のまま一つ、コクンと頷いた。

「もう、凍也はおらへん。手の届かんところへ旅立ってしもうたわ。」

 ゆっくりとかみ砕きながら、みさきが答えた。その言葉に、暫し我を忘れて、みさきを見やった。

「そーか…。やっぱり、往ってしまったのか…。凍也の奴…。」
 全身から力が抜けていく。
「詳しいことは、おじーはんのところへ行ってから話すわ…。乱馬君が着いたら、連れてきなさいって言われてるさかいに…。」

 とぼとぼと二人、歩き始めた。
 難波と天王寺はそう遠くない。地下鉄御堂筋線でも、二駅だ。
「そろそろ通勤ラッシュが始まるさかいに…歩いてもええかな?」
「あ…ああ。別にかまわねーぜ。」
 朝早いとはいえ、平日だ。スーツ姿のサラリーマンが、ちらほらと目立ち始めている。
「みさきさん、学校は?」
「うっとこも、自由登校や。うちも、受験組やないから、特に通わんでもええねん。それに、色々あったから、もう卒業式まで行かんとこって思ってるねん。」
「そーか…。」
 口が重いのは、やはり、凍也のことが、どこかに引っかかっているからなのだろう。

「凍也の奴…。いつ…。」
 そう噛み殺したように吐き出した乱馬に、みさきは丁寧に答えた。
「先週の話や。」
 その言葉に、ハッと息を呑む。
「そんなに前のことだったのか…。」
 力なく、それに応じる。
「まだ、松の内も取れてへんかったしな…。正月から、陰気臭い報せもなんやって思ったんと、凍也、あれでいて、勝気やったさかいにな。乱馬君に死顔は見せたくないって言っとったから、その言に従って、知らせんかってん、ごめんな。」
「みさきさんが謝る必要はないぜ。俺だって、あいつの死顔なんか、見たくなかったし。」
 ぼそぼそっと歯切れ悪く、乱馬が言った。
「ほんまは、もう一度、乱馬君に会いたがってたんやけどな…。いろいろ、周りがごたついてたさかい、それも、かなわんかったわ。」

 おそらく、乱馬からは計り知れない、観月流のお家の事情があったのだろう。

「凍也、氷也の奴に、痛めつけられたさかいにな…。結局、手術もできずに、往ってしもーてん。」
 ぽつんとみさきが投げた。
「……。」
 それには答えずに、沈黙していると、
「ほんまに、あんなになるまで、己の身体、ほったくって!凍也の奴、アホやわ。」
 と吐き捨てた。
「で…最期は?」
 聞きにくいことではあったが、心を鬼にして、尋ねてみた。
「安らかに往ったわ。疲れたから少し眠らせてくれって…。」
「じゃあ、みさきさんは最後を看取った…んだな?」

 コクンとみさきの頭が縦に揺れた。

「そっか…。」
 小さな溜息を吐いて、ふっと空を見上げた。
 空はまだ暗く、ようよう東雲(しののめ)に光が差し込めてきたばかりだった。心なしか、東京よりは日の出の時間が遅いようにも思った、吐く息も白い。が、幾分か、東京よりは暖かい気がした。
 もう、凍也がこの世から居なくなって、一週間が過ぎ去っていたことに、正直、衝撃を受けた。
 もっとも、連絡がなくても、当たり前である、親戚筋でもないし、友達になってまだ日も浅い。おそらく、みさきは、あかねが受験生であることに気を遣って、初七日が終わるまで、知らせることを良しとしなかったのだろう。そう思った。

 繁華街を抜け、天王寺近くに来る頃には、すっかりと夜も明けていた。
 見覚えのある通りを横切り、さっと路地裏へと入った。

「おじいはーん、乱馬君、連れてきたでー。」
 ガラガラっと引き戸を開いて、みさきは玄関先から奥へと声をかけた。
 

「ようこそお越し下さった…。遠いところ、わざわざすまんのう…。乱馬はん。」
 中に居た爺さんが、乱馬へと声をかけた。
「あの…その、おはようございます。」
 どう、挨拶してよいかわからず、つい、そんな言葉が乱馬から漏れた。
「そんなしゃちほこばった挨拶はええから、早くお入り。」
 奥から出てきた爺さんが笑った。
 寒太郎爺さんも、みさきほどではないにしろ、少し、やつれたような気がした。
「ささ、あがってーや、乱馬君。」
 みさきにも促されて、大きなリュックをドサッと玄関先に下ろした。

 ガタガタと表を車が通り過ぎるたびに揺れるガラス戸は、前来た時のままだ。ひっそりとした佇まいの中に、天道家とは違う趣がある小さな瓦屋根の二階建ての家。古き良き時代をそのまま生き長らえてきた、ガタぴしの家。
 それが、寒太郎翁の隠居屋だった。


 靴をぬぐと、爺さんは乱馬をまず、階段へと誘った。天道家の半分くらいの幅しかない、急な階段が据え付けられている。それを上ると、三畳間と六畳間の続きの和室があった。
「大阪に居る間は、気兼ねなく、二階のこの二部屋を自由に使うてくだされや。」
「ああ、そうさせてもらうぜ。」
 乱馬はどっかと荷物を降ろして座り込んだ。二階の六畳間が、これから暫くの間、己の居城となる。
「布団は押入れや。みさきも、布団の上にちょっと横になりなさい。おまえも、ここんところ良く眠れてへんかったやろ?ゆうべも遅かったみたいやし…。眠れなくても、じっと横たわっているだけで、身体は休まるさかいに。」
「ん…。そうさせてもらうわ…。夕べ遅かった割には、朝早かったし、まだ眠いねん。」
 みさきはそう言うと、布団を押入れから引っ張り出し、その上に身体を横たえた。
 きっと、凍也のことで、まんじりともできない夜が続いていたのだろう。横になると、すやすすやと寝息がこぼれ始める。

「ずっと、凍也の傍につきっきりで、毎夜、病院に詰めて居ったなかで、凍也が急に往ってしもーたさかいに、眠れん日が続いとったみたいやからなあ…。みさきの無礼を許したってな。」
 襖を閉め、階段を下りながら、寒太郎爺さんは、ふっとこぼした。
「彼女、ずっと病院に泊り込んでたのか?」
 乱馬が尋ねる。
「ああ、年が改まってからは、ずっとな…。日を追うごとに、目に見えるスピードで凍也は弱っていったからのう…。」
「そっか、ずっと凍也に寄り添ってたのか、みさきさんは…。」

 乱馬は凍也が死に至った経緯を知らないが、みさきはずっと傍で見守り続けていたのだ。その辛さは計り知れないだろう。
「で…?俺を東京からわざわざ呼び寄せたのは、懸念してたことが起こったから何だろ?じーさん。」。」
 乱馬は厳しい瞳を老人へと手向けた。
「無論…。凍也が死んだ事によって、また、別に跡目争いが起こりそうな機運が高まってきよったんでな。」
「跡目争い…。」
「一筋縄にはいかんのや。なまじ、掟という名のしがらみを流儀の中に背負い込んでしまうとなあ…。」
「まあ、そりゃあ、そうだろーな。凍也が死ねば、みさきさんは一人残されることになる。古い流儀なんなら尚更「血流」ってのを大事にしたがるもんだしな。」
「そういうことや…。」
「みさきさんも、凍也が死んだから、ハイ、自由の身になります…ってな訳にはいかねーのか。」
「問題はそこなんじゃよ。……当人の意思とは関係なく、跡目争いは始まる。」
「で?俺に何をさせよーってんだ?ただ、道場の手伝いをして、ハイ終わりって訳にはいかねーんだろ?」
「乱馬はん。あんたのその強さ。みさきのために使ってやって欲しいんや。」

「たく、本当に面倒臭えなあ…。」
 ふっと乱馬は吐き出した。
「頭の固い世間知らずが多すぎるからのう…。凍也の目が黒いうちは、誰も凍也には太刀打ちできんかったさかいに、丸う収まってたんやけどな。とにかく、流派の者(もん)は、凍也の後釜のことで、欲望をたぎらせておるんや。」
「欲望?」
「ああ。凍也が亡き今、みさきの夫の座を狙う奴らが跋扈(ばっこ)しておってのう…。」
「みさきさんの夫の座だってぇ?」
「そう、つまり、許婚の凍也亡き後は、みさきはフリーになってしまったさかいにな。現当主の娘であるみさきを嫁にして、次代のトップに躍り出たい奴らは、ぎょーさん居よる。」
「まだ、凍也が死んで、数日しか経ってねーのにか?」
「観月流の掟によれば、跡継ぎ候補に何かあれば、力尽くで跡目の座を奪ってもいいことになっておるのでな。ただし、死によって跡継ぎに支障が生じたときは、半月…十五日経ってからという、決まり事が設定されておる。」
「っつーことは、、凍也亡きあとは、みさきさんは流派の誰かと許婚になるってことなのか?」
 急にきな臭い話になってきたところで、乱馬は口を挟んだ。

「然り…。そして、明日がその十五日目になるんじゃよ。」

 爺さんの話に、何故、乱馬(じぶん)がここに呼ばれたのか、薄っすらと理由が見えてきた。

「たく…。嫌な話だぜ…。凍也が気にしてたのは、このことだったのかよ…。」
「多分な…。」
「乗りかかった船だしな…。凍也のためにも引き受けてやるよ。俺は、先の氷也との決闘の立会人でもあったしな。」
「そう言うてもらえたら、ほんまにありがたい。おーきに乱馬はん。」
 寒太郎爺さんは、たっと乱馬の右手を両手で握りしめた。瞳には、薄っすらと涙まで浮かべている。


 ハッとして、乱馬は、寒太郎翁の方を、盗み見た。
(何だ…この、空々しい爺さんの気は…。)
 心の中まで除くのは不可能であろうが、爺さんの発する気に、どことなく、恣意的な気配を、一瞬だが、嗅ぎ分けた。
 なんとなく、うまい具合に、凍也を出汁に踊らされているような気に、捕らわれたのだ。

(…このじーさん、とんでもねー「狸じじぃ」なんじゃーあるめーな…。)

 乱馬はあかねほど、純情ではない。人の好さも、ほどほどしか持ち合わせていない。
 「早乙女玄馬」という、リアル狸親父の息子にして、幼少期より、その親父の手で鍛え上げられてきた。故に、そう簡単に、人を信じる気持ちは、元々持ち合わせていない。何度となく、意地汚い狸親父には、「食べ物」「お金」のことで、争って来たことか。
 相手はガキだろうが何だろうが、容赦はしない。強いものが勝つ…裏返せば、強い者こそ正しい…という、鉄の教えを、幼少時から叩きこまれて来た。
 同じ、匂いを、一瞬だったが、この寒太郎から嗅ぎ取ったのである。この前、ここに来た時は、そこまで感じ取れなかった。凍也が居たからかもしれない。
 よくよく考えれば、相手は「観月流」という古来連綿と続く、一筋縄ではいかない大所帯流派を長年仕切ってきたという翁だ。隠居している身の上とはいえ、相当な狸であることは、容易に想像がつく。

(ここで身を引いたとしても…もう引き返せねーか…。それに、凍也との約束も反故(ほご)にはできねーし…でも、これは、フンドシしめてかからねーと…食われるかもしれねー…。)

 グッと拳を握りしめた。

 乱馬の微妙な心の動きを掴んだのか、ふっと、寒太郎爺さんの顔から力が抜けた。

「せやせや、あれを渡しとかんとあかんわ。」
 そう言って、一冊の古びた冊子を、棚から取り出すと、乱馬の前に差し出した。あからさまに、乱馬の意識を変えようという意図が伺えたが、出して来たものをみて、乱馬の心が大きく動いた。
 目の前に出されたものは、一冊の古い書物だった。おそらく、江戸期のものだろう、印刷ではなく、筆で書かれた和綴じの冊子だった。
 その表紙に書かれている言葉を見て、乱馬は思わず声を上げた。
「こ、これって…観月流の指南書じゃねーか…!」
 驚いて爺さんを見やった。
「ああ、そうや。表と裏の技のあらましが書いてある、古い書物じゃ。そうじゃのう…。ワシの曾爺さん辺りが書きとめたもんや。凍也に一度、渡したもんなんやけど…。これを乱馬はんに預けとかんとな。どう活用するかは、乱馬はん、あんさんの自由や。」
「お、おい。こんな大事な本を、余所の流派の俺に見せちまって良いのかよ?奥義だって載ってるんじゃねーのか?」
 驚きながら爺さんを見返した。
 観月流の指南書。その技の出所を、易々と他流の者にさらけ出しているようなものだ。そこには、観月流の源が書き記してあるならば、長短も見える筈だ。

「良いも悪いも…。これを渡す事は、凍也が望んだことやから…。もしもの時はあんたに託してくれって。この本は凍也の所有やから、その処遇は凍也本人が決めてもかまわんことになっとる。それは、流派でもちゃあんと認められとる。たとえ他流の者でも、凍也が望めば見せてもかまへんのや。但し、他所へ持ち去ることは許さへんが、このワシが管理する範囲で広げて読んでもらう分には、何の差し障り(さしさわ)りもあらへん。」
「爺さんや凍也が良いってんなら…。まあ、預かっても良いけど…。」
「別に、あんたに観月流を使えと言ってるわけやないんやで。どう活用するかは、一切合切、あんたに任せる。ま、世の中いろんな格闘流儀があるさかいにな。物の足しにしてくれたらええ。」

 爺さんはにんまりと笑った。その笑いが何を意味するのか、少しうすら寒いものを感じた乱馬だが、それに関しては何も問い質さなかった。
「わかった…。じゃあ、ありがたく拝見させてもらうぜ。」

「それから、身体を鍛えたかったら、自由に裏庭を使うてくだされや。」
 そう言いながら、奥の窓の方を指差した。
「乱馬はん一人が稽古するくらいの広さと道具はありまっさかい。但し、全天候型仕様ではないから、天気が悪いと厄介やけどな…。」
 ガラガラと引き戸を開くと、「こ、これは…。」と目を見張った。
 数坪しかない狭い空間ではあったが、廃材などで組まれた遊具のような修行道具が所狭しと置かれている。つり革、タイヤ、サンドバッグかわりの組み木、鉄柱、のぼり棒、鉄棒など。身体ひとつを鍛えるには申し分の無い設備だった。
「夜中はあまり音をたてぬようにな…。近所の住民の睡眠の妨げや迷惑にならなければ、どんなことをやってもらっても構わんから。」
「あ、ああ。遠慮なく使わせてもらうぜ。」
「組み手が必要ならいつでも言ってくだされ。ワシでよければお相手します。」
「あ、ああ…。でも、爺さん…相手になるのか?」
「ほっほっほ、見くびりなさるな。これでも観月流の当主を務めただけの力量はあるつもりやで。力では負けまっしゃろが、技量ならば伝えられるで。」
「ありがたく、気持ちも貰っておくぜ。」
 格闘家にとって、日々の鍛錬は欠かせない。鍛錬と共に、新しい技の取得も必要のだと思っていた。でなければ、昨日勝利した相手に、明日負けるということにもなりかねない。
「やっぱり良い目をしていなさるわ。乱馬はんは…。凍也も時々、道場から抜け出して来て、ここでいろいろ考え込んで技を磨いておったがのー…。」

 乱馬は、手に託された、観月流の指南書を早速繰ってみた。
 他流派の指南書を見る機会など、そうそう訪れるものではない。墨文字や読みづらかったが、丁寧に図絵まで添えられている。観月流の技の数々が、図絵と共に墨字で解説されているパターンの指南書だった。

 ページをめくって、読み始める。

 中には、凍也が見せた技もあり、乱馬なりに興味深かった。
 古来から続く流派の確かな裏づけがあるようで、書いてある技や奥義は奥が深い。が、一朝一夕で理解し、完成できる代物ではない。が、乱馬もまた、武道の才は際立っている。それなり、書いてある事を、夢中で読み進めて行く。

「すげえ…。技の成り立ちとか、言われとか…。噛み砕いて説明してあらあ…。みさきさんが目覚めたら、ちょっくら裏で身体動かして、ためさせてもらうぜ。」
「ほう…。興味を引いたようやな。早速、身体で確かめてみたいとは…。さすがに言う事が違いなはるな。」
 爺さんは感心したように乱馬を見返した。
「百聞は一見にしかずってな…。百読よりも一体現だぜ。試してみねーとわからねーこともたくさんあるしな…。」
「ふむ…。そのくらいの気概が、我が流派の弟子たちにもあれば良いのに…。」

「せやな…。そんな気概を持っていたのは、凍也くらいなもんやったもんな…。」
 ガタガタっと音がして、階段からみさきが覗きこんでいた。

「みさきさん。もう目覚めたんか?」
「まーな…。ちょっとでも横にならせてもらって、大分、すっきりしたわ。」
「もうちょっと横になっとき。布団が嫌やったら、ほら、こっち。コタツへ入ってゆっくりしとったらええ。」
 爺さんがみさきに声をかけた。
「乱馬君がおるのに、そんな、うちがコタツの中に寝そべるやなんて…。」
「遠慮は要らないぜー。あかねなんか、俺が居ようが居まいが、茶の間のコタツでひっくりかえって寝息たててることなんて、しょっちゅうなんだからよ。」
「へえ、あかねちゃんって、案外ざっくばらんなんやな。」
「ざっくばらんもなにも、相当なお転婆だからな。あいつは!」
「今頃、くしゃみ、してるんやないの?ええのん?自分の許婚のこと、そんな風に言って。」
「別に、いいんじゃねーのかな…。」
「じゃあ、甘えて、こたつでもうちょっと横にならせてもらうわ。まだ、身体が眠さに勝たれへんみたいやし…。」
 みさきはそういうと、コタツの中に入る。
「流派の指南書かあ…。凍也の奴、穴が開くほど、必死で読んでたわ…。折に触れて、いつも、技を確かめるように参照しとったわ…。乱馬君と遣り合って負けた後も、もう一回、おさらいやって、悔しそうに見てたなあ…。」
 乱馬が広げていた指南書を、横になった手でなぞりながら、ポツンとみさきが言った。
「そっか、格闘に対して、凍也はひたむきで真面目だったんだな。」
「せやな。あんたも凍也に負けず劣らずの「格闘オタク」みたいやし…。」
「とにかく、みさきさん、おめーはもうちょっと横になってた方がいいみてーだな…。あんまり寝てねえーんだろ?俺、ちょっと裏へ行って、早速いくつか試してみてーから。」
 乱馬はすっくと立ち上がると、奥の荷物のところへと行った。そして、道着を取り出すと、早速着替えにかかる。
「こら、乱馬君!あんた、ここに、乙女が居ること忘れんとってや。」
「あ…悪い。」
 そう言いながら慌てて、襖を閉めた。
「たく…。凍也もあんたと同じように、うちの前で平気で着替えよったけど…。あんたもおんなじ類(たぐい)の人間なんかいな!もー!かなんわ!格闘オタクっちゅうのんは。」

「格闘オタクなんて呼び方すんなっーつーの!何か安っぽくて嫌だぜ。」
 慌てて閉めた襖の奥から苦言を浴びせかけながら、乱馬は手際よく、たったと道着へと袖を通した。
 そして、修行場として開放してくれた「裏庭」へと赴く。

「どら、ワシが立ち会ってやろうかいのう…。その方が技の会得が早いやろう。」
 爺さんはよっこらせとコタツから這い出た。
「みさきは、そこでコタツに入ったまま、横になっとれ。」
 と孫娘に指示する事も忘れない。
「ん…。そうさせてもらうわ。もーあかん。眠とーてたまらんわ。。」
 みさきは二つ折りにした座布団を枕に、ごろんと横たわった。行儀が悪いだのとは言っていられないほど、疲れが溜まっている様子だった。身体は正直なようだった。
 凍也がこの世を去ってからこちら、ほとんど良質な眠りをとれていなかったのだろう。
 一分も経たないうちに、すやすやと寝息がこぼれて来た。

 乱馬は着替え終わると、指南書を傍に広げて、一つ一つ、観月流の技を確かめるように辿り始めた。
「んと…。拳の打ち方や足の挙げ方なんかの基本の型の在り方は、早乙女流(うち)とさほど変わらねーみたいだな…。一応、無差別格闘流って冠につくから…。型は、ほぼ一緒かその変型ってとこか…。」
 と、手足を動かし始めた。
 ぐっと力を引き寄せるように身構え、息と共に、気合を吐き出した。

「はっ!ふっ!ほっ!たああ!」
 
 滑らかに動き始める乱馬の肢体。

「ふふふ、なるほどなあ…。凍也を負かしただけのことはある。指南書に一度目を通しただけで、ここまで見事にかたどれるとは…。」
 楽しげに爺さんは乱馬を見て笑った。
「とても、観月流の型は初めてや…とは思えんほど、きれいなかたどりや…。」


「そんなにジロジロ見るなよ。じーさん、集中できねーぜ。」
 文句を言いながらも、だんだんと乱馬の気合が入り始める。一日たりとも身体を動かさないと、気持ちが悪いのだ。それを称して「格闘オタク」と言うのだろうが、こうやって身体を動かすことは、心地よい。
 ざっと指南書に目を通した限り、乱馬の見立てでは、観月流は「静」の流儀であった。激しい動きを伴う荒業よりも、間合いや気合いといった「気」の類を制御することによって、破壊力のある技をかけるタイプの格闘タイプのようだ。気のコントロールが上手くできないと、奥義まで辿り着くのは至難だろう。

「うーん…ここんところ、よくわかんねーな…。爺さん、ちょっと頼まあ。」
 と隣で見物を決め込んでいる老人に、指南書を指差しながら教授を頼む。

「お安い御用や。ほれ、ここに書いてあることは、実際は、こんな動きになるんや。」
 文章だけでは伝わってこない細部を、寒太郎老人に頼んで、やって見せてもらう。
「ふーん、なるほど、息遣いはそうして、ここで気を溜めて、こう打つの…か。」
 少し遅れて、爺さんが動いたとおりを動いて見せる。
 軽くやったつもりだが、ボンと腕を伸ばした途端、大きな気がはじけだした。
「おっと…。力込めすぎちまった…。隣近所があるから、これ以上は力込めたら危ねーな。加減しねーと…。」
 と焦りながら言い放つ。

「ほおー、軽く流しただけで、あれだけの気が出るんかいな…。しかも、初めて流した型で…。」
 寒太郎は目を丸めた。
「一度見ただけで技の奥にあるものを、こうやって見透かしてしまうくらいなら…やっぱり、呼び寄せて正解じゃったかのぅ…。」

 もはや、乱馬の耳には、寒太郎老人の言葉など、耳には入っていないようだった。もちろん、姿もだ。
 寒太郎がにんまりと、笑ったことにも、もちろん、気が付かなかった。



つづく


一之瀬的戯言
 寒太郎爺さんの設定が、書けば書くほど、予定していたプロットからかけ離れて行きました。
 だからこそ、最後まで苦しんだ作品でありまして…。迷走し続けたのでありましたとさ。

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