◆天高く 第三部
第十六話(最終話) 明日に続く空




一、

「じじいっ!いや、朱点、勝負だぁああっ!」
 
 くちづけたあかねから、吸い上げた乙女の陰の気を、己の体内に取り入れ、瞬時に陽の気と混ぜ合わせ、高ぶらせた乱馬は、上空でたたずんでいた朱点目がけて、一気に気弾をぶっ放した。

『なっ!血迷ったか、貴様っ!』
 避ける暇もなく、そのまま、朱点目がけて飛んで行く、闘気。
 赤と青、その二つの気脈が、朱点の身体へとまとわりつく。
 赤は乱馬の気、そして、青は、あかねから貰った気。
 あかねの気は美しい青色を輝かせて、真っすぐに飛んで行く。それを、慈しむかのように、赤い気がらせん状にまとわりついた。まるで、青いまっすぐな闘気を、赤い炎が包むが如く。

『こんな、人間のちっぽけな、闘気など…。』
 避けられずにいた朱点は、弾き返そうと、両手を差し出した。
 が、乱馬の両手から飛び出した気弾は、弾かれることなく、朱点の両手を突っ切って、身体全体にまとわりついた。
『うわああああ…何故だぁ?何故、弾(はじ)き返せぬ!茨木ぃぃぃぃっ!』
 名前を呼ばれて、茨木の木片が、飛び上がって、あかねへと襲い掛かった。
 木片は、自らあかねに突き刺さって、再び、身体を乗っ取ろうとしたようだった。
 が、あかねに突き刺さる手前で、乱馬の右手が、その木片につかみかかっていた。

「させるかあっ!」

『はなせっ!その手を放せっ!』
 己に食い込んだ乱馬の手を振りほどこうと、木片は暴れ回った。
 鋭敏な茨で、乱馬の掌を突き刺し、逃れようと足掻く。
 もちろん、乱馬も、逃すまいと必死だ。
 茨のトゲで傷ついても、痛みに耐えた。
 じわっと掌から鮮血が滴った時だった。乱馬の傷口から赤い気が、木片目がけて鮮血と共に吹きあがった。

 シュワアア…。

 乱馬の陰の気が、血しぶきと共に、木片へ降り注ぐ。

『うぎゃああああああ!朱点さまぁぁぁぁ…。』
 木片から、女のつんざくような悲鳴が響き渡った。
 乱馬の気に、中(あ)てられて、崩壊が始まったようだった。
 ピシピシと音をたてながら、みるみる、木片に無数の傷が走っていく。
 皮肉なことに、異相の中にあって、崩壊は加速し始めたのだ。
 もう、とどめる術は、茨木には無かった。

『茨木ぃぃぃぃっ!』

 朱点が乗り移った爺さんからひび割れていく木片をつかもうと、野太い手が、ゴムのように伸び上がってきた。
 たとえ鬼同志でも、男と女の情愛は、存在するのだろう。
 愛しい者の崩壊を止めようと、朱点も必死だったに違いない。
 届きさえすれば、朱点の力で何とかなるとでも、思ったのだろう。

 朱点が必死て開いた掌。指先が木片に届かんとしたその時だった。

 バリバリバリッ!

 遂に、木片が砕け散った。
 パラパラと小さな破片に砕けて、空へと舞い上がる。
 ボロボロと木屑は、容赦なく朽ち果てていく。


『うおおおおおっ!』
 鬼の目にも涙か、朱点の瞳から、真っ赤な涙が滴り落ちた。
 と、それを合図に、朱点が憑依した寒太郎の全身の肌が、紫色へと変化していく。
 その異様な光景に、乱馬もあかねも声を飲んで釘づけられる。
『口惜しや…。このワシが、このような人間にやられるとは…。』
 うめくように、小さな声で、苦し気な言の葉を結ぶ。それは、断末魔にも等しかった。
 と、大きく上向きに開いた口から、今度は真っ赤なバラの花びらが舞い上がった。

 はらはら、ひらひら…。

 おそらくは、一輪のバラの花が、朱点の本体だったのであろう。吐きだされた花びらは、乱馬が放った青い気と共に燃え上がり、チリチリと焼け焦げながら、消滅していく。

 あかねは、朽ちて行く「二人の鬼たち」を、抱き寄せられた逞しい肩越しに見つめていた。
「鬼が…鬼たちが消えていく…。」
 少し切なげに、言葉を吐き出す。
「ああ…。俺たちは…勝った…勝ったんだ…。」
 乱馬も、小さな勝どきを上げた。

 と、ぐにゃぐにゃと空間が歪み始めた。

 この空間を操っていた二匹の鬼たちが、滅び去り、空間の崩壊が始まったのだ。

 と、二人の足元が、不意に崩れ落ちた。

「うわあっ!」
 立っていた床が底抜けて、落下が始まった。

「くっ!」
 乱馬はあかねを離すまいと、必死で胸板に抱き寄せた。

 ただ、無音のままに、崩れ落ちて行く、穏(おん)の空間。
 その崩壊を止める手立ては、二人には無い。
 朱点に乗っ取られていた寒太郎も、それから、緑点が抜けたまま、気を失っていた氷也も、その、崩落を避けることはできない。二人の身体も、真っ逆さまに落ちて行くのが見えた。
 
(あかねだけでも助けねーと…。)
 そう、思ったが、どうやれば、落下が止まるか、想像だに着かなかった。
 それに、もう、殆ど、気力も残されてはいなかった。
 元々傷ついていた身体を押して、技をしかけたのだ。力をセーブできるほど、甘い相手ではなかった。出し惜しみして、砕け散ったら元も子もない。そう思って、全身全霊の力を使いきった。
 故に、精も昆も尽きかけている。
 必死で、あかねを己が胸に抱いているのが、やっとだった。

「あかね…悪い…この状況を打開できるだけの力が…俺には残っていねえ…。」
「乱馬…。ごめんね…。あたしのせいで…。」
「だから、おめーのせいじゃねーよ…。」
「でも…。」
「たとえ、このまま朽ち果てようとも…おめーだけは、絶対に離さねえ……。」
 あかねを抱きしめる腕に、力を込めた。
「うん…。あたしも離れない…。」
 あかねも乱馬へと必死でしがみついた。
 目を閉じて、耳を澄まし、互いの心音を確かめあう。
 互いのぬくもりを、その胸に抱きしめながら、二人、奈落の底まで落ちて行く。それでも、満足だった。
 たとえ、このまま、落ちて行きながら朽ち果てようとも、二人一緒なら、あかねさえ傍に居れば…それでいい…そう思って、目を閉じた…。

 自然に、合わさっていく唇。
 落ちて行くまま、柔らかな口づけを交わし、そのまま朽ち果てていく…それも、また、乙だと思った。
 合わさった口から、溢れて来る「隠と陽の気」。あかねの陰の気と乱馬の陽の気。その二つが混じりあい、紫色の気へと変化した。
 その気に包まれて、二人の身体が、淡い紫の光に発光し始める。

 と、その時だった。

 ピシッピシッと何かが弾ける音がした。
 
 それは、目の前の空間に裂け目が走る音だった。
 壁に裂傷が走るように、いくつもの割れ目が空間に走っていく。
 ポロッと壁が落ちるように、空間に大きな穴が一つ開いた。
 その穴から、差し込めてきたのは、黄金色の光。
 さああっと、真っすぐに乱馬目がけて飛んで行く。
 乱馬の懐に達すると、そこから光が広がり始め、抱き合う二人の身体を包み始めた。紫の塊を包む、黄金色の光。
 その光は、閉じた瞳にも溢れ出して来るのがわかった。
 ゆっくりと目を開くと、あかねの顔が見えた。
 気を失ってしまったようで、瞳は閉じられていた。それでも、乱馬から離れまいと、道着を必死でつかんでいた。
 その姿に、微笑みかけ、胸倉にあてられた右手を、そっと左手で包みこんだ。

 既に、落下は止まっていた。
 仰向きになって、空の途中で止まっていた。
 遥か上空を仰ぐと、照らしつけてくる月が見えた。
 月の光に、包まれて、ふわふわと空に浮いていた。

「助かったのか?俺たちは…。」
 そう、心に問いかけた時、不意に声が響いてきた。

『月の石がおまえたちを助けてくれたぜ…。』
 それは前鬼の声だった。

「月の石が?」

『ああ…。月の石は、太陽の光を集めて輝く…。その子はおまえの太陽なんだろ?』
 前鬼が問いかけてきた。

(ああ…俺の太陽だ…。天道あかねという名前のな…。)

『太陽を抱いて、お帰り…早乙女乱馬…。』
 後鬼の声も聞こえる。
『俺たち穏が潜む世界ではなく…、』
『そなたら二人が在るべき世界へ…。』
『その代わり、その懐の月の石は、貰っておくぜ…。』
『帰還の代償として…。』

 乱馬の姿形をした前鬼、それから、出会った頃の姿形をした後鬼。
 二人の姿が、一瞬、瞼に浮き上がり、そして、光と共に消え去って行く。


「そーか…帰れるのか…俺たち…。」
 そっと、眠ったあかねを抱きしめる。その身体は柔らかなぬくもりに満ちていた。

『おめーたちの寿命は、まだまだたっぷりある…。せやから、乱馬…。これからも、精いっぱい、無差別格闘のために、命を燃やしな…。あかねちゃんと共に…。俺が果たせなかった、夢を…いつか、おまえが叶えてや…。せやないと、化けて出るで!』
 凍也の笑顔も遠ざかって行く。手を振りながら、虚空へと消えていった。




二、
 
 ふわっと、唇に柔らかなモノが当たった。
 口元に、甘い吐息が、こぼれたように思う。
 その感覚を、今しばらくとどめたいと、手を上に伸ばした。
 と、誰かの手に触れたと思う。
(俺はこの手の主を知っている…。)
 そう思って、くいっと引っ張った途端、ハッとして、目が開いた。

 吐息がかかる至近距離で、少し戸惑った「愛しい者」の微笑みが、目に入った。
 伸ばした右手は彼女の手首を、しっかりと掴んでいた。

 と…ベッドの脇でクスクスと笑い声が湧き起こった。

「ほら見てみ…。眠れる王子様は、王女様の熱いベーゼで目覚めたやん。」
 そう言いながら、笑っているのは、観月みさきだった。
「でも、それは、逆でしょ?目覚めるのは王女様で…。」
「せやったら、水をかけて王女様にしてみる?」
「それじゃ、王女様同志のキスになっちゃうじゃないの!」
 乱馬のすぐ上で、あかねが、笑っている。

「いったい、何の話だ?」
 やっとのことで、手を離しながら、あかねとみさきに声をかけた。
 恐らく、あかねの気配を察して、無意識でつかみ取ってしまったのだろう。そう、心に言い訳した。

「だから、王女様のキスで王子様が起きるか否か、試しただけや…。」
「あわわわ…。もーいいでしょ?みさきちゃん!」
 あかねの顔が真っ赤に熟れている。

「まさか…今の…。」
 唇に手をやった乱馬が、再び固まる番だった。
 今、唇に感じた柔らかなものは…あかねの唇だったようだ。
 眠れる王子様が乱馬で、起こした王女様があかね…。そういうことなのだろう。

「あんまり乱馬君が気持ちよさげに寝とったさかい、ちょっと、悪戯を…。」
「悪戯でキスされた訳か?俺は…。」
 ムッとして、畳みかける。
「いえ…あの…その…。」
 あかねの顔は真っ赤に熟れたままだ。

「ちょっとは進んだみたいやねぇー。二人の関係…。でも、まだ、身体は合わせてないんやねえ…。ほんと、晩熟(おくて)やなあ…二人とも…。」
 乱馬を上から覗き込みながら、ニヤッとみさきが笑った。

「か…からかうのもいい加減にしてくれよ、みさきさん!」
「そーよ!いくら何でも、ここは病院なんだから。」
「ふーん…病院やなかったら、セックスできるってか?」
「こらっ!ストレートに言うなっ!ストレートにっ!」
「そうよ、みさきちゃん!」
「と…とにかく、俺たちは、俺たちのペースで愛を育んでいくから、ほっとけっ!」
「愛を育む…か、ええ言葉やなあ…。」

「やめて!もーいいから、二人ともっ!」

 三人三様、かみ合わない言葉を投げ合った。

「とにかく…。その話は終わりでいっ!」
「あー、乱馬君が逃げたっ!」
「うるせー!」
 頬を膨らませながら、乱馬はどっこらしょっとベッドから起き上がった。
「こらこら、まだ、安静にしとかなあかんのとちゃうん?」
 みさきがたしなめる。
「もう、退院許可が下りたぜ。」
「いつ?」
「今さっき…。明日検査して異常がなければ明後日だってよ…。」
「そっかー…もうじき、東京に帰るんかあ…。」
 みさきが、はああっと溜息を吐き出した。
「やっと、東京へ帰れるんでーっ!」
 それを受けて、乱馬が嬉しそうに笑った。


 ここは、大阪市内のとある総合病院の一室だ。
 あれから、乱馬は、ここへ運ばれて、そのまま、入院と相成った。
 わき腹と右手に怪我を追っていたので、大事を取って病院送りとなったのである。
 手の傷はすぐに癒えたが、なかなかわき腹の傷が、治りにくかったのだ。毒を注ぎ込まれたことと、関係していたのかもしれない。

 みさきから伝え聞くところによると、あの後、決着がついたとき、第三結界で氷三郎と氷也、それから、寒太郎と一緒に、あかねも乱馬も倒れていたらしい。
 正気付いたみさきが、弟子たちを指示して、車で大阪市内まで連れ帰ってきたらしい。
 「決闘」は「乱馬の勝利」ということで、決着を見た。
 氷三郎も氷也も、それから、寒太郎も、多くは語りたがらなかったが、彼らなりに、「乱馬の勝利」を納得していたようだ。
 緑点に憑依されていた氷也も、それから、朱点に憑依されていた寒太郎も、鬼と化していた時の記憶は、その脳裏から消えていた。ただ、氷三郎だけは、記憶を留めていて、重い口で、乱馬に一言「すまなかったな。」と告げたのだった。

 みさきは、自ら、凍也の子を身ごもっていることを、父親や寒太郎に話し、結局のところ、観月みさきのまま、そのお腹の子を産み育てていくことで、流派一門の同意を得ることができた。


「ま…とりあえずは、現状維持ってことが決まって、良かったな…みさきさん。」
「これも、名代を務めてくれた、乱馬君のおかげやわ。」
 と、明るく笑った。
「でも…凍也君が、亡くなってしまっただなんて…。あたし、まだ、信じられないわ。」
 と、あかねが声を詰まらせる。
「おめーは受験で、人のことを考える余裕なんかなかったしな。悪かったな、伏せちまって。それに、俺だって、死に目に遭った訳じゃねーから、凍也が居なくなった実感が、まだ、持てねーよ。」

「こらこら、あんまりしんみり、させんとってや!凍也は陽気なんが、好きやったさかいに…。それに…。忘れ形見をちゃんと残して逝ってくれたから…。それはそれで納得してんねん、ウチは…。」
 ポンポンと、みさきはお腹を叩いた。
 まだ、四か月に入ろうかという頃あい。お腹のでっぱりも目立ってはいない。が、彼女のお腹に、新しい生命が宿っていることが、少しまぶしく感じられる、乱馬とあかねであった。

「みさきさん…あの青い石…。あれは、一体、何だったんだ?」
 あの戦いの正念場…。朱点と茨木が作り出した穏の空間の中で、確かに、凍也が乱馬へと、戦い方をアドバイスしてくれたのだ。
 もちろん、正当とは言い難き、方法を伝授して、さっさと消えてしまったのだが。

「ああ…この石やろ?」
 そう言いながら、懐から宝石箱を仰々しく差し出した。
「持ち歩いてるのか?」
 乱馬が問いかけると、
「うん、当然や。」
 とあっさり答えられた。
「凍也の形見の品か何かなのか?見たところ、宝石の原石みてーだし…。あれか?婚約指輪とか。」
「そーゆーもんやないよ。これは…俗に「メモリアルダイヤモンド」と呼ばれてるもんやねん。」
「メモリアルダイヤモンド?」
 乱馬とあかねは、互いの顔を見合わせた。初めて耳にした言葉だからだ。
「凍也の遺骨からできたダイヤモンドの原石やねん。これは、」

 みさきが説明したところによると、最近は、大切な人やペットが亡くなると、その遺骨から宝石を生成してくれる業者があるという。その後、指輪やペンダントに加工して持ち歩く人が居るそうなのだ。「遺骨ダイヤモンド」とか「メモリアルダイヤモンド」とか呼ばれている。

「なるほど…。この石は、凍也自身の骨だった…ってことか。道理で、あいつが出てきても、不思議じゃなかった訳か…。」
 石を見つめながら、乱馬が吐きだした。
「え?乱馬君、凍也に会ったんか?あいつ、化けて出てきたん?」
「え?凍也君の幽霊に会ったの?」
 乱馬をジロリと振り返った。みさきは、興味津々、あかねは、この手の話が苦手。故に。少し腰が引けている。
「あわわ、会ってねーよ!ちょっといろいろあって、俺が行き詰ってたときに、夢ん中で、奴が現れて、しゃべっただけでいっ!」
 と必死で言いつくろった。凍也の声に煽られて、あかねから陰気を奪うためにキスした…などということは、口が裂けても言えない。変な誤解を与えるだけだろうし、信じてはもらえない話だからだ。

「いいなあー、うち、まだ、夢の中でも、凍也とじっくり話せたことがあらへんのに…。」

「何なんだよ…。その恨めしい顔は…。いつかきっと、夢ン中でいっぱい話せるんじゃねーか?ずっと、この石を持っておくつもりなんだろ?みさきさん。」

「うん…。いつか、お金を溜めたら、指輪に加工して、肌身離さず、持っておくつもりや…。」
「そっか…。愛する人を宝石にして、肌身離さず、持っておくのね…。ちょっとロマンチックかも…。」
 ふうっと、あかねが溜息を吐き出した。

「おい…おまえ…。俺がおっ死んだら、宝石にして加工するなんて、思ってねーだろーな?」
 チラッとあかねを見ながら言い放った。
「する訳ないでしょ?第一、殺そうと思っても、あんたは簡単に死なないでしょーし…。もっとも、なびきお姉ちゃんなら、やるかもしれないけど…。」
「有り得るな…。あいつなら、身内でも知人でも、おっ死んだら、骨拾ってきて、宝石に加工して、高く売りさばきそうだし…。」
「例えば…九能先輩とか…。容赦なく売りさばかれそうね…。」
 もわんと浮かぶのは、何故か、九能帯刀がお骨になって加工された姿。
 ブンブンブンとその妄想を頭脳から追いやろうと二人、頭を振った。
「あんたら、危ない知り合い居るんやねえ…。」
「知り合いじゃなくて、身内だ。」
「身内?」
「こいつのすぐ上の姉だよ。」
「あかねちゃんのお姉ちゃんか…。一回会うてみたいわ。」
「いや、会わんでいい…。」
「みさきちゃんだったら、お姉ちゃんと良い線でやり合えると思うけど…。」
「だから、やりあわんでいい、やりあわんで!恐ろしい…。」
「どういう意味や?乱馬君。」
 みさきが、ずずずいっと乱馬へ迫った。

「ほんと…ここに凍也君がいたら、もっと楽しいのにね…。」
 ふっと、あかねが言葉をはいた。
「こらっ!不用意に言葉を挟むんじゃねえ!寂しくなるだろーが…。」
 クイクイっとあかねの肘を突く。
「大丈夫や。凍也はいつも、この石の中から、見守ってくれてるさかい…。きっと、しゃべられへんだけで、ウチらの会話、聞いてると思うで。」
 そう言いながら、青い石をしげしげと眺める。
 「だなー。きっと、みさきさんを、凍也はいつも見守ってるさ。お腹の子をしっかりと、次の観月流の跡目に育てていくのが、みさきさんの役目になるんだしよ…。黄昏てる暇はねえぜ。」
 青い石へと視線を流しながら、しみじみと乱馬が言った。
「せやな…。もちろん、凍也がおらんようになったんは哀しいけど…そう、涙ばっかりくれとったら、この子育てられんさかいにな。」
 再び笑顔になったみさき。

 母は強し…そんなことばがあるけれど、恐らく彼女はそれを地でいくだろう。

「一応、もう、名前も考えてるねん。」
 とみさきが笑った。
「へええ…。どんな名前にするの?」
 興味津々あかねが尋ねると
「父親の凍也と乱馬君の名前から取って凍馬(とうま)ってつけようと思ってるねん。」
「おいおい…まだ、この子の性別を教えて貰った訳じゃねーんだろ?女の子だったら、どーすんでー。」
「そーよ!こんないい加減なでくの坊から一文字貰って大丈夫なの?みさきちゃん。」
 乱馬を指さしながら、あかねが吐きだす。
「でくの坊は余計でー!」

「ほんま…。あんたら、仲いいなあ…。いつか、凍馬と、あんたらの子がと、試合する日が来たらええねえ。」
「ああ、そーだな。いつかきっと、俺たちの二世が、格闘界へはばたく日が来るだろーしな。」

「あのさー乱馬…。まだ、あんただって、青年部に足を踏み入れたばかりでしょーが!正式大会でチャンピオンになったこともない駆けだしの若造が、二世の話なんて、時期尚早よ!」
「ははは…確かに。」
「でも、絶対、その未来…実現させよーな…。あかねちゃん、乱馬君。あんたらも、頑張って、ちゃんと子供作りや!」
 トンとみさきに背中を押された。

「だから、余計なお世話だって、言ってるだろ?」

「その気は満々なくせに…うりうり!」

「からかうなっ!」
「そーよ、誰がこいつなんかと…。」

「はいはい…さて、ウチ、検診の時間やし、行ってくるわ。」
 そう言いながら、みさきは病室を出て行った。

「たく…。何か調子が狂っちまうぜ…。みさきさんとしゃべってると…。」
「でも…みさきさん…凍也君がいなくなった穴を必死で埋めようとしているところがあるから…ちょっと心配だわ…。」
 あかねが溜息を吐き出した。
「ターコ!それこそ、要らぬおせっかいだぜ。」
 そう言いながら、鼻先をツンツンした。
「でも…。」
「確かに凍也は居なくなったけど…。その存在が完全に消えた訳じゃねーぞ。ちゃんと、みさきさんの中に脈打ってる…。それから、俺たちのここにも、ずっとな…。」
 そう言いながら、頭を指さした。
「そーだね…。そーだよね…。」
「ああ…。」

 フッと顔を見合わせて笑った。

「でも…ごめんね…その傷。残るかもしてないんでしょ?」
 左わき腹を指さしながら、申し訳なさげに、言葉を継ぐ。
「それも、言いっこなしだっつってるだろ?ほんと、おめーは、一回気に病んだら、病みっぱなしなんだから…。」
「だって…。」
「だってもへったくれもねえっ!あんときは、無我夢中で避けきれなかっただけだ。おめーだって、望んで襲って来た訳じゃねーんだから…。」
 ふううっと深いため息を吐き出しながら、乱馬があかねに言い含めた。

「それに…。別に残ったっていいさ。」
 ポンと言葉を投げた。
「え?」
「だってよー…。愛する者を守ってついた傷なんだから…。言わば、男の勲章さ。」
 そう言いながら、ベッドから降りて、あかねの脇へと立った。
 窓辺から見えるのは、大阪城と、遥か先の生駒山。
「いつか、子供ができて、この傷のことを聞かれたら…自慢してやるかな…。父さんが母さんを守って作った傷だってよ…。だから…気に病むな。」
 真摯な瞳をあかねへと手向けながら、そっと引き寄せる肩。
「うん…ありがと…乱馬…。」
 互いに触れ合う柔らかな唇…。瞳を閉じた時、バタッと扉が開いた。

「あー、悪い悪い!忘れ物してもーたわ!」

 みさきがズカズカと入室してきた。

「あっ!」
「わっ!」

 一瞬、ためらったまま、固まった乱馬とあかね。
 その状況は、キス寸前…。

「うわっ!お取込み中やった?ごめん!ってか…ほんまにやっと、キスがまともに交わせるくらいに、成長したんや!こらめでたい!めでたいなあ…。ってことで、お邪魔蟲は消えるわ!続きちゃんと、仕切り直しや!」

 散々言いたいことを散らしながら、みさきがドアの向こう側へと消えていく。

「…たく…。仕切りなおせるか!」
「…そ…そーだよね…。」
「関西のおはばんまっしぐらだな…あいつは…。」
「母親になるには、あれくらい逞しくならなきゃダメなのかもね。」
「いや…おめーはなるな!」
「え?」
「だから、あんな風には…絶対…ぜーったいなるな!ただでさえ、かわいくねーんだ!ああなったら、終わりだぜ…。」
「悪かったわねっ!かわいくなくって!乱馬のバカーッ!」

 キスから一転、二人の痴話げんかの声が、大阪の空へとこだまする。




三、


 ふうっと、空を見上げて、溜息を一つ吐きだした。

「どーした?…ため息なんて吐いて。」
 後ろ側から、問い質して来る、柔らかな瞳。
 
「ううん、もう、春だなあーって…。」
 薄水色の空。まだ、吹き抜ける風は少しばかり冷たい。
 見上げるイチョウの樹にも、まだ、葉は芽吹いていない。
 が、その枝に、新しい葉の芽がつきはじめている。

 そろそろ、季節は春へと変わろうととしていた。

 卒業の春。
 つまり、別れの春でもある。

「もう、今日でお別れかあ…。」
 三年間親しんだ学び舎を見上げながら、そんな言葉をあかねが吐きだした。

「たく…何、感傷に浸ってんだよ…柄でもねえ…。」
 寝転がったまま、乱馬がそれに応じた。

「あんただって、少しは感傷に浸りたかったんじゃないの?だから、ここに寝そべっているんでしょ?」
 そんな言葉を乱馬へと手向けた。

「まあ、否定はしねーけどな…。」
 そう答えた乱馬の手には、黒色の筒が握られている。

 つい、さっき、体育館で式が終わった。あと、三十分もすれば、最後のホームルームが教室で行われる。
 そのわずかな時間を惜しむように、校舎のあちこちで、生徒たちの輪が、いくつもできていた。
 部活をしていたもの、生徒会にいそしんでいたもの、あるいは、親しい先生たちとの別れを、そこかしこで、惜しむ光景が広がっていた。
 部活にも生徒活動にも、無縁だった乱馬は、友人たちとの別れを惜しむより、この「お気に入りの場所」へと寝そべりに来たのだ。
 雌雄、二本のイチョウが並び立つこの体育倉庫の裏側。
 さぼりたくなった時や、惰眠を貪りたくなったとき、乱馬は、決まって、ここで寝そべっていた。
 誰にも邪魔されない空間だった。校舎からは裏側になっているし、グラウンドの喧噪からも離れられて、静かだった。
 いや、彼なりに、高校生活との別れの時を静かに過ごそうと、ここへやって来たのかもしれない。

「学ランなんて、着ているから…なんか、乱馬じゃないみたいね…。」
 イチョウを背に寝そべる乱馬を見ながら、クスッと笑いがこぼれた。
「仕方ねーだろぉー。今までずっと、私服で通してきたのによ…。最後の最後で、制服着用しなきゃ、卒業証書を渡してやんねーって、九能校長が言い出したしよぉ…。」
 口を尖らせて、あかねへと対した。
「学ランの着用を、いやにあっさりと、承諾したわねえ…。」
 また、クスッとあかねが笑った。
「俺は別に、学ランなんて着る気はなかったけど…。卒業証書がもらえなきゃ、三年通った意味がねーとか、親父とかおふくろとか、おじさんたちが、寄ってたかって、着ろ着ろってうるさく言うからよー。仕方ないから着てやったんでぇ!」
 ムスッとした表情をあかねへと手向けた。
「ほんと…。よくぞまあ、三年間、ずっと、私服で通したわね…。」
「転校生だったからなあ…。」
「転校生でも、普通は、すぐに制服を準備するものでしょーが。」
「しゃーねーじゃん!万年金欠男が親父なんだしよー。買ってやるとか、ひっとことも言わなかったんだぜ。それに、おじさんに頼んで、制服まで作ってもらうのは、さすがに、気が引けたし…。」
「でも、ちょっとだけ、見違えちゃったな…。乱馬の学ラン姿…。」
「惚れ直したか?」
「さあね…。」
 そう言いながら、あかねは、乱馬の横へと、腰を下ろした。

「おめーの制服が、汚れちまうぜ?地べたに座ったら…。」
「いいのよ…。この制服に袖を通すのも、今日までなんだから。」
 そう言いながら、乱馬の隣に、ちょこんと腰を下ろすと、薄水色の空を見上げた。
 今日は穏やかな晴天。太陽の光が程よく注いで、ぽかぽかとしている。浮かんでいる雲も少ない。
 さわさわと渡って来る風も、さわやかだった。
「その学ランとズボン…誰のを借りたか知ってる?乱馬…。」
 あかねがそんな問いを乱馬へと投げた。
「いや、知らねえよ。…別に誰の制服だって、同じじゃねーのか?」
 と答えが返って来た。
「…やっぱり、知らない方がいいわね。」
 思わせぶりに、口を閉じた。
「おい…そーゆー言い方をされると、気になるな…。誰のだ?これ…。確か、なびきが調達してきたんだっけ…。」
「なびきおねーちゃんが調達してきたってことが、大ヒントよ。」
 にやにやと意味深な微笑みを投げかける。
「おい…。まさか…。」
 乱馬の動作が止まった。
 なびき…と言われて、連想できる男子生徒は、そう数居ない。というか、あまり嬉しくない人物の顔が、ぽっかりと脳裏に浮かんだ。
「九能先輩のだ…とか言うんじゃねーだろーな?」
「だったら、どーするの?」
 あかねが笑いながら乱馬を見ると、途端、大慌てで学ランを脱ぎ始めた。
「ちょっと…乱馬?」
 その、慌てぶりに、目を見張ったあかね。
「これ…この学ラン…調達して来たのがなびきなら…やっぱ…九能先輩のだろ?」
「そんなに慌てて脱がなくても…。クリーニングだってしてあるんでしょ?」
「じゃあ、聞くが、おめーだったら、羽織れるのか?九能が着用していた服を!」
「随分な言い方ねえ…。大丈夫よ。それ、九能先輩のじゃないから。」
「じゃあ、誰んだよ!」
「お父さんのよ。」
 ぽつっと言った後、クスクスとあかねが笑いだした。
「え?おじさんの?」
「うん…。お父さんも風林館高校の生徒だったからね。」
「すげー物持ちがいいな…おじさん…。」
「というより、なかなか捨てられなかったんじゃないのかな。納戸に置いてあるのを、知ってたみたいよ、なびきお姉ちゃん。」
「さすがなびき…というか、納戸に何が置いてあるか、細かくチェックしてやがんのか、あいつ…。さては、財産分けとか、今から、意識してんじゃねーだろーな…。」
「まさか…そこまでは…。」
「いや、あいつのことだ、あり得ると思うぜ。」
「姉妹でわずかな天道家の私財を争うとでも?」
「覚悟しといた方がいい…かもな。ま、相手がおめーやかすみさんなら、なびきにとったら楽勝なのかもしんねーが…。いや…かすみさんは案外しっかりしてっから…。ザルなのはおめーだけか。」
「それ、どういう意味よ!」
「おめーお人好しだし…末娘だから、あんま、ガツガツしてねーし…。」
 そう言いながら、再び、脱ぎかけた学ランに袖を通し始めた。
「ま、おじさんのなら、いいか…。脱がなくても。」
 と、そんな言葉を独りごちる。


「ほんとに今日で、高校生活が終わってしまうんだね…。ちょっと寂しいな…。」
 ふうっとため息を吐き出して、また、青空を見上げたあかね。
 乱馬も手枕で、寝そべりながら、空を見上げた。

「そーか…。ここで寝そべるのも、今日が最後だな…。」
 フッと乱馬の口からも、感傷的な言葉が飛び出した。
「あんただって、感傷に浸ってるじゃないの。」
 あかねがチラッと乱馬を覗きこむ。
「俺には、極上の場所だったからな…ここは。」
「乱馬の極上の場所?」
「ああ…。居候の身の上じゃあ、自分の部屋なんてねーだろ?いつも、親父と一緒だったし…おふくろまで転がりこんじまってっから…。風林館だって、入学から居た訳じゃねーし…。そんな俺には、おあつらえ向きな、静かな特等席だったからな…ここは…。」
「転校生って言っても、数か月も変わらないじゃない。」
「でも、意志を持って受験して入学した訳じゃねーしな…。前の学校を飛び出したまま、戻りもしてねえ…。おめーと許婚にされちまったから、強制的に通わされた訳だし…。」
「不服だったの?」
 少し顔をしかめながら、問いかける。
「最初はな…。でも、ここで出会った奴らと関係ができて、それはそれでよかったろーさ。ひろしとか大介とか…。決して深くはねーが…いい友達もできたし。」
「そーよね…。あたしと違って、子供のころから繋がっている知り合いが居なかった訳だものね。」
「まあ、おめーは、ここが思いっきり地元だからな…。かすみさんやなびきだけじゃなくて、おじさんもここの生徒だったんだろ?」
「お母さんもね…。」
「そっか…おめーの母ちゃんもここの生徒だったのか…。」
「うん…この学校でお父さんと出会ったって聞いてるよ。」
「じゃあ、おじさんと、ここから、こうやって、一緒に空を見上げていたかもしれねーんだな…。」

 そう言って、乱馬は、ふうっと長いため息を吐き出す。
 早雲とあかねの母が見上げた空を、同じようにあかねと見上げているのかもしれない…そう思うと、少し嬉しかった。
 あかねの母はもういない。でも、早雲との間に遺した三姉妹が居る。その一人に、恋い焦がれている自分が居る。全てが繋がっているのだ。

「俺が親父に連れられてこの街へ来たこと…それから、おめーん家に居候させてもらって、風林館高校(ここ)へ通わせてもらえたこと…全ては、色んな縁に導かれた結果なのかもしれねえな…。」
 空を見上げたまま、ポツンと言葉を投げた。

「でも…この街に来て良かった。」

「ほんとに?ほんとにそう思ってくれているの?」
 疑り深い瞳が、乱馬を捉えた。
「それまでは、一匹狼の根無し草同然だったからなぁ…俺は。帰る場所なんて、無かったしよ…。ここへきて、出会ったライバルたちにしろ、好意を持ってくれた奴らにしろ…俺にとっては、ここでできた縁の全てが宝物だ…。」
「ライバルも好意を持ってくれた女の子たちも、全部が宝物なの…。」
 あかねがきびすを返しながら、少しムッとした。
 シャンプーや右京、小太刀のことを指していると思ったからだ。 むっとした表情のあかねを、間近で見上げて、乱馬が笑い出した。
「あはは…このヤキモチ妬きめ!」
 と嬉しそうだ。
「うるっさいわねー!乱馬の馬鹿!」
 あかねはふくれっ面を隠すように、そっぽを向いてしまった。
「かわいくねーなあ…その、ヤキモチ!」
「ヤキモチ妬かれている間が、花よ!」
「かもしんねーなぁ…。」

 笑いながら、再び、空を見上げた。


 大阪から帰って来て、半月余り。
 帰京後、二人の関係に少しだけ変化が生じた。
 それは、二人とも素直に「許婚」という立場を、受け入れたことにあろう。
 「許婚」という立場に甘んじた…とまでは言わないが、「許婚、イコール、いずれ所帯を持つ相手」という、意識を持ったのだった。
 今回の件で、傍にあって当たり前だと思っている日常が、実はかけがえないもので、大切なものなのだと思い知った。彼にとっての日常、それはすなわち、あかねや天道家での賑やかな生活、そのものだ。
 凍也との間にできたお腹の子供を守ろうと、必死で頑張っているみさきには、色々なことを教えられた。
 凍也はもう、この世界には存在していない。でも、その証は、脈々とみさきの中に受け継がれ、新しい生命となって生まれようとしている。みさきの中の新しい命が、凍也という一人の男の生きざまを、いずれ踏襲して、新たな輝きを放っていくだろう。
 最初は驚愕でしかなかった、みさきの妊娠だったが、今では、子を成して往った凍也の気持ちが少しだけ理解できる。
 
 生きた証を、子供という形で愛した者に遺すことは、男の本望なのかもしれない…。

 そんなことを、浮かんだ雲を見ながら思い馳せる。
 たった、十八年余りの短い人生を駆け抜けて行った「観月凍也」というライバル。
 彼の存在は、日常を生きることの尊さを、若輩の己に示唆してくれたのだ。

(少しは、俺も…成長したのかな…。)

 強くなったのは、気持ちだけではない。気技のスペシャリストとしての腕も、格段に上がった。
 前鬼と後鬼、この二人の穏の精霊に授けられた技は、残念ながら、穏の空間という特殊な世界でしか使い物にならない気技であったが、陰の気と陽の気を使い分けるスキルができたことにより、気の無駄遣いが減ったようだ。
 前鬼や後鬼という穏の精霊たちと関係を持てたのも、凍也のおかげだった。彼とのつながりができたからこそ、前鬼と後鬼という穏の精霊にも出会えた。前鬼と後鬼が、己とあかねの姿を模していたのも、あるいは、偶然ではなく、必然だったのだと思う。
 日常茶飯事のように、小競り合いを続ける、良牙や沐絲、九能といったライバルたちの、頭一つ、完全に抜け出ていたのが、その証拠だろう。乱馬が、また、腕を上げたことにより、ライバルたちも、また、それに追いつこうと、躍起になる。

 あかねとの関係は、特に進んだわけではない。まだ、無垢なままでいいと、今は思っている。晩熟同志で良いと…。
 この先、どんな山や谷が、己の道に待ち構えているか、それはわからない。
 でも、あかねという存在が傍にあれば、きっと、道を踏み外すことなく、まっすぐに格闘の世界を歩み続けていけるだろう。
 迷ったときは、彼女が道を照らしてくれるに違いない。

 あかねが居ない人生は、既に考えられなくなっていた。


(日本…この国に生まれて、無差別格闘…それに精を出し、練馬…この街に来て…、あかね…という許婚と出会った。そのすべてに、感謝しなきゃな…。)
  

 乱馬は、ゆっくりと身体を起こして、座りなおした。
「あかね…。」
 少しすねて、そっぽを向いてしまった許婚の名前を呼んだ。
「何よ?」
 少しばかりふくれっ面で、振り向いたあかねを、その腕の中へひしと、抱きとめる。
 女木と男木。二本仲良く、枝葉を並べたイチョウの樹が、さわさわと枝を揺らせた。
 突然の抱擁に、目を白黒させながらも、腕の中にすっぽりとおさまった。
「ここを出たら、修行に旅立つことは知ってるよな?」
「うん…。」
 乱馬の旅立ちが近いことを思い出して、あかねの顔が少し曇りかけた。
 卒業したら、天道家を一旦出て、修行の旅に出ることを、乱馬が宣言していたからだ。
「俺さ…いっぱい修行して…もっと、強くなって…そして、完全な男になってこの街へ戻ってくる……だから…待ってろっ!」
 語尾は力強く言い切った。
 ストレートに、想いを告げた。『待ってろ…。』という強い命令の言葉でだ。
「…待ってる…。あたし…待ってるから…きっと、戻って来てよ。」
「ああ…。それから…俺が帰って来たら、今度は一緒に…一緒に、歩みだそうぜ。許婚じゃなくて…夫婦として…。」
「約束よ。」
「約束…だ。」


 離れることに不安が無い訳ではなかったが、きっと、その離れた距離と時間は、二人の絆をもっと強くするに違いない。
 互いの熱い想いを、その唇に乗せ、未来を誓いあう。
 初めて告いだ「夫婦」という言葉。許婚より上位の…そして、固い結びの言の葉を、その唇に塗りこめて。

 
「さてと…そろそろ、教室に行こうぜ…。最後のホームルームが始まる。遅れたら洒落になんねーしな…。」
「そーね。ひな子先生に最後まで迷惑かけちゃうことになるもんね、乱馬は。」
「この場合…俺たち二人が…だろ?」
 乱馬は、笑いながら先に、腰をあげた。
「ほら…。」
 すっと手をあかねに差し出した右手。
「ありがとう…。」
 はにかみつつ、手を重ねて、立ち上がる。

 繋がった互いの手を、固く握りしめた。

「これからは、二人、手を取り合って、歩んで行こうぜ…。」
「喧嘩は吹っ掛けないでよね。」
「それは、こっちのセリフでいっ!」

 笑いあう二人の上には、明日に続く青い空。その真ん中に、流れる雲と一緒に、天高く、白い月がぽっかりと浮かんでいた。




2016年5月12日筆




これにて、シリーズ終了です。ありがとうございました。

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