◆天高く 第三部
第十五話 最後の手段



一、

 茨木が作り出した穏の精霊の空間に、仁王立ちする乱馬。

 彼の瞳には、茨のツルの塊の「茨木」と、その前には乱馬に倒されて気を失った氷也が映っている。
 そして、黙したまま背後から不意に現れた人影にも、当然、気が付いていた。
 その人影に、厳しい視線を向けながら、声を浴びせる。

「おめーらを封印しねーと、この戦いは終わらねえ…。なあ、寒太郎爺さん…いや、朱点と言うべきかな。」

 その言葉を受けて、影はフッと笑った。

「なんや、もう、気づいたんか…。」
 寒太郎は乱馬へと言葉をかけた。顔つきは笑っているが、目は決して笑っていない。いや、それどころか、殺気に満ちた瞳を乱馬へと手向けていた。

「ああ…、今、確信したぜ…。朱点は氷也に憑依したんじゃねえ…。寒太郎爺さん、おめーの中に巣食っているってな!」
 強い言葉を投げつけながら、後ろを振り向く。
 乱馬の瞳に移ったのは、真っ赤な肌をした、寒太郎。体つきは精悍そのものだった。胸板は厚く、首も太い。手も足も筋肉に盛り溢れている。とても、七十過ぎの老人の身体ではなかった。
 顔はそのまま、寒太郎爺さんであり、皺も深く、白髪であったが、乱馬を睨み据える目は真っ赤に血走り、頭の天辺には、立派な角が生えていた。

(やっと、おめーらが別れ際に言った言葉の意味が理解できたぜ、前鬼、後鬼…。)
 乱馬も、はっしと寒太郎を睨んだまま視線を外さなかった。

 そう。鬼の波動を授けてもらった後、朝日と共に消えゆく前鬼と後鬼が、懸命に乱馬へと投げた言葉。溢れ出る朝日の光に阻まれて、語尾は聞き取れずだった、彼らの言葉がわかったのだった。
『観月寒太郎には気をつけろっ!あいつに朱点が憑依している!』
 前鬼は、そう言いたかったに違いない。
 そう理解すれば、「寒太郎が全ての元凶」と後鬼が投げた言葉の意も通じる。
 あの鬼たちは、日菜の黄水晶の囁きを、乱馬へと伝えたかったのだ。朱点という「まつろわぬ鬼」は、氷也ではなく、誠は寒太郎へと巣食っているという、衝撃的な事実を。

「で…俺と氷也の戦いを見届けてから、ここに現れやがったのが、何よりの証拠だぜ…なあ、じじい!」
 乱馬はいきなり、拳を寒太郎へと浴びせかけようと、動いた。 
 不意打ちを一発食らわせようとしたのだが、あいにく不発に終わった。 
 乱馬の動きだしに気付いた寒太郎が、だっと地面を蹴って、すうっと空高く飛んだからだ。

『ふふ、気が早い奴め!まだ、こちらからの話は終わっておらぬぞ。小童(こわっぱ)。』
 寒太郎の声色が急激に変わった。
 どうやら、爺さんに憑依していた「まつろわぬ鬼、朱点」が、その姿を現したようであった。
 寒太郎翁の白髪がいきなり黒くなり、頭に一本の角がにょきっと突き出した。顔つきも険しい真っ赤な鬼の形相へと姿を変えていた。見下ろしてくる瞳は、真っ赤に光り輝いている。身体つきも、一回り、いや、倍ほどにもなったように思えた。
「俺に話だあ?何の冗談だ?」
 下から睨みつけながら、乱馬は声を出した。
『ふふふ…おまえはどうあがいても、この朱点様には勝てぬ…。どうだ?乱馬、ワシにその身体を差し出す気は無いか?』
 そんな言葉を上から投げかけて来た。
「何、寝言を言ってやがる!そんなこと、出来る訳ねーだろっ?」
『おぬしとワシがタッグを組めば、この世などいとも簡単に征服できるぞ?ワシもおぬしのような若い肉体が欲しい…。どうだ?ワシをおまえの中へ憑依させて、面白可笑しく永い時を共有してみる気はないかの?決して悪い話ではないと思うが…。』
「バカ言えっ!そんなこと、承知する訳がねーだろ?」
『このワシに、どうあっても、逆らおうと言うのかの?』

「ああ、当たり前だ!だから、そこから降りて来やがれっ!降りて、俺と闘いやがれっ!」
 朱点を見上げながら、乱馬が激しく怒鳴りつける。

『これを見ても、まだ、ワシと闘うと言うのかの?』
 朱点は上空から乱馬の背後を指さした。と、背後から異様な気配が俄かに立ち上った。
 
 ハッとして、後ろを振り返る。

 すると、茨のツルが、チリチリと不気味な音をたてながら、塊を囲みながら蠢いている有様が見えた。
 氷也を相手していた時よりも、心なしか、ツタの緑が濃くなったような気もする。否、それだけではない。蕾だった茨の花が、一つ、また、一つ、花開いていくのが見えた。
 ポッ、ポッ…。小さな赤いバラが幾重にも咲いて行く。
 妖艶なバラの香りが、辺りに漂い始めた。
 思わず、腰を落として身構る。茨が乱馬に対して、宣戦布告しているようにも感じたからだ。

『そう、いきり立たずとも好いわ。』
 上から笑いながら、朱点が声をかけてくる。
『ほら、茨木…乱馬にそやつの姿を見せてやれ!』
 朱点は、茨へと命じた。

 と、茨の塊が、ゆっくりと、絡まったツルを解き始める。
 シュルシュルと音をたてながら、一つ、また一つ、絡まったツタが解けていく。
 茨の中から、人影が姿を現した。

「え?」
 その姿を見て、乱馬は息を飲んだ。
「あ…あかね?」

 茨の塊の中から、現れたのは、あかねだった。身体には道着をまとっている。
 茨に身体を預けたまま、瞳も口も、堅く閉じている。

「貴様!どーして、ここにあかねが居る!あかねに何をしたっ!」
 次の瞬間、朱点にそう吐きつけていた。

『ククク…。ワシが連れて来たのではないぞ!』
 朱点が笑いながら答えた。
「てめーじゃなければ、誰があかねを連れて来たんだ?」
『氷三郎だよ。奴が連れ出して来たのよ。』
 朱点がそう告げた。
「裏観月流のじじいが…。何故あかねを連れて来た?」
『さあのう…。そこまではワシも預かり知れぬが…。大方、闘いを有利に進めるために、人質として連れて来たのであろうさ…。』
「なら、裏観月のじじいはどーした?」
『なあに…。さっき、軽くひねり倒してやったわ。今頃、第三空でくたばっておるかもしれぬな…。』
 クククと笑いながら、寒太郎が答えた。

 有り得る話だ。寒太郎がこの場に現れたということは、第三空で氷三郎と闘ったとしても、不思議ではない。
 
 滴り落ちる、汗をぬぐいながら、乱馬は考えた。
(落ち着け!このまま焦ったら、奴の思う壺だ…。)
 自分を操ろうと、朱点が幻を見せているかもしれない…そう思ったのだ。
 よしんば、氷三郎があかねを天道家から連れだして来たとしても、何故、ここに居るのか。それも、茨に捕らわれているのか。納得できないことが、多すぎる。
「本当に、あれは、あかねなのか?」
 乱馬は朱点を睨みながら、問い質す。

『ふふふ…。疑うのなら、闘わせてやろう…。』
 朱点がそう言うや否や、ドクンと茨全体がわなないた。
 その、刺激に、目覚めたのか、ゆっくりと開いていく、漆黒の瞳。その顔には表情が無く、目も虚ろげに漂う。

「あかね!」
 思わず、乱馬が声をかけたが、あかねは乱馬へと向き直りもしない。その耳に乱馬の声が届いていないように、無動だった。

『無駄だ。今のあの子に、貴様の声は響かぬ…。』
 上から朱点が発した。

「どういう意味だ?」

『ふふ、簡単なこと。その娘の背中を見るがいい。』
 朱点に言われて、ギョッとした。あかねの背中に、茨が絡みついていたからだ。
 道着ではっきりと生え際は見えなかったが、茨は襟の上からあかねの背中へと食い込んでいるようだった。 道着の下で、ツタが、うねうねと蠢いているのがうかがえた。
『どうだ?なかなか刺激的な眺めであろう…。今の彼女は、茨木が操り人形そのもの。』
 朱点は、乱馬へと言葉を流した。
 乱馬の怒りを煽るのに、充分すぎる材料だった。
『この娘と闘うか…それとも、ワシと同化して、この娘と交わるか…好きな方を選べ…。』
 容赦なく、朱点は乱馬へと問いかけてくる。
 それは、究極の選択には、違いが無かった。
 本物のあかねか否か、即座に判断できない。かといって、茨に繋がれた状態のあかねに、激しく心は揺れている。

(目の前のあかねが、本物だという根拠はどこにもねえ…。でも…。あれが本物のあかねだったら…許せねえ…。)

 目の前で茨に繋がれたまま、うつろげに揺れているあかねの姿。

 乱馬はグッと拳を握った。

「わかった…。」
 息を吐き出して、スッと両肩の力を抜き去る。

『ふふふ…。おとなしく。ワシと同化する気になったかの?』
 ゆっくりと、上空から降りて来る朱点。

「いや…。その逆でいっ!」
 地面を蹴って、高く飛んだ乱馬。シュッと身体を翻して、朱点の顔面を右膝で蹴った。
 顔を蹴られた朱点の身体が、放物線を描いて、後ろへと弾き飛ばされて行く。

『おのれっ!闘うことを選んだのか!良かろう、行けー、茨木!』

 その声と共に、茨が一瞬、蠢いた。すると、あかねの瞳が怪しく光った。
 そして、乱馬目がけて襲い掛かって来た。
 もはや、彼女の瞳は、乱馬を敵として捕らえたようだった。

『わしを足蹴にしたこと、後悔させてやるわ!』
 飛ばされた先で、身体を立て直した朱点が、顔を真っ赤にして、怒鳴っていた。

「へっ!あかねを餌に俺を操ろーなんて、甘いんだよっ!来いっ!あかね!」
 乱馬は、腰を引いて身構えた。
「目の前のおめーが、本物のあかねか否かは、拳を合わせれば、わかるんでえーっ!」
 乱馬は飛んだ。と、あかねも飛んだ。彼女の膝蹴りの破壊力は、乱馬も承知の上だった。故に、手加減するつもりも、一切無かった。

 バシッ!

 上空で火花が散って、二つの身体が別方向へと投げ出されて行く。

 どちらも互角でぶつかったのだ。

「くっ!」
 勢いよく、後ろ側は吹き飛ばされながらも、かろうじて体制を整え、そのまま二の足で着地する。
 一方、飛ばされたあかねは、背中に巻きついていたツタが、衝撃を半減させたようで、難なく茨の中へと着地を決めていた。
 茨の茂みから顔を出したあかねは、敵愾心むき出しの鋭い瞳を、乱馬へと手向けていた。
 胸元が少し肌蹴て、胸の膨らみが垣間見える。
 乱馬は蹴りと同時に、あかねの胸元を狙って手刀を繰り出していた。
 乱馬が買った、あの、大願成就の赤い御守が、確かに見えた。あかねの胸元にあるであろう、御守の存在を確かめたかったのだ。
 あかねと確信した材料は、それだけではない。今の蹴りの型は、紛れもない、「無差別格闘流」のものだった。
 子供のころから武道をたしなんで来たあかね。道場持ちの天道流と在野の早乙女流では、多少の違いはある…が、技の底に流れる「無差別格闘流」の礎(いしずえ)となる型は似通っている。
 付け焼き刃で偽者が真似できるものではない。
 あかねの攻撃の中に、確かに嗅ぎ取った、己と同じ匂い。
 天道道場で初めて対戦した折にも感じた、「互いの身体に染み付いた、同じ流派の匂い」。驚きであかねと初対峙したあの折の感情が甦ってくる。

 現に今、激しい気性から打ち込まれてくる破壊力は、まさに、あかねそのものだ。

「へっ!やっぱ、本物のあかねか…。」
 フッと息を吐きだしながら、乱馬が笑った。

『ほぉ…本物だと見切ったのか?』
 背中から、朱点の声が響いた。

「ああ…。今の一撃で確信したぜ…。」

『一撃で悟ったとでも?』
 にやにやと、朱点が笑いかけてくる。

「俺があかねを見紛うってか?…こいつは、あかねだ!正真正銘のなっ!」
 そう吐きつけながら、駆け出して行く乱馬。
 あかねも、乱馬を避けることなく、再び、激しくぶつかってくる。
 その闘気は、いつもより激しかった。相手を「乱馬」ではなく、「ただの敵」としか感知していないのだろう。故に、彼女の攻撃には、一切の迷いが無かった。
 むしろ、この場合、乱馬には不利だ。
 本物と見切ってしまったことで、どうしても「戸惑い」が拳や蹴りに伝わってしまうからだ。
「うっ!」
 今度は、乱馬の左腕に、あかねの拳が、少しかすった。
 女とは思えぬほどの、気合に満ちた拳だった。魔ともにあたっていたら、風穴が開いていたかもしれない。ピシッと皮膚に裂傷が入った。

「へっ!こりゃあ…本気でいかねーと、やべーな…。」
 と吐きだすものの、愉しげな乱馬だった。
 あかねとわかれば、打ちのめすわけにもいかないし、だからと言って、手加減していたら、こちらがやられる。
 そんな、瀬戸際のやり取りを要求されているにも関わらず、危機感は無かった。

『ふふふ…本物の許婚を相手に、本気で闘う冷たき男か…貴様は。』
 乱馬の心をかき乱そうとでも思っているのか、そんな言葉をはき付けてくる朱点。

「いや…下手に手加減したら、こいつは怒るだろーぜ…。」
 乱馬は乱馬で、吐きつける。
(でも、確かに、このままじゃ、不味いな…。それに…この空間では…多分…。そいつも確かめておくか…。)
 乱馬はサッと動きを止めた。
 そして、グッと握りしめた拳を、あかね目がけて差し出す。
「猛虎高飛車!」
 ドオンと、激しい乱馬の闘気があかねの目の前で弾けた。
 猛虎高飛車の闘気の波動があかねを襲い、そのまま、後ろへ烈風が駆け抜けて行く。
 が、あかねは、何事もなかったかのように、そこへ立っていた。技に打たれた様子は一切ない。乱馬の猛虎高飛車は空砲だったかのように、怯むことなく、再び乱馬目がけて、襲いかかってくる。
「っと!やっぱ、この空間では、俺の気技はきかねーか!」
 そう、この、茨木という穏の精霊が作った空間で、己の放つ気技が有効かどうか…それを確かめたかったのだ。
 乱馬は咄嗟に、後ろ側へ飛んだ。
 シュッ!と勢い良く、あかねの手刀が乱馬の脇で振り下ろされてくるのが見えた。
「なっ!」
 あかねから離れ際、痛みが左手に走った。
 乱馬の左ひじから少しばかり、鮮血が飛んだ。
「あれは…。」
 乱馬を攻撃後、身体を翻しながら、睨んでくるあかね。その、手の甲が異常に伸び上がっていることに気が付いた。あかねの両手の甲の皮膚が盛り上がり、二十センチほど鋭く伸びている。そう、手の甲に剣を取ってつけたかのような、トゲが見えたのだ。

『ふふふ、気が付いたかな?』
 朱点が楽しそうに乱馬へと声をかけてきた。

「あれは…何だ?」
 じっとあかねの手の甲を見つめながら、朱点へと問い質す。

『言ったろ?既に、あかねは茨木と同化しているぞと…。』
 ニヤッと朱点が笑った。
「ってことは、そいつは、茨木の身体の一部か…。」
『御名答。そうさ、茨木のトゲだよ。茨にはトゲがつきものだろ?それも…ただのトゲではないぞ…ククク…。』
「毒…が仕込んであるってか。」
 乱馬は左腕をさすりながら、問いかける。
 少し裂けた肘の傷口から、違和感が伝わってきたのだ。ジーンとしびれて、感覚が無い。触れただけでこの威力だ。あのトゲが、深く突き刺されば、たまったものではないだろう。

「しかも、ここは…気技は殆ど、使えねえ、茨木の空間か…。」

 上空の朱点を見ながら、そう口ごもった。

『一つ、教えておいてやろう…。この空間は「茨木」だけの空間ではない。』
「茨木だけの空間じゃねえ?…どういう意味だ?」
『フン、この空間は、ワシと茨木、二人が合い成して作り上げた空間…。』
「つまり、二種類の性質が混ざちあってるってことか…。」
 乱馬がポツンと朱点に投げた。
『そのとおり。住相と異相…この二つの性質が混ざりあっている…。この意味がわかるかの?』
「住相と異相…つまり、維持と変化…そのが両方成り立ってるって訳か…与えらた変容が維持され続ける…そういうことになんのか…けっ…おもしれえ…。」
『だから、少しの傷や毒でも、人間には致命傷になる…。毒は増大し続け、おまえを確実に死へ追いやる…。ふふふ、どうだ?そろそろ白旗を上げる気になったかの?』

「なんねーよ…。んなもん!俺は負けねー。」

 乱馬は朱点が居る空を仰ぎ見た。
 その瞳に、一切に迷いは無かった。

『それも良かろう…。おまえを、この空間で躯(むくろ)にして、それを食らってやれば、ワシは完全に鬼化できる…。それに、あかねとかいう娘も、そろそろ、茨木と完全に同化してしまう頃合だ…。フフフ、この娘、思った以上に、おまえへの憎しみをたぎらせておるわ…。』
「憎しみ…?」
『ああ。さっきも言ったろ?ここは、異相の空間でもある…ククク。』
「なるほど…異相と住相が同居してるってことは、変化を維持し続ける空間…。つまり、正が負に変化しちまったら、そのまま突っ走っていく空間…。ということは、茨木が憑依した結果、あかねの「愛」は「憎しみ」へと変化して暴走し、俺を襲う…そーゆーことになる訳だ…。」
『ククク、そういうことだ。この娘の満ち溢れたおまえへの想いや愛情は、激しい憎しみへと変化している…。喜べ……。殺されるほど、おまえはこの娘に愛されているということになる。』
「確かに…涙がちょちょ切れるほど、有りがてー話だぜ!」
 乱馬は、自嘲した。

『この戦いは、貴様が愛する者の手で殺されることで、決着を見る…。ふふふ、楽しかろう?』

「けっ…最後まで、勝負はわからねーぜ!俺は、諦めが悪いんだ。勝つまで辞める気もねーからな。」

『バカめ…。いくら、人間ごときが、鬼の波動を習得したとて、穏の精霊にかなう訳がなかろう?そろそろ諦めろ!』

「やーなこった!俺は諦めねえ…。あかねを取り戻し、そして、てめーを打ちのめす!」
 乱馬は上空の朱点を見上げながら言った。その瞳は固い決意に満ちていた。
 朱点を見上げたのち、ゆっくりと、あかねへ向き直る。
 彼女の背中には、茨が食い込んで、ゆさゆさと揺れていた。

(今…俺の体を巡るっている陽の気と陰の気は、前鬼と後鬼の教えてくれた波動に変換できる…。奴らの操る波動…それは、生相と滅相…。つまり、生と滅の波動の二つ…。俺の中の陽の気と陰の気を上手く合わせれば、…あの茨をちょん切る気を編み出せる筈…。
 でも、今のあかねには、迷いが無い分、一切の隙が無え…。大人しく茨を切らせてくれそーもねーな…。)
 そう、思った時だった。懐が熱くなりはじめた。御守と月の石と青い石を収めた巾着袋の辺りだ。巾着の中で、そいつらが、しっかりしろと語りかけているようにも思えた。
(そーだな…やるっきゃねーな…。)
 ふうっと、大きくため息を吐き出すと、腹を決めた。
(巡れ…俺の闘気。赤と青…陽と陰…。穏の波動を引き起こすために…。)
 瞳をグッと閉じて、丹田を意識する。そこから発する気を、丹念に分離し、高揚させていく。

『フン…。諦めが悪い奴だな…。まだ、逆らおうってか…。お望み通り、そろそろ決着をつけてやろう…。あかね…。』
 朱点が、ぼんやりと、突っ立っていたあかねへと声をかけた。
 と、あかねの背中にのめり込んでいた茨のツタが、クンとあかねを促しにかかった。
 ドクドクと茨を伝って流れていく、怪しげな妖気。乱馬を倒すための毒なのか…それとも、憎しみを高ぶらせるためのエキスなのか。
 あかねの顔が、苦し気に歪み始めるのがわかった。もちろん、乱馬だけではなく、朱点にもだ。

『まだ、茨木を完全に受け入れた訳ではないのか…。無駄なあがきをする、小娘め!』
 あかねのざまを見ながら、朱点が怒ったように、吐きつける。
『愛する者をその手にかけるのは、嫌だというのか?』

 その言葉に、ピクンと乱馬の肩が動いた、

(ふっ!あいつを信じる心を見失うところだったぜ…。あいつは、大人しく牛耳られるようなやわな玉じゃねえ…。あの茨をちょん切れば、こっちにも、勝機はある…。なあ…あかね…。俺を完全に忘れた訳ではねーんだよな?)
 苦しがるあかねを見据えながら、グッと両手を握った。

 と、あかねの抵抗が止まった。
 両手を垂れて、肩を落とす。それから、ゆっくりと、乱馬を見据えた。
 その瞳には、憎しみが渦巻いているようにも見えた。

『ククク…。ようやく、こちらの意に従う気になったか…。あかね…。』
 朱点がニヤニヤと笑った。
 その声に、シャキンと手の甲を上げた。乱馬の身体に毒たっぷりの「トゲ」を刺すつもり満々な様子を垣間見せた。

「いいぜ…。勝負だ!あかね!」
 乱馬も腰を落として身構えた。既に、両腕に気脈が流れ混んでいる。陰と陽、二つの気脈を同時にあかねの背中にぶつけて、茨を滅する。

「来いっ!あかねっ!」
 乱馬の叫びと共に、地面を蹴ったあかね。
 臆することなく、まっすぐに乱馬目がけて拳を振り上げる。
 乱馬も避けることなく、真っ向からあかねを受け止めた。

 ぶつかった瞬間、乱馬は差し出されたあかねの右手首を左手でからめとり、一気に後ろに引いた。そして、右腕をあかねの背中に滑るこませる。
 えっという小さな声が、すぐ目の前でこぼれた。
 あかねを攻撃しなかった乱馬。
 フッと軽い笑みと共に、その濡れた唇を、あかねへと重ねていた。
 柔らかな乱馬の唇が己に触れた刹那…あかねの脳裏に鮮やかに甦った、あの熱い瞬間。
 昨秋、みさきとの決勝戦を諦めさせた、あの甘いベーゼの記憶。
 瞬時に駆け抜けていく、乱馬への想い。

「乱馬…。ずるい…。」
 あの時と同じ、言葉が、あかねの口から漏れた。

 あかねに生まれたその一瞬の隙を、乱馬は逃さなかった。
 あかねに口づけたその瞬間、背中に回した両手で茨をへため込んだ気を流し込んでいく。

 バシバシバシ!
 
 両手に巡らせた陰と陽の気。その二つの気流が、茨を粉砕して行く。緑色の茨は、瞬時に真っ黒に焦げた。あかねの背中から伝って、一気に茨の塊へと伝染していいく乱馬の気弾。
 ゴオオッと音をたてて、真っ赤に燃え上がるのが、背中越しに見えた。
 
『あな…悔しや…。もう少しで、再臨できた…もの…を…。』
 女の声が炎と共に遠ざかる。

 見開いたあかねの瞳から、鋭い光が消え、訪れる静寂。
 が、乱馬も無傷ではなかった。あかねの左手の甲が、乱馬の右わき腹をえぐっていたのである。

「うっ!」
 乱馬から鈍い声が漏れた。
 じわっと溢れ出して来る鮮血。みるみる、彼の道着を真っ赤に染めて行く。

「乱馬っ!」
 目の前であかねの怒声が上がった。
 茨が滅んで、正気に戻ったのだ。

「へへっ!成功したぜ。」
 あかねに身体を預けながらも、回した右手で、がっしりとあかねを抱きかかえた。
「乱馬っ!」
「大丈夫だ!落ち着けっ!」
 わき腹から流れる血を見て、悲痛な声をあげるあかねを一喝して律した。
「大丈夫じゃないわよ…。その傷!」
「傷は浅さいっ!それに…まだ、戦いは終わっちゃいねーんだ。このまま、やめる訳にもいかねー!」
 トンとあかねの背中を軽く叩くと、そのまま、上空を見上げる。

『フン…。執念で娘から茨木を引きはがしたか…。』
 朱点が空から乱馬とあかねを見下ろしていた。

「へへっ…。あかねは返して貰ったぜ…。」
 苦しい息を吐きながら、乱馬は得意げに答えていた。


二、


 上空で乱馬とあかねを見下ろしていた朱点は、茨木が消えた後も、動じずに、ふわふわと浮いていた。

「うっ!」
 乱馬はわき腹を抑えながら、少し前につんのめった。
 茨木を倒したからといって、受けたダメージが無くなるわけではなかったのだ。
「乱馬…。」
 真横から心配げに見つめてくる視線とぶつかった。
「んな顔すんな…。たいしたことはねえ…。」
 グッと歯を食いしばりながら、乱馬があかねへと声をかけた。
「でも…。」
「心配は無用だ…。このくらいのダメージを受けていた方が、集中できるぜ…。」
 と吐きだした。
 今までだてに野山を駆け巡って来た訳ではない。格闘技に生傷はつきものだ。様々な戦いの場は決してすべてが完全で臨める訳ではない。それに、完全だから勝利できるといったものでもないことを、充分に承知していた。
 むしろ、多少の故障があるときの方が、集中できることもある。経験的に知っていた。
 対するあかね。茨木に操られていたとはいえ、この傷を負わせたのは己だ。その後ろめたさがあった。
 さっきまで手の甲にあったトゲは、茨木の消滅と共に、きれいさっぱり消えてはいたものの、乱馬に負わせた毒気は抜けずに、そのまま、体内に留まっている様子だった。
 わき腹から滲み出して来る血に、気が気ではなかった。
 出血は受けた傷以上に派手に見えることもある。幼少より生傷が耐えなかった故に、知らないあかねではなかったが、無意識とはいえ、乱馬を攻撃してしまったという後ろめたさが、彼女を覆い始めていた。
「今…戦いをやめる訳にもいかねーからな…。」
 脂汗をぬぐいながら、乱馬ははっしと朱点を見上げる。ここで飲まれたら負けだ…そんな、悲壮なまでの気合を、あかねはそばで嗅ぎ取っていた。
 平気だと言っている割には、受けた毒のダメージは相当だろう。
 気合だけで立っている…あかねにもわかっていた。
 自然、乱馬を支えようとする、手足に、力が入った。
 乱馬にも、あかねの気持ちが伝わっているようで、無言のまま、身体をあかねへと預けていた。


『そんな、状態になっても、ワシと闘うというのか…殊勝なことだな…。』
 にやにやと朱点が上から二人を見下ろしていた。
 茨木が滅んだとて、朱点には些細なことだと言わんばかりだ。

「ああ…。ここでやめる訳にもいかねーからな…。」

『もう、立っているのも、限界ではないのかね?』
 と煽りかけてくる。

「けっ!こんくれーの傷…。」

『そう言う割には、肩で息をしているではないか。』
 上から見下ろしている朱点には、乱馬の様子が手に取るようにわかっていた。
『むろん、だからと言って、容赦はしない。』
 真っ赤な瞳を手向けながら、朱点はすっと、気弾を乱馬目がけて打ち付けた。

 ドオン!

 乱馬のすぐそばで着弾して烈風が吹き抜ける。
 その烈風に、あかね共々、尻もちをついた。受け身を取ったので、何とか派手な傷は受けなかった。が、わき腹がえぐられるように痛みが走った。
「くっ!」
 乱馬の顔が痛みに歪む。
 ドクンと傷口がわななき始めた。

 朱点はというと、余裕な表情で、乱馬を見下ろしていた。
 わき腹を抑えながら、乱馬は朱点へと畳みかけた。
「ちぇっ!舐めやがって…。わざと外しやがったな…。」
 と煽りかける。

『ふふふ…もう一発、食らわせてやろうか?』
 憎々し気に、乱馬たちを見下ろしている。

「けっ!どーせ、また、外すつもりなんだろ?」
『何故、そう思う?』
「知れたこと…まだ、あかねを無傷で手に入れようと、思ってんだろ?おめーは…。」
 はっしと朱点を睨み上げた。
「どういうこと?」
 脇であかねが乱馬へと問いかけた。
「茨木が完全に滅した訳じゃねーからな…見ろ!」
 そう言って、茨木が燃えた辺りを指さした。
 と、そこには、手のひらほどの棘のある木片が、ぶすぶすと燻っているのが見えた。
「あれは…。」
「ああ…。恐らく、あれは、茨木の本体。あの木片がおまえに取り入って傀儡化していたに違いねえ…。奴にとって、茨木は無くてはならない存在。だから…。その器に選んだ、おめーをみすみす滅してしまうのは、もったいねえって思っているに違いねえ…。だろ?」

 はっしと空を見上げながら、そう言い切った。

『ふふふ…大人しく、あかねをワシに差し出せば、殺さずにいてやろうという、配慮がわからぬかね?』

「わかんねーな…。んーなもん!それに…絶対、あかねは渡さねえ…。」
 乱馬はグッとあかねの肩を引き寄せた。

『あかね君はどうだ?おまえがワシに従うなら…その男は無傷で戻してやるぞ。』
 誘惑の言葉をあかねへ向けて投げかけて来る。

「あかねっ!奴の口車に乗るなよ!無傷で戻すなんて、小指の先も思っちゃいねー…。あいつは、まつろわぬ鬼だからな…。信用できねー。」
 と掴んだ肩に力を入れる。
 あかねが動揺し始めていることを、乱馬は既に察していた。こうやって、とどめておかなければ、今にも飛び出して行きそうなくらい、心が揺れているのが、面白いくらいにわかった。

『百数える間に、結論を出したまえ、乱馬を助けたいか、それとも、共に散るか…。むろん、乱馬がワシにその躯体を差し出すというのも、有りだぜ…。くくく…。』
 そう言いながら、朱点は上空でゆっくりと、数を数え始めた。

「くそ…舐めやがって…。」
 グッとあかねに乗せた手に、力を込めた。
 絶対、行かせはしない……乱馬の意思表示だった。
 が、あかねは朱点の言葉を真に受けて、迷い始めているようだった。

 あかねは情が篤い。
 乱馬を傷つけたのは、己だということを、気に病み始めているに違いない。
 その同様に上手く漬け込んで、あかねを無傷で得ようという、朱点の目論見も伝わってくる。

(この空間…。まだ、茨木は完全に屈した訳じゃねえ…。朱点に余裕があるのも、そのせいだ…。ちぇっ!やばいな…。)
 あかねを抱えこみながら、考えを巡らせていく。
 向こう側に転がった木片に身を潜めて、茨木は虎視眈々と、あかねの身体を狙っている筈だ。
 辺りはまだ、灰色の空間だ。色が架wらないということは、住相と異相が共存している空間のままなのだ。そのことが、茨木が完全に滅していないことを、如実に物語っていると、乱馬にはわかっていた。
 虎視眈々と、あかねが動きのを待ち受けているようだ。動いたあかねへ、もう一度、入りこむために、茨のトゲを研ぎ澄ませている。
 己の体内に入った茨木の毒も、収まるどころか、暴れまくっている。
 陰の気と陽の気を体内に巡回させ、穏の波動を発生されたいと思っていても、集中すらできない。
 せっかく、隙が生じているのにだ…。

 と、俄かに懐が熱を帯び始めた。
 チリチリと小さな音が、乱馬の耳に聞こえ始める。
 
(こ…この音は…。月の石?)
 ハッとして、懐に手をやった。

 するとどうだろう…。石の小さな声が、乱馬の脳内に響き始めた。

(鬼の波動…それは、何も、俺一人で発動させるものじゃねえ…。おめーは、そう言いたいのか?)
 石の声に耳を傾けながら、心の中で吐きだす。
(最終形態を教える前のことを思い出せって…か?)
 瞳を閉じると、前鬼と後鬼との修行イメージが浮かび上がった。まるで、それを思い出せと言わんばかりに強制的に画像が、脳裏に浮き上がり始める。


 ……。

 黙したまま、乱馬は、前鬼とのやり取りへと思いを馳せる。


『おめーに最終目標にしている技の到達点を見せてといてやろーか?』
「最終目標の技?」
『ああ…おまえだけが打ち込める、最大級の技だよ。「鬼」じゃなくて、「穏の波動」と言われる大技だ。実物を見ておくと、修行もしやすいんじゃねーのかな。』
 そう言って、飛び上がった前鬼に、後鬼が、ポッと体内から闘気を前鬼目がけて打ち上げる

(そうだ…。あの時、後鬼が発した隠の気を、前鬼は余すところなく、とらえたんだ…。そして、一気に、前鬼の体内から浮かび上がった陽の気に混ぜこんだっけ…。)
 脳裏に浮かび上がる記憶をたどりながら、乱馬は深く思い出す。

 後鬼の気は青白く前鬼の気は真っ赤だった。青い陰の気とが赤い陽の気。両者は決して混ざり合うことはなかったが、くるくると赤と青の毬玉のように、一つの闘気へと前鬼の掌で回転していた。

(前鬼は、陰の気と陽の気を、俺の体内だけで発生させて組み合わせる修行をさせたけど…。何も、一人で集めなきゃなんねーわけじゃねえ……。例えば、あかねから、陰の気を貰えば…。でも、あかねは気を完全に扱える訳じゃねえ…。受験で長らく、修行からも遠ざかっていた筈だ…。じゃあ、どうする?)


 考え込んだ時、別の人格が、ざわっっと脳内へと割り込んで来た。


《たく…何ちんたらやっとんねん…このまんま、朱点がとりついた、おじぃーにやられるつもりけ?》
 懐かしい、その声の響き。流れるような関西弁。
(凍也!)
 そう思ったところで、フッと溜息を吐き出した。
(死んだ奴の幻聴が聞こえるなんて…いよいよ、あぶねーか…俺…。)
 そう思ったところで、懐が一気に熱を放射した。
「あちちっ!熱いっ!」
 思わずのけぞりそうになる。
「どうしたの?」
 あかねが心配げに乱馬を覗き込む。
「あ…いや、ちょっと…。」

 そう言いかけたところに、また、凍也の声が、頭の中で響いた。

《たく…人がせっかく助言をくれてやろうとしてるのに…。集中せんかい!くぉらっ!》
 かなり大きな声が響いてくる。
(凍也…てめー、本当に凍也なのか?)
《ああ…。他の誰の声に聞こえるっちゅーねん!》
(でも、おめーはもう…。)
《…確かに、肉体は滅んでしもーたけどな…。まだ霊魂はここにおるでー。》
(霊魂って…おめー…。)
《おっ死んで、まだ日が浅いさかいになあ…。あちらの世界へ行ってねーんだよっと。》
(とどのつまり、成仏してねーのか?)
《ああ、一応、四十九日まではこちらに居てもかまわんのや。で、幸いここは異相の空間と同じ性質持っとるから、こーやって、おまえと話できるんやんけ!》
(ちょっと待てーい……おめー、俺と一緒にくっついてたのか?)
《ああ、ずっと大阪から同行しとったけど…。》
(大阪から同行だあ?)
《みさきが気ぃきかせて、俺をおまえに預けてくれたさかいになあ……。せやから、こーやって、おまえに直に話せる機会ができたわけや。》
(おい…みさきさんが俺に預けたって…?どーゆーことだ?)
《ずっと、おまえの懐におったけどなー…。》
「ずっと、懐に居た」…その言葉に思わずハッとした。
 懐の中にあるものは、御守と月の石と、そして謎の青い石だ。この中でみさきが乱馬に預けたのは、青い石。
(もしかして…この青い石って…。)
 にたあっと、乱馬の思考を呼んだ凍也が、頭の中で笑った気がした。
 間違いない。どういうことか、細かい事はわからなかったが、みさきが預けた「青い石」は「凍也、そのもの」らしい。
《たく…おめーがちんたら考え込んでるから、こうやって、わざわざ、石の中から抜け出してきてやったんやないけ!》
(ってなー!俺がこうやって苦労してるのは、誰のせいだと思ってやがんでー!》
《だから、アドバイスしたるっちゅーとんのやんけ!四の五の言うな!時間ないし、手短に教えたる。よう耳かっぽじって聞け!》
(お…おう…。)
 ここは考え込んでいる暇も無かった、相手が幽霊だろうと亡霊だろうと、助言をしてくれるのなら、それに越したことはない。
《あかねちゃんから陰の気を吸い上げる、唯一無二の名案が欲しいんやろ?》
(あ…ああ…。)
 心の中で、凍也と頭を突き合わせて語り合っているような変な感じだった。
《そのとっておきの名案…それは…。》
(それは…。)
《…それは、あつーいベーゼやぁあああああっ!》

 ちゅどーん…と脳内の凍也のイメージが崩壊しかかった。

(こらーっ!真面目にアドバイスしやがれーっ!)

 思わず、そう突っ込みかけた。
《真面目やで…わいは大真面目や…。口から直接、貰ったら、ええやんけ。》
(簡単に言うな!簡単に!)
《相変わらず純なやっちゃなー!好き同志やったら、一気に行ったらんかー!》
(一気にっておめー…。)
《悠長に迷っとる暇なんてないやろが!あかねちゃんの純粋な陰の気をおまえの身体に普通に巡っている陽の気に混ぜこめば、穏の波動ができあがるんやないのけ?それとも、このまま、時間切れでみすみす勝機を逃す気か?》
 凍也ににじり寄られた。

 上空の朱点の読み上げる数は、既に九十を越えようとしていた。

《おめーも、男やったら、バシッと決めたらんかい!ええか?この戦いに負けたら元も子も無いんやど?俺との約束はどーなるんや?ええ?!》

 と、懐が再び、熱くなっていた。

(たく…他人事のように、たきつけやがって…。でも、迷ってる時間は無ぇーか…。)

 グッと拳を握りこんだ。
 乱馬なりに、決意したようだった。
 その傍では、あかねが、何か意を決したような顔つきをしていた。

《せや…やっと、その気になったか…。》
(ああ…。ありがとな、凍也。後は懐から見守っとけ!)

《ちゃんと、決めろや!》
 そう吐きつけると、すうっと、脳裏から凍也の気配が消えた。
 言うだけ言って、すっきりしたのだろう。

 乱馬と凍也のやりとりは、あかねには全く聞こえていない。
 乱馬が押し黙ってしまったのを、黙って傍で見ながら、あかねも己の考えをまとめていたようだった。

「あかね…。」
 閉ざしていた瞳を開くと、そのあかねに対して声をかけた。
「何?」
 急に名前を呼ばれて、あかねが戸惑いながら、乱馬を見据えた。
「おめー…あの朱点とか言う鬼にその身を投げ出すつもりじゃねーだろーな?」
 険しい瞳があかねを射抜く。さっと、あかねは視線を逸らせた。恐らく、そのつもりになっていたようだ。
「ったく…。おめーは隠しごとが下手だな…。まあ、そこまで決意してんなら、その前に俺に協力しろ。」
 強い光が乱馬の瞳に宿り始めていた。最終決戦に臨む、男の瞳だった。
「協力って?」
「実は…あいつに試してみてぇ技があるんだ。」
 グッと身を乗り出して、あかねを見据えた。
「試してみたい技?」
「ああ…。それには、おめーの協力が不可欠だ。」
 更に身を前に乗り出して、身体をあかねに密着させた。
 これまでの乱馬なら、「照れ」が入って、積極的にはなれなかったろうが、今は緊急時。手段を選んでいる余裕はない。是が非でも、あかねから陰の気を分けてもらわなければ、明るい未来は無い。勢いだけで突っ走る気満々だった。
「あたしにできることなら…何でもするわ。」
 乱馬の様子がいつもに増して、真剣なのに戸惑いながら、あかねはそう、切り返した。
「じゃあ、目を閉じろ…。」
「は?」
「つべこべ言わずに、目を閉じろ!」
「わ…わかったわよ。目を閉じたらいいのね?」
 乱馬が何をしようというのか、あかねには、さっぱり見当がつかなかったが、そう命じられて、素直に瞳を閉じた。

 と…。乱馬があかねをいきなり、抱き寄せた。
 いや、それだけではない。ぐっと抱きしめられたと思った次の瞬間…。今再び、柔らかな唇が、降りて来た。

「ん…。」

 戸惑うあかねの口の中に、容赦なく舌先が分け入って来た。一度、口の中をからめると、体内の気を吸いあげれられていく感じがした。
 めまいがするほど甘い香りが口いっぱいに広がった気がする。

 一方、あかねの気を吸い上げた乱馬。
 丹田が、俄かにざわつき始めた。
 鬼の波動を修行した成果なのか、それとも、愛する者の気が己の体内に入って、無意識に喜んでいるのか…。
 あかねの唇を通じて、流れ込んでくる、清涼な隠の気。それは、呪泉郷で得た体質のせいで己の体内にくすぶっているわずかな隠の気に比べ、はるかに純粋で濃度が高い。体内に巡回していた己の陽の気の中にあるわずかな隠の気が、あかねの地から溢れる陰の気に触れて増幅し始める。
 そして、己の陽の気と反応して、一気に高ぶっていくのを、面白いくらいに感じていた。

 いきなりの抱擁にキスだ。
 上空の朱点も、読んでいた数を止めて、思わず、場をわきまえずに口づける、この若いカップルに、目を奪われた。

「ちょっと、何考えてるのよーっ!」
 あかねの平手が、乱馬の左ほおを強襲する。いきなりの濃厚なキスに、やっと、反応したのだ。
「こんな時に…何てこと…。」
 顔を真っ赤にして、吐きつけて来る。
 当たり前だろう。あかねには乱馬の魂胆など、わかろうはずがない。キスに主体があるのではなく、陰の気を貰うためにくちづけたと知れば、もっと、逆上しかねない。

「たく…相変わらず、かわいくねーなぁ…。」
 バチンと音が鳴ったその手を、がしっと抑え込んで、乱馬が笑った。

「ありがとよ…。あかね…。これで、一気に勝負がつけられるぜ。」
 乱馬に捕まれた右手に、ピリピリと電流のようなものが走って来る。見ると、乱馬の身体から、青と赤の美しい闘気が溢れて来るのが間近に見えた。
「え?勝負?」
 あかねはあかねで、乱馬の意図が見えない。でも、今のキスで、乱馬の中で、気の流れが、劇的に変わったことに、さすがの彼女も気が付いていた。

「じじぃー…いや、朱点!勝負だあああああっー!俺とあかねのありったけの気、その身体に受けてみやがれーっ!」
 乱馬の両手から、赤と青の二つの気が、朱点目がけて炸裂していく。
「きゃ…。」
 思わず声をあげて、あかねは、乱馬の胸へとすがりつく。
 その脇を、乱馬の放った気弾が駆け上がっていった。



つづく





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