◆天高く 第三部
第十四話 朱点、出現




一、

 つい先ほどまでこぼれていた太陽の光は、広がった雲間に隠れていく。
 キキキと鳥たちが、木立から舞い上がった。

 ピンと張り詰めた緊張感が、辺りを支配し始める。

「乱馬君…。」
 ぎゅっと拳を握りしめながら、みさきが、少し先を心配げに見つめている。
 その上には、千切れかけた注連縄が、風もないのにゆらゆらと揺られているのが見える。
「心配か?みさき。」
 寒太郎が、みさきへと頭を手向けた。コクンと揺れたみさきの頭。
「仕様のない子や…家でおとなしゅう、待っとったらええもんを…。」
 それを見ながら、寒太郎はボソッと言葉を投げた。
「乱馬君は、うちらの…表観月流のために、身体張ってくれてるねん。そんなこと、できひん。」
 みさきはキッと顔を上げて、寒太郎を睨み返した。
「せやから、見届けるんは、ワシだけでもかまわんのに…おまえまで、こんなところまで足を運んで…。」
「乱馬君は、凍也との約束を果たすために戦ってくれてるんや。部外者やいうのに…。」
「部外者か…。確かに今はそうやが…。」
「おじーはん。やっぱり乱馬君をウチとくっつけようと思ってるんやろ?」
 みさきの声が甲高く響いた。
 ピクンと寒太郎の身体が動いた。

 二人の上に、しばらく沈黙が流れて行く。

「流派を守るためには、それ相応の縁も必要やからなあ。乱馬君と添い遂げろ……とでもワシに言わしめたいのかな?みさき。」
 寒太郎の瞳がギラギラと光った。
 その、あまりにも面妖さに、問い質したみさきでさえ、一瞬、気後れしてしまったくらいだ。

(何…この、おじーはんの、荒(すさ)んだ感じは…。)
 みさきも、一定レベル以上の女流武道家だ。ある程度の気脈が読める。
 その彼女が、寒太郎の妖気を感じ取った。

「ふふふ…。甘いなあ…みさき。その程度しか、読めぬようでは、観月流の真の使い手にはなれんぞ。」
 と愉快そうに笑った。
「観月流のために…いや、ワシの野望のためには、乱馬君の身体は必要不可欠やからなぁ…。」

 そう囁いた、寒太郎から、妖気のようなものが流れていることに、みさきは気付いた。いつもとは違う、冷たい微笑みは、裏観月流の氷三郎や氷也とは一線を画した「何か」を漂わせているのに気づいたのだ。

「おじいはん?」
 みさきが、話しかけたのも無視して、寒太郎は語り続ける。

「もっとも、乱馬君だけやない…。氷三郎も氷也も…それから、乱馬君の許婚も、最大限に利用するんや…フフフ…。」
 ぼそぼそっと、みさきには意味不明な言葉を投げつけて来た。
「何、言うとん?おじいはん!あかねちゃんを利用するって…。そんなこと、ウチが許さへん!」
 睨み返しながら、みさきは吐きつけた。が、寒太郎は、視線でそれを一蹴する。瞳に浮かんだ怪しい光が、みさきの身体を捉えた。

「え…?」
 ドクン、とみさきの心音が一つ跳ね上がった。と、金縛りにあったように、手も足も口も、動きを止めた。かろうじて止まっていないのは、息と心臓だけだった。

「お前の意見など要らぬわ…。」
 寒太郎は、みさきに、そんな言葉を投げつけてきた。
「おじいはん?…いや、違う!誰や?あんたは!」
 みさきの顔つきがきつくなった。グッと、寒太郎がみさきの道着の襟ぐりを右手でつかみかかったからだ。
 尋常な力ではない。ともすれば、凍也よりも強いのではないかと、思えるほどの締め付けだった。

「自分の祖父を見まごうたか?みさき…。」
「せやから、あんたはおじーはんやない。おじーはんの身体をした…化物や…。」
 それを聞いて、寒太郎がみさきの締め付けを、強めた。
「うっ…。」
 必死で寒太郎から逃れようと足掻いたが、それもままならない。
「化物呼ばわりするな!みさきっ!」

 寒太郎の怒声が山中にこだまする。もちろん、結界の向こう側には聞こえない。

「みさき…。ワシが完全に鬼化しても、おまえは生かしておいてやろう…。おまえも、こやつの力を借りて、鬼化させてやるから待っておれ!わーっはっは!」
 そう言うと、口から青い吐息をみさきへと浴びせかけた。
 とても人間業ではない、何か…。それを嗅いで、気が遠くなって行く。
「おじーはんのアホ!」
 膝からガクッとみさきが前につんのめった。
 意識はすぐに混濁して、闇に飲まれていく。

 それを、すぐ側で、呆けながら見ていた、表観月流の若者たちへ今度はその視線を投げつける。
 そこに居た者、全員が、ヒッというようなおののきを上げながら、立ち尽くしている。
 何か、見てはいけない物を見てしまったような、そんな、重苦しい空気に包まれる。

「おまえたちも、邪魔や…暫く眠っていてもらおうかのう…。」
 にんまりと笑った寒太郎は、再び、口を開いて、青い吐息を吐き出した。
 
「う…。」
「大師匠様が化け物に…。」

 そんな言葉をはき付けながら、バタバタとその場に沈んでいく、若者たち。

「ククク…あとは、乱馬が凍也に勝てば、全てが整う…。そう、その時、この秘伝に書かれた大願が叶うんや…。さすれば、ワシは数百年、朱点の力で、若さを保って生きられる…。」
 さっき、乱馬が手にかけようとした木箱へと手を伸ばす。と、スッと、木箱が開いて、ひとりでに、中の巻物が上に浮かんだ。それを手に持つと、丁寧に、作務衣の胸元へと差し入れる。
「さてと…。後は仕上げや…。その前に、氷三郎を相手にしてくるかのう…。」


 寒太郎は、ゆっくりと、第一結界を再び越えて、第二空へと入って行く。そこには、裏観月流当主の氷三郎が控えていて、じっと、氷也と乱馬の戦いを見届けようと、真剣に観戦していた。


「フン、表の老いぼれも戦いの見物に来たか…。」
 氷三郎が、寒太郎の侵入を、皮肉たっぷりに迎え入れる。
 一発触発の不穏な空気が、第二空を支配し始めていた。
 表観月流と裏観月流の使い手同志の対峙だ。しかも、訳有の仇敵同志。含んだ空気が、戦慄に包まれていく。

「いや、見物以上のことをしにきたんやよ、氷三郎。」
 そんな言葉を口走りながら、寒太郎は氷三郎の前で歩みを止めた。
 
「見物以上のこと?ふふ、ワシとここでやりあおうとでも言うのかの?」
 フンと、鼻息を一つ投げつけると、氷三郎は、笑いながら寒太郎を眺めた。
「ふふ、そのとおりや。」
「フン、ワシはてっきり、あの、乱馬とかいう小僧が、氷也に血祭にあげられるところを、見物に来たのかと思うたが…。」
「それは無理やろうな…。氷也では、乱馬の相手にはならんやろうで。」
 淡々と、寒太郎は言い切った。
「大した自信じゃのう…。」
「ああ、乱馬は、あの伝説の鬼、前鬼の鬼修行をこなしたようやからな。我が、観月流一門きっての、憧れの修行をな…。」
「ほう…いくら鬼に修行してもらっても、所詮、技の伝授のみ…。朱点という鬼を直接憑依させた、氷也が力は上じゃ。この戦いは氷也の価値だ。」
 自信満々で、氷三郎が寒太郎を見返す。

「ふふふ、氷也に憑依したのが、本当に朱点だったら…だろう?」

 寒太郎は、氷三郎へと不敵な笑いを返した。

「それはどういう意味じゃ?」
 氷三郎が、寒太郎に問い質そうと、振り返ってハッとした。
 寒太郎の様子が明らかにおかしい。
 目は真っ赤に充血し、目の玉は金色に光り輝いている。いや、それだけではなかった。
 額の中央に、真っすぐな金色の角が生えているのが、はっきりと見えたのだ。

「寒太郎…おまえ、それは!」
 ギョッとして、氷三郎が、寒太郎の額を指さした。

「これぞ、朱点、憑依の証…と言ったら…おぬし、どうする?」

「いや…そんな筈はない。朱点は、現に…氷也の中に…。確かに、ワシは裏の奥義伝書に中に眠っていた、朱点を目覚めさせた。そして、氷也に憑依させた…。」
 氷三郎の声が、わなわなと震え始めた。

「フン…。氷也の中に居るのは、ただの、茨木の使い魔。茨木が目覚めるために必要な力を数百年にわたって蓄えていた、格下の穏(おん)の精霊に過ぎぬ…。裏観月流に伝わっていたのは、贋物(がんぶつ)の鬼の方や。それを、朱点と真に受けて、憑依させたか、面白い。ククク、ワハハ、あーはっはっは。」
 寒太郎は笑い飛ばした。

「どういうことだ?寒太郎!」
 氷三郎の顔色が変わった。

「何、簡単なことよ。おまえが氷也に憑依させたのは、茨木の使い魔、緑点。それが証拠に、氷也の瞳は、緑色であろう?」
 ハッとして、目を見開いた。
 確かに、氷也の瞳は、赤ではない。緑色に変化していたのを思い出したのだ。
「嘘じゃ!朱点は…。」
「嘘ではない。おまえの家、裏には「緑点」が…そして、表には「朱点」が封印された巻物が、分けられて伝えられていた…それだけのことや。それに、氷也に憑依した鬼は、「朱点」と名乗ったのかよ?何も名乗らないで氷也に取り入ったのではないのかのう?」
 氷三郎は黙り込んでしまった。
 名乗ったか否か、氷也に問わねばわからぬが、確かに、氷也に鬼が乗り移った途端、彼の瞳は「緑色」をしていた。


「お前は知らぬだろうが…。子供のころ、既にワシは朱点を手に入れておったのよ!」
 寒太郎は、語りながら、スッと、桐の箱を出し、蓋を開いた。
 
 ジュワジュワっと音がして、赤い、異様な煙が中からしみ出して来る。そいつは、暫く、第二空を漂っていたが、一斉に、氷三郎の方へとまとわりついた。

「くっ!」
 氷三郎が避けようと、気弾を打とうとしたが、その前に、赤い煙が、氷三郎を捉えた。ただの煙ではなく、手ごたえも力もある、不思議な煙だった。
「寒太郎…貴様…最初から、これが狙いで…。」
 締め付けられる苦しさに顔をゆがめながらも、氷三郎は果敢に寒太郎へと問い質す。何かを思い当たった様子だった。

「ああ、そうや。この巻物を見つけたのは戦後まもなく、蔵を掃除していたころや。この桐の箱が、ワシを名を呼びながら、声をかけてきたんやよ。まだ、小学生にも満たない、幼いワシにな…。『寒太郎、おまえ、朱点の依代になってはくれぬか…。』とな。」
 寒太郎が言った。

「そんなに前から…貴様に朱点が取り入っていたのか?」

「いや、得体の知れない化物の呼び声…幼過ぎて怖くなったワシは、早々にその薄気味悪い声のする箱を、蔵の長持ちへと戻したよ。そして、その記憶を、すっかり忘れてしまっていた…。せやから、日菜さんや家内と関係を結んだときは、真人間やったわ。やから、二人との間にできた、子供らは、鬼の子や無い。安心せい。」

「戯言を…。」

「戯言やない。この箱のことを思い出したんは、ほん、つい最近や。凍也が亡くなってからのことや…。凍也の遺品を整理しようとしていて、物置から「この封印の巻物」を再び見つけた…。
 いや、、この巻物が、ワシを呼んだんや。今一度、依代になってくれぬかとな…。
 もちろん、ワシはもう、隠居の身の上。ご丁重に断ろうと思ったが…こいつが、心くすぐるようなことを言うさかいに…。その気になってしもーたんや。」

 真っ赤な瞳を巡らせながら、寒太郎は話し続ける。

「心くすぐるようなことやと?」

「おまえにに、似たようなことを緑点が言ったんとちゃうか?復讐のために、我を憑依させよ、さすれば、何事も上手く行くとかなんとか…。
 この箱が言うには、朱点が憑依すれば、向かうところ敵なしとな…。若い肉体と尽きぬ寿命が得られるとな…。凍也亡きあと、途方にくれていたワシは、その言に従ったのよ。血潮溢れる者たちをたきつけて、闘いに望ませ、そして、最後にそ奴らの力を全て、朱点が吸収する…。そして、茨木と手を携えて、この現世に君臨する…。覇権と不老が同時に手に入るんやで?誰が、断ると思う?」

 だんだんに、寒太郎の皮膚がどす黒くなり始めた。鬼の本性が露わになり始めていた。

「それに、好い具合に、氷三郎よ…おまえも、緑点を甦らせたことを、この鬼が教えてくれたんや。緑点は茨木をよみがえらせるために、この朱点が与えた、憑依鬼。それなりの穏の力は擁しているがいるが、ワシが憑依させた朱点の足元にも及ばぬわ。ククク。せっかくだ、おぬしにも、そに絶対的力の差を見せてやろうぞ。」

 ゴゴゴとうなり音が辺り一面響き渡る。

「クソ…やはり、己は腐りきった野郎だったのだな。」
「お前にクソ呼ばわりできると思うか?観月流を私怨で打ち砕こうとした、そんなおまえに…。」
 赤い煙は、氷三郎を締め上げ、第二空の地面へと投げつけた。
 ドサッと投げ出された氷三郎は、抵抗することもできず、地面に沈んだ。
「氷三郎、おまえは、己の無力を呪いながら、そこで、見ておれ。氷也と乱馬を下敷きに、ワシが朱点と完全に同化するまでをな…。ふははははは。」
 寒太郎はそう言い置くと、スッと鬼の形相を、皮膚の下へと仕舞っていく。角も赤い目も、すっと消えた。
 だが、おどろおどろしい、桐の箱の気配だけは、消えずにまとわりついている。

「そうか…。ワシにはクソ呼ばわりはできぬか…。確かに…ワシも寒太郎と同じ穴のムジナよ…。確かに、観月流に私怨を持ち込んだ…な。日菜よ…やはり、私怨など、格闘の世界に持ち込むべきではなかったのかもしれぬな…。」
 地面に沈んだまま、寒太郎の背中を見送る無念の氷太郎。
「時…既に遅しか…。くそう…。ワシこそ大馬鹿者じゃったのか。氷也、氷也あああ。」
 
 声を限りに叫んでも、空しく響き渡るばかりだ。

 決戦は第二結界の向こう側。最早、寒太郎の耳にも届いていまい。




二、


 一方、乱馬と氷也。

 彼らが対峙している第二結界の向こう側は、第三空。いわば、異世界の一歩手前だ。
 もちろん、己たちの預かり知れないところで、起きている異変を、微塵も感じていなかった。
 
 幾重にも張り巡らされた結界が、他の空間の視界も音も遮断していたのである。


「ちぇっ!やっぱ、一筋縄ではいかねーか…。」
 身体を、縦横無尽に動かしながら、乱馬はボソッと言葉をはき付けた。
 
 戦いの布陣を最初に切ったのは、乱馬であった。
 思い切り駆けだして、蹴りを氷也目がけて繰り出したのだ。
 ひょいっと、軽くかわされた。
 そして、交わしたその反動で、乱馬目がけて打ってくる拳。
 乱馬もその軌道をあらかじめ読んでいたので、スッと身を引いて交わした。と、ニヤッと氷也が笑うのが見えた。その冷たい笑いに嫌な気配を感じた乱馬は、手から軽く気弾を投げつけて、その反動で、身体を大きく反転させた。
 と、氷也が口から、何かを吹き付けるのが見えた。
 唾ではない。ふうっと、口を尖らせて、息を乱馬目がけて、吐きつけたように見えた。

 冷たい風が、ゴオオッと、口先からあふれ出してくる。氷の塊がいくつか、乱馬目がけて飛んで来る。

「やべっ!」
 軽くそう叫ぶと、全力でその風から遠のいた。

 ビュッと音がして、髪の毛が少し切れた。おさげが、すぐ後ろでなびいている。

「ふん!かわしたか。」
 氷也が吐きだした。

「そうか…。裏観月流も表と同じ…冷気を扱うんだよな…。」
 乱馬は体制を整えながら、問いかけた。

「ああ…。そうだ。にわか仕込みのおまえには、扱えない、冷気をも扱えるぜ、俺は…。」
 クスッと笑った。

「だろうな…。鬼をその身体の中に憑依させてる、てめーには、冷気だけじゃなくて、妖気も扱えるだろーしよー。」
 少し投げ気味に、言葉を投げつける。

「その鬼の力、試してみるか?」
 そう言うと、氷也は、再び、グッと身がまえた。
「え?」
 その姿に、鬼の容姿が重なる。それも、大きな角を携えた、大鬼の影が見え隠れし始めた。
「俺の中のこいつが、おめーとやりあいてえって、さっきからうるせーんだ!」
 そう言いながら、身体をよじらせた。もれ溢れて来る、氷也の異様な妖気に、さすがの乱馬も、唾をのみ込んだ。
 
 ゴゴゴと音をたてて、地鳴りが響く。ゆさゆさと地面が震えたように思えた刹那、氷也は気弾を乱馬目がけて、思い切り打ちだした。

 ドオオン!

 轟音が、辺りに響き渡る。
 結界の中が、ビリビリと揺れた。

 気弾が炸裂する刹那、乱馬は己の気弾を、内側から炸裂させた。気弾は気で打ち砕く。咄嗟に、繰り出した気の応酬。
 シュウシュウと音がして、目の前が開けた。

「ほお…。ある程度、おまえも気を扱えるのか。」
 氷也が目を見開いて、乱馬を見据えた。
「ああ…。」
 今の衝撃で、少しばかり、乱馬の胸元が肌蹴た。よれた襟元から、逞しい胸板が覗いている。
「それに…おまえ…、なかなか面白い体質を持ってるって、俺の中の鬼がが教えてくれたぜ…ククク…。」
 氷也が笑った。おそらく、女体に変化できる能力を、氷也の中の鬼に見切られたのだろう。

「だったら、どーなんでい!」
 つい、ムカッとして、声を張り上げた。

「決まってる、こうしてやるんだよ!」
 そう言って、氷也は、バチンと指を打ち鳴らした。と、天上からドドドと水が落ちて来た。雨というより、バケツでもひっくり返したような水が、一斉に、乱馬の頭から注ぎ込まれた。
 乱馬の身長はみるみる縮み、女体変化していく。

「な、何しやがるーっ!」
 甲高い声で、叫びつけた。

「ふふふ…。女体化する変身人間か…。とんでもねえ、爆弾を抱えてやがったな!乱馬っ!」
 氷也がからかうように笑った。

「うるせー!修行の結果だ!好きでこんな体質になった訳じゃねー!」
 乱馬の悪いところ、それは、ムキになると、つい、冷静さを欠いてしまうことだろう。
「そんな、可憐な姿で、俺様と闘うとでも言うのか?」
 明らかに、見下してくる氷也に、カチンとなった乱馬。
「闘っちゃ悪いかーっ!」
 飛び上がって、氷也に浴びせかけたのは、猛虎高飛車。
 ゴオオと音がして、猛虎高飛車の砲弾が氷也の上で炸裂する。と、バアンと音が弾けて、氷也の身体が後ろ側へ吹っ飛んでいく。

「へええ…。女体化しても、気の精度はそう、落ちねーか…。でも…。」
 後ずさった身体を立て直して、氷也も、気弾を浴びせかけてきた。

「っと!つかまってたまるかよっ!」
 乱馬は真横へと避けたつもりだった。
「え?」
 キュンと音がして、氷也が放った気弾が、乱馬が逃げた方向へと、急旋回した。
 ズッドーン!
 交わしたと油断した乱馬の真上で、思い切り気弾が弾け飛んだ。
「うわあああっ!」
 軽くなった肢体が、烈風に吹き飛ばされて、虚空を舞う。
「くっ!」
 このままでは落下すると思われた時、掌を開いて、気弾を投げつけ、その反動を利用して、落下速度を緩和させた。そして、かろうじて、膝から着地した。
 ボロッと道着が肌蹴て、白い胸元が覗き出す。乳胸が、はちきれんばかりに道着の襟元からはみ出していた。いつ見ても、情けなくなる、胸のふくらみだ。

「へええ…胸もそん所そこらの女よりでかいじゃねーか!」
 カラカラと笑いながら、氷也が焚きつけてくる。

「てめー、いい加減にしやがれーっ!」
 冷静さを失った乱馬が、ムキになって、やみくもに気弾を氷也目がけて打ち付けた。

 ゴオオ―っ!

 乱馬の闘気が、氷也目がけて、飛んでいく。
 と、ニヤッと氷也が笑った。その様子を見て、闘気をぶっ放した乱馬は、ギョッとした。
 己の放った闘気は、氷也を玉砕するどころか、すっと前に出された氷也の左手へと、吸い込まれて行くのが見えたのだった。
「な…なんだ?俺の気弾が吸い込まれて行く?」
 打ち終えて、着地した乱馬に向かって、氷也が笑った。

『旨い…旨いぞ…。女の気は…。』
 氷也の口から、別の声が漏れ聞こえて来た。

「なっ…鬼の声か?」

『もっと、食いてー、もっとだああっ!』

 そう叫んだ氷也の身体が一瞬、揺らめいたように見えた。
 くわっと見開いた氷也の瞳は、緑色に変化していた。それは、最早、人間のものではない、魔物の瞳であった。

『ふふふ…。この氷也ってガキ…沈んだか…。代わりに、俺様は、女の気のおかげで、力がみなぎる。みなぎるぞおぉぉぉっ!』
 氷也は、異様に喜び勇んでいた。

「どうやら、氷也を意識下に置いて、鬼が表面に出てきやがったか!」
 乱馬は、汗をぬぐいながら、はっしと氷也を見つめた。

『もっと…俺に力を…。』
 そう言いながら、氷也を乗っ取った鬼が、女に変化した乱馬へと視線を巡らせた。


「くっ!」
 乱馬は後ろへ飛び退くと、だっと身を翻して、逃げ始めた。
「攻撃すれば、気を食い尽くされる…。こいつは、厄介だぜ。」
 氷也の身体に巣食った鬼が、表面にまで出てきて、乱馬を捕まえんと襲い掛かってくる。
「畜生…。男に戻らねえと…。でも、ここに、お湯はねえ…。」
 ゆらゆら揺れる、人界と冥界の境目だ。しかも温泉地ではない。湯など沸きだす筈もない。

『もっと…もっと…。食わせろー!』
 氷也の身体を借りて、鬼が乱馬へと迫りくる。

 女の身体で唯一、男に勝るのは、俊敏さだけだ。氷也はすっかり鬼に心を乗っ取られてしまったようで、繊細な動きはしていない。ただ、それだけが、乱馬にとっての利点だった。
「せめて、ここに熱気さえあったら…。」
 グッと掌を見る。
 気弾が朱点鬼の餌となるならば、微塵も打てない。鬼の波動を使うには、ある程度、気を溜める時間が必要だった。となると、飛竜昇天破くらいしか、有効な手段はない。が、昇天破を打つためには、熱気と冷気、両方が必要だった。
 残念ながら、ここには肝心な熱気が無い。それに、季節は早春。闘っている結界内は、凍えんばかりに冷えている。

「クソ…どうする?」
 何か策は無いものかと、考えを巡らせ始めた時だった。

 と、足元を、何かにつかまれた。

「わっ!」
 思わず、後ろに尻もちをつく。
 見ると、右足に、つる草が絡みついていた。そいつは、意志を持っているかのように、ずるずると乱馬を引きずり始める。
「な…なんだ?こいつはっ!」
 ふりほどこうと、植物に手をかけたが、びくともしない。
「はやくふりほどかねーど!」
 と、今度は、氷也にとりついた鬼が、両手をあげて、乱馬へと襲い掛かってくるのが見えた。
「くそっ!肉弾戦しかねーのかっ!」
 咄嗟に身構えて、鬼へと飛びかかろうとしたその刹那、地面から這い上がった、つる草が鬼目がけて、絡みついていくのが見えた。
 
 ビシッ!

 電流のような光がつる草を通って、鬼と化した氷也の身体目がけて、走って行くのが見えた。

『ぐおおおっ!』
 つる草に攻撃された鬼は、その場にうずくまる。
 そして、一言、投げつけた。
『何をする!茨木っ!』
 ギリギリと歯を食いしばりながら、叫んだ。
 
「茨木?…ひょっとして仲間か?」
 ギョッとして、乱馬が問いかける。

『たく…。われらの復活のためには、この、坊やの闘気が必要なんだよ!』
 闇の向こうから、女の声が響き渡った。

『だが、こやつの気は旨い。この気が食いてー。』
 立ち上がりながら、氷也に巣食った鬼はゆっくりと体を起こした。今の転倒で、口元が少し切れていて、赤い血が頬についている。それを、手で拭い去りながら、氷也の身体越しに、女乱馬を見据える。
『うまくても、こっちにやって貰わないと、困るんだよ。じゃないと、われらが復活できないだろーが!それとも、ここで滅してやろうか?緑点!』

 再び、根っこをバリバリと渡って、氷也の身体に電撃が流れ込む。

『わかった…。わかったから、やめろっ!茨木!』

『わかったんだったら、さっさと、その子をこちらへお寄越し!』
 女が怒鳴った。
『好いぜ。』
 ゆっくりと、氷也が乱馬を見据えた。その瞳は、緑色に輝いて見える。

「やるか?」
 乱馬は立ち上がって、身構えた。
 足にはまだ、つる草の根がまとわりついている。この、状態で、どこまで鬼化した氷也とやり合えるかはわからなかったが、諦めてしまう訳にもいかなかった。

『いや…ここで闘っても、無意味だ。』
「どういう意味だ?そいつは…。」
『おめーには、結界の向こう側へ、行ってもらう。それでこそ、初めて、闘いに意味を持つ。』
 そんな、突拍子もないことを言い始めた。
「結界の向こう側だと?」
 きびすを返した乱馬に、
『ああ…。第三結界の向こう側…第四空だ。』
 そう言いながら、乱馬の背後を指さした。
「嫌だと言ったら?」
『そんなことは、言わせない!俺さまが直々に連れて行ってやる!』

 ゴオオオッ…

 一陣の風が結界を越えて、こちら側へと吹き始める。
 まるで、乱馬に早く来いと言わんばかりに、生暖かい風がまとわりついてきた。
 第三結界を越えれば、人外の世界…。確か、寒太郎がそんなことを言っていた。

 グッと乱馬を掴んでいたつる草に、再び、力が加わったような気がした。
「うわっ!」
 再び、強い力が足にかかり、大きく尻もちをついてしまう。
「な…何だ?こいつ!」
 ズルズルとつる草が乱馬の足を、結界の方へ向けて、引っ張り始める。
 そうはさせじと、踏ん張ろうとしたが、何もない空間だ。すがりつく岩も木も何も存在していない。地面へと這いつくばって、堪えようとしたが、無駄な抵抗だった。
 ズル…ズル…。
 足にまとわりついたつる草は、ゆっくりと、でも、確実に、乱馬を結界へ向かって、引っ張って行く。

「くそっ!食らえっ!」
 バンとつる草へ向かって、気弾を浴びせかけた。
 と、バシッと音がして、つる草の表面が、かい離した。
「気弾の攻撃は有効って訳か!」
 そう言って、気を連打しようとしたとき、グッと両肩を氷也に捕まれた。
『無駄な抵抗はよしな…。』
 氷也がすぐ後ろで、ニヤッと笑った。
『氷也…てめー…。』
『そんな顔をして睨むなよ…。これが、俺の役目なんだ。』
 そう言いながら、乱馬の身体をがっしりと抱えた。
 と、再び、つる草がもうもうと地面から現れて、今度は足だけではなく、胴体や手、全身に巻きつき始めた。
 乱馬は、それを振りほどこうと、再び、丹田に気を集中させた。その様子を見ながら、氷也が言い放った。

『おっと…。気弾を打とうとしても無駄だぜ…。女に変化した身体に、俺がしがみついてんだ…。下手に打ったところで、俺様がさっきみてーに、喜んで食らうだけだぜ…くくく。』

(くそっ!この状況じゃあ、第三結界を越えて、第四空へ落ちるしかねーのか!)
 
 ズルズルと不気味な音を響かせながら、つる草は、乱馬を第三結界の向こう側の闇へと誘う。

『本当の、地獄はこれからだぜ…乱馬。』
 鬼が、耳元でそんな言葉をはき付ける。
 そして、遂に、二人諸共、第三結界を越えて、闇の中へ、真っ逆さまに落ちて行った。


二、

 それは確かに、闇の大穴だった。
 ふわっと身体が浮き上がったかと思うと、万有引力に引っ張られて、勢い良く落下していく。
 そのスピードたるや、尋常ではなかった。
 まるで、高速で吸いつけられるように、落下していく。いや、落下していくのか、空間を越えているのかさえ、おぼつかなかった。
 闇と思っていた辺りは、虹色に輝いているようにも見えた。いや、色数は、はっきりしない。ただ、光の三原色が一気に流れていくような感覚だったかもしれない。己の色彩感覚が、おかしくなったのではないかと思えるほどのスピードで、引っ張られて行く。

 落下地点に至って、衝撃があったのか、それとも無かったのか。途中で、気を失っていたのかもしれない。

 フッと意識が浮き上がった時、仰向きのまま、見上げた空間は、墨色をしていた。
 真っ黒ではなく、灰色の空間がどこまでも広がっている。ところどころ、どす黒い闇が煙のように棚引いていた。
 その空間の何処かから、己を呼ぶ声がする。

『よく来たねえ…ぼうや…。』
 
 その声に、ハッと意識が戻った。

「こ…ここは…。」

 落ちるまで一緒に居た、氷也の姿は見えない。気を張り巡らせても、気配も察せない。
 ただ、右足に、あの「つる草」がしっかりと絡みついているのが見えた。
 しかも、ただのツルと思っていたそいつに、棘とそれから緑色の葉がぽつぽつとついているのが見えた。

「ちぇっ!まだ、女に変身したままか。」
 己の身体を見回しながらがっかりした。
 胸はふくよかに膨らみをたたえ、そして、手も足も短くて白い。髪の毛も赤みがかかっている。
 仰向け状態から身体を起こし、座り込む。不用意に立ち上がるのも、気が引けたからだ。
 氷也の気配はすぐ側には感じられなかったが、きっと、どこかで見ているのではないかと、そう思えたからだ。
 念のために、いつでも、闘えるように、細心の注意を払いながら、辺りを伺う。
 墨のような灰色の空間。
 大峰山中で、後鬼に招き入れられた真っ白な空間ではない。ましては、前鬼と修行をこなしたピンク色の空間でもない。
 だが、何故か、あの鬼たちと接した空間と似ているようにも思えた。

「こうしていても、らちがあかねーな…。」
 と、右足に絡みついているつる草が、目に入った。真っすぐにツルが、とある方向から伸びていることに気付いた。その先端は見えない。ずっと奥に、続いている。
 何かを意図しながら、乱馬をそちらへ手向けようという魂胆が、見え隠れしているようにも思えた。
 意を決して、重い腰を上げると、つる草が、ビクンとわなないたようにも思える。
「俺に、来いってか…。いーぜ、行ってやる。」
 そう、吐き捨てて、歩き始める。

 ザッザッと、土もないのに、地面から足音が響いてくる。
 色は違えど、前鬼や後鬼が潜んでいた空間に似ている。
(確か、後鬼は「滅相の空間」そして前鬼は「生相の空間」を操っていた…。あいつらの居た空間と、そう雰囲気が変わらねえ…。)
 それは、乱馬の直観だった。
 短時間とはいえ、前鬼と後鬼、それぞれが作り出した「穏の精霊の空間」に身を置いた。
 穏の精霊は、それぞれ、自分に似合った「仏法の四相の中の一空間」を作り出し、そこに潜むのだと、あの二人が言っていたことを、思い出したのだ。

「朱点って奴も、そして、多分、茨木って奴も、穏の精霊…だとしたら…。…ここも、あいつらが作っていた、生相や滅相と同じく、四相の亜空間かもしれねー…。」

 乱馬がつぶやいた言葉に、クスッと誰かがそばで笑った。
「だ…誰だ?」
 思わず、振り返る。

『ふふ…。おまえ…なかなか察しがいいこと。』
 ふうっと浮き上がる、女の声。結界の手前で、鬼と化した氷也を制したあの女の声だ。

「出て来いっ!化物!」
 立ち止まって、恫喝する。
 と、ゆらゆらと赤い火の玉のような鈍い光が、少し先で揺れているのが見えた。その火の玉を見てギョッとした。
 ゆらゆら揺れる炎の中に、鬼の顔の影が浮かんでいたからだ。両脇に角が生えている。容姿ははっきりとは見えていないので、実体ではないようだった。
『いいねえ…。いい。きっと、男の姿も、素敵なんだろうね…。そっちのでくの坊と交代させてやりたいくらいに…。』
 ぐるぐると炎は、乱馬へとまとわり付く。

『何を言い出すんだ、茨木!』
 と、すぐ背後で氷也の声が響いた。いつの間にか、氷也が姿を現していた。
『お黙りっ!使い鬼の分際で!わらわに物申すかえ?』
 メス鬼呼ばわりされたことが、頭に来たのだろう。氷也に激しく言い返していた。
 赤い炎は、真紅の色を輝かせながら、氷也の周りをぐるぐると廻っている。

『フン!俺がいなければ、復活できないおまえが何を言う…茨木。』
 氷也は、炎に向かって、偉そうな態度を示している。

 茨木と呼ばれた火の玉は、激しく氷也の上を飛び回り、やがて、少し奥まったところへと、下がった。
『ならば、さっさと、片づければよいわ。』
 少し不機嫌な言葉を、氷也へと傾けた。

『ああ…そのつもりだ…。決闘の再開と行こうぜ、乱馬。』
 と氷也は身構えた。
「再開…と言う割には、おめーに圧倒的に有利な状況を作り出しやがって…。」
『不服か?』
「ああ、不服だ。不公平すぎるだろ?」
 乱馬は氷也を睨みつけた。
「せめて、男に戻してもらわねーと…。」
『それは無理な話だ。』
「何故だ?」
『そんなの決まってるだろ?俺様が貴様の闘気を吸い尽くすからだ…。』
 クスッと氷也が笑った。いや、笑ったのは、氷也の中の鬼のようだった。

「さっき、女に俺の闘気を食って、散々文句言われたのに、また、食らいつくってか?」
 乱馬が身構えながら、問い質す。

『さっきは、第三空だったからな。あそこはまだ、人界だ…。けど、ここは、人界から切り離された穏の世界だからな…。』
 クスッと氷也が笑った。
「やっぱ、ここは穏の作り出した空間…。従って。冥界じゃねえ…。」
 乱馬が吐きつけると、氷也が言った。

『穏の精霊…いや、正確には、なりそこないの「人でなし」が作った「疑似四相の住相(じゅうそう)の空間」だ。』
 そう、氷也が言うと、バリバリっと空間がわなないた
「なりそこない」や「人でなし」という言葉に、茨木が反応でもしたのだろう。
『お黙りっ!緑点!おまえも、私と同じような者だろーが!』
 よほど、腹に据えかねたのだろう。氷也の方へ、再び、根っこが伸び上がる。
『おっと…そう何度も同じ手を食うかよ!』
 氷也が上へと飛び上がって、根っこの攻撃をを避けた。

 どうやら、氷也の中に巣食った鬼と、茨木という鬼は、仲が悪いらしい。
 そのおかげで、少しばかり、作戦を練るだけの余裕ができた乱馬だった。


(氷也に憑依したのは、緑点…。朱点じゃねえのか…。)
 乱馬は茨のツタとやりあう氷也を眺めながら、己の考えをまとめていく。
(確かに、朱点ならもっと迫力があるだろーし…。朱点の愛人だった「茨木」は、ああも機嫌悪くなるめー。)
 前鬼と後鬼との間にあった、「痴話げんか」とは明らかに一線を画した「不仲さ」が、目の前のやり取りにはあった。

(ここが穏の精霊が作った亜空間だ…としたら…俺にも勝機はある…。)
 鬼たちのやり取りに注意を払いながら、乱馬は冷静に策略を巡らせ始める。

 後鬼の「疑似滅相空間」それから、前鬼と修行した「疑似生相空間」。それぞれの鬼たちの律する亜空間へ身を置いて修行にした。
 鬼の波動…すなわちそれは、体内に巡る気を、最大限に利用することに、その本質があった。
 男なら陽の気。そして、女なら陰の気。それぞれが律しやすい。

『乱馬…おめーなら、男の陽の気だけじゃなく、陰と陽。この二つの気を組みかえなおすことができるだろーぜ。』
 修行を授けながら、前鬼が言った言葉を思い出す。
『だって、乱馬…おめーは、呪泉で溺れたおかげで、男と女の間を駆ける身体になる、両性具有の性質を持ち合わせてやがるからな。感謝するんだな、その体質を!』
 前鬼が示唆したとおり、乱馬にとって、さほど難しいとは思わなかった。
 短時間の修行ゆえ、前鬼と後鬼、それぞれに気の流れを教わった。そして、最後に、陰の気をと陽の気を別々に律することも教わったのである。
 仮の姿の女の気は陰の気は青。そして、本質の男の陽の気は赤。その色イメージで分けることを覚えたのだ。

 乱馬は、前鬼と後鬼に教えられたとおり、右手に陽の気を、そして、左手に陰の気を、それぞれ分離しながら、集め始めた。
 心を平らにして、丹田に気を集中させ始める。
(左手に陰の気を…そして、右手に陽の気を…。イメージは…青色の気と赤色の気…。)
 前鬼と後鬼との修行で培った技で、左右に振り分けるように気を循環させ始めた。

(へへっ!やっぱり、ここは、穏の精霊が作り出した亜空間ってか。ビリビリと集まってくる気が振動してやがる…ってことは、あの技が有効になるってことだ!)
 乱馬の体内で分かれていく陰と陽の気。
 
 
 乱馬が技を仕掛けようとしていることなど、気付きもしないで、氷也(緑点)と茨木は、しばし、言いあいを続けていた。

『とにかく…茨木…。復活してーなら、黙って、俺様のやりようを見ておくんだな。』
 氷也はそんな言葉を、根っこへと吐きつける。
 と、根っこが納得したのか、氷也への攻撃をやめた。
『そうだね…。その子のほとばしる、女の気を…おまえがさっさと食らってしまえば、ことは進むわね。』
『ああ…。女の気は俺が食らい尽くして、残った屍は、おまえにやるぜ。』
 そう言いながら、ニッと氷也が乱馬へと向き直った。

 気を振り分けている素振りを伺わせず、何食わぬ顔をして、乱馬も、氷也を睨み返した。

『さて…。覚悟はいいか?乱馬。』
 氷也が乱馬へと声をかけた。
「何の覚悟だ?」
 乱馬が問い質すと、
『俺様に気を吸い尽くされて、屍になる覚悟だよ!』
「けっ!屍になんか、なんねーぞ!」
 と身構える。
『気負ったところで、そうなる運命からは逃れられねーんだぜ。』
 氷也はそう言いながら、ポンと一つ、手を打った。

 と、視界がさあっと開けた。

「あれは…何だ?」

 開けた視線の先に現れたのは、茨(いばら)の塊だった。
 よく見ると、人間か、鬼か…人形(ひとがた)の何かに巻きついているようだった。
 しかも、赤い小さなバラの蕾が、そこここに点在している。
 その、茨の塊の中から伸び上がった「ツル」が、乱馬の足へとまとわりついていた。しかも、人形に巻きついた茨は、ぞわぞわとうねりながら蠢いているのが、はっきりと見て取れた。
 決して、気持ちの言い眺めではなかった。
 恐らく、茨の塊、それ自体が、茨木という雌鬼の本体なのだろう。
 
 
『そら、気を吸い取るための核をあげよう。受け取りな、緑点。』
 茨の塊から何かが飛び出して来た。
 放物線を描いて飛んで来たその塊を、ひょいっと、氷也が両手で受け止める。
『さあ…緑点!その子をさっさと屍にしておくれ。』
『わかってるよ!』
 そう言葉を投げると、グッと氷也は受け取った茶色い塊を己の胸元へと突き刺した。
 どろっとした緑色の体液が、氷也の胸元から流れ落ちて、茨が投げた塊が、氷也の胸の奥へと消えていく。
『はあっ!』
 胸に塊が消えたところで、氷也が人差し指を上に印を結び、気合を入れた。
 と、どうだろう。
 メリメリッと音をたてて、氷也の胸から茨のツルが伸び上がる。そして、乱馬目がけて襲い掛かった。
「うわっ!何だこれはっ!」
 ツルはみるみる乱馬へとからまり、巻きついていく。
「くっ!」
 引きちぎろうと、茨を掴んで力を込めたが、微動だにしない。
 そうこうしているうちに、全身がツルに覆われて行く。ちょうど、目の前で傍観を決め込んでいる、茨木の塊のようにだ。
「くそっ!気持ち悪りー!」
 ぐるぐるまきにされ、じたばたともがくが、いっこうにらちがあかない。
 両手に溜めた気を、このまま、放出させて、ふりほどこうかと思ったが、グッとこらえた。
(今、気を微塵も身体から放っちゃいけねー!どの道、女に変身したままじゃあ、分離されてても、この気は全て養分として、氷也へと吸い上げられちまうのがオチだ。堪(こら)えろっ!)
 グッと踏ん張って、微塵も気を外へ出さぬよう、コントロールする。

『どーした?反撃しねーのか?』
 面白おかしく、氷也がすぐ側で煽り始めた。

「けっ!俺に気弾を打たせようと思ってるみてーだが…その手にゃ乗らねー!」
 舌を出しながら、乱馬は氷也を見下ろした。

『反撃したら、気を食われると思って、大人しくしてるってか……。ざまあねーな。じゃあ、今度はこれだ!』
 そう言って、氷也が少し動いた。と、途端、乱馬の全身に痛みが走った。
 絡まっているのは、茨のツルだ。当然のことながら、トゲがある。そのトゲが、一斉にうごめき、乱馬の女化した柔肌に、容赦なく突き刺さったのだ。

「くっ!」
 皮膚から、血が流れ落ちる。決して深い傷ではなかったが、全身を針に刺されたような痛みが走った。

『反撃しないなら、しないでも構わないぜ…。おめーに刺さったこのトゲから、少しづつ、気を食らってやらあ…。』
 べろっと舌なめずりしながら、氷也が笑った。
 と、途端、闘気が氷也向かって流れ出したのが見えた。

「ちぇっ!潮時か…。これ以上、闘気を持っていかれたら、闘えねえ…。」
 乱馬はグッと奥歯をかみしめた。

『へへ…女の気はうめーなあ…。この茨に縛られたまま、全部吸ってやるぜ…覚悟しなっ!』
 氷也はギュッと乱馬を縛る茨に力を込めた。茨のトゲを更にを乱馬の柔肌に食いこませようと、うねりを上げたその刹那、

「けっ!お望みなら、俺の闘気、もっと、食わせてやるぜーっ!ほら、ぶっこみなー!」
 乱馬は両手に溜めた、陰と陽、その二つの気を、同時に高ぶらせた。

 ぐわんっ!

 一瞬、空間がわなないたように思った。
 その瞬間、周りの空気の流れが変わった。
 と、乱馬を中心に、グルグルと気の渦が一気に、青と赤の二色の太陰太極図と化してゆっくりと回り始める。

『何っ?』
 今度は氷也がおののく番だった。

「へっ!だから、俺の闘気、思う存分、吸わせてやら―っ!」

 ゴオオー…。

 凄まじい烈風が乱馬の上を通り抜けて行く。
 と、乱馬の周りで水蒸気のような白い煙が弾けた。
 シュワッシュワッ!

『な…何だ。これは!女の気じゃねえー!』
 
 バウウンと、氷也の身体から、何かが弾け飛んだ。奴の胸の内にあった茨の塊と、それから、別の何か。
 カランコロン…そいつは、真下に落ちて行く。よく見れば、氷也の額に生えていた、鬼の角のようだった。
 それだけではない。みるみる、乱馬にまきついていた、茨のツルが真っ黒に変色していく。
 と、同時に、ツルはボロボロと崩れ去って行く。
 否、茨のツルだけではない、氷也自身からも、臭気が立ち上る。
『ぐわあああああっ!』
 断末魔のような叫び声が、氷也の喉から漏れ聞こえた。
 と、口からものすごい勢いで、こぶし大の緑色の塊が弾け飛んで行くのが見えた。
 そして、氷也は、ドオッと空間の底に倒れ伏してしまった。
 シュワシュワと身体から、緑色の煙は立ち上る。
 微動だにしない氷也。どうやら、戦闘不能に陥ったようだっだ。


『へええ…。なかなかやるねえ…。坊や…。』
 茨木が、感嘆の声を上げた。
『それに…。思った通りの、けっこう、男前じゃないか…。』

「へっ!鬼のおめーに褒めてもらっても、嬉しかねーがな…。」
 ぽろぽろと崩れ去った茨の中から姿を現したのは、男に立ち戻った乱馬だった。

『湯もないのに、どうやって元の男の姿に戻ったというのかえ?太陰太極図が浮かび上がったということは、あの鬼たちの術か何かかねえ…。』
 と問いかけて来る。

「ああ…。ここが穏の精霊が作った空間なら、湯がなくても、己の気を瞬時に爆発させれば、空にあるわずかな水分が膨張して湯に変わり、男に戻れるって、前鬼からちゃんと教わったからな。」
 少し得意げに言って退けた。
『そう…ここが穏の精霊の隠れ空間だということと、緑点の弱点が、男の闘気だと良く見抜けたこと…そこは褒めてやろうぞ。』
 居丈高に茨木が言い放った。
「ああ…氷也にとりついた鬼は、女の気は喜んで食らっていたが、俺の睨んだとおり、男の気が苦手だったから、助かったぜ。」
 ゆっくりと身構えながら、乱馬は茨の塊へと瞳を転じた。

『だが、おまえには、わらわは倒せぬわ…。』
 茨がくねくねと、蛇体のようにうごめきながら、乱馬へと脅しにかかる。

「へっ!やってみねーとわかんねーぜ…」
 乱馬は茨の塊へと声を荒げた。

『そんな、傷ついた身体で、まだ、戦うのかえ?』
 茨がゆらゆらと揺れながら、乱馬を見据えているようにも見えた。

「ああ…。おめーらを封印しねーと、この戦いは終わらねえ…なあ、寒太郎爺さんよ!」

 乱馬は、後ろ側に立った人影にも、腹の底から、声をかけた。




つづく







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