◆天高く 第三部
第十三話 結界線上の攻防




一、


『もう、夜が明けるわね。』
 ふと、後鬼の口から洩れ聞こえた言葉。

 と、同時に、乱馬の目の前で、解き放った闘気が思い切り、炸裂した。
 キラキラと輝く黄色い光と共に、空気がしびれた。

 ドオーン!

 今までに見たことも感じたこともない、大きな輪が瞬く間に広がり、ピンク色の空間を支配した。光と共に、闇が吸い込まれていく。そんな感覚を覚えた。

『へっ!最後の最後で、何とか物にしやがったか…。』
 目の前で、前鬼の声が嬉しそうに響いた。

 その言葉に反応したかのように、乱馬の周りの景色が変わり始めた。
 閃光の収縮と共に、ピンクの世界が、一気に白み始める。
 最初に後鬼と闘ったときのような、清涼な白い世界へと、景色が変化し始める。それも、一気にだ。
 と、同時に、前鬼と後鬼の姿が、薄っすらとかすみ始めた。

『ふっ、もう、時間か。修行は、ここまでだ。乱馬。』
 前鬼の声が、少し、低くなったように思った。そればかりか、自分と同じ背格好の彼の影が、俄かに大きくなっていった。前鬼だけではなく、後鬼の影も、見上げんばかりに大きくなり始めた。
『後は、己の力を信じて、闘い抜きなさい、乱馬。』
 後鬼のエールもモヤの向こう側から響いてくる。

「ああ…。きっと、俺は勝つ。悪鬼には負けねー!」

 その声を聞いて、ふっと二つの影が笑ったようにも見えた。


『それから、もう一つ、わかったことがある…。』

「あん?」
 いきなりの言葉に、思わず聞き返した乱馬に、前鬼は一言投げた。

『観月寒太郎には気をつけろっ!あいつに朱点が……。』
 乱馬に向かって、前鬼が何か言いかけた時、ピカッと辺りが光に包まれた。と同時に、ゴオオッと地鳴りが響く。

「おい、何だって?聞こえねえぞ!」
 前鬼が投げた言葉に反応して、大声で問い返した乱馬だった。そう、語尾が全く聞き取れなかったのだ。

『もう、お別れだ…乱馬。』
 最後にそう、大きく声が聞こえた。と同時に、乱馬の全身が光に包まれた。
 その光の中で、かろうじて、後鬼の声が響いた。前鬼より後鬼の声の方が甲高かったからだろう。
『乱馬、寒太郎が元凶の元…。朝日に当たった、日菜の石が教えてくれたわ…。だから、気を付けて!』

 と、その刹那、身体が思い切り光に引っ張られた。


『あとは、任せたぜ、乱馬…。』
『しっかりね!』
 多分、最後にそう聞こえたと思う。が、それも、不確かだった。


 さああっと溢れて来る光のの向こう側に吹き飛ばされた乱馬。前鬼と後鬼の姿も声も飲まれて消えていく。


 カカッ!

 黄金色の光が、頭上で炸裂したかと思った途端、世界は流転する。
 乱馬を取り巻いていた世界は、元の洞窟の中へと立ち戻っていった。
 鬼たちの影も見えなくなり、元の何の変哲もない洞窟へとすり替わる。
 もちろん、声も気配も全く感じられなくなってしまった。

 あっけない別れだった。

 感覚を研ぎ澄ませても、最早、鬼たちの気配は、存在だにしていなかった。
 まるで、夢を見ていたかのように、消えた二つの影。取り残されたのは、己の肉体。
 
 さああっと、太陽の光が、洞窟の入口の方から差し込めてきた。
 入口だけではない。
 レモン水晶と青い石を置いた、祭壇の上からも、朝の光が漏れてくる。
 レモン水晶の数は、一つに減っていた。寒太郎が差し出した石が、すっかり姿形を消していたのだ。おそらく、修行の証として、鬼たちが回収してしまったのだろう。
 にしても、何故か、みさきの母から預かった方、つまり、氷三郎の妹、日菜が持っていたレモン水晶が、手元に残されたのだ。
 月ではなく、今度は太陽の光を浴びて、美しく輝いている。
「何で、こっちが残ったんだろーな…。それに、最後の最後で、何で、あいつらは、あんなことを言ったんだろう…。」
 別れ際、唐突に投げられた言葉。
 『観月寒太郎には気を付けな。』という、前鬼の意味深な言葉だ。ちゃんと全部、聞き取れなかった。『彼が全ての元凶。』と後鬼までもが、言葉を投げて、夜明けの光と共に、虚空へ消えていった。

「別れ際になって、変な言葉を投げつけやがって!…意味わかんねーぞ!それに…俺には何も語っちゃくれねーよな…。この日菜さんの石は…。俺は人間だから、神通力はねーから、前鬼や後鬼みてーに、石の囁きが聞こえねーし…。」

 告げられた意味深な言葉を、ぐっと飲みこむと、祭壇に置かれた、二つの石を、懐へ忍ばせた巾着袋へと回収した。持っておけと、前鬼が言っていたのを思い出しながら、あかねとのおそろいの御守袋と共に、懐へと忍ばせた。

 どっこらしょと、重い腰を上げた。ところどころ、道着は破けている。剥きだしになった、肌は、確かに存在し、対峙していた、鬼たちとの修行の凄まじさを物語っているようたった。
 姿形は、女から男に立ち戻っていた。
 洞窟から出ると、朝の冷気が身体を包み込んできた。凍えるほどの山の冷気が、辺り一面を支配している。
 信仰の山らしく、清々しさを感じた。三日間、殆ど眠らずに駆けたのに、不思議と疲れは感じていなかった。

 と、がさがさっと音がして、にょっと寒太郎爺さんが結界の向こう側から、顔をのぞかせた。

「どうじゃ?鬼には会えたのかのう?」
 一瞬、どう答えようかと、迷った乱馬だった。
 今しがた別れた鬼たちの、最後の言葉が、耳元で甦る。
 果たして、正直に言ってよいものやら、迷った。
 後鬼は、修行の前に言っていた。。寒太郎は、偽物の黄水晶を持ち込んで来たと。おまけに、乱馬が持ち込んだ本物は、寒三郎の妹、日菜へ、前鬼が与えたものだという。
 何か、きな臭いものを、寒太郎から感じた乱馬は、
「まあな…。あれが鬼だったのなら、会えたと言っていいのかなぁ…。」
と、咄嗟に、曖昧な答えを返していた。

「ほう…。どんなふうやったんや?」
 当然の如く、寒太郎翁は、乱馬へと問い質して来た。
「ずっと、洞窟の中で、夢を見ていたみてーな…しいて言えば、そんな感じだぜ。」
「夢…?とな?」
「ああ。多分、鬼たちは、夢の中で、俺を修行してくれたんだろーぜ。」
「ほう…。なるほどのう…。おぬしのその、道着のほつけ方、確かに、誰かと闘った痕跡があるのう。」
 寒太郎は舐めるように、乱馬を見渡した。
「起きたら、こんなになっちまってたから、俺も驚いたんだけどよー。」
「そーか…。おぬし、前鬼だけではなく、後鬼にも会ったんか。」

 そう返されて、ハッとした。「男」には後鬼は見えないと。
 しまったと思ったが、「鬼たち」とはっきり口にしてしまっていた。

「何か知んねーけど…たくさん仕掛けてきやがったぜ。鬼は。」
「たくさん…やて?」
「こう、あちこちから、ふって湧いたように鬼たちが飛び出てきてよー。そいつを打ち砕かねーとならなかったんだよ!じゃねーと、死ぬと思ったからな。」
 と不機嫌そうに言葉を投げた。
 半分、本当の話であったからだ。ここに来る前の、前三日の最終日に遭遇した、女鬼の後鬼が、石灰人形をたくさん、繰り出して戦いを挑んできたことを指していた。
「で?黄水晶は?」
「目覚めたら、置いた祭壇から、無くなっていたぜ。きれいさっぱりな。」
 目をそらせながら、吐きつける。
「…無くなっていたのか…。なら、夢の修行も、嘘ではないようじゃな。夢の中で鬼と闘ったということが、観月家に伝わる文書にも書かれておったしのー。」
「じじいは、夢の中で、鬼と闘ったことはねーのか?」
 つい、声をかけてしまった。
 その言葉に、一瞬、寒太郎の表情が強張った。
 少し、間をあけて、寒太郎は言い流した。
「鬼は誰彼見境いなく修行をつけてくれるわけではないと言われておってのう…。どうやら、ワシは鬼には気に入られんかったようじゃ。夢どころか、何も見ず、後三日は終わってしもうたわい…。」
「黄水晶はどーなったんだ?」
「それなら、川に投げ捨てたわい。」
 と、少々不機嫌な言葉を投げた。

(多分、あいつらに、相手にされなかったんだろーな…。投げ捨てたのも…偽物だったわけだし…。)
 少し複雑な気持ちになりながらも、乱馬は黙った。

「観月流も地に落ちたかのー。余所者のおぬしには、修行をつけた鬼も、ワシや現当主のみさきの父親には音沙汰なしとはのう…。」
 ぼそぼそっと寒太郎の口から愚痴っぽい言葉がこぼれ落ちた。

(…ということは、みさきの父ちゃんも、前鬼は相手にしなかったってことか…。)
 グッと言葉を飲み込みながら言った。

「多分、凍也なら、修行をつけてもらえたんじゃねーのかな。」
 と。
 
「さてのう…。死んでしもうたから、そこのところは不明じゃのう…。」
 寒太郎は、くるりと背を向けながら、歩き出す。
「ほれ、降りるぞ。明日は、いよいよ、決闘の日じゃからな。」
「お…おう。」
 慌てて、乱馬はじいさんの背中を追いかけた。

(そうだ…。俺は、凍也の名代として、氷也と闘うんだ。フンドシ、しめなおさねーとな。負けたら、顔向けできねえ。今はそれに集中しねーと…。)

 ザッザッと音をたてながら、道なき道を里へ向かって降りて行く。
 途中、洞川温泉郷を見渡せた。川が一筋流れていて、その左岸に温泉宿が建っていた。古から、修験道の修行場として、女人禁制の戒律を、今も守っている聖なる山だ。
 それを、速足で駆け下り始める。その、背後から、少しばかり異質の気配を感じていた。
 三日間対峙していた気配。そう、これは、前鬼のものだ。じっと、山の頂から、乱馬が去っていくのを、見送ってくれているような気分になった。
『朱点の封印はおめーに任せたぜ。負けるんじゃねーぞ。』
 そんな、言葉が聞こえてくるようだった。
 「女人是禁制」と書かれた結界をくぐり抜けると、歩みを止めた。
 そして、山を振り返りながら、パンパンと柏手を打った。

(ありがとな…。前鬼…それから、後鬼。修行の成果、出してやるぜ。敵が誰だろうと…俺は負けねえ…。)
 心の中で、そう唱えると、くるりと背を向けた。
 不思議に、心は澄み渡っていく。山に背中を押されているような気分になった。
 風がざわざわと、乱馬の上で舞っている。
 
「こら、何をしておる!冬場じゃから、バスの本数は少ないんじゃぞ。遅れたら、数時間来ないんじゃぞ。」
 寒太郎が先で、怒鳴り始めた。なかなか、乱馬がその場を動こうとしないのに、しびれを切らせたのだろう。

「わかったよ、急ぎゃいーんだろ?急ぎゃあ!」
 乱馬はそう吐き捨てると、爺さんを追って、速足で歩きだした。
 山を抜けてしまえば、舗装道路も通っていたが、バス停は温泉郷の入口にある。ここから、半時間ほど、歩かねばならない。
 しかも、冬場は凍結もあるため、路線バスの本数もかなり減らされている。乗り遅れれば、ぼんやりと待つしかないのだ。寒太郎がせかすのも無理はない。

(この山で修行したことは、俺の血肉になっている。来るときに比べて、身体が軽いのも、そのせいなんだろーな…。)
 グッと握りこむ拳。
 氷也とは、命を賭した死闘になるだろう。相手は朱点という邪鬼を憑依させているという。いや、下手をすれば、鬼が氷也の身体を取り込むかもしれない。そうなると、厄介だということも、前鬼からは教わっている。
(恐れたところで、相手は未知の化物だ。でも、絶対、俺は負けねえ。)
 
 そう、心で念じなら、温泉郷を後にした。


 そのまま、山を下って、バスに乗り、電車に乗り継いで、天王寺近辺まで帰るのかと思いきや、「橿原神宮前」という駅で、爺さんは電車を下りた。

「あれ?どこへ行くんだ?」
 一緒にホームへ降り立った乱馬が、寒太郎へと声をかけた。
 確か、来た時、乗り換えなどしなかった筈だからだ。
「いいから、急ぐぞ。」
「おい、待てよ!」
 階段を駆け下り始めた爺さんを、慌てて追いかける。
 階段の下には、通路があって、別のホームが開けてきた。同じ構内だが、結構距離がある。
「こっちじゃ。」
 爺さんは、改札口を出る訳でもなく、「奈良線」と書かれたホームへと急ぐ。
 別のホームは、始発駅らしく、電車止めがある。
 と、発車案内の音楽が鳴り始めた。
 地の理が全くない乱馬だ。こんなところで、乗り遅れたら、迷子になる。
 何とか、ぎりぎりで電車に乗れた。「京都」と方向幕に表示されていた。

「へえ…このまま、乗ったら京都へ行けるのか。」
 きょろきょろとあたりを見回しながら、爺さんへと問いかける。
 平日の昼間だったから、人はまばらだ。
 どっかりと、小豆色のシートへと腰かける。
「ああ…。決戦の場には、先に入っておこうと思ってのう…。」
 爺さんが声をかけた。
「決戦の場所?」
「そうや、決戦の場所や。生駒へ行くぞ。」
「イコマ?」
「古来、平城(みやこ)の地に、禍が及ばぬように張り巡らされた結界のうち、まだ、作用している場所やからなあ…生駒山は。」
 寒太郎翁は、そんなことを言い出した。
「また、わけのわかんねーことを…。」
「役行者は行基といった、高名な優婆塞(うばそく)が、修行を積んだ山でもあるさかいになあ。」
「大峰山みてーな、山なのかよ?」
「いや、大阪と奈良の県境にある、標高六四〇メートルくらいの山やけどな。でも、神武東征の妨げになった、ナガスネヒコなどが支配していた山でもあるんやで。大峰や熊野ほどではないが、生駒山も、霊山やと呼ぶ者も、結構いはるよってなあ。」

 橿原神宮前から半時間ほど揺られて、大和西大寺で乗り換え、更に十分ほど行って、生駒に着いた頃には、日も傾き始めていた。
 山間の土地らしく、日暮れは早そうだ。
 もちろん、初めて足を踏み入れた土地だ。今、己がどこに立っているのかさえ、想像もつかない乱馬だった。
「さてと…今夜は、ここで一宿一飯や。」
 寒太郎翁は、駅を出ると、ひなびた商店街へと足を踏み入れた。
 いかにも…といわんばかりの、人影まばらなアーケード街だ。それも、すぐ途切れる。並んでいるのは、八百屋や小さな洋装店ばかりだ。スーパーマーケットすらない。
「何か…人も少ねーな…。」
 寒さも相まって、ぽそっとそんな言葉を投げた。
「まあ、昔は、宝山寺の門前町として、そこそこ栄えとったんやけどな。」
 寒太郎は先を歩きながら、ぼそぼそと言葉を返して行く。
「宝山寺?」
「ああ…、役行者が開いたという修行所が、後に寺になったところや。弘法大師も修行したとも伝えられてるんや。生駒昇天さんって呼ばれて、商売人に信仰されとる、真言律宗の古刹や。」
「ふーん…。」
 寺の云われなど、全く興味のない乱馬だ。右から左へと、寒太郎の話は、するりと流れて行く。

 宝山寺。
 役行者や弘法大師が駆けた古刹で、鎌倉時代以降は一旦、衰退したが、江戸時代に、湛海という僧侶が中興したとき、歓喜天を配した。歓喜天は現世利益を生み出す、強い御利益があり、商売の神様として、大阪商人の信仰を集めたのである。もちろん、現在でも続いていて、まばらではあるが、参道には人が絶えない。
 その宝山寺を目指すために、近畿日本鉄道(近鉄)が日本で一番最初の「鋼索線(ケーブルカー)」を引いたのは有名な話だ。生駒から宝山寺。更に、生駒山頂へと登っていくケーブルカーは、ちょっと、好奇な「犬」と「猫」の形をしている。猫嫌いの乱馬だったので、人力で歩いて正解だったかもしれない。

 乱馬は寒太郎に連れられて、商店街を抜けた段々道を、宝山寺の方へと歩き始めた。ケーブルカーなどという、文明の利は使用せず、足を使って、参道を登り始めたのである。
 参道といっても、土塊の道が段々に折り重なり、民家や、こ洒落た雑貨店や飲食店が、道沿いに並んでいる。その間を、生駒の街並みが見え隠れする。
 ひんやりと、山からの空気が降りてきて、肌寒さも感じられた。
 その道を、爺さんと、黙々と上に向かって歩いて行くと、今度は石畳の、古い町並みが軒を連ね始める。
 洞川の温泉街ばりに、ひなびた、旅館のような建物が、ちょろちょろと並んでいる。

「ここら辺りは、赤線地帯でなあ…。」
「赤線?」
 耳慣れない言葉を寒太郎が口にしたので、思わず、きびすを返していた。
「赤線も知らんのか、乱馬はんは。」
「ああ…知らねえ…何だそれは?」
「昔は遊郭と呼ばれとったところやよ。」
「遊郭って…。」
 ハッとして言葉を飲み込む。
 遊郭…つまり、売春が大手を振って行われていた地域だ。
「せや。特殊飲食店とか称して、売春が黙認された地域や、ほら見てみ。」
 寒太郎が一軒の旅館の軒先を指さすと「風俗営業許可店」という札が掲げられたあった。
 が、特に、呼び込みの兄ちゃんが立っているわけでもなく、看板は普通の旅館のそれだったから、見逃してしまいそうな、意味深な札だった。
 純情な乱馬は、「風俗営業許可店」という小さな札一つで、どっくんどっくんと心臓が波打ち始めた。
「おい…。どういう了見でこんなところへ…。」
「わっはっは!決闘場所と決めたところから近いからに決まっておろーが。もちろん、やましいことは考えとらんぞ!それとも何か、風俗嬢を呼んで欲しいんか?」
 バンバンと背中を強く叩かれながら、問いかけられる。
「ば…馬鹿か!んーな訳ねーだろ!」
 つい、声が上ずった。
「おまえさんにも、許婚がいるんじゃろーが。もう、とっくに男と女の川は渡ったのであるまいかの?」
「渡ってねーっ!俺はまだ、修行中の身の上だ!」
「ほうほう…ではまだ、童貞なんか?」
「うるせー!ほっとけっつってんだ!しまい目には怒るぜ!」
 けんもほろろに、怒声をあげる。
「なるほど…。存外、純情な男やのう…。わっはっは!何なら、風俗を体験してみるかの?」
「明日は決闘だろーが!そんな余裕なんかないわい!」
 大声を張り上げたところで、ハッとする。いつの間にやら、人が数名。こちらを指さして、こそこそ言いあっているのが見えた。
 大声で、決闘だの風俗だの、あられもないことを叫んでいた。
 真っ赤になって、固まってしまった乱馬であった。
「ほんに…若いというより…青いのー。おぬし。」
 カラカラと寒太郎は笑った。

「か…からかってんのか?このくそじじい!」

「そーか…、まだ、あかね嬢に手を出しとらんか!この純情男め!」
 バシバシと背中を叩かれた。
「うるせー!」
 耳まで真っ赤にしながら、怒鳴り散らす。この辺りは、寒太郎にかかれば、まだまだ、子供だ。

「とにかく、今夜は休養や。せやないと、明日の決戦には、是が非でも、氷也には勝ってもらわんとあかんさかいにな。」

 そう言いながら、爺さんは、道端にあった、ひなびた旅館へと、ひょいっと入っていった。




二、


「準備はええか?乱馬くん。」

 徐に、寒太郎爺さんが乱馬へと声をかけてきた。

「ああ…、一応な。」
 道着姿の乱馬がそう声をかけた。
 着古した道着ではあったが、それなり見に馴染んでいた。

 ここは、生駒山の中だ。
 鬱蒼と、木々が多い尽くしている。ところどころ、立ち枯れた木が、葉のない枝葉を上に伸び上がらせている。少し不気味な感じが見て取れた。
 生駒側から縦走で足を踏み入れたのではない。
 ご丁寧に、近鉄奈良線でトンネルをくぐりぬけて、大阪側の「石切」という駅で降りた。
 石切は「石をも切る剣と弓矢」というところからついた地名だとも言われている。この駅から続く参道を下りていけば、「石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)という神社がある。「石切さん」と呼び親しまれる「でんぼよけの神様」である。でんぼ…つまり、出来物、腫れもののことである。それを断ち切ってくれるということで、信仰されている古社だ。
 ご祭神は「饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)」であり、天孫降臨の伝承地にも近い。

 寒太郎翁によると、無駄な体力は使わぬ方が得策だということだった。

 石切で石切神社の参道側の改札をくぐると、参道とは逆方向、生駒山の方へと誘導された。
「こ、これは…。」
 駅からほど遠くない場所に、その意外な光景は開けていた。
 少し上った程度で、住宅街からもそう遠くない、そんな場所に、それは存在していた。
「トンネル?」
 鉄の扉で封鎖された、トンネルが確かにそこに存在していたのである。
 
 生駒山は、奈良の都の西端、そして、大阪からは日が昇る山として、霊山として崇める人も多いこの大阪と奈良の県境にある青垣は、宗教施設も数多いと言われている。大小、数百にも及ぶとされているか、本当のところはわからない。
 そんな、生駒山のどてっ腹には、四本のトンネルが現在貫通している。
 一本が、近鉄奈良線の「新生駒トンネル」それから近鉄けいはんな線の「けいはんな線生駒トンネル」そして、一般国道R168号線の清滝トンネルと第二阪奈道路の「阪奈トンネル」である。
 で、実は、もう一本、廃止となったトンネルが存在している。
 それが、近鉄奈良線の旧トンネルで、一九六四年に現在のトンネルと差し替えられたのだ。
 この旧トンネルには、事故の記憶もついて回っている。
 終戦直後の二件の火災事故、更に、このトンネルを通過後、大阪向きに走っていた近鉄急行車両のブレーキが故障し、そのまま暴走を続け花園駅で起こした脱線衝突した悲惨な事故だ。 
 この旧トンネルの奈良側はけいはんな線に再利用されているが、大阪側は廃道になってもなお、そのトンネルの跡が、石切駅の少し先に、未だ存在しているのである。
 もちろん、入口は鉄扉で閉ざされて、中に入ることはできないが、近寄りがたき雰囲気を醸し出している。

「近鉄奈良線の旧生駒トンネルじゃよ。昭和の中ごろに閉鎖された鉄道トンネルや。で、この辺りが、「旧、孔舎衙(くさか)駅」や。」
 寒太郎が示唆した辺りは、確かに、駅舎があったような畝が存在していた。そして、鉄道のレールがあったように、鉄で閉ざされたトンネルへと痕跡が続いている。
「まさか…ここに入るとかか?」
 つい、尋ねてしまった。

「まさか!まあ、ここからそう遠くはないが…。」
 ついて来いと言わんばかりに、じいさんは、山の方へと進み出す。
 トンネルの遺構を横目に見ながら、慌てて、寒太郎老人の後を追った。
 山の稜線を沿って数十分も歩くと、すっかり人の気配も、それから町の喧噪も聞こえなくなった。鉄道の音が響いてきても良さそうなのに、それも、しない。
 まるで、急に、下界から隔絶された感が、乱馬を覆い始めた頃、空気の流れが変わったように思った。

 急に、寒気が足元から染み渡って来たように感じたのだ。
 しかも、脳天に鈍い鈍痛を、一瞬だが感じた。
 思わず歩みを止めて、辺りの気配を探ると、
「何か、感じたんか?」
 と先を行く爺さんに問いかけられた。
「ああ…。こう、身体を芯から掴まれたような感覚になった。」
 正直にそんな感想を述べる。
 それを聞いて、爺さんの顔がニッと笑った。
「おまえさんくらいの腕があったら、気配が読めるか…。せや、今、第一結界を越えて、第二空へ入ったからなあ。」
「第一結界を越えて第二空へ入っただあ?」
「この生駒山は、古来より、時空のゆがみがあるところの一つでなあ…。」
「時空のゆがみ?」
「ああ…。冥界と人間界…或いは魔界と人間界を繋ぐ、出入口とも言うべきかなあ…。」
 そう問いかけると、爺さんは徐に。指先を近くの木々に巡らせた。その指先を目で追うと、あるわあるわ…。注連縄が梢の上に、それとなく存在していた。
「ああ…。あれか?」
 乱馬の問いかけに、爺さんはコクンと頷いた。

「あれは、第一結界だ。で、越えた場所は第二空と呼ばれてるんや。時空の出入口が開けるところには、誤って人間が落ちぬように、古より術者が段階を分けて結界を設けているんやよ。
 ここは「往馬結界」と呼ばれていてなあ…役の小角が張った結界が今も存在しておる、希少な場所なんや。」
 「往馬結界」。確かに、聞き覚えがある言葉だった。
 確か、決闘場所のことを氷三郎はこう呼んでいた。「往馬結界」と。
 それから、前鬼が、
『小角様はあちこちに、結界を作って、大地を護っていらっしゃるんだ。その結界をさらに強固にしたのが、空海なんだぜ。』
 と、言っていたのを思い出したのだ。
 日が陰ってくると、冷気が立ち込め始める。吉野の山には根雪があったが、この山には存在していない。が、何故だろう、吉野の山よりも、冷たい気に満ちあふれているような気がした。
(それだけ、山に籠っている霊気が強いということか…それとも、結界から発せられる気脈が冷たいのか…。)
 そう思ったとき、寒太郎が言葉をかけてきた。

「小角様はこの場所に、全部で三つの結界を張られたと言い伝えられていてなあ…。第一空は現世、そして第二空はまだ、人界の内側やけど…。これの次の第二結界を越え、第三空へ入ると、もう、そこは、人外との境目になるんや。」
「人外の境目?」
 疑問を投げ返すと、爺さんは笑いながら言った。
「この先の第二結界の向こう側…つまり第三空で決闘してもらうことになる。」
 そんな言葉をはき付けてきた。
「こんな風に、山ン中なのか?草木が生い茂って、足元もおぼつかねーよーな場所だと、それだけで厄介だな…。」
「いや…。人外との境なら普通の山中とは違う。」
「じゃあ、俺が修行したような空間かな…。」
 と口走ったところで、ハッとした。
「そーか…。やはり、おぬし、鬼に会ったのだな?」
 少ししわがれた声で、寒太郎に声をかけられたからだ。
 その問いかけに、どう答えてよいのやら、迷って口を閉ざす。
「そんなに身構えんでもええで。確かに、観月流派門下ではないおぬしが鬼に修行をつけてもらえたとなると、大なり小なり、嫉妬心は湧き上がるがのー。
 しかし、鬼に修行をつけてもらえておらんかったら、おそらく…朱点に憑依された、氷也にはとうてい勝てんだろうからな。」
 ため息交じりに、寒太郎は乱馬へとはきつけた。

(じじいは、前鬼に相手にもされなかったんだっけ…。)
 そう思うと、乱馬も複雑な心境になった。が、次の声で答えていた。
「ああ…。確かに、会った。俺と寸分だ側ぬ姿をしている「前鬼」とか言う鬼によー。それが現か夢かははっきりしねーが、別次元の空間で戦ったぜ。」
 と、前鬼のことだけを口にした。後鬼のことは内緒にしたのだ。
「ふむ…やはり、伝承は正しかったか。」
「伝承?」
「我が家の伝承にあるんじゃよ。朱点出現せしとき、必ず、前鬼が現れるとな。つまり、朱点と前鬼は相対する鬼ゆえに、出現すると必ずといってよいほど、絡むんじゃよ。ということは、やはり、氷也の奴は朱点を憑依させたに違いあるまい。」
「だったら、どーだってんだ?」
「朱点は悪鬼や。この世に降臨させてはならぬ。復活せしときは、封印せよとな。」
「封印ねえ…。」

(確かに、前鬼も同じようなことを言ってやがったな。朱点は封印しねーといけねーって…。」

「で?具体的に封印の方法はあんのか?お札を貼るとか…。」
「そんなものは無いよ。」
 寒太郎は即答した。
「じゃあ、どうやって封印するんでー?」
「さあ…。今まで、流派の誰も、鬼を封印したことがないので、何も伝わってへんわ。」

「ここへきて、そのいい加減な無責任言動は、何なんでー!」
 つい語気が荒くなる。

「仕方なかろー?ま、何とかなるのではないかのう…。」
「ならなかったら、どーすんだよ!てめーそれでも、表観月流の当主だったことがあるんだろ?いいのか?そんないい加減なことで!」
 思わず、寒太郎の胸倉へと突っかかっていた。
「おぬしが、氷也を倒して、奴の身体から朱点を追い出しさえすれば、何とかなると思うで。」
「思うでって…曖昧な答えしかねーのかよっ!お気楽に言うな、お気楽に!」
「大丈夫じゃ…。おぬしらが闘っている間、禁断の書の封印を解いて、ワシが、封印の仕方を読み解いておいてやるわい。」
「はあ?禁断の書だあ?また、いい加減なことを言ってるんじゃねーだろーな?」
「ちゃんと持っておるわい、そら。」
 そう言いながら、懐を、ごそごそやると、桐の箱を取り出した。巻物が一本入っていそうなに十センチほどの長さの細長い箱だった。
「あのなあ…。そんな書を持ってんなら、何で、今まで読まなかったんでー!」
 つい、苦言がこぼれる。
「この書にはのー、特殊な封印が施してあってのう…。第二結界を越えんと、ほどけんのや。ほれっ!」
 乱馬にほいっと投げた桐の箱。それを手に、箱を開こうとしたが、確かに、何かに縛り付けられたように、箱はびくともしない。
「そーれ!」
 手ではダメだと思った乱馬は、傍らの木に箱を叩きつける。
「あー!こら、おぬし、何をするんや!」
 思わず、寒太郎が、叫んだ。

 バキッ!

 鈍い音がして、叩き割れたのは、文箱ではなく、たたきつけられた木の方だった。それも、腐った樹のように、どす黒くボロボロになっていた。
(あれ?…)
 乱馬はその様子を見て、少しばかり、疑問を持った。
 物理攻撃というよりは、何か、気砲のようなものが、箱から飛び出したようにも思えたのである。
 が、考える間もなく。寒太郎が苦笑いを浮かべながら、叫んだ。
「おぬし…ここは、一応、国定公園の中じゃからなー!草木に傷をつけると、怒られるぞ!」
「確かに…。びくともしねーな…。」
 と、乱馬が文箱を手に持とうとしたら、ささっと素早く、爺さんにひっこめられてしまった。
「たく…。これは、大事なわが流派の家宝やぞ!ぞんざいに扱いよって!」
 苦言が漏れる爺さん。
「悪かったよ!…でも、ちゃんと封印法を、調べておけよ、じーさん。」
 差し出した手をひっこめながら、乱馬が言い含めた。
「もといそのつもりや。」

 そんなことを話しながら、歩いていると、急に鬱蒼とした山から、視界が開けた。
 岩がゴロゴロと転がっている場所に出たのだ。
 この生駒山は、大阪城築城の際、石切場もあったという。
 天の岩船の伝承地(大阪府交野市)も近いだけあって、巨岩もゴロゴロと転がっているのである。
 大小、数十個の岩が、山肌から剥きだしている光景は、確かに、人外の世界を思わせた。

 その中に、いくつかの人影があった。その一つに、見覚えのある顔が一つ。こちらに向かって手を振っているのが見えた。

「みさきさん!」
 つい、声を出して、呼び止めた。

「乱馬君。」
 みさきはにっこりと、微笑み返した。
 彼女もまた、道着を着こんでいる。その周りに、数名のガタイの大きな若い衆が囲んでいた。みさきの道場の弟子たちだろう。

「みさきっ!来たらあかんって、あれほど、言うたやろう!」
 乱馬の横で、寒太郎が怒鳴った。それも、かなりの立腹ぶりだ。
 寒太郎の言葉に、ムッとしながらみさきは答えた。
「あんなあ、凍也の代わりに乱馬君が身体、張ってくれはんねんで!凍也の代わりに、ウチが見届けるんが、当たり前やろ、おじいはん!」
 かなりきつい口調だった。
「せやけど、相手は鬼やで!そんなところに、生娘が来たら、どうなるか、わからんやろーが!」
 これまた、ものすごい剣幕で、寒太郎がみさきを責め立てる。
「そんな、鬼なんかに、闘気吸われるようなヘマはやらへん!もう、生娘でもないし!」
「とにかく、鬼は狡猾なんやで!」
「うちかて、凍也の代わりに闘いを見届ける義務はあるんや!表観月流の跡目としてな!」

 爺さんと孫娘。両者は一歩も譲る気配がない。

「それに、第二結界にさえ、足を踏み入れへんかったらええんやろ?」
 とみさきは寒太郎へと声を荒げた。

「そうや…。第二結界にさえ、足を踏み入れへんかったら、どうってことはないで、お嬢さん。見守りたかったら、せいぜい、結界に気を付けて、離れておったらええ。」

 反対側から、人影が現れた。
 氷三郎だった。その後ろには、氷也が一緒だった。
 うつろな瞳には、生気が感じられない。視線も乱馬たちと合わそうともしなかった。

(何だ…。氷也のこの荒(すさ)んだ感じは…。)

 一方で氷也が背負っている気が、尋常ではないことを、いち早く乱馬は見抜いていた。
 氷也の身体から滲み出して来る気は、おどろおどろしい嫌な物を含んでいるように感じられた。横に並んでいる、氷三郎の冷たい気とは、全く一線を画していた。

(こいつが…憑依させた、朱点とかいう鬼の気か…。こいつは、一筋縄ではいかねーか…やっぱり…。)
 そう思いながら、ゴクンと唾をのみ込んだ。

「ほう…。おぬし、ある程度、気が読めるのか。」
 氷三郎が乱馬を見て、ニヤッと笑った。
「しっぽを巻いて逃げるなら、今の打ちだぞ、小僧。」
 と、わざと煽るような言葉を投げかけてくる。

「いや…。俺は逃げねえ…。闘うぜ。」
 少しばかり動揺したことを、氷三郎爺さんに悟られて、少しばかり面白くないという顔を手向けながら、低い声でうなった。

「そう来なくては、面白くないからなあ…。ふふふ。」
 氷三郎は、そんな言葉を投げつけた。

「さて、諸君…。」
 返す口で、氷三郎が言った。
「戦いの手順は一つ。我が観月氷也と、そちらの早乙女乱馬、両者の決闘…。どちらかが斃れて、戦闘不能になるまでのデスマッチでよろしいですかな?」
 と冷たい声で問いかける。
「乱馬君はどうや?どちらかが斃れるまでやり合うことで異議は無いかの?」
「ああ…ねーよ。命を賭して戦わなけりゃ、意味がねーんだろ?そのために修行して来たんだ。いいぜ。それで。」
 と軽く答えた。
「氷也はどうじゃ?」
「別に俺は何でもかまわねーよ。こいつを血祭に上げられるのなら、どんな戦い方でもいいぜ。」
 と、赤い舌を出しながら、乱馬へと視線を手向けた。
 その瞳は、乱馬が思っていた以上に荒んでいて、凄みがあった。少し緑がかった瞳の色をしていた。
 視線を逸らせると闘う前から負けが決まるようなものだと、乱馬も、はっしと睨み返した。互いの、気のぶつけ合いが、既に始まっている。

「みさきさんは、第一結界の外まで下がっててくれねーかな…。」
 乱馬は、瞳を氷也にぶつけたまま、声をかけた。

「え?」
 小さく問い返したみさきに、言い渡す。

「俺たちは、ここで闘うから、みさきさんや爺さんたちは、第一結界の外まで引いてくれねーか?じゃねーと、周りが気になって、全力を出せねーからよ。」
 と言い放つ。
「別に、俺は誰が結界内に居ようが、全力を出せるぜ。ふふふ。」
 それを受けて、氷也が言い放った。
「だから、闘い場に近いところでちょろちょろされたら、こっちがやりにくいんでー。頼まぁ!後生だから、戦いを見届けてーなら、第一結界の外側まで、下がっててくれ。」


「わしらは足手まといになるだけと言いたいか…。よかろう。第一空まで下がろう。」
「でも…。」
 追いすがろうとするみさきに、爺さんは言った。
「なら、強制退去させるがいいのかの?」

 そう言われては、引き下がるしかない。

「わかった。結界の外まで、下がる。その代わり、そこで、ちゃんと戦いの行方を…見届けさせてもらうわ。」
 とみさきも渋々承知した。

「ああ、そうしてくれ…。そこまで下がってくれれば、存分に闘える。」
 コクンと揺れる乱馬の頭。
「裏観月のじじい、てめーはどうする?」
 乱馬が問い質すと、
「何、ワシはまだもうろくしておらぬからな。この第二空で見届けてやるわい。おまえの骨くらいは拾ってやろう…。」
 と、憎々し気に言い放った。
「おめーはどこで見物しよーと、好きにしたらいいさ。但し、俺たちの戦いに巻き込まれても、知らねえーぜ。俺も、じじいには一切、気を遣わねえぞ。」
「もとい、そのつもりじゃ。それから、一つ、忠告しておいてやろう。
 第二空や第三空では、互いに本当の力は出せぬ。闘っても人界内では、いつまでも決着はつかぬ。そんな、なまっちょろい戦いは意味がない。」

「氷三郎!貴様、何を言い出す!」
 第一結界に向かいかけた寒太郎から、思わず、声が漏れだした。

「ふん。鬼修行をつけてきたというのなら、その力は、人界では発揮できぬ…そう忠告してやってるだけじゃ。表の老いぼれが何を恐れている?」
「第三結界の向こう側…第四空…それは、最早、その空間は、人の世界にあらず!しかも…そこは…。」
「ほう…おまえも知っていたのか、寒太郎。そうさ、第四空そこは冥界にも等しい闇の空間。」
「そこに至れば、氷也とて、無事ではあるまいぞ!」
「ふふふ…だろうな…。でも、闇を恐れていては、闘いはできぬぞ。」

「乱馬君!絶対に、第三結界を越えたらあかんで!そこを越えて第四空へ入ったら…。」
 寒太郎は乱馬へと言葉を放つ。

「第四空?」

「ああ。この世を第一空と考えて、結界は順に三つ施されている。第一結界の向こうは第二空、第二結界の向こうは第三空…。そして、最後の第三結界の向こうは人外の空間、第四空や。第四空に踏み込めば、ただでは戻れない…と言われておる。ええか、絶対第三結界を越えたらあかんで!」
 と念を押された。

「その結界は…注連縄か、なにかで仕切られてるのかよ?」

「いや…そんなものは一切、張り巡らされてはおらん。が、第四空は、闇の崖で仕切られている。」
「闇の崖だぁ?」
「ああ、そこを踏み越えれば、深淵の闇の谷底へと落下すると言われておる。ええか、絶対に、その崖から転落してはならぬぞ!谷底へ落ちれば、こちらの世界には戻っては来られん!忠告したぞ!」
 と叫び置くと、寒太郎はみさきを伴って、結界の外へと出て行ってしまった。
 結界の外は、普通の樹林だ。それに比べて、乱馬が氷也と対峙している、第三空。ここは、人界との境だと言われているだけあって、不可思議な雰囲気に包まれていた。
 天上には樹木が覆いかぶさっているが、その上に、太陽光は無い。青い空色も見えない。
 視界は悪くはなかったが、煙がくすぶっているような何かが燃えた匂いが鼻についていた。ある程度、湿気もあるようで、空気も重い。
 それだけではない。人界とは反対側の方向には、不気味な闇が広がっている。
 血の色と黒色が混ざり合った、洞窟のような闇が大きく口を開いているかのようにも思えた。


「忠告…か。おそらく、全く無意味な忠告だろーがよ。」
 爺さんやみさきが結界の外へと出たことを、背中で悟りしながら、はっしと氷也を睨み据えた。
「へえ…察しがいいな、おまえ。」
 ククッと氷也が笑った。冷たい瞳だ。暮れに対峙したときより、一段と、その輝きに鋭さと冷たさが加わった気がした。前鬼が言っていたとおり、朱点が氷也に乗り移っているとも思えた。
 氷也の肩越しにうつる、第三結界の向こう側には、無限の闇が広がっているようにも思えた。
 もし、乱馬が鬼修行をしていなければ、とうてい、この異様な光景に、飲まれていただろう。が、乱馬は落ち着いていた。恐れや戸惑いの感情は、一切、心から湧き上がってこなかった。
 何故、こうも冷静にいられるのか。自分でも小気味が良いほど、感情の起伏は平坦であった。

「へっ!恐怖も感じていねーみてーだな…。」
 氷也が乱馬を見据えながら、そう声をかけたくらいだ。

「ああ…。今のところはな…。どうせ、俺を、あの漆黒の闇の中へ取り込もうってーとこだろーが…。そう簡単にはいいかねーぜ。」
 低い声で氷也に対した。

「ふふふ…こっちの魂胆はお見通しってか…。」
「ああ…。おまえの奥にある闇が、早く来いって、うごめいているもんな。」
「それがわかるってことは…。あの忌々しき鬼たちに会ったか…。」
「ああ、会ったが、それがどうした?」
「まあ、それなら、少しは楽しませてもらえそうだな。じゃあ、まずは第三空で闘おうぜ。来な!」
 氷也に誘導されて、奥へと足を踏み入れた。
 と、再び、空気の匂いと風の流れが変わった場所はあった。おそらく、第三結界だったのだろう。
 そこは、更に闇が深かった。
 しかも、もう、森の中ではない。どちらかというと、広い空洞の中だった。
 カビ臭い匂いがし、湿気も高い様子だった。

「さてと、ぼちぼちはじめようぜ…。」

 ざっと後ろ足を引いて、氷也が構えた。

「お互い、死力を尽くすか!」

 乱馬も大きく息を吸い込んで、身構える。

「ふふ…。両者とも気合はみなぎったようじゃな。」
 乱馬と氷也が身構えたのを見届けると、氷三郎が二人の前からゆっくりと後ずさる。そして、第二結界近くまで、身を下げた。いくらなんでも、乱馬と氷也の間近にいては、すぐさま、灰塵と化してしまおうことくらいは、この老人には理解できていた。

「そろそろはじめよーか…。乱馬。」
「おう…そーだな。じゃあ、こっちから行くぜっ!」

 大きく身を振りかぶって、乱馬が氷也目がけて、駆け出して行った。



つづく







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