◆天高く 第三部
第十二話 鬼の系譜




一、

『あかね…天道あかね……。』

 女の声がした。
 うら若き声だった。

『あかね…。』
 その声は、遠くからあかねへと声をかけてくる。そんな感じだった。

「誰…あたしを呼ぶのは…。」
 朦朧とした意識の中で、その問いかけに答えるあかね。

 裏観月流当主、観月氷三郎と氷也の二人によって、ここへと引き入れられてしまった。
 丹後の深山の中に、ひっそりとたたずんでいた、洞穴。鉄扉があって、「酒呑童子の子飼いの鬼を閉じ込めた穴だ」と、氷三郎は言っていた。
 洞窟だと思ったが、どうやら違うようだ。
 無限に広がる、暗闇の世界。岩壁もなければ、天井を見上げても、ただ、暗い闇が続いているだけ。
 手も足も、茨に縛られ、動くことはできない。
 立っているのか、横たわっているのかすら、わからない、曖昧模糊な姿勢のまま、闇の中に一人浮かんでいる。

『わらわは茨木。』
「いばらき…。酒呑童子と関わりがある鬼?」
『鬼…などではないぞ。』
 声が否定した。
「鬼じゃなかったら何?化物?」
 ずいぶん、ぶしつけな質問を、投げかけていた。
『まあ、そなたたち、人間から見れば、化物と言われても、当たらずしも遠からじ…かのう…。今のわらわには実体がないから。』
「実体がない?」
『そう、わらわは「穏(おん)の精霊」。』
「おんの精霊?」
『まあ、しいて言えば、肉体が無い、意識だけが残ったという存在。』
「幽霊みたいなもの?」
『幽霊ではない。生前の姿を映す、下等な存在ではない。隠の精霊というものは、幽霊よりも、数段、高等な神に等しい存在じゃ。』
「そうなの…。」
 あかねの頭の中は、思考を回せるほど、冷静な状態ではなかった。
 いや、むしろ、正常な思考は止まりかけていた。その隙間に、声はすかさず、語りかけてくる。

『のう…あかね。あなたのその素敵な身体…。わらわに貸してはくれぬだろうか?』
 と畳みかけてきた。柔らかな口調。ふうっと意識が遠のくような、柔らかい女性の声。

「…それは、できないわ。」
 はっきりと、言い切った。

『そう…。やはり、貸してはくれぬか…。』
 がっかりしたような声。
 しばらく沈黙したのち、声は再び話しかける。
『まあ…良かろう…。貸したくないのを無理強いするわけにはいかぬからな…。』
 声の主は、意外にあっさりと諦めたようだ。その言葉に、あかねは、ホッとした。このまま、無理やり身体を乗っ取られるのかとも、危惧していたからだ。
 この状態で、襲い掛かられたら、防ぎようが無い。
 茨はあかねの自由を、縛っている。

『それより…あかね。ここがどこかわかるかえ?』
 と、茨木はあかねへと問いかけて来た。
「大江山の洞窟の中でしょ?お爺さんが言ってたわ。酒呑童子の子飼いの鬼を閉じ込めたと言われている洞窟だって。」
『フッ!相変わらず、人間と言う奴らは、そのような戯言を…。わらわを閉じ込めることなど、人間には出来ぬ。』
 一笑に付した。
「え?違うの?」
 あかねが食いついた。
『ここは、わらわの作り出した異相の空間じゃ。』
「異相の空間?」
『そう…病んだものを癒す空間。人間ごときが作れる空間ではない。』
「なら、あたしを外へ出してよ!」
 と、声の主に突っかかる。
『ああ…。出してやりたいのは山々なのじゃが…悪いが、そなたを出してやれるだけの力が、わらわには、まだ備わっておらぬのだ。』
「それってどういう意味なの?この空間の主はあなたなんでしょ?」
『あいにく、わらわはずっと眠らされていたのさ。人間によってな。』
「眠らされていたって?」
『人間が方術でわらわを長き眠りの下に置いていたということじゃよ。そして、さっき目覚めたところゆえ、わらわには、そなたを出してやれる力は、まだ満ちてきてはおらぬ…。』
「そう…。」
 少しがっかりした声を出すあかね。
『まあ、そう、落胆するな。力が満ちれば、出してやれるぞ。』
 声はあかねを煽り立てた。
「どのくらいかかるの?力が満ちるまで…。」
『それは、そなた次第じゃ…。』
「あたし次第?」
『そなたがわらわに、その身体を貸してくれれば、すぐにでも出られるのじゃがな。』

 声はそんな言葉を口にした。

『どうじゃ?それでも、わらわに身体を貸すのはいやか?』
 と、続けざまに畳みかけてくる。

「…やっぱり、貸せないわ。」
 当然の如く、あかねは即答した。得体のしれない声に、己の身体を差し出す気にはなれなかったからだ。
 
『堂々巡りな会話を続けていても意味がない。ま、そのうち、そなたをここへ閉じ込めた人間たちが、再び、そなたを外へ連れ出してくれよう。』
「……。」
 その言葉に、返答はできなかった。氷也とあの爺さんが、簡単にここから出してくれるとは思えなかったからだ。何かの意図を持って、ここへあかねを閉じ込めた。そう考えるのが妥当だろう。

『わらわが目覚めた以上、この空間も正常に動き始めたわ。』
 しかめっ面のあかねの目前で、声は、嬉しそうに言った。
 確かに、得体のしれない気脈が、あかねの身体を覆い始めている。

『ここは、癒しの空間ぞ。』
 そんな、突拍子もない言葉を、声はあかねへと投げた。
「癒しの空間ですって?」 
 驚いて、声を荒げると、
『ああ…。見たところ、あかね…そなの心は、かなり薄汚れておるようじゃ…。』

「心が薄汚れている?」

『そなた…その想い人に、かなり疲弊しているのではないのかえ?』
 突拍子もない疑問をあかねへと投げつけてきた。

 ドクンと、心音が一つうなった。

 あかねの想い人…それは、乱馬である。
 親から望まぬ許婚として与えられた、少年。自信家であるばかりか、彼の周りには、いつも、格闘女子が取り巻いている。そして、あかねの心を、散々に揺さぶる。
 彼の想いが己の上にあることは、知れていてもなお、生粋の優柔不断ぶりが、あかねを苦しめることも多々あった。
 今頃、それを、思いだしたのである。

 あかねが乱馬を思い浮かべたことを察したのか、クスッと声の主が笑ったようにも思えた。

『ならば、ここで少し、心を落ち着かせて、癒せばよい。』
 迷いを払拭するどころか、誘惑の言葉が脳裏に響いてきた。

「心を落ち着かせて、癒す?」
 そう、応えた時点で、声の政略にはまってしまったが、当人はもちろん、気付いていない。

『ああ。わらわには、傷まみれの心を癒す力がある。』
「傷まみれの心を癒す?」
『現世(うつしよ)で傷んだ心を癒すのも、決して損はないぞよ。心を癒しておけば、闘いに臨むとき、余すところなく力を発揮できるのだぞよ。傷を持った心では、全力は出せぬ。じゃが、傷を癒しておけば、潜在力以上に闘気も出せるものなのだよ。』
 怪しの声は、ゆったりとした口調で、あかねへと語りかける。
「でも、あたしの心に、傷などないと思うわ。」
 あかねがそう言葉を継いだ。一応、眉唾物だと、本能的に、抵抗が働いたのだろう。

『そうかしらね?』

 フッと、浮き上がった口調で、茨木は尋ねた。

『現世で生きている以上、様々な苦悩が心に染み付いているものぞ…。お前とて、理不尽なことに対する、怒りや悲しみは、持ち合わせておろう?感情がある以上、起伏も何も無い人間など、長けた居るはずはない。神などではない限り…。』
 と否定に走った。
「でも…。」
『どうせ、どこにも行けぬ身の上じゃ。ここで、心を吐き出して、全ての闇を払拭すれば良かろうぞ。それだけで、心の傷は癒せる…。何、時間はたっぷりある…。』
 茨木は、畳みかけるようにあかねへと言葉を放ってくる。
『どら…おぬしに施された、その束縛、解いてやろうぞ…。そのくらいは、わらわでもできる。』
 すっと声と共に、闇が揺らめいたように思った。
 と、あかねの手足を拘束していた、茨の枝葉が、するするっと後退し始めたではないか。
 あかねの手足が自由になった。
 と同時に、二の足で立ち上がる。
 支えは無い。辺りは、深淵の暗闇。手をかざしてみても、黒一色で何も見えない。
 ただ、物理の法則から外れている空間。己の身体は、はっきりと見えた。手も足も身体も、ちゃんと見えている。
『こっちへ来やれ…。』
 そう言われて、声の方を見上げると、そいつがほんわかと、黒い空間に、ぽっかりと浮き上がっていた。
「人魂?」
 思わず声をあげてしまったが、よく見ると、白い煙状の浮遊物であった。
 白い煙状のふわふわした物が、すぐ側でくるくると誘うように回っている。
 暗闇の中で一人たたずむのも心細いものだ。あかねは、その声に従った。
 足元が見えないので、どうしても、及び腰になる足取り。
『つまづく小石など何もないぞ。そんなにへっぴり腰にならぬとも、シャキッと歩けば良かろうて。』
 クスクスッと白い煙玉が目の前で揺れる。
 と言われても、なかなか大胆にはなれないものだ。だが、煙玉に誘われるまま、歩みを続けていると、いつの間にか、真っ暗闇にも慣れて来るから不思議だった。
 どこまでも続く、深淵の闇。きょろきょろとあたりを見回したが、何も見いだせなかった。が、すっと、光の道が、まっすぐに続いているのが見え始めた。
「この道筋に沿って歩けばいいのね。」
 そう言うと、途端、歩みが早くなる。
『そう…その道筋に沿ってきやれ…。』
 煙玉がクスッと笑った。

 そのくらい、煙玉と歩き続けたのか。

 気が付くと、道筋が途切れ、魔法陣のような六芒星が美しく書かれた場所へ着いた。

「ここは…。」
 あかねがふわふわ浮き沈みしている煙玉へと問いかけると、
『癒しのゆりかごじゃよ。』
 と女性の声で答えた。
「癒しのゆりかご?」
『そう、そなたの現世の傷を癒してくれる、聖なる場所。』
 と言い切った。
 普段のあかねなら、そんな巧みな言葉に、多少は疑問を持ったかもしれない。が、人をむやみに、疑うことをしない純粋さも持ち合わせている。彼女が疑うのは、許婚の乱馬くらいであろう。
『ささ、その陣の中へ入りなさい。』
 やんわりと、煙玉はあかねを誘導する。
 少しばかり、うすらぼんやりしていた、あかねの思考だ。
 何の疑いも持つことなく、言われるままに、六芒星がきれいに描かれた白い円陣の中へと、足を踏み入れた。

「あ…。」
 ぶわっと浮き上がる、あかねの身体。
 フッと、意識が飛んだ。
 と、円陣の六芒星の六つの星型の頂点から、するすると伸び上がって来る、茶色の紐。そう、一度、あかねを放したあの「つる草」だった。
 そいつが、あかねの、手足に再び絡みつく。そして、エンジンの中央にさしあげるがごとく、仰向きに抱え上げた。
 あかねの上に降りてくる、柔らかい光の輪。
 その光と共に、負と浮き上がる、古い記憶。
 中学生のころの、淡い片想いの記憶。そう、浮かび上がったのは、東風の微笑んだ顔だった。
 それだけではない。あかねの記憶が、そのあたりから順繰りに脳裏に甦り始める。
 失恋の記憶…それから、許婚の出現…。初恋の思い出と、初恋が壊れたと同時に、その上に塗りこまれた、乱馬との日々。その一つ一つが、次々に浮かんでは消えていく。
 東風との記憶は、甘酸っぱいのに、何故だろう、乱馬を思うと、涙が溢れ出て来た。
『そうか…この男が、おまえの愛する男…。』
 クスッと茨木が笑ったような気がした。何故笑われたのか、あかねにはわからなかった。
『この男、おまえには、冷たいのかえ?』
 畳みかけるように問い質してくる。
「別に…そういう訳ではないわ…。」
『そうかえ?幾人もの女が、周りに見えるではないか。』
 脳裏に浮かんでくるのは、珊璞、右京、小太刀などの恋敵の少女たち。その輪の中に入って、乱馬は笑っている。それも、楽しそうに…。
 夢…とわかっていても、悔し涙がほろりと流れた。何故だろう、胸が痛くなった。と同時に、黒い何かが、茨から流れ込んでくるようにも思えた。

『おまえの純粋なまでの想いを、ないがしろにするのは…この乱馬とかいう男かえ?』
 また、女の声が響いてきた。
「ないがしろにされ続けているわけではないの…。でも…。嫉妬してしまう、自分が嫌い…。」
『それ、おまえの心には無数の傷があろうが…。』
 そう指摘されれば、最早、否定には走れなかった。ズキンッと鈍い音を立てて、心が痛み始めたような気がする。

『そう…嘆くな…。ほら、わらわに心を預けて見れは良い。嫌なことは全て忘れさせてあげるぞ。嫉妬も嫌悪も全て…。』
 静かに話しかけてくる女性。
 と、脳裏に、嫌な記憶が一斉に浮かび上がり始めた。
 自分の居ないところで、笑う乱馬と少女たち。それから、乱馬から発せられる、様々な悪口。
 普段かわす、痴話げんかの中で、幾度となく繰り返されて来た、乱馬の雑言。
「寸胴」「はねっ帰り」「不器用」「味音痴」「馬鹿力」「がさつ女」「かわいくねえ女」。
 脳内に響き渡る、様々な悪口。
 言われるたびに、涙が流れた。耳をふさぎたくなる自分が居た。
 その度に、絡まったツタから、真っ黒な煙が滲み出し、あかねの体内へと入って行く。
 と、息が荒くなりはじめた。
『苦しまずとも好いぞよ…。ほら、この、いい匂いの煙に、己が心を預けてごらん…。楽になるぞ。』
 今度は別の角度から、花の香が流れ出して来た。嗅いだことがないくらい、芳醇な香りが漂ってくる。
「いい匂い…。」
 重くひずんでいた心が、軽くなったような気がした。
『そう…これは癒しの気だよ…。』
「癒しの気?」
『ああ…現世の嫌な記憶をきれいさっぱりと流してくれる、宝来の香。どうだ?良い香りだろう?』』
 コクントあかねの頭が揺れた。
『そう…。嫌なことは、全て消し去ってしまえば良いだけのこと…。この良き香で、心を洗い流せ。天道あかね…。』

 そう、囁きかけられたあかねは、もはや、うっとりとした表情だけを見せ始めていた。
 荒くれてささくれ立っていた心は、穏やかに静まっていく。と同時に、乱馬の顔が記憶から薄れていく。

『ふふふ…。かかったな…。この香々背(かがせ)の魔力に…。』

 最早、あかねには、茨木の言葉は耳には聞こえなかった。
 黒い霧を口や鼻から吸い込みながら、安穏とした表情へと、変化していく。やがて、あかねの瞳は、恍惚に満ち始め、瞼をを閉じた。

『いい子…いい子じゃ…あかね…。そのまま、しばし、眠るが良い…。そして、次に目覚めた時は、そなたの心は、わらわと同化していようぞ…。一緒に、そなたが愛しくてたまらぬ「乱馬」という男をその手にかけ殺すのじゃ…。さすれば、そなたも、正真正銘の鬼となれる…。美しい鬼娘の再来よ…。我と共にあり、今度こそ朱点と結ぶのじゃ…、誰にも邪魔させぬ…もう少しでわらわの望みが叶う…。』
 ゆらゆらと白い煙はあかねの上で舞い踊る。そして、その煙はみるみる、茨となって、あかねの肢体へと巻きつき始めた。
 顔も体の全てを、茨で覆い尽くすように包んで行く。
 その中で、あかねは目覚めることなく、深淵の眠りへと落ちて行った。
 


二、

 あかねが狡猾な茨木に、心を乗っ取られ、茨で覆い尽くされた頃、乱馬も一つの佳境を迎えていた。

 前鬼を師に、「鬼の波動」の修行に精を出していた。
 
『おめーに与える技は、冷気をとらえて、瞬時に増幅させて解き放つ…。いわゆる、究極の冷気技だ、乱馬。』
 前鬼は乱馬へと畳みかけた。
 ぜえぜえと、荒い息を吐きつけながら、前鬼を見上げる。
 乱馬の女体からは、相当量の汗が滴り落ちている。まだ、変化を解かずに、修行に精を出していた。
『見てろ…こうやるんだぜ。』
 前鬼は右手の掌を上にあげた。と、ボッと掌に一瞬で体内の闘気が立ち上がる。
『はあっ!』
 気合を入れた途端、青い炎が、ぼわっと掌に立ち上る。闘気の玉そのものは、ソフトボールくらいの大きさだったが、掌にせりあがった闘気が、何十倍にも増幅したように見えた。
『でやああっ!』
 前鬼がその闘気を、一気に、空へ向けて投げつける。

 ビュッ…と風を切る音がして、数十メートル先で、その闘気が見事に炸裂した。

 ドオオン!

 もし、ここが、普通の洞窟なら、とっくに天井から崩れ落ちていることだろう。
 激しい轟音を響かせながら、地面がズズズと揺れた。

 飛竜昇天破を得とく以来、どちらかといえば、乱馬も冷気のスペシャリストだった。熱気を己の周りにまとい付かせ、そこへ一気に冷気のスクリューパンチを浴びせかける。それが、飛竜昇天破の正体だった。
 温度差の魔拳。教えてくれたのは、シャンプーの曽祖母、可倫。女傑族の必殺技だったそうだ。
 その後、大阪に来て、にわか仕込みとはいえ、観月流の冷気の扱い方を、覚えた。
 これで、相当な冷気の使い手になっている筈だ…だが、あくまで、人間レベル内でのこと。このままでは、氷也に勝てない…寒太郎も氷三郎も、そう宣言した。

『まずは、集めた気を掌で一瞬に増幅させること…。こいつを会得して貰おうか…。最低でも、瞬時に倍…いや、五倍ほどの威力を出さなきゃ、意味がねーぜ。』

「ああ…。わかった…。でもよー。いつまで、女のまんま居させるつもりでい?」
 と文句を吐きつける。

『おめー、せっかく女に変身できるんだぜ?これを利用しね〜手はなかろーが…。女で修行しとけば、男に戻った時、その威力は数倍にもなる。それは保証する。』
 前鬼が言いきった。
「理屈はわかるが…。何か、てめー。俺の女体を、間近で、ものすごーく、楽しんでねーか?」
 うがった瞳が、前鬼をとらえる。
 女化した乱馬へと、さっきから、前鬼の視線が痛いほど突き刺さって来る。押しなべて、胸の谷間や尻へと視線が集中しているように感じていた。
 技を繰り出すその度に、大きな丸い胸元が揺れる。お尻もぷるるんと動く。どうも、この後鬼と言う奴も、男の本性をあらわにして、女乱馬ちゃんの肢体を喜んでいる節がある。

『確かに、前鬼の瞳のいやらしさを増してきてるわね…。』
 背後の後鬼が不機嫌極まりないという顔を手向けてきた。
『あのなあ…久しぶりに、ぷりぷりの女体を、正面切って眺められるんだぜ。何百年ぶりなんだぞ。そのくらい、大目に見ろ!』
 隠し立てすることなく、いきなりのスケベ宣言。
『まあ、こやつは、本性が男だから、それ以上の考えには及ばないんだろーけど…。』
 上空から、あかねの顔の後鬼が腕組みしながら、きつい瞳で乱馬を見下ろしてくる。
『及ぶか!いくら俺でも、男色趣味はねえ…。』
『どーだか!元は男の乱馬の女体に、鼻の下、思い切り伸ばしてるくせに。』
『伸ばしてねーぞ!何ヤキモチ妬いてんだ!』
『ヤキモチなんか妬いてないぞ!わらわは!』

「こら…いいから、さっさと修行を続けやがれ!こちとら、時間がねーんだ!」

 どうも、前鬼と後鬼の楽し気な痴話げんかを眺めていると、調子が狂った。不機嫌にさえなってくる。
 (たく…俺とあかねの喧嘩も、端から見たら、こんな感じなのかなぁ…。)
 つい、苦笑いがこぼれ落ちる。
 修行を初めて以来、すっとこの調子なのだ。かしましいこと、この上ない。
 はああっと思いっきり溜息を吐き出した。
 と、その様子を見ていた、前鬼が、声をかけてきた。

『何だよ…。乱馬。文句あっか?』
 と前鬼が乱馬へと声をかけた。
「いや…別に…。」
 ムッとして横を向く。
『たく…てめーも、自分の許婚とはこんな感じなんじゃねーのか?同類嫌悪とかいう奴なんだろ?』

「あー、こらっ!また、人の心を覗きやがったな!」
 と、乱馬ががなった。
 前鬼は乱馬の心が読めるらしいので、少し厄介だった。

『ま、それは置いておいて…。ちょっくら、おめーに最終目標にしている技の到達点を見せてといてやろーか?』
 とニッと笑った。
「最終目標の技?」
 ハッとして、前鬼を見上げた。
『ああ…おまえだけが打ち込める、最大級の技だよ。「鬼」じゃなくて、「穏の波動」と言われる大技だ。実物を見ておくと、修行もしやすいんじゃねーのかな。時間もあんまりねーし。』

(時間がねーなら、さっさと修行つけろっつーの…)
 思わず突っ込もうとしたが、辞めた。それこそ、時間の無駄になるだけだ。

『後鬼…行くぜ。』
 そう言って、前鬼が飛び上がった。後鬼の隣に立ったのだ。
『あいよっ!』

 前鬼が身構えると、後鬼が、ポッと体内から闘気を掌へと集中させた。
『はああっ!』
 後鬼が出した闘気を、瞬時に前鬼が己が闘気へと混ぜ込んだ。
 と、前鬼の身体から滲み出す闘気が、前鬼の周りをうず巻き始めたではないか。正確には、後鬼から燃えあがった闘気が、みるみる、前鬼へと吸い寄せられていく。
 後鬼の気は青白い。対して、前鬼の気は真っ赤だった。赤い闘気が青い闘気へと吸い寄せられていく。両者は決して混ざり合うことはなかったが、くるくると赤と青の毬玉のように、一つの闘気へと前鬼の掌で回り始めていた。

『これが、鬼の波動の完全体…「穏の波動」だ…乱馬。』
 ニッと前鬼が笑った。
「すげー…。」
 思わず、目を見張る乱馬。
 打たずともわかる、その闘気の半端がないことが。
 
『ふつうの男は、せいぜい、集めた青い陰の闘気をそのまま、相手にぶちかます…それが、限界だが…。おめーみてーに、男と女、つまり、両性具有の奴には、陰と陽、つまり、俺みてーに両方の闘気が扱える筈。それだけ破壊力が増すんだぜ。』
 と前鬼が笑った。
『どーだ?それでも、女のまま、修行するのは嫌か?』
 
「…なんか、女になることと、その闘気の修行に、あんまり整合性を感じねーんだが…。だって、男のままのおめー(前鬼)でも、陰陽二つの気が扱えるんだろ?」
 と小首を傾げる。

『私もそう思うけどね…。ただ単に、女相手の修行の方が楽しい…と思ってるんじゃないの?前鬼は…。』
 後鬼が後ろから乗り出して来る。

『いーから、さっさと修行するぜ!乱馬っ!』
 と言いながら、前鬼は、乱馬目がけて、気を解き放った。
『私も行くわよ!女には一切、容赦はしないからね!』
 後鬼も同調した。

「わー!だから、いきなり修行モードに入るなっつーのっ!しかも、寄って集(たか)って、二人で来るなーっ!」

 真っピンク色の空間で、乱馬の怒号が、思いっきり木霊した。



二、

 乱馬が、修行を初めて三日が経った。
 つまり、修行最終日だ。

「はあはあはあ…。」
 激しい息遣いと共に、はっしと睨み据える視線の先に、その二人の鬼の姿があった。

『へへへ…。よく頑張ったな…。』
 汗をぬぐいながら、前鬼がニッと笑った。
『そうね…。まだ、完全に鬼の波動を扱える訳ではないけれど…。後は実践の中で、完成させればいいわ。あんたなら、できそうね、乱馬。』

 すうっと、二人の鬼が、乱馬のそばに降りて来た。

 乱馬も、今は、一応、男の姿をしていた。
 シュウシュウと全身から、白い煙が噴き出している。汗に反応しているようだった。

「もうダメだ…ヘトヘトだぜ…。」

 ぐでっと地に倒れ込んだまま、仰向けに転がった。もう、立ち上がるのも億劫だった。

『たく…しだらねーな…。乱馬は。』
 前鬼が、苦笑いを浮かべている。
『これだから、両性具有ってやつは…。』

「だから、俺は両性具有じゃねーつーの!ちゃんとした、男だ!」

『でも、変幻自在じゃないのさ。水とお湯で。』
 くすくすと後鬼が笑っている。

「うるせー!呪泉の呪いを受けてるだけで、身体が女化してても、心は男だっつーのっ!」
 つい、興奮しながら、言い返していた。

『呪泉の呪いを受けたのも、己の未熟さ所以だろーが…。偉そうに言うなよ。』
 前鬼も笑いながら、たたみかける。

「親父のせいだ!あれは…。」
 つい、むくれながら、プイッと横を向く。
 「呪泉郷」に連れて行かれて、呪泉郷ガイドの止めるのも聞かず、父子で泉の端で修行をおっぱじめたせいで、この始末だった。確かに、修行を始めたのも、父が泉に落ちてパンダに変化したのに驚いて、自ら「女溺泉」へ落っこちてしまったのも、己のせいだと言われれば、それまでだったからだ。

『女の腐ったようなことを言うんじゃないのっ!ほんと、困った小僧だね。』
 あかねの顔をした、後鬼が、乱馬へと、言った。

『ま、それはさておき…。』
 いきなり、前鬼が話題を変えた。
『おめー、観月流の奴らとやり合うとか言ってたな?』
 と語りかけて来た。
「ああ…。俺と年恰好が似た、奴だよ。」
『なるほどね…。ということは、やっぱり、あいつらも絡んでくるとみて、間違いねえな。』
 腕組みしながら、前鬼が吐きだした。

「あいつら?からむ?」
 どっこらしょと、状態を起こしながら、乱馬がきびすを返した。

『私と前鬼の対極に居る、穏(おん)の精霊だよ…。』
 と、後鬼が頷いた。

「おめーらと、対局に居る、穏の精霊だあ?穏の精霊って、他にもいるのか?」

『この島国には、古代からゴロゴロ棲んでるぜ?』
「そんなにたくさん棲んでるのか?」
『ああ、その土地には必ず、穏の精霊が宿っているんだ…。「鬼」「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」「妖(あやかし)」「妖怪」…ま、いろんな呼び方で呼ばれて来たな。』
『「穏の精霊」の多くは、眠ったままでいるのよ。』
『でも、時たま、目覚めて、現世に浮き上がる。』
『その目覚めは、たいがいの場合、人間によって引き起こされるの。だから、つい、人間に害をなしてしまうこともあるのよ。こっちが意図していなくてもね。』

「うーん…よくわかんねーなあ。」

『誰だって、眠っていたいのに、起こされたら機嫌も悪くなるだろー?で、寝起きが悪けりゃ、要らぬ衝突を引き起こすこともあるてーもんだろ?』

「ま、確かに、寝起きが良くなけりゃ、一日中不機嫌な奴も世の中には大勢いるよなあ…。」
 と言ったところで、ぽやんと浮かんだあかねの不機嫌な顔。家族の要らぬおせっかいや成り行きで、あかねの傍に眠ったことが何度かあったが、寝相の悪い彼女がベッドから転げ落ちて、乱馬の上で目覚め、張り倒されたことも、一度や二度ではない。
『ほう…おまえの女も寝起きが悪い類(たぐい)か?』
「だから、人の頭の中、覗くなっ!」
 乱馬を見て、にやついた前鬼を、つい不機嫌に睨み返した乱馬だった。
「おめーらも、人間に、無理矢理、起こされた口なのか?」
 ムッとしながらも、問いを投げかけた。
『ま、そーだな。古い話だから、詳細は忘れたが…俺と後鬼が目覚めたのは今からざっと、千年くれー前だったっけかな。』
『いいえ、千三百年ほど前よ。』
「そりゃ、また、古い話だな。」
『そん時、村々を暴れまくちまってよー、それを鎮めに来たのが、役小角という奴だったんだ。』
『小角様にやりこめられて、式神としての契約をしたんだよ。』
「式神?」
『ああ、式神だ。ま、端的に言うと、使い鬼ってところかな。小角様の旅に同行して、主に俺たちみてーな不意に起き上がった「穏の精霊」を調伏して回ったっけ。小角様の神通力は半端じゃなかったからな…。奴の力と俺たちの力が合わさったんだから、当時は最強だと、魑魅魍魎たちには、随分と恐れられたんだぜ。』
『そうそう、小角様の神通力は類まれだったし、いい男だったよねー。』
 後鬼も頷いた。
『いい男かあ?あれが…。』
『あーヤキモチ妬いてるぅ…、前鬼ったら。』

 鬼たちは、放っておくと、つい、痴話げんかに突入してしまう。
 呆れつつ、乱馬は問いかけた。
「で?その小角とかいう男以外の式神になったことはあるのかよ?」
 当然の疑問であった。

『いや…小角様以外の式神になったことはねーよ。』
 と前鬼に即答された。
『あの時、結んだ、契約は、まだ、有効なのよ。』
 と後鬼が付け加えた。
「へ?有効?…千三百年も前に結んだ契約なのにか?とっくにおっ死んでるんだろ?役の小角は。」
 思わず、素っ頓狂な声を張り上げた乱馬に、前鬼は頷きながら答えた。
『小角様が入滅したのちも、俺たちの故郷でもある、この山を未来永劫、見守るっていう契約は有効なんだ。この島国を護るためにな…。』
「この島国を護る?」
『この島は、地理的にも、古来、悪いものも良いものも、たくさん集まってくるんだよ…。火の山も多いし、深い海がそばにある。活動的な島国だからな…。だからこそ、大地の力に満ち溢れているんだ。だから、俺たちみてーな、穏の精霊も多いんだ。』
『地が震えたり、山が爆発することが、多いでしょう?この島国は。』
「確かに…。俺たちが住んでいる日本列島は、地震も多いし、火山活動も盛んだよな…。」
 と頷く。
『この島には、いくつかの結界があって、小角様はそのいくつかを悪鬼から護る呪法を施してるんだ。で、幾ばくかの穏の精霊と契約して、今も、その結界を護っている。』
「へ?小角が契約したのは、てめーらだけじゃねーのか?」
『ああ、他にも、居たみたいだよ。式神同志、直(じか)に顔を合わせたことはないけれどね。』
「ふーん…。」
『けっこうあっちこっちに、小角様が張り巡らせた結界があるんだ。それぞれ、違う式神たちが守ってる筈さ。』
『もっとも、殆ど人には知られちゃいないけどね。』
『そのうちの吉野や熊野、金剛山系の結界は俺たちが護ってるって訳さ。』
「そっか、この辺りは熊野にも繋がってるんだっけ…。で?観月流とのつながりは何なんだ?」

『その辺も話しておいた方がいいだろーな…。まず、小角様のことを少し説明しておいてやろうか。』
 そう言いながら、前鬼は乱馬へと話し始めた。
『役の小角は、元々、葛城系の一族でよ。』
「葛城系?」
『ああ、葛城山ってーのが、金剛山系の山の一つなんだが…。古来、ここの祭祀一族は秀逸だったんだ。その中でも小角の一族は群を抜いていたんだけどよ…。ま、この八十島に限らず、古代の王権とか覇権は祭祀系が握っていたのがほとんどだろ?』
「確かに、今も続いてる、天皇家は祭祀一族の総本山みてーな家だもんな…。日本史って、天皇家のからんだ歴史みてーなもんだし…。」
『で、その葛城系は、祭祀に長けた一族ってーので、古今東西、神祀り事や陰陽道に長けた者が多かったんだ。小角に流れてた血が時々、頭をもたげてくるんだろーな。葛城系の一族からは、ごくたまーに、秀逸な陰陽師や巫女みたいな能力者が出るんだよ。
 あれは、戦国のころだったかなあ…。「みづき」という、葛城系一族の女が居たんだが。こいつが、秀逸な能力者でよー。月の石を持って、俺たちの山へ登って来やがったんだ。女人結界を越えてな。』
『あんときもびびったね。』
『で、こいつ(後鬼)が目覚めて、戦闘になった。』
「もしかして…俺が体験したみてーな、闘いだったのか?」
『ええ、あんな感じだったかしらね…。この山に女を寄せ付けないことがわらわの一番の役目だったから、当然、熾烈な戦いを仕掛けたさ。』
「で?」
『結果は、引き分けだった。…乱馬の時みたいに、夜が明けてしまったからね。』
『彼女と引き分けたのには、理由があったんだけどよ…。』
「理由?」
『黄水晶を持っていたのさ。』
「黄水晶…。」
『ああ…。黄水晶には穏の精霊を制御する力が備わってるんだ。それを、一個、二個ではなく、懐にいっぱい忍ばせていたから、後鬼と同格に戦えたんだ。で、倒せなかったってんで、渋々、後鬼は、みづきと約を交わしたんだ。』
「約?」
『小さな契約…みたいなものね。』
『俺たちは、小角と先に契約してるからな。式神になるといったような、強固な契約はできねえ。』
『式神としての二重契約は、できないのよ。』
「ふーん…いろいろ取り決め見て―なものがあるって訳か…で?」
『後鬼は、「みづき」との間に、彼女の子孫に、一定の条件を満たせば、鬼の波動を与える修行を施してやると約束させれられたんだ。』
「一定の条件?」
『ええ。黄水晶を持って来た、みづきの一族の長に、鬼の修行を施してやるってね。』
「何で、そんな約束をしたんだ?」
『あの頃、八十島は下剋上で乱れまくっていらからね。戦国時代…。強くなければ生き残れない…そう、いうことで、彼女の一族も、生き残るのに、懸命だったんだろーさ。
 で、わらわと闘ったのち、みづきは一族の者と結ばれて、巫女ではなくなった…。けれど、さすがに一流の術者だっただけはある。身ごもったのは「双子」だった。
 でも、我らとの約束は、一族の中の、後継者、一人だけに代替わり事に、修行をつけてやるということだった。
 だから、双子それぞれに修行はつけてやれなかったのさ。
 この八十島の国はいつしか、長子が一族の覇権を握ることになっていたのだけれど、母としての、みづきはそれを良しとしなかったの。
 双子は一緒に生を受けたも同然。
 みずきは一計を案じて、双子に勝負させ、勝った方に、我らの鬼の波動の修行を受けさせることにした…。
 そして、負けたほうには、別の穏の精霊のところへ、修行に向かわせたのさ。』

「え?それって、もしかして、その、みづきって奴は、おめーら以外の「穏の精霊」とも、同じような約を交わしたってーのか?」

『その通り。今回は頭が回ってるみたいだね。』
「あのなあ…馬鹿にすんなよ。」
 グッと拳を握りしめて、黙り込んだ。ここで茶々を入れてしまっては、なかなか話が前に進まないと、乱馬なりに考えた結果だった。

『一族を未来永劫、栄えさせるために、みづきは己の双子の子らを、二つの流れに分けてしまったのよ…。表はわれらに、そして裏は別の穏の精霊に、修行をつけてもらうことにしたようね。
 彼女の作った「観月一族」は、表の本流と裏の両家を競わせ、時に入替戦をしながら、暗殺を得意とする「戦闘一族」へと変貌を遂げていったんだよ。』
「戦闘一族ねえ…。」
『いつしか時代は移り行き、武家の時代は終わった。今の世は古(いにしえ)のような死闘はしない…。が、多分、観月流の中には「血塗られた一族」としての強い自負と野望がある筈だぜ。』
 前鬼がそんなことを言い出した。
「え?…どういうことだ?」
『奴らの極意は、いかに上手く、人を殺すか…というところにある。…元々、武道は人殺しのための極意だからな…。今し世は、平穏過ぎて、そのことを忘れてしまっているが…。観月流の底に流れているのは、そんな、武道の闇の部分だ。きれいごとだけでは済まされねえ…。』

 乱馬は押し黙ってしまった。
 確かに、武道は相手を倒すことに目標がある。人殺しが罪悪であるという倫理観の今の社会では、武道はスポーツと成り下がっているが、剣道も柔道も空手も合気道も拳法も居合道も…すべての武道は、元は人を倒し殺すことに、存在意義があったはずだ。
 
『それが証拠に…裏に回ったみづきの子は、別の穏の精霊に、その、拠り所を頼ったんだ。』
「別の穏の精霊?」
『ああ…。裏は表をいつか見返そうとして、裏理念の強い穏の精霊を求めたのさ…。その名は「朱点」。酒呑童子として悪名を馳せた、邪鬼だ。』

「酒呑童子…って、平安時代に京の都で暴れまわっていたっていう、あの、伝説の鬼か?」

『あら、あんたでも、名前くらいは知ってるのかえ?』
 少し意外そうに、後鬼が乱馬へと問いかけた。
「いくら俺でも、そんくらいは知ってるぜ。馬鹿にするなよ。」
 と再び、鼻息が荒くなる乱馬。
『朱点は、俺たちのような高尚な穏の精霊とは全く違うぜ。あいつは、「まつろわぬ鬼」の類だし、憑依鬼だからな。』
 と、不機嫌な顔を手向ける前鬼だった。
「まつろわぬ鬼?」
『神々に背いて、馴染まない鬼…つまりは、天神地祇(てんしんちぎ)の護り鬼ではなく、背(そむ)く鬼…邪鬼のことを「まつろわぬ鬼」っていうんだよ。』
 後鬼が説明してくれた。
「で、憑依鬼ということは…憑りつくと同義だよな?」
『ああ…。俺たちみてーに式神として契約するのではなく、契約者の身体に憑依して乗っかりやがるんだ…。まつろわぬ鬼ってーのは…。』
 と前鬼が侮蔑するように吐きだした。
『人間が言うところの「鬼」…わらわたち「穏の精霊」にも、色々、系譜があるのさ。中でも憑依鬼はほとんどの場合が悪鬼の類になるから、忌み嫌われる。』
 後鬼が後付けで説明する。
『朱点は、いけ好かねえ…人間に憑依するだけじゃなくって、人間の女に手を出したり、異種眷属を生み出そうとしたり…。「穏の精霊」として、やってはいけない「禁忌(きんき=タブーのこと)」を破ってばかりの奴だ。それだけに、危険な鬼だ…。野放しにはできねえ。』
『だから、封印されていたんだけれど…。』
 前鬼と後鬼の顔が、浮かぬ表情になったのを、乱馬は見逃さなかった。

「もしかして…俺が対決する「観月氷也」は…その「朱点」とかいう鬼を憑依させた…とか言うんじゃねーのかよ?」

 と問い質していた。

『ああ、恐らく、おめーの想像通りだろうさ、乱馬よ。』
 前鬼が言いきった。
『わらわはわからなかったが、前鬼には奴の復活の兆しを感じたらしい。』
 後鬼も吐きだした。
『おめーの話だと、裏と表を入れ替えると言ってたしな…。ということは間違いなく、裏の奴らは「朱点」を引っ張り出して来るに違いねえ…。』
『朱点は人間の身体へと憑依するだろうね…。そしたら、厄介だよ。一筋縄ではいかない。』
『ある意味、表と裏の戦いは、我々まつろう鬼とまつろわぬ鬼との因縁対決なんだ。』

「そーか…。氷也は朱点という鬼を憑依させたってことか…おもしれえ…。」
 ぎゅっと握った拳。

『おまえ、そんな、化物とやり合わなきゃなんねーのに…怖くはねーのか?』

「へっ!怖くなんてねーよ!むしろ、上等でいっ!俺だって、ここで、修行した訳だしよ。」

『まだ、鬼の波動を完全に己の物にしたわけじゃねーんだぜ?わかってんのか?』
 呆れたように、前鬼が乱馬へと問いかけた。

「関係ねーよ、んなこと!強い者と闘える…それだけでも、ワクワクするじゃねーか…。たとえ、それが、鬼神だろうが、化物だろーが…格闘という名が付くものに、俺は負けたことはねーし、負けねーんだ、これからも!」
 と吐きだしていた。
『あんたも、前鬼と同じ類の、武道脳の持ち主って訳か…。』
「悪いか?」
『悪いなんて、一言も言ってないよ。そのくらいじゃないと、朱点を再び封印することは難しいだろうからね。』

「封印?」
 思わず、問い返していた。

『ああ、封印だ。あんな危険な鬼、ほっておいたら、再び、戦乱が起きねーとも限らねえ。あいつは、殺戮が何よりも好きな、まつろわぬ鬼だからな。』
 と、前鬼が吐きつけた。
『それに、人間の女を嫁にして、どんどん、眷属を増やして勢力を拡大されたら…陰陽師や優秀な巫女や術者が見当たらない、今の世が、混乱するは必定。齢(よわい)だって、憑依している限りは延々とあるしね…。』
『ただ、残念なことに、俺たちは直接、手出だしは出来ねえ…。式神として、契約をして、小角様と関わる天神地祇と、まつろっちまったから、なおさらな。』
 と前鬼が言った。
『人間界のことは人間に任せる…それが、天神地祇の掟だからね。だから、私たちが朱点と直接やりあうことはできないのさ。』

「ってことは…俺に朱点とかいう鬼を封印しろとでもいうのかよ?」

『そーゆーことだ。今の世の中に、あんな奴を完全復活なんかさせたら…手に負えなくなるぜ。日ノ本の国の結界そのものが崩壊しちまう可能性が大きい。そうなったら、日ノ本の国そのものの存在が危うくなる。』
「こら、脅すつもりか?」
 乱馬はつい、前鬼を睨み上げた。
『朱点はずるがしこいし、あんたみたいな、純情な男には、持て余すだろうしね。』
 クスッと後鬼が笑った。

「純情は余計でいっ!」
 つい、語気が荒くなる。

『ま、ちったあ、ずるがしこくなることも大切だってことさ。…それから。』
 と言いながら、前鬼は乱馬へと、黄水晶と青い石を差し出した。

「これって…。月の石と青い石…?」
 差し出された石を手に取りながら、しげしげと眺めた。
『もう一つあった、黄水晶は、修行の証として、いただいとくぜ。』
『そういう、決めごとになっているからね。』
『あと、月の石とこの青い石は、おめーに返しとくぜ。朱点と闘うとき、きっと、おめーを助けてくれる筈だからな…。とにかく、おめーが闘う「朱点」という鬼は、一筋縄ではいかねー…それだけは、肝に銘じた方がいいぜ、乱馬。』
『そう…。朱点を決して、復活させてはいけないよ…。乱馬!』

 乱馬の掌の中で、黄色い光と、青い光を放つ二つの石が、その存在を主張するように、光も無いのに、輝いていた。

『さてと、小休止は終わりだ。乱馬。もう、夜明けまでいく時間もねー。残った時間を最大限に使って、おめーに「最終奥義」を授けてやらあ!来い!』

「ああ…。望むところだ!」

 ゴオオッと地鳴りが響く。と同時にどうだろう。乱馬の女体が男へと変化し始める。
 ふくよかな肉体から、固い筋肉に覆われた肉体へと、変わっていく。

『来いっ!その肉体ごと、俺にぶつかって来いっ!乱馬!』

「でやあああああっ!」

 懸命に駆け抜ける、二つの塊。
 その二つの肉体を、見上げながら、ふうっと、後鬼が大きく息を吐き出した。

『前鬼の奴…。嬉しそうだこと。男に対しても、嫉妬するなんて、わらわらしくもないけれど…。』
 鬼の後鬼とて、前鬼と乱馬の闘いっぷりの前では、ただの女に成り下がってしまっていた。
『それにしても、月の石と命の輝きは、いつ見てもきれいね…。』
 キラキラと乱馬からほとばしり落ちる、気脈。黄金の砂のように、汗と共に、身体から吹き出している。と、乱馬の懐が、黄色に輝き始めた。
『月の石があんなに光っている…。月の石があんなに光ることも無かったわね…。月の石に魅入られた人間かぁ…。あの子なら、なんとかしてくれそーね。』

 闘う二人の向こう側が、だんだんに白み始めていた。

『夜明け…か。もう、そんな時間…。もう少し眺めていたかったけれど…。』
 寂し気に、後鬼の顔が笑った。



つづく





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