◆天高く 第三部
第十一話 月の石



一、

 後鬼に促されて、乱馬が「月の石」を祭壇に置く。
 辺りはすっかり。暗くなっていて、夜の闇が降りていた。

 いつの間にか、洞窟内には灯(あかり)が灯っていた。そう、洞窟内のところどころに燭台が設けられていて、ろうそくの炎が、辺りをを照らし出していた。
 祭壇の脇にも、燭台があったが、「月の石」が置かれると、フッと後鬼が灯りを持って居た青葉で消した。
 前鬼も呼応するように、辺りにあったろうそくを一本ずつフッと青葉で消して行く。最終的に、洞窟内のろうそくは全部消され、光は途絶えた。
 が、全てが闇に包まれると、「月の石」がにわかに光り始めた。
 いや、正確には、祭壇の脇から、すっと一筋の黄色い光が降りてきたのである。その光は、洞窟内を明るく照らし出す。

「え?」
 驚いて、その光に、目を見張る乱馬。
『あれは月の光だよ。』
 と前鬼が声をかけた。
「月の光…月光?」
『ああ。洞窟の岩陰から、月光が降りてきて、あの石を照らし始めたんだ。何せ、「月の石」と呼ばれるくらいだからな。』

 前鬼の言葉に、「月の石」を改めて見つめると、まるでプリズムのように、降りて来た光が屈折して、ほのかに石自身が、黄金色に光り始めているように見えた。
 月の光に促されるように、ゆっくりと光が石に満ちてくる。神秘的な光景だった。

『ほら、石が話し始めたよ。』
 後鬼がそんな言葉を投げかけて来た。
 確かに、微かだが、ジジジとかチチチという、小さな音が月の石から聞こえてくる。
 息を潜めていないと、聞き逃してしまいそうな、小さな囁きだった。もちろん、乱馬には言葉として、その音をとらえることはできなかった。
 対して、前鬼と後鬼。この一対の鬼たちは、頷いたり、溜息を吐き出したりしながら、静かに石の「言葉」に耳を傾けているようだった。
 そんな不思議な光景が、十分ほど続いたろうか。

 石を照らしていた月光が、瞬く間に途切れた。雲間にでも入ったか、それとも石が語り終えたのか。

『なるほどね…。』
 小さく言葉を継ぐと、再び、洞窟内のろうそくが一斉に灯った。火種が無かったにもかかわらずにだ。
 ハッとして、鬼たちを見ると、二人とも、気難しい顔をして、黙していた。後鬼はもちろん、前鬼ですら、何か、深く考え込んでしまった感じだった。

「おい…。石は何て言ってたんだ?」
 しびれを切らせた乱馬が、鬼たちへと問い質す。

『日菜は、乱馬が思ってる奴じゃなかったぜ。』
 一言、前鬼が言葉を投げて来た。

「え?日菜さんって、みさきのばーちゃんの名前じゃねーのか?」
 そう、返していた。

『ああ…。観月みさきの祖母ではなく、観月凍也と氷也の祖母だ。』
 前鬼が静かに言い渡した。

「な…?ってことは、裏観月流のあのじーさんの妹の名前なのか?」
 驚いた表情で、乱馬が問い返すと、前鬼の頭が縦に揺れた。
「おい…。じゃあ、何で、みさきの母ちゃんが持ってたんだ?それに、確かに俺は聞いたぞ。みさきの婆ちゃんの形見の石だって。」
 乱馬でなくても、聞きたくなるだろう。
 みさきの祖母と裏観月流の当主、氷三郎の妹はと、相対する存在になる。表観月流の当主、寒太郎の子供を、それぞれ産んでいる。いわば、正妻と妾。いや、この場合、結婚できた女性と、できなかった女性とでも言うべきなのだろうか。
「みさきのばあちゃんと凍也のばあちゃんって、ある意味、敵同士みてーなもんじゃねーのか?」
 乱馬がそう言いたくなるのも仕方があるまい。

『まーな…。何か、複雑な事情があったみてーだな。』
 前鬼が腕組みしながら、重い口を開いた。
『寒太郎とか言ったかね…。この二人にかかわった、御仁(ごじん=男性)は…。』
 後鬼が乱馬へと問いかける。
「ああ…観月寒太郎じいさんだ。会ったことあるんじゃねーのか?じーさんだって、昔、この洞窟に籠ったんだろ?」
 と問いかけた。

『こもったみてーだが、俺たちは、会ったことはねーよ。』
 軽く一蹴した前鬼。
「何でだ?じーさんも、後三日の修行に、この洞窟に入ったんじゃねーのかよ。」
 小首をかしげながら、問いかける。
『確かに、修行に来たが、おめーみてーに顔を突き合わせて言葉をかわしちゃいねーぜ。』
 と前鬼が言い放つ。
「どういう意味だ?」
『頭の悪い小僧だね。寒太郎には前鬼が見えなかったし、感じられなかった……それだけのことさ。』
 後鬼が後ろから口を挟んできた。
『見えねー奴が、俺たちと会話をかわすことは無理なんでな。…それに、あの時、観月寒太郎の持ってきた石は「黄水晶」じゃなかったからな…。というか、何故、「黄水晶」じゃなかったのか、「月の石(こいつ)」に聞いて、ようやく理解したぜ。』
 前鬼は眉間にしわを寄せながら言った。
「あん?」
 前鬼の話がよく呑み込めない乱馬は、不思議そうに前鬼を見返す。
『鬼の力を手に入れる修行時には、「黄水晶」を修行の証として持ち込むのが、観月家との間に交わされた約束になってるんだよ。それが無ければ、修行は授けられねー。
 寒太郎って奴は黄水晶を持ってこなかったんだ。というか、偽物を持ち込んだんだよ。この「月の石」と瓜二つの黄水晶ではなく、別の岩石をな。』

「偽物?おめーの言ってることが理解できねーぞ。」
 観月流に身を置いていないため、話の全容が見えてこない乱馬は、小首を傾げるばかりだった。

『この石、面白いことを、いろいろ教えてくれたぜ。』
 前鬼は乱馬のことなど、目に入らぬように、自由奔放に話を巡らせて来る。
「面白いこと?」
『ああ…。例えば、寒太郎は「月の石」を日菜から奪うために近づいた…とか。』
「え…?」
『おめーの話じゃあ、寒太郎は観月家の事情でやむなく日菜との結婚を諦めて、その、みさきのばあさんとやらと婚姻したようなことを言ってたが…そりゃあ、嘘っぱちだ。』
「どういうことだ?」
 思わず食らいついている乱馬が居た。
『日菜が「月の石」を持っていることを知った上で、近づいて、関係を結び、石を日菜から盗んだんだとよ。』
「盗んだ…?あの爺さんがか?」
『ああ。「月の石」の庇護を失った日菜は、元々身体に巣食っていた病魔に侵され、子を産んだのちに、死んだ。』
「お…おい、凍也のばあちゃんって、産後の肥立ちが悪くて死んだんじゃねーのかよ?」
『直接原因はお産かもしれねーが、その前に病を巣食わせていたようだぜ…。で、病状を押して、無理に子供を産み落として、日を置かずに死んだそうだ。』
「……。」
 思わず、前鬼の話に、耳をふさぎたくなった乱馬だった。その話が本当なら、寒太郎は「超弩級のタヌキじじい」ということになるではないか。
 確かに、「後で日菜の妊娠を知った」としても、許せる話ではない。
「あの、じいさん、何でそんなことをしたんだ?」
 恐る恐る前鬼に問いかけると、
『さあな…。』
 と一言投げられた。
「こら!ここへきて、何だ、そのいい加減な答えは!」
 乱馬は思わず、ずっこけそうになっていた。
『いや、普通に考えれば、確実に「鬼の波動」を習得しようと思った…に違いねーんだろーが…。』
 少し、前鬼は考え込んでいた。その横から、後鬼が口を挟んで来た。
『多分。確実に「鬼の波動」を授かろうと思ってやったんだと思うよ。月の石は特別なんだ。この石さえあれば、前鬼の力は容易に吸い上げられる。たとえ、前鬼が認めなくてもね…。』
「一体、月の石って、何なんだ?」
『我らを縛るための、魔石…とでも言うのかな。小角様が俺たちを使役したとき、使った魔石の欠片なんだ。月の石ってーのは…。』
『月の石は、魔物を撃退する力もあるっていう訳さ。わらわは小角様が使っていた魔石の欠片を、日菜に持たせてやったんだよ。この山のふもとに巣食う、魔物たちから身を守るためにね。』
「じゃあ、もう一つきくが、寒太郎爺さんは、鬼の力を手に入れてねーんだよな?」
『勿論だ。俺の力はこれっぽっちもあいつには、伝わってねーよ。』
 と前鬼は親指と人差し指をつまむ真似をしながら、首を横に振った。
「月の石じゃなくて、偽物を持って来たからか?」
『まーな…。前三日の修行を完ぺきにやり遂せても、偽物を持って来たんだから、授ける訳にはいかなかったからなあ…。』
「何で、偽物なんかを持って来たんだ?」
『…この石によると、贋物を遣わしたのは、正妻らしいよ。つまり、観月みさきの祖母さ。』
 前鬼と後鬼が続けざまに言った。
「な…何だって?」
 その言葉に、もっと驚きの声を挙げた乱馬だった。
『いやあ、女って怖いねえ…。結婚した旦那様にお手付き女が居て、しかも、立派な「月の石」を旦那がその女から貰ったと勘違いした正妻が、嫌がらせをしたみてーだぜ。』
「嫌がらせ…。」
 その言葉に、つい、うっとなる。
『月の石とそっくり瓜二つの贋物を作って、すまし顔で修行に出る寒太郎へと持たせたみてーだぜ…。その寒太郎の正妻はよー。』

 その話を聞いて、背中に冷たいものが流れていく。
「みさきのばあちゃん…やるなぁ…。つーか、怖えぇっ!」
 正直に口をついて流れた言葉。

『いや、俺も、正直驚いたぜ。あん時、観月寒太郎が何故あんな「贋物」を持ち込んだのか…理由がわかったからな。』
「偽物をつかまされたら、修行はできねーのか?」
『当たり前だろ?真贋の区別もつかねー野郎に、鬼の力なんか扱える訳なかろーが!』
 けっと、前鬼が吐き散らした。

「何か、後味が悪い話だぜ…。夫婦間で騙し合いやってるみてーだな…。」
 乱馬の正直な感想である。確かに、「妻は出来た奴でなあ…。」みたいなことを、寒太郎は口走っていたからだ。その妻に、手痛いしっぺ返しを知らず知らずに食らわされて、修行は未完遂だったということになる。

「こわすぎるぜ…。」
 正直な感想だった。

『ま、女は嫉妬深い生き物だからなあ…。可愛さ余って、憎さ百倍とか…。愛情が深ければ深い分、その想いが歪んじまったら、手には負えねえよ。愛情は憎しみに変わった時、負の力となるから、もっと性質(たち)が悪いぜ…。おめーもせいぜい、気を付けるんだな、乱馬。』
 ふうっと、溜息と共に、前鬼が吐きだした。
『それって、わらわのことも含まれているのかえ?』
 じろっときつい瞳を、前鬼に投げつける後鬼。
『だから、乱馬に忠告してやってんでいっ!俺は!』
 慌てて否定に走る、前鬼だった。

(確かに…。あいつの「嫉妬」は時々、すげえからなあ…。)
 乱馬はしみじみ頷くのであった。
 以前ほどではないにしろ、三人娘たちが絡むと、機嫌がにわかに悪くなるのは変わらなかった。

『で、肝心なおまえのことだが…。』
 前鬼がニヤニヤと乱馬へ向き直った。
「あん?」
 急に、前鬼の気の流れが変わったのを受けて、乱馬は大きく問い返していた.

『やっぱ、面白いぜ…おめーは。なあ、後鬼。』
『確かに、普通の人間じゃないことは認めてやるよ、わらわもね。』
 後鬼が初めて、乱馬を認めたようだった。穏やかどまではいかないが、亜空間で見せた「凄み」や「敵意」は、もう彼女からは感じなかった。
「普通の人間じゃねえって?ごくありふれた人間だと思うんだが…。」
『あのなあ…どこに、変幻自在な人間が居るっつーんだよ。稀な存在だぜ?下手したら、化物だぞ。』
「うるせー、化物扱いすんな!俺は人間だ!真っ当なな!」
 己の体質のことを言われているのだと理解して、乱馬が怒鳴った。
『普通の人間には、俺たちの姿は感じられても見えねえ…。で、まあまあの武道家や修験者なら、普通は俺だけが見える筈なんだ。後鬼と一緒に見える方がおかしい…。』
「はあ?」
『ある程度の闘気がある男には俺の姿が見えて、で、女には見えねーんだよ。で、逆に、巫力(ふりょく)や闘気がある女には後鬼が見えるが、野郎には、後鬼見えねえーんだよ。つまり、後鬼が見えてるだけで、普通じゃねーわけだ!』
『ほんに、そこらへんの化け物以上の能力を持ってるよ。あんたは。』
 前鬼と後鬼が、乱馬を眺めながら、互いに頷きあっている。

「なんか、褒められてる気がしねーよ。っつーか、馬鹿にされてる気もするんだが…。」
 ムスッと二人の鬼たちを見比べてしまった。

『まあ、そう言うな…。俺たち二人で修行をつけてやろうって、言ってんだ。有りがたく思え!』
 前鬼が吐きつけて来た。
『本来は、前鬼しか修行がつけられないんだけどね…。小僧にはわらわも見えているから、わらわからの修行もつけてやれるんだよ。ふふふ。』
 後鬼も一緒に笑った。

「え?」
 二人の鬼の言葉に、つい、一歩、後足を引いた。
 前鬼と後鬼。この二人の鬼から、なんとも表現しがたい「闘気」が沸き上がり始めていたからだ。

『いやあ、ぜひ、おめーに力を与えろって…「月の石」がうるさいんだわ、これが。』
 前鬼がポリポリと頭をかくしぐさをした。
『俺には、おめーに、修行を与える義理なんて、ねーんだぜ。だけど、ちっとばかし、嫌な予感もするしなあ…。』
「嫌な予感?」
『こっちの話だ…おめーは気にしなくてもいい。』
 そう言いながら、前鬼はごまかしにかかった。
『俺ばかりじゃなくて、後鬼までに修行をつけてもらえるんだから、いろいろ、幸運だぜー、おまえは…。』

「はあ?俺のどこが幸運だってんだ?」
 ドキドキしながら、前鬼へと聞き返してしまった。

『決まってんだろ?おめーが修行の証となる「月の石」を持って来たこと…それから、この「月の石」そのものが、おめーの修行を望んでいること…それから、観月凍也とかいう奴の証の石も持ってるだろ?』

「また、訳のわかんねーことを…。凍也の名代には違いねーが、その証ってのは何だよ?もう一つのレモン水晶か?」
 「月の石」以外に、もう一つ、みさきから預かっているレモン水晶があることを、思い出していた。

『レモン水晶だけじゃねーだろ?おめーが預かってるものは。』
「え?」
 きょとんと表情の乱馬に、
『たく…どこまでも、鈍い奴だね…。もう一つ、別の石を持っているではないのかえ?』
 後鬼が呆れたように言い放った。
「そういえば…。青い石も預かってたっけ…。」
 もそもそと懐をいじくって、中から「青色の八面体の石」を取り出した。
 その石は、キラキラときらめいてはいなかったが、ずっしりと何かしらの重みを感じた。

『ま…おめーには、それが何か、わかっちゃいねーみてーだがよ…。』
 フッと前鬼が言葉を投げた。
「ああ…。みさきさんにもおばさんにも、何にも説明なんて受けてねーしな。だいたい、この石は何なんでい?」

『石なんかじゃねーぞ。それは。』
『石なんて言ったらバチが当たるかもね。』
 前鬼と後鬼にはこの石の本性がわかっているらしい。

「石じゃなかったら、何なんだ?」

『この青い石の正体は、今、この時点では、あえて、おめーには伏せておくぜ。』
『ああ、自分で感じ取らなきゃ、この石の加護が得られないからね。』
 意味深な言葉を、前鬼と後鬼が乱馬へと投げた。

「何なんだよ、その、歯に衣がかかったような言い草は…。」
 思い切り、困惑顔を、鬼たちへと手向ける。

『多分…この石を預けた者は、おまえに、これからの全てを託すつもりで、もう一つの「黄水晶」と共に、預けたんだろーね。』
『ああ、きっとそうだな。』

「……。」
 乱馬は押し黙ったまま、月の石ではない方の「レモン水晶」と青い石を、見比べていた。
 このレモン水晶は、凍也が観月流当主として、ここに来るための証として必要だったに違いない石だ。
 で、もう一つの形の良い青い石は、いったい何なのか。観月流派の使い手ではない乱馬には、さっぱり、想像がつかなかった。
 
 と、後鬼が言った。
『何故、この修行に、「黄水晶」が必要なのかわかるかえ?』

「わかんねーよ。俺は観月流とはそもそも無関係な流派、云わば、余所者だからな。」
 ぼそっと乱馬が吐きだした。

『日菜が持って居た「月の石」に代表されるように、この大峰山のふもとで採掘される黄色い水晶は、月の光を清かに集める力がある。暗い夜道に、月明かりは欠かせないものだ。もっとも、「常夜灯」を手にしたおまえたちの文明には最早、意味を成さないものかもしれねーがな…。』
 前鬼が言うのも、もっともな話であった。
 電灯が無かった時代、ろうそくは貴重な物だったし、松明もいつも焚けた訳ではない。
 暗い夜を行こうとすれば、月の光は充分、足元を照らすのに役立ったことだろう。父親と共に良く修行で、山の夜道を走り回っていた乱馬には、前鬼の言わんとしていることが、理解できた。
 それに、電灯がいき渡った現代社会でも、「お月見」など、月に敬意を表する祭りは残されている。

『これだけは覚えておけ…。月の光…つまり、それは、日輪の光と同じ物だということをな。』

 ハッとして、乱馬は前鬼を見つめ返した。
 日輪…つまり、太陽のことだ。

「月の光と太陽の光が同じ物?」
 不思議そうな顔を手向ける。

『ああ…。おまえたちの生きている時代では、それが当たり前のこととして、理解されてるんじゃねーのかよ?』

「そーか…。月、自らが光ってる訳じゃねーよな、確かに。」
 月は地球の衛星であり、地球の周りをぐるぐると回っているが、自ら光を放っているわけではない。
 月世界はクレーターに覆われていることを、当たり前のように、皆が理解しているではないか。
 では、月明かりとは…。そう、太陽の光を受けて、照っているに過ぎないのだ。
 月光…すなわち、それは、日の光が月面に反射しているに過ぎない。月光と日光は元をたどれば、同じものだ。前鬼はそう、言いたいに違いない。

「もしかして、観月流って、月の光と何だかの関係があるのかよ?流派の名前に月が入ってるくれえだし…。」

『まあ、それに近いかな…。もう一つ、言えば、俺の原動力は「月輪の光」、で、後鬼(こいつ)の原動力は「日輪の光」。陰陽合わさってこそ、初めて「生粋の穏の波動」は発動するんだ。』
「生粋の穏の波動?」
『ああ…。鬼の波動よりも、もっと強烈な波動だよ。観月家の奴らが求める「鬼の波動」よりも数段強い波動だ。」
『そういうこと。まあ、観月流の奴らは、せいぜい、「月輪」しか利用できないけど、乱馬、あんたなら、「日輪」も使いこなせるはず。』
『何故なら、おまえは、呪泉の呪いのおかげで…陰と陽、男と女、二つの属性が混じりあう、不思議な存在だからな。』
『両性具有じゃしな。』
 ビシッと、二人の鬼に、指さされた乱馬。

「それって、喜ばしいことなのか?なんか、オカマって言われてるみてーで、複雑なんだがよー。」

『まあ、うだぐだ言うな。そろそろ始めるぜ。時間は限られてる。』
「お…おう…。」
『そなたの手にしている、もう一つの黄水晶とその青い石、月の石を載せている祭壇へ、置くが良い。』
 後鬼が促した。
「この石も置くのか?」
『ああ、祭壇に置いて、せいぜい、月の光を浴びせ、浄化させながら、力を溜めておくことじゃな。』
 後鬼がニッと笑った。
『後鬼の言う通りだぜ…。、おめーにとって、月の石も、この青い石も、苦境に立たされた時、力を貸してくれるだろうからな。そのためには、月の光を目いっぱい、浴びせてやらきゃよう。』

「わかったよ…。何か、良くわかんねーけど、ここに置いときゃいいんだよな?。」
 そう言いながら、もう一つの黄水晶と青い石を、月の石の前に並べて置いた。

と、さああっと今度は別の空間が現れた。真っ赤に燃える空間だ。

「また、空間が変化しやがった…。」
 乱馬が辺りを見回していると、
『今度は俺の空間だ…乱馬。』
「前鬼の空間?」
『ああ…。おれの操る空間は、生相(せいそう)の空間。つまり、物事が生まれる空間だ。』
「物事が生まれる空間?」
『後鬼とは真逆の力を俺は扱っている…。さてと…。丹田に気合を入れてみな。』
 ニッと笑って、前鬼が促した。
 修行を開始するつもりなのだろう。

「お…おう。」
 
 女化していた乱馬から、闘気が立ち上り始めた。

『目いっぱい気を、充満させてみろ。手は抜くなよ。』
 と発破をかける。

「わかってるよ!」
 はああっと、大きく息を吸い込んで、更に、闘気を丹田へと集中させていく。

『次は、この空間に溢れて来る、月の石が発する「月の光」を感じ取ってみな。』

「月の光?」

『ああ。祭壇に置いた月の石の光が、微量ながら流れてる筈だぜ。神経を研ぎ澄ませればわかる。おめーならできるんじゃねーのか?冷気を集めるのと、同じ要領でやりゃあ、いいんだから。』

「冷気か…。」
 散々、前修行で叩きこまれた「観月流の基本」を思い出しながら、冷気ではなく、少しだけ漂っている気脈へと意識を集中させた。これが、前鬼が言う「月の石から漏れ出す光」だという、保証は無かったが、とにかく必死に、意識を集中させ、光の気脈を探り当て、己の方へと引き寄せ始めた。

 十分も経ったころだろうか。
 と、ぽおっと、乱馬の身体が青白く光り始めた。

『ほぉ…。』
 乱馬の変化に見、前鬼が感嘆の声を挙げた。

 青白い光は、月の光なのだろう。黄水晶から吸い上げるように、乱馬の身体へと、まとわりつき始めた。
 と、体内からも気が発して来た。丹田に集めた闘気だ。流れて来た月の光が、みるみる、丹田からの赤い気と同化して、女体へと巻きつき始めた。
 それは、不思議な光景だった。
 青と赤の気が乱馬を中心に身体の表面をゆっくりと覆い始める。気は融合され、紫色に輝き始めた。

『へへ…。けっこうやるじゃねーか…。こいつは、甚振り甲斐があるぜ。』
 前鬼がニッと微笑んだ。
『ま、そのくらいの気概が無いとわらわたちの相手にはならぬであろうが…。』
 クスッと後鬼も一緒に笑った。
 
「上等でい!どんな修行でも、こなしてみせらあ!」
 乱馬が怒鳴った。
 
『いいぜ…。みっちり、二人がかりで、修行をつけてやらあっ!』
『ふふふ…二人がかりってーのは、小角様以来だものね。』

 辺りの景色が、また一変していく。

 洞窟ではなく、別の空間へと象っていく。
 さっき居た「滅相」の白い空間ではなく、今度は乱馬の気と同じ、紫色の空間だった。

『じゃあ、行くぜ!楽しい修行をおっぱじめようじゃねーか!』
 前鬼と後鬼が、一斉に、乱馬目がけて飛びかかって行った。



二、

 太陽の光が、閉じた瞼の上を、差し込めた。
 あかねは、その光に刺激され、ゆっくりと瞳が開く。

「こ…ここは?」
 
 ハッとしてあたりを見回す。
 と、見知らぬ小屋の中だった。
 乱馬や玄馬が良く山籠もりで使っているような、雨風だけをしのぐような小屋の中だった。毛布一つをかぶせられて、眠っていたようだ。
 何故、こんなところに自分が居るのか。記憶を辿ろうとするが、ふっつりと途切れている。
(確か…裏観月流のお爺さんと一緒に、天道家を出たんだけれど…。)
 考えても考えても、何故、ここにたどり着いたか、全く思い出せない。
 新幹線で大阪へ行くと言っていたはずだが、東京駅に辿った記憶はない。それどころか、家を出たところで、ふっつりと記憶は途切れている。

「目覚めたかね。」
 ごそごそっとすぐ側から氷三郎が顔を出した。
 どうやら、爺さんも仮眠を取っていたらしい。爺さんも毛布をかぶっていた。

「ここは…どこです?」
 と、険しい表情で、すぐさま問い質していた。
「丹後の山中だよ。」
「丹後?」
「ああ…丹後の大江山中じゃ。」
「大江山中?丹後って丹後半島のことですか?」
「ああ、そうだよ。丹後半島のつけねにある、有名な山だよ。」
 東京に住んでいるあかねには、関西の地理は良くわからない。丹後と言われても、京都府ということくらいしか頭に浮かばない。
(大江山…。どこかで聞いたことがあるような、ないような…。)
 持てる知識をフル回転して、情報を思い出そうとするが、どうしても、わからない。
「大江山に何しに来たんです?大阪に行くって言っていませんでしたっけ。」
 つっけんどんに氷三郎へ尋ねる。
「大江山と言えば、酒呑童子(しゅてんどうじ)…じゃろうが。」
「酒呑童子?って、あの伝説の…。」
「そうじゃ。京の都を脅かしていた有名な鬼の名前だよ。」
「どうして、こんなところに…。」
 氷三郎の意図が見えないあかねは、困惑するばかりだった。
 山の中に居るのは、確かなようだった。
 小鳥のさえずる声くらいしか音はしないし、空気が澄んでいるのがなんとなくわかる。
 拘束はされていないので、逃げようと思えば逃げられるかもしれないが、大江山というだけで、どこに居るのかは、想像だにつかない。あかねとて、バカではない。逃げたところで迷ってしまうのが、おちだ。
 氷三郎もそれがわかっているのだろう。余裕しゃくしゃくの態度が、あかねの置かれた状況をよく示している。

「ま、どうして連れて来たかは、ついて来ればわかるわ。その前に…。」
 そう言いながら、目の前にお弁当を出された。ここに来る途中で、調達してきたのだろう。コンビニの値札シールがくっついていた。
「食べておかぬと、動けぬぞ。」
 とニッと笑う。
「わかってます!」
 そう言いながら、お弁当を手元に取った。
 氷三郎が言うように、食べておかねば、いざというとき、動けない。それに、お腹はペコペコだった。
「いただきます。」
 一言、投げるように言うと、プラスチックの蓋からシールをはがして、もくもくと無言で食べ始めた。
「なかなんか、肝わ座っておるのう…。」
 あかねの様子を眺めながら、氷三郎が評した。
「ええ。このくらいじゃなきゃ、武道家としては失格でしょう?」
 と、可愛げない言葉を投げ返す。
「そうだの…。格闘家の嫁としても、失格じゃな。」
 そんな言葉を吐き出す。が、あかねは知らん顔をして、パクパクと箸を進める。
 こんな場合、相手に飲まれてしまえば、不利になる。そのくらいは、あかねも承知していた。
 
 食べ終わると、
「道着に着替えろ。」
 氷三郎が言った。
「道着…ですか?」
「持って来ておろう?」
「ええ…まあ。」
 脇に置いてあったボストンバッグへと手を伸ばしながら、問いかける。
「どーして道着に着替えなきゃいけないんです?修行でもつけてくれるんですか?」
「山道を歩いてもらわねばならんのでな。スカートで山道はきつかろう?」
 と言われた。 渋々、承知して、道着へと手をかける。
 着て来た洋服を脱ぐと、胸元に小さな何かが挟まっているのが見えた。
「これ…何?」
 手で触れようとして、ばちっと弾けるような音がした。
「つっ!」
 指先から血が滲み出す。
 固い木のようなものが、布ぬくるまれて収まっていたが、触った途端、棘に刺さったような感覚に襲われた。
「っと、取るのを忘れておったわい。」
 爺さんは、すっとあかねの前に来て、その布を取り上げる。
「何なんです?これ…。」
「別に、何でもないよ。」
 と澄ました顔で返答が返って来た。とても、「何でもない物」とは思えない。それに、チクッと角が立って突かれたような感じになってしまっている。
「ほれ、指を刺したなら、これでも巻いておけ。」
 そう言って、手渡されたのは、絆創膏だった。
 それを受け取ると、不器用にはがしながら、突かれた中指へと貼っていく。当然、あかねのことだ。真っすぐ貼れない。一度で貼れたことが、奇跡でもあった。もちろん、大きく歪んでいる。利き腕とは逆の左手の中指…とはいえ、右手だけではうまい具合に貼れる訳がない。

「さて、行くか。」
 着替え終わると、氷三郎はあかねを伴って、外へ出た。

 外に一歩踏み出して、納得した。
 確かに、山の中だ。木々に囲まれていて、人が歩く道は一通り整備されているようだった。
 縦走者の遊歩道なのだろう。
 が、そんな人が歩く道を辿ったのは、ほんの数百メートルで、すっと、斜面を下りる小さな道へと反れて降りて行く。
「どこへ行くんですか?」
 道着を着ているとはいえ、慣れない斜面だ。それも、下りだ。道は落葉が奔放に落ちているし、日の光も遠く、じくじくしていて、歩きづらい。
「まあ、黙ってついてこい。悪いようにはせん。」
 氷三郎はあかねに詳細を話すこと
なく、どんどんと尾根伝いに降りて行く。
 半時間も辿ったろうか。
 ぽっかりと大きく山肌に開く、洞窟の前に連れて来られた。

 崖に何やら、観音開きの鉄の扉があるのが見えた。
 錆びついていて、開けられるとは思えなかった。案内板も何もない。
 こんな山中に、不自然だと思えるような、扉だった。
 よく見ると、鉄扉の少し上に、注連縄が張られているのが見えた。
 洞穴の前には、大きな岩が横たわっていた。人が一人、横たわるに十分な、上辺が平らな岩だった。ベンチほどきれいに削られていない、自然石だった。
 まるで、何かの祭壇のような感じもした。この鉄の扉と何か関係しているのだろう。

 と、氷三郎は、口へ指を突っ込むと、口笛を吹いた。
「ピュー。」と勢いよく、山へこだまし、響き渡る。何かの合図のつもりなのだろうか。

「ここは何?」
「その昔、酒呑童子の子飼いの鬼を閉じ込めたと言われておる岩穴じゃ。」
「酒呑童子の子飼いの鬼?」
 不思議そうに、あかねが問い返した。
「手下とも、妻とも言われておる鬼じゃよ。」

 すると、ガサガサっと草をかき分ける音がして、にゅっと顔を突き出した者が一人。
 ハッとして、振り返る。
 観月凍也の兄、氷也だった。
 彼もまた、道着を着ていた。よく見ると、凍也と少し似ているところがあったが、その顔は彼ほど人懐っこくは無かった。それどころか、無表情に近い。

「ほお…。そいつは、早乙女乱馬と一緒に居た、奴じゃねーか。確か、あの大会の女子部に出ていた…。」
 あかねを見て、氷也が声をかけてきた。

「ああ、そうじゃ。天道あかねという娘だ。」
「天道あかね…。そうか、観月みさきを破って、女子部を制した女か。」
 氷也は納得した様子だった。
「どうだ?この娘なら、文句はあるまい?」
 ニヤッと氷三郎が笑った。
 じろじろと、頭の先から足先まで、舐めるように見た氷也が言った。
「ああ…。いいんじゃねーか?」

「ちょっと…何なんです?さっきから。」
 じろじろ見られるのは、あまり気持ちの良いものではない。
「品定めだよ。」
 フッと氷也があかねに言った。
「品定め?何の?」
「鬼の嫁にふさわしいか否かのな…。」

「なっ…何ですって?鬼の嫁?」
 いきなり、訳のわからない言葉を投げつけられ、あかねが驚きの表情を手向けると同時に、後ろから氷三郎に羽交い絞めにされた。

「何するのっ!」
 と、怒号を挙げた時は、既に、身体の動きを制されてしまっていた。
 もちろん、馬鹿力で鳴らしたあかねだ。力を込めて、氷三郎を振り切ろうとしたが、無駄だった。
 七十歳は越えていそうな爺さんなのに、力は強い。それに、急所を良く知っていて、身動きだにできない。
「少し、おとなしくしてもらおうかの…。」
 背後からそう言うと、トンとあかねの胸元に固いものを当てた。
「え?」
 背中から全身にビリビリと電流のようなものが駆け抜けて行った。と、身体から力がフッと抜けてしまったのだ。
 腰砕けになり、氷三郎が支えていなければ、地面にそのまま、倒れ伏してしまったかもしれない。
 氷三郎はあかねを、岩の台座の上に置いた。冷たい石の感触が、道着を通しても突き抜けてくる。
 一体、何をされたのか。左右の無畝の谷間に、その塊はへばりついているような感じだった。取ろうと足掻くが、全く、手は動かない。見ると、布きれだった。さっき、指に刺さった、あの堅い木の物体のようだった。
 布きれを突き破って、ぞわぞわとそいつは這い上がって来た。
「な…何?これ!」
 それは、細い触手のようなものだった。よく見ると、植物の根っ子…いや、ツタのツル…であった。そいつは、信じられないくらいの速さで伸びあがって来て、みるみるうちに、あかねの身体に巻きついていく。手や足の自由は奪われ、がんじがらめに縛られてしまった。

「こんなもの、粉砕してやるわっ!」
 力を込めて、引きはがそうと足掻いたが、びくともしない。
 最近、練習し始めた「気」を溜めこんで、破壊しようと思ったが、丹田に集中させるはずの気が、根こそぎ奪われていくような感覚に捕らわれた。

「無駄じゃよ。気はそいつの最大の養分だからな。」
 ニッと氷三郎は笑った。
「養分…。人食い植物…。」
 ハッとして問い返す。
「いや、人食い植物ではない。命を取るつもりは無いから、安心するがいい。」
 氷三郎は余裕で笑っている。
 
「じゃあ、どういうつもりよ!」
 睨み上げながら、果敢にも食らいついてい行く。

「ふふふ、怖がらないで、逆に噛みついてくるとはな…。なかなか気丈な娘だ。鬼の嫁にあてがうのに、申し分はねえ。」
 氷也が言った。

「ちょっと、さっきから何なのよ!誰が嫁ですって?あたしには、れっきとした許婚が居るのよ!おあいにく様。」
 と、突っ込むことも忘れない。
「許婚…あの、早乙女乱馬のことか。」
 氷三郎が問い質す。
「ええ、そうよ。あたしは乱馬の許婚なんですからね!」
 と吐きだして見せる。
「そーか、おまえ…あの乱馬とかいう奴の許婚なのか。こりゃあ、いいや!」
 膝をポンと打って、氷也が笑いだした。
 その様子を見て、氷三郎が言った。
「ああ…。みさきも良いが、血が濃すぎると反発しあうことがあるでな。このあかねという娘は、容姿も体格も申し分なかろう?」
「ああ…この娘なら、さぞかし優秀な子孫をガバガバ産んでくれよう。」

「ちょっと、あんたたち、何を言い出してるのよ!」
 あかねが怒鳴った。

 と、氷也があかねのアゴをグッと掴みながら、言った。
「お前に選択肢はねーんだよ…。」

「絶対、あたしは、承諾しないわよ。」
 そう言い放った。
「いいねえ…。いい…。この気の強さ、最高だ。俺の中に居る、鬼も喜んでやがる。」
 氷也の表情には、薄笑いがフッと浮かんだ。 その瞳は、悪魔的な光に溢れていた。ぞっとするような、冷たい光だった。
「茨木の苗にはもってこいの女だと、酒呑童子も言っておるのか?」
 氷三郎が氷也へ問いかける。
「ああ…。この女なら、俺に力をくれてやるとも言ってやがるぜ。」
 舌なめずりをしながら、氷也が答える。


「イバラギの苗…とか酒呑童子とか…どういう意味よ。」
 はっしと睨み上げたあかね。
 あかねからしてみれば、意味不明のことばを、氷三郎と氷也が交わしていたからだ。

「ふふふ…。氷也は裏観月流の古の盟約により、酒呑童子を身体の中に召還する修行をこなし、先ごろ、達成したんじゃよ。つまり、酒呑童子と契約してその力を手に入れた…とでも、説明しておいてやろうかのう。」
「酒呑童子の力ですって?」
「ああ…。かつて、今日を脅かせた、凄腕の鬼。で、茨木は、酒呑童子が妻の名だ。」
「酒呑童子と契約するための絶対条件は、茨木を憑依させる女を連れて来ること…なのでな…。おまえさんにご登場願ったという訳じゃよ。」
「茨木を憑依させる女…すなわち、それが、茨木の苗。そして、それは、おまえだ。天道あかね。」
「酒呑童子の妻?」
 あかねが怪訝な顔で問い質す。
「ああ。茨木は京で一目ぼれして連れ帰った人間の女だ。酒呑童子は彼女を嫁にするために鬼に転化させたんじゃ。こうやってな…。」
 氷也は己の胸元から取り出した、木製の護符を、あかねの胸元へと置いた。何やら怪しげな意味不明の文様が描かれている、木の札だった。

 それが胸元に触れるや否や、あかねの全身が、大きく一度、わなないた。

 ドクン!

 何か、黒い闇の触手のようなものに、胸倉をぎゅうっと、ひっつかまれたような感じが、突き抜ける。

「う…。」
 くぐもったうめき声を上げた。
 一斉に、あかねの動きを制限していたツタが、再び、もぞもぞと動き始める。

「さてと…。茨木の穴へ放り込むか。じじい、離れてな。」
 氷也は氷三郎にそう言い放つと、洞窟をふさいでいる、鉄扉の方へと歩み寄る。そして、今度は、あかねの胸と同じ文様が描かれた、紙のお札を鉄扉の観音の真ん中へと、ぺたりと貼り付ける。
 と、どうだろう。扉が鈍い銀色に光り始める。

 ドクン!
 扉も一度、大きなうねり音を挙げた。
 そして、次の瞬間、誰も触っていないのに、ギィィィと、扉が表へ向かって開き始めたではないか。
 扉が開ききってしまうと、今度は扉の中から、あかねに巻きついたのと同じようなツタが、ぞろぞろと地面を這いつくばりながら、出てきた。
 そいつらは、意志を持って居るかのように、あかねの方へと吸い寄せられていく。
 と、あかねを縛っていたツタが、洞窟から伸びてくるツタを、自分たちの方へと誘導し始めた。
 ズズズ…と、小さな音を立てながら、あかねの身体を縛るツタと融合し始める。もちろん、それだけではなく、あかねを乗せていた岩ごと、扉の中へと引きずりこみ始めた。
 不思議、かつ、気持ちの悪い光景だった。
 少し離れた場所から、氷三郎と氷也が、その様子を観察している。
 やがて、あかねを載せた岩ごと、彼女の身体は、扉の向こうへと消えていく。
 ズズズズ…と音がだんだんに遠ざかって行く。

「乱馬ぁっ…たすけて…乱…馬…。」
 あかねのか細い声が、闇の奥へと消えていく。
 そして、扉は再び、ゴゴゴと音をたてて、閉じていく。
 ゴオン…最後に、扉が再び、ぴっちりと閉ざされてしまった。

「ふふ…。なかなか刺激的な光景だな。」
「彼女はどうなるんだ?」
 氷也が問いかけると、
「茨木が作り出した住相の空間の中で、あの娘は、茨木の躯体に馴染みやすいように変化させられる…。」
 汗をにじませながら、見物していた氷三郎が言い切った。
「後はおぬしが乱馬を倒せば、良いんだ、氷也よ。ふふふ、最早、あの娘は茨木の器も同然。おまえと乱馬が対決するころには、天道あかねの肉体をした別人になっているじゃろう…。そこへ天道あかねが愛した乱馬という男の躯体を差し出せば…朱点が復活する。」
「そして、俺が朱点と完全に同化し、茨木と同化したあかねを嫁にできるんだな?」
「ああ。おまえが酒呑童子をその身体に巣食わせている限り、茨木の器となった者がおまえの嫁じゃ。あの娘に鬼の子をたくさん孕ませ、産ませろ。氷也。」
 寒太郎やその息子、それからみさきの一族を追放して、観月流の全てを我らが手にし、いずれ、無差別格闘流の全てを取り込むのじゃ。そして、裏社会と精通し、昔のように暗殺拳を復活させる。それを牛耳るのは、鬼の子らじゃ…。鬼の子らが人間を支配する世界を作ること…それが、我らが観月家の祖先より与えられた使命じゃ。ゆめゆめ忘れるな。」
「ああ…。忘れる訳、ねーだろ?」
「さて…。ワシも夜通し、ワゴンを運転してきて、疲れたわい。今夜はゆっくり、亀岡辺りで休んで、早めに往馬結界へ向かうぞ。」
「そうだな…。で?あかねはあのまま、闇に入れたまま、ほっておいて良いんだな?」
「大丈夫じゃよ。この世であってこの世でない世界へ一時的に収監されるだけじゃからのう…。飢えることはない。」
「ならいいんだ。弱り切って貰っても困るしな…。肝心な子作りに向かねえ身体にはさせられねーし…。」
「あの娘なら、病みはせんよ。すべてを忘れ、新たな人格として、生まれ変わる…。同時に、茨木という女鬼の強靭な力も得よう。…伝説ではそう伝えられておる。」
「もう。サイは投げちまったからな…今更、引き返せねーぜ、じじい。」
「引き返すことなど、望んではおらんよ。復讐に手を染めたあの日からな…。」

 氷三郎と氷也は、何事もなかったかのように、その場を後にする。
 山の洞窟も、何事もなかったかのように、静まり返る。



『!』
 乱馬に修行を付けていた、前鬼の動きが、しばし止まった。
 己に仕掛けられていた攻撃が、しばし、止んだので、乱馬が不思議そうな顔をして、声をかけた。
「おい!どーした?何かあったのか?」

『空気の流れがいきなり変わりやがった。』
 
「あん?」

『後鬼は感じなかったか?』
 前鬼の問いに、
『特に。わらわは何も…。』
 と、後鬼は答えた。
『そーか…。俺だけか、感じたのは…。』
『どーしたの?あんたらしくもない…。』
『一瞬、嫌な気の流れを感じたんでね…。』
『いやな気の流れ?』
『ああ…。同族の…いや、同族であって別の穏の精霊の気配だよ…。多分…これは、茨木のもの…だ。』
『茨木って、あの、大酒呑みの根性曲がりの嫁かい?気のせいじゃないのかえ?』
『気のせい…かもしれねーが…。』
『気のせいであってほしいね、わらわとしては。』
『まあ…俺たちが目覚めたんだ。奴らも目覚める可能性は大きいぜ…。俺たちは対で目覚めることが多いからな…。』

「おーい!こらっ!おめーら、さっきから、何、ぼそぼそ言いあってんだ?修行時間の期限が迫ってんだろ?」
 
 下で乱馬が怒鳴っていた。会話からはじき出されていることが、気に食わないらしい。

『そんなに、修行時間が惜しいなら、お見舞いしてやらあ!』
 ずばーんと前鬼が乱馬目がけて、気弾を打ちおろした。
「くぉらー!だからって、いきなりぶっ放すなー!」
『闘いに、待ったはないぞ!ほら!』
 と、気弾を連打する。
「ちったぁ、手加減しやがれー!」
『手加減してたら、修行になんねーだろーが!』
 再び、乱馬と前鬼のドンパチが始まった。

《茨木が目覚めたのなら…きっと…朱点も目覚めるわね…。厄介だわ……。月の石が乱馬に鬼の波動を与えろって囁いたのも…あながち、無関係ではないのかもしれないわね…。》
 前鬼と乱馬の、飛ばし合いを横で見つめながら、後鬼が真剣な面持になった。
《それが、とりこし苦労だといいのだけれど…。》

『とにかく、少しでも、俺たちの力を、おめーに与えねーといけねーらしいからな!覚悟しやがれっ!乱馬ーっ!』
「おー、望むところだ!でやああああっ!」

 鬼と人間。その二つの闘気が、空間内を、余すところなく、ぶつかり合っていった。


つづく





一之瀬的戯言
酒呑童子と茨木童子
平安時代に今日の都を脅かしていた鬼たちです。伝承地は大江山や大枝山(老の坂・おいのさか)などがあります。
酒呑童子は以降「朱点(しゅてん)」という別名を使いまわしますので、よろしくお願いします。
この鬼たちに関しては諸説ありますが、勝手解釈(ねつ造ともいう)で話を進めていきます。一応、夫婦鬼という扱いで、前鬼後鬼と相対する存在として描きました。
鬼というのは、元々、女の山の精をさしていたとかいないとか…。だから、和装の婚礼衣装には「角隠し」があるとかないとか…。鬼ばばあはいるけど、鬼じじいはいないもんなあ。
鬼研究の入門書としては、「桃太郎の系譜」(柳田国男)、「鬼の研究」(馬場あき子)がお勧めです。いずれも民俗学の名著です。

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