◆天高く 第三部
第十話 乱馬対後鬼



一、

 あかねの瞳から、光が消えた頃、乱馬は、必死に、後鬼と闘い続けていた。
 
 この前の勝負では、鬼人形を駆使して挑んできたが、今回は違う。己が肉体からはじき出される技は、軽妙で。力強い。うかうかしていると、撃ち殺されんばかりの勢いだった。
 いや、乱馬を殺すつもりで、戦っているようだった。

「たく、何で俺がこんな目に合わなきゃなんねーんだ!」
 乱馬は、女に変身してしまっている。故に、逃げ惑うには体重が軽くて良かったが、攻撃は返って不利になる。女になると、攻撃の威力が落ちるのだ。特に、肉弾戦には向かない。また、女の非力でも「飛竜昇天破」のような、威力が落ちない技も存在するが、ここには、熱気がない。熱気ばかりではなく、冷気も無い。
 つまり、暑くもなければ、寒くもない。
 もちろん、隙を見て、「猛虎高飛車」などの、気弾を打ち返しているが、どうも、この空間は、後鬼に有利にできているようで、威力が半減しているように思えた。
 乗せたはずの己が気が、半分も威力に乗っていない違和感が、ずっと続いていた。

「こらっ!てめー!ずるいぞっ!」
 逃げ惑いながら、後鬼に向かって文句を言う。
『何がずるいのかえ?』
 手にした気弾を緩めることなく、乱馬へぶつけながら、後鬼が問い返して来た。
「だってよー!この空間、俺の技の威力が半減してるんじゃねーか!」
 逃げ惑いながら、乱馬が言い放つ。
『気のせいじゃ!』
「いや、違うね!俺の気が、こんなに腑抜けになっちまってる。」
 そう言いながら、ポンッ、と気の玉を掌から打ち放つ。
 と、気の玉は、まっすぐには飛ばず、ひょろひょろと円を描きながら、すぐに落下して、プスンと潰えた。
「見ろ!俺の気がこんなに弱い筈ねーんだよ!」
『とんだ言いがかりだね!小娘!』
 後鬼はてんで、乱馬を相手にしない。

「おい、前鬼!」
 乱馬は上空で、見物を決め込んでいる前鬼へ向かって声をかけた。

『なんだ?』

「この空間は何なんだ?説明しやがれ!」
 後鬼の気弾を器用に避けながら、乱馬が怒鳴った。

『なんで、俺が、おめーにそんなことを話さなきゃならねーんだ?』
 上空から投げ返される。

「俺はここがどんな空間なんか、知らねーんだ!圧倒的に不利だろーが!ただの白んだ空間だし、さっきから熱気もなければ、冷気もない。教えろっ!一体、ここはどこなんだあーーっ!」
 良牙が聞いたら笑いそうなことを口走った。

『熱気も冷気も感じられねえ…か。そりゃそーだろ…。ここは、「後鬼の空間」だからな。』
 にっと笑って、前鬼が答えた。

「後鬼の空間?」

『ああ…。俺たち穏の精霊は、それぞれ、自分に似合った空間を作り出して、常はそこへ身を潜めているんだ。』

「じゃあ、何か?ここは、後鬼が作り出した空間なのか?」

『ああそうだ。だから、俺は干渉できねー。』
 前鬼は言い放った。

「ってことは、俺の攻撃は、一切、通じない空間ってことか?」

『まあ、大雑把に言えばそういうことになるかなあ…。ついでに言うと、ここは「滅相系の空間」だぜ。』

「滅相だあ?」

『ああ…。俺たち穏の精霊は、それぞれ、仏法の「四相」の空間のうちの、どれかに似た空間を欲する。そして、その世界を作り出し、そこに潜むんだ。』
「四相だあ?」
『「生相」「住相」「異相」「滅相」その四つだが、知らねえか?』
「知るか!んなもん!」
『仏道は?』
「てんで、わかんねー!」
『まあ、簡単に言えば、事象が生まれる「生相」、存続し維持する「住相」、病んだり変化する「異相」それから、消滅する「滅相」その四つだ。俺が好むのは「生相系の空間」。で、後鬼が好むのは「滅相系の空間」…つまり、あらゆる攻撃は、無効化しちまう、亜空間だ。 
 あ、もちろん、全てが無効になる訳じゃねー。後鬼以上の破壊力が出せれば、多少は有効だぜ。ちょっとだけど、気が使えるっつーことは、おめーの気はかなり強いってことになるな…。へへ、いいねえ…。やっぱ、面白れーわ、おめーは!』
 カカカと、腕を組みながら、前鬼が笑った。

「笑うな!こちとら、必死なんだぞ!」
 つい、苦言が漏れる。


 前鬼との問答に集中すると、つい、ガードが甘くなる。
 それを見越した後鬼が、乱馬に向けて、己が気弾を打ち付けて来るのが見えた。
「わっ!やべー!」
 乱馬はダンと床を蹴って、上に飛ぶ。
 ドヒューンと、乱馬の股下を後鬼の気弾がすり抜けて行った。
「あっぶねー!今のもろに当たってたら、やばかったぜ。」
 すんでで気付いて避けた乱馬が、汗をぬぐった。
「後鬼が作った空間か…ここには、熱気も冷気もねえ。ということは、必殺技は使えねえ…。じゃあ、肉弾戦はどーだろう…。果たして、俺の腕力や蹴りがどこまで通用するか…。やってみるか。」
 そう考えながら、後鬼を見た。
 が、後鬼はあかねと寸分変わりない背格好だ。違うのは、髪の毛が長いことと、額に二つの角があることくらいだ。彼女を相手にしているようで、その肉体へ向かって、攻撃するのも躊躇われる。
「あかねじゃねーんだ。あいつは後鬼だ…。」
 グッと拳を握って、思いっきり床を蹴る。後鬼の懐へと、自ら飛び込んで行った。

「火中天津甘栗拳!」
 得意の早業攻撃へと転じる。
 後鬼へ向けて、素早い拳を打ち続けてみたが、やはり、攻撃力がいつもより、劣化していることにすぐさま気づいた。
「これ以上やっても、無駄か…。」
 そう判断した乱馬は、後鬼に攻撃される前に、すっと、飛び退いた。
 飛び退いて正解だった。
 後鬼は溜めていた気を至近距離から解き放ったからだ。

 ズドーン!

 白んだ空間が、一瞬、光に包まれて消滅したかと思うほどの、音がして、烈風が吹き荒れる。

「くっ!」
 身をかがめて防御に入る。が、正面に受けた気の烈風に押されて、身体ごと吹き飛ばされた。
 ドスンと音をたてて、白んだ空間の地面へ、尻もちをつく。
「うわっ!」
 いささか、尻を思いっきり打ち付けた。
 その時、胸の辺りが、少し熱を持った気がした。チリチリと小さな音をたてている。
 真正面から気に飛ばされたが、思っていたほど、ダメージが無かった。乱馬が受けたダメージは、尻もちをついたときの衝撃くらいのものだった。
(あれ?あんだけの攻撃をまともに食らったのに…。)
 と思ったが、口にはしなかった。すぐさま、立ち上がって、次の攻撃に備えなければ、狙い撃ちされるからだ。
 即座に態勢を整えて、後鬼へと相対する。

 そんな、乱馬の動きを見て、上空から、前鬼がとんでもないことを言い出した。

『おーい、乱馬。おめーの攻撃は、この空間では無効化しちまうって、言ってるだろ?で、提案があるんだが…。』
 と言いかけた時、後鬼が怒鳴った。
『余計なことを、お言いでないよ、前鬼!』
 後鬼が不機嫌な言葉を投げつけた。
『だってよー。おめー、いつまでたっても、こいつから真実を聞きだそうとしねーじゃん。』
 上空に浮かんだまま、言葉を投げた前鬼に、
『痛めつけてから、聞いてやろーと思っているのさ、わらわはっ!』
 と後鬼は反論を試みる。
『だけど、このまんまじゃ、らちが明かないぜ。俺が見込んだだけあって、こいつ、結構強いみてーだから。』
『うるさいよっ!前鬼!』
 後鬼が己の気弾を前鬼へと投げつけた。
『たく…。相変わらず、短気な奴だなあ…。』
 よけながら、ふうっと溜息を吐き出す前鬼。
『悪い?』

 そんな二人のやり取りを見ながら、乱馬は少し、複雑な心境になっていた。
 軽口の前鬼に対して、後鬼の者の言い方は、時代がかっている。が、似ているのだ。自分たちに。

(俺とあかねって、端から見れば、あんな感じなんだよなあ…きっと…。)
 はああっと、前鬼より大きな溜息が漏れた。

 そうなのだ。乱馬から見ると、「男乱馬と髪の長いあかね」に見えているわけだから、自分たちの痴話喧嘩の映像を見せられているようで、落ち着けない。

 そんな乱馬に向けて、唐突に上空の前鬼が言った。
『おーい、乱馬。試しに、こいつの攻撃を真っ向から受けて見ろよ!』

「はああ?」
 即座に、応え返していた。

『だから、後鬼の気の攻撃を、避(よ)けずにその身に受けて見ろっ!って言ってんだよ!』

「こらっ!正気で言ってんのか?そんなこと!」
 思わず怒鳴り散らしていた。
 当たり前である。勝負を始めてからここまで、後鬼は物凄い勢いで、乱馬目がけて、攻撃を繰り出し続けていたからだ。それも、激しい気弾の連続だった。もちろん、気弾だけではなく、拳も蹴りも、あかね以上に強い。

『本気だぜー。だって、このままじゃ、らち明かないしよー。一回、自ら、敵前に飛び込んでみな。』

「あのなあ!誰が好きこのんで、後鬼(あいつ)の激しい気を真っ向から受けたいと思うかよ!」

『はああ…。乱馬、おまえさー、今しがたの攻撃を身体で受けて、変だって思ったんじゃねーのかよ…。後鬼の攻撃を見切ったんじゃないとしたら、がっかりだぜ…。』
 首を振りながら、前鬼が言った。

(そー言えば、さっきの攻撃…。まともに食らった割には、衝撃が少なかったよな…確かに。)
 一瞬、そう感じたことを即座に思いだしていた。
(ここは、滅相の空間だって言ってたよな…。あらゆる事象が滅する方へ向かう空間…。ってことは、後鬼の攻撃も、見せかけで、本当は威力が出ねーとか…有りうるかもしんねえ…。どうせ、俺の攻撃は通用しねーみたいだし、このまま続けていても、体力が無駄になくなるだけだよな…。後鬼の狙いはそこにあるかもしんねえ…。ここは、素直に、前鬼の提案に、乗ってみるのも、いいかもしんねー。)

「いいぜ、受けてやる!」
 結論を出した、乱馬は後鬼へと、声をかけた。

『おまえ、前鬼の妄言を真に受けて、おっ死んでも知らないよ。』
 明らか、後鬼の様子が、上ずっている。動きを止めて考え込んでいた隙だらけの乱馬に、後鬼が攻撃を仕掛けてこないのも、変だった。

「まあ、このままじゃ、前鬼(あいつ)が言ってるように、らちも明かねーしよー。乗り気はしねーが…おめーの気に当たってやらあ!」
 そう言って、ドンと胡坐をかいて、腕組みし、座ってしまった。

『ほら…。後鬼。乱馬(あいつ)もそう言ってるんだ。お望み通り、一発、大きいのを食らわせてやれよ。』
 後鬼へと煽り立てる前鬼。
『……。』
 ムスッとしたまま、考え込む後鬼。
『反(そ)らせたら、あいつに失礼だぜ…後鬼。』
 にまあっと笑って前鬼がはやし立てる。

(完全に、面白がってやがんな…。あの野郎…。)
 前鬼を眺めながら、乱馬も不機嫌になっていく。

『見極めたいんだろ?おめーも…。』
 意味深な言葉を、前鬼が投げつけると、
『確かに…見極めなきゃ、前に進めないか…いいわ。わかった、やってやろうぞ。』
 そう言って、後鬼もすうっと上空へと舞い上がった。
 適当な距離を取って、上から打つつもりだろう。

 ふわっと数メートル上がると、はっしと身構える後鬼。
『じゃあ、行くよ!』
 後鬼は、そう言うと、抱え込んだ手を前に出し、大きな気弾を一発、乱馬目がけて打ち込んでいった。




二、

 乱馬が正念場を迎えた頃、あかねもまた、正念場を迎えていた。

 氷三郎に仕掛けられた「術式」。それに、見事にはまりこんでしまったのである。

「しばらくは、ワシに操られていることを忘れてもらおうかの…。」
 コクンと揺れたあかねの頭。
「そうじゃ…。ここぞというときは、ワシの言うことを聞いてもらうぞ…天道あかね…。」
 ニヤッと笑うと、「はっ!」と息を吐きつけて、気合と共に、パンと一つ柏手を打って見せた。

 と、ハッとあかねの瞳が開いた。

「あれ…。あたし…。一体…。」
 あかねの瞳に光が戻ると、正気付いた。
 目の前には、氷三郎が座っている。

 凍也が死んだということに衝撃を受けたことをすぐさま思い出した。

「そ…そうよ、凍也君が死んだってどういうことよ。」
 真摯な瞳で問い質しにかかる。
 あかねにとっては、氷三郎の言、どれ一つ、ピンと来ない。元々がにぶいあかねだ。乱馬の大阪行きの真意を、何一つ、感じ取っていなかった。
「言葉通りじゃよ。凍也は、氷也と闘ったとき、既に、不治の病を身体に巣食わせていたからなあ…。あの戦いに全てをかけて、命を落とした…。それだけじゃ。そして、凍也亡き後、寒太郎はお前の許婚を、みさきと娶せようともくろんでいる。」
「そんな、バカなこと…。」
 ある訳ないわ…と言いかけたあかねを、氷三郎は制した。
「ここでじっとしていたおまえさんには、知らんのじゃろうが…。表と裏の観月流の誉れをかけて、氷也と乱馬が闘うことになったのだぞ。」
「え?」
 あかねの瞳が驚きに変わった。
「乱馬が氷也と闘うの?いつ?」
「二月十三日じゃ。」
「もうすぐじゃないの!」
 あかねの知らぬところで、事態はどんどん進んでいる。受験という枷にとらわれていた間に、どのくらいの出来事がすり抜けて行ったのか。氷三郎の言葉に疑いを持ちながらも、巧みに誘導されていくのであった。

「ふふふ、どうじゃ?ワシと来んか?」
 巧みに、あかねを陽動していく。
「いえ…あたし一人で行くつもりです。」
 最初はきっぱりと断った。
「ほお…大阪に行ってどうする?観月流からすると、おまえさんは部外者だぞ。戦いの場にすら、おまえさんは、入る資格は無い。」
「でも…あたしは、乱馬の許婚です。」
「じゃが、今は寒太郎の手の中居る。あやちが素直に、おまえさんを戦いの場に連れて行くとは思えんぞ。」
「どうしてです?寒太郎のお爺さんは、そんな人には見えないですけど。」
「奴のずるさを見抜ける奴は、そうおらんでな…。」
「ずるいのは、あなたの方じゃないですか。」
 はっしと見つめるあかねの瞳は、険しかった。
「ま、おまえさんがあのタヌキじじいのことをどう思おうと、勝手じゃが…。このまま、大阪に行ったところで、相手にされず、追い返されるのがオチじゃな。いくら、乱馬の許婚を主張しても、凍也の代わりに闘う乱馬と、流派外のおまえさんでは、扱いは違う。観月流の閉鎖性は、おまえさんが思っている以上に強固じゃ。それは、同じ観月流を名乗るワシが一番、身に染みておることじゃからな。」
「じゃあ、聞きますけど、あなたと一緒に行ったら、戦いの場に入れるとでも言うんですか?」
「ああ。ワシが招待すれば、問題は無い。表の連中とて、おまえさんを粗末に扱えんわ。どうじゃ?これでも、ワシと来るのを嫌がるかの?」

 夕闇が迫る客間で、あかねはじっと考え込んだ。

 あまりにも、急転していく「事態」に、既に脳内はパニックになりかけている。

「いいわ。一緒に行きます。」
 静かに、そう告げていた。

「ふふ。良かろう。連れて行ってやろう。」
 ニヤリと氷三郎は微笑んだ。

「乱馬がどんな戦いをするのか、この目で確かめたいし…。それに、凍也君が本当に死んでしまったのかも、知りたいから。」
 ギュッと拳を握りしめた。
「では、善は急げだ。このまま立つが良いかの?」
「一度、行くと決めたからには、決意は揺るぎません。あたしも、無差別格闘天道流の看板を背負っていますから。」
 あかねの瞳は、一人の格闘家へと、取って代わっていた。


 
 いつもの座席に座り、天道家みんなで食卓を囲む。居ないのは、乱馬となびきだった。そして、氷三郎も一緒に、食卓に就いていた。
 招かれざる客人の筈なのに、気にもならない。その場に溶け込んでいたのは、天道早雲をはじめ、一同が、「氷三郎」を「寒太郎」と信じ込んでいたからだ。
 あかねも、氷三郎の正体について、家族に黙っていることにした。一応、氷三郎にもそうするよう、指示されたのもあるが、要らぬ心配を家族たちにかけたくないと判断して、黙認することに決めていた。

「たくさん食べてくださいね、お爺さん。」
 ニコニコとかすみが給仕しながら、氷三郎へと声をかける。
「今夜、出発ですかな?」
 早雲が、氷三郎へと声をかけた。
「ええまあ…。」
「急な話ですなあ…。」
 玄馬が横から声をかける。
「いろいろと、観月流の流派の行事がありましてなあ…。乱馬君が頑張ってくれておるんですが、あかねどのも是非、手伝っていただきたいということになって…。私がお迎えに上がったわけですわ。良かったですわ。合格が決まった後やったら、大手を振って、大阪に来てもらえますさかいに…。」
 ポリポリと沢あんを食べながら、氷三郎が答えた。もちろん、嘘を言っているのは、あかねも百も承知だ。
「乱馬君を助けるのはあかねの勤めだからねえ…。」
 そう振られても、あかねは別段、怒り出すこともなかった。普段の彼女なら、乱馬とのことを家族にいじくりまわされるのは、良しとしないで、反論に転ずるのに。
 もし、なびきがこの場に居たら、あかねの変化に気付いたかもしれないが、あいにく、今は友達と旅行へ行っている最中だった。
「あかねちゃん、乱馬をしっかりサポートしてあげてね。」
 のどかもニコニコしながら、あかねへと声をかける。
「は、はい。」
 素直に答えるあかねが居た。
 元々、入試が終われば、自分も大阪へ行こうと、密かに決めていたのだ。単身ではなく、氷三郎と共に行くことになってしまった訳だが、もう決めたことだ。腹を据える決意はできていた。
「で?夜行バスで行かれるんですかな?」
 早雲が問い質す。
「いえ、まだこの時間やったら、新幹線でも間に合いますわ。」
 氷三郎が懐からチケットの包みを取り出して、一同に見せた。
「それは急ですな。何なら、明日に変更なさっては?」
 心配性の早雲が言った。
「一刻も早く、あかね殿に来て貰いたいと、乱馬はんも言うておりましたし。」
「ほう…乱馬が…。あやつ、なんやかんやと言っても、あかね君がそばに居なくて寂しいのか。わっはっは。」
 玄馬は上機嫌で笑いだす。
「これは、あれだね…。やっぱり、高校を卒業したら、すぐにでも祝言を挙げさせますかね?」
「それがいいよ、天道君!」

「あのね、あたしは、遊びに行くわけじゃないの!いい加減にしてよね!」
 たまりかねて、あかねが口を尖らせた。
 不機嫌なあかねを見ても、早雲と玄馬は上機嫌だ。
 二人とも、目の前の爺さんが、みさきの祖父、観月寒太郎だと思い込んで疑う素振りも無い。
 あかねはあかねで、正直、まだ、迷っていた。この氷三郎を信じて良いのか…。しかし、確かに観月流から見れば、己は部外者。乱馬と氷也の決闘を見届けるのは、難しいと言われれば、「さもありなん」とも思えた。
 乱馬と氷也が闘うのならば、この眼でしかと見届けたい。そう思うのは、乱馬の許婚という立場だけではない。一人の格闘家として、乱馬の戦いぶりを目に焼き付けたいと、思ったのだった。
 

 夕食をさっと済ませると、氷三郎はあかねを伴って、天道家を出た。

「それでは、あかね殿をお預かりいたします。」
 氷三郎は丁寧に、頭を下げる。
「じゃあ、行ってきます。」
 と、あたりさわりのない言葉を口にした。

「あかね、乱馬君を助けて、しっかりやるんだよ!」
「乱馬をよろしく頼むぞ!」
 早雲と玄馬は上機嫌だった。
「あかねちゃん、身体に気を付けてね。」
 と、のどかは気遣う。
「道中、気をつけて、たまには連絡してね、あかねちゃん。」
 かすみはかすみで、マイペースだ。
 そんな家族たちに、嘘をついて出かけることが後ろめたかったが、乱馬の戦いを見届けたい、その思いの方が勝ってしまっている。 それが、とんでもない事態を引き起こすことになるなど、予想だにつかなかった。

「ほれ、行くぞ。」
 氷三郎があかねを促した。
 コクンと一つ頷くと、あかねは駅に向かって歩み出した。


(ふふふ…計略通りよ。)
 あかねを伴って歩きながら、氷三郎は密かにほくそ笑んだ。
 
 途中、氷三郎は道を反れた。そう、駅へ向かう方向ではなく、別の道へ曲がったのだった。

「ちょっと、駅はこっちよ。」
 あかねは慌てて、氷三郎と止めにかかる。
 氷三郎は、あかねの声など、耳に入らぬように、どんどんと自分の思う方向へと歩みを進める。
 人通りも少ない地位亜sな公園の脇に来た。寂し気に街灯があかねたちを照らしている。
「もう、どこへ行くんですか?駅はあっちよ!」
 イラついた声をあかねが投げかけた時、ふと氷三郎の歩みが止まった。
「いや、駅に行く必要などないのでな。」
「どういう意味?」

「まずは、傀儡(かいらい)に戻って貰おうか。」

 そう言うと、真正面からあかねの瞳を見ると、パンと手を打った。

「う…。」
 その音を聞くや否や、あかねの身体がこわばり、動きが止まった。
「な…何を…。」
 そう言いかけたあかねの額を、氷三郎右手の中指で突いた。

「ここは、黙ってワシに着いて来てもらおうかのう…。、おぬしは、我の命には逆らえぬ…。そうじゃろう?」
 鋭い口調で、あかねに命じる。
「はい。」
 あかねの瞳から、光が消えた。代わりに浮き上がる闇の色。あかねは、心、そこにあらずの様子で、ただ、うつろな瞳を向けたまま、立ち尽くす。まるで、次の命令を待っているかのようだ。

「さてと…。こっちじゃ。」
 氷三郎は、近くのコインパーキングへと駐車してあった黒いワゴン車の方へとあかねを誘った。
 運転手は居ない。
「ほら、乗れ。」
 後部座席を示すと、あかねを誘った。
「はい…。」
 あかねは荷物と共に、後部座席へと乗り込んだ。
 彼女が乗ってしまうと、氷三郎も一緒に後部座席へと乗り込む。 
 氷三郎は、座ったまま、じっとしているあかねに話しかける。
「ここからは車で移動する。行先は関西じゃが、大阪ではない。京都じゃ。」
「京都?」
 ピクンとあかねの顔が氷三郎を見つめた。
「ああ、京都といっても、洛中ではなく洛外…いや、丹後じゃがな。」
 丹後と言われても、あかねにはピンとこなかった。
「丹後?」
「おおさ…。丹後半島の真ん中にある大江山へ一緒に来て貰おう…。むろん、おまえに拒否権は無いがな。」
 あかねは、うつろな瞳を氷三郎へと傾けた。どこか、ためらっている感じが伝わって来る。
 が、氷太郎は容赦無く言った。
「っと…。余り時間もないな。夜明けまでに着かねばならん…。その前に…。」
 氷三郎は懐から「それ」を取り出した。
 氷也から預かった「茨の欠片」だった。
 抹茶色の棘があるあの欠片だ。むろん、そのまま、身に付けると、棘であかねの柔肌に傷がつきそうだったので、白い綿布そのまま手渡す。 掌に収まるくらいの小さな固い布きれ。あかねにはそうしか見えない。
「これは?」
 一応、氷三郎へと問いかけた。
「おまえに必要なものだ。」
「必要な物?」
「そうじゃ、…その胸元にでも、このまま、入れておけ。」
 これ以上答える気はない…そういう含みを持たせて、氷三郎はあかねへと命じた。
「はい。」
 あかねは拒否することなく、素直に、「茨の欠片」をセーターの下のブラウスの中へとしまい込む。
 今のあかねには、拒否する心は無い。氷三郎の思うがままに、動かされ、従う。
 あの、気高き勝気さは、すっかりなりを潜めていた。
「では、ワシが運転して目的地まで向かう間、後部座席で眠っておるがよい。ほら、すぐに眠くなるぞ。」
 すうっと、左手の人差し指を、あかねの目の前でくるくると、円弧を空に描いて、回し始める。
 一種の催眠術なのだろう。
 あかねの瞳は、ゆっくりと閉じて行き、そのまま、後部座席に倒れ込むように、眠ってしまった。

「ふふ…。これでよし…。後は、目的地に向かうだけ…。役だってもらうぞ…ワシらのために…。ふふふ。ははは。」
 バタンと後部座暦のドアを閉めると、運転席へ回りこみ、エンジンをスタートさせた。
 ヘッドライトをともし、ハンドルを握る。
 そして、ゆっくりと車は、滑り出して行った。



三、

 さて、一方、乱馬は。

 後鬼との闘いが、一つのクライマックスを迎えていた。

 前鬼の提案に乗って、後鬼の攻撃を真正面から受けてみる…という暴挙に出たのである。
 というのも、後鬼の放つ気弾に、違和感を感じたからだ。
 闘っているここは、後鬼が作り出した「亜空間」で「滅相の空間」だという。「滅相」、それは、仏法で言うところの消滅の相だ。
 四相という仏法の相は、生相、住相、異相、滅相。つまり、人間の誕生から死を現しているとも言われている。
 滅相はその最後、消滅していく相だ。
 つまり、この空間は、後鬼が操る、疑似滅相空間。彼女以外の攻撃は、ほぼ、無効に等しい。攻撃を加えようと足掻く乱馬には、そのあたりは理解しつくしていた。
 それに比べ、後鬼の攻撃は激しい。その割に、彼女は疲弊していない。涼しい顔をして、乱馬へと襲い来る。
 鬼と人間の基本体力は違うと言ってしまえば、それまでかもしれなかったが、それにしても、己の気がここまで滅せられるのは、理不尽でならなかった。
(もしかして…。後鬼の気も、こけおどしではないか…。)
 闘ううちに、そう、感じ始めていたのだ。
 実際、幾度か、乱馬へ最大級的攻撃を加えてしまえる「隙」があったのに、その刹那には、攻撃してこなかった。いや、攻撃できない理由があったのかもしれない。しかも、乱馬が避けられる時に限って、最大級の気弾が飛んでくる。そんな、違和感を覚え始めたのである。
 乱馬の考えが読めたのだろう。前鬼が乱馬へと涼やかな顔で言い放ったのだ。

『おーい、乱馬。試しに、こいつの攻撃を真っ向から受けて見ろよ!』

 その一言は、衝撃的だった。
 
(案外、俺の考えが、ビンゴなのかもしんねーな。後鬼の攻撃も、この疑似滅相空間じゃ、俺に効かねーのかもしれねー。いっちょ、避けずに、真正面から受けてやろーじゃん!後鬼の攻撃を!)

 覚悟を決めると、乱馬は、その場へと座り込んだ。腕を組み、真正面から後鬼を見上げる。
「打って来な!後鬼。てめーの気を真正面から受けてやるぜ。」
 そう言い放つと、受け身を取るために、はああっと丹田に気合を込める。一応、最悪の場合を考えて、いつでも反撃に転じられるように、体内の気を丹田へと溜めこんでおこうというのだ。

『フン、その覚悟が本当かどうか、試してもらうよ。』
 後鬼は静かに、上空へと登った。
 長い髪をしていたころのあかねと同じ姿形をしているが、そのこめかみには、左右、一本ずつ角があった。
 三角形の五センチほどの角だ。
 そのもう少し上から、二人を見物している前鬼にも角があったが、彼は頭の天辺に、一本の見事な角が生えている。その姿は男乱馬だ。
 まるで、自分たちを相手に闘っているようで、気持ちが落ち着かなかった。
 
 ただ、相手になっている乱馬は「女」に変化していたが…。

『じゃあ、遠慮なく、行くよ!』
 後鬼は、そう言うと、抱え込んだ手を思い切り前に差し出した。


 ドオオン!

 後鬼の掌から己に向けて打ちおろされる真っ赤な気弾。
 それは、茜に染める夕日の色。いや、色だけではなく、炎が乱馬へと襲い掛かる。

 ゴオオオオ!

 壮絶な音を響かせながら、吹き抜ける烈風。炎と共に乱馬を襲った。
 思わず、正視できずに、顔を横へと手向けてしまった。
 が、想像していた「熱気」はついぞ、感じられなかった。炎と共に遅い来た筈なのに…である。
 それどころか、烈風のみで、気弾が通り抜けた後、己の身体に傷一つ、残ってはいない。
 単なる激しい風だけが、己の身体を吹き抜けて行っただけだった。
 風になびいていたおさげ髪が、背中にくっついたとき、ふうっと、一息、乱馬は投げつけた。

「やっぱり、こけおどしだった…のか?」
 己が身に、何のダメージも食らっていないことを察して、乱馬が上を見上げた。

『いや…。そーでもねーぜ。』
 前鬼がゆっくりと上から降りてきて、乱馬のそばに立った。
『おめー、持ってるんだろ?「黄水晶」を…。』
 にんまりと、前鬼が笑った。

「黄水晶…。」

 前鬼が言った言葉を反芻しながら、膨らんだ胸元へと手を当てた。
 おそらく、前鬼は「レモン水晶」のことを言っているのだろう。
 そう、指摘された通り、乱馬は懐の中に隠し持っていたからだ。みさきの母から預かった「月の石」と寒太郎から預かったみさきの「レモン水晶」をだ。
 胸元に当てた手の辺りが、熱を持っている。いや、それだけではない。
 チリチリと胸元で小さな音を立てて、その石たちが、存在を主張しているようにも思えた。

『へへ…。「黄水晶」を持ってるから、後鬼の術は効かなかったに等しいんだぜ。』
 前鬼がニッと、乱馬へ笑いかけた。

「じゃあ、黄水晶を持ってなけりゃ、今頃俺は…。」
 つい、はっしと、前鬼を睨みつける乱馬。

『多分、ただじゃすまなかっただったろーな。』
 と澄ましながら、前鬼は笑っていた。

「こらっ!前鬼!てめー、何てことさせやがったんでいっ!」
 思わず、前鬼へにじり寄る乱馬だった。
『まーそう言うな…。おめーなら、おっ死ぬこたーねーと思ってたから、たきつけたまでだ。』
 襟ぐりを乱馬に掴まれても、笑ったまま、返答が返って来た。
「てめー…黄水晶を持ってるかどーか、確認する気だったな?え?そーなんだろ?」
 わなわなと、更に襟ぐりにつかみかかって、前鬼を睨み上げる乱馬。
『まーな。でも、確かめたかったのは、俺だけじゃねーぜ。なあ、後鬼、おめーも知りたかったんだろ?』
 ふっと、後ろの後鬼を親指で指さしながら答えた。
 前鬼の頭越しの上空に、まだ、後鬼はプカプカと浮かんでいる。
 相変わらず、激しい怒気を孕んだままだ。乱馬のもとへ降りてくる様子はない。まだ、納得がいかないという顔をしていた。

『確かに…前鬼が言ったとおり、黄水晶を持っているようだね。小僧。』
 じっと見下ろしながら言って来る。
「小僧」と呼んだところをみると、乱馬を「女」ではなく、ようやく「男」と認めたようだった。

「黄水晶ってーのが、レモン水晶をさしてんなら、確かに、二つ持ってるな…。」
 乱馬は、前鬼へと返した。

「二つ」という言葉を聞いて、後鬼の角がピクンと揺れた。

『二つ、持っているというのかえ?』
 とすぐに問い返して来た。
「ああ…。二つだ。見せようか?」
 そう言って、乱馬はごそごそと懐を漁り、巾着袋から、黄色い石を二つ、取り出して見せた。
『おまえ…やはり「月の石」を持っていたんだね。』
 後鬼が強く吐きだした。
『へえ…月の石か。』
 前鬼も関心を持ったようで、身を乗り出して来た。
『なるほどねえ…。後鬼…。おめー、その石の波動を感じて、こいつをいじめてたんだろ?』
 唐突に前鬼が後鬼へと言葉を投げた。

『ああ、そうだよ。それは、私が日菜(ひな)に渡した「月の石」だからね…。どうしてこの小僧が、その石を持っているのか、疑問だらけだったからね。』
 と、上空から、怒鳴りつけて来た。

「日菜(ひな)?誰だ?それ…。」
 聞き始めの名前を耳にして、今度は乱馬が後鬼へと問いかけた。

『小僧、おまえ、日菜のことを知らぬのかえ?なのに、何故、月の石を持っているのだ?』
 再び、後鬼の気が、怒りに染まり始めたことを、乱馬は肌で感じた。

「俺は、月の石を、みさきの母ちゃんから預かって持って来ただけなんだけど…。そもそも、その、日菜さんって人自体、知らねえしよ。」
 と切り返した。
『後鬼よ、こいつの言ってることは本当だぜ。嘘は言ってねーよ。まあ、こいつが知らなくても不思議じゃねーみてーだぞ。こいつ、観月流の血を引いてる人間じゃねーし…それどころか、観月流の門下生でもねーみてーだしよ…。』
 前鬼が後鬼へと言葉をかけた。
『観月流の身内ではないのかえ?ますます、気に食わぬ…。』
 そう言いながら、上空から後鬼が降りて来た。
 そして、乱馬の方へと、ザッザッと歩み寄る。その顔は決して、心を許してはいない。出会った頃のあかねより、おっかない顔をしていた。おまけに角もある。

『乱馬、おまえがこの洞窟へ来た経緯を、詳しく話してみろ。』
 前鬼が、乱馬へと声をかけた。
 「洞窟」。今はすっかり後鬼の作り出した疑似滅相空間へと変貌を遂げているが、元々は大峰山中の洞穴だった。

「ああ…。わかったよ。」

『後鬼も、怒気は収めな!ただでさえ、てめーはこいつの女の姿形をしているんだから、話しにくいだろーし…。こいつが嘘をついたら、俺にはわかるからな。』
 不機嫌を貫いている後鬼に、そう声をかけた前鬼。
『気に食わないけど、この際、聞いてやろうぞ。この洞窟に迷い込んで来た訳じゃないのは、「月の石」が物語っているようだし…。但し、話を聞いても納得できねば、貴様から「月の石」を取り上げて、粉砕してやるからそのつもりでいやれ!』
 と、不機嫌な言葉を後鬼から投げつけられる。

(うげ…。月の石を取り上げられたら、俺に勝ち目がなくなるじゃねーか…。やっぱ、おっかねーや…。)
 思わず、心に吐き出してしまった乱馬。

『後鬼は血の気が多いからなあ…。おめーのコレもそうなのか?』
 前鬼が乱馬へとこそっと耳打ちする。
「ああ…。後鬼よりは幾分、マシだけど…あいつも、相当な玉だからなあ…。」
 思わず、頷いてしまう乱馬だった。
『で、おめーの女も、観月流の血縁者でもねーな。』
「ああ…。あいつは、この争い事には無関係だ。」
 と乱馬は言い切った。
『ま、まだ、時間はたっぷりある…。聞いてやるから、洗いざらい話せ。』
「聞きてえなら、最初っから攻撃するなっつーの…。」
 ブスッとしながら、話し始めた。

「まあ、話せば長くなるんだけどよー。」

 乱馬は、観月凍也とみさきのカップルと知り合ったこと、凍也と闘って勝利したこと、それから、凍也と氷也がみさきをめぐって死闘を繰り広げたこと、凍也が不治の病に侵されて死んでしまったこと、観月流の掟にのっとって、死んだ凍也の名代として、観月氷也と決闘しなければならなくなったことを、一つ一つ、丁寧に、時間の経過を負いながら、前鬼と後鬼に語って聞かせた。

『なるほどねえ…。道理でおめーの身体からは「観月流」の匂いがしない訳か。』
『だいたいはわかった。でも、わらわの疑問は、何ら解決してはおらぬぞ。小僧。』
 幾分、穏やかになったが、まだ険しい顔を、乱馬へと手向けてくる後鬼が居た。
『何故、観月流門外のおまえが、「月の石」を持っていやる?しかも、その石は五十年以上前に日菜という娘に、私が与えた物だ。』
 と意外なことを口にした。
「みさきの母ちゃんに、「祖母の形見のレモン水晶」だって聞いたんだが…。もしかして、その「日菜」さんって、みさきの婆ちゃんのことじゃねーのかな…。」
 と、乱馬は小首をかしげた。
「なあ、その「日菜さん」に、「月の石」を渡した経緯も聞きてえな…。」
 と、今度は乱馬が、後鬼に言葉を投げつけた。

『日菜は、女人結界を越えて、我らの結界内へ入ってきた娘だよ。』
 ポツンと前鬼が言った。

「もしかして…。俺にやったことを、その日菜さんとやらにもやらかしたわけじゃあるめーな?」
 恐る恐る、後鬼へと問い質す。

『いや、後鬼は、日菜にはそんな手荒な真似はしてねーよ。』
 チラッと後鬼を見やりながら、前鬼が言った。
「ほんとか?」
 疑い深い瞳を投げると、
『日菜はまだ、「女」ではなかったから、その必要がなかったからね!』
 後鬼が不機嫌そうに言い放った。
「女じゃねえ?」
 不思議そうに乱馬がきびすを返すと、
『まだ、童女だったからな、日菜は。』
「童女?」
『月の障(つきのさわり=生理)もない、年端のいかぬ子供だったってことさ。』
 後鬼が面倒臭そうに言った。
『この修行の山へ迷い込む女を追い返すのが、後鬼の役目だけどよー、女になってねえ子供なら、手荒な真似はできねー。わかるか?』
 前鬼が乱馬へと言った。

「なるほど…、子供相手に手は挙げられねーってか…。この鬼女も。でも、月の障りがねーのは、俺も同じだぞ…。第一、女に変身するだけで、女そのものじゃねーし…。」
 ぽそっと言い放つ。
 当たり前である。女に姿を変えられるだけで、女そのものになった訳ではないから、恐らく「女としての生殖機能」は無い。生理などとは無縁だ。


『わらわを鬼女呼ばわりするでないわ!』
 後鬼が不機嫌な瞳で乱馬を見やった。
「いや…鬼だし…。角生えてるし…。」
 ぼそぼそっと吐き出してしまう乱馬だった。
「俺には思いっきり手出ししてきやがったくせに…。」

『それは、おまえの気が常人じゃなかったせいだぜ。普通の女なら、後鬼もここまでやってねーって。』
 くすくすと前鬼が笑った。
「あん?」
『乱馬の気は特別だ。俺だって、最初に女人結界を越えた時、ビンビンに感じたくらいだぜ。おめーの面白い気をな。男の気と、女の気…両方を嗅ぎ取ったしよー。何だ、こいつって思ったぜ。』
 カラカラと笑て見せる。

(もしかして、女人結界を越えてすぐ感じた鬼の影って、前鬼だったのか…。)
 乱馬は、「女人結界」を越えた時に現れた鬼の影を思い出した。自分には男乱馬とあかねの姿に見える、前鬼と後鬼。あの大きな影が前鬼の物だったとしたら…。
(ほんとはどんな姿をしてんだ?こいつら…。)
 と考えたところで、前鬼と目が合った。前鬼はニッと笑っている。
(…っと、こいつ、考えが読めるんだっけ…。)
 慌てて、思考を止める乱馬。

『ま…おめーのことは横に置いておいて……その、日菜って子が、結界を越えたのも、自分の持つ、能力のせいだったんだ…。』
「能力だあ?」
『たまに居るんだよ。霊力が強い娘が…。たいがい、巫女や尼僧になるもんだがよ。で、この山の近くに住んでいたら、山がはらむ霊力に吸い寄せられちまうことがあるんだ。ここは霊山として古から崇拝された山でもあるが、同時に、そんな山だからこそ、結界の周りには悪い物の怪もかっ歩している。物の怪からしてみれば、童女は格好のエサになる。日菜は魔物にたぶらかされて山へ迷い込ん時またのさ。
 迷った子供のたいていは、物の怪にいいようにあしらわれるんだが、たまたま、後鬼が近くに居たから、日菜は物の怪には食われなかった。
 こいつがいなけりゃ、「神隠し」という言葉一つで片づけられてたろうな…。
 日菜を物の怪から助けた時、後鬼が帰りの魔物よけとして渡したのが、この「月の石」だ。』

「これが、その時の石だって、どうしてわかるんだ?」

『黄水晶には、一つ一つ、波動があるんだ。もっとも、その波動は人間には感じられねーだろーがな…。俺たち「穏の精霊」にはわかるんだよ。
 後鬼が日菜に与えた「月の石」をおまえが持って、この山の結界をのこのこと越えてやって来て、こいつ、かなり、取り乱してたぜ。』

「なるほどねえ…。でも、俺はあいにく、日菜さんには会ったことはねえ。で、さっき話した通り、みさきの母ちゃんから「祖母の形見」って渡されただけだぜ。」

『後鬼。こいつ、嘘は一つも言ってねーぜ。』
 前鬼は後ろの後鬼へと言葉を継いだ。
『前鬼がそう言うなら、嘘じゃないんだろうけど…。』
『ま、どういう経緯で、この石が乱馬に渡ったか、石に直接、聞いてみたらどうだ?』
 前鬼がまた、不可思議なことを提案した。
「石に聞くだあ?」
 不思議そうな瞳を、鬼たちへと手向けた乱馬。
『どの道、そうしなければならないだろうしね…。小僧…おまえに「鬼の波動」を与えて良いのかどうかも含めて。』
 後鬼がそう言いながら、手をかざすと、白んだ世界がいきなり元の洞窟の中へと変化を遂げた。
 空気に吸い込まれるように霧が晴れて行くようだった。

『ほら、小僧。月の石をそっちの祭壇へお乗せ。』
 後鬼が乱馬を促した。
 そこは、石壁が、人が一人すっぽりと入るほどくぼんでいて、一抱えほどの平らな石がテーブルのように置いてあった。
 祭壇という割には、そのほかには何もない。祈れる場所でもなさげだった。もちろん、土器(かわらけ)の欠片一つ、落ちていない。

「ああ。わかった。」 
 言われるままに、乱馬は、その石の台の上に、「月の石」を乗せた。



つづく




一之瀬的戯言
 ちょうど、この章のラスト辺りを、機嫌よく書いていた時、病院から呼び出されて、駆けつけた直後、義母が他界しました。
 おまけに、葬儀から十日くらいで、名古屋に居た旦那が関西へ転勤…・(つまり、単身赴任の解消による引っ越しが伴う)
 義父は緊急搬送されて入院するし…。
 なんじゃこりゃあああ〜的なスケジュールに振り回されて、泣きが入ったわたしでありましたとさ。


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