◆天高く 第三部
第一話 再び西へ 




一、


 風がカタカタと窓ガラスを叩きながら、吹き抜けて行く。
 その音に驚いて、窓へと目を転じると、薄墨色の雲が、風に流されてきて、天空の太陽を飲みこむ様子が見えた。すっと、光が消えて、少し暗くなる。
 
「今日も、外は寒そうね…。」

 あかねは、ふっと、溜息を吐きながら、クンと、伸び上がった。

 年が改まって、一月も中ごろ。
 受験生にとっては、第一関門ともいうべき「センター試験」はもう、目前だ。
 本番へのカウントダウンは、既に始まっていた。

 三学期に入って、三年生は「自由登校」になった。カリキュラムはすべて、二学期内に終了している。
 学校へ行っても、もっぱら、自主学習が中心だ。クラスの三割ほどは、AO入試や推薦で、進路を決めている。とはいえ、まだ、進路が決まっていない者が大多数であった。
 クラスは、受験完了組、受験進行組に分断されて、編成しなおされていた。受験進行組は、理系と文系にと、さらに分けられている。
 ガチガチの有名受験校ではないにしろ、大半の生徒は、大学や専修学校、専門学校への進学を希望する。中程度の普通高校。それが、風林館高校であった。故に、乱馬のように進学しない者は、殆どいない。
 あかねは、文系受験進行組にいたが、三学期に入ってからは、ほとんど通学していなかった。
 というのも、一月は、受験生にとっての大敵は「インフルエンザ」が猛進を極める季節である。たとえ、あかねのような健康優良な生徒でも、かからないという保証はない。一応、秋口に、予防接種を受けたとはいえ、それも、万全ではない。
 その上、志望校と学部を、ほとんど願書提出の寸前で決めたあかねにとって、すべてが後手に回ってしまっている。できるだけ、集中して勉学する環境が欲しくて、自宅学習を選んだ訳だ。
 もちろん、塾には行っていない。が、それなりに、家庭教師は居る。すぐ上の姉、なびきである。
 彼女は金儲けに関して天才的なだけの女…と見受けられがちだが、どうしてどうして。頭脳明晰で、優秀な方であった。勉強していない雰囲気を醸し出していたが、するりと、中堅クラスの大学に受かって見せて、現在は学生生活を謳歌している。
 ギリギリまで、推薦か自力受験か迷っていたあかねも悪いが、予備校へ行くにしても、もう、遅すぎる。
 何とか、姉に直談判して、受験勉強に付き合って貰っている訳だった。


「どう?進んでる?」
 ガチャッと扉が開いて、なびきがあかねの部屋へと入って来た。
「うん…。まあまあね…。」
 トンと鉛筆を置いて、姉を振り返る。
「なんか、質問ある?」
「今のところないわ。」
 と吐き出した。
「…じゃ。これ。」
 そう言いながら、コピー用紙を何枚か手渡された。
「これ?」
「うん。数学のセンター問題集から、いくつか抜粋しておいたから、これを解いてわからないところがあったら、質問してね。一問、三百円ね。」
 と、にんまり笑われた。
 こういうところは抜け目がない。さすがだなと、少し揶揄的な瞳を姉に差し向ける。
「あら…。予備校へ行ったら、こんなもんじゃ済まないんだから。」
 二言目には、そんな言葉を投げ返してくる。
「わかってるわよ。ちゃんと教えて貰えることには感謝してるんだから…。でも、付けといてね。多分、お年玉だけじゃ、足らなくなると思うから。」
「わかってるわよ。ちゃんと付けてるから。」

 と、にわかに、庭先で、少女たちの甲高い声が聞こえ始めた。
 なびきは窓から身を乗り出して、窓を覗き込む。

「ほんと…。あっちはあっちで、相変わらずだわねえ…。」
 と、下を眺めながら、そんな言葉を吐いた。

「ああ…。あれね…。ほんと、優柔不断なんだから。」
 そう言いながら、あかねは溜息を吐き出した。少しむっとした表情がうかがえる。

 ここのところ、午後になると、決まって、天道家に舞い込んで来る「迷惑少女三人組」。珊璞と右京と小太刀だ。
 珊璞は就労少女で学校とは無縁な生活をしていたし、右京も家業のお好み焼き屋に専念するため、乱馬と同じく進学をしない口だ。小太刀は系列のセントヘベレケ大学へ推薦進学を決めている。
 そう、三人そろって、受験とは無縁な連中だった。
 彼女たちの喧噪の真ん中には、乱馬が居る。
 彼は進学をしないと決めていたので、一応、登校を義務づけられていた。学校側としては、進路が決まった者を野放しにして、その進路を台無しにしてはいけないという親切心から、受験完了組と進学無用組の生徒には、登校を強いていた。
 で、決まって四時前頃になると、こうやって、少女たちを伴って、にぎやかに、帰宅してくるのだ。

「だああ、俺はこれからアルバイトがあるんだ!」
「バイトまで、うちでお好み焼き食べて行きーゆーてるやんか!」
「いいえ、わたくしとお茶をなさいませ、乱馬様!」
「何言うか!乱馬は猫飯店に来るべきあるよ!」
 そんな怒鳴り声が聞こえてくる。

「ちょっとは進展したかと思ったのに…また、元の鞘に戻ったわね…あんたたち。」
 なびきが、ちらりと、あかねを見た。
「別に、進展なんかしてないわよ。」
 あかねが、軽く受け流すと、
「そお?大阪の大会から帰って来た時は、少なくとも、親密だったじゃん。私の目はごまかせないわよ。」
 ニッと笑って見せたなびき。

 そう。武道大会かた帰京した当初は、少しばかり、好い雰囲気だったかもしれない。
 大阪であった、様々な出来事は、二人の距離を縮めるには充分すぎた。帰りの新幹線の中では、二人、肩を寄せ合ってまどろんでいたし、乱馬はずっと手を握りしめていてくれた。天道家に戻った時も、手繋いでいなかったものの、肩を並べて門をくぐった。
 ここから、少しは進展していくのかと、多分、なびきを始め、デバガメ家族たちはほくそ笑んでいたに違いないのだが…。
 乱馬とあかねを取り巻く複雑な環境は、二人が必要以上にくっつくことを許してはくれなかった。
 クリスマス、お正月…。二人を一緒にしてなるものかと、朝駆け夜駆けで、三人娘たちは乱馬に群がって来たし、武道大会に行く前とは比べ物にならぬくらい、執拗かつ本気で争奪戦を繰り広げ始めたと思う。
 もちろん、乱馬だけに要因がある訳ではない。あかねも、帰京して以降は、進路に向かって受験勉強に猛追していた。ここからやっと、本気のスタートを切ったのだから、仕方がない。
 もちろん、夏休み辺りから、コツコツと受験用に勉強はしてきたが、それでも、足りないと自覚していた。
 三人娘は、あかねが受験で余裕がないことを見越してか、帰京以降は、これ見よがしに、乱馬に群がっていたのである。
 乱馬も、大阪に出発したときのような、きっぱりとした拒絶の態度を、三人娘に再び見せることはなかった。逃げ一徹の優柔不断な男へと、立ち戻ってしまったようだった。

「たく…。いつまで、追いかけっこを続ける気かしらねえ…。」
「案外、楽しんでるんじゃないかしらね!」
 あかねはなびきへそう投げると、シャアアーとカーテンを閉めてしまった。ヤキモチで勉学へのモチベーションを下げられたら、今日の予定が終わらないと、そう踏んだのである。それは、姉に向けても、これ以上、神経を逆なでしないでという合図でもあった。
「臭いものには蓋…か。」
 ぼそぼそっと、なびきが言葉をかけた。
「何よ…それ。」
 じろっと睨み返す。
「まあ、今のあんたは、受験が最優先事項だから、それで正解かもね。」


 と、階下で電話が鳴り始めた。

 ジリリリ、ジリリリ…。

 玄関に置かれた黒電話が、勢いよく呼んでいる。

「はいはい、ただいま…。」
 電話の相手に聞こえるはずもなかろうに、かすみが、台所から大急ぎで、受話器を取りに廊下をかけてくるのが、あかねの部屋からもわかった。

「誰だろ…今頃…。」
 ふと、そんな言葉を投げかけると、
「あんたは勉強に集中なさいな!もう、あと幾日もないんでしょーが。」
 なびきがトンと背中を叩いた。
「わかってるわよ!そう思うんなら、集中させてね。」
「はいはい…。じゃあ、夕飯の後に質問、受けてあげるから、それまでに一問でも多く、数学の問題、解いておきなさいよ。」
 そう言って、パタンと扉を閉めて、なびきはあかねの部屋を辞して行った。



二、

「乱馬くーん、お電話よ。」

 庭先ですったもんだを繰り広げて居た乱馬に、茶の間の縁側から、かすみが声をかけて来た。
 三人娘を相手に、くんずほぐれつしていた乱馬は、
「俺にですか?誰から?」
 と不思議そうにかすみへと問い質していた。

「観月寒太郎さんっていう方からよ。」

 そう言った、かすみの声に、乱馬の顔がみるみる険しくなった。観月寒太郎。凍也とみさきの祖父に当たる、観月流の前当主の爺さんだ。

「はい、今、いきます。」
 そう返すと、今度は絡みついていた三人娘へと、言葉を投げた。
「大切な電話なんだ!長くなりそうだし…悪いが、今日の所は帰ってくんねーかな。」
 言葉だけではない、背中から発する「気脈」にも、緊張感を漂わせた。
 拒否の意思を態度に示さなければ、このしつこい娘たちは、電話口にまでくっついてくるだろう。

 乱馬の気脈が変わったのに、いち早く気づいたのは、久遠寺右京だ。商売上手な彼女は、乱馬から流れた、気脈に素直に反応した。

「せやな…。なんか訳ありみたいな感じやな…。仕事の話か?」
 と、クンと伸び上がって、乱馬の瞳を見つめた。

「ああ…。そうだ…、仕事の話だ。だから、電話に出ない訳にはいかねーんだよ。」
 頷きながら乱馬が答えた。

「せやったら…。これ以上立ち入ったらあかんな。」
 すっと右京は、自分から乱馬を掴んでいた手を放した。
 まず争奪戦から離脱した。
「右京?」
 あまりに素直に、後ろに下がる雰囲気を出したので、珊璞がキョトンと右京を見返した。
「良き妻たる者、夫の言に従うべしってな…。乱ちゃんがそう言うんやったら、ウチ、今日のところは帰るわ。素直な女やないと、乱ちゃんには釣りあわへんしな。」
 ふっと余裕のある笑いを浮かべて、そう言葉を投げた右京に、今度は珊璞が反応した。
「だったら、私も今日は帰るね。女傑族の女も、夫の言には従わねばならない。これ常識!」
 そう言って、掴んでいた乱馬の袖を放した。
「ならば、わたくしが、同行いたして、ご一緒に話を伺いますわ。」
 どこまでいっても、小太刀は小太刀だ。右京や珊璞とは真逆な言葉をその場に投げた。まだ、しつこく、乱馬に食い下がろうと、すがる手に力を籠める。その、場の空気を読めなさは、さすが、九能帯刀の妹だった。
「えーから!あんたも、乱ちゃんから手を引かんかい!」
「そーね!小太刀も我々と一緒に帰るよろし!」
 右京とシャンプーが二人がかりで、乱馬から小太刀を引きはがしにかかる。
「ちょっと、何をなさいますの?」
 じたばたと抵抗を試みるも、珊璞と右京の二人がかりで引っ張られれば、さすがの小太刀とて、抵抗は無意味だ。ぐんぐんと乱馬の視線から遠ざかる。

「帰ったか…。」

 その様子を、じと目で見送りながら、ホッとため息がこぼれた。

「乱馬君、長距離電話なんだから、早く出てあげないと。」
 かすみの言葉が、後ろから響き渡った。

「っと…。こーしちゃいられねーや!出ます!すぐに!」
 そう言いながら、玄関へと回った。

 三和土(たたき)を上がって、すぐさま、電話に出ようとしたが、手が少しばかり、受話器を取るのを躊躇(ためら)って止まった。

 寒太郎から電話が来たということは…或いは…。

 ゴクンと一回、喉が鳴った。
 置かれた受話器を、じっと見据えて、ホッと溜息を吐き出す。丹田に少しだけ、気合を入れた。
 どんな言葉が、受話器の向こう側から囁かれようと、動じてはならない…。そう、強く念じた。
 そして、よし、と言わんばかりに、受話器を握りしめる。

「もしもし、お待たせしました…。乱馬です!」
 と、勢いよく第一声を、吐き出した。

『あ、もしもし…乱馬はんかの?すまんなあ…急に、電話してしもーて…。』
 受話器の向こう側の爺さんの声は、案外しっかりとしていた。
「寒太郎さん…だよな?」
『ああ、そーや。観月寒太郎や。』
「爺さんがじきじき俺に電話をかけてきたってことは……。」
 戸惑いながら、そう切り替えした乱馬に、爺さんはゆっくりと告げ始めた。
『ああ、そうや…。察しのとおりや…。』
 爺さんはポツリと言葉を止めた。
 しばらく、無言が続いたのち、乱馬が切り返す。
「そーか…。いよいよ…なのか…。案外、早かったんだな…。で?」
『うむ…乱馬さんの力を借りねばならん事態に、やはりなってしもーた…。すまぬが、至急、大阪まで来てもらえんじゃろうか?』
「わかった…。凍也との約束もあるからな…。ほんとに俺でいいんだな?」
 と念を押す。
『支障は無い…。おぬし、通っている学校はどうするかね?』
「自主登校の状態だから、大丈夫。俺なら、いつでも行けるぜ。心配ねーよ。」
『ならば、すぐに来てもらえぬかな?』
「わかった…。今夜の夜行バスでこっちを立つよ…それでいいかな?」
『充分じゃ。』
 後、いくつかの手筈を話して、
『では、準備万端整えて、おぬしの来阪をお待ち申しあげておるぞ。』
 爺さんは、電話を切った。

 チン、と受話器を置くと、背後から、かすみが話しかけてきた。

「乱馬君…。観月寒太郎さんって…。この前、話していた…凍也君のお爺さんね。」
 心配げな瞳が揺れる。
 乱馬はコクンと頷きながら、かすみに告げた。
「凍也…いよいよ危ないらしいです…。いや、じーさんのあの口調なら或いは…既に。」
 乱馬は口ごもった。
 受話器の向こうのじいさんは、途中で言葉を詰まらせていた。意図的に何も言わなかったのか、それとも、言えなかったのか…。
 電話で凍也の気脈を感じることは、さすがに無理な話ではあったが、何故だろう、もう、この世の人ではなくなってしまったという予感が、乱馬の上に流れて来た。
 勝気な凍也のことだ。死に顔を乱馬に見せるようなことはしないだろう…そう思っていた。
 なので、寒太郎翁から連絡が入るということは、凍也は既に往ってしまったと考えた方が、しっくりくるような気がしたのである。

「そう…じゃあ、乱馬君、今夜…。」
「はい…凍也と交わした約束を果たすために、俺…大阪へ行きます。…多分、暫く天道家(ここ)には戻れねーと思います。」
「じゃあ、すぐに準備しなきゃね。」
「ええ、大方の荷物はいつ呼び出しがかかってもいいように準備してありますが、足りねえもんがあったら、連絡しますんで、あとで観月道場へ送ってください。それから、このことは…くれぐれもあかねには…。」
「ええ勿論、あの子も今は一番大切な時だから…凍也君のことは、黙っておくわ。それで良いのよね?」
「はい…。後であいつに半殺しの目にあうかもしれないけど…そうしてください。」
「それは良いけど…。」
 かすみは何かを決意したように、乱馬へ向き直ると、はっきりと口にした。
「乱馬君…出かける前に、きっちり、けじめだけはつけてあげてね。じゃないと、あの子、乱馬君が家を空けると、集中できなくなって、入試を失敗してしまうかもしれないから…。」
 二階を見上げながら、かすみは乱馬に促した。
「もちろん…そのつもりです。」
「くれぐれも、頼んだわよ、乱馬君。」
「はい…。かすみさん。」
 かすみは念を押すと、夕食の準備に台所へと姿を消した。
 妹思いの気配りの長姉、かすみである。

「そっか、いよいよ大阪行きが決まっちゃったんだ。乱馬君。」
 かすみと入れ違いに、今度はなびきが、階段の中ほどから、ひょいっと声をかけて来た。どうやら、電話の内容を聞いていたようだ。
「ああ、なびきか…。あかねは?」
「勉強に集中しているわよ。あと、センターまで、幾日もないからね。」
「そっか…。」
 ふうっとため息と共に、階段を見上げた。

「夜行バスは、あたしが調べて手配してあげるわ。」
「予約料金とかとらねーだろうな?」
 とちらっとなびきを見返した。
「いいわよ、今回はタダで。何か、立ち入ってきているみたいだし…。まあ、任せて。今はネットを使えば簡単に、空席状況は勿論、切符の手配もささっと出来ちゃうから。」
「じゃ、頼むぜ。」
「まっかせなさい。その代わり、厄介ごとは全て片してから旅立ってよね。」
 そう言いながら、玄関から遠ざかる。

「ちぇっ!あかねは厄介ごとじゃねーぞ…。」
 その背中に、つぶやきかける。おそらく、かすみと同じく、なびきも、あかねのことを放り出すな…と、ちくっと刺したに違いあるまい。
 かすみもなびきも、本質的には「末っ子のあかね思いの姉」たちなのだ。
 
 昨年末、大阪の格闘大会から凱旋後、乱馬は、かすみとなびきには、大阪で厄介になった観月道場の事情をかいつまんで話しておいた。いつ何時(なんどき)、再び大阪へ出向かねばならぬ事態になるやもしれない。と思ったからだ。
 あかねには明かせない、凍也の不治の病の事、そして、観月流のお家騒動のことなど、頼りになる義姉たちに、直接、話しておいたのである。

「ま、俺も許婚としての責任は最低限果たしていかねーと…やっぱ、まずいよな…。あいつはすぐに気に病むタイプだから…。」
 乱馬は意を決すると、再び、靴を履いた。
「アルバイト先にも立ち寄って来ねーといけねーし…。あんまり時間もねーしな…。急がなきゃ!」
 ガラガラっと引き戸を開けて、外に出た。

(くそ、凍也が言っていた、その時…がこんなに早く来ちまうなんて…。)
 重く垂れさがって来た、厚い雲を見上げて、ふっとそんな想いにとらわれた。


 観月凍也。

 昨秋に行われた無差別格闘大会の東京大会で出会った。
 乱馬と同じ年の、人情の町大阪、浪花で生まれ育った格闘青年だ。性格は根っから明るい。
 置かれた境遇が、乱馬に似ていた。彼にも「許婚」が居たのである。
 彼の許婚は、祖父が同じ、つまり「いとこ」。血縁は濃いが、互いに好きあっている「みさき」という許婚がいる。許婚のみずきの方が観月流の当主、つまり道場の跡取り娘で、乱馬が天道家に乞われているように、凍也もみずきの道場に「婿養子」として迎えられる予定だった。
 何も問題ない順風万端なカップル。
 少なくとも、出会った頃は、そう見えた。
 己とあかねに比べると、もっと蜜で素直な関係。羨ましく思えるほど、凍也とみさきの心の距離は近かった。
 だが、内実、凍也が身を置く、観月流は、いろいろと複雑な「お家事情」を抱えていた。
 そのいくつかが、年末、大阪で行われた「格闘大会」で露呈した。
 一つは、彼らが身を置く「観月流」のお家の確執。
 「表」と「裏」の二つの観月流派の争いが彼らの純愛に影を落としていた。
 凍也には兄が居た。「裏観月流」の次代当主「観月氷也」。幼い頃、両親を亡くした兄と弟は、それぞれ、「裏」と「表」の家に分けられて育てられた。
 その背後には更に複雑な、人間関係が絡み合い、それが禍根となって、凍也とみさきの上にのしかかっていたのである。
 古い流派となれば、魑魅魍魎の如く、いろいろな事情が複雑に絡み合ってくるのであろう。凍也とみさきの婚儀についても、同じ事だった。単純に愛し合っているだけでは、婚姻は成立しない。そういう世界なのである。
 早くに両親を亡くしたとはいえ、凍也は元々、裏観月流の血を受けた青年。それが、事情を更に複雑にしていた。しかも、同じ流れを汲むとはいえ、表観月流と裏観月流は犬猿の仲。それを一つにまとめようという腹の、みさきの両親や寒太郎老人の意向とは別に、凍也の兄、観月氷也もみさきの許婚候補に加えよ、と、裏観月流の当主が言って来たのであった。
 結果、凍也は昨年末の大阪での格闘大会で、「みさき」の婚姻をかけて、兄、氷也と決闘することになったのだ。表向きは普通の武道大会であったが、裏には流派の争いがあったのだ。
 氷也と凍也、兄弟の争いは、一応、凍也の勝利という形で、一つの決着はついている。みさきの許婚は晴れて、凍也ということで事態は収拾したかのように思われたのだが…。

 が、実は、そう簡単に終わる「因縁」ではなかった。

 というのも、凍也自身が、別の禍根を身体の中に抱え込んでいたからだ。

 去年、大会の最中(さなか)に、凍也自身の口から聞かされた言葉を、思い出していく。今まで、何度、脳裏で繰り返されたかわからない、その重い内容…。



三、

『みさきには言わんとってほしいんやけど…。実は、俺、もう、余命幾許もないねん。』

 そう打ち明けた凍也の、悔しげな顔がぼんやりと浮かんだ。

 衝撃発言だった。青天の霹靂ともとれる衝動が、乱馬の身体を突き抜ける。
『おい、それはどういうことだ?』
 と、思わず、激しく、凍也にせっついていた。
 大阪に着くなり対峙した凍也から感じ取っていた、気の衰え。身体の調子が悪いのだろうかと危惧したあの時。その、不安が現実の物へと変化する瞬間だった。
『どうもこうもない。身体に病が巣食っている…そういうことや。』
 凍也は静かに視線を落とし、己を襲った境遇について、詳しく話し始めた。
『話せば長くなるんやけど…。夏前辺りからやったかな。ちょっと、身体にやたら酷いけだるさを感じるようになってん。こう、いつまでも疲れが抜けきれへん…ちゅうのかな…。だるーてかなわんようにようになったり、微熱が続いたり。で、近くの内科にかかったら、いっぺん、大きい病院で精密検査受けて来いって言われてなあ…。』
『で、受けたのか?』
『いや、そんな大げさなもんでもあらへんやろって、受けずにほったらかしとったんやけど…。夏になると、ますますだるさが抜けへんようになってな。で、九月にみさきには黙って精密検査を受けたんや…。そしたら、進行性の内臓疾患…が発見されてしもーたわけや。』
『おい、たちの悪い冗談じゃねーのか?それは…。』
『アホ!冗談でこんなこと言えるかい!』
『九月っつったら、俺と十月の東京の大会で対戦したときは既に…。』
『あ、いや。検査は受けたけど、まだ結果は聞いてへんかったんや、あん時は。エントリーした大会が目前に迫ってたし、検査結果はあとできいたらええわって軽う思っとったからな。栄養剤やらなんやら、ドーピングにならへん程度の栄養剤で、それで大会は切り抜けられたんやけどな。
 大会終わって、大阪へ帰ってから、検査の結果を詳しく聞きに行ったんや。』
 意外な告白であった。いや、意外だとかそんな悠長な事を言える問題ではなかった。
『お、おい、その病気のこと、誰か知ってる奴が居るのか?』
『爺さんが知ってる…。てか、お爺しか知らんわ。一応まだ未成年者やからな…。病院に罹(かか)るにもいろいろあってな。一応後見人として爺さんには報告しとる。みさきの親にはスルーや。』
『それで?』
 顔をしかめて凍也に詰め寄った。
『手術したところで、助かるのかと問い質しても、あまり色よい返事は貰えんかった。それより、はよ、入院治療せいってせっつかれたわ。
 詳しいことはようわからんが、医者が言うには、ちょっと遅かったという感じでな…。
 違和感はあったんや、かなり前から。でも、格闘技やってるから、身体がだるいのはそのせいやって、ずっと我慢しとったんがあかんかったようや。乱馬、おまえも経験あるやろ?格闘技やってる人間は、始終どこか身体を痛めているもんや。筋肉痛とか訳わからん痛み。んなもん、しょっちゅうやろ?』
 俯いたまま、黙ってしまった乱馬に、凍也は淡々と続けた。
『いろいろ考えたんやけどな…俺、際立って手術や治療はせんことにしたんや。どうせさい先短いんやったら、ズバッと、こう、太う生きたろ…って思たんや。そのために、学校も休学したまんま、復学もしてへん。』
『そんな、むちゃくちゃな事…。何、諦めてたんだよ。』
『ああ、むっちゃくちゃな事やろな。でも、悔しいやないか。このまま治療したところで、格闘の大舞台には二度と上がれん。そう宣告された。
 医者も勿論、大会に出るなんて無謀やって止めよったけど、強引に押し通してやったわ、俺の人生は俺が決めるってな…。倒れるまで俺は、格闘技を続けるってな。それで短命で終わるんやったら本望やってな。
 第一、今更治療しても治る可能性は零に近いらしいしな…。ベッドの上を長く過ごすやなんて、まっぴらごめんや。』
 凍也の瞳は、ぞっとするほど輝いて見えた。死を覚悟した男の瞳だった。
『ほんま、東京の大会ではごっつう驚いたわ。同じ年、こんな強い奴、おったんかってな…。正直嬉しかったわ。久々燃えたぎったっちゅうか…。格闘技、無理してでも続けていて良かったってな。強い奴と戦うのは、ワクワクするやんけ。 
 おまえとの闘いがあったからこそ、格闘技をここで捨てる気にはなれんかった。』
『おい。こら、人のせいにするなよ。』
 思わず苦笑いがこぼれる。
『正直言うとな、あん時、乱馬に倒された借り、今回の大会できっちり返したろうと思ってたんや…。たく、人がリベンジに燃えとったのに、裏観月流の奴、横槍入れてきやがって!』
 そう言いながら、凍也の顔が険しくなった。声を落として乱馬に言った。
『もしかして…入院治療を辞めた背景には、あいつらのことも絡んでるんじゃあ…。』
『ま、絡んでない、っちゅーたら嘘になるわな。いろいろ魑魅魍魎みてえな問題を抱えてる流派なんでな…観月流は…。本宗家の意思だけが通じる世界でもないんや。いーっぱい変な枝葉がついてるからな…。』
 宗家当主だけが決断できる物事は限られているというのだ。
 根底に、みさきの今後を思っていることがありありと浮かんだ。

『恐らく、今度の対氷也戦が、己の今生最期の大試合になるやろうからな…。』
 搾り出すような声で、凍也は乱馬に告げた。
『お、おい、そんな縁起でもねえ…。』
 とんでも無いと否定したかったが、凍也の瞳は乱馬の言葉すら止めた。
『いや…。俺の身体は思った以上に、短時間のうちに蝕まれていっとる。乱馬、おまえも感じとったんとちゃうんか?おまえ、うちの道場で最初に対戦した時、ごっつう変な顔しとったやんけ。』
 ギクッと乱馬の肩が動いた。
 そうなのだ。凍也に指摘されるまでも無く、秋に東京で対した時に比べて、凍也の気が弱々しくなっていたことに、気付いていたのだ。しかも、どこかよどみのある気だった。
『たく…。末恐ろしい奴やで、ほんま。ワシの気が弱くなっていたのを、あん時、瞬時に見抜いとったんやろ?』
『あ、ああ…。秋とちょっと気の流れが変わったって思ったのは確かだけど…。』
 乱馬は重い口を開いた。
 あの時感じた違和感の正体。それが病から来るものだとは、予想だにつかなかった。
『処方してもらってる薬で騙し騙しきたけど、案外限界は早く来てしもうたみたいやしな…。
 ほんまは、乱馬、おまえともう一度、全力で闘いたかったんやけど…。多分、決勝まで、ワシの身体は持たへんやろ。氷也はそんな生半可な力で倒せる、甘い相手やないしな…。
 氷也と闘った後は、恐らく、乱馬、おまはんとやりあう力は残らんやろう…。』
 乱馬は黙りこくってしまった。
 乱馬とて、氷也が只者ではないことは、ドームで行き合った折に、肌で感じた事だ。己が闘っても、かなり苦戦する拮抗した相手であることは間違いなかった。しかも、凍也の身体はかなり病状が進んでいる様子だ。その上、流派の跡目争いという、複雑な血肉の闘いが裏側に潜んでいる。

『ちぇっ!否定せーへんのやなあ…。正直やな、乱馬は。』
 ハハハと凍也は笑った。
『否定して欲しいのかよ…。』
『ま、乱馬と手合わせできないのは残念やけど…。氷也と最期にやりあえるのも、それはそれで俺は納得してんねん。
 いろいろ裏側でドロドロしとる、流派のいろんな「しがらみ」からみさきを自由にしてやれる、千載一遇のチャンスでもあるしな…。』
『流派のしがらみ…。』
『ああ。古い流派やからこそ、いろいろと魑魅魍魎の如く複雑なしがらみがあるんやな…これが。みさきが俺と許婚になったのも、そのしがらみの一部であるし、裏観月流の氷也が俺に挑戦状を叩きつけてきたのも、しがらみのなせる業や。
 俺が氷也に勝ったら、少なくとも、みさきは望まん相手の嫁になることはなくなる。俺が居なくなった後は、あいつが好きに生きれば良い。俺、まず、みさきを流派のしがらみから自由にしてやりたいんや…。』
 淡々と本音を吐き出した凍也。
『お、おい。そんな無責任な事…というか、やっぱりあれか、みさきさんには体のこと…。』
『当然、知らせとらん。知らせとーないわ。んな、陰気臭い話。』
『それで良いのかよ…。』
『ええんや、俺がええっちゅんや。せやから、乱馬。絶対にこのことは、みさきやあかねちゃんに言うなよ。あえて、おまえにだけには話したんやさかい。』

 その数日後、凍也は病身を引き釣りながらも、氷也と死闘を繰り広げた。
 その闘いは、熾烈を極めた。身体の状態が万全でなければ、そのダメージは計り知れない。
 あの、氷也との闘いが、確実に凍也の短い命を更に縮めてしまったことは、紛いの無い事実だろう。

『悔いはあらへん。やるだけやって、跡目争いには勝ったんやさかい。このまま、二度と格闘技の表舞台へ上がれんでも…。ただ、みさきには悪い事したと思ってる…。もっと早く身体のことわかってたら…。』
 大阪から帰宅する前、人払いした病室で、凍也は乱馬にポツンと言った。その時の寂しげな表情が、今も脳裏から離れない。


(やっぱり、あの時の闘いだけでは、ケリがつかなかったってことだろーな…。跡目争いのことは…。)
 夕暮れ道を歩きながら、そんなことを考えた。
 古い流派のことだ。あの時点で凍也が思っていた以上の厳しい現実に、みさきはさらされているに違いなかった。
 というのも、大会のあと、寒太郎翁に直に頭を下げられたからだ。あかねの居ないところで。

『すまない、乱馬君。おぬしに「戦いの立会人」を頼んだ事、仇をなす結果に追い込んでしまうことになるかもわからん。』
『どういう意味だ?』
 問い返した乱馬に、はっきりと寒太郎が告げたこと。
『観月流にはいくつかきつい掟があってな…。その掟ゆえに、望まぬ闘いへおぬしを導いてしまう結果になるやもしれん。凍也の命が尽きてしまうことがあれば…尚更…。』
 苦渋に満ちていたのは、寒太郎じいさんばかりではなかった。
 試合の翌日、見舞った、凍也からも、同じようなことを言われたのだ。

『乱馬…。すまんな…。観月流のお家騒動におまえを巻き込むことになりそうや…。』
 病床で悔しさを滲ませながら、凍也が乱馬に手向けた言葉。
『頼む…。もう、俺の命はそう長くは持てへん…。流派の柵(しがらみ)からみさきを…みさきを守ってやってくれ。俺の代わりに…。そして、あいつをけったいな流派の掟から、自由にしてやってくれ!』
 凍也の瞳は真剣そのものだった。


…やっぱり、凍也対氷也の準決勝戦の時、あの裏観月流のじじいが言っていたとおり、氷也との対決は「不可避」だってことか。…


 ギュッと握りしめた拳。

 一介の格闘家として、強い相手と渡り合えることは喜ばしい。相手が強ければ強いほど、闘志が沸き立ってくるのも、己が格闘バカの印だ。だが、今度の戦いは、試合ではない。死合。つまり、生と死を賭けた「死闘」になるだろう。



 近道をしようとフェンスへ駆け上がると、タッと反対側へと降り立った。着地したのは、広めの河原だ。橋をまで行くより、このあたりの飛び石を渡った方が幾分か、ショートカットできる。
 一分一秒も、今日は有効に使いたい。
 そう選択したのが、いけなかった。

 河原に入った途端、いきなり、乱馬の真正面から、誰かがとびかかって来るのが見えた。

「早乙女乱馬ぁ―っ、覚悟っ!」

「九能先輩っ!」

 すんでで、己に手向けられた木刀を、かわす。ヒュンと音がして、頬を剣先がかすめていく。

「突き、突き、突きーっ!」
 かわされた切っ先を翻して、再び襲い来る、剣道男。
「ちぇっ!しつけ―奴だな!」
 たっと、軽く地面を蹴って、九能の頭上を両足でケンっと踏みつける。
「攻撃が直情的過ぎるぜ、九能先輩。俺を本気で倒したいなら、もっとバリエーションを考えねーと…。」
 そう言葉を投げた。
「ぐう…無念!」
 顔面から河原へと倒れ込む、哀れな剣道着男。
 既に白目を剥いていた。

「今度はおらだー!」
 九能が地面に倒れると同時に、今度は上空から、いくつかの暗器が襲って来た。暗器使いの沐絲である。
 鎖につながれた、剣や釜や斧。物騒な武器が、己、目がけて繰り出されて来る。

「たーく、どいつもこいつも…。今日は忙しいんだ!」
 
 いい加減、毎日となると、辟易していたが、それでも、手を抜くつもりはない。少しでも早く、目的地に着きたければ、最善を尽くして全力を出すことが、一番の時間短縮になる。

 沐絲の暗器の鎖へと手を伸ばすと、そいつを思いっきり引っ張って、振り回す。
 暗器ごと、鎖にからまった沐絲が、ぐるぐると上空を回り始める。
「こら!何するだ!」
 沐絲が怒鳴った。
「こーするんだよ!」
 大縄を振り回すように、鎖をある程度振り回し、回転に勢いをつけたところで、パッと手を放した。
 と、面白いように、鎖付き沐絲が放射状に飛んで行く。やがて、浮力を失った鎖付き沐絲は、流れる川面へと放りだされる。

 バッシャーン!

 水が跳ね上がる音がして、哀れ、沐絲は川の中。アヒルへと変化を遂げる。こうなっては、もう、戦えない。

「グワーグワー!」
 水の中から、アヒルに変身した沐絲が、怒りの声を、がなりたててくる。

「たく…。仕掛けてきたのは、そっちなんだから、恨みつらみは言うな…つーの!」
 河原から乱馬が沐絲アヒルへと声をかけた。

「じゃあ、次は俺が相手だー!」

 と、また背後で、別の声が響き渡る。

「たく…。今度は良牙か…。あんまり時間がねえってーのに。良牙は、他の二人より、しつけーしなぁ…。」
 乱馬はそばにあった、大きな岩に手をかけた。そして、そいつを、良牙へ向かって、放り投げる。

 すかさず、人差し指を差し出す良牙。
「爆砕点穴!」

 ばっこーん!

 爆砕の点穴を突かれて、見事岩が粉砕された。

「ひょー!さっすがだなー、良牙ちゃん!」
 乱馬が面白おかしく囃(はや)したてた。

「フン!こんな岩。点穴さえ見いだせれば、木っ端みじんだぜ!」
 鼻息荒く、良牙がいきんで見せた。

「なるほどねえ…。じゃあ、これはどーだ?」
 乱馬は煽るように言いながら、もっと、大きな岩を投げつける。

「ちょろいぜ!」
 そう言いながら、爆砕点穴で、再び、岩を粉砕して見せた。

「じゃあ、今度はこれ!」

「何度投げても、同じことだぜ!爆砕点…。」
 と言ったところで、良牙の動きが止まった。
 乱馬が投げたのが岩ではなかったからだ。岩ではなく、河原に捨て置かれた看板だった。不法投棄されたものが、流れ着いたのか、それともここに捨てられたのか。
 これが、女性のおっぱいがあらわに描かれた、ピンクサロンか何かの、セクシー等身大看板だったから、たまらない。
 良牙といえば、無類の純情男であった。おっぱいに目が吸い寄せられて、一瞬、動きが止まったらしい。

 ガッツーン!

 次の瞬間、そいつは思い切り、良牙の顔面を強打した。

「あが…。おっぱい…。」

 哀れ、おっぱい画面に顔を打ち付けたまま、看板諸共、仰向けに倒れ込む良牙。

「相変わらず、純情な奴だな…。こんな、単純な手に引っかかるとは…。」
 投げた乱馬ですら、少し意外に思えたほどだ。良牙の純情ぶりは健在である。ある意味、岩や拳よりも攻撃力が高い、おっぱい看板。

「グワーグワーグワー」
 川の中から沐絲がまだ、激しくがなりたてている。鎖に巻きつかれて、飛ぶことができないのを怒っている様子だった。
 河原には、九能と良牙が気を失っている。

「悪いなー!今日は本当に急いでいるんだ!また、今度……うん…だいぶ先になるけど…ゆっくりと相手してやっからよー!おめーらも、それまで、元気でなー!」

 それだけ言って、川の中の飛び石へ向かって駆けだしていた。

…しばらく。こいつらともお別れ…か…。

 背後を振り返らず、先を急ぐ。
 ふっと、顔が緩んだ。いつも突っかかってくるライバルたちとの、こんなやり取り。それも、いつの間にか、生活の一部になっていたのを、改めて実感したのである。
 九能先輩、沐絲、良牙…それから、小太刀、右京、珊璞…。彼らや彼女らとのとのやり取りが、かけがえのない大切な日常だったことを、しみじみと感じとっていたのだ。

…こいつらとこーやって、すったもんだすることも、日々の修行の一部だったもんな…俺には…。

 たとえ、迷惑な攻撃でも、修行という観念から見れば、有効だった…と、今は胸を張ってそう言えた。街を駆け抜け、拳を振り上げ、足蹴りをお見舞いする。または、逃げて逃げて逃げまくる。そんな、小競り合いだらけの日々。
 乱馬の圧勝で勝負や追いかけっこは終わっていたにせよ、彼らの仕掛けてくる不意打ちは、必要不可欠な修行メニューに値したと思った。

…だから、どんな奴が俺の前に立ちはだかっても、俺は、負けねー。きっと、勝つ。勝って、また、ここへ戻って来る!絶対に!…

 西へ沈み行く夕日に向かって、乱馬は駆け抜け出して行った。


つづく



一之瀬的戯言
 また、長編になってしまった「最終章」であります。


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