◇天高く 第二部

第九話 氷也の墓穴

一、

 観月氷也。至近距離から凍也目掛けて打ち下ろされた、氷の気の刃。
 避ける暇もなく、凍也の身体を飲み込んでいく。

 ゴオオッと轟音がリンクの上を通り過ぎる。
 真っ白い気が凍也を一瞬のうちに包み込んだ。

「凍也ーっ!」
 思わず、身を乗り出して、乱馬は叫んでいた。
「凍也君っ!」
 あかねも一緒に叫んでいた。
「凍也!」
 傍らのみさきは、祈るように両手を胸の前に重ねた。

 会場の観衆は、リングで何が起きたのか、良くわからないという顔つきで、じっと息を飲み込んで、白い気の成り行きを見守っている。

「大丈夫。まだまだ、あれくらいでまいる凍也やない。」
 寒太郎爺さんだけが、落ち着いて座っていた。
 乱馬も爺さんの声を聞くと、何かを感じたのか、乗り出していた身を、座席へと沈めた。
「何とか持ちこたえたみてえだな。」
 ほおおっと、溜息を吐き出す。
 乱馬が腰を落ち着けたと同時に、白い気が晴れて、壇上の二人の姿が浮かび上がってきた。
 確かに、凍也は身を屈めて、氷也の気を受け止めていた。

「冷気で相殺したのか。」
 乱馬は傍らの老人へ尋ねた。
「ああ。あの刹那、凍也もまた、全身へ冷気を巡らせて、氷也が打ち下ろした冷気を相殺したんじゃ。」
 コクンと老人の頭が揺れた。

「にしても、あいつ、姑息な手を使いやがる。」
 乱馬は、深々と腰を下ろしなおすと、壇上の氷也を見詰めた。

 気の大技の炸裂に、会場は割れんばかりの歓声が上がる。
 拍手喝さいが二人を称える。

「おまえ、わざとワイを引っ掛けよったな。」
 凍也はぐっと氷也を睨み付けた。
「ふふふ。こんな初歩的な手に引っかかってくれるとは。そんなにあの女が大事か?」
 面白おかしそうに、氷也が凍也を見返して笑う。
「ああ、大事や。おまえなんかにはやらん!絶対にや!」
 凍也ははっしと睨みつけると、唾と共に吐き出した。
「おもろい!ますます、おまえをこの手で倒して、あの女を手に入れたくなったやんけ。ククク。」
 氷也が冷たく笑った。ぞっとするような笑いだった。
「ぬかせっ!ワイは絶対に負けん!」
「気焔を上げている割には、息切れしとるやんけ。今ので相当ダメージを食らったやろ?違うか?」
 余裕で氷也が見下ろす。
 ただでさえ、病に蝕まれた体だ。今の防御は、確かに効いた。今まで覚えた事がないような痛みが、内臓の方から発せられてくる。薬で抑えていた痛みが、一気に噴出してきたような、そんな激しい痛みが、凍也を蝕みはじめていた。

「守る物が多い、おまえには、この試合は不利や。生ぬるい、愛情や友情に浸っているおまえは、冷徹な俺には勝てん。」
 氷也は次の攻撃に転じるように、大きく振りかぶった。
 氷也の瞳が大きく見開かれていく。そして、バッと掌を広げ、あさっての方向へと気弾を向けた。
「なあ、この冷気で、どのくらいの観客が吹っ飛ぶやろうな?」

「なっ!」
 凍也の表情が変わった。

 そうだ。
 氷也は闇雲に、大きな気弾を、歓声を上げる観客に向けて打つ気なのだ。

「やめろーっ!」
 次の瞬間、凍也は、再び、我が身を氷也の前に曝け出した。

「うおおおっ!」
 両手を前に差し出し、バレーボールのブロック防御よろしく、気を相殺しようと気焔を上げた。
 氷也の放った気弾が凍也の手にぶつかった瞬間、眩いばかりの光が炸裂した。
 だが、僅かに、氷也の放った気の方が、大きかったようで、完全に相殺しきれず、凍也の手から、気が弾け返されたのだ。
 凍也によって、相殺され切れなかった光が、反対側へと飛び出してゆく。

「あのままじゃ、気弾は反対側の観客席にまともにぶつかっちゃうわ!」
 思わず、乱馬の傍らのあかねが叫んでいた。
「大丈夫だ。あかね、落ち着け!」
 焦ったあかねを、押しとどめるように、乱馬が言い放った。
「でも…。」
 凍也が打ち返した気弾が、そのまま、三塁側スタンドへとぶつかる。そう思った瞬間、スタンド席の手前で、バチバチと激しい音を蹴散らせて、消滅した。

「気、気が消えたわ。」
 あかねが呆然と気の消えた辺りを見た。
「やっぱりな。観月流の奴ら、弟子たちを使って、気で防御壁を作って、氷也が放った気を相殺したって訳か。」
 乱馬が吐き出した。
「防御壁?」
 あかねがきょとんと乱馬を振り返った。
「ああ、そうやで。ようわかったな。さすがは乱馬はん。」
 乱馬は寒太郎老人を見てにっと笑った。
「この試合の前準備にかなり間があいたのは、弟子たちをいいあんばいに配置するのに時間がかかった…って、そういう事なんだろ?爺さん。」
「ご明察。さすがやな、乱馬はん。」
 爺さんは顔色一つ変えずに、乱馬の質問を受け流した。
「わかるさ。氷也は、恐らく、試合の中で、観客に怪我人が出ることなんか、お構い無しに気を打ち込んでくる。
 それを見越して、防御するための壁を、観月流の弟子たちを要所に配して、気で気を相殺させる段取りをしていた…だから、試合開始まで、時間が余計にかかった…。そういうことだったんだろ?」
「なるほど…。あの氷也って奴、観客に犠牲者が出ても、平気で気弾を使うつもりだったのね。」
 あかねも頷いた。
「そこまで、わかってなはるなら、今更、説明は要らんやろうて。」
「リングの四方、それから、スタンド席の前を中心に、何人もの、観月流の使い手たちが並んで、氷也の気弾を相殺しようと、気幕を張って立ってやがる。」
 乱馬がアゴ先で、それらしき、男たちの影を示した。
「ほんまや。あちこちに、うっとこの道場の弟子たちが居るわ。リンクのすぐ前には、お父ちゃんと爺ちゃんの一番弟子が対極して座っとるやん。
 確かに、観月流の氷気が幕を張るように、皆の身体から流れ出てるわ。」
 みさきも感じとったようだ。
「凍也は、氷也ほど冷徹にはなれねえ。今みたいに、観客席を庇う行動に、身体が勝手に反応しちまう。
 それを見越して、氷也の奴め。姑息な闘い方しやがって…。」
 乱馬は苦虫を潰したような顔を、壇上の氷也に手向けた。
 格闘家の風上には絶対に置けない野郎だ。そう思ったのである。

(だが、今の二回の防御。凍也(あいつ)の身体に、過大なダメージを与えてなきゃ、良いんだが…。)
 言葉を殺して、凍也を見やった。
 見たところ、平然と立っている凍也だったが、体内の気がかなり減っていることに、乱馬は気付いていた。

(長引くとやばいな…。)
 
 氷也の攻撃と凍也の防御に魅せられ、わああっと沸き立つ観客たち。おそらく、彼らは、自分たちが氷也に狙われていたことを、これっぽっちも把握していまい。いや、この試合の運びすら、正確には理解していまい。


「ふふふ、だんだんに気が減ってきているなあ…。凍也。貴様の潜在冷気は、さほど、多くはないようやな。」
 氷也が冷たい瞳を、凍也に手向けた。
「ぬかせ!そんなことないわい!」
「そうかな?どこまで、俺様の気弾を受けて、平気で居られるかな?」
 そう言うと、氷也は再び、攻撃態勢に入る。
 それから、大きく振りかぶると、氷の気弾を無数に、凍也に飛ばした。

「氷気乱れ撃ち!」
 さっと手を挙げると、気が凍也目掛けて無数に飛んだ。目に見えぬ気が、凍也目掛けて、打ち込まれているようだ。
 気が凍也の身体を通り抜ける際に、皮膚に辺り、血がはじけ飛んだ。
「なっ!何だ?あの技は、一体。」
 乱馬は大きく目を見開いて、壇上を眺めた。氷也の撃った技を見極めようとしたのだ。
「あれは、氷気じゃ。氷也と取り巻く気が、一瞬のうちに凍りつかせ、氷の剣となって、相手に襲い掛かるという、裏観月流の奥義の一つじゃよ。」
 老人は技の本体を見抜いているらしく、乱馬に説明してくれた。
「氷の気?」
「ああ、周りの冷気を己の中に取り込んで、多彩な技を出す。それが裏観月流気砲の基本や。」
「な、何だって?お、おいっ!なら、こいつは不味いぜ!爺さん!」
 乱馬が叫んだ。
「どうして不味いの?乱馬。」
 あかねがきびすを返した。
「表観月流の弟子たちが気幕を張って、観客席を守っている以上、あのリング内は一種の閉ざされた空間、っつうことになる。」
「え?」
「つまりだ、氷の気で遮断している以上、熱気が入り込む隙がねえ。いや、冷気の逃げ場がねえっつうことになるっ!」
「どういうこと?」
「爺さんの言い方だと、氷也はエキスパートっていうことになる。だと、凍也よりも冷気の使い方が上手いんじゃねえのか?
 奴の得意な冷気砲に必要なエネルギーが、閉鎖空間となったリング上に溢れてる…つうことになるじゃねえか。」
「あ…。」
 あかねも乱馬の言葉の意味が理解できたようだ。
「気砲のエネルギー源は無限にある、そんな閉鎖空間に凍也が居たとしたら。」
「凍也君は氷也(相手)の気の格好の餌食となるわ。」
「ああ。だが、下手に表観月流の連中が張り巡らせている、冷気の壁を解くと、今度は、観客が奴の技の犠牲になるかもしれねえ…。
 畜生!この闘い方はあいつ(氷也)の計算済みの結果か!」
 忌々しげに乱馬は言い放った。

「ああ、そうや。全部、見通した末の戦術やで。」
 背後で老人の声がした。

「てめえは…。裏観月流の…。」
 乱馬は苦い顔を声の主へと手向けた。

「貴様ら、アマちゃんの表観月流のうぬらのこっちゃ。観客を死闘の犠牲に巻き込むのは嫌やと、必ず、冷気の幕を作って対処してくれると思とったわ。」
「何やて?」
 みさきがきつい顔を手向けた。表観月流を馬鹿にされたと感じたのだ。
「解きたくても、一度張った冷気の幕は解かせられん。
 解いた途端、観客に必ず犠牲者が出る技を、容赦なく、氷也は撃ち放つやろうしなあ…。」
「こいつが貴様の復讐っちゅうわけか…。」
 静かに寒太郎翁は言った。
「ああ、そうや。貴様らの張った幕は氷也に無限の冷気を与え続ける。凍也が氷也によって無様に斃れるまで…。な。」
「凍也も貴様の流派の血を受けているのではないのか?」
 寒太郎翁は搾り出すような低い声で言い放つ。
「ふん!表へ尻尾を振った奴など、眼中にはないわ!」

「復讐か…。虚しい言葉だぜ。」
 乱馬が二人の間に割って入った。
「神聖な格闘技に復讐を持ち込むなんてよう。罰当りもいいところじゃねえのか?」
 そう凄んだ。
「ふん、おまえのような若造に何がわかる。」
「いい年こいたジジイだって、道理がわからねえ人間は居るもんだぜ。」
 乱馬は挑戦的な言葉を投げつけた。
「ちょっと乱馬。」
 やめなさいと言わんばかりに、あかねが乱馬の袖を引いた。このままだと、ここで喧嘩をおっぱじめるのではないかと危惧したのだ。

「凍也は負けへん!」
 みさきが己の激情を押し殺したような声で言い放つ。

「ふふ。強気やな。だが、実力の違いは明らかだ。凍也は氷也には敵わん。冷酷になり切れんからな。」
 みさきの言葉を受けて、裏の爺さんが言った。
「もっとも、氷也が勝った暁には、おまえさんは氷也の嫁御や。」
「何を勝手なことを!」
 みさきの語気が更に荒くなった。
「勝手なこと?そこの御仁も承知の筈やで。」
 老人は寒太郎を見やった。
「お爺はん。」
 みさきの声に、寒太郎は黙ったまま、頷く。
「凍也も承知しておる。この試合に勝った方が、表の娘を娶り、二つの流派の統合を図り、古来から別々に流れてきた、二つの流派を一つにする…とな。」
「案ずるな、凍也は負けん。」
 寒太郎老人は、みさきへと静かに言った。
「それはどうかな?かなりへばってきておろうが。」

 リングの上では、氷也が容赦なく、凍也を持ち前の冷気弾で責め続けていた。凍也はいたぶられるように、壇上で氷也の成すがままだ。

「この試合、氷也が勝てば、そのまま、みさきを連れ帰るぞ。」
 裏観月の爺さんは、ちらりとみさきを見た。
「すぐさま、氷也と祝言じゃ。」

「凍也は絶対、勝つ。」
 みさきははっしと老人を睨み上げた。
 だが、みさきの言葉など、寄せ付けず、裏観月の爺さんは、舞台へと視線を移して言った。
「そろそろ、氷也め、最後の仕上げにかかるぞ。その目を大きく見開いて、凍也が氷也に倒されるその瞬間を、ごろうじろ。わっはっは。」
 高笑いをしながら、再び、裏観月の爺さんは闇へと消えた。

「たく、嫌味な爺さんね。」
 あかねが憎々しげに吐きつけた。
「大丈夫や。凍也はあんな奴には負けへん。凍也は流派一や。」
 ぐっと拳を作りながら、みさきが答えた。



二、

 リングの上では、凍也が必死で、氷也からの攻撃を耐え凌いでいた。身体中の冷気を氷也が攻撃してくる上半身へと集め、ぐっと前かがみに踏ん張る。
 氷也の気弾、凍也の身体から発する冷気で相殺されるも、完全に消し去ることはできない。ピシュッ、ピシュッと相殺し切れなかった氷の刃が、容赦なく、凍也の硬い筋肉の皮膚を裂くように切り付けて弾けた。
 その度に、凍也の身体から、赤い血しぶきが飛ぶ。

 ボロボロになっていく凍也。
 その様子が伝わるのか、会場は、だんだん、興奮のルツボと化す。凍也のファンか、女の子たちの悲鳴やら、怒号やら、泣き出すものまで出てくる。

「良いの?あのままで。」
 あかねが溜まらず、乱馬を見返した。
 見ているのがだんだんに辛くなり始めているのだろう。
「ああ、良いんだ。あいつは、最後まで勝負を投げねえつもりだぜ。」
 乱馬は淡々とあかねの問い掛けに答えた。
「でも…、あのままじゃ、凍也君の身体が…。」
「おめえの持たないって言いたい気持ちもわかる。でも、あいつは、表観月流の全てを背負ってんだ。ここでタオルを投げて、辞めさせちまったら、一生恨まれるぜ。」
 乱馬はちらっと、みさきの方を伺って言った。
「これが、男の勝負なんだよ。いや、格闘技の世界、そのものかもしれねえ。
 凍也はたとえ、己の命を縮めることになっても、この場で斃れることになっても、最後まで闘い抜くつもりだろう。」
 その声は、きっとみさきに聞こえていたに違いない。
「ウチかて、ホンマは辞めさせたい。でも、凍也にその気がないんやったら、止める権限なんて持ってへん。」
 乱馬に答えるように、小さく呟くように言った。
「ウチは、凍也を信じてる。最後まで、何があっても、それに付いて行く。ウチは凍也の許婚やから。」

 その言葉に、あかねはこれ以上、何も言う言葉がないことを悟った。いや、言ってはならないと悟ったのだ。
 頑張れという応援の言葉すら、虚しく口の中で響く。
 何が、こうも、凍也の闘争心を喪失させずに、リングの上にその魂をつなぎとめているのか、乱馬の横顔を見ているうちに、少しだけ理解できるような気がした。乱馬も、同じような闘いに借り出されたら、きっと、燃え尽きても、戦いを辞めるとは言わないだろう。たとえ、リングの上に果てることになっても、それが格闘家の本望だと、闘い続けるだろう。

 みさきの赤い唇は、かすかに震えている。ぎゅっと拳を握り締め、祈るような姿勢で、じっとリング上の戦いを、目で追っていた。
 ここは闘う愛する男を信じて、傍でじっと見守るしか術がない。
 そんな、切ない思いが、伝わってくる。

「闘いというものは、非情なのね…。」
 あかねは、ポツンと言った。
「いや、闘いは無情でも、闘っている人間は有情(うじょう)だ。」
 乱馬が嘯くように、それに答えた。



三、


 リングの上の凍也は、必死だった。
 次々に繰り出されてくる、氷也の多彩な冷気技。それを耐えるのが精一杯だった。
(畜生!こいつ、全く隙があらへん。遮断された冷気の空間を、百パーセント活かしきって、攻撃してきよる!
 観月流は表も裏も、冷気を司る流派や。しかも、裏観月はその名の如く、表よりも「裏の気」つまり「陰気」を扱うのが上手い。ワイなんかより、ずっと、冷気の扱いが上手いんや。
 このままやと、マジ、やばいで…。)
 だが、不思議と、恐怖はなかった。
(せやけど、ワイも因果やなあ…。こんな窮地に追い込まれてるっちゅうのに、ワクワクしてきよる。)
 凍也は自然に笑みがこぼれている己に気付いた。
 乱馬と対峙した東京でも、同じようにワクワクした。が、今回はそれ以上にワクワクしていた。
 血飛沫が飛び、痛みが身体を突き抜けるたびに、生きているという実感が、己を沸き立たせる。
 これが、最後の格闘だということが、己をして、そのような気持ちにさせているのかもしれない。かすかにそう思った。

「どうや?そろそろ決着つけたろうか?」

「そう急くな。ワイ、まだ、おまえへの返し技、見出してへんのやから。」
 にっと凍也が笑った。

「フン!返し技だと?そんなもの、見出せる筈もなかろうに。
 まあ、ええわ。一発、もっと凄い技、撃ってやる。
 一発で決めるんは勿体無いからな、最初の一撃は外してやるわ。」
 氷也が言った。
「一発目は外してもらえるんか。そりゃあ、ありがたいこっちゃなあ。」
 凍也はにっと笑った。
「余裕かましてられんのも、今のうちや。この技見たら、逃げたくなるで。もっとも、逃げたいと思っても、逃げられへんやろうがな。」
 氷也の瞳が妖しく光った。

(どんな技、撃って来る気や?…まあ、ええわ。小細工は要らん。ここは、冷静に相手の攻撃の本質を見極めるだけや。
 乱馬も言うとった。窮地に追い込まれた時ほど、己の五感を研ぎ澄まし、相手を観ることが大事やってな。
 確かに、そのとおりや!絶対、見極めたる!氷也とて人間や。まだ、ワイに勝機はあるはずや。)
 そう思うと、グッと力を込めた。
 再び、気を己の体内から集中させ、氷也の技に対応するためにだ。

(こいつ、乱馬の言うたとおり、左利きやな。左側の気の方が、微かやけど強い。
 しかも、今までのワイへの攻撃は全て右で撃っとるときとる。
 へへっ。この期に及んで、この気弾も右で撃ってくるつもりやな。見くびられたもんやな…。いや、待てよ、右で撃つことに対して、何か理由があるんかもしれん…。)
 凍也は、いろいろ考えを巡らせながら、じっと氷也の動きを観察した。


「はあああああっ!」
 再び、凍也の氷の闘気が上がっていく。
「なっ!」
 それは大地をも揺るがすような、激しい気の高ぶりだった。
 氷也は腕を前に突き出すと、印のようなものを結んだ。

「いくでぇ!裏観月流秘儀!樹氷撲滅殺!でやらああっ!」

 氷也の右掌がパアアッと光った。
 バリバリバリッと音がして、一瞬にして、気が激しく凍りつく。そいつが、氷柱(つらら)のように重なり、樹氷のように氷結しながら、凍也のすぐ脇を伸び上がった。
「つうっ!」
 凍也は、左肩の上に抉り取られたような肌の痛みを感じた。だらりと血が、肩の方から鎖骨へと流れ落ちてくる。

「凍也君!」
 あかねは思わず、目を背けた。
 あまりにも、残酷な攻撃だったからだ。
 観客も歓声を上げることを忘れて、ただ、ひたすらに、二人の対峙を見やる。歓声というよりも、どよめきに近い声が、あちこちから、どおっと流れる。
 無差別格闘技の激しさを、今になって思い知らされるような、慟哭だった。

「くくく、これは失敬。外すつもりが、狙いがそれてしもうたわ。」
 氷也がにっと、憎々しげに笑った。


「何が、外すつもりだっただ…。最初(はな)っから、当てるつもりだったくせによう…。」
 乱馬は氷也の声が聞き取れたのだろうか。ふっと、そんな言葉を吐き出した。
「だが、氷也め、奢ったばかりに、大きな失敗をしでかしやがったぜ。それも、二つもだ。後は、凍也がそれに気付いたか否かだ。」
 乱馬の口元が緩んだ。
「え?失敗?二つ?」
 あかねがきょとんと乱馬を見返した。
「ああ、今の攻撃で少しばかり「墓穴」を掘りやがった。一つはあれだ。見ろ、氷柱が伸び上がった先を。」
 アゴでさっと、方向を指し示す。
「あそこだ。僅かだが、弟子たちが作っている冷気防御の壁にほころびが出来たぜ。」
 あかねは目を凝らしたが、何も変わりがない。
「はあ?何も変わんないわよ。」
「目では見えねえよ。感じねえとな。」
「そうかあ?気で探っても、何もわからへんで。」
 みさきも五感を研ぎ澄ましたが、乱馬の言わんとした「ほころび」は確認できなかった。
「爺ちゃんはわかるか?」
 みさきに問われて、寒太郎老人が言った。
「いや、ワシにもわからん。が、乱馬はんが言うのやったら、ほころびが出来ているんやろう。
 恐らく、余ほど気をつけて感じんとわからん「気のほころび」なんやろうて。」
 寒太郎の言葉を受けて、乱馬が言った。
「ああ…。達人でも、どのくらいが気付くかという小さなほころびだ…。でも、どうやらいいあんばいに、凍也も気がついたみたいだぜ。」
「え?」
 ぎょっとして、あかねはリングの方を見た。そこには、凍也が血が滴る右肩を押さえながら、氷也を藪にらみしているのが見えた。かなりの深手を負わされたようで、肩で息をしているのが、ここからでもよくわかる。
「こっからが正念場だ。ほころびに気付いただけじゃ、勝てねえ。ほころびを突き崩す「技」が要る。
 凍也…。おまえの本気、じっくり見させて貰うぜ。」
「ねえ、もうひとつの氷也の失敗って、何なのよ。」
「いいから、黙って見てろ。」
 そう言うなり、乱馬は黙ってしまった。
「ちょっと、もう、一人だけ納得して、ずるいんだから。」
 あかねも大人しく引き下がった。お喋りに高じている暇などない。死闘は今にも再開されそうだったからだ。

(そうだ。凍也。おまえも冷気の使い手。冷気技しか扱えないおまえには、俺の飛竜昇天破のように熱い気技をたぐり寄せる術はねえ。
 恐らく、次の攻撃で、氷也(やつ)は決めてくるだろう。残り少ないスタミナで、どうやって、最大級の攻撃をかわして、反撃の烽火(のろし)を上げるか。
 おまえのことだ。どう責めるかは、もう、決めてるんだろ?奴の失敗を見逃す手は、ねえもんな。
 俺は見届けさせてもらうぜ。ここから…。おまえの最期の大博打をな…。)



「ふふふ、右腕をやられては、成す術もないやろう。どうや?降参したら…。」
 氷也は凍也を見下しながら言った。

「けっ!降参やてぇ?だぁれーがっ!」
 凍也は、唾と共に吐きつけた。
「言うとくが、ワイは降参なんかせえへんど!」
 凍也は逆に氷也を煽った。
「降参はせんってか。まあ、それもええやろう。大観衆の前に惨めな姿晒すんもな。」
 氷也は勝ち誇ったように言った。
「まだ、負けるって決まったわけやないで。」
 凍也も食って掛かった。
「負け犬の遠吠えだな。凍也、おまえは裏観月流には勝てへん。」
「何で、んなことわかるねん?」
「表のように、常に光のある道を通ってこなかった裏の人間にしか、その苦悩はわからん。光の道を約束されて、歩み続けてきたおまえに、俺の苦しみなど…。」
「ああ。んなもん、わかりとうもないわ!わからへんのんは、おまえもやろ!」
 グッと凍也は拳を握り締めた。次の攻撃を仕掛けるために、渾身の力を右手に篭めて見せたのだ。だらだらと血が、溢れんばかりに右手に伝わって落ちてくる。赤い血だ。

「そろそろ、終止符を打とうか。こんな、茶番試合、このくらいで、充分やろ。」
 氷也も次の攻撃を仕掛けるための気を充満させ始めた。
 辺りに漂う、全ての冷気を身体中に取り込んでいく。そんな風に見えた。
 ひょおおおおっと、二人の周りの冷気が渦巻き始める。
 まるで、氷の竜巻のような、冷気が氷也の回りをまといながら、吹雪き始める。

(氷也(兄貴)。おまえは二つ、墓穴を掘った。
 一つは、表観月流の弟子たちが囲んだ冷気の防御壁に、目に見えぬ僅かなキズを作ったことや。
 そして、もう一つは、ワイの利き腕は右やって思うとることや。それが証拠に、さっき、どさくさに紛れて気弾を打ち込んで来た時、迷わず右手を砕きよった。
 だが、ワイはおまえと同じ、左利きや。右腕より、こっちの方が拳力が倍ほど違うんや…。)
 凍也はグッと構えた。
 右手に気を溜め込んでいると見せかけながら、巧みに左手に渾身の気を集め始めていく。まだ、傷一つつけられていない、健在の左手だ。

(一か八か。氷也(あいつ)の攻撃を最大限に高めさせ、ほころんだあの辺りへ打ち込ませたる!
 あそこを砕けば、外側がから会場の熱気が怒涛の如く流れ込んで来るやろう。そうすれば、ワイにも勝機が出来る。
 乱馬、あんたと出会い、そして、闘えて良かったわ。氷の心を持ちながらも、熱気を呼び覚ます、あんたの技「飛流昇天破」。ワイも使わせて貰うで。)

「来い!観月氷也!一世一代大博打、大勝負やっ!」
 はああああっと気焔を吐きながら、凍也が構えた。



 ぎゅうっと身を乗り出した、みさき。そして、乱馬、あかね、寒太郎。

「凍也あああっ!」
 みさきが叫んだ。渾身の腹から凍也の名を呼んだ。絶叫だった。

 リングの上を、氷也が放った気が、一段と大きく舞いながら、凍也目掛けて打ち付けられる。みさきの声、それから、大観衆の怒号を、全て飲み込むように、気が瞬いた。
 美しくも儚い、夢が砕け散る、そんな刹那を孕んだ大博打だった。



つづく




一之瀬的戯言
 次回、第二部の最終話です。
 勝敗の行方は如何に?病に蝕まれた凍也の身体は?


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