◇天高く 第二部

第八話 凍也の秘密


一、

 試合はまだ始まらなかった。
 壇上の二人は、互いににらみ合ったまま、緊迫の時が過ぎる。
「こたびの跡目争いの元を作ったのは、このワシじゃ。」

 それを、遥か後方から見下ろしながら、「観月流の事情」を、寒太郎老人が話し始めた。

「あれは、今から半世紀も前の話。高度成長期にさしかかろうとしておった、日本が一番元気だった頃の話じゃ。」
 爺さんは、じっと深いシワを顔に称えながら、話し始めた。
 乱馬もあかねもみさきも、シンと静まり返ったまま、爺さんの話に耳を傾ける。

「長い戦争が終わって、自由な社会になって、十年が過ぎ、ようやく、新しい時代に日本が動き出した頃、その頃、青春時代を迎えておったワシ。おまえさんたちのように、新しい格闘技の世界の構築に燃え、日夜修行を欠かさず精進していたものや。
 さて、我が観月流には裏と表、二流派があった。
 これは先人たちが観月流を絶やさぬため、また、互いを競わせる事により、その根底に流れる「殺人拳法」の厳しさを失わずに後世へと伝えるための流派分断やった。武士がはびこっていた世の中では、武道は人殺しの法であったからなあ。
 だが、第二次世界大戦後、平和憲法が制定され、武士の時代はますます遠ざかった。自然、格闘界にもその流れは押し寄せた。
 格闘技はスポーツとなったのじゃ。
 柔道がオリンピック競技として世界中に広まったのと同様に、それに追随しようと様々な動きが、自然、格闘界にも溢れ出したものじゃ。」

 爺さんは遠い昔を思い出すように、語り続ける。

「そんな中、ワシも一端の青年。一人の女性と恋に落ちた。
 まあ、きっかけが何かということまで話せば長くなるから、ここでは省くとして…。偶然にも出会い、恋に落ちた女性が、「裏観月流」の血を受けた家系に居たということが、問題を複雑にしたんじゃ。」
「もしかして、その女性って、凍也の婆ちゃんか?」
 みさきが尋ねた。
「ああ、凍也の婆さん、即ち、裏観月流当主の娘やった。さっきの爺さんの妹じゃっやったのや。」
 寒太郎翁は深いシワを顔いっぱいに寄せて話した。
「結婚の自由が日本国憲法にうたわれ、自由恋愛ができる世の中になったとはいえ、結婚となると、なかなか上手くはいかんもんや。
 案の定、横槍が入った。
 それも、流派の横槍やった。
 結論から言うと、ワシと彼女は無理矢理、流派によって引き裂かれたんや。裏と表が一つになるなどということは、古い流儀を守って来た御家の者には、予想だにつかぬことやったのやろう。
 彼女が裏観月流の血を引いていなければ、自由恋愛で結婚もすんなりできたんかもしれんが、ワシらは引き裂かれたのや。
 …ワシも、今一歩踏み出す勇気がなかった。あの時、流派を捨て、彼女と駆け落ちでも果たしておれば、事情もまた、変わったのやも知れん…。
 長い戦争の果て、表観月流を継げる男子はワシ一人やった。兄たちは戦争によって、皆、若死にした後じゃったからな。そう、言い換えれば、ワシ以外に表観月流を継げる嫡子が居なかったのじゃよ。それが、ワシの勇気を押し殺してしもうたんや。
 親族に泣きつかれ、その上、彼女はワシの前から忽然と姿を消し、失踪してしまった。身を引いたのや。」
 そこまで一気に話すと、寒太郎翁は、ふうっと、長く息を吐いた。
「結局、ワシは家を捨てる勇気もなく、暫くして、親が決めた娘さんと結婚したんや。」
「ウチのお父はんのお母ちゃん、ウチの婆ちゃんやな。」
 みさきが確かめるように尋ねると、爺さんはコクンと頷いた。
「せや、おまえの婆さんも、格闘家の血筋で、呆気らかんとしたお転婆娘やった。明るうて、きっぷしもええ浪花っ娘やった。
 ワシは何事もなかったように、婆さんと絵に描いたような幸せな家庭を作り、その傍らで格闘修行に励んだ。
 ワシは、何も知らなかったのじゃ。
 別れたあの女性(ひと)に、子供が出来ていたことをな。」

「その子が凍也と氷也の父親って訳か、爺さん。」
 乱馬は確かめるように言った。
 こくんと揺れる寒太郎老人の頭。

「あの女性(ひと)にワシの子が宿っておったことなど、ワシには知らされなかったのじゃよ。流派当主のワシの親たちが、内緒にしておったのか、それとも誰も知りえなかったのか…。今となってはわからん…。」

「でも、あの裏の爺さんは、そうは思ってねえみたいだな。」
 乱馬は腕組みをしながら、視界の先に消えた、裏観月流の老人の影を追う。
 さっき、寒太郎老人を見る彼の目は、憎しみに満ちていたのだ。ゾッとするまでの激しい怒りを秘めた瞳。

「仕方あるまい。どんな形にせよ、ワシはあの女性と添い遂げる事、叶(かな)わなんだ。あやつは…裏観月の当主は、あの女性のたった一人の肉親とも言うべく、兄だったんじゃからな。」

「お爺はんは、凍也のお父ちゃんのこと、いつ知ったんや?」
 みさきの問い掛けに、寒太郎老人は答えた。
「ずっと後になってのことじゃよ。氷也と凍也の両親が不慮の事故で亡くなってからのことじゃ。」
「そんなに長い間、知らなかったんですか?裏観月流とて、同門ということは親戚なんでしょう?」
 あかねが信じられないと言わんばかりの問い方で尋ねた。
「同門でありながら、ライバルであった。血の繋がりがあったとしても、それは「遠い先祖」のこと。親戚としての行き来など、途絶えておったからのう。」
 爺さんはポツンと言った。
「で、いきなり、別腹に息子が居て、そいつが死んだということで、その遺児である凍也が、観月家に連れて来られた…そういうことなんだな?」
 乱馬が尋ねた。
「ああ。あやつは凍也だけを連れて来た。氷也という兄は己が作法にのっとって裏観月流の跡目として育てる。一子相伝の裏観月流派、いずれ、凍也は他家へ預けることになっていたというが、とりあえず、おまえの血を引いておるのだから、暫く預かれと置いていったんじゃよ。」

「お婆はん、めっちゃショックやったろうな…。お爺はんに別の女性が居て、子供まで生まれとったんやから。」
 みさきが溜息混じりに言う。責める気はなかったろうが、寒太郎老人にはきつい言葉だったろう。
「ちょっと待ってよ…。みさきさんのお父さんは、凍也君のお父さんよりも年上なんでしょ?そしたら計算が合わないんじゃ。」
「こら、あかね、おめえ、こんなところで、何細かいこと言い出すんだよ。」
 乱馬が大慌てで止めた。
「せや。あかねちゃんの言うとおりや。お婆はんと結婚する前に契った女性やったら、ウチの父ちゃんが先に生まれることなんか、有り得えへんやんか。」
「お、おい!みさきさんまで…。そんな昔の傷口をネチネチと責めなくても。」
 慌てる乱馬に、あかねは否定的に言い放った。
「これは、女性として、聞き捨てなら無い話だもの。ねえ、みさきちゃん。」
「せやせや。あかねちゃんの言うとおりや。」

「ふふふ、そう突っ込まれても仕方があるまいがな。おまえさんたちが信じるか否かは別として、婆さんがみさきの父さんを生んだ時は、産み月に三ヶ月ほど満たなかったんじゃよ。今で言う、早産という奴でな。」
「あ…。」
 思い当たる節があったのか、みさきが追求を辞めた。
「そういえば、お婆はんに訊いたことあったわ。お父ちゃん、未熟児で保育器から長い間出られへんかったんやって…。」
「それなら、納得いく話ね…。」
「たく、人騒がせな…。」
 何故か、乱馬がホッとした表情を浮かべる。

「まあとにかく、お婆はん、あれは良くできた人間でな…。まだ、己と結婚する前の話やからと、気にも留めなんだ。
 それよりも、身寄りのなくなった凍也を気の毒がってな。
 みさきと分け隔てぬぬように、育ててやれと、おまえの母さんに口をすっぱくしておったくらいや。」

「で、凍也は表観月流の家で、育てられたって訳か。」
 
「ああ。そういうことや。」

「それが真実やったんや…。」
 みさきがポツンと言葉を吐き出した。
「何でウチに黙って…。」
 ぐっとみさきの手に力が入った。

「凍也、あやつは出来た孫や。真相を知っても、そんな流派のシガラミは己がこの手で打ち砕いてやるとな。
 自ら望んで、あやつらの挑戦を受けて立ったのや。」



(いや、凍也がこの場に臨んだ理由は、それだけじゃねえ…。二分された観月流の怨念を打破する、そんな生易しい「理由」だけで萌えているんじゃねえ。あいつの心は、もっと別の理由に支配されてるんだ…。)
 乱馬は複雑な表情を浮かべて、壇上の二人を見た。
 彼のみが知り得る、凍也の姿。悲痛なまでに研ぎ澄まされた、凍也の気がそれを訴えているではないか。
 勿論、乱馬はその事については、おくびにも言葉に出さなかった。それが、凍也との約束であったからだ。
 恐らく、爺さんもみさきも知りえない、本当の凍也の胸のうち。
 彼が吐露した「重き事実」が、改めて乱馬を覆っていった。



「みさき…。凍也を責めたらあかん。責めるんやったら、凍也やのうて、このワシや…。」

「ウチは…、誰も責めとうない。」
 ポツンと、みさきが吐き出した。
 流派の裏に隠された「真相」を聞かされて、複雑な心境になったに違いない。
 あかねも、みさきにかける言葉を失っていた。

「お喋りはここまでや…。やっとこ、試合が始まるぞ。」
 寒太郎老人がリングを見ながら、お喋りを辞めて集中するように示唆した。

「ああ…いよいよだな。」
 今まで以上に、乱馬の表情が引き締まる。
 あかねとみさきも、真剣な面持ちになった。

 凍也と氷也の名前がコールされると、また、黄色い歓声が一段と高くなった。


(凍也…。おめえの最後の花道。俺がこの目で、しかと見届けてやる。)
 乱馬は心に吐き出していた。


二、

 大歓声に導かれて、凍也の試合が始まった。

 随分、準備に時間がかかったものだと、乱馬は改めて思った。
 あかねとみさきの試合から己の試合までの三試合は、スムーズに準備がなされて、そう、インターバルも開かなかったのに、この凍也、氷也戦の前は、悠に三十分近くの時間が流れていた。
 緊張続きの観客にとっては、格好のトイレ休憩となったろうが、それにしては休憩が長過ぎた。

 暗がりに目を凝らし辺りの気配を察して、乱馬は思わず唸った。

(なるほど、そういうことか!)

 良く注意して気配を探ると、そこここに「気概に溢れた御仁」が等間隔にさりげなく立っていた。良く観ると、彼らは皆、警備員の格好をしている。
 勿論、警備員はガタイの良い男性が立っていても何、不自然ではないのだが、素人の警備員にしては、身体から放たれる気が「尋常ならぬ」ものだった。気を探る能力が既に身についていた乱馬は、彼らのだいたいの正体がわかってきた。

(素人じゃねえ…。いずれも、相当の気の持ち主だ。)

 ちらりと、隣の寒太郎老人の方を向いた。
 爺さんは、何事もないように、静かに試合の開始を待ち構えていた。

(「保険」…つうことか。)

 審判の合図と共に、二つの肉体が激しく動き始めた。

(速いっ!)

 いきなりの肉弾戦だった。
 それぞれ、相手の出方を伺う暇もなく、荒い技を繰り出し、仕掛けていく。
 いわゆる、「派手な組み合い」だ。
 遠く離れた場所から見ても、バチッ、バチッと皮膚がすり合う音が聞こえてくるような気がする。

「最初から飛ばしていくなあ!」
 乱馬がポツンと吐き出した。
 互いの実力を測るには、格好の組み合い方だった。互いに牽制しながらも、実力を図っている、そんな感じに見える。
 様子見とは言っても、気を抜いたら、途端、激しい一撃をお見舞いされるだろう。華奢に見える、二人の身体から繰り出される荒技に、観客はすっかり度肝を抜かれていた。

 バッと、互いに組み合うと、蹴り、拳の応酬合戦。
 目も留まらぬ速さで、動く肢体。
 ボクシングやレスリング、柔道や合気道、空手や相撲。どれとも違う「無差別格闘技」の魅力。あえて言うならば、何でも有りの「喧嘩拳法」に近いかもしれない。

「さすがに、元は同門から出ている流派だな。攻撃が良く似てるぜ。」
 乱馬が感心したように吐き出した。
「攻撃が似てるの?」
 あかねが隣りの乱馬を振り返った。
「ああ、似てる。良く見てみな。蹴りや拳の形(かた)が良く似てるぜ。技を決めようとするテンポもな。」
 そう言われて、改めて二人の組み方を観ると、確かに、似ているような気がした。同じ徒手競技でも、柔道や空手とは違い、格段とスピード感がある。時々、留まる「決め」への流れの中に、同じような呼吸の波が確かにあった。
「さすがに、ちょっとした気合の差はあるけどな…。基本となる形が同じ兄弟流儀だぜ。あれは。」

「ほう…。そこまで感じなさるか、乱馬君は。」
 寒太郎老人が感心したように乱馬を見やった。

「ああ。あいつら当人はもっと感じてると思うぜ。俺が初めてあかねと組み合った時に感じたのと同じようなことをな。」
「あたしと、初めて組み合った時ですって?」
 あかねがきょとんと見上げた。
「ああ、俺が初めて天道家に来た時、道場で軽く組んだだろう?あん時、初めて組んだ筈なのに、そうでないような気がしたんだよ。
 ほら、早乙女流も天道流も親父たちがそれぞれ、八宝斎のジジイの元で組み上げた流派だろう?根本に同じ本流が流れてたとしても、不思議じゃあるめえ?」

 あかねは、それを聴いたとき、乱馬には敵わないと思った。既に、初対面の時に、同じ流派の匂いをあかねの中に嗅ぎ取っていたのだ。このおさげの青年は。

「それゆえに凍也には、やり難い相手かもしれねえけどな…。」
「どうして?」
「バーカ!手の内読まれるだろうが。」
「手の内を読まれるのなら、風月氷也だって同じじゃないの。」
「あのなあ…。おめえ、格闘技っつうもんが全然わかってねえなあ。」
「何よ!」
 馬鹿にされたと思って、あかねがジロッと乱馬を見上げた。

「氷也にとって凍也は憎き「表」の使い手なんだぜ。力の中に「憎しみ」が湧いて当然だろう?」
「風月氷也に「憎しみ」が宿ってるとでも言いたいの?あんたは。」
 あかねはハッとして乱馬を見た。
「あいつを育てた裏の爺さんは「憎しみ」を持って氷也を育ててる。氷也の闘気からは「憎しみ」がビンビンに伝わってくるぜ。その分、凄みが増す。
 凍也にはやり難い相手に違いねえぜ。」

 ゴクンとあかねは唾を飲み込んだ。
「じゃあ、凍也君は…。」
「ターコ!そんなことくらいで、簡単にやられる凍也じゃねえよ。あいつの技はそんな憎しみくらいで倒されるような柔なもんじゃねえ…。
 あいつは負けねえ…。そんな陳腐な憎しみにはな…。」

 乱馬はぎゅううっと手を握った。
 昨日交わした、凍也とのやりとりが思い出される。
 寒太郎老人の家を訪問した時の凍也との一問一答のような会話だった。あの時、翁は席を外してくれた。凍也の本音をそのまま、乱馬に聞かせるために、わざと会話から抜け出たのである。
『若いもんは若いもん同士…。凍也も乱馬はんに折り入って、大事な話があるようやから。』
 そう言って、奥へと入ってしまったのだ。
 後に残された二人。

『何故、おめえに遺された時間が少ないんだ?わかるように説明しろ!』
 乱馬は納得がいかないと、凍也に食い下がった。
『明日が、俺の最後の公式戦になるやろうからや…。』
『最後の公式戦?』
『ああ…。』
『どういう意味だ?公式戦最後って…。引退するような年齢じゃあるまいに!』
『実は…。俺には…。』
 唐突に凍也は切り出してきた。
『俺の残された寿命(時間)は、短いのや。』
『だから、どういうことか、ちゃんと説明しろよ!』
 いつになく、激しく怒鳴っていた。次に凍也から、吐き出される言葉に、得も言えぬ「不安」を感じ取っていたからだ。それを見透かしたように、今度は凍也がたたみかけてきた。
『乱馬…。おまえにはわかってるんとちゃうんか?俺と久しぶりに組んだ時、何か気に食わんような顔しとったやんけ!』
 逆に問われた。
『そ、そうだったっけ?』
 乱馬は咄嗟にとぼけた。だが、同時に、大阪最初の夜、凍也と組んだあの時に感じた違和感を思い出していた。
 あの時の凍也の力の弱さ。頼りなさ。それが俄かに、蘇る。
『ボケんでもええ!感じた筈やで。秋、組んだ時よりも、俺の技や動きの切れが、明らかに減退しとったんを、ちゃんと感じとったんやないんか?』
 ぐっと凍也が迫って来た。これ以上とぼけても無理だと察した乱馬は、正直に感じたままを吐露した。
『あ、ああ…。確かに、あの時、正直ちょっと「違和感」を感た。こう、何て言うか…。押しが弱くなったっていうか…。』
『せやろな…。おまえくらいの奴なら、俺の身体に起きた異変、気付かん訳ないやろからな。』
『異変…。おい、秋に俺と組み合って、どこか故障でもしたとか…。』
 乱馬は焦った。あの時の死闘は相当なものだった。凍也の猛攻を正面に受け、加減などせずに、突っ切ったのを思い出したのだ。乱馬も相当なダメージを食らったが、幸い、いくつかのかすり傷程度で、二三日も休めば元に戻っていた。が、凍也は違うようだ。
 あの時の闘いのせいで、どうにかなったのかと、ドキッとしたのだ。
『そんなんやあらへん。敢えて言わせて貰うと、乱馬、あんたと会うた時には、既に俺は…。病に侵されてたんや。』
『病だあ?』
 意外な言葉に、きびすを打ち返していた。
『ああ、病や。医者もさじ投げてしまうようなな…。』
 凍也は言葉を少し飲み込むと、乱馬へ真剣な眼差しを向けた。
『ワイが己のの体調不良を知ったんは、東京へ行くちょっと前やった。』
 と、己の身の上に起きている事を、淡々と話し始めた。
『ちょっと風邪が長引いたんで、かかりつけの医者へ行って検査してもらったんや。そしたら、いっぺん、大きい病院へ行けって言われてな。精密検査受けてみろって、散々言われたんや。
 こっちは別にたいした異変も感じてへんかったし、後でもええと思って暫く放っておいたんや。
 体調もいつもとそう変化はなかった。いや、夏前頃から軽く異変を感じてはいたんやけど、激しい修行のやりすぎやって勝手に思っとったんや。
 で、東京の大会が終わった後、改めて検査する事に勝手に決めて、休学して出かけた。』
 乱馬は黙ったまま、凍也の一言、一言を聞き逃さず、聞いていた。
『で、おまえと対決して、関西へ帰ってから、もう一回医者へ行ったら、まだ、検査を受けてへんかったんかって、ごっつう叱られてな。
 すぐ行って来いっつって紹介された病院へ行ったんや。そしたら、すぐ入院せいと言われた…。。』
『入院…。』
『ああ。悪性の腫瘍がここらへんに出来とるってな。』
 そう言いながら内臓の辺りを指差した。
『まさか、そんなもんが、身体の中に出来てるなんてこと思いも寄らんかった。一か所だけやない…。あちこちに転移しているってな…。病巣をできるだけ摘出をして、抗がん剤を打って、真剣に闘病生活に入らんと、あと半年ももたへんと宣告されたんや。』
『ちょっと、待て。そんな大事な事…。』
 乱馬の方が焦ってしまった。
 こいつは何を話し出したんだと、言わんばかりに狼狽し始めている。
『はっきりと宣告されたんや。』
『そんな話…。おめえ、まさか周囲に黙ってて…。』
『みさきの両親しか知らん。勿論、観月の爺さんもみさきも知らん…。』
 凍也はさらっと言った。
『みさきの親は一応、俺の育て親やしな…。それに、俺はまだ未成年やしな…。知らせん訳にはいかんやろ。』
 凍也は静かに言った。
『正直、面食ろうたわい。いきなり、入院して大手術して闘病生活に入れって、クソ真面目に宣告されてもな…。』
『で、みさきさんの親は?』
『好きにしたらええって言ってくれたわ。』
『そんな、投槍な…。』
『投槍で言ったんやない。恐らく、闘病生活に入ったとしても、助かる確率はゼロに近い、そう医者に宣告されとったんやろうな。
 それに、その時はもう、裏観月流の二人に、対決を迫られてたんでな。それを避けて通る訳にもいかんかったんや。
 俺が勝負を拒否すれば、一門のシキタリで、みさきは氷也と縁組させられてしまう。勿論、みさきの意志には関係なしにな…。逃げる訳にはいかんやろ?』
『そんな…。』
『究極の選択…そんな格好ええもんやあらへんが、俺も、手術したら、恐らく、格闘技には戻って来られへん。このまま、終わりたくないって思ったんやわ。』
 極力、凍也は明るく言おうと、虚勢を張っているように見えた。

『実際、病に蝕まれた身体は、もう…。身体に一度、メスを入れて、内臓をざっくりと取っ払ったら、格闘技はできん。格闘家として死んだも同然やんけ…。
 せやから、残された最後の力で俺は…観月流の花道を飾ってやる!
 そう決意するのに、時間はかからんかった。
 みさきの両親も、それが俺の出した結論なら、存分にやれって言ってくれたんや。』

『凍也…。おまえ…。』

『悔しいやんか。格闘家として何も遺せず逝くっていうんは。』
『みさきさんは…。』
『勿論、知らん。ま、同じ屋根の下に住んでるんや。いずれはバレるんやろうが、ギリギリまでは知らせたくない。そう思って、みさきの両親には口止めしてもろてる。俺の口から切り出すまでは、何も言わんとって欲しいってな。
 あいつを縛っている、観月流の掟、流派の掟を破り、解放してやること、それが俺が彼女にしてやれる、許婚としての最後の贈り物や。
 俺が勝たんと、あいつはこの先、自由に恋も恋愛もできへん。』
『凍也、おまえ、何でそこまで…。』
 乱馬が何かを言おうとしたのを、凍也は敢えて遮った。そして、言葉を続けた。

『なあ、乱馬。おまえなら、俺と同じ立場に置かされたら、どないする?医者の言うとおり、さっさと格闘辞めて、入院して内臓切って、一日でも多く生きられるように養生するか?それとも、格闘家の花道をパアッと咲いて散るか?』

『どっちや?』

 凛とした冬の冷たい空気が、二人の上を流れていく。
 悠久の時がそこで静止したように、町の明かりが二人を照らし出していた。

『俺も…多分、おめえと同じ…考えに落ち着くだろうな。』
 乱馬は、ゆっくりと、吐き出した。冷気に晒されて、吐き出した息は凍り付いていた。

『そういうことや。』
 ふっと力なく微笑んだ凍也。その、凍りつくまでに寂しい笑顔が、乱馬の心を突き刺してくる。
 死を覚悟した、若き格闘家の蒼い魂。

 凍也本人から訊かされた衝撃的事実。
 それは「進行性の悪性ガンの告知」。しかも相当進行し、手術し得たとしても、生存率は低いという。これから手術し闘病に入ったとして、再び格闘界へ舞い戻れる可能性はほぼ零。
 過酷な事実が、凍也を乗り越えて、乱馬にも、押し迫ってくる。



 リング上の凍也は、病を思わせる事も無く、精力的に動き回っている。恐らく、今日に照準を合わせて体調を整えていたのだろう。
 己の最後の花道を、勝利という栄冠で飾るために。
 勿論、対戦相手の観月氷也は、凍也の悲愴なまでの決意を知ることはない。

(試合が長くなれば、それだけ体力の消耗も激しい…。そうしたら、凍也に不利になる…。)
 乱馬は、拮抗する二人の力を見比べながら、ぎゅうっと拳を握り締めていた。

 当然、試合がそのまま永遠に続く筈はない。
 どこかで流れが変わり、そして、勝敗へと導かれていくだろう。

 その、途切れ目は、意外に早く来た。

 そろそろ、互いの肉弾戦に飽きてきたのだろう。
 氷也の方から仕掛けてきたのだ。

 ピタリと彼の動きが止まった。
 凍也も氷也の気の流れが変わったのを感じたらしく、間合いを取りながら、警戒に入る。

(氷也の奴、何か仕掛けやがるな!)
 乱馬にもありありとわかった。

 どんな技が氷也から繰り出されてくるのだろうか。
 乱馬も真剣な面持ちで、次の氷也の動きを待った。

「凍也…。そろそろ、勝敗を決しようやないか。」
 壇上の氷也は、対する凍也にそんな言葉をかけた。
「せやな…。いつまでも、ここに張り付いてるわけにもいかんもんな。」
 凍也も同調した。彼なりに、早く雌雄を決しなければ、体力的に厳しくなってくるのを感じ取っていたのだ。
 予想以上に動けているが、いつまで、このスタミナが持つか、爆弾を抱えている身体では不安が大きくなり始めていた。
「なら、我が裏観月流の気技、とくと、受けてみよ!」

 気技で来る!
 そう思った凍也は咄嗟に防御の体制を取った。

 それを見極めると、にっと氷也が笑った。嫌な笑いだった。そして、乱馬たちの居る方向を向いた。
「まさか、おまえっ!」
 凍也は焦り、思わず、態勢を乱した。
 「やああああああっ!」
 氷也は握っていた拳を、思い切り、乱馬たちの方向へと投げ出した。

「あいつ!」
 乱馬も咄嗟に気を溜め込んだ。
 氷也はどうやら、凍也に向けてではなく、気弾を、みさきが居る方向へと放ってみせる気だ。そう思ったのだ。
 彼の飛ばしてくる気弾を迎え撃つ態勢を整え、だっと、みさきとあかねの前に飛び出した。
 腕を十文字に組み、飛んで来る気を受け止め、必要に応じて空へと弾き飛ばすような体勢をとったのである。
 乱馬とて、気技のエキスパート格闘家だ。

 だが、すぐに氷也のとったのはフェイントだと気付く。
 乱馬の視点からは、氷也の気の切っ先が、こちらではなく、凍也の方へ向いているのがわかったからだ。

「凍也あああっ!避けろーっ!」
 咄嗟に叫んでいた。
 だが、大観衆の歓声に、乱馬の声は同化し、かき消されていく。

 対する、壇上の凍也は、すっかり、平常心を失ったようで、みさきを狙って構えた氷也のフェイント行為そものもに、冷静な判断を失っていたのだ。
 結果、氷也の気弾の前に、飛び出す形になった。

「引っかかりよったな!」
 氷也が叫んだ。

「しまった!」
 凍也の目が大きく見開かれていく。


 ドオオッと氷也の手から白い氷の気が打ち放たれた。
 凍也の身体を白い気が覆い被さっていく。

「凍也ああああっ!」
 乱馬の声が会場に大きく響き渡っていった。



つづく




一之瀬的戯言
 「カン」のよろしい方にはこの作品の主たるテーマがうっすらとわかっていらっしゃるかと思いますが…。
 そう、凍也の死…それがこの作品の一つのテーマになっていきます。特に第三部は乱馬が凍也の死と関わり、その中で、何を見出し、そして成長を遂げていくか。なかなか手が上手く進まない己の文章力に苛立ちすら覚え、途中で見事に手が止まってしまいました。一年間ほったらかしていたのであります。最近、伯母が鬼籍に入ったのが再びキーボードを叩くきっかけになっております。


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