◇天高く 第二部

第六話 あかね対みさき


一、

 次の日、武道大会が始まった。

 さえざえとした冬の朝。
 早めに起き上がり、共に、大会の準備に入る。道着とタオルは用意した。かすみお姉ちゃんから貰った「お守り」も、忘れずに鞄へと入れた。
 乱馬もあかねも、緊張した面持ちで食堂へ行くと、もう朝ご飯の準備はすっかり整っていた。
「あ、おはよう。いよいよやね。乱馬君もあかねちゃんも頑張るんよ。」
 と、女将さんがにこっと笑った。
 ここの内弟子たちも、かいがいしく、給仕に動き回っている。
 道場の朝は早い。ここの内弟子たちも、とうに朝稽古が終わっている者が居るようだ。凍也とみさきも先に起き出していて、二人とも既に、出かける準備が整っていた。
「よう眠れたか?」
 すれ違い様に、凍也が乱馬に声をかけた。心の動きを、はかっている様にも思えた。
「あ、ああ…。おかげさまでな。」
 と、乱馬は無表情で吐き出す。
「後で、内弟子たちと私も応援に行くさかいにね。四人とも、気張るんよ!初戦で敗退なんかしたら、承知せんで。」
 と、女将さんがはっぱをかける。
「あのなあ、お母ちゃん、初戦であかねちゃんと戦うかもしれんのやで。皆、初戦で負けるなって言ったって、そうなったら無理やんか。」
 みさきが屁理屈を返す。
「あははは、確かにそうやな。まあ、ええ。不幸にして対戦したら、どっちが勝つにしろ、後に悔いを残さんようにしっかりやりや。」
「他人事やと思て…。」

 女将さんに出かけに火打石をカチカチとやられた。縁起担ぎらしく、頑張ってやってこいという願いがこめられていた。宗主のみさきの父は、とっくに会場へ行っていた。世話役としての役目があるのだろう。
 天王寺の朝は早い。土曜日だというのに、人の往来も結構、多かった。新年まであと十日あまり。慌しい、年の瀬を感じさせる。
 昨日と同じように、四人揃って、道場を後にし、天王寺駅から環状線に乗り込み、会場へと向かった。


 会場界隈も、そろそろ人が集り始めていた。人気の格闘大会らしく、それぞれ、会場を今か今かと待ち構えているようだ。
 四人、揃って歩いていると、マスコミが一斉に群がってくる。さすがに、この前の東京の大会で、顔が売れ始めている証拠だ。テレビも何局か来ていて、早々にマイクを向けてくるリポーター。
「高校生男女ペアコンビ、それぞれ、仲良く会場に現れました。」
 などと、やっている。
 それを軽くかわしながら、会場へと入る。
「じゃ、後で、会場でな。」
 それぞれ用意された控え室へ向かう。
 乱馬とあかねも入口で分かれた。男と女とそれぞれ控え室の場所が違うのだ。着替えなければならないから、当然だろう。
「あかね、頑張れよ。」
 乱馬が先に声をかけてきた。
「ええ、乱馬もね。」
「おう!優勝してやらあ!」
 
 乱馬と分かれると、ふうっと溜息が漏れた。
 あかねなりに、何となく「乱馬の変調」に気付いていたのだ。
 今朝、起きた時から、乱馬がいつもと違うように感じられた。
 緊張しているせいかとも思ったが、それにしてはちょっと変だ…と、思い出しながら、小首を傾げた。

 あかねが目覚める前に、乱馬は既に起き上がっていた。
「あ、おはよう…。」
 いつものように、気軽に声をかけてみた。
「おはよう。」
 いつもなら、何か軽口を叩いてくる彼が、今日は変に大人しかった。何か考えあぐんでいるようなそんな雰囲気が伝わってくる。ちょっと恐そうな顔をしている。
「どうしたの?」
 気になったあかねが、思わず問いかけたが、
「試合前で緊張してんだよ…。おめえもそうじゃねえのか?」
 と切り返された。
「乱馬も人並みに緊張するのね。」
「人の事言う前に、自分も集中しろよな。俺たちは遊びに来たんじゃねえぞ!」
 と不機嫌に言い返された。
(何をそんなに角張ってるのよ…。)
 そう言い返そうとしたが、やめた。試合の朝に喧嘩を吹きかけるのも、具合が悪いと自重したのである。

 よもや、己の知らない裏側で、大変な観月家の御家事情の葛藤があって、それに乱馬が巻き込まれているなどとは、思いもよらなかった。勿論、あかねだけではなく、みさきもだった。
「乱馬君、やる気満々やなあ。」
 みさきが隣で笑った。女子同士、同じ控え室を使う。
「凍也君だってそうなんじゃないの?」
「あいつは、決勝戦までは乱馬君と当たらんって余裕かましとったわ。」
 と笑った。
「そうねえ…。乱馬と凍也君は別のグループだったものね。」
 発表されたばかりの対戦表を見上げながら、あかねが言った。
「あたしらは、準決勝でかち合いそうやからね。」
 とみさきが言った。そうだ。順調に初戦を勝てば、準決勝戦でみさきと対戦しなければならない。
「この前、対戦できなかった分、頑張るから覚悟しておいてね。みさきちゃん。」
「言うたなあ、あっはっは。」
 互いに緊張をほぐすためもあってか、饒舌になっていた。他の出場者は不気味なくらい静かだった。

 開会式が簡単に行われ、すぐさま、次の対戦へと移る。午前中は、男女それぞれの一回戦。合計八戦が執り行われる。
 第一回戦は一応、時間制限と判定付きの対戦となる。第二戦でもある準決勝からは「デスマッチ」だ。どちらか雌雄が決まるまで激しいバトルが繰り広げられる予定だ。
 そして、男女共に、決勝戦は明日。ということになっていた。
 観客も一回戦と準決勝戦で総入れ替えとなるらしい。だからなのだろう。昼休憩が長く、準決勝戦は四時からとなっている。ちゃっかりとした抜け目の無い主催者だと、あかねは思った。

 一回戦は楽勝だった。
 相手との力の差が歴然たるもの。
 判定を待つこともなく、数分でケリがついた。共に、ノックダウン勝ち。次のみさき戦も同じく、数分だった。
「みさきちゃんもさすがだわ。」
 みさきが決めた試合を見ながら、あかねが感嘆したくらいである。次の対戦者だ。思わず、武者震いする。この前は対戦することなく棄権させられた苦い記憶が巡ってくる。
 今度こそ対戦できる。そう思うと、嬉しかった。
 強い相手と闘うのは、武道家の本望だ。秋口までは、やる気がなかった乱馬が、凍也と出会ったことで、気合が入ったのも、理解できる。
 他の対戦者のレベルから見ても、みさきは格が上だ。これは事実上の決勝戦となる。少なくともあかねはそう思っていた。

 対する男子はどうだろう。
 男子の部の初戦で出た乱馬は、観衆を唸らせるくらい、一瞬で相手を倒していた。いつも一緒に居るあかねですら、彼の攻撃が速過ぎて見えなかったくらいだ。
 試合開始の合図と共に、相手はズシンと床に沈みこんでいた。
 一瞬の勝敗に、観客が波打つくらいに静かになった。
「ほんま、恐い奴っちゃな。あれじゃあ、相手が気の毒やで。」
 と、一緒に試合を見に、控え室から出ていたみさきがあかねに言ったくらいだ。
 それほどまでに、乱馬の攻撃は素早く、激しかった。余計な体力をここで使うものか…と言わんばかりの冴えである。
 次に壇上に上がった凍也も、同じく、一瞬でケリをつけた。これまた乱馬に負けず劣らずの飛ばし方である。
「凍也の奴も気合が入ってるなあ…。」
「そうね…。互いに一歩も譲る気はないみたいね。」
 あかねも頷いた。

 だが、その次の試合で、もっと戦慄することになる。

 瞬時で決めた乱馬と凍也とは違い、次の勝者は陰湿極まりなかった。
 乱馬や凍也のように一瞬で勝敗を決するならまだしも、まるで敗者をなぶるように、わざとゆっくり、試合を進行しているように見えた。格闘家の闘争心を逆手に取り、よろよろとよろめきならがも倒れない対戦者に、鉄槌の一撃ではなく、じわじわと追い詰めてやり口。ハアハアとなぶられる対戦者の息が、ここまで聞こえてくるような気がする。
「な、何やのん?あいつ…。」
「嫌な感じね…。」
 誰の目にも明らかな試合運びに、あかねもみさきも眉間にしわを寄せる。それほどまでに嫌な対戦だった。
 相手が何度も立ち上がるのを良いことに、結局、対戦時間ギリギリまでいたぶり続ける。そう、殆ど二十分間、よろめいては立ち上がる相手をもてあそんでいた。

「勝者!風月氷也!」
 そう言って審判が間に入った時、なぶられ続けていた相手がリングの上に沈んだ。
「担架だ!」
 壇上で叫ぶ世話係の後ろ側で、大観衆が囃したてる。
「良くやったぞ!負けた奴も!」
「いいぞー!」
 格闘家としては素人観衆の多くには、善戦したように見えたようだ。そう、やっとのことで、氷也が勝ち進んだようにでも見えたらしい。
 が、玄人のあかねやみさきには、相手がもてあそばれた末に倒されたことが良くわかった。勿論、乱馬にもだ。

「てめえ…。対戦者は最初の一撃で勝敗は決してたんじゃねえのか?それをわざわざ、いたぶるように攻めつけやがって。」
 氷也が立ち去り際、乱馬がそんな言葉を吐きつけた。相手の目は見ずに、通りがかりに投げつけたような形だ。
「ククク、一撃で倒してしまったら、お客さんだって楽しめないだろう?」
 氷也は表情一つ変えず乱馬の前に立ち止まると、問い掛けに応じた。
「だからって、あそこまでいたぶる必要があったのかよう。あれじゃあ、肋骨(あばら)の数本も折れてるだろう。…下手すると、再起不能になるんじゃねえのか?」
 搾り出すように、乱馬がさらに問いかける。
「弱い奴は格闘界には必要ない…。ここは弱肉強食の世界だよ。怪我が嫌なら最初から出てこなければ良いんだよ。ククク。それより、次の対戦、楽しみにしていたまえ。君が流派の長老、観月寒太郎氏に頼まれて、僕らの決闘の立会人を勤めてくれるんだろう?」
「ああ、正々堂々やれよ。」
「正々堂々ねえ…。心がけておくよ。早乙女乱馬さん。凍也を倒したら、次は君だからね。せいぜい楽しみにしておいてくれよ。ふっふっふ。」
 そう吐き捨てると、氷也は行ってしまった。

「格闘家の風上にも置けねえ嫌な野郎だ…。風月氷也…いや、観月氷也。」
 乱馬は周りに聴こえない程度の声で吐き捨てた。
 そう、氷也の次の対戦相手は「観月凍也」だ。表の裏の運命を賭けて闘う死闘になるだろう。ただでさえ、準決勝戦からは「デスマッチ」だ。
「凍也…。おまえ本当に、こんな腐った奴とみさきさん、いや観月流の未来を賭(と)して闘うつもりなのか?」
 乱馬はずっと視界の先に居る凍也を見詰めた。凍也は昼ご飯を誘いに、みさきやあかねたちの方へと話しかけているようだった。


二、

「もう、乱馬ったら。いい加減にしなさいよ。今朝からどうしちゃったのよ、ボーッとしちゃってさ。」
 あかねが箸を持つ手を止めて、乱馬をとがめた。
 長い昼休憩、控え室で若手四人で楽しく食事をしていた。配られた幕の内弁当だ。
 乱馬はさっきから何かを考え込むように俯いたまま、黙々と箸を動かしている。
「別に、俺、いつもと同じだぜ。」
 乱馬はムスッとしたまま、言い返す。
「その態度のどこが、いつもと同じなのよ、ったく。」
 あかねが溜息混じりに、乱馬を見返す。
「ええから、あかねちゃん。乱馬君かって試合に集中しとんのやろ?凍也がおかしいんや。凍也は緊張感の欠片もないんやから。これはこれで困るで!」
 みさきが横から声をかけてきた。
「アホ!俺は緊張感を吹き飛ばそうと努力しとるだけやんけっ!」
 凍也がおどけてみせる。
 そう、黙り込む乱馬に対して、凍也はヤケにハイテンションだった。さっきから冗談を言っては笑いを辺りに撒き散らしている。凍也の冗談に乱馬はクスリとも笑わない。対照的な二人だった。
 午後の準決勝の第一試合は、あかね対みさきの若手東西対決だ。そんな二人が仲よく昼食を共にしていること自体が有り得ない話なのかもしれないが、お互い高校生同士。遠征試合の延長のような「和気あいあいさ」を感じさせている。
 みさきとは大阪入り以来、前にも増して親しくなったし、お互い「道場付き跡取り娘として許婚を持つ」という似た環境もある。勿論、試合時は一変して本気となるだろう。それは、互いにわかっている。
「ウチ、この前の大会であかねちゃんと対戦できんかったんが、一番、心残りやってん。今回はお互いに万難を排してベストコンディションで戦えるんが嬉しいわ。」
 歯に衣着せない本音で、みさきはあかねに喋ってくる。
「あたしもよ。前回は怪我しちゃって、不戦敗の辛苦を舐めたもの。今度は思いっきりやれて嬉しいわ。」
 とあかねもやり返す。正直な気持ちだった。
「せやせや、どっちが勝っても負けても「友情」は変わらん。この先、良いライバルとして女性格闘界を背負って立つ二人なんやから…。なあ、乱馬。」
「え?あ…ああ。」
 急に凍也にふられて、乱馬がまごついた。
「またあっ!生返事してえ!あんたねえ。」
 あかねの鼻息が荒くなる。どういうつもりよと、言わんばかりに語気もきつくなった。
「カカカ、乱馬はあかねはんには頭の上がらん亭主になりそうやなあ。こいつは、めっちゃ、恐妻家になりそうやでえっ!あーおもろっ!」
 凍也がその様子を見ながら、げらげら笑った。が、乱馬は少しムッとした表情で「うるせー!」と軽く反論しただけだ。

 本当にどうしてしまったのか…。
 あかねには不思議でたまらなかった。いつもの彼とは違うのだ。ただの緊張ではない。何か、己に言えぬ心配事でもあるのかと、疑いたくなるほどだ。いくら考えても思い当たることがない。凍也との経緯を知らないあかねには、勘ぐっても何も考え付かなかった。

「そろそろ互いに準備に入らななあ…。凍也、食後の軽い運動、付きおーてや!」
 あかねと乱馬の雲行きを察したのか、みさきが席を外した。
「せやなあ…。俺も次の相手、結構強そうやし。」
 凍也も立ち上がる。二人揃って、あっちへ行ってしまった。

「ホント、凍也君たちに気を遣わせちゃって…。乱馬ったら、どうしたのよ。」
 あかねがふううっと深い溜息を吐いた。
「次の相手…。」
 そう言い掛けて乱馬は止めた。
「え?次の相手はみさきちゃんよ。」
「いや、おめえじゃなくって…。」
「乱馬の相手なら、青年部の優勝者じゃなかったっけ?」
「だから、俺じゃなくって…。凍也だが。」
「凍也君の相手?…ああ、あの変な奴ね。風月氷也とか言う。…それがどうしたの?」
「ちょっとな…。あいつの試合見てたら、気になってよ…。」
 と少しだけ吐き出す。
「まあねえ…。ああいう手合いはちょっとねえ…。」
 あかねもさっきの試合を見て感じることがあったのだろう。ふと考え込んだ口調になった。
「凍也君もやり辛いだろうなあ…。ああいう、ネチネチしたタイプだと…。」
「やり辛いだけで過ごせたら良いけどな…。」
 乱馬の表情が一気に暗くなる。
「乱馬?」
「あ、いや、それは俺じゃなくて凍也が気にすれば良いことか。」
「そうよ。凍也君が次に闘うんだから。ま、凍也君が勝っちゃうんだろうけど。」
「だな…。それよか、おまえ、次の対戦相手はみさきさんだろ?」
「そうよ。みさきちゃんよ。」
「余裕かましてて、良いのか?どう攻めていくか、考えてあんだろうな?」
「ん…。特に何も考えてないわ。今更、どう足掻いたって、無駄な相手だってことは良くわかってるし…。」
 あかねは、ぼそっと言った。
「あん?そんじゃあ、敵わねえって認めたことかよ?」
「あのねえ…。そういう意味じゃないわよ。いろいろ頭の中でシミュレーションして作戦を考えても無駄ってことよ。下手な小手先が通用する相手じゃないわ。」
 あかねが生真面目に答えた。大阪入りして最初に対戦した時の感触で、みさきの実力は周知済みだということだ。
「当たって砕けろ…か。ったく、おめえらしいや。」
 乱馬がにっと笑った。
「じゃあ、ついでだ。俺なりにみさきさんを分析したことを教えといてやろうか?」
 彼の瞳が格闘家のそれに変化する。あかねはハッとして、その瞳に見入った。
「教えるって、何を?」
「おめえが多分、読み解いてねえことだよ。」
「乱馬があたしに作戦を与えてくれるっていうの?」
 あかねの大きな瞳が見開かれた。乱馬にアドバイスを貰うなど、考えた事もなかったからだ。
「そんな大袈裟なもんじゃねえよ。でも…。多分、今頃、みさきさんだって、凍也に同じようにおめえの弱点を教唆してもらってるだろうしな。」
 窓の外に視線を移す。その先に、軽くウオーミングアップする凍也とみさきの姿が目に映った。
「あたしの弱点…。」
 あかねは呟き返した。
「ああ。猪突猛進。それがおまえの強みであり、弱点でもある。凍也くれえ腕があったら、この前、着いた早々組んだ時に、みさきさんが気付かないことをいくつか汲み取ってる筈だぜ。試合するに当たって、諸注意として、みさきさんにおめえの攻め方のポイントを教えてんじゃねえのか?」
「そうかしら…。」
「ああ、俺にはわかるね。あいつだって、みさきさんがかわいいだろうから、おめえに勝たせたいって思ってるだろうしな。」
「…ってことは、乱馬もあたしに勝たせたいと思ってるの?」
 乱馬がにやりと笑った。
「そりゃあ、そうさ。おめえだって、みさきさんに勝ちたいと思ってるんだろう?」
「ええ。勿論。」
「だったら、素直に俺の言う事を聴いておいても、損じゃねえと思うけどな…。」
 と、もっともらしいことを言う。

「そうね…。ここは大人しく、あんたの言うことを聞いておこうかな…。」
「そうそう、そういう謙虚な素直な気持ちが、格闘家には大事だぜ。」
 と屈託無く笑った。
 いつもの乱馬に戻ったと、あかねは安堵を浮かべる。さっきまでの「変な緊張感」は彼から消え失せていた。少なくとも、そう感じていた。



三、

「本日の準決勝戦を始めます。東側青コーナー、天道あかね、西側赤コーナー観月みさき。それぞれ前へ!」
 高らかに場内アナウンスが響き渡り、それぞれ、東西からあかねとみさきが現れた。
 割れんばかりの拍手と喝采。それらに出迎えられて、ドーム中央に設えれられた試合場へと立つ。否が応でもテンションは上がっていく。

「あかねちゃん、勝負や!」
「ええ、負けないわよ!」

 それぞれ対峙しながら真剣に相手を見据えた。
 共に、格闘家の燃える闘魂を秘め、今まさに始まろうとしている「闘い」に臨む。
 乱馬と凍也は互いの許婚の試合を見定めようと、控え室から出て、ボックス席に立っていた。選手用に設えられた特別席だ。
 既に一回戦で負けた選手と関係者が入って真剣に勝敗の行方を眺めている。負けた悔しさよりも、これから行われる勝負への感心の高さが窺い知れる。
 乱馬と凍也は、それぞれ、この後、試合が待っていたが、今は彼女たちの本気に立ち会うことを優先にと考えていたようだ。
 この試合の行方が定まらなければ、己の試合にも集中できない。共に、そう考えていたようだ。別に示し合わせたわけではないが、自然、同じ場所に並んで陣取っていた。
「やっぱ、許婚の試合は気になるか?」
 凍也が正面を向いたまま、乱馬に話し掛けた。
「おめえだって、同じじゃねえか。この前、この二人はやり損ねてるしな…。」
「せやな。みさきも、あかねはんとやりあうん、ごっつう楽しみにしとったさかいにな。」
「ま、この試合が女子部の事実上の「決勝戦」となるな。」
 乱馬は凍也をちらっと見た。
「ああ、せやな。この二人以外の女子(おなご)は、あんまりたいしたことのない奴ばっかりやもんな。」
「おめえ、案外、細かく女子選手も観察してるじゃねえか…。」
 乱馬はにやっと笑った。
「人を助平みたいな物言いすな!おまえかてわかっとるやろ?あの二人だけ、放つ気が格段と大きいやんけ。」
 
 そうなのだ。
 リングの上に立つ、あかねとみさきの気は、他の女子選手と比べ、群を抜いている。それは、この二人が、並みの選手ではないことを物語っていた。

 うおおおっと会場が唸った。

 あかねとみさきの試合の幕が切って落とされたのだ。

 電光石火、二人の少女の影が、走り出す。
 互いに牽制しながら、攻撃の隙を伺う。
「でやああーっ!」
 先に仕掛けたのは、あかね。ぐっと右足を蹴ると、拳を握ったまま、みさき目掛けて打ち下ろす。
「あかんっ!」
 みさきはあかねの拳をすんでで避けて、後ろに飛んだ。鮮やかな身のこなしだ。ビュンと物凄い音が鳴って、あかねの拳が空振りした。

「ひょえーっ!結構、威力があるやんか。あかねはん。あんなのに当たったら、俺でも無事やないで。」
 凍也が感心して見せた。
「まあな、あいつの馬鹿力は、俺も一目置いてっからな。でも、危ないって見切ったみさきさんも凄いぜ。」
 乱馬が感心しながら言い放つ。

 前半は互いに様子見だった。
 あかねの剛拳までは届かぬまでも、みさきの拳もなかなか強烈なものがあった。あかねも何度か、彼女の拳をすんでで避けた。
「やるやない、あかねちゃん。」
「みさきちゃんもね。」
 互いに、にっと笑いあう。
 これほどまでに、高揚した試合をしたのは、正直初めてだった。
 関東の学生選手権では、あかねが群を抜いていたし、ここまで拮抗した闘いを経験した事など無きに等しい。乱馬と組み手をするにしても、どこか己を女と見下した部分があって、当然本気で相手してもらえない。
 同世代の拮抗した力と力のぶつかり合い。あかね自身、それをできる相手を待ち望んでいた。いや、あかねだけではなく、みさきもそれを望んでいたようだ。
 互いに一歩も譲らない拮抗した緊張感の中に、同じレベルで闘える歓喜にも似た気持ちが、二人をだんだん、高揚の渦へと巻き込んでいく。壇上の二人以上に、それを見守る観客も、つられて興奮し始める。
 力強いだけではなく、美しい「格闘技の花」たちが、そこに居る。魅了されない筈が無い。
 あかねやみさきから、一挙手、一投足が繰り出されるたびに、場内は大歓声が沸き起こった。その大歓声を背後に受けながら、じっと、青年たちは互いの「凛々しい許婚たち」を見つめていた。

「ほんま、嬉しいわ。こんなに興奮したんは初めてや。でも、そろそろ、勝敗つけんとあかん。」
 互いの動きに一区切りがついたところで、みさきがあかねに向かって吐き出した。
「そうね…。いつまでも対戦していたいけど…。」
 あかねも同調する。
 ここらでみさきは、「必殺技」とも呼べそうな「大技」を出してくる。そう思った。
 どちらかというと受身で流してきたのを一転、攻めの態勢に入るつもりだ。あかねはそう直感した。


『中盤以降、みさきさんは何か仕掛けてくるぜ。何かは良くわかんねえが、おめえを驚かせるような技を仕掛けてくる筈だ。』
 乱馬の声が脳裏に鳴り響く。
 乱馬は試合前、淡々とあかねに試合の流れについて助言してくれていた。

(そうね。みさきさん、ここで仕掛けてくるわよね。)
 ぐっと身体に力が入った。


「あかねちゃん、あんたやったら、この技を食らわせても、大丈夫やろうから…。本気で行くで!」
 みさきの目が大きく見開かれる。
 気の流れが一瞬にして変わった。乱馬のように気技を自由にまだ使いこなせないあかねでも、そのくらいはわかる。

(気技で来る!)
 あかねがまだ、存分に扱えない気を、みさきはある程度扱える様子だ。身の毛が弥立つほどの、緊張感があかねの身体をすり抜ける。
 どんな気技を彼女は打ち込んでくるというのだろうか。果たして、己はそれをかわすことができるのだろうか。

『もし、みさきさんに気技をかけられたら、気を抜くなよ!良牙の打つ「獅子咆哮弾」のような気抜けでかわす技の方が、珍しいんだ。気の技は気後れしたらそこで終わりだ。気技は強気で対処するんだぜ。』
 乱馬の声が脳内いっぱいに囁き始める。
 ついさっき、試合直前に貰った乱馬のアドバイスが蘇る。
『みさきさんが気技を使うと知っても、衝撃を受けるなよ。おめえがまだ、気技を会得してねえのはわかるが、だからといって、気技の餌食にされるって決まったわけじゃあねえぞ。』
 そう語りだした乱馬。
『俺の見たところ、まだ、みさきさんだって、気技を使い始めてそう、時間は経っていねえ。』
『何で、そんなことがわかるのよ?』
『俺くらいの域に達すると、相手の強さの尺度くらい、ぱっと組手を見ただけで、だいたいわからあ。俺の千里眼から見たら、みさきさん、気を会得していたとしても、まだ日が浅いぜ。
 多分、東京から帰ってから必死で特訓した…そんくらいだ。』
『どうしてわかるのよ…。』
『気の流れだよ。まだまだコントロールが上手く出来てねえ。おめえほどじゃないにしろ、気を垂れ流してる感じだったもんな…。この前、大阪入りした日におめえと組んでたのを見た感じじゃな。』
『気の垂れ流し?』
『ああ、おめえみたいに、まだ気技へ手を出してねえ奴は、己の気を抑える術を知らねえからな。気を扱える人間から見たら、気の無駄遣い、垂れ流ししてるように見えるんだよ。
 凍也とか良牙とか、それなり気技を使える奴の気はコントロールされてるから、反対に、気の程度が知りにくいんだ。
 凍也の奴、きっと、つい最近、みさきさんに気技の初歩を伝授したんだろうさ。多分、おめえとやりあうことを見越して、先手の技を授けたつもりだろうけどな…。』
『気技…。』
 自分がまだ未到達な分野であるだけに、みさきが既に気技を会得しているという事実を、試合直前に乱馬に告げられ、意気消沈しかけた。
『おっと…。そこでへたれちゃあ、天道あかねが廃るぜ!』
 乱馬は、にっと笑った。
『みさきさんの気技はまだ会得したばかりだ。強い気を打てても、所詮、まだほんの駆け出しだ。』
『中途半端な気技だとでも言うの?』
『まさか…。いくら習得して間がないとはいえ、与えたのは凍也だぜ。』
『そうよね。中途半端な攻撃技だったら、仕掛けてもこないわよね。』
『ああ、ある程度の破壊力を持って、それなりに完成度が高い技だろうな…。だが、だからといって、おまえにまんざら勝機がねえわけじゃねえ。』
『勝機?』
『ああ。実力に裏打ちされた強固な意志の力だよ。おめーにはそれがある。いわゆる、ど根性ってやつだ。』
 格闘家の乱馬の瞳。それはぐんぐんとあかねを引き入れる。
『諦めちゃ、そこで終わりって訳だ。おまえが勝負を投げ出さない限り、勝機が潰えたわけじゃねえ。それに…。俺だって、みさきさんの気技を見込んで、おめえの相手を東風先生に頼んだんだぜ。』

 そうだ。
 乱馬が相手をしてくれなかった分、大阪行きが決まって以降、ずっと、東風の元で修行してきた。東風は診療の合間の時間を使って、マンツーマンで格闘技の技を磨いてくれたのだ。痛めた左足を診ながら、基礎からみっちりと鍛えなおしてくれたのだ。


『気技をかわすには、相手を良く見極める事。これは武芸一般、どんな技にも通用するんだけれど、目を閉じた時点で負けだ。目を閉じると言う事は、己の道をそこで閉ざしてしまうということだからね。』
 今度は、東風の諭すような声が、あかねの脳内で響く。

『おめえ、東風先生に、防御について、いろいろ指導を受けてるはずだぜ。』
 乱馬が笑った。


 防御。


 あかねは、その言葉の意味を思い出した。

(そうよ!あたしだって苦しい修行をやり抜いてきたのよ!
 みさきちゃん、あなたの攻撃を見事に防御し抜くわ!)


 あかねの瞳がギラギラと輝き始めた。

「行くでっ!あかねちゃんっ!」

「望むところよっ!」

 二人の少女の影が、同時に動いた。
 と同時に、大観衆の声が、大きくどよめく。

 ドーム内は、二人の少女の激しい応酬に、激しく唸り始めていた。



つづく




一之瀬的戯言
 ぎょえええ!また、良いところで切っちゃって…このオバサンは!
 よろしんでございます。
 で、この項を書いた後、再び、大阪ドームへ出向いてまいりました。格闘技ではなく、某ジャニーズ系アイドルのコンサートでありますが…。
 どこまで臨場感を出せるか?

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