◇天高く 第二部

第四話 大阪にて

一、

「よう眠れたか?」
 次の日の朝、眠たい目を擦りながら食堂に行くと、先に食卓に着いていた凍也から声をかけられた。台所の中央にある丸い壁時計はまだ七時過ぎだ。
「あ、ああ…まあな。おかげで良く寝られたぜ。」
 皮肉とも取れない返答を乱馬は凍也に返していた。

 実のところ、乱馬が熟睡できたか否かは、あかねには不明であった。互いに一つ蒲団で寝たのは、今回が初めてであった。天道家にて家族の陰謀で寝室を共にしたことはあったが、蒲団は別であった。
 あかねは長旅の疲れが出たようで、ぐっすりと眠れた。寝入ってそのまま、気がつけば窓の外が白み、朝になっていたのだ。
 あかねが目を覚ますと、乱馬は先に起き上がっていた。彼が蒲団から出る気配で、あかねは目覚めたのである。
 彼が着ているパジャマが目に入った。己と同じ生地のパジャマ。お揃いということを、ここで改めて意識する。
「あ、おはよう…。」
 あかねから先に声をかけた。
 起き抜けに変な緊張感が、二人の上に圧し掛かってきた。
「俺、トイレに行って来るからよ…。」
 わざわざ断って部屋を出た乱馬。
「あ、うん…。」
 とその背中を見送る。
 恐らく、席を外す間に着替えておけ、とそう付け加えたかったに違いない。あかねは大慌てで鞄を開くと、おそろいのパジャマから洋服に着替えた。普段着風のスカートとタートルネックの白いセーターだ。
 あかねが身繕いをした頃を見計らって、乱馬が部屋に戻って着た。今度はあかねが席を外す番だった。
 彼は今回、チャイナ服は持って来て居ない。すべて、母親ののどかが見立てた、普通の服ばかりだ。だから、余計に、いつもの乱馬とは違うように見えたのかもしれない。
 白いセーターだけがペアだった。

「ほお…。やっぱりペアルックか。」
 と凍也が容赦なく突っ込んできた。
「な、何だよっ!」
 乱馬が不機嫌そうに答えた。
「おまいら、ホンマに、純情カップルなんやなあ…。近頃、珍しすぎやで、それ。」
「だからあ、俺とあかねは…。ええいっ!もういい!」
 完全に己のペースを乱されていた。凍也とみさきの前では、否定すれば否定するほど、深みにはまっていく。そんな気がした。
 ここには、穿った瞳を投げかける「天道家の面々」や「お邪魔虫たち」は居ない。その開放感が、或いは乱馬を少し変えたのかもしれない。
 観月流の道場の人々は、関東から来た純情カップルに好意的だった。目に見えないところで気を遣ってくれているのがわかった。
「今日はどこを案内して差上げるん?」
 朝食の世話をしながら、みさきの母が尋ねる。
「とりあえず、明日の会場を見せて、それからミナミの町でもうろついてくるわ。やっぱ、大阪言うたら頓掘(とんぼり)界隈やろ?」
「そやね…。あの辺やったら、若い子も面白いやろし。」
「こてこての大阪見せてきたるわ。」
 とみさきが楽しそうに笑った。

 まずは会場の下見。
 京セラドームだ。JR環状線に乗って、大正へ。賑やかな繁華街とはちょっと違った趣きがある立地場所だ。
「昔は、なあんもあらへんかったからなあ…。」
 と凍也が説明してくれた。
「そやなあ…。大阪は大阪湾埋め立てて結構広うなったしなあ…。この辺りも昔は海やったんやで。」
「昔っていつ頃?」
「太閤さんの頃はこの辺り、姫島呼ばれた島やった筈や。」
「島…。」
 凍也のその言葉に、尋ねたあかねは思わず、うっと唸る。
「そやで。昔は天王寺の西門辺り、うちの道場らへんまで海が迫ってたそうやから。」
 とみさきが笑った。
「え…?ここに来るまで、結構、電車、距離乗ったじゃねえか。」
 と乱馬も驚き顔で問い返す。
「お大師さんの時代、平安時代は、天王寺の西門の石鳥居は極楽浄土に通じるなんて信仰があったほどなんや。「夕陽丘」という地名もそれにちなんだもんやって聴かされてるわ。
 末世に入り、極楽浄土への憧れが熱かった平安末期から鎌倉時代にかけて、天王寺西門から、極楽浄土を目指して、僧侶が小さな舟で出航したなんて、記録も残されてるそうや。」
 とみさきが話してくれた。
「そういえば、みさきのおかんやおとんが子供の頃は、日本で一番面積が小さい都道府県は「大阪府」やったらしいけど、今は埋立地が広がって「香川県」に次いで二番目ってことになっとるらしいわ。」
 凍也がウンチクをまた披露してくれる。
「へええ…。海岸線埋め立て事業恐るべしってやつだな。」
 確かに、そう言われて立つと、この辺りの土地は低い感じがした。大阪そのものが平らな町であるが、それ以上に、地に近いとでもいうのだろうか。
「当然、ドームも昔は海の上やったっちゅうわけや。」
 ドームを目指して歩きながら、凍也が言った。
「じゃあ、海だったら、泳げねえカナヅチ人間は溺れてるよな?」
 乱馬がチラッとあかねを見て笑った。
「うっさいわねえ!泳げないカナヅチ人間で悪かったわねえっ!」

 京セラドーム。元の名は大阪ドーム。
 今は無き、プロ野球猛牛球団がホームベースとして使っていた大阪市の公営施設だった。が、それが破綻して身売りされ、今は京セラという会社が面倒を見ている巨大空間だ。何となく町の風景が冬の冷たい風にさらされ、色褪せて見えた。
 凍也たちによれば、野球以外でも、大きなコンサートや企業イベントなどが開かれることがあるらしいが、それでも、人の波は減っているのだろう。
 明日から二日間にわたって開催される格闘大会へ向けて準備が進められているようだが、人影は少ない。大きな施設だけに、かえって閑散としていた。
「ここが明日の会場や。」
 ドームの大きな天井を見上げながら、凍也が呟くように言った。
 国内大会とはいえ、それでも名だる選手が集ってくる。明日はきっと、活気が戻ってくるだろう。

 と、その時だった。
 冷たい凍りつくような視線を、背後に感じた。
 微かだが、殺気をも含んでいる。
 乱馬だけではなく、凍也もそいつを感じ取ったらしい。

「だ、誰だ?」
 二人して、視線が手向けられてくる方向を見やった。
 ゲートへ続く階段の下辺りから、刺すような瞳が複数、こちらに向けられている。

「どうしたん?」
「何?」
 あかねとみさきは、その「殺気」を感じ取る事が出来ず、きょとんと、互いの婚約者たちを見上げて立ち止まった。

「あいつは…。」
 凍也は心当たりがあるのか、一瞬厳しい表情になった。が、すぐにもとの穏やかな表情に戻した。
「知り合いか?」
 乱馬が横で尋ねた。
「ちょっとな…。多分、俺に用があると思うねん。なあ、悪いけどおまえら、そこの喫茶店で茶でもしばいとけ。」
 とみさきに促した。
「時間かかりそうなん?なあ、誰なんよ。」
 みさきは気になったらしく、凍也に問いかける。
「古い知り合いや。何、心配は要らん。」
「俺も行く。明日の大会に出場する奴だったら、無関係でもねえもんな。」
 一瞬手向けた険しい表情が気になった乱馬は、凍也に同意を促す。
「そやな…。おまえら女子はあいつと当たることもないやろし…。おごったるから、パフェでも食うとけ。」
 と、疑問顔のみさきを促した。
「わかった。おごってくれるんやったらかまへんで。あかねちゃん、行こう。」
 とみさきは、あかねの袖を引っ張った。凍也の性格を知り尽くした彼女は、あまりしつこく言うのもと、引いたのである。男同士でしかわからない格闘界のシガラミもある。そう、咄嗟に悟ったのである。
「う、うん…。そうね。小腹もすいてきたし…。ここはお言葉に甘えて、おごってもらっちゃおうかなあ。」
「ああ、そうしろ。俺たちも後から行く。」
 乱馬もあかねを促した。
 あかねも戸惑ったが、乱馬が凍也と一緒に残るというのなら、騒動には至らないだろう。そう考えた。

 みさきたちが喫茶店に入っていくのを確認すると、凍也は先に立って、階段を下り始めた。下から谷間風が冷たく吹き上げてくる。
 挑戦的な視線を、凍也に送っていた人影は、じっと、そこで待ち構えているようだった。乱馬も凍也の少し後から、階段を下りた。

 下で待ち受けていたのは、老人と若者だった。老人の方は年の頃七十前後といったところか。鍛えこんであるらしく、がっちりした体格をしていた。頭髪は伸ばし放題の白髪交じりの髪をだらりと風なびかせていて、自由人、いや、無頼人というような感じであった。
 服装も茶色の作務衣と薄着だ。
 若者の方は、乱馬と凍也たちと同世代。いや、少し年上の青年かもしれない。こちらも武道を志すようで、眼光は鋭い。乱馬と凍也を、じっと見詰める視線は、心なしか冷たく荒んだ感じがした。
 ぱっと見た感じ、爺さんと孫のような印象も受ける。

「ほう…。これはこれは、格闘界のプリンスが、自らお揃いでお出ましとは…。」
 老人は、にたりと笑いながら、からかい口調で、声をかけてきた。関西イントネーションの標準語口調だ。

「やっぱり、あんたらか。」
 凍也は老人と知り合いだったらしく、開口一番、きつい口調で切り出した。
「そちらのお方は…。早乙女乱馬さん、ですな?」
 と老人は乱馬を舐めるように見た。その言葉に反応したのか、ピクンと若者の肩が動いた。どうやら、乱馬の名前も知っているらしい。
「ああ、そうだ。早乙女乱馬だ。」
 乱馬は堂々と名乗りを上げた。
「へええ…。関西格闘界の第一人者、観月凍也と早乙女乱馬が仲良しさんだったとは、知らなかったなあ…。」
 ふふふと老人は笑った。目元は決して笑ってはいない。
「この前の関東の試合、ビデオ観戦させていただきました。いやあ、決め技など、なかなかのもんでしたなあ。二人とも、気技の使い手で。」
 と、口に一物を含んだような言い方を投げかけてくる。
「何が言いたい?おまえら、さっきから、ずっと俺らを付け回しくさって。何の用や?言いたい事があったら、バシッと言ったらんかい!」
 凍也はきつい言葉を投げ返した。いらちの関西人らしく、遠まわしに物を言われるのは、癪に障るらしい。放っておいたら、ここで喧嘩をおっぱじめてしまうのではないかというくらいの危うさが滲み出ている。乱馬がこの場へ同行したのは、緩和剤となるためだった。相手が何者かわからない彼は、少なくとも冷静になれる。
 乱馬はグッと足を踏みとどめ、苛つき始めた凍也をこれ以上前に出さないように、牽制をかけた。

「いやあ、特別な用があって呼び止めた訳ではあらしまへん。たまたま、会場の下見に来ていたら、あんさんらを見かけただけでっさかい。
 せっかくやから、ご挨拶でもと思いましてなあ。ほら、氷也、ご挨拶しなさい。」
 と横の青年を促した。青年は、無表情のまま頭を垂れた。
「へえ…。こいつが、あんたが言ってた観月氷也か。」
 
(観月ひょうや?)
 乱馬はハッとして瞳を青年と凍也に手向けた。「観月」ということは、凍也と同じ姓だ。ということは、親戚か何かということになろう。

「ああ、そうや。今回のエントリーは「観月」ではなく、気ぃつこて「風月氷也」というサイドネームでの出場としてあげてますけどな。」
 男はにっと笑った。
「へえ…。頭の一文字を変えただけか…。まあ、それはええ。執念深い、あんたのことや、約束の再確認でもしに来たんやろ?ちゃうか?」
 また、凍也から「意味深な言葉」が漏れた。
「ふっふっふ。よもや、約束事を違えるなどというようなことは…。」
 老人がにっと笑った。
「ワシかて武道家の端くれや!約束は守ったるわい!いずれにしても、観月流を継ぐためには、あんたらを倒さんとあかんことは百も承知や。」
 と凍也は返答をした。
「良い覚悟ですなあ。その首、洗って待ってなはれ。明日が楽しみやなあ。「表」が「裏」に倒される記念の日や、はっはっは。さて、挨拶はこのくらいにして…帰るで、氷也。」
 老人は若者を振り返った。
「はい。」
 若者は初めて重い口を開いた。思ったよりも高い声だった。感情のない人形のような瞳、そして声。何か空寒い得体の知れぬものを、乱馬は鋭く感じ取った。
「では、明日、試合場にて…。」
 そう合図すると、二人は、すっとその場から消えた。音もなくだ。
 正確には消えるような速さでその場から立ち退いたのであるが、その身軽さから、共に、脚力が尋常ではないことがわかる。

「ちぇっ!派手なパフォーマンスをしやがって。」
 ちゃんと見定めていた凍也は、気配が立ち去る方向をじっと眺めていた。

「おい…。凍也。」
 乱馬は凍也に声をかけた。厳しい顔でだ。
「乱馬、おまえが俺に何を問い質したいのかは、だいたいわかる。あの連中のことやろう?」
「ああ、観月氷也と名乗っていた。」
 凍也の表情が一段と険しくなった。
「あいつは、裏観月流の使い手やねん。」
「裏観月流?」
「ああ。観月流は裏と表、二流派があるんや。これは今の当主のおじいとみさきの両親、それから俺、この四人しか知らんことなんやけど。
 ちょっと複雑な話になるから、後でゆっくり話すわ。今はとりあえず、みさきたちのところへ、早(はよ)、戻ったらんと…。」
「みさきさんには聴かせたくない話…ってことか。」
 コクンと揺れる凍也。
「わかった…。明日の大会が始まるまでに、ちゃんと話せよ。」
「ああ。心配すな。ちゃんと説明したるわ。」
 凍也はコクンと頷くと、二人の許婚たちが待っている喫茶店へと向かった。


二、

 あかねとみさきには、凍也の旧知の格闘友達が声をかけてきたということで、誤魔化した。乱馬と凍也に挑戦状をたたきつけてきたと、大袈裟に凍也は語って見せる。凍也は格闘家にとってはありがちな話として、吹聴してみせた。
「ほんま、しつこい奴っちゃで。修行先で俺と何度かやりあったことがあってんけどな、何度やっても俺の勝ちやったんやけど、それを認めようとせんとな。
 で、今回、絶対、俺に勝ったるって、ガン飛ばして来よったんや。」
「じゃあ、乱馬はんは?何で知ってたん?」
「そら、俺にライバル意識燃やしとるような奴やで?俺がこの前の大会で乱馬に負けたことくらい、知っててもおかしないやろうが。」
「あいつ、俺にも闘志むき出しで突付いて来たよなあ…。」
 乱馬も調子を合わせて、凍也の作り話に付き合った。
「でも、相当の使い手のように見えたで。」
「そらそうやろな…。相当修行はしたようやからな…。強い奴が目の前にどんどん出てくるんは、格闘家にとっては至福の事や。なあ、乱馬。」
「お、おう…。」
「互いに高い格闘の高みに上るだけや。ってことで、会場の下見はこんくらいにして、ミナミへ行こうや。」
 と凍也は話題をきれいに摩り替えた。
「じゃあ、ここはあんたのおごりな。」
 にっとみさきが笑った。
「しゃあないな…。払っといたる。」
 凍也は渋々、伝票を受け取るとレジへと行った。

 その後、四人は市営地下鉄鶴見緑地線に乗って、心斎橋方面へ出た。
 心斎橋は難波から少し北へ上がった大阪ミナミの繁華街である。大丸百貨店を中心に、心斎橋筋が難波へ向かって延びる。
「大阪の繁華街ってアーケード街なんだ。」
 狭い路地に溢れる人並みを避けながら、あかねが感嘆の声を上げた。
「昔からこの辺りはアーケードで雨露凌げたみたいやけどな。」
 みさきが隣で笑った。
 表通りは御堂筋。ショッピングを楽しむ人は表ではなく、表通りから一本入った心斎橋筋へ集ってくるようだ。進行方向からも人が溢れて来る。平日の日中にも関わらずだ。
 この心斎橋筋を南下すれば難波に至る。その途中に「道頓堀川」が流れ「戎橋」がかかっている。
「わああ、ここ、テレビやなんかで良く見るわ。ほらほら、グリコの万歳看板がある。」
 思わず、あかねが指差した。阪神タイガースが優勝した時、ファンが大挙として飛び込んで話題になった風景だ。そこここでカメラを構えている人が立ち止まっている。
「この橋の上はナンパしてくる奴が多いねん。だから「ひっかけ橋」やなんて呼ばれてるんやで。」
 などと、みさきが言ってる先から、声をかけられた。
「姉ちゃん、かわいいなあ。茶、しばかへんか?」
 と不埒そうな兄ちゃんたちが数人、二人を取り囲むように立ちはだかった。乱馬と凍也は話し込みながら、とっとと先を歩いて行ったようで、見当たらない。
「ええわ。男やったら間に合ってるし。」
 と、にべもなくみさきは断る。
「そんな、つれない事言わんと、茶、飲もうや。おごったるで。」
「ええってば。うちら、暇こいてへんねん。」
「ええやん、行こうや。」
 でも、飢えた男どもはしつこく絡んで来る。みさきとあかねの腕を引こうとしたときだった。
「おい、おまえら、ワシらの連れと知ってて声かけとるんか?」
 と、すぐそばで声がした。凍也と乱馬だった。
「ちぇっ!野郎付きか、紛らわしい!」
 と吐き捨てるように言って、男たちはどこかへ行ってしまった。
「ほんまに、ちょっと目離したらこれや。ひっかけ橋の上は注意して歩かんかい!」
 凍也がふううっと溜息を吐く。
「あのなあ…。レディー二人ほったらかして、先にどんどん歩いて行く紳士がどこに居るんや、アホ!」
 とみさきが食って掛かる。
「そうよ、乱馬と凍也君が先に歩いて行くから、絡まれたんじゃないの。」
 とあかねも笑いながらとがめた。
「己らがしっかりとついてこんからやんけ!」
「だから、この人ごみの中で、さっさか歩くなっちゅうてんやろが!もっと気ぃ遣ってえや。ほんま、かなんで。」
「たく、面倒臭いなあ。ほれ。」
 そう言いながら、凍也はみさきの手を繋いだ。
「そや、最初っからそうしたらええねん。」
 と、みさきがにっこりと微笑んだ。
 唐突に繋がれた、凍也とみさきの手。目の当たりにして、あかねが戸惑ったほどだ。
「ほら、あんたらも、繋ぎいや。」
 ポンポンと声が飛んで来る。
「な…。俺は…その。」
「え?あたしたちは…。」
「ほんま、恥ずかしがりというか、奥手やなあ。相変わらず。ほら。」
「ちゃんと繋いどいたらんと、またナンパに狙われるで。あかねちゃんは可愛いんやし…。」
 戸惑う二人に、開いた手でバンバンと背中を叩いて促した。
 乱馬がすっとあかねに手を差し伸べて来た。
「わかったよ、繋げば良いんだろ?ほら、行くぜ、あかね。」
 見るからに、恥ずかしそうだ。それが証拠に、乱馬の顔は真っ赤に熟れあがっている。
 彼が人前で手を繋ぐなどという行動を取るのは、滅多にない。が、その不器用な彼が差し出した手が、あかねには嬉しく感じた。重ねた手は大きく暖かかった。あかねの手が繋がれるのを意識すると、きゅっと握ってきた。いや、握られたと感じたのは、カチコチに乱馬が固まったせいだったかもしれない。途端、彼の足並みが、カクンカクンと角ばり始めたようにも思う。
 思わず、くすっと笑いが零れ落ちた。
「な、何だよ…。」
 それが気になったらしく、乱馬がぼそっと問いかけてきた。
「別に、何でもないわ。」
 あかねが楽しそうに笑った。
「ほら、あそこ。見て!カニの看板が動いてる。」
 橋を渡った袂にあるカニ道楽の看板を、あかねが指差した。
「うわ、でっけえ!あんなカニが居たら、食いしん坊の親父が喜ぶだろうなあ。」
「おじさまだったら、あのまんま、カニに食らいつきそうよ。」
「確かに、あの親父ならやりかねねえなあ…。」
「きゃあ、あそこ、食い倒れ人形よ、ほら!ほら!実物、案外、でっかいんだあ。いやん、眉が動いてる、可愛いー!」
「どこが可愛いんだよ。何かパジャマみたいな洋服で、不気味だぜ。こいつ。」
「そうかしら…。」
「おっ、日本史の先公に似てるな…。」
「似てるのは眼鏡だけじゃないの?」
 くすくすっとあかねが笑う。
「どら、記念に一枚、写真撮っといたろ。」
 いつの間に持ち出したのか、凍也がポケットカメラを手に、食い倒れ人形の傍で乱馬とあかねをパチリとやった。観光客が途切れなく、食い倒れ人形の前でポーズを取る。それに紛れて、乱馬とあかねも笑って写った。
「この通りって凄く賑やかだわ。ほら、あっちこっちに面白い張りぼての看板があるわ。あそこ、「てっちり」って書いてある。」
「フグだな、こいつは。へえ…。おめえに似てるぜ。」
「どこが似てるのよー!」
「その膨れっ面!」
「何ですってえ?」
 すっかり、ミーハー観光客と成り果てる頃には、すっかり、乱馬の変な緊張感も緩和されていた。
「習うより慣れろやな…。あいつら結構仲ええやんけ。」
「そら、そうやろ。許婚同士なんやから。」
 と凍也がぼそっとみさきに耳打ちしあったくらいだ。

 乱馬とあかねにとって、ミナミの町は目新しい物ばかりだった。夜は繁華街になりそうだが、昼間は気さくに観光客が歩いている。冬休みという季節柄、親子連れもチラホラあった。
 「大阪の食い倒れ、京都の着倒れ。神戸の履き倒れ」という言葉が象徴するくらい、大阪人は「食」にうるさい。道頓堀界隈はその「食い倒れ」の中心を成す繁華街である。ゆえに、食べ物屋がたくさん並び、どこもかしこも、けったいな看板が客の気を引こうと立ち並んでいた。
 有名な、カニ道楽の看板、食い倒れ人形、てっちりのフグ、たこ焼き屋のオオダコ、ラーメン屋の龍、でっかい福助風看板、などなど。これでもかと言わんばかりに、賑やかしく客を招いていた。
「すっごーい!こんな所、東京にはないわ。」
 その活気に圧倒されながら、あかねと乱馬は道頓堀界隈を往来した。関西特有のケバい活気に圧倒されながらも、目はランランと輝く。
「大阪は食い倒れの町でもあるけど、お笑いの町でもあるしな…。吉本興業の本拠地にも行ってみるか?」
「吉本興業ってあのお笑いの?」
「そや。結構おもろい場所もあるから、行こか。」
「その前に、たこ焼きも食べんとな。せっかく、食い倒れの中心地に来てるんやさかいに。」
 みさきが笑った。
「たこ焼きかあ…。お好み焼きなら関西風なのを関西育ちの同級生が店出してるから、東京でも本場仕込みなのを食べられるけどな。近所じゃあたこ焼き屋はあんまり見かけねえな。」
「そうね…。せっかく、本場に来たんだもの。」
 あかねも同調した。
「じゃあ、たこ焼きな。大阪人は正直やから、美味しい店には必ず、行列ができるんや。行列がごっつう長いところ、連れてったるわ。」
 と、凍也が先に立って歩き出す。脇に立っているたこ焼きやには目もくれず、細い路地へ。と、あるある、行列ができているたこ焼き店。昼時だったせいもあるのか、たこ焼き店だけではなく、ラーメン屋や洋食屋の前にも行列が出来上がっていた。店内が狭いというのもあるのだろうが、確かに人気のある店には行列があった。
「関西人は信号を待つんも嫌いなほどいらちな人間が多いけど、美味しいもんには行列作ってでも群がるさかいにな。」

 凍也とみさきの案内で、ミナミの街を満喫できた。
 吉本の本拠地でもあるNGKへも足を運んだ。不思議なタレントのテーマ館もあったし、道具屋筋と呼ばれる、食関係の食器を大量に扱う問屋街などというところにも足を踏み入れた。
 たこ焼き屋がすぐにでも開けそうな看板や道具が山積みしてある軒先を面白おかしく通り過ぎた。関西の秋葉のようなオタク電気街、日本橋のでんでんタウンを通り抜け、天王寺までテクシー。結構長時間歩き続けたが、疲れを知らなかった。
 最後は新世界を抜け、通天閣へ上った。

「この辺り新世界って言うんや。すっかり寂(すた)れてしもうたけどな、昔はフランスのような放射線状の街並みが斬新でモダンやったんやって。」
 下に広がる新世界の街並みを眺めながら、みさきが言った。今は商店街としても寂れていて、最盛期には遠く及ばぬ場末の街になってしまったという。
「戦争がなかったら、大阪の街の賑わいは、変わっとったかもしれんって、おじいは良く言うわ。この通天閣も戦後の再建や。吉本興業の女社長さんが建てた昔の通天閣は戦争没収品として軍に丸ごと解体されて持って行かれたんやと。」
「へえ…。東京タワーなんかより、ずっと歴史があるタワーなんだ。」
「わいらにとったら、小さい頃から見上げとった親しみのある塔や、この通天閣は。」
「苦楽を共にして来た、天王寺の街のシンボルやさかいになあ…。」
「今は高い建物が増えたさかい、昔ほどの景観がのうなったんが残念やけどな。」
 凍也とみさきの顔が、ホッとなずんだ。
 彼らにとって、この地は育った大切な場所なのだ。この地にしっかり根付いている証拠だ。放浪生活が長かった乱馬は、そんな二人が羨ましく思えた。

「さてと…そろそろ日も傾いて来たし…。みさき、おまえはこっからあかねはんと一緒に夕飯食いに行ってこい。」
 凍也が新世界入口辺りで言った。
「え?凍也と乱馬君は一緒に行かんのん?」
 唐突な発言だったらしく、みさきは怪訝そうに凍也を見返した。
「ああ、俺はこれからお爺はんところへ行って来るわ。」
 そう応じた。
「お爺はんのところへ行くのん?それやったら、うちとあかねちゃんも…。」
 みさきが大きな目を見開いた。
「いや、おまえとあかねはんは、俺たちとは別行動や。」
 凍也は予めそうするつもりだったらしい。強く言った。
「何でやのん?こんなところで乙女二人、放り出すつもりなん?何かあったらどないするんさ。ひっかけ橋で絡まれたこと、忘れた訳やないやろ?」
 ちょっと膨れっ面でみさきが食らいついてきた。
「あかんあかん。おまえら二人やったら強いさかい、心配ないやろうが?ちょいとそこいらの男では歯が立たんやろ?」
 凍也は笑った。
「それに…。ちゃんと、ものごっつい「ボディーガード」も頼んでやっとるで。」
 凍也はちらっと背後を振り返った。
「ボディーガードやてえ?」
 みさきが一緒に振り返ると、その「ボディーガード」が笑っていた。
「たいがいやな、その言い方、凍也!」
 女性の声がした。

「お、お母はん。」
 みさきの声が止まった。彼らの背後に、いつ現れたのか、みさきの母がこちらを見て笑っていた。

「そういうこっちゃ。おかんがおったら、安心やろ?こっから先はおまえのおかんと三人でなんばパークスへでも行って来いや。」
 と凍也は笑った。
「でも…。」
 まだ、何か納得できないのか、みさきが言葉を発しようとする。それを制したのは、みさきの母だった。
「みさき、しゃあないやん。お爺はんが、乱馬はんに会いたいって言ってはるんやから。男同士、凍也を交えて、何か話ときたいことでもあるんとちゃうんかな。」
 みさきの母が押し退けるように言った。
「道場はどうしたの?」
 みさきはまだ食い下がってくる。
「道場やったら心配あらへん。お父はんが居るやん。それに、道場の食事も私が居らんでも、内弟子たちで、まかなえるしなあ。
 それに、私かて、たまにはあの道場の喧騒を離れて、ゆっくり外食でもしたいやん。こんな機会、滅多にないから、気合入れて出て来たんやで。ここで帰す気ぃかいな。娘のくせに冷たい奴っちゃなあ。」
 カカカとみさきの母は豪快に笑った。
「わかった…。そこまで言うなら…。」
 みさきはようやく諦めたようだ。
「ほら、あかねちゃん、行こうや。ご馳走食べよう。」
 みさきの母は屈託なく、豪快に笑いながら、みさきとあかねを伴って、凍也と乱馬とは別行動を開始したのである。


つづく




一之瀬的戯言
 梅田界隈よりもどちらかといえば、私もミナミの方が好きです。
 旦那などは毎日通勤しているミナミ方面なので、あまり一緒に出て行くことはありません。(というより、生駒山を越えて大阪へ出る事自体が少ない主婦であります。)この春から娘も生駒越えです。
 天王寺と難波は近いですが、やっぱりちょっと街の雰囲気が変わります。天王寺界隈はいわゆる「浮浪者のおっちゃん」があちこちうろついておられまして、天王寺公園、天王寺動物園周辺は「ここはどこじゃ?」と叫びたくなるような光景も目にすることがあるかもしれません。(「じゃりン子チエ」の世界であります。)
 道頓堀周辺は「コテコテの大阪」であります。大阪へ出てこられたら、やはり一度は見ておくべきでしょう。エネルギッシュな街であります。
 おすすめのお土産は「551蓬莱の豚まん」です。大阪では「肉まん」とは言わず「豚まん」が主流です。「冷やし中華」を「冷麺(れーめん)」、アイス珈琲を「冷(れい)コ」と言うが如く。 あとカニ道楽や食い倒れ人形のストラップなんかもあります。なかなかユーモラスなので大阪のお土産にどうぞ。
 そうそう、食い倒れ人形はらんま最終話「鳳凰編」でも出てきましたよね。「食い倒れ太郎」というのが人形の本名なのだそうで…。名前のセンスもベタなのが大阪です。

 で、最近、「大阪ドーム」、地元では物議をかもしております。京セラドームと改名されるかもしれないとちょっとした話題になっています。ううむ…。微妙だな、そのネーミング!


それから、この作品を書いたのは2006年。まだ、阪神と近鉄の相互乗り入れはしていなかったので、作中は「鶴見緑地線」でドームから移動しています。今はもちろん、阪神で難波まで行くのが通常になっています。そう、難波から向こうは近鉄線になるので、生駒から京セラドームに行くときは一本になって、とても便利になりました。年に一回、kinkikidsのコンサートに足を運ぶのでありがたいです!
 あと、あべのハルカスももちろん当時は存在していませんでしたとさ〜そごうだって閉店しちまったし・・・。


(c)Copyright 2000-2015  Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。