◇天高く 第二部

第三話 浪花の夜


一、

「へえ…。鉄筋の道場かあ…。」
 乱馬が目を丸くしながら、吐き出した。

 鉄筋コンクリートの建物は「道場」という語感からはかけ離れたイメージが有る。天道家のように、木造家屋がかもし出す独特な情緒はここにはない。
「鉄筋のビルっちゅうても、昭和三十年代前半に建てられたもんやさかい、結構、オンボロやねんど。」
「エレベーターかってついてへん。昇降は階段や。」
 と凍也とみさきが笑った。
 ガラスのドアを開いて、中へ入ると、元気な声が聞こえてくる。
「活気も溢れてるなあ…。」
「はやってるのね。」
 乱馬もあかねも、賑やかな声に感心する。
「一階と二階は道場になってる。一階は初級者やガキが多いかな。二階は上級者やそいつらに胸を借りたい中級者がタムロしとる。三階には弟子たちの空間、で、四階と五階で観月家の人間が暮らしとる。」
 と二人が簡単に説明してくれた。
「内弟子も居るのかよ。」
「ああ、三階には野郎ばっかり、十人くらい住み込んどるかな。大広間での雑魚寝が中心なんやけど、大概は天王寺にねぐらが確保できるって勝手に住み込んどる感じやな。宿賃も出世払いでええってここの主のおじいの言葉に甘えとる連中ばっかりや。中にはアルバイトに精を出してて、本来の武道修行はどないなってんや、って思う連中もおるで。」
「まあ、炊事場もトイレも洗濯場も共同やけど、下宿と勘違いして住み込む学生もおったりするんやけどな。」
 と、みさきが笑った。

 通りがかりに、道場を覗いてみた。二十人ばかりが熱心に身体を動かしていた。
 確かに、一階には小学生から中学生といった子供、また、会社帰りのOLや子供と一緒に来た母親といった「初心者」が目立つ。何人か上級者が彼らを指導しているような感じであった。
 二階はいかにもと言わんばかりのアンちゃんたちが、思い思いに修練していた。組み手をする者も居れば、瞑想をするもの、腹筋や柔軟体操などの基礎訓練に勤しむ者も居る。

 天道道場は内弟子も通い弟子も皆無と言って良い。居候の早乙女親子や八宝斎の爺さん以外、武道と繋がりのある者の出入りはない。近所のカルチャー教室の一端で、早雲と玄馬が講師として時々、外へ行く以外は、道場主としての仕事もない。
 道場へやってくるのは、乱馬をとりまく「お騒がせな連中」くらいだ。
 だからといって、卑下する気持ちはないが、それでも、同じ「無差別格闘流」の看板を背負いながら、この、観月流の道場の活気には、驚かされた。

「昨今の格闘ブームのおかげで、弟子も増えたんや。殆どはダイエットとかお稽古事のつもりで通ってくる軟弱な弟子ばかりなんやけどな。」
 とみさきが笑った。
「じゃあ、がっぽりと稼げるんじゃねえのか?」
 乱馬がからかい気味に言う。
「アホぬかせ!ガキやOLから月々なにがしかの月謝はもらえるが、大食らいの内弟子どもが殆ど食べてまいよるんじゃ!あいつら、三食寝所つきでただ同然で居候しとんのやで。」
「そや、あんだけ居候抱えて、赤字倒産せんのが不思議なくらいやわ。」
 と二人が言った。
「居候は、どこでもお荷物になるものねえ。」
 あかねがこっそっと笑いながら乱馬を見返した。
「うるせーよ!」
 乱馬の鼻息が少し荒くなる。

「とうはん、凍也さん、お帰りなさいまし!」
「こちらが東京からの客人だっか?」
 凍也とみさきの帰宅に気付いた「内弟子連中」がそこここから声をかけてきた。

「とうはんって?」
 訊きなれない言葉に、あかねが尋ねる。
「ほんまは古い、船場の言葉なんやけどな、その家の長女のことを「とうはん」って言うんや。こいつが正式には、ここの道場の跡取り娘なんで「とうはん」って呼ばれとる。
 おじいの先代は船場からここへ宿替(やどがい)して道場を開いたさかい、船場言葉をふんだんに使っとった名残やろな。」
 と凍也が言った。
「へ?凍也、跡取りっておめえじゃねえのか?」
 乱馬が目を丸くして問いかけた。
「いや、こいつの親父は俺の親父の兄貴になるから、こいつの方が「観月流の正統な跡取り」なんや。」
「つまり、凍也はうちの婿はんやねん。」
 とみさきが笑った。
 凍也とみさきの意外な関係に、乱馬とあかねはお互い、顔を見合わせてしまった。乱馬も厳密な意味で言えば「天道家の許婚」なのである。男子の居ない、天道道場の跡継ぎとして望まれたのだ。
「別に、序列つける必要なんかないとうちは思ってるんやけどな、何か、古い弟子がうちのこと「とうはん」と呼ぶさかいに、それが、弟子全体にまん延しとんのや。」
「ああ、カビの生えそうな古い弟子は、何かとみさきと俺ん家の序列をつけたがるところがあるんやけどな。まあ、俺んところは傍系になるから、しゃあないっつうたら、しゃあないんやけどな。」
 と凍也が言った。その言葉の裏に「複雑な御家事情」が見え隠れする。
「凍也、おめえも、ビミョーな立場っつうわけか。」
 と乱馬がポツンと言った。
「まあ、そんなこと、気にするような奴やあらへんけどな、凍也は。」
 とみさきが笑った。
「図太うなかったら、おまえみたいな「お転婆」の婿になれんわい!」
 と凍也も一緒に笑う。

 と、内弟子たちが一斉に、襟元を正した。
 誰かが上の階から降りてくるのが見えた。

「よう、来なはった。関東のお方。」
 透き通るような低い声が響き渡る。
 内弟子一同、その声に、一礼する。
「あ、お父はん。」
 凍也もみさきも同じく背筋を伸ばした。その様子を見て、乱馬もあかねも、ここの道場主の登場だと察した。
「はじめまして、早乙女乱馬です。」
「天道あかねです。今回はお招きありがとうございました。」
 一緒に深々とお辞儀する。
「わっはっは、そうかたくならんでよろしい。乱馬君とあかねさんと言いましたのう。ゆっくりしていかはるとええ。」
 と目を細めた。アゴにヒゲを蓄え、小さいながらもきりっとした身体つき。そして白い眉毛の奥に光る円らな瞳の眼光は、優しいながらも鋭い輝きに満ちている。
 相当な使い手ということは、背負った気迫からも良くわかった。内弟子たちが一目を置くのもわかるような気がする。

 大所帯の夕飯は、賑やかだった。ぱっと見渡したところ、二十名以上が食卓に付いている。天道家もたいがい、賑やかな食卓だが、さすがにこの規模となると、比では無い。
 みさきによると、まかないは毎日、数名の内弟子が女将さんのみさきの母の指示によって、順番にやるという。食費を入れない代わりに、こうやって道場運営の手伝いは嫌がらずにやる。これが観月流のやり方だったようだ。合宿所。そんな言葉が似合うだろう。
 中には地元の商店街でアルバイトをしている弟子が居て、食材はそちらから安く回してもらっているのだと言う。
 三階にダダッ広い大広間とキッチンがあった。弟子たちが暮らす小部屋もあるらしいが、食事時は弟子たちがこの大広間に集うし、下っ端の内弟子はここで雑魚寝しているらしい。最上階の四階が観月家のプライベイトルームとなっていて、弟子たちが好き勝手に出入りできるのは、この三階までらしかった。
 さすがに、大所帯を取り仕切る「主婦」、みさきの母親は肝っ玉母さん然していた。てきばきとまかないをこなす。
「乱馬はんとあかねはんも、遠慮せんと、たんと食べや。」
 と乱馬やあかねにも気さくに接する。内弟子に囲まれて豪快に笑う。

「凄いわね…。ここの食事風景。」
 さすがのあかねも、目を丸くしながら、食卓を眺める。
「賑やかなのは天道家(うち)も相当だけど、こことは規模が違わあな。」
 と乱馬ですら、驚いていた。
「毎日、こんなんやねん。食事は大勢で楽しくってのが、観月流の主義やさかい、昔からこんなやねん。せやから、乱馬はんとあかねちゃんの二人が増えたところで、平気なんや。」
 とみさきが笑った。
「食事は人間の力の源やさかいな。ほれ、遠慮しとったら、食うもんなくなるで。」
 箸を動かしながら、凍也がすすめる。食事当番の内弟子が、かいがいしく世話をしながら動き回っている。

「食事が終わったら、ちょっと身体動かそうや。乱馬はん。」
 と凍也が誘った。
「おお。俺たち、遊びに来たんじゃないもんな。」
「あかねちゃんも軽く汗、流そうや。」
「いいわ、お願いするわ。」


 道場で軽く組み手をする。
 乱馬対凍也、あかね対みさき。
 道場も、天道家よりも相当広い。公式競技用の面を二つは悠に取れた。乱馬と凍也、あかねとみさきが、同時に対峙した。
 彼らの回りを、ここの内弟子たちが取り囲んだ。道場の隅っこに陣取り、それぞれ神妙な面持ちで、目を凝らしている。
 関東からの若い来客の腕がいかほどなのか、興味深々な瞳が、二人の動きを追ってくる。
 勝ち負けを競うよりも、軽いウオーミングアップ。見た目にはそんな感じに写ったろう。
 だが、凍也とみさきの気合に、誘導される如く、乱馬もあかねも決して手を抜いていたわけではなかった。下手に手を抜くと、怪我に繋がるということを、強い者同士、わかっていたのだ。
 矢のように早い拳と鋭い蹴り。ゆったりとした動きとはいえ、鋭敏さは失われていない。
 実際、凍也の拳が乱馬の頬の真横を、物凄い勢いで飛んできたとき、おさげ髪の毛がひゅっと千切れ飛んだくらいだ。乱馬も凍也の攻撃を見極めて、良く避けた。
 洗練された技と流れるような動き。
 内弟子たちは、ほおおっと感嘆の溜息を漏らした。
 十分くらい、動いた末、四人は互いの闘気をおさめた。

「ありがとうございましたあっ!」
 互いに手を合わせ、礼をして、引き上げる。
「いやあ、さすがやわ。どんなに仕掛けても、軽う受け流しよる。」
 汗をタオルでぬぐいながら、凍也が乱馬に声をかけた。
「ほんまに、あれほど動いて、互角に戦える相手は久しぶりやわ。」
 みさきも嬉しそうに笑った。
「そっちだって、力の半分も出してなかったんでしょう?」
 あかねも笑いながら答えた。
「あんたらも、良く見ときや。これが全国レベルの格闘家の動きや。乱馬はんはこの前の大会で凍也に勝ったんやからな。」
 とみさきが後ろのギャラリーに言った。シンと波打つように静かになったのは、凄い四人の軽い組み手を見て、実力の差というものをまざまざと見せ付けられた衝撃によるものなのかもしれない。
「短期間で、また腕を上げたか…。乱馬はん…ほんま怖いやっちゃ。」
 凍也が乱馬を見上げて笑った。だが、対する乱馬は無言だった。じっと己の拳を眺めている。何か気にかかることでもあったのだろうか。
「どうしたの?乱馬?」
 あかねが不審に思って、乱馬に問いかける。
「あ…。いや。別に。何でもねえ。」
 乱馬はあかねの言葉を軽く流した。
「着替えたら銭湯で汗、流しておいでや。」
 とみさきが言った。
「銭湯?」
 乱馬が怪訝に言った。
「ウチの風呂場は女性専用なんや。お父ちゃん以外の男は、こぞって近くの銭湯で汗を流すことになってんねん。せやないと、こんな大所帯、風呂わかすのも馬鹿にならん金額になるやろ?」
 とみさきが笑った。
「銭湯いうのも、なかなか風情があるど。今は内風呂が主流になりくさったけど、この辺りはまだ、銭湯が残ってる。天王寺公園界隈は簡易宿泊所なんかも点在しとるからなあ。行こうや、乱馬君。」
「乱馬でいいぜ。君付けだと、何か、調子が狂わあ。俺もおめえのこと呼び捨てにすっからよ。凍也。」
「そやな…。ほな、呼び捨てで呼ばせてもらうわ、乱馬。」
「男同士の美しい友情かあ、羨ましいなあ…、あかねちゃん。」
「アホなことぬかすな!熱でもあるんけ?」
 乱馬もあかねも、掛け合い夫婦漫才を見ているような、凍也とみさきのやりとりに、目を丸くしていた。



二、

 乱馬たちが銭湯へ行ってしまうと、みさきと一緒に風呂へ入った。
 風呂場はプライベイトの五階にある。広々として、小奇麗だった。

「良かった…。凍也、ここんところずっと、何か考え込むように暗かったからなあ…。」
「そうなの?」
「東京から帰って来てからちょっと変やったさかい…。」
「もしかして、乱馬に負けたこと、引き摺ってたとか?」
「うーん、性格的にそれはないと思うんや。負けず嫌いなところあるからな、自分より強い者が出たら、返って踏ん張るような性格しとんのやけど…。
 でも、あいつ、高校も休学したまんまなんや。」
「へ?相変わらず、高校へ行ってないの?」
「うん。ウチはすぐに復学したんやけど、あいつ、今学期いっぱい休学するって。まあ、大学へ進学するつもりはないし、出席日数もギリギリなんとかなるから、卒業は日数は足りてるから、追試受けるだけで卒業はできると思うねんけど。」
「ふーん…。」
「何か思い悩むことでもあるんやろうから、そっとしとけってお父ちゃんは言うんやけどな。うち、気になってしもて…。」
「そりゃあそうよね。許婚として、気になるわよね。」
 とあかねもコクンと頷いた。乱馬も己の中に、何かと溜め込むことがあるのを思い出したからだ。筋肉で物事を考えて行動するタイプの乱馬でも、一途に何かを考え出したら、恐らく、同じような反応を示すような気がしたからだ。
「あいつ、何も気にしてへんようなフリしてるけど、この家の人間関係の重圧に悩んでるんかもしれん。その渦中におる、ウチには何も言われへんのかもしれんわ。」
 ふうっとみさきが重い溜息を吐いた。
「人間関係の重圧?」
「ほら、さっきも言ってたやろ。隠しとってもあれやから、スパンと言うけど、凍也んところのお父さんはお爺はんの妾腹やねん。」
 
 「妾」という言葉に、思わずあかねの声が詰まった。

「昔は外に妾を作るんは男の甲斐性や…なんて無責任な事、言ってたやん。戦後のドサクサもあってのことやと思うんやけど、凍也んとこのおっちゃんはお爺はんが外で作った子どもなんや。ウチも詳しい事情は訊いてへんのやけど、凍也のお婆はん、公認の妾はんやったらしいわ。」
「そ、そうなの…。」
 どうリアクションして良いか、あかねは迷っていた。
「で、妾さんは外で囲われてたらしいんやけどな。どんな事情があったのかはよう知らんのやけど、うちのおとうはんと凍也んとこのおっちゃんはそれぞれ、別に武道に精進しとったらしいねん。」
「へえ…。」
 あかねは、ただ、驚いて聞き入るだけだった。己の祖父に妾が居たのだ。普通ならさらっと話せることではないだろう。
「で、みさきちゃんは何で凍也君と許婚に?」
「実は、凍也んとこの両親は、早くに亡くなってんねん。」
「え?」
「物心着く前の話やから、ぼんやりとしか覚えてへんのやけど、交通事故でな、ぽっくりと往ってしもうたんやと。それで、凍也、身寄りがなくなって、ある日唐突に、この家に連れて来られたんや。
 うち、まだ子供やったさかいに、凍也が何者かよう理解できんかってんけど、新しい友達ができたっていう感覚で、この家で一緒に育ったちゅうわけや。ほら、うちとこ、内弟子もたくさん居るやろう?だから、あんまり細かい事情は気にせんかったんやわ。
 ただ、他の内弟子と違うのは「観月凍也」とうちと同じ姓を名乗ってたことだけ…ってことかなあ…。何でこの子、うちと同じ名字しとんやろうって…。」
 みさきは「観月家の事情」をかいつまんで話してくれた。
 そういえば、みさきの両親は、暖かく乱馬とあかねを迎えてくれたが、凍也の両親の姿がなかったを思い出した。
「ウチも一人っ子やったしな。同じ年の凍也とは、それ以降、双子みたいな感じで育ったんや。そんな中で愛情が育つってことも決して不思議やあらへんやろ?」
 と、はにかんだみさき。
「双子の兄妹のように育った二人が、恋人になったってパターンね。」
「ようある話っちゅうたらそれまでやけどな。」
「で?みさきちゃんのご両親はすんなりと許してくれたの?」
「許すも何も、大歓迎やったわ。凍也もああいうあっさりとした性格やし、内弟子の誰よりも強かったから異存はないって。それに同じ血が流れてるけど、血縁的には「いとこ」やし、一応日本の法律的には何も問題ない。むしろ、凍也とそういう関係になるのを願っとった節もあるなあ…。
 ただ、お爺ちゃんの正妻でもあるお婆はんを知ってる古い弟子の中には、快く思ってない人も居るんやと思うけどな…。
 皆、跡取り娘のウチには見せへんけど、結構ドロドロしたもんが、底辺に渦舞いとるんかもしれん、嫉妬とか、ヤッカミとか。」
「複雑なのね。」
「で?あかねちゃんはどないなん?ウチのことだけ訊いて、自分の事は喋らんなんてこと、ないよなあ?」
 と突付かれた。
「あは…。あたしの場合はお父さんと乱馬んところのお父さんが親友同士で、ゆくゆく、子供をカップリングさせようと目論んだ結果よ、結果。
 あたしなんか、お姉ちゃんたち二人に「年が一緒」ってだけで、押し付けられたようなもんよ。最初は、迷惑してたのよ。十六才になりたてで、いきなり「許婚」だなんて押し付けられてさ。」
「でも、今はそんな風には思ってないんやろ?」
「まあね…。でも、あいつ、半分女なのよ。」
「へ?何それ。もしかして、オカマなん?」
「そういうのとはちょっと違うわ…。中国へ修行に出向いた時、「娘溺泉」っていう呪いの泉に落っこちて、水をかぶると女に変身するふざけた体質になってるの。現在進行形でね。」
「えええっ?女に変身するん?そんな漫画みたいなこと…。」
「信じられないかもしれないけど、本当の話よ。」
「それって、めっちゃ凄い体質やん。あかねちゃん、平気なん?」
「慣れっこになったわ。あいつ、女に変身しても、気持ちは男だし…。」
「寛容やねんなあ。ウチは凍也が女に変身するなんてこと、考えもつかへんけど…。」
「ま、あいつが家に来てからというもの、同んなじような変身体質の人間が周辺にうろつくようになってさあ…。」
「はあ?」
「あいつのお父さんもパンダに変身するのよ。でっかいジャイアントパンダにね。何でも、同じ修行場で「熊猫溺泉」ってのに溺れちゃったらしいの。」
 大袈裟にあかねは両手を広げて見せた。
「あいつの後を追ってきた中国娘なんか猫になるし、その後を追ってきた中国青年なんかアヒルよアヒル。その他、カエルになる仙人とか子供になる助平爺さんとか、凶悪牛男とか、阿修羅女とか、いろんな変わり者が入れ替わり立ち代わり、やって来たわ。」
「ふーん…。」
「あ、疑わないでね、全部、本当の話だからね。後で乱馬に水をかけてみたら良いわ。」
「あかねちゃんがええって言うんやったら、やってみたろ。おもろそうや!」
 みさきは悪戯っぽい瞳を投げかけた。
「で、でも、あたしも時々、乱馬が何を考えているのかわからなくなることがあるわ。」
 と、湯気の向こう側の窓に広がる夜景を眺めながら、ふうっと溜息が漏れた。
「男は彷徨う旅人やさかいなあ…。」
「女は翼を休める家…ね。」
「乙女やなあ、ウチら。」
 と、湯船につかりながら、目を合わせて笑った。


三、

「おい、これってどういう事だ?」
 風呂から上がってみると、乱馬が凍也に何やら文句のようなものを言っていた。
「どうしたの?」
 湯上りのほこほこで、あかねが二人を覗きこむ。
「今夜泊まってもらう客間に案内したら、いきなり、こいつ文句たれよってん。」
 凍也がにっと笑った。
「今夜泊まる部屋がどうしたの?」
 あかねが乱馬の後ろから覗き込んだ。
 乱馬は無言で、宛がわれた部屋の中を指差す。見てみろよと言わんばかりだ。

 八畳の部屋の真ん中に、ダブルサイズのでかい蒲団が一枚。良く見ると、枕が仲良く二つ並んでいる。

「ちょっと…。これって。」
 あかねが、たじっとなって問いかけると、間髪入れずに凍也が言った。
「ああ、二人に泊まってもらう部屋や。」
「ええええっ?」
 その言葉に、あかねが声を上げた。
「もしかして、その、乱馬と二人、一つ蒲団で寝ろっていうの?」
 ぼそっと尋ねた。
「当然やがな。」
「どないしたん?何か不都合でもあんのん?」
 みさきまでもが、不思議そうに尋ねてくる。
「不都合も何も…あたしたち、そんな関係じゃあ…。」
 さあっとあかねの顔からは血の気が引いていく。
「あんたらなあ…。ペアルックのパジャマ着てるクセに、今更、何、純情こいてんねん?」
 にやにやと凍也が仕掛けてくる。

 二人、はっと顔を見合わせた。

 そうだ。かすみが気を利かせたのか、新しいパジャマを鞄に入れてくれたのだが、どういうわけか、お揃いの柄パジャマだったのだ。しかも、黄色の生地にナルト柄という、中華風のパジャマだ。
(もう、お姉ちゃんたら、よりにも寄って、お揃いで用意なんかしなくて良いのに。)
 『新しいパジャマを鞄に入れておいたからね。』と言ったと時のかすみの笑顔の意味を、今、ここで思い知るあかねであった。

 二人して顔が真っ赤に熟れ、思わず、互いに目をそらせた。

「とにかく、ゆっくり休みいや。」
 凍也がしれっと言った。
「気ぃ遣い過ぎだぜ、こら、凍也!」
 乱馬も気恥ずかしさを隠しながら、顔を真っ赤にして食ってかかった。
「何、今更なこと言うとんねん!おのれら、許婚同士やったら、一緒の部屋でかまへんやろ?わざわざ部屋を分ける方がおかしいやないけ。」
「だからあ、俺とあかねは…。」
「往生際の悪いやっちゃなあ!浪花の楽しい思い出をつくらしたろいう、俺の気持ちわからんかあ?」
「わ、わかるわけ、ねーだろがっ!」
「まあ、ええから、一緒に休め!知らん場所で許婚を放り出すのは、あんまりなんとちゃうか?
 ウチは荒くれた内弟子も多いし、東京から来た女子に興味津々ってアホもおるかもわからんど。」
 バンバンと凍也が乱馬の背中を叩いた。
「内弟子どもには、この部屋の周りへの立ち入りは禁じてあるから。夕方、俺らの組み手をじかに見とるから、乱馬が一緒におったら、あかねはんに手は出しでけんから、安心やろうけどな。
 朝までばっちりやで、カカカ。」
「何がばっちりなんでいっ!」
 乱馬が突っ込みを入れようとするが、凍也もみさきも取り合わない。それどころか勝手にどんどん話を進めていく。
「起床は八時ごろな。会場見学のついでに、あちこち案内したげるわ。」
「ゆっくり休んでや。」
 と、言いたいことを告げると、二人とも、そそくさと退散していった。

 二人が立ち去ると、ポツンと部屋に残された乱馬とあかね。
 昼間の喧騒がウソのように、静まり返る、五階の奥の間。

「何考えてるんだよ、あいつらは…。」
 中央に敷かれたダブルの布団を凝視しながら、乱馬が大きな溜息を吐き出した。さすがに夜も更けてくると、寒い。あかねも、思わず身震いした。
 吐き出した声と共に、白い息が身体に降りかかる。古い鉄筋の上に暖房器具もすえつけられていない。カタカタと窓ガラスが風に叩かれて音をたてている。
「このまんまじゃ、湯冷めしちまうな。」
 乱馬は何かを決意したように、あかねに言った。

「ね、寝るぞ。あかね。」
 緊張気味の声を張り上げる。
「ほら、先に蒲団へ入れ。あ…安心しろ!俺はまだ修行中の身だ。おめえには一指も触れねえ!天地神明に誓って何もしねえから。」
 あかねとは目を合わせないで、そんなことを呟くように言った。
「う、うん…。わかってる。」
 あかねも緊張していたが、この場合、仕方が無いか、と諦めて蒲団へ入った。
 女に変身してもらうという手もあるにはあったが、この寒さだ。大切な試合前に、乱馬に風邪をひかせるわけにはいかない。だから、そういう提案を口にするものためらわれたのだ。
 あかねが先に蒲団へ入るのを見届けると、乱馬の手によって電灯が消された。豆電球も消し、部屋は闇に包まれる。下手に薄明かりでも、光源を残すと、互いを意識しすぎてしまうと、彼は考えたようだ。
 あかねはぎゅうっと目を閉じた。

 一つ蒲団に、背中合わせで入ってきた乱馬。
 二人とも、何も口に出来ず、ただ、黙って横たわる。
 
 シンと辺りも、不気味なほど静まり返る。耳を澄ませば、己の高まった心音が、相手に聞こえるのではないかと危惧さえする。
 愛する人がすぐ隣に居る。手を伸ばせば届くごく近い場所に。そう思うだけで、心音は弾けんばかりに上がっていく。

 だが、一線を越えるには至らなかった。
 二人とも、勢いだけで突っ切るほど、安い恋愛をしていたのではなかったからだ。
 眠りの帳が降りてくると、緊張はやがて安堵へと変わる。
 背中合わせで無言だが、互いに「大事な存在」であることは変えられない事実だ。肌も触れぬ想い人の、微かな温もりを感じながら、眠りに就く。
 やがて、どちらともなく、柔らかな寝息がこぼれ始めた。
 浪花の最初の夜は更けていく。




つづく




一之瀬的戯言
 いやはや、乱馬とあかねが一つ蒲団の中で…っていうのは原作ではなかったような…。未遂はあったかもしれませんが。テレビアニメでは女乱馬と共にってのはあったような…。「女になった乱馬」って展開の時には一緒に寝ていたような。
 あかねって物凄く寝相が悪かったんじゃなかったっけ…という突っ込み、勘弁してくださいませ。じゃないと、雰囲気がぶち壊しになってしまいますので。

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