◇天高く 第二部

第二話 西へ

一、

「ちゃんと着替え持った?」
「持った!」
「洗面道具は?」
「あるっ!!」
「それから一応勉強道具と…。」
「俺には関係ねえっ!」
「あと、おみやげっと。」
「人形焼かよ…。」
「いいじゃない。東京土産だし…。」
「もっと気の利いた奴なかったのかよ。」
「かすみお姉ちゃんが買ってきたんだけど…。」
「あ、そう…。」
「道着も入れたし。」
「普通そんなもん、持ってかねーけどな。」
 そう言うと乱馬はふっと笑った。
「試合だから必要道具でしょうが!」
 口を尖らせる。
「ぼちぼち着替えて準備しなきゃ。」

 旅立つ前は何かと慌しい。何の準備もしない乱馬と裏腹に、あかねは念入りに支度する。頼まれもしないのに、乱馬の分も荷物を作った。
 たった数泊の遠征だが、修学旅行へ行ったときよりも準備に余念がないあかね。
 どことなくウキウキしてくるのは、二人初めての遠征だからだろうか。

「先方様に宜しく。機会があればこちらへも遊びに来ていただきなさい。」
「そうそう、二人仲良くな。喧嘩はいかんぞ、喧嘩は。あ、それから関西土産頼んだよ。」
 二人の父親たちもニコニコしていた。いつもならからかい半分いろいろ絡んでくるのだが、今日は珍しく大人しい父親たちだった。のどかあたりに、釘でも刺されているのだろうか。

「用意できたら行くぞ。」
 乱馬があかねを促す。
「待ってよ。」
 あかねが奥から返事した。
「まだ何かあんのかよ。」
「もうちょっとだけ。」
「早くしねえと新幹線に乗り遅れっちまうぞ。」
 女の身支度はなんて時間がかかるのだろう、と乱馬はぶつくさ不平を言って玄関先で待っていた。
「ごめん。お待たせ。」
 あかねを見てドキッとする乱馬。余所行きの洋服。ちょっとシックなワイン色のワンピースに白いコート。何処かの雑誌から抜け出てきたようなお嬢様がそこに立つ。
「たく。いつまで待たせるんだよ…。」
 機嫌が悪い素振りをして口を尖らせているが、語尾は明らかに上擦っている。
 乱馬もいつものチャイナ服は脱ぎ捨てて、カジュアルっぽい身形(みなり)だ。黒っぽい今風のスーツ、とネクタイ。その上に羽織るブルゾン。足には見慣れない革靴を履いている。
「乱馬も似合うじゃない、その格好。でも、乱馬が乱馬じゃないみたいね。」
 あかねはころころと笑った。チャイナテイストではない乱馬など、久しぶりだった。恐らくは母親ののどかの見立てなのだろう。正装とまではいかないが、軽い大人な雰囲気をかもし出していた。
「さてと。」
 二人揃って玄関先に立つ。

「ん?」
 乱馬は扉の向こうにある、気配をすぐさまに感知し、顔をしかめた。
「どうしたの?」
「あれ…。」
 あご先で引き戸の向こうを促す。と、あかねも並々ならぬ殺気を感じ取った。
 いつまでもここでこうしている訳にも行くまい。ごくんと唾を飲み込むと、いっせいのせっ、とあかねはガラリと引き戸を開けた。

「天誅っ!!」

 そいつは一言そう言うと乱馬目掛けて木刀を振り下ろしてきた。九能帯刀だ。
「だあーっ!いきなり何すんでいっ!」
 乱馬は咄嗟に九能の顔面向けて蹴りを出す。
 顔に乱馬の靴型をつけながらも九能は果敢に飛び掛ろうとする。
「ごめん、乱馬くん、あかね。九能ちゃんに情報リークしちゃった。」
 九能の向こう側にはニコニコ顔のなびき。手元では札束を数えている。大方金目当てに九能に遠征旅行の出発日のことを話したのだろう。

「早乙女っ!貴様あっ!あかねくんと婚前旅行だとおっ?おーのーれっ!あかねくんの純潔を奪う旅など、この九能帯刀が許さんっ!」
 九能はそう言うと、再び木刀を構えた。
「誰と誰が婚前旅行なんだよっ!九能先輩っ。人聞きの悪いこと言わねーでくれよっ!」
「そうよ、先輩!あたしたちは武道大会へ出場するために、行くだけです!」
「どうせ、同じところに泊まって、あれこれやろうと言うのであろうが!この、ど助平!」
 思い込みの激しい九能は、二人の話を聞く耳などもつはずなどない。
「そこへ直れっ!手打ちにしてくれるわーっ!」
 いきなりそう言うと木刀を持って突っ込んできた。
 後はいつもの如く。
 トントントンと九能目掛けて蹴りを繰り出した乱馬に仕留められて、玄関先に転がることになる。
「もお、なびきお姉ちゃん!だから、誰にも言わないでってあれほど頼んでおいたのに!」
 後ろから顔を出したなびきに、あかねは抗議を送る。
「ごめん。つい、口が滑っちゃって。」
 と言いながら札束を数えていた。
「まさか、他にも言ってねえだろうな?なびき。」
 乱馬が怪訝そうに尋ねた。
「ま、いいじゃん。」
「よかねーっ!」

 と、今度は転がった九能を自転車で踏みつけた輩が一人。
「乱馬っ!あかねと夜逃げする、本当あるか?」
 血相を変えて飛び込んで来たのはシャンプーであった。
「夜逃げなんてしないわよ。失礼ねっ!」
 あかねが鼻息を荒げる。
「乱馬っ!よく決心しただ。さあ、あかねと一緒に、すぐ夜逃げするだ。」
 シャンプーの後ろからはニコニコ顔のムース。
「バカ野郎。こんな昼日中に、夜逃げする奴なんて居るかよ!」
 乱馬も呆れ顔だ。
「後のことはオラに任せておくだ。シャンプーはおらが責任を持って守るだ。」 
「ムース。それ私じゃない。かすみさんあるね。」
 近眼のムースはシャンプーと思ってかすみの手を取っていた。それに気を悪くしたシャンプーが睨みつけている。
「ごめんなさいね。あたし、年下の男の子には、全く興味がないのよ。」
 ニコニコしながらかすみがやんわりと断わっている。
「お姉ちゃん、ムースはシャンプーとお姉ちゃんを間違えただけで、別に付き合ってくれって言ってないわよ。」
 なびきが苦笑していると、今度は一瞬俄かに暗くなる。黒薔薇の花吹雪が舞い出した。
「今度は小太刀かよ。」
 すっかり困惑している乱馬の直ぐ後ろに、小太刀がレオタード姿で立っていた。
「乱馬様っ!私を差し置いて、天道あかねと夜逃げなさるなんてっ!言語道断ですわっ!」
 ボロボロと涙を流している始末。
「だから夜逃げじゃないって言ってるでしょうっ!!」
 呆れ顔になりつつも、あかねのテンションが上がってゆく。
「乱ちゃんっ!夜逃げするほど困ってるんやったら、うちが養のうたるやんか、水臭い!」
 その後ろには右京まで控えているではないか。なびきの金儲けがどこまで変な情報を撒き散らしたのだろう。
「だから、夜逃げじゃねー!!俺には大事な武道大会があるんだ。あかねも同じだ!わかったか!わかったらそこをどけっ!時間がねーんだ。」
 珍しく乱馬が彼女たちを蹴散らしにかかった。

「ほら、ぼさっとしてねーで、行くぜっ!あかねっ!!」

 最後にそう吐き捨てると、大胆にもあかねの手をぎゅっと掴んだ。そして、ここぞとばかりに荷物を持って歩き出した。後ろも振り返らすにだ。
 その剣幕に、シャンプーも小太刀も右京も、何も声をかけることができなかった。
 あかねの手を握ったまま、どんどんと前に向かって足を運ぶ。二人はみるみる天道家から遠ざかる。

「たく。みんな勝手なことばかりぬかしやがって。」
 ぶつぶつと乱馬は誰彼に向かうことなく独りごちる。あかねも何も口に挟めないほど、乱馬はどんどんと駅に向かって歩いてゆく。あかねは駅に着くと、自動券売機の前でくすっと笑った。
「何だよ!気味が悪いなあ。」
 乱馬がジロッとあかねを見返した。
「だってさ…。あんなにはっきりと自分の意志を態度に示したの、乱馬、初めてじゃない。あたし、びっくりしちゃったわよ。
 あの娘たちだって、あんたの剣幕に押されて、結局誰一人、追いすがっても来ないんだもの。おかしくって…。」
 そうなのだ。あかねとの仲は勿論、いつも、三人娘たちに寄って集って好き放題されても、なすがままのことが多い乱馬が、今朝に限ってはきっぱりと吐き出して出て来た。己のペースを乱すことなく、それは見事なものだった。だから、三人とも乱馬に逆らうこともできずに、ただ黙って見送ったのだと思う。
「俺だって、ビシッと言わなきゃならねーときは言うんだ!たく。」
 乱馬はまだ鼻息が荒い。
「ふうん…。ビシッとねえ。」
 あかねはけらけらと笑い出した。
「何だよ。可愛くねえな。ほら、電車に乗り遅れっちまうぜ。来いっ!」
 珍しく先に立とうとする乱馬。
「はーい。」
 あかねはわざと大きく返事して、乱馬の後に従った。



二、

 珍しく、今日の乱馬は積極的だった。
 彼なりに、あかねと共に遠出することに緊張しているのだろう。
 電車の乗降も、昼食用の駅弁買いも、全てテキパキと先に立ってこなしてくれる。あかねはその後ろをおずおずと付いて行くだけ。先に立ってどんどん動作をこなすのだが、それなりに無言であかねに気を遣っているのもわかるのである。人の多い東京駅構内だ。決してあかねが追いつけない速さでは歩かないし、さり気なくあかねをエスコートしてくれている。
 何だか頼り甲斐のある旦那さまに付き従っている新婦のようだとあかねは心の底で彼の変化を楽しんでいた。仲のよい恋人同士の二人旅に見えるかもしれないなどと、勝手に想像して顔を赤らめる。
「どうしたんだよ?」
 そんなあかねを不思議そうに覗き込む乱馬。
「別に、何でもないわ。ほら、早く行かないとのぞみに乗り遅れちゃうわよ。」
 始発駅ではあるが、のぞみやひかりはひっきりなしにホームへ入って来ては滑り出してゆく。年の瀬間近の気忙しい客でそこいら中ごった返している。
「はぐれるなよ。」
 そう言いながら乱馬はあかねの手を取った。
「う、うん。」
 あかねの頬はますます紅潮する。
 正直こうまで積極的だとドキドキしてしまう。いつもが素っ気無い分、急に優しくかまわれると、余計にどうにかなってしまうのではないかと思ったほどだ。
 そんな乱馬も、のぞみの指定席に乗ってしまうと、ふうっと溜息を吐いた。
「何とか間に合ったな。」
 と照れくさそうに言う。座席について、一気に緊張が緩和したのだろう。。
 乗車率が高い東海道新幹線。周りを見渡しても、座席はほぼ埋まっている。ちらほら空いているのは途中の停車駅から乗ってくる乗客用の席に違いない。
 ゆっくりとホームを滑り出した列車の座席に身を沈めるとやっとこさ、人心地がついた。
 案内のアナウンスが列車の運行を知らせる。今のところ、雪の気配もなく、通常運行できているという。
 今年は例年よりも寒さが厳しい。暖冬傾向がずっと続いていただけに、この師走の寒さはかえって目立った。窓に飛ぶ外の景色は、どこか寒々とした感じがする。
 あかねは窓側に、乱馬は通路側に腰掛ける。二人掛けの椅子だから、二人並んでしまえば、そこだけ別世界が広がる。
 気恥ずかしいような、それでいてくすぐったいようなそんな気持ち。
 周りからは、子供の声も響いてきてわいわいがやがやと賑やかだ。
 それでも、乱馬とあかねの座席は、喧騒から切り離されたようにゆったりと時が流れてゆくのである。
 その静けさにあかねが口を開きかけたが、はっとして止まった。
 乱馬が気持ち良さそうに寝息をたて始めていたことに気付いたのだ。
 列車の震動と共に、ゆっくりと頭が揺れている。それも、あかねの方へ向かって少しずつ伸びてくる。
 連日のアルバイトで疲れ切っているのだろう。年末のかきいれどきにかなりの日数を休むので、昨夜も遅くまで頑張っていたようだ。仕方がないかとあかねはふっと一つ微笑みを返す。車掌が来ても、車内販売ががなっても、お構いナシで気持ち良さそうに揺れるおさげ。あかねの肩の上にいつか彼の頭が乗った。
 スースーと、一定の呼吸が聞こえてくる。

 最近、少しだけ、ほんの少しだけ、乱馬が変わってきた。
 二人の関係も、肯定しないが、否定もしなくなった。
 ぼんやりと車窓を眺めながら、あかねは思い返す。景色と共に、ぼんやりと乱馬の寝顔が見える。
 相変わらずぶっきら棒で横柄な態度だったが、その片鱗に「優しさ」が見え隠れするようになったように思う。
 今まで決してあかねの恋敵たちに己の意志を口にしなかった彼が、蹴散らす勢いで今日は家を出て来た。
 誰も、追いかけてこなかったのが如実にそれを物語っている。予想外の乱馬の強い態度に、追いかけたくても、追いかけられなかったのかもしれない。


『乱馬君、大人になってきたね。』
 準備の修行中、東風先生があかねにポツンと言った。
『そうですか?』
 問い返したあかねに、柔らかな笑顔が答える。
『ああ。彼の持つ「気」が随分と、落ち着いてきた。』
『気…がですか?』
『乱馬君の「気」は、ここ数ヶ月で、随分、安定してきたよ。』
 十以上年の差がある東風が、そう乱馬を評した。小難しい事はわからないが、名医でもあり、武道家としても腕が立つ東風が見れば、一目瞭然なのだろう。
『あかねちゃんの「気」はまだ迷ってるみたいだけどね…。』
 そう言いながら、東風は高らかに笑った。
『ひっどーい!東風先生ったら!』
『あはは…。でも、彼の気が安定してきたのは、あかねちゃんの影響も大きいと思うよ。』
『そうですか?』
『男はねえ、守りたいと思う女性が出来ると、どんどん変わっていくものだからね…。』
『東風先生もそうなんですか?その割りには、女性には奥手のように見えますけど…。』
『あはは、僕の事は言いっこなしだよ。』
『早く、誰かさんにプロポーズしてくださいね、先生。』
『あああ?っはははは…。』


 そんなやりとりのことを思い出しながら、あかねもつい、うつらうつらとし始めた。緊張の糸が、のぞみの振動と共にほぐれてしまったのだろう。すぐ隣に感じる暖かくて大きな気。すっぽりと包まれながら、淡い夢をまどろむ。



三、

「そろそろ、終点に着くぜ。」
 揺り動かされて目が醒めた。
「ん…。」
 はっとして見渡すと、いつの間にか、乱馬の肩を枕にあかねの方が深い眠りに入っていたようだった。ごつっとした乱馬の筋肉質な肩から顔を上げる。と、ぱっと合った柔らかな視線。
「まーったくぅ!眠りこけてるから、動けねえで肩凝っちまったじゃねえか。」
 文句は言えど、どこか楽しげだ。
 どうやら、彼は先に起き出していて、あかねの寝顔を楽しんでいたらしい。肘掛にかけた左手の上に、一回り大きな彼の右手が重ねられている。
 どこか哀愁を誘うオルゴール調の鉄道唱歌の音と共に、最終案内が聴こえてくる。と、カクンとスピードが落ちた。
 この列車は新大阪止まり。つまり新大阪が終着駅だ。
 まだ陽はあったが、そろそろ夕焼が窓辺にうつる稜線に栄え始めている。

 新大阪駅はどこか閑散とした雰囲気だった。
 賑やかな東京駅とは違い、どことなくローカルな雰囲気が漂っている。いや、はっきり言って、田舎駅に近い。
「大阪って人が少ないのねえ…。」
 などと、あかねが評したくらいだ。
「いや、別に、少ないって訳じゃねえだろうぜ。大阪っつーたら、西日本一の都市だからな…。」
 荷物のガラガラを引っ張りながら乱馬が言う。
「でも、あんまり人が居ないわ。東京駅の喧騒とは明らかに違うもの…。」
「ははは、別に賑やかな場所があるんだろうさ。ここは旅人の玄関口だからなあ…。」
 「新大阪」という駅名が指し示すように、元々、大阪の繁華街からは外れまくったところに新幹線の駅を作ったのだから、人が思ったほど少ないのは至極当然の結果だった。が、関東人の二人に、そんなことがわかろうはずもない。

 と、自動改札の向こう側に、見知った人影がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
「おーい。こっちや、こっちやでーっ!」
 大きく振りかぶって、他の乗降客など目に入らぬ風に、こっちへ向かって無心に手を振りながら、叫んでいる。
 予め待ち合わせていた、観月凍也とみさきである。
 何事かと、人が振り返るほど、派手な身の振り方だった。
「あんなに大声出さなくってもわかるって…。あいつら…。恥ずかしくねえのかよ…。」
 乱馬が困惑したくらいだ。

「よう来た、よう来たなあ…。」
 がっしと結ぶ固い握手。ちょっと痛いと感じたくらい強く握られる。
「お、おう…。元気そうじゃねえか。」
 と乱馬も負けじとやり返す。ぐぬぬっと二人の顔が引きつり始める。
「こらこら、あんたら。血行が悪くなるほど、強く握らんかってええやんか!まだ試合は明後日からやで。ほんまに、勝気なんやから、どっちも…。」
 脇でみさきが笑い転げた。
「ほな、行こうか…。俺らの道場は、ミナミにあるねん。」
「ミナミ?」
「ああ、こっから地下鉄で半時間くらいかかるかなあ。ほら、あかねはん、荷物貸し。俺が持ったろ。」
「あ、ありがとう…。」
「ふーん、凍也、かわいい子には優しいんやなあ…。」
「アホ!女性に優しいせんなんのは、当たり前のことやんけ。」
 そんな、おちゃらけた会話を楽しみながら、二人にくっついて、電車を乗り継ぐ。

「なあ、地下鉄って言ってたよな…。これって地上鉄道じゃねえか…。」
 ホームに上がった乱馬が目を回した。
「心配すんな、すぐ地下へ潜るわい。でもなあ、こっから反対方面の千里中央方面はずっと地上走ってるねん。大阪万博の時に開通した新線なんやで。」
「新線ってよう、大阪万博っていつの頃の話だよ…。」
「1970年やんけ。知らんのか?」
「知るわけねーだろ、生まれてねえよ!」
「ごっつい新しい感じの鉄道やったらしいで。ギンギラギンのシルバー鉄道車体って、当時は持てはやされたって、おかんが言ってたわ。」
「おかん?誰だよ、それ。」
「母親のことやんけ。母親は「おかん」、父親は「おとん」、常識やで。」
「知るか、そんな常識…。」
 ついつい、凍也の声につられて、乱馬のトーンも大きくなる。
「ちょっと、大人しく会話してよね。さっきから目立ちまくりよ…。あんたたち。」
 気恥ずかしくなったあかねが、乱馬を突付いたくらいだ。
「ええやんか、別に。減るもんやあるまいし…。ほら、そこここで大声でしゃべっとるやん。」
 確かに、そこここから、大声の会話がけたたましく聞こえてくる。大阪人は声が大きい。それに、言語が言語だけに、何だか思い切り違和感がある。
 そこら中に、久遠寺右京が大挙として居るような、ヘンな感覚に見舞われた。
(右京がけたたましいのが、わかるような気がするわ…。)
 あかねは大人しく、凍也と乱馬のけたたましい会話を聞き流しながら、ちょこんと座っていた。
 凍也が言ったとおり、鉄道はすぐに地下に潜った。ゴゴゴゴっと音がくぐごもり、さらに声のトーンが上がっていくように思った。

『西中島南方(にしなかじまみなみかたー)、西中島南方。』
 アナウンスが到着駅を告げる。
「すっげえ回りくどい名前の駅だなあ…。方向に全然主体性がねえーっつーか。」
 乱馬が駅名を聞き流しながら、ボソッと言った。
「地名はむずいからなあ…。」
「そうね…。あたしたちが住んでる「練馬」だって、普通じゃ読めないわよね。」
 あかねが同調する。
 梅田(うめだ)に着くと、俄然、人が増えた。わさわさっとたくさんの乗客が乗り込んできた。
「何だ?何かあんのか?ここ。」
 乱馬が窮屈になりながら、ぼやいたほどだ。
「梅田はキタの中心やからな。JR大阪駅はここにあるねん。乗り換えターミナルやし、百貨店もあるから、人が多くてあたりまえや。」
 と、凍也が解説してくれた。
「へえ…。梅田が大阪の中心なのか。」
「いや、中心はキタやない、ミナミやな。」
「もう、自分が住んでるんがミナミの方やからって、そう強調せんでもええやん。」
 みさきが笑った。
「うるさいわい。大阪っちゅうたら、キタよりミナミや。おまえかてわかるやろが。」
 ちょっと不機嫌に凍也が答えた。

「何か、随分、天井が高いわねえ…。この駅。」
 淀屋橋駅へ着いたとき、あかねが窓の外を見ながら言った。
「梅田から心斎橋間は昭和八年開業の一番古い路線やからなあ…。うちのおじいとおばあが生まれた歳やって言っとったわ。」
「おじいとおばあ…ね。」
 あかねが苦笑いした。「おかん」だの「おとん」だの、関西人は愛着を持って家族をそう呼ぶらしい。
「当時、地下鉄工事に関わった大阪の市長が先見の明がある人やってんで。どないすんねん、こんな大きな駅、って言うほど長いホームを最初から作っとったんやと。明日行くと思うけど、この上通ってる「御堂筋」なんか、あんまりでかい道路やったから、こっから飛行機飛ばすんかって陰口叩かれてたらしいで。」
「へえ…。凍也君って詳しいんだ。」
「ってか、こいつ、ヘンなウンチクだけはあるんや。おまけに鉄属性やし。」
 ケラケラとみさきが笑った。
「鉄属性?」
 聞き慣れぬ言葉に、あかねは目を丸くして問い返す。
「鉄道好きな人間を「鉄っちゃん」て言うところから取った言葉や。知らん?」
「うーん。訊いた事あるような、ないような…。」
「ほんま、武道家の家に生まれへんかったら、電車の運転手になっとったかもしれんほど、鉄道好きなんや、凍也は。」
 みさきが笑いながら言った。
「鉄道は男の浪漫やんけ。なあ、乱馬。」
 凍也は乱馬に同意を求めた。
「うーん…。俺にはよくわからねーや。」
「あん?電車とか車とか飛行機とか、興味ないんか?」
 凍也が不思議そうに乱馬を眺める。
「こいつは根っからの武道オタクなのよ。中国へ修行へ行ったときだって泳いでいったくらいだもの。」
「ひょええ…。日本海の荒波泳いで渡ったんか?アホ通り越してオオバカこいとるやんけ。」
「原始的な肉体派の人間に文明の利器は、関係ないのよね。乱馬。」
「うるせー!」
 そんな楽しい会話を楽しむうちに、目的地へと辿り着く。
 
 天王寺(てんのうじ)。
 大阪の南にあるターミナルだ。古来から四天王寺という寺を中心に栄えた。 
 四天王寺。聖徳太子が「蘇我馬子」と「物部守屋」の戦いに、蘇我方が勝利することを、四天王と呼ばれる東西南北の四守護神に祈願したことに起源する、日本でも古来の寺だ。
 JR環状線、阪和線、近鉄と鉄道もひしめき、大きなデパートもある商業地でもある。
「へええ…。新大阪なんか比べ物にならねえくらい、人が多いじゃねえか。」
「当たり前やないけ!聖徳太子さんの時代から人が往来している場所やど。あんな、北のど果てなんかと同じに扱うな。アホ!」
 凍也が笑いながら突っ込んだ。
「うちらの道場は阿倍野(あべの)場末にあるねん。」
「阿倍野?」
「天王寺の古い呼び方や。」
 ターミナルの人ごみを避けながら、地上に上がり、すっかり日の暮れた街を通り抜けた。繁華街の喧騒からちょっと遠ざかった辺りに、その建物はあった。
 四階建ての鉄筋コンクリートビル。壁のくすみ具合から
、昭和中頃に建てられたような感が漂う。エレベーターは無く、階段がある。押し引きのガラスの戸の前に、「無差別格闘流・観月流」と墨で書かれた看板が、掲げてあった。



つづく




一之瀬的戯言
◇御堂筋(みどうすじ)
 地下鉄御堂筋線は昭和八年に開通した大阪で一番古い路線。
 JRや阪急、阪神のターミナルがある梅田(大阪)、京阪の終着駅がある「淀屋橋」、たくさんのオフィスビルがある「本町」、言わずと知れた繁華街「心斎橋」と人の動きが一番激しい中央的路線でもあります。戦後、なんば(近鉄大阪線ターミナル駅)から天王寺(JR関西線、近鉄ミナミ大阪線ターミナル)までが延長されました。
 「新大阪」は新幹線のために作られた新駅で、大阪の人間から見れば、場末の北にあるイメージがあります。大阪万博の年、千里中央までの路線「北大阪急行」が延長され、さらに近年は天王寺から南は中百舌鳥(なかもず)まで路線が延び今に至っています。
 作品中で凍也が言っているとおり、開通当時の御堂筋線や御堂筋道路は「こんな巨大なもん、どないすんねん?」と酷評だったそうです。当時の関大阪市長の先見は時代人の予想を大きく越えていたそうです。彼は一両で走っている電車もいずれは七両、八両となると、本気で思って構築し建設したのだそうです。
 開業当時の駅ホームは今でもそこだけ天井が高く、シャンデリア風の電灯まであり、なかなかハイソな感じであります。
 御堂筋は万博の年、渋滞回避のために南向きの一方通行になりました。高島屋までの道がそのまま南向き一方通行で壮観です。御堂筋には銀杏並木があり、秋になると銀杏が臭いです。
 対になる北向き一方通行は東の「堺筋」になります。
 また、大阪は昔から、南北の通りを「筋(すじ)」、東西の通りを「通り」と呼び習わしています。

◇キタとミナミ
 大阪の区分です。
 梅田を中心とした繁華街は「キタ」。キタ新地という言葉が示すように、後の時代に出来上がった街です。キタ新地には飲み屋街がひしめいています。
 キタのスポットは「阪急百貨店」と「阪神百貨店」を中心に発展を遂げ、「阪急三番街」などの地下街も賑やかです。最近、伊勢丹も入って来て、北側の開発も進み、グランフロントというビルが建っています。
 梅田は埋めた田という意味もあったようで、東海道本線が敷かれるまで、キタはあまり人が通わない場所だったとか。


 一方ミナミは心斎橋、難波(なんば)辺りから天王寺(阿倍野)界隈までの総称です。難波と天王寺は少し離れていて雰囲気も少し違いますが一括りにされることも多いです。新幹線が通る前までは、関西本線の発駅として、夜行列車が多く、ここから東へ向けて旅立っていました。
 心斎橋には大丸(昔はそごうもありました)が、難波には高島屋と丸井が、天王寺には近鉄百貨店とあべのハルカスがあります。また、古くから商人の町として栄え、道頓堀や戎橋筋は心斎橋と難波の間に位置します。
 難波から天王寺の間にある電気街・日本橋もミナミに属します。
 洗練されたキタに比べ、泥臭いいわゆる「浪花」がミナミには多く残っています。お笑いの吉本の本拠地もミナミにあります。

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