◇天高く 第二部

第十話 蒼天高く

一、

 表と裏。二つの観月流が、激しくぶつかり合った刹那。

 先に技を放ったのは、裏観月流使い手、観月氷也だった。
 表観月流の弟子たちが、観客を守るために作った、見えない冷気の防護壁。それを逆手に取って、作り上げたリング上の「冷空間」。そこへ閉じ込められた冷気を、巧みに身体へ取り込み、そいつを膨大なエネルギーとして、凍也目掛けて、最大級の冷気弾を撃ち放ったのだった。


 ゴオオオオッ!


 氷也の放った気は、周りの冷気を巻き込みながら、更に成長を続ける。そして、見事な氷柱を、凍也の身体の中央を目掛けて突き立てようと突き進む。
 勿論、知っていて避けぬ凍也ではない。ギリギリまで踏ん張って、そして、ふわっと、かわすように空を舞った。

「逃げても無駄や!第二波がおまえを貫き通す!」
 予め、避けられることを予見して、氷也は追い討ちをかけるように、続き様に気弾を撃とうと、身構えた。

「引っかかったな!氷也っ!」
 空で凍也が叫んだ。
「ワイはただ、闇雲に逃げたんやないど!」
 その声と共に、彼の背後が激しく蠢いた。
 そうだ。さっき、試しうちでほころんでいた防護壁の一角が、氷也の放った氷柱によって、着き貫かれ、崩れ去ったのだ。
 ミシミシ、メキメキッと氷が割れるような音が、背後の空間で瞬時に起こった。
 貫かれた防護壁に、大きな空気穴が開くのに、時間を要さなかった。
 貫かれたと同時に、外から、観客たちの熱気が入り込んでくる。

 元々、閉鎖空間はリング一つ分。それに比べて、外側はドーム球場いっぱいに篭った熱気。漏れていく冷気よりも、入ってくる熱気の方が、遥かに上だった。

「なっ、何やと?」
 氷也は一瞬、怯んだ。だが、時既に遅かった。

「かかったな!氷也!ワイの凍れる冷気、全てお見舞いしたる!観月流改訂版飛竜昇天破っ、でやああああっ!」
 最後の最後まで堪えていた凍也は、背後に生じたほころびから、猛烈に入り込んでくる「熱気」、そいつをバックに背負い込んだまま、渾身の冷気の拳を、氷也目掛けて、打ち下ろした。

 ドオオッ!

 激しく、リング周辺の空間が慟哭した。
 トルネードのような竜巻が、身構えた氷也目掛けて、強襲していく。

「うわああああっ!」
 一溜まりもなかった。
 氷也は、凍也の放った飛竜昇天破の作り出した竜巻に凌駕されていく。

「やった!凍也の奴、飛竜昇天破を撃ち込みやがった!」
 乱馬が叫んだ。
 さすがに凍也も一流の格闘センスを持ち合わせている。未熟とはいえ、前に対戦した乱馬の必殺技「飛竜昇天破」を打ち込んでいた。彼もまた、冷気を扱うスペシャリストらしい。乱馬の技の芯を、一度喰らっただけで己の身体に覚えこませていたのだった。

「氷也あっ!最後の、とどめだ!でやああああっ!」
 飛竜昇天破を撃ち放った凍也は、そのまま、竜巻と共に、上空から氷也目掛けて、身体ごとぶつかっていった。

「くっ!俺が表に負けるなんて…。そんなこと…。」
 大きなドームの屋根を仰ぎながら、仰向けに氷也が倒れ込んでいく。ゆっくりと虚空を描きながら、凍也にタックルされたまま、背中から、ドオオッと斃れ込んだ。

 うおおおっと、歓声が辺りから湧き上がる。

 審判が出てきて、カウントするまでもなく、氷也はぶざまな姿を、リングの上に曝し出している。
 勝敗は決した。
 最後の最後、凍也に勝利の女神が微笑みかけたのである。

「やった!凍也っ!」
 矢も盾溜まらず、乱馬は、無謀にも、スタンドの二階席から、たっと飛び降りた。相当な高さがあるが、日ごろから荒修行に明け暮れている乱馬には、さほど問題になる高さではなかったようだ。勿論、凡人には決して真似出来ぬ飛び降り技だった。
 乱馬はリングへと駆け上がり、気力だけで立っていた、勝者、観月凍也を脇から支えた。

 思わぬ、乱馬の乱入に、狂喜した観衆が、ワアアと大きな歓声をあげる。
 氷也に翻弄された傷が、あちこち口を開き、純白の道着をところどころ、血で赤く染めている。
 ハアハアと肩で息をしながら、凍也は乱馬に言った。
「やった…。勝ったで。俺が勝ったんやーっ!」
 喜びの涙で顔中がぐちゃぐちゃになっている。

「ああ、おめえは本当によく闘ったよ。凍也。」
 乱馬も脇で凍也を支えながら、噛みしめるように続けた。
「見ろ、大観衆が、おめえを褒め称えてる。」
 乱馬は凍也を支えながら、会場を見渡した。

 割れんばかりの拍手が沸き立つ。興奮した観客が、凍也コールを叫び始める。怒号のように、ドーム内に響き渡る、大観衆の声。
 まだ、準決勝なのに、決勝で優勝が決まったような、大声援だった。

「ウイナーは観月凍也だ。」
「せやな…。この闘いは…。」
 凍也の息がまた、上がったように思った乱馬は、思わず、彼を制していた。
「これ以上、話すな。身体に障るぜ。」
「いや、ええんや。勝利はやっぱり、ええもんやなあ…。」
 そこにあるのは、力いっぱい闘った後の勇者の顔だった。乱馬に寄りかかりながらも、凍也はじっと、観客席を仰いでいる。表情は穏やかで、一縷の曇りも無い。

「凍也!」
 脇からみさきが飛び出してきた。
 さすがに、乱馬のように、スタンド席から飛び降りるまではいかなかった。ゆえに、階段を降り、ぐるりと回って、リングへと駆け上がって来たのだ。
「みさきか…。ワイ、勝ったで。」
 にっと笑ってピースを作って見せる。
「もうええ…。もうええんや。凍也…。あんたはようやった。虚勢を張らんでもええ。もうええんや…。」
 それ以上は言葉にならなかったようだ。乱馬に支えられた凍也に寄りかかって、泣き崩れた。
 大観衆の目前だということなど、彼女の脳裏からは消え去っているようだった。
「みさき、おまえ…。」
 凍也はじっと許婚の方を見た。
「こら、わかったから、泣くな!アホッ!皆が見てるやんけ!」
 思い切り動揺しているのが、乱馬にもわかった。
「こら!自分なあ!ワイは怪我しとんやぞ!痛いやんけっ!」
 と怒ったり、弱ったり。勝者らしくなく、ボロボロだった。が、一向にみさきは、凍也の身体にはりついたまま、顔も上げようともしなかった。

 ふっと、乱馬の表情が緩んだ。
「色男も台無しだな。」
 ぼそっと凍也に向かって吐きつける。

「何やと?他人事やと思いやがって…。タタタ、痛いやんけ!」
 立っているだけで精一杯の凍也。だが、みさきを目の前に、最後の力を振り絞って立っていた。
 やがて、担架が運び込まれて、気絶したままの氷也ともども、凍也も乗せられた。乱馬とみさきが両側から支えたとしても、リングから歩いて降りられそうになかったのだ。
 割れんばかりの拍手の中、今日の英雄は運び出されていく。

「これで、みさき…。おまえは自由や…。もう。流派のしがらみを気にする事はあらへん…。良かったな…。」
 凍也はそう、声をかけた。
「凍也…。もうええんや。表観月流も裏観月流も、流派がどうのこうやっていうことは…。
 ウチは生身の凍也が好きや。せやから…何があっても、この先にどんな棘が立ちはだかっとっても、ウチはあんたと連れ添って行く。そう決めとんねん。
 あんたが何を、どう思おうと、うちの気持ちは変わらへん。あんたの生き様、最期まで見極めたる。」
 その言葉に、ハッとした表情を傾けたのは凍也だけではない。乱馬も、ハッとして、乱馬はみさきを省みた。みさきは黙って頷いている。

「みさき…さん…。おめえ、まさか…。」
 そう言いかけた乱馬の言葉をみさきは遮った。
「凍也、行こう…。救急車が来たみたいや…。」
 みさきは、乱馬の前を通り過ぎ、出口へ向けて、担架を先導し歩き出す。
「ありがとう、乱馬君。凍也の最後の試合を、見届けてくれて…。大丈夫や…うちなら…。」
 みさくは、ペコンと頭を下げた。その、瞳に、かすかに涙が伝うのを、乱馬は見逃さなかった。

「みさきさん…。やっぱり君は…。」
 その言を遮るように、みさきは凍也と共に、外へと向かって歩き出す。
 
 みさきの態度は全てのことを悟っている。
 乱馬は咄嗟に、そう思った。
 裏観月流との確執を独自ルートから突き止めていた彼女のことだ。もしかすると、凍也がひた隠しに隠し続けているもう一つの「禍根」も。全て。
(いつも寄り添うように共に居る許婚だからこそ、隠し事はできねーってか…。)
 乱馬はぎゅうっと拳を握り締めた。

 と、氷也に裏観月流の爺さんは話しかけていた。氷也は意識が無く、爺さんが一方的に呟いていたのだが。
「くそ…。あと少しというところで詰めが甘かったな。フン、表の奴らめ、これで終わりではなさそうだしな…。ふふふ。次こそは…。」
 その言をすぐ傍で乱馬は受け流した。

「闘いを復讐という色に染めてしまった時点で、爺さん、あんたの負けだったんだよ。」
 乱馬はその言葉を受け流しながら、そう呟いた。爺さんはピクッと背中を動かしたまま、その場で止まってしまった。
「おまえなどに、何がわかる…。」
 爺さんは呟くように吐き出した。
「わかんねーし、そんなもん、わかりたいとも思わねえ…。怨念や恩讐…そんなものを拳に込めてしまったら、それ以上の何物も生まれないぜ…。それに…。凍也や氷也の祖母でもある、あんたの妹さんは、本当に復讐を望んでいたのか?」
 真っ直ぐに乱馬は爺さんを見据えた。射るような厳しい瞳で。
 爺さんは思わず視線を外してしまった。
「ま、もっとも、俺は部外者だからこれ以上は言えねーけどな…。でも一つ確かなことは、憎しみを原動力にしたあんたや氷也の武道は…必死で己の愛する者の未来を拓こうとした凍也の武道には、敵わなかった…ってことさ。
 武道を憎しみの手段としてしか捕えきれない限り、あんたや氷也の武道は、上を行く事はできねーぜ。凍也ばかりじゃなく、俺にも勝てないだろうな。」
「ふふふ、小僧っ子が何を言うかと思えば…。まあ、良いわ。ワシの調べたところによると…凍也は別に爆弾を抱えておるようだしのう…。」
「おい…てめえ…。」
 乱馬がぎゅっと拳を振り上げようとした。
「おっと…その反応。ということは、おまえさんも知っておるのか…。凍也の秘密…。ならば、いずれ近い将来、おまえさんと氷也は一度、やり合うことになるかもしれんな。」
「どういう意味だ?そいつは…。」
「何…。時が来ればわかるよ。ワシも氷也も一度やられたくらいで引き下がるつもりはないでな…。っふっふっふ…乱馬とやら、せいぜい、技を磨いておくのじゃな。無論、氷也も鍛えておいてやるがな。はっはっは。」
 爺さんは愉快げに笑った。
「今度は負けぬぞ。裏観月流の名にかけてもな。」
 そう吐き出すと、ゆっくりと爺さんは気を失った氷也を抱えながら、乱馬の傍を通り抜けて行った。

「乱馬…。」
 背後から声をかけてきたのはあかねだった。試合後、飛び出した乱馬やみさきたちから、あかねだけ取り残されたようになり、やっと、喧騒の中を乱馬を見つけ出した様子だった。
「あ、あかね…か…。」
「凍也君、大丈夫なの?」
「さあな…。この先は医者の領分だからな。」
「暢気ねえ…。あんたの対戦相手でしょ?」
「あ、まあな…。でも、多分、明日の試合に臨むのは期待できねーだろうな…。」
「そんなに怪我が酷いの?」
「氷也の野郎、むちゃくちゃやりがったからな…。ま、あいつも無事じゃねーだろうけどな。」
 チラッともう一方の担架の方を見やった。
 確かに、氷也もかなりのダメージを食らったようで、まだ、意識を取り戻していない。
「この勝負ではっきりした事は、格闘は決して復讐の手段にはなり得ないってことさ…。奴の意識が戻ったら、否が応でも認めざるを得ないだろうな…。怨恨が入った時点でもっと大切な物が見えなくなるってな…。」
 ポツンと乱馬が言った。
「あんたらしくないほど、真っ当な物言いね。」
「るせー!」
「で?凍也君の病院には行かないの?」
 あかねは尋ねた。
 乱馬は腕組みしながら答えた。
「行っても満身創痍な姿を俺やおまえに見せたくはないんじゃねーか?あいつ、あれでいて勝気だろうしよ…。」
「ナルシストなあんたじゃあるまいし…。」
「ま、今日のところは大人しく、宿へ帰ろうぜ…。」
「宿ったって、みさきさんと凍也君の道場兼自宅じゃないの。」
「まあ、そうには違いないだろうけど…。でも、凍也君大丈夫かしらねー。」
 と口ごもるあかね。凍也の様子が気になるのだろう。
「あのなあ…。たく、気を回せっつーの!凍也とみさきさんは…その…。許婚なんだぜ。お邪魔になるだけじゃねーのか?…みさきさんと二人きりになりたいだろうし…。」
「あ…そっか…。」
「全く、気を利かせろっつーの!」
 乱馬はあかねのデコを人差し指でツンと弾いた。
「あんたに言われたかないわよ。」
「とにかく…。帰ろうぜ。明日、まだ、決勝戦が残ってるだろ?勝つって決まった訳じゃねーんだぞ。」
 乱馬に促されて、あかねは観月流の道場へと戻る事にした。準決勝でみさきに辛勝したものの、まだ、もう一試合残っていたからだ。乱馬も同じく決勝戦が残っていたが、対戦相手の凍也の様子からは、恐らく不戦勝、または、決勝戦延期の措置が大会本部からとられるのは明白だった。
「そうね…、帰る前にお見舞いに行けば良いかしらね…。」
 あかねは乱馬と肩を並べながら、宿である観月流の道場へと帰って行った。


二、

「ごめんなー、凍也の奴、来られへんで…。」
 新大阪駅。新幹線のホームで、みさきが二人を拝んだ。
 冬の重たい空が、ホームを見下ろしている。吹き抜ける風は、どこか冷たい。太陽の光線も翳りがあり暗い。まだ、夕方とは言えない時間なのにである。
「仕方ないわよ…。あんな怪我させられちゃったんだし…。それより、短い間だったけれど、お世話になりました。」
 あかねはペコンと頭を下げた。
「いややわあ…。そんなしゃちほこばらんでもええやん。」
「で、凍也君、その後、どう?」
「あーんまり変わらへんわー。医者ももう少し怪我が癒えるまで退院はあかんって。」
「そう…。よろしく伝えてね。」
 あかねとみさきの脇では、乱馬は黙って二人のやり取りと見ていた。手には、さっき、下のコンコースで買い込んだ土産物の入った紙袋とどっさりと抱えている。軽いお菓子とはいえ、結構な数買い込んだせいで、かさ張る。

「ほら、突っ立ってないで、あんたも、お辞儀くらいなさいよ。もう!」
 あかねは乱馬のわき腹を突っついた。
「お、おう…。みさきさん。ありがとう。世話になったな。」
「ううん…こちらこそ…。いろいろと…その。」
 二人は何かかみ殺したような表情を互いに手向けた。
「もー、何?あんたたち。乱馬もしゃっきりとしないんだから!たく、江戸っ子でしょう?」
「う、うるせー。俺はおまえと違ってナイーブなんでぃ!」
「誰がナイーブですってえ?」

「ほんま、あんたら見てると、子供の頃のうちらを思い出すわ。」
 ふっとみさきの顔が緩んだ。
「子供の頃のみさきさんたち?」
「ああ、そーや!他の弟子たちの手前、お互いの気持ちを隠して生活していた頃のあたしと凍也のな…。」
「おい!それってお子ちゃまだってーのか?」
 乱馬がみさきを睨んだ。
「それに近いやんかー!たく…。あんたらくらい純情なカップルって、奇跡に近いで!許婚の約をかわしてるのに、まーだ、二人ともお互いの身体、知らんやろー。」

 みさきの言葉に、乱馬もあかねも、うっとなってしまった。

「みてみい…。うちと凍也が気を利かせて同室に寝かせたったのになあ…。手も握ってないやろ?あんたら。」

「う…うるせー!ほっとけ!」
 ふいっと乱馬が横を向いてしまった。
「ほんまに純愛貫いてんやなあ。国宝級やわ。」
「み、みさきさん!」
「ま、カップルにはそれぞれ、見合った距離と進度っちゅうのがあるしなあ…。それはそれでええんとちゃう?」
 みさきは乱馬に振り返った。
「それより、乱馬君…。もしものときは、昨日、お爺はんが話したはなしやけど…。」
 と持ちかけた。
「うちからも頼むわ。力貸してくれるか?」
「あ、ああ…。わかった。そのつもりはしておく。」
 乱馬はポツンと言った。
「ちょっと、何、何?お爺さんからの頼みごとって?あたしは訊かされてないけど?」
 あかねが二人の間に割って入った。
「ああ。昨日、おまえがインタビュー受けている間に、寒太郎爺さんに呼び出されて頼まれたんだ。」
「寒太郎爺さんに頼まれたこと?」
「そら、俺、進学しねーだろ?凍也も暫く第一線復帰するまで時間がかかりそーだからな。人手に窮したら、ちょっとの間、道場運営を手伝ってくれねえかって頼まれたんだ。」
 と、乱馬はすらっと答えた。
「そうそう。そーやねん。凍也、あれでいて、うっとこの道場、結構仕切っとったさかいにな…。長期療養となったら困るねん。それで乱馬君の力を借りたいって思ってな。」
「なるほどね…。あんた、受験関係ないから、三学期は暇だものねー。」

 と、別れを惜しむ、三人の上を、出発を告げるベルが鳴り響き始めた。ルルルルという柔らかな新幹線の出発音。

「ほら、そろそろ乗らんと、のぞみ、出発してまうで。いくら始発でも、時間厳守やからなあ…。のぞみはんは。」
 みさきが笑った。

「そうね…。せっかく指定席取ってるし…ほら、乱馬、乗るわよ。」
「お、おう…。」
 慌てて、ドアの中へと飛び移る。

「また、会おうね。みさきさん。今度は凍也君と二人、東京へも遊びに来てね!」
「そやな…。いつか、行かせてもらうわ。あかねちゃんは受験、頑張ってな…。」
「うん、頑張るわ。受験が終わったらまた手合わせしてね!」
「今度は負けへんで!」
「あたしだって、負けないわよ!」

 みさきがそう言ったところで、ドアがゆっくりと閉まった。そして、列車はゆっくりとホームを滑り始める。

「ありがとう…。」
 かすかに、みさきの声がドアの向こう側で響いた。そして、思い切り手を振る。
 あかねもそれに応えて、手を大きく振り返す。
 列車は次第にスピードを増し、みさきの姿も、後方へと押しやって行く。みるみる、白いホームも振り切り、一路、東京へと向かって走り始める。
 遥か後方にそびえる、大阪のビル群。やがて、本気で走り出す列車に、最早、別れの時を惜しむ情緒は無い。
「ほら、座席、行こうぜ。ずっと立ってる訳にもいかねーだろ…。」
「そうね…。」
 乱馬に促されて、自動ドアの向こう側の空間へと足を進めた。
 列車はゴウウッと轟音をたてながら、快調に走り続ける。車内アナウンスの声が、柔らかに響き始める。ビジネスマンや帰省に急ぐ旅客たちが、各々の座席で蠢いている。どこにでもある、車内の風景。子供のはしゃぐ声もどこかで響いている。
 手荷物を床や棚に上げ、ゆっくりと腰を下ろす。柔らかなクッションに身をゆだねて、ゆっくりと背中を倒す。

「あっという間だったね…。一週間なんて…。」
 ポツンとあかねが言った。
「そーだな…。」
「いろいろあったけど…。ま、お互い、成績を残せて良かったわね。乱馬は結局、凍也君の怪我辞退で、決勝戦不戦勝で不服かもしれないけど…。」
 乱馬は不戦勝で優勝。そして、あかねは堂々と相手を倒しての優勝だった。あの大会、みさき以上のライバルはあかねには居なかったのである。圧倒的な強さで、決勝戦相手を倒した。
「もう一度、凍也君とあの場で闘いたかったでしょ?」
「まーな…。」
「あたしも、もっと気技を使いこなせるように、精進しないとねー。みさきさんと今度闘う時は気技が使えないと、きつそうだし…。」
「……。」
 あかねの傍の通路側の席で、乱馬は肘をついたまま、黙って車窓を見つめている。あかねの言葉を聴いてるのかいないのか。それとも、何か別のことを考え込んでいるのか。
「ねえ、乱馬ってば!」
 しびれをきらしたあかねが、思わず声をかけた。
「あ…。ごめん。ホッとしたのかな…。ぼーっとしちゃったぜ。」
 苦笑いしながら乱馬があかねに対した。
「そーよね…。慣れない土地でいろいろあったからね…。気疲れしちゃったわね…。」
「帰ったら、おまえは勉強だな。センター受けるんだろ?」
「ええ。あたし決めたわ。自分の力で進学するわ。」
「ってことは推薦の話は…。」
「受けない。だから帰ったら早速、志望大学へ出願しなきゃね。」
「出し忘れるなよ。」
「忘れないわよ…。あたし、やっと自分の進むべき道が、見つかったみたい。」
「そっか…。で?何を専攻するつもりなんだ?」
 と尋ねてみた。
「一応、スポーツ科学方面へ進もうと思ってるの。」
「スポーツ科学だあ?」
「最近はスポーツマネージメントに対する意識が高くなってきていて、マネージャーとかインストラクターを要請するための講座を設けている大学がたくさんあるのよー。健康志向って奴でね。」
「ふーん…。」
「そっちを勉強しておくのも良いかなあ…なんてね。まだまだ、自分の未来を切り開いていくのもこれからだけどね…。」
「そっか…。未来か…。」
 揺れる車窓の向こう側に、淡い空が広がる。
「まーね…。みさきさんという好敵手も目の当たりにしたし…。格闘技の方も捨てがたいから、学生リーグに所属してそっちはそっちで頑張るつもりよ。」
「おまえなあ…。格闘技は片手間に出来るような甘い世界じゃないことだけは肝に銘じておけよ。」
「わかってるわよ!でも、格闘技から離れてしまったら、あたしはあたしじゃなくなるでしょ?いずれ、あんたを傍で支えなきゃならないんだから…。」
 最後の方は少しはにかみながら小さく言い捨てる。あかねの描く未来絵図の中に、多分、乱馬の姿もあるのだろう。
「ま、自分の意思がはっきりとしたんなら、それでよかったんじゃねーのか。がんばれよ。」
「うん、不器用なりに頑張ってみるわ。」
 あかねの瞳は己の未来予想図がありありと浮かんでいるかのごとく、澄み渡っていた。彼女なりに、今回の大阪遠征で何かを掴み取ったようだ。
「で…、乱馬、やっぱり進学の意思はないわけね?」
 返す口で、あかねから確かめられた。
「ああ。春になったら、本格的に修行に出るつもりさ。女体質もいい加減、治したいしよー。」
 己の未来図もあかねに少し話し始めた。
「修行しねーとな…。このままじゃあ、ただの強い男で終わっちまう。俺は俺の格闘スタイルを身につけて、もっと高みをめざしたいんだ。まーだまだ、ヒヨッコだからな…。」
「そう…修行に出るの。」
 少し寂しげにあかねが乱馬を見た。
「もっと強くなりてーしな…。もっと上に行きてえ…。精一杯、与えられた時間、格闘家として生きないとな…。」
 遠くを眺めるように、乱馬は言った。
「何、黄昏(たそがれ)てるのよ…。気色悪い。」
「あんだよ!」

 
 そうだ。線路の上を走る列車のように、あかねの上には希望の未来が続いている。何も疑う事の無い未来が。真っ直ぐに蒼天を見上げる瞳が、如実にそれを物語っている。
 このまま空を飛んで行きそうな勢いで、のぞみは走り続ける。

(人にはいろんな人生があるからな…。太く短い人生もあれば、細くても長い人生も…。)
 飛ぶように過ぎる景色を眺めながら、ふっと乱馬は思い出す。
 凍也の、悲愴なまでの澄んだ瞳を。

『俺は最期まで、望みは捨てずに…己と闘うわ。その覚悟はとっくにできてるねん。』
 氷也との対決を前に、乱馬に語った言葉。その言に対して、何も言い返せず、ただ、頷くことしかできなかった己。
『何があっても、この先にどんな棘が立ちはだかっとっても、ウチはあんたと連れ添って行く。そう決めとんねん。』
 凍也の顔に、みさきの凛とした顔も重なる。

(人それぞれ…。いろんな愛の形がある…か。)

 ふと隣を見れば、疲れたのだろう。あかねが、こっくりこっくりとやり始めていた。
 流れる蒼天に栄える、許婚の寝顔。寄り添ってくるあかねのぬくもりに、尖っていた気が、一気に和(やわ)らぐのを感じた。

(こいつの泣き顔だけは、見たくねーな…。)
 ふうっと溜息を吐き出した。

 日進月歩。少ししか進まない遅い関係ではあるが、それが自分たち二人の進度なのだ。だが、遅い関係ではあるが、この温もりを手放すつもりは無い。その気持ちだけは、はっきりとしている。
 東京へ帰れば、再び、喧騒の日々が待ち受けているだろう。
 シャンプーや右京、小太刀たちあかねのライバルたち、そして、九能や良牙といった己のライバルたち。かしましき日々が再び始まる。
 それだけではない。年明けと同時に始まる、あかねの受験、それから己の修行準備など…。
 自分の先に、すぐ先の未来がありありと浮かび上がってくる。他愛の無い日常。その日常の存在があることこそが至福なのだと、己に言い聞かせた。

(今は何も考えたくねーな…。凍也や寒太郎爺さん、そしてみさきさんに頼まれた事も…何も考えず…。今しばらくは、あかねの温もりを…この平穏な幸せを感じていてえ…。)
 そっと触れる手であかねの小さい手を包み込む。柔らかく握りながら、ゆっくりと目を閉じた。
 その耳元で、心地の良いレールの音が、穏やかに響き続けていた。



2007年12月15日 完筆






一之瀬的戯言
 実はこの物語、以降、物凄く重い話へと突き進みます。
 で、書こうとすると、横やりが入るという曰くつき。
 近しい人が死んだり、入院したり、しまい目には己も病に倒れるなどなど…。そのまま消沈してぷしゅー。今回も義母が・・・以下略。
 でも、義母の緊急入院を経て、やっと、最近、今だから最後まで書けるのではないかと思っております。停滞していたプロットもだいたい流す方向が決まりました。手が止まって数年…。
 2012年に発症した脳梗塞で右半身片麻痺になって、いろいろ、物の感じ方や見方が明らかに変わりました。
 そのあたりを表現の中に出せたら…と思っております。


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