天高く   後編


七、

 次に目覚めたとき、ベットの上に横たわっていた。すすけた天井がぼんやりと見下ろしていた。

「やあ、気分はどうだい?」
 目に入ったのは東風先生の笑顔。いつものニコニコ顔だった。
「あ…。」
 あかねは跳ね起きようとして、制された。
「ダメダメ…。急に起き上がるのは良くないよ。足だってほら。」
 促されて足元を見ると痛々しげな白い包帯。
「無理に動かさない方がいい。二、三日は安泰にしておかないとすぐに治らなくなるよ。」
 東風は相変わらずニコニコとあかねに応じた。
「あの…。」
 白い記憶を辿りながらあかねは東風を見返した。
「乱馬くんが担ぎ込んで来たときはびっくりしたけどね。」
「乱馬…?…そうだ。あたし、控え室で乱馬に…。」
 あかねの記憶が蘇り始める。ゆっくりとだが、血が頭に巡り始めたのだ。
 そしてあかねは言葉を止めた。乱馬が己にしたことを思い出したからだ。
「その足でよく随分我慢できたね。偉いというより無謀だよ、あかねちゃん。」
 東風はやれやれというようにあかねを見返した。
「無謀って、先生…。」
「折れてはいないけど、靭帯がやられかけてる。無理していたら、神経を傷つけてたかもしれない。棄権して正解だったかな…。」
「棄権…。」
 そうだった。
 乱馬に熱く接吻されて、そのままみぞおちに一発食らわされて…。
 ほろりと一粒涙が零れた。悔しさからだったのか安堵からだったのか定かではない。
「まあ、どっちにしても、乱馬くんの判断は間違いじゃなかったよ…。そのまま続けていたら、何ヶ月か尾を引いてしまっただろうから…。」
 東風は微笑んだ。
 不意打ちのような甘いディープキスを食らわされてそのまま沈んだ己。まだ、その熱い感触が唇に残っていた。涙を零した後、右手でそっと唇に触れてみた。
 初めてだった。彼から熱い唇を重ねられたのは。
 軽く触れ合うだけのくちづけなら何度か貰ったことがあった。が、その辺はウブで天邪鬼な乱馬のこと。照れながら、それも恐る恐る軽くしか触れようとしない不器用なものだった。
 なのにである。乱馬の中に潜む激しい想いを垣間見せられたような熱い接吻。
 全てを吸いあげようとした甘い舌先の絡み合い。貪るように求めてきた乱馬。ギュッと力をこめて、抱きしめられた。思い出した瞬間、熱い血潮が身体を駆け抜け、胸の奥で心臓がドクンと唸り音を上げる。
 あかねを油断させるためだけにした行動とは、到底思えなかった。

「どうするんだい?このままここに居るのかい?それとも…。」
 東風の声に引き戻される現実。
「え…。あ、あの…。試合はまだ終わってないんでしょうか…。」
 あかねは口ごもりながら言葉を繋いだ。
「ちょうど、少年部男子の決勝が始まる頃じゃないかな…。」
 ちらっとあかねは時計を顧みた。三時半を示している。
「応援に行くのなら、僕が支えてあげるけど。」
「お、お願いします。」

 あかねとて不戦敗を期したとはいえ、武道家の端くれ。乱馬の、許婚の試合をこの目で見ておきたかった。彼が強敵を相手にどう攻めどう戦い抜くのか。そして、ここ数ヶ月の間に彼がどのくらい腕を上げたのか。

「じゃあ、ちょっと待ってて。一応激しい闘いになるだろうから、基本的な薬類くらいは僕も持っていかなきゃね…。」
 東風は笑いながら言った。

 足は思ったより腫れあがっているようだった。地面につくだけでも鈍い痛みが走る。強いられて試合を危険させられて正解だったのかもしれない。ぎこちなく足を引き摺りながら廊下を歩いてゆく。
 会場へ入ると、今しがた女子の部の決勝戦が終わったのだろう。試合場の上に高らかに祝勝の雄叫びを上げるみさきが目に映った。観衆たちはその若き女子チャンピオンに惜しみない拍手を送っているところだった。
 あかねは一番後方の入り口から中へと入った。東風に付き添われてゆっくりと中程へと進んでゆく。
「よお…。」
 背後で聞き覚えのある声がした。
 乱馬だ。
 あかねはわざとそれには答えなかった。まださっきのことを怒っているのよとでも言いたげに目を動かしただけだった。何よりあれだけの熱いキスを受けたのだ。気恥ずかしい思いもあった。
「守備はどうだい?乱馬くん…。」
 東風が口火を切った。
「まあまあってところかな。今度の相手は今までみたいに一撃では倒せねえだろうからな…。」

…一撃…。

 あかねの心に突き刺さる言葉。今までの対戦相手を一撃で倒していったというのか…。背中がぞくっとした。武道家の戦慄だったのかもしれない。
「強そうかい?次の相手は…。」
 東風が投げかけると
「ああ…。強え…。半端じゃねえな。五分の戦いが出来そうな相手だ。」
 きっと見上げる電光掲示板には「観月凍也」の名前が刻まれていた。
「心配すんな…。俺は負けねえ…。おめえの分も思い切りやるさ…。」
 乱馬は独り言のように呟いた。明らかにあかねに向かって言ったのだ。あかねは黙って頷いた。
 悔しかったが見上げる乱馬が今まで以上に大きく見えた。彼は男漢なのだと意識せずにはいられなかった。そう、彼に何処までもぐいぐいと惹きつけられてゆく己を感じていた。
 さっきのキスも男漢の彼に心ごし持って行かれたのだ。みぞおちに一撃を喰らうまでもなく、己は彼に敗退していた。そう思った。
 乱馬はあかねを見下ろして、にこっとひとつ笑うと、武道場へと歩き始めた。
 あかねはただ、闘いに赴く雄姿を黙って見送った。

「あかねちゃんっ!」

 今度は甲高い声が後ろでした。
「あ…、みさきちゃん。」
 振り返ると先の勝者が満面の笑みを浮かべていた。
「残念やったわ…。準決勝で闘えると思てたのに…。」
「ごめんね…。」
「ええのん、ええのん。まだまだ闘う機会には恵まれるやろし…。闘うんやったらお互いベストな状態でやらんと…。それよか、怪我したんやってな。足、大丈夫?」
「まあね…。あのまま続けてたら大変なことになったのだけは確かみたいだけど…。」
 あかねは苦笑いを返していた。
「大事にしいや…。それでも、良く棄権するって決心ついたな…。」
「え?」
「だって、そうやんか。棄権するほうが勝負に臨むよりよっぽど強い決意いるやんか。己をわかってへんとなかなかできひんで。」
「そ、そうかな…。」
「そうに決まってるやんか。登山家かって、目の前に頂上があるのに天候悪化で諦めてビバークせんとあかんときって相当な決断力要るっていうやん。でも、真の登山家はちゃんと決断下すんやから。あかねちゃんも大したもんやわ…。凍也もそう言ってた。」
 あかねは黙った。この棄権は己が下した結論ではない。乱馬に無理強いされた棄権だ。それを一番知っているのはあかね自身だった。
「それはそうと…。乱馬くん。彼も相当強そうやね…。」
 みさきがにっと笑った。
「何で?」
「だってほら、あの背中見てみぃ。ごっつう感じられる。背中がごつい男は強いんや。凍也も言ってた。」
「背中がごつい男?」
 「ごつい」という関西弁は、「大きい」「凄い」という言葉に当たる。
「ああ、そうや。男の強さは背中に一番に現れるんやて。ほら、見てみ、乱馬くん。強い気を漲(みなぎ)らせてる。相当の使い手やな…。凍也が喜ぶの分かるわ。」
「凍也くんが?」
「準決勝まではちゃちい相手ばっかやったから機嫌悪かってんけど、さっき、乱馬くんの試合見てて戦慄したそうや。本気で闘える相手やって。そらあ、ものごっつう喜んでたわ。」
「本気で闘える相手…かあ…。」
 あかねはそう言うと黙り込んだ。
 そうかもしれない。
 力の差が歴然とつき始めた最近の乱馬と己では勝負にはならない。乱馬も本気で渡り合える相手と久々に巡りあえて喜んでいるのだろうか。
 あかねはふっと溜息を洩らす。
「あかねちゃんも幸せもんやな…。」
 くすっとみさきが笑った。
「え?」
 意味がわからずにあかねはみさきを見返した。
「だって、乱馬くんとは将来誓い合ったんやろ?武道家として同じ道を行く相手としては、不足がないやんか…。」
「あたしと乱馬は別にそんな仲じゃ…。」
「じゃあ、なんで許婚なん?」
 あかねははっとして口を止めた。
「許婚」。言葉がずしんと己に響き渡った。
「親同士が勝手に決めた許婚だから…。」
 消え入りそうな声でそう答えた。そうとしか答えられなかった。
「そおかな…。彼の視線、物凄く柔らかいで。あかねちゃんを見詰めてるとき。さっき、うち見てしもた。険しさの中に物凄い情熱秘めた男はんやって思ったわ。あ、そっか…。あんたらまだ身体合わせる関係には至ってへんのか…。」
「え…?」
 唐突な問いかけだった。あかねはどう答えて良いのやら分からず、そのまま沈黙してしまった。
「ふうん…。奥手なんや。」
 みさきは愉快そうに笑った。
「ごめんごめん。許婚やからって誰もが同じ基準で物考えたらあかんねんな。さて、うちはあっちで凍也を応援してくるわ。あかねちゃんは乱馬くん応援せんとあかんもんな…。じゃっ!後でまた会おな…。」
 軽くウィンクするとみさきはあかねとは反対側へとゆっくり歩いていった。そちらには凍也が待ち受けている。

「随分、はっきりとした物言いをする子だね…。」
 東風があかねに語りかけた。
「ええ…。まあ。」
 あかねは投げかけられた言葉の衝撃に絶えながら試合場を眺めた。

『身体を合わせる関係に至ってへんのか…。』

 言葉が脳裏を巡る。
 同じ歳のみさきは凍也とそういう関係に至っているというのだろうか…。

『奥手なんや。』

 決してそうは思わないが、世間一般からみれば乱馬との関係はそう見えるのかもしれない。
 あかねは深く息を吐き出した。
 決勝戦が始まる。大歓声と共に。


八、

 少年の部の決勝戦。
 静かに対峙する少年が二人。 
 年のころも背格好も殆ど同じ。白い道着の乱馬と少し青みがかった道着の凍也。他に違うことと言えば、一人は長いお下げ髪を後ろに垂らしているのに対し、もう一人は真っ直ぐに跳ね上がる短髪であることだろう。静かに対峙する二人の身体からは、闘気が湧きあがるのが、あかねにははっきりと伺えた。蒼白いそれは見るものを圧倒するだけの力を帯びている。きっとあの最中(さなか)に立たされると、己は足が竦んで動けなくなる。そう思った。
 一見は静なる対峙。凛と空気が澄み渡る。だが、お互い譲らない激しい気力が内に秘められている。二人とも獣の目をしていた。
 竜と虎が互いを牽制しあっている。そんな形容がぴったりと来る。
 二人はピタリと構えた。
 あかねはごくんと生唾を飲み込んで二人を見詰めた。激しい動機が彼女を襲う。
 ポンとあかねの肩に東風が手を置いた。乱馬くんなら大丈夫と云わんばかりに。

 二人同時に動いた。
 空気が震撼した。
 バッシッと身体がぶつかる音が弾けた。
 互いの身体をつかみ合った取っ組み合いが始まる。まずは様子見の力勝負。
 歯を食いしばりながら互いに一歩も引かない。
「なかなかやるやんけ!」
「そっちこそっ!」
 にやっとお互い嬉しそうに白い歯を剥き出す。
 次に激しい拳と蹴りの応酬が始まる。片方が仕掛ければ、片方は受ける。息もつかずに繰り広げられる戦い。汗が弾け飛ぶ。二人の身体を滴ってゆく。
 場内は二人のせめぎ合いに惜しみなき歓声が湧き上がる。興奮の坩堝(るつぼ)へと飲み込まれてゆくのだ。それほどまでに二人の闘いは美しかった。人々の目を否応なしに惹き付ける。
 
「綺麗だ…。」

 あかねは二人のぶつかり合いを見ながらそう呟いた。
 男の肉体のぶつかり合いにはそこはかとない美しさがある。男と女のそれとは違う妖艶さがある。鍛え抜かれた肉体は凶器でありながら美しい。
 そう思った。

 暫し二人は様子を見るためにそのまま拮抗した闘いを続けた。
 だが、隙があらば、途端、相手に襲い掛かるだろう。野性の本能は互いを激しく牽制しあう。
 乱馬の動きに見惚れている己を発見してあかねは、はっとした。勿論凍也の肉体も美しいが、己の眼(まなこ)は乱馬に釘付けられている。彼の一挙手一投足を余すところ無く追う己。彼の息遣い、捉える眼差し、全てがぐんっと迫ってくる。光る汗、隙の無い動き、流れる脚、そして打ち出される拳。全てが愛しい。
 いつかあの逞しい腕に抱かれたい。遥かな憧憬があかねに募る。さっきの抱擁と、交わした熱い唇が生々しい感触となって蘇る。

「乱馬…。頑張って…。」

 手に汗握る闘いだった。

 バシンと激しい音がして、何度目かの競り合いを演じた乱馬と凍也。二人が離れると、互いに中段に構えながら今度は牽制しあう。動きがそこで止まった。
「やっぱり強いやんけ。面白い…。本気になってもかまヘンな…。あんたやったら。」
 にっと凍也が笑った。嬉しそうに笑った。
「本気でも何でも、好きなように来いよっ!相手になってやらあっ!!」
 息切れ一つ見せないで乱馬も挑発に答える。
「ほな、遠慮のう、いかせてもらうわ。覚悟せえやっ!」
 そう言い放つと、凍也は身体中の気を充満させはじめた。

「強いっ!!」

 あかねは固唾を飲んでそれを見守った。凍也の身体は蒼白く輝き始める。

「はあっ!!」
 凍也は腕を振るった。
 ビシッと何かが腕から弾けた。
「何っ!?」
 乱馬は間一髪でそれを避けた。
 ピシピシッと音がして敷かれた畳が破けた。
「とりゃっ!もう一発っ!!」
 凍也は再び手を振り切る。
「ちっ!気砲の一種か!」
 乱馬は、はっと飛び上がってそれを避けた。
 それを見て凍也はにんまりと笑うと、飛び上がった乱馬目掛けて襲い掛かる。
「たあっ!!」
「おっと…。」
 乱馬は飛んできた気砲を寸でで避ける。
 ビシッと音がして道着が裂けた。
「斬気型の技かっ!」
 乱馬はふうっと汗を拭った。
「どや?まだまだやで…。」
 凍也はまだ気を打って来る。
「ちっ!」
 乱馬はふうっと気合でそれを叩き割る。
 パリンと氷が砕け飛ぶような音がした。
(冷気?)
 乱馬はそれを見て取った。落ちてくる欠片は瞬く間に水蒸気になって空気へと返る。
(そうか…!凍也の気は冷却型なんだ…。)
 乱馬は凍也をきっと見返した。彼の背後に上がる気は蒼白く、恐るべき冷気を放っている。

「乱馬の奴…。何をもたもたしておるんじゃ?」

 あかねの背後で声がした。

「早乙女のおじさま?」
 あかねは振り返った。
「おう…。あかねくん、こんなところに。」
「あかね。ちゃんと応援しているかね…。」
「お父さんも…。」
「さっき、家から来たところですのよ。かすみちゃんとなびきちゃんはここにはいらっしゃらないのね。」
 のどかも顔を出す。
「え、ええ…。まあ、別のところに居ると…。」
「それよりか、大分と苦戦しているようだねえ。乱馬くん。」
 早雲が心配げに試合場を眺めた。
 確かにそうだ。乱馬は凍也の繰り出す技に四苦八苦しているらしい。
「何故、反撃せん。あやつにも飛竜昇天破などの技があるだろうに…。」
 飛竜昇天破。乱馬の必殺技だ。いろんな変形技があって、パターンに応じて使い分けられる。
(そういえば、乱馬…。螺旋ステップを踏まない…。踏もうともしない。何故?)
 あかねはじっと乱馬を見据えた。

 乱馬は必死で打ち下ろされる凍也の技から逃げていた。
「逃げてばかりやったら勝てヘンで。」
 凍也は余裕で笑いながら乱馬を追いかける。彼も戦い慣れているのだろう。必要以上には技を仕掛けなかった。仕掛けるという素振りを見せて乱馬を追いかける。そんな感じである。隙を見せれば襲い掛かるだろう氷の斬剣。

「そっか…。乱馬、飛竜昇天破を打てないんだっ!」
 あかねはそう呟いた。
「打てない?どういうことだね、あかねくん。」
 玄馬があかねを見返した。
「ほら、凍也くんの気を見て。おじさま。物凄い冷気が立ち上がってるでしょ。」
「冷気…。そうか。確か飛竜昇天破は周りの熱気を螺旋のステップで渦上にして掻き集め、それに打ち込む冷気の拳で竜巻を作り出す技だったな…。」
 玄馬は腕組みをしながら答えた。
「そう。だから、凍也くんの放つ冷気が相手なら…。」
「螺旋ステップを描いても、熱気は集まらない。従って飛竜昇天破は打てない…。」
 こくんとあかねは玄馬に頷き返した。

 実際あかねの推理は正しかった。
 凍也の放つ斬気断の正体が冷気と分かった以上、乱馬には飛竜昇天破は打てなかった。
(くそっ!このままじゃあいつの思う壺だ…。)
 乱馬は逃げながら考えを巡らせた。おそらく凍也は乱馬が疲れてへばるのを待っているに違いない。乱馬の動きが鈍くなった時、改めて凍也の斬気が強襲するだろう。その時は容赦なく彼の気に切断される。
 凍也は余裕を持っているのだろう。にやりと笑うと叫んだ。
「観月流奥義、斬気氷竜破っ!!」
「何っ?」
 凍也の身体が一瞬大きく凍りついた。そして差し上げられた両手を振り下ろす。
 氷の竜が飛び出してきた。
「はあっ!!」
 乱馬は一気に体温を上昇させて気を右手に一極集中させて打ち出した。
 
 ドンッ!ビシッ!!

 二人の中間で青い気と赤い気が混ざり合って弾けた。煙がもうもうとあがり、墨臭い匂いがした。

 おおーっと場内が一斉に沸き立つ。
 すざまじい技の炸裂であった。
 ようよう収まった煙の中から凍也と乱馬が浮かび上がる。
「へっ!かわしよったか…。」
 余裕の凍也に比べて、乱馬は肩で息をしていた。咄嗟のこととはいえ、技を見切って気功弾を炸裂させたのだが、明らかに体力を相当に消耗していた。
 場内はどよめきと歓声に包まれる。互いの一歩も引けを取らない熱闘ぶりに熱狂しはじめる。武道とは得てしてそのようなものだ。
「相当、今ので体力を消耗したやろ…。ふふ、今度は避けられへんで。」
「さて、それはどうかな…。」
 肩で息をしながら乱馬が凛と凍也を見詰めた。

 乱馬は悟った。このままではやられる。やられないためには、逃げてばかりいては埒があかないことも熟知していた。残った気力で打てる技。それは非力でも気を取り込んで駆逐する威力を持つ「飛竜昇天破」だけだ。
 乱馬は決意した。
 そして、間合いを取りながら、螺旋のステップを描いてゆく。


九、

 ゆっくりと試合場の中心へと誘うように乱馬は螺旋のステップを描き始めた。

「乱馬…。お主、捨て身か?相手の技が冷気を使う以上、熱くはなれぬ。熱気は得られんのだぞ…。」
 玄馬が叫んだ。
 あかねはじっと乱馬の動きを目で追っていた。
(乱馬…。それでも、状況が不利でも、飛竜昇天破を打つ気なの…?)
 次の瞬間、あかねは、はっとした。彼の描く螺旋のステップ。そこに存在する筈も無い熱気の渦が見えたからだ。
(熱気…?)
 あかねは目を凝らした。
(そ、そうか…。)
 あかねの身体は戦慄した。
(勝機はあるっ!!)
 
 乱馬の螺旋ステップは凍也の気ではなく、周りの観衆の興奮の坩堝と化した熱気を取り込んでいたのだ。二人の試合に熱くなる観衆。彼らは一様に、興奮した気を身体中から放出している。武道家ではないので一人一人流れる気はたいしたことはなかったが、それが何千人分のものとなると状況も違ってくる。
 凍也が一人で気を放ち作り出している冷気の背後から、観衆の気は螺旋へ向かって静かに流れてゆく。武道家のあかねには気の流れが手に取るように見えた。

「さあ、終わりにしようやっ!!」
「望むところだっ!!」
 大きく気を溜め込んで振りかぶった凍也はさっきよりも数段も大きく両腕を引き下ろした。
「観月流奥義、斬気氷竜破っー!!」
 乱馬も負けじと右手を高く、凍也に向かって繰り出した。
「飛竜昇天破変形、飛竜横断破っー!!」
 互いの腕先から氷の竜が飛び出した。互いを呑み込まんと先頭部分が激しく競り合う。乱馬も凍也も一歩も引くまじと地に足をつけて踏ん張りながら気を送り込んでいた。
 青い光が二人を包む。激しい冷気のぶつかり合いだった。
「な…何っ?」
 乱馬の放った飛竜の方がぐんと力を伸ばした。そしてみるみるうちに凍也の氷竜を飲み込んで駆逐してゆく。そう、真っ直ぐに飛ぶ凍也の氷竜より、僅かであったが、周りの熱気を巻き込みながら渦巻くように飛ぶ乱馬の飛竜の方が破壊力において勝っていたのだ。

「うわあーっ!!」

 悲鳴と共に凍也が床へ崩れ落ちた。乱馬の放った飛竜が凍也を飲み込んだ一瞬だった。乱馬は右手を真っ直ぐに開いたまま、じっと倒れた凍也の方を見詰めていた。

「観月凍也っ!ダウン、戦闘不能!従ってこの試合の勝者は、早乙女乱馬!」

 どおっと会場が湧いた。そこここから拍手が舞い上がる。

「勝ったーっ!!」
「やったね、早乙女君。」
「これで無差別格闘流の未来も安泰だね…天道くん。」
 抱き合って喜ぶ父親たち。
「時に、賞金が出るの知ってるかね?天道くん。」
「おやおや…本当かね?早乙女君。」
「何でも優勝賞金は百万円だとか…。これでどうだね?」
 手をぐいっと口元へ持ってゆく玄馬を見てのどかが静かに言い放つ。
「賞金は乱馬が貰うもの。あなたが貰い受けるわけではないでしょう?」
「でも、母さん…。」
「いいえ!乱馬も思うところがあるでしょうから、そっくりそのまま乱馬の好きに使わせます。いいですね?」
 玄馬は渋々承知した。のどかはニコニコと笑っていたが、目は決して笑ってはいないことを瞬時に悟ったからだ。持っている刀の鞘に無意識なのか意識的にか手を当てていた。のどかの恐ろしさは菩薩のような笑みの奥に潜んでいることをその亭主、玄馬はよく知っていた。
 あかねはそんなやり取りを笑いながら聞き過ごしていた。

 表彰式が終わって武道会場を後にしたときは、もうすっかり夕闇が迫り来ていた。秋の夕陽は釣瓶落し。夕陽が落ちたビルの谷間はしっとりと茜色に燃え上がっている。
 あかねは乱馬は家族たちとは別に会場を出た。
 痛めた足はしっかりとギブスで固めてあった。松葉杖をつくほどではないからと東風先生は笑った。
 ゆっくりとしか歩けないあかねの歩幅に合わせて、乱馬もゆっくりと横を歩く。二人は互いに無言だった。何をどう話せば良いのか。二人ともウブ過ぎて言葉が見当たらないのだ。
 昼間のキスの記憶が二人の間を大きく去来していた。
 気恥ずかしさ、悔しさ、そして嬉しさ…。それらがごっちゃになって、あかねの脳裏にはびこっている。乱馬も敏感に感じているようで、気恥ずかしさも手伝って、上手く言葉を紡ぎ出せないようだった。
 大胆不敵なキスを仕掛けておきながらも、やはり、晩熟(おくて)なのだ。

 二人の影が長く前を歩いてゆく。

「乱馬くん、あかねちゃん。もう帰るん?」
 二人の静けさを破ったのは関西から来た二人組。
「凍也くん…。みさきちゃん。」
 あかねは声の方向に返答する。
「さっきは残念やったな…。みさきがあんたと闘えへんかったってそりゃあ、うるそうてかなんかったわ。」
 凍也がにっと笑った。
「怪我したんやからしゃあないのはわかってるんやけど…。なあ、今度は絶対に手合わせしてや…。約束やで。」
 そう言って差し出される手。
「うん…。今度は怪我しないようにするわ。」
 あかねはそれに答えた。
「それと、乱馬くん。あんたも強かったわ。凍也も相当鍛えこんでるんやけど…。それを倒すんやから。これで凍也もより一層、観月流のために精進してくれそうやわ。」
 みさきは笑って凍也の肩をポンと叩いた。
「痛いやんけ…。みさきのアホ…。さっきやられた傷がそこここにあんねんど…。ちょっとは労わらんかいっ!」
 凍也はおどけてみせる。何処までも明るい関西弁が響き渡る。
「乱馬、ありがとうな。いいライバルが見つかったわ。今度は絶対に負けへんからな。また、やろうなっ!!」
 凍也は乱馬の手をがっしりと掴んだ。
「おう…。今度だって勝ってやるからな…。」
 がっちりと交わされる握手。
「また会おうな…。あかねちゃん。それと、乱馬くんに少しは積極的に甘えてみたらええわ…。きっともっと優しくしてくれるで…。男って単純やさかい…。」
 耳元でみさきが囁いた。
「何だって?」
 凍也が聞き耳を立てる。
「なんでもあらへん…。ほな、行こう。」
「じゃあ…。またな…。」
 そう言うと凍也とみさきは別れを惜しみながら二人から遠ざかる。
 賑々しいカップルだった。別れたその先でケラケラと笑い声が聞こえてくる。

 ふうっとあかねが溜息を吐いた。
「どうした?」
 乱馬は初めて口を開いた。
「ん…。ああやってストレートにお互いを出し合えるカップルって…。羨ましいなって…。」
 あかねは二人を見送りながら言葉を継いだ。
「そっか…。羨ましいか…。」
 乱馬は呟くように言葉を吐いた。それからあかねの方へとそっと手を出した。
「乱馬?」
 積極的な乱馬は初めて見たと云わんばかりにあかねが振り向くと、
「怪我…大丈夫か?荷物持ってやるよ…。」
「荷物か…。」
 期待はずれな言葉にあかねがほっと溜息を吐く。

(奥手な乱馬があたしに手を差し出す訳ないわよね…。)

 心でそう呟いた時、右手にあかねと己の荷物を持ち上げた。そして空いた方の手をそっとあかねの肩に差し伸べた。
(え…?)
 彼の意外な行動にあかねはっとして乱馬を見上げた。
 乱馬は微かに和らいだ表情を見せた。
 だが彼は何も言わなかった。ただ無言で黙々と歩き出す。少し冷たくなった風が俄かに吹き抜ける。夕焼けに身を曝している電線がたわわに揺れた。
 一言も交わさない不器用なカップル。
 置かれた乱馬の左手から、彼の本心が流れ込んでくるような気がした。
 
 愛されている…。そして自分も彼を愛している。
 愛し愛されることの確かな満足感があかねの心を温かくほぐしてゆく。
 あかねは少しだけ彼の方へと身体を傾けた。乱馬の筋肉が少し緊張したような感覚を楽しむ。
 この晩熟な少年が本心を顕に見せるには相当固いガードを外さなければならないのだろう。そう、彼が口で愛を語り全身全霊であかねを抱擁してくれるまで、まだまだ気が遠くなるくらいの時間を要するだろう。積極的に激しくくちづけた昼間の彼も、こうやって憮然と肩を抱くだけの不器用な彼も、どちらも同じ乱馬なのだ。
 不器用でそれでいて激しい情熱を秘めた許婚。
 今は…今だけは、いつまでもこの時間を楽しんでいたい。手放したくない。
 あかねは切に願わずには居られなかった。
 許婚の時間。何も心配事も憂いもない、柔らかな時間。

 人生の分岐点は、もうすぐそこに迫ってきている。彼はどんな将来を描くのだろうか…。そして選択してゆくのだろうか。それがどんな道だろうと彼に付いてゆきたい。そう思った。

 一方、傍らの不器用な少年は、疲れ切っている身体が少しずつほぐれてくる心地良さを、手を置いた肩から感じていた。すぐ傍に居る少女の温かさは他の何よりも安らぎを与えてくれる。
 闘いの激しさや苦しみ、そんな全てのものを柔らかく包み浄化させてくれる和らぎ。
 俺がおまえを守ってやる…とさっき差し伸べた手。でも、抱いた肩から反対に伝わってくる安堵感。
 不思議な感覚だった。

 天を一機の飛行機が駆けてゆく。棚引くひこうき曇は夕焼け色に美しく輝く。

 天高く飛びたい。できることなら傍にいる少女と共に。離したくない。切に思った。
 乱馬は空を見上げながら肩に置いた手にそっと力を入れた。

 二人はゆっくりと歩いた。一歩一歩。自分たちの未来へ続く道、明日を踏みしめながら。
 傍らには愛する許婚。
 いつまでも一緒に同じ道を歩けるように…。
 共にそう願いながら、燃える太陽の残照を遥かに望んだ。








一之瀬的戯言
 シリーズものの中の中編として書いたものです。が、こうやって読み返すと、これ一本で独立した一編としても通用するなあ。
 凍也とみさきは、作り出したオリジナルキャラクターの中でも気に入っている二人です。
 この先の話はまだ頭の中に。大筋は決めてあるのですが、なかなか手が動かないのは、どう物語を動かせば良いか、迷路にはまりこんでしまったからです。書き出せば早く仕上がるとは思うのですが。
 遂に我が家の長男も高校を卒業してしまったので、そろそろ書けるかなあ。


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