◇天高く   前編


一、

 その日は快晴。
 神無月。
 暑くも無く寒くも無いこの季節。武道やスポーツをするにはもってこいの気候が続く。
 朝夕は半袖ではもう肌寒い。かと言って、昼間は気温がグンと上がる。寒暖差がはっきりしているせいか、風邪引きが多くなってくる。誰彼となく、クシュン、ずるずるとやっていた。
 天道家も、御多分にもれず、早雲と玄馬が仲良く「風邪引きさん」であった。

「いいよ…。無理して応援に来なくても。」
 あかねは不甲斐ない父たちにそう言いながら朝ごはんをかっ込んでいた。
「ダメだよ…。可愛い娘とその婿殿の晴れ舞台だよ。どこの親が放っておけようか…。ごほごほっ!ねえ早乙女くん、ごほっ!」
「コンコン、そうだよ。あかねくん。ケホッ!」
「だから、そんな熱っぽい顔して来られたら、カッコ悪いじゃねーか。んな、不摂生なぐうたら武道家の親の応援なんてこっちが、こっ恥ずかしいぜ!」
 乱馬もあかねに同調する。
「応援なら、私やおばさまやなびきちゃんで行きますから…。お父さんたちはゆっくり休んでいてくださいな。」
 お茶を急須から注ぎながらかすみが言った。
「え…。あたし、一言も行くなんて言ってないわよ。」
 きょとんとなびきがかすみを顧みる。
「あら、なびきちゃん。折角の晴れ舞台に一緒に行かないの?駄目よ、そんなことじゃあ。」
「あ…。行きます。行けばいいんでしょ。はあ…かったるい…。」
 なびきは不機嫌そうにかすみに答えた。かすみがにこやかに睨んだからだ。この自由闊達な天道姉妹の真ん中のなびきも、長姉には真っ向からは逆らえないらしい。
「午前中は予選から始まるから、そうね…。三時頃いらしたらいかがかしら?お二人で。それまでは私たち女性陣がしっかり応援してますから…。」
「だから…誰も来なくていいよ。わざわざ応援なんて…。」
 乱馬が口を尖らすと
「何言い出すの?皆さまがこうやって気にかけてくださってるのにっ!男らしくないっ!!」
 のどかが日本刀へと手を伸ばしかけたので、乱馬は慌てて言い放った。
「わ、わかったよ…。わかったから…。好きにしてくれ…。とにかく俺たちはベスト尽くして頑張るから…。」
 日本刀などを持ち出されて暴れられては、命が幾つあっても足りない。仕方なく、乱馬が折れた。

 相変わらずの天道家のスチャラカな結束ぶり。

「ほらほら、ぼんやりしてると開会式に間に合わないわよ。」
 あかねが乱馬を促す。
「ちぇっ!学校が休みの日くらいゆっくりしてたいぜ…。」

 新鮮な朝の光を背に受けて、二人は玄関から元気よく駆け出した。
 武道会場までは、電車で半時間ほど。道着を手に、二人並んで道を行く。
 今日は無差別格闘流派の武道会。無差別格闘の流れを汲む若き獅子たちが、一堂に会する。
 早雲や玄馬に言わせると、こういう無差別格闘の武道会は珍しいのだそうだ。
「何年ぶりかのう…。」
「はて…。十年くらいになるかなあ…。」
 玄馬も早雲も乱馬とあかねを前にそんなことを言っていた。
 無差別格闘流の道場が、一体全国に何軒あるのか。それは良く分からない。他流派でも無差別に参加できるという。
 一応、それらしく、「無差別格闘協会」なるものが組織されており、会報なども定期的に発行されてはいる。
 今回の武道会は男女別に少年の部と青年の部と壮年の部のそれぞれ三つがあった。
 少年の部は二十歳まで、青年の部は三十歳まで。それ以上は壮年での参加となっている。乱馬とあかねは少年の部である。
「親父たちも壮年の部に出りゃあいいのによ…。」
 乱馬は傍をかけるあかねに声をかけた。
「もうあの歳になると何事にも億劫(おっくう)なのよ。お父さんたち。」
 あかねは笑いながら乱馬に声掛けた。
「でも、乱馬も良く出る気になったわね。直前までぐずってたのに。」
「そりゃあ…。この前、新宿で会ったあいつが出るとなると…。面白いじゃねえか。己の力も試してみたいし。」
「ふうん…。」
「あの二人、相当な使い手だぞ。」
「うん、わかってる。だから出る気になったんでしょ?乱馬…。」
「ああ…まあな。」
 乱馬はあかねにそう呟いた。心なしか彼の足は軽やかだ。やはり、強い相手と出会い、互いに打ち合うことが出来るのは、相当楽しいことなのだろう。あかねは彼の嬉しそうな横顔を、じっと見つめた。

 この前のデート。
 貴重な二人だけの時間。新宿公園で行き会った一組のカップル。元気のいい関西弁の許婚カップル。
 彼らもまた、武道会の出場者だと知ると、乱馬の武道家の血が俄かに騒ぎ始めたらしい。
 実際彼は、あの日を境に一週間、懸命に修業していたようだ。アルバイトも休暇を貰っていた。試験中でもバイトを休もうとしない彼なのに…である。
 学校には顔を出していたが、頭の中は武道会のことが、ぎっしりと詰まっているようであった。四六時中、いろいろ闘いのシュミレーションをしているらしく、ブツクサと念じていることがあった。そんなだから授業にも身が入らすに、気荒な先生には、廊下へと出されることもしばしばあった。
 あかねも日毎に気合が入ってゆく己を感じていた。
 とかく、格闘家は、強い相手を求める。
 乱馬に女体変化して、組み手の相手をしてもらっていても、心は男だ。あかねに遠慮している節があった。歯がゆく思うこともあったが、異性で在る以上仕方が無い。
 どう足掻いてもあかねは女。彼よりも細くしなやかな手足だ。対等では闘えまい。
 彼と出会って暫くは、それでも負けじと我武者羅にやってきたが、最近では以前ほどこだわらなくなった。彼の居候生活が長くなるにつれ、抗っても本来の基礎体力や腕力の男女差は埋められない…と悟り始めていた。
 彼の身体は日増しに大人びてゆく。

(また身長差がついちゃったかな…。)
 あかねは隣を歩く乱馬を見上げてふっとそんなことを思った。

 出逢った頃より、背も伸びた。腕や脚にも筋肉が付いた。
 生粋の格闘馬鹿。許婚の乱馬。
 いつか彼と結ばれるのだろうと淡い想いがあかねの胸内に潜んでいた。だが、隣の彼はそんなことは、微塵も気にしていないようだ。
 否が応でもあと半年先に降りかかる。
 「祝言」だの「結婚」だのという言葉がぼちぼち現実味を帯びてきはじめてきた。彼は果たして己を選んでくれるのか。
 乱馬の気持ちは全く読めなかった。
 許婚を返上して、天道家に入るつもりでいるのか、否なのか。漠然とした期待と不安が、あかねの心を締め付け始める秋だった。



二、

 予想以上に、会場は賑わいでいた。
 見るから武道をやっていそうな若者が、うようよと武道館周辺を歩いていた。
「互いに優勝できるよう、頑張ろうぜ!」
「うん…。ちゃんと上位戦まで残りなさいよ!」
「へっ!おめえこそな…。」
 受付を済ませると、二人は笑顔で分かれた。乱馬は男の、あかねは女の予選会場へと向かう。
 午前中は予選が行われる。そして、それぞれ十六名の上位戦出場者へと絞られるのである。
 周りを見渡すと、武道に腕の覚えのある、気も力も強そうな女子ばかりが控え室に居た。
「あ、あかねちゃん!やっぱり来たんか!」
 背後から聞き覚えのある関西弁がした。観月みさきだった。
「あら、みさきちゃん。あなたも来てたのね。」
 あかねは知った顔に少しホッとして言葉を吐いた。周りは緊張感が漂いぴりぴりした雰囲気である。
「いよいよやなあ…。あんたと手合わせできるのが楽しみやわ…。絶対、上位戦まで残ろうな…。で、あんたの許婚、えっと乱馬くんやったかな?彼も出るん?」
「勿論よ。」
「そっか…。凍也の奴も、彼を見つけて喜んどるやろな…。」

『予選出場の皆さまは受付でお渡しした番号の順に、それぞれの予選会場へお入りください!!』

 場内アナウンスが響いた。
「あ、いよいよ始まるわ。また、後でな…。あかねちゃん。」
 みさきは軽くウインクすると人ごみへと消えていった。

 会場は何箇所かのブースに分かれていて、体力、腕力を競い合う。武道をやるにも基礎体力は必然ということなのだろう。第一次予選として、体力テストを一斉に受けて、まず半分くらいが振るい落とされる。
 あかねは勿論、軽くクリアーした。
 第二次予選。今度は十人一組で大きなリングへ上がる。そして、互いにサバイバル戦を交え、最後に勝ち残った一人が、次の上位戦へと進む。これで、十六人に絞られるというわけだった。
 上手い具合に、みさきとは別グループになっていた。第二次予選でどちらかが振るい落とされては、対戦もできない。できれば、差しで勝負したいと思ったからだ。
 なので、別グループとわかって、少しほっとした。

 第一グループにみさきは居た。
「はじめっ!!」
 審判の合図とともに、少女たちの甲高い雄叫びが飛び交う。
 リングの上は戦場になる。女同士とはいえ、戦いには目を見張るものがあった。
 ルールがあるようでないのが「無差別格闘技」。武器の使用せず、己の身体を使う限りはどう闘っても良かった。
「たあっ!」「やあっ!!」「とうっ!!」
 少女達の気合が満ちる。
 あかねは固唾を飲んで見守った。みるみるうちにみさきは、群がる少女達を薙ぎ倒して行った。
「勝者!五番!」
 開始から数分。息も切らさないで、みさきがリング中央で笑っていた。
「よし…。あたしだって。」
 沸き立つ闘志。あかねはぐっと握り拳を作ってリングへと上がる。

「第十グループ、はじめっ!!」
「だあーっ!!」
 あかねはスタートから猛ダッシュをかけて突っ込んでいった。
「はあっ!やあっ!たあーっ!!」
 彼女の拳も蹴りも切れが良かった。
「へえ…。なかなかやるやん。」
 試合を終えて余裕のみさきが嬉しそうにあかねを見上げた。
 あかねも強い。みるみるうちに敵を倒していく。
「勝者っ!百七番!!」
 こちらも猛スピードで勝者となった。


「で、守備は?」
 乱馬の問いかけに、あかねは親指を立てて応じた。
「勿論、上位戦出場よ…。」
「ほお…。ま、天道道場の後継ぎ娘としちゃ、あったりめえだろうな。」
 乱馬はからからと笑った。
「で、乱馬は?」
「訊くまでもねえよ。」
 すまして答える。
「上位戦は昼からだったな。準決勝以降が順繰りに女と男それぞれで闘うんだったな…。で、どうだ?」
「強い子、結構居たわ。うかうかしてると足元すくわれるわね。」
「そうだな…。あんなプロレスラーまがいのでっかい姉ちゃんもいるんだからな…。」
 乱馬の鼻先を悠々と通り抜ける巨漢の少女。いや、少女とはもう言えないかもしれない。頑強でどっぷりとしていた。化粧をしていなかったらどう見ても女には見えないタイプ。
 それを見送ると背後から声が聞こえた。
「あかねちゃーん、乱馬くーん。」
 かすみだった。
「お姉ちゃんよ。あ、ほら、見てっ!おっきな重箱抱えてる。」
「おっ…。昼飯持参か。ありがてえ…。食いに行くか。」
「もう…。あれほど応援を嫌がってたくせに、ちゃっかりしてるんだから。」
 あかねは笑いながら乱馬を追った。
「なあ…。」
「ん?」
「残れよ…。決勝まで。おめえの闘いっぷり、この目で見てえから…。」
 風が渡る武道館の表で、早足しながら乱馬は振り返りもせずに静かに言った。
「うん…。努力する。乱馬も…。」
「任しとけ…。俺は負けねえ…。誰にも負けねえ…。」
 あかねは乱馬の横顔を覗いてはっとなった。
 武道家の目となって凛と前を向く。その瞳の激しさにぞくっと背中が逆立った。


三、

 みんな揃ってのお昼ご飯は美味しかった。
 天気も上々ということで、武道会場の傍にある公園で敷物を広げて食べた。休日の行楽に来たように平和な団欒だった。
 早雲も玄馬も、まだ熱がひかないということで、もう少し後で留守番の、のどかと一緒に出てくるという。
「たく…。うちの男連中ったら、だらしないんだから…。」
 折角の休日を、かすみのごり押しで武道会見物に借り出されて、まだ不機嫌なのか、なびきがおにぎりを食べながらそんなことを言った。
「あら、でも、乱馬くんはしっかりしてるわよ…。」
 かすみがポット型の水筒から注ぎながら答える。
「乱馬くんは、完全な男じゃないじゃん…。半分女だし。」
 なびきが答える。
「あんなあ…。俺はお・と・こ!男だあっ!!」
 卵焼きを口に放りこみながら、乱馬がなびきをきっと睨み返す。
「ムキになったって、半分女っていうのは本当なんだから。」
「俺は男だっ!誰が何て言ったって俺は男だっ!!」
「はいはい…。そういうことにしておいてあげるわ。あかねの未来の旦那だしね…。」
 ぐっと咽喉に食べ物を詰めながら、あかねがむせこんだ。
「あかね…。そんなに急いで食べなくてもいいわよ…。ふふ…。動揺しちゃって…。二人とも可愛いんだから…。」
 この姉にかかると、乱馬もあかねも赤子のようだ。
「そうそう…。医務室に東風先生がいらしてるのよ…。」
 かすみがにこやかに言った。
「東風先生?」
 あかねがお茶を飲みながらきびすを返すと
「ええ…。大会の医務関係で詰めていらっしゃるんですって。」
「かすみお姉ちゃんさあ、さっきぱったりと出くわしてのよね…。」
 なびきがくすくすと笑う。
「まさか…お姉ちゃん…。」
「ええ、先ほど、差し入れってお弁当持っていって差し上げましたわ。」
 あかねの問いかけに、さも当然のようにかすみが答えた。
「大丈夫かな…。医務室に運び込まれた怪我人…。」
 乱馬が冷や汗を流しながらかすみを見返した。
「そうね、大勢の方が医務室で唸ってらしたわ…。東風先生がテキパキ対処してると悲鳴もあがらなくなって…。」
 かすみはのほほんとしている。
 かすみを目の前にすると、平常心を全く失って舞い上がる東風のことだ。きっと医務室は一瞬のうちに地獄と化したに違いない。患者たちが静まり返ったのも、或いは、声すら出せない状況に陥れられたのではないだろうか…。乱馬とあかねの脳裏に、ふと医務室の悲惨な光景が浮かんだ。
 そして互いに頷いてかすみに言った。
「ははは…。そりゃ大変だな…。」
「お姉ちゃん、あんまり医務室の近辺はウロウロしない方がいいわよ…。」
「あら…。後で食後のデザートにってリンゴでも剥いて、お持ちしようかと思ったんだけど…。」
「やめた方がいいんじゃない?」
 なびきが冷静に言った。
「そうね…。あたし先生に会いたいから…。かすみお姉ちゃんの代わりに持っていくわ。」
 あかねが横から声を出した。
「その方がいいかもしんねえな…。」
 乱馬も相槌を打った。
「じゃあ、あかねちゃんにお願いするわね。」
 かすみは手馴れた手つきで、ひょうひょいとリンゴを果物ナイフで剥き始めた。


「やれやれ…。東風先生も大変だな…。」
 後ろから乱馬があかねに声を掛けた。
「大変なのは、救護室に運ばれたけが人よ…。」
「違ぇーねえ!」


 かすみに言われて持って行った、医務室は怪我人が溢れていた。午前中に行われた予選落ちの負傷者たちのようだった。が、明らかに、ここへかつぎこまれて、余計に不調になった者が居る様子だった。きっと、かすみを見て、切れた東風の処置の被害者なのだろう。乱馬もあかねも苦笑いしたくらいだ。
「この患者さん、運び込まれた時はもう少し関節が動いてたのに…変だなあ…。」
 東風も首を傾げていた。普段は名医の東風も、かすみが目の前に来ると豹変する。東風が首をかしげていたのは、きっとその被害者なのだろう。
「乱馬くん、あかねちゃん。差し入れありがとう…。」
 剥かれたリンゴを目の前に東風はてんてこ舞いしていた。
「あ…いえ…。先生も頑張ってくださいね。」
「君たちもね。善戦したまえよ…。」
 そう言って東風は屈託なく笑った。さすがに「かすみお姉ちゃんからの差し入れだ」とは言い出せなかった。言い出したら最後、かすみの気配が無くても取り乱しかねない。それが東風先生なのだ…と二人ともなんとなく悟っていたからだ。

「東風先生、大忙しだったな…。」
 乱馬が爽快に笑った。きっとあの中に居た怪我人の何人かは、乱馬のせいで負傷したに違いない。彼が戸を開けて中に入ると、明らかに何人かの男たちが恐怖心を顕(あらわ)にしたことを、あかねは肌で感じ取っていた。
(乱馬…。どんな試合したんだろ…。)
 あかねは気になった。診察室に居た何人かの男たちへ、恐怖心を叩きつけた張本人は、何事も無かったように屈託なく笑う。そんな乱馬をあかねは黙って見上げた。
 あかねの視線を感じた乱馬がふと言葉を継ぐ。
「何だよ…さっきから。俺の顔に何かついてるか?」
「べつに…。何もあんたまで東風先生の所へ一緒に来なくても良かったのに…。」
 あかねは視線を外してそう答えた。
「いいだろ…。昼の部が始まるまでまだ少し時間があるし…。」
 乱馬は頭の後ろに手を組みながらあかねを見た。
「はあ…。こうやって空を見上げると…。これから激しい闘いの幕が上がるなんて嘘みたいね…。」
 あかねはふっと溜息を吐いた。
 武道会場になっている体育館のエントランスから見上げる空は高く、抜けるような青さを讃えていた。このまま乱馬と何処かエスケープして、清々しい秋の空気を、乱馬と存分に楽しみたいという誘惑に駆られる。現実逃避したい訳ではなかったが、一人の恋する少女が其処に居た。
「俺、ションベンしてくるわ。先に行っててくれていいぞ…。」
 乱馬がひょいっとトイレの看板の方へと駆け出した。
「たく…。緊張感も色気の欠片も無いんだから…乱馬は。」
 あかねはその後を目で追いながら溜息を吐いた。
 あかねのこの無頓着な許婚は、乙女心とは無縁の堅物(かたぶつ)であった。

 目の前を男の子が駆けて行った。年のころなら幼稚園くらいの子だろうか。風船を片手に持って駆けてゆく。これくらいの子は無邪気で無鉄砲だ。
 階段を下りてゆくあかねとすれ違った。
 と、後ろから降りて来ていた巨漢の女と子供がぶちあたった。
「あっ!」
 一瞬の出来事だった。
 男の子がバランスを崩して落ちてくるのが目に入った。
 咄嗟に手が出た。
 落ちてくる彼を腕に抱き上げると、身を屈めて後ろに一緒に転がり落ちた。ただ、流石に彼女も一角の武道家。一瞬ではあったが体重移動をきちんとかけて、受け身を取った。
 だんだんだん…。
 音を上げて落ちてゆく階段。
 人々の驚異の視線と悲鳴の混在。
 どさっと、背中から受け身を取ってあかねはふうっと息を吐き出した。と、同時に、腕の中で男の子がしゃくりあげた。
「大丈夫?僕…。」
 うっくうっくと彼が泣いた。
「泣ければ大丈夫ね…。」
 あかねは微笑みかけた。
「しょうへいっ!」
 後ろから母親らしき女性の声があがった。
「あーん…。ママ…。ママあ…。」 
 男の子は母親の方へと駆けた。
「良かった怪我がないみたいで…。」
「何とお礼を言っていいのやら…。本当にありがとうございました…。大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」
 母親は泣崩れる男の子を抱き上げながら何度も頭を垂れた。
「あ…いえ…。大丈夫です。受け身をちゃんと取ったから…。」
 あかねは愛想笑いを浮かべてそう言って笑った。

「たく…。ふらふら歩いてるからだよ…。ふん。うっとおしい…。」

 背後でそんな声が聞こえた。
 あかねははっとして振り返ると、階段から下りてきた大女がにこりともせずに歩き去るのが見えた。
「な…。」
 さっき、男の子にぶつかった女だ。悠々と歩いてゆくさまは憎々しく映った。
「本当にありがとうございました…。ほら、しょうへいもお礼言いなさい。」
 母親に促されて、泣崩れていた男の子が言った。
「お姉ちゃん…ありがとう。」
 まだしゃくりあげて涙は溜まっていたが、男の子はぐっとあかねに礼を言った。
 
 何度も頭を下げながら立ち去る親子に手を振りながら、あかねはほっと溜息を吐いた。
 その時だった。つんと足に痛みが走ったのは。
 受け身を完ぺきに取った。だから、何処も故障したつもりは無かった。着地も足ではなく、背中でした。
 なのに、足に来た痛み。
 多分、男の子へと飛びつき頭に、階段を蹴った時、ぐねったのだろう。それ以外は、考えられなかった。
 つま先をとんとんとやってみた。
 左足のかかとの辺りに、ほんの少し鈍い痛みがある。
 だが、医務室へいくほどの痛みではないとあかねは判断した。いや、時間があれば、医務室に行って、東風にサポーターでも貰いたいところだったが、そろそろ午後の部が始まる。招集場所へ行かねばならない。

「おい…。何やってんだ?こんなとこで…。」
 階段下で立ち止まっているあかねに不審を抱いたのか、ハンカチで手を拭きながら降りてきた乱馬が声を掛けてきた。
「あら…。遅かったわね…。ははーん、大ちゃんの方やってたな?」
 あかねは苦し紛れにそんな冗談を吐き出す。
「たく…。色気ねえな…。食ったらその分排泄するのも自然の営みだろうが…。」
「何よ、あんたの方が色気がないじゃない。」
 と明るく笑って見せた。

「さてと行くか…。ぼちぼち上位戦の準備しねえとな…。」

「ねえ…。」
「あん?」
「お互い、全力で頑張ろうね…。」
 あかねは青空を見上げて言った。
 空にはさっき落ちた時に男の子が放してしまった赤い風船が舞い上がってゆく。
 それを見送りながらあかねは己に気合を入れた。

 やるしかない…。

 乱馬が横で、そんな彼女を少し複雑な視線で眺めていたことに、気がつかないあかねであった。



つづく




一之瀬的戯言
中編がざっと描けたところで半官半民さんに読んでいただいて、イメージ画を描いていただけることに♪…別に要求したわけではないのです…
ご好意で…イラストシーンが浮かんだと言ってもらえて私は嬉しい…

「分岐点」シリーズは話の展開自体がどんどん重くなると思います…その部分がまだ引っかかっていて、筆を前に進める自信が無く、止まって久しいのですが…。


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