◆蒼い月と紅い太陽

第九話 ぬくもり

一、


 天から光がふり注ぐ。
 その光の眩しさに、ふと、目が開いた。

 隣に感じる温もりに、ハッとして視線を流す。
「あ、あかね?」
 そこには愛しき人が、柔らかな吐息をたてながら眠る姿が目に映った。
 背中に顔をくっつけていたあかねは、いつの間にか、乱馬の腕の中にすっぽり入りこんで眠り込んでいた。
「そっか…。俺は…あれからここで眠り込んじまったのか…。」
 ゆうべは、九能に憑依した化け物と、ここで戦った。
 勝利したものの、そいつの吐き出す瘴気をまともに喰らい、このベッドで横になるうち、眠りに就いてしまったのだろう。恐らくあかねも、疲れきって一緒に眠ってしまったに違いない。
 腕の中で眠るあかねの顔は、思わずギュッと抱きしめたくなるほどに、可愛く見えた。
 乱馬が起き出したことを気配で察したのか、それとも柔らかい視線を感じたのか、あかねの瞳がゆっくりと開いた。
「よっ…目が覚めたか?」
 少し照れた微笑みを浮かべのながら、青年は腕の中の天使に声をかける。
「お…おはよう…。」
 はにかみながら、円らな瞳が返事を返す。
「ああ…おはよう…。」
 乱馬はそっとあかねの頬へと右手を添えると、柔らかな桜色の唇を奪う。
 そう、おはようのキスだ。
 甘い吐息がすぐ傍で漏れる。身体を合わせた訳ではないが、新しい朝を二人で迎える歓びに、満ち溢れていた。
 対するあかねも、迷うことなく、そんな乱馬の甘いキスを受け入れた。抱き寄せる腕に思わず力がこもる。
 瞳を軽く閉じ、互いの熱い想いを確かめあう。

 と、乱馬はハッと背中に気配を感じた。
 合わせていた唇を離して振り向くと、苦笑いを浮かべるなびきの姿が目に入った。

「でっ!なびきっ!」
 乱馬はパッと跳ね起きた。
「え?お姉ちゃん?」
 乱馬につられてあかねも起きあがる。

「たーく…。帰って来ないと思ったら…あんたたち…。こんなところで一夜を明かしたのね…。」
 彼女の背後には佐助がニッと笑ってピースサインを送っている。

「ふーん…。ま、着衣の乱れは無いから…佐助さんが九能ちゃんを連れて帰った後、そのままここで、惰眠を貪ってたんだ…。」
 やれやれと言わんばかりに、なびきが言葉を投げて来た。

「うるせーっ!化け物に憑依された九能と戦って、奴に吹きかけられた瘴気にあてられて横になってるうち、寝ちまっただけでいっ!な…何もしてねーぞ。今さっき目覚めたところなんだからなっ!」
 思わず真っ赤になりながら、言い訳に走る乱馬。あかねはその横で、黙って固まっていた。かああっと顔は真っ赤に熟れ上がっていた。
 身体を合わせていた訳ではないが、唇はしっかりと合わせていた。恐らく、なびきはじかにその目に留めただろう。
「あっそう…。瘴気ねえ…。」
 そっ気無くなびきは言葉を返して来た。

「見ろっ!ここに瘴気をまともに喰らった、傷跡があんだろっ!」
 そう言いながら乱馬は右腕を差し出した。昨夜、化け物に火傷のような傷を負わせられた場所だ。

「あら、傷跡なんて無いわよ…。」
 なびきが穿った瞳を乱馬へと返した。

「あん?そんな訳ねーぞ。ここに九能に憑依した化け物から受けたでっかい傷があるだろーが…。」
 そう言いかけたところで乱馬の視線が止まった。
 無そう、焼け焦げた大きな瘴気の傷。そいつが、跡形もなくなっていたのだ。
「ねっ、無え…。無くなってる…。ここにあった筈の傷が…。」
 作務衣の袖をまくって見てみたが、どこにも傷は見当たらなかった。
 物の見事に消えていたのだ。
 身体の奥深くへと入り込んでいた瘴気の気配も消えていた。
「な…あれだけ大きな傷を受けたのに…。何で消えてんだ?」
 乱馬は不思議そうに、腕を見詰めた。

「ほんとに傷なんかあったの?」
 穿った瞳が問いかけて来る。
「あったぜ…。こう、えぐられたような赤い傷が…。」
「でも、無いじゃないの…。」
「ああ…。何でか消えてやがる…。」
 疑問符だらけの顔つきで、乱馬はしげしげと確かに傷があった場所を見詰めている。
 あれだけ大きくえぐられた傷だったのに、その欠片も残っては居なかった。

「まあ、いいわ…。で?夕べはあかねと何事も無く、ただ単に眠っていただけ…って解釈して良いのよね?」
 にたあっと笑いながらなびきがストレートに尋ねて来る。
「あっ、あったりめーだっ!な、あかねっ!」
 あかねへと同意を求めて声を張り上げた。
「え、ええ。天地神明に誓って、何もないわよ。ただ、疲れて眠っていただけだもの…。」
 あかねも焦りながら答えた。
 無論、やましいことはしていない。が、シチュエーションがシチュエーションだけに、誤解されても仕方がない部分もある。必死で弁明に走るのもいたしかたないことでもあった。
「第一まだ俺たちは結婚してねーんだから…。」
 真っ赤になって乱馬は言葉を継いだ。

「でも、帯刀殿のように、先に子作りすることは可能でござりますが…。」
 佐助が口を挟んだ。

「馬鹿野郎っ!九能と一緒にすなーっ!」
「っていうか、あれは九能先輩も化け物に乗っ取られてたから発した言葉だと思うんだけど。」
 困惑げに乱馬とあかねが吐き出した。

「でも、プロポーズしたんでしょ?遅かれ早かれ肉体関係は持つんでしょうが…。」
「あのなあ…こちとら化け物と命張って戦ってるんだぜ。そんな余裕なんかねえーっつーのっ!」
 乱馬は吐きつけるように怒鳴った。
「…の割には…幸せそうに抱き合って眠っていたようだけど…あんたたち。」
「うるせーよっ!眠っちまったことは否定しねーが、やましいことは、これっぽっちもしてねーっつったらしてねーんだっ!」
「お目覚めの熱いベーゼはしていたでござろうが。」
 佐助が追い打ちをかける。
「キスぐらい、いいじゃねーかっ!キスくれーはっ!許婚同士だぜ。俺たちはっ!」

「ちょっと、乱馬っ!何言ってるのよっ!いいからもう黙ってっ!」
 あかねが真っ赤になって乱馬を止めに入った。起き抜けの甘いキスを見られていたことを思い出しただけでも、恥ずかしいのに、乱馬の言動は、なびきに煽られて、暴走し始めている。当人はそれに気がついていないようだ。

「はいはい…奥手極まりないあんたたちのことだから、キス以外は、何もなかったことにしておいてあげるわよ…。」
 ふううっとなびきは溜息を吐きつける。

「だから、何もねえって…言ってるだろうが…。」
 まだ溜飲が下がらないらしく、乱馬はブツクサ言って退ける。

「夕べは帰って来なかったから、もしかして…と思ってここまで来てみたら、案の定だもの…。」
 なびきは苦笑していた。
「おまけに…随分派手にやってくれたみたいだし…。」
 そのまま、なびきはぐちゃぐちゃになっている教会式の結婚式場へと視線を投げる。

「あのなあ…。別に俺は故意でやったんじゃねーぞ。…ったく、九能の奴が化け物に憑依してあかねをひっさらったことに起因してんだろーがっ!」
 乱馬はムッとして言葉を投げた。

「あら…あんたが油断してあかねを一人で出掛けさせたことに、一番の元凶があるんじゃなくて?」
 ビシッと乱馬へ向けて、なびきは指を差した。
「何をっ!」
 乱馬が目をヒンむいて、反論しようとしたのを制しながら、なびきは続ける。
「だから、責任とんなさいよねっ!こっちは大損こいたんだからっ!」

「責任だあ?まさか、修理代を俺持ちなんてことにするつもりじゃあ…。」
「あら、勿論、そのつもりよ…。」
「なにいっ?」
「修理代を捻出する手伝いをしてもらうわよ。」
 目をヒンむいた乱馬に対して、なびきはふふんと鼻で笑い飛ばした。
 どうやら、この女は損害を乱馬へと押し付けようとしているらしい。
 あかねは口をあんぐりと開けたまま、姉と乱馬のやりとりを見詰めていた。

「ま、あんたからお金をセビリとるのは辞めておくとして…。」
「あったりめーだ!俺は悪くねえっ!それに、てめーの妹を守るためにやったことだろーがっ!」
「無論、あかねはあたしの妹だけど…あんたの許婚だから…あんたの方があたしより保護義務は大きいでしょうが…。」
「どういう道理でそうなんでいっ!」
「あたしより、あんたの方があかねへの愛情は大きいでしょう?」
「愛情の度合いと責任の度合いに、どういう相互関係があるってんだよっ!」
「つべこべ言わないのっ!たく…。もうじきこの式場が完成して、そろそろ予約を取りつけようとしてたところなんだからね。」
「だから、責任は、九能に取らせろっつーのっ!あいつがスケベ根性を出さなきゃ、こういう事態にならなかったんだろーがっ!」
「あんたがさっさと結婚しないからいけないのよ。三年もあかねをほりっ放しにしていたクセに…。」

 売り言葉に買い言葉…というよりは、なびきと乱馬の空回りぶりが、強烈であった。
 あかねと佐助は、黙って二人の空回りし続ける会話を、黙って聞いているしか手立てが無かった。口を挟もうにも、取り付く島がないのだ。

「ま、言い合いしていても、キリがないから…ということで…そろそろ結論を出すわね。」
 すっとなびきは息を吸い込んだ。
「結論だあ?」
 乱馬は声を張り上げる。
「ええ…修理代はうちの会社で持つ代わりに…あんたたちには広告塔になってもらうわ。それで手を打ってあげる。」
 さらっとなびきは言って退けた。

「あん?広告塔だあ?」
 どう言う事かと言わんばかりに、乱馬は即効、言葉を投げ返した。
「ええ。あんたたちに、この式場、最初の結婚式を挙げて貰うの。」
「なにいっ?」
 乱馬は問い返した。
「それで、あんたたちの挙式ついでに、パンフレット写真も撮りまくって、それを宣伝に使うのよ。
 タレントを雇うより経費も安くすむっていうより、ロハですむしね…。うん、それが良いわ。」
 となびきは一人悦に入っている。
「おい…。ノーギャラで俺とあかねを人寄せパンダに使うってか…。」
 乱馬はなびきを睨みかえした。
「悪い話じゃないわよ。式場の経費も少しくらいはまけてあげわるわよ。」
「くおらっ!ロハどころか、俺たちを宣伝に使って、なおかつ、結婚式の経費を巻き上げようってかっ!」
 思わず怒鳴った。どこまで貪欲なのだと呆れ果てる。

「あら、よそで式を挙げたら、まんま経費はかかるでしょうが…。そうね、七割ってことでどう?」
「七割引きか?」
「まさか、三割引よ。何なら一括じゃなくて分割でも良いわよ。」

「……。」
 乱馬は黙り込んだ。これ以上、なびきの相手をする気にもなれなかった。
 もう一人の当事者、あかねは、マイペースで勝手に話を進めて行く姉に、すっかり毒気を抜かれて、これまた口を挟む気にもなれなかった。
「イヤとは言わせないわよ…。」
「もし言ったらどうなんでいっ!」
 ぼそっと乱馬が吐きつけると、
「そうね…。今すぐ、ここの修理代全額を払って貰うわ。」
「結局、そこへ集約する気かよ…。」
「ええ。だから、あんたたちにここの広告塔に否が応でもなってもらうわよ。」
 キラリとなびきの瞳が光った。

 どうする…と言わんばかりの瞳を、乱馬はあかねへと投げつけた。
 結婚式場を決めるに当たって、もう一人の当事者、あかねの意向を聞かない訳にもいくまい。
 その暗黙の乱馬の問いかけを受けて、ふうっとあかねは一つ、息を吐き出した。

「お姉ちゃんが一度言い出したら、頑としても主張を曲げないわよね…。まあ、仕方ないわね…。乱馬はお姉ちゃんのプロダクションと契約しちゃったし…。」
「おい、こら…俺はタレントじゃなくって、武道家だぞ。」
 乱馬がムッとして口を挟む。だが、あかねは乱馬の言など無視してお構いなしで続ける。
「あたしは別にこの式場でもかまわないわよ…。乱馬だって、いろいろ柵(しがらみ)があるから、お姉ちゃんの意見を全く無視するわけにはいかないでしょ?」
「いいのか?安易に決めちまって…。」
 乱馬が念を押すように確認する。
「ええ、勿論。」
 あかねはコクンと頷いた。

「じゃ、決まりね。」
 ニッとなびきは笑った。
 そして、すっと書類を差しだした。
「何だ…これは…。」
 乱馬が問い質すと、
「契約書よ。」
「契約書って何の…。」
「だから、あんたたちがここの式場で挙式するっていうね…。こっちもビジネスだからね…。えっと、乱馬君とあかね、一応、双方のサインをここに貰っておくわ。」
 とサインペンも一緒に取り出した。

 さすがに抜け目が無い。
 乱馬もあかねも、姉のごり押しには太刀打ちなど出来る訳も無く。仕方がないかと互いに溜息交じりに頷き合った。

「あっと、それから、ドレスなんだけど…。」
 ごそごそとなびきはクローゼットを開けながら話かける。

 と、その続きの言葉を聞く間もなく、
「嫌だっ!」
 乱馬が一言投げた。

「まだ何も言ってないわよ。」
 なびきが乱馬へと言葉を返す。

「言わなくてもわかる。ウエディングドレスは、それを使えって言いてーんだろ?」
 乱馬はなびきがクローゼットから引き出して来たドレスを指差しながら言った。昨日、九能があかねに着せたドレスだ。

「良く分かったわね。」
 となびきが言葉を手向けると、
「だから…そいつだけは嫌だっ!」
 きっぱりと言い放った。
「どうしてよ…。あかねにピッタリだったんでしょ?」

「絶対に嫌だっ!そのドレスだけは使いたくねえっ!」
 怒鳴り気味に言い放った。

「乱馬…。」
 あかねは、彼が拒否した理由がわかっていた。
『そのドレスは俺じゃなくて、九能が用意したもんだろ?…その…俺は嫌だからなっ!そんなものにおめーが身を包んでるなんてこと…。』
 ゆうべ、眠ってしまう間際、乱馬が投げた言葉が、脳裏に響き渡る。
 そう、九能が勝手にあかねに着せたドレスだから、猛烈に拒否に走っているのだ。
 なびきがいくらごり押しても、恐らく乱馬はこのドレスを使うことだけは全身全霊をかけて拒否するだろう。

「使いまわさないのは勿体ないわよっ!何、ヘソ曲げてるのよ…あんたは…。」
 損得勘定でしか物事を判断出来ないなびきには、乱馬の心情など分かろうはずは無い。言い含めようと食い下がるが、頑として乱馬は首を縦に振らない。

「お姉ちゃん…。口を挟んで悪いんだけど…。あたしもそのドレスだけは願い下げだわ。乱馬が選んだものじゃないし…ましてやあたしが選んだものではないから…。」
 乱馬の心情が手に取るようにわかるあかねは、押し問答を続ける二人の間に割って入った。

 あかねの言葉に、やっと、乱馬の猛烈な拒否の理由が呑み込めたのか、なびきはふっと一つ溜息を吐きだして、言った。
「わかったわよ…。このドレスを使うのは諦めるわ…。ま、乱馬君とあんたがそこまで言うならね…。但し…。」
 そう言いながらなびきは二人の顔を見比べながら続けた。
「こちらの指定業者のドレスの中から選んで着用して貰うわよ。」
 と妥協案を投げてきた。

「あん?指定業者だあ?」
 乱馬が吐きつけると、
「ええ。こっちだってビジネスだもの。指定業者をちゃんと選定しているわよ。もっとも、あんたたちが拒否ったドレスもそこのブランドだけどね…。」
 
 どうする?と乱馬はあかねへと視線で問いかけた。
 恐らく、これ以上、このビジネス一本やりのなびきは譲るつもりはあるまい。

「あたしたちに選ばせてくれるっていう条件を飲んでくれるなら…指定業者のドレスで良いわ。」
 あかねはふっと言葉を吐きだした。
「あかねがそう言うなら、俺も依存はねえよ。着るのはあかねなんだし…。」
 ボソッと乱馬が同意の言葉を投げた。
 これ以上、なびきと対立するのも、この先、マネージメントして貰うのに不味かろうと大人な判断を下したのだ。

「じゃあ、それで手を打つわ。」
 なびきはそう言って、やっとその場はおさまった。
「後日、直接、指定業者へ出向いて、二人でドレスを選んでもらう手はずを整えるから、その時は宜しくね。」
 なびきはポンと言葉を投げた。
「ああ…。でも、ドレスは勝手に選ぶなよ。絶対に俺とあかねで選ばせろよ。」
 乱馬は念を押した。
「たく…変なところで変なこだわりを持つんだから…乱馬君は…。まあ、いいわ。その方があたしも乱馬君のセールスプランも含めて計画も立てやすいし…。」

「あん?どういう意味だ?」

「マネージサイドにもいろいろあるのよ。…ってことでビジネスの話は一旦置くわね。」
 乱馬とあかねから受け取った契約書をビジネスバックへしまいながら、なびきは言った。


二、

 その後、佐助の運転する車で、乱馬とあかねは天道家まで送ってもらった。
 大衆の面前に二人並んで歩くわけにもいくまいからと、なびきが気を利かせて佐助に送らせたのだ。もちろん、なびきもちゃっかりとその車に乗って、一緒に天道家へと帰宅する。
 まだ、そんなに有名どころではないにしろ、乱馬の顔は売れ始めている。一部、格闘ファンからしれみれば、今が旬の注目株だ。そんな彼があかねと公然と公道を歩くのは、できれば遠慮して欲しかった。
 ネットやスマートフォンがひしめき合う、現代社会だ。無駄な労力は使いたくないし、できれば、己の掌の上で、乱馬もあかねも転がせておきたいなびきであった。

 ゴールデンウィーク前半の、土日月の三連休は、あっという間に過ぎ去った。


 変わったことと言えば、あかねが長い髪の毛を、また、ばっさりと切ってしまったことくらいだろう。
 乱馬が無事に戻って来ることを祈って、のばし続けた髪の毛。乱馬の帰京により、のばす理由もなくなった。
 もともと、彼が帰ってくれば、切るつもりでいたので、何迷うことなく、美容室へ出かけて行って、ショートヘアーに戻したのである。

「勿体ないわねー。切っちゃったの?」
 と、なびきは驚きの表情を手向けたが、髪の毛に未練は無かった。
「やっぱ、その方があかねらしくて…好いや。」
 乱馬は、ふっと、笑みを浮かべた。
「覚えてっか?良牙に髪を切られた時のこと…。」
「ええ…忘れたくても忘れられないわよ…。」
「そりゃそーだよな…。自慢の髪の毛をばっさりとやられちまったんだもんな…。」
「でも、その後、乱馬はあたしに言ってくれたでしょ?…『俺は、絶対、短い方が、好き…だぜ…。』…って。」
 かつて、良牙との闘いに巻き込まれて、短く切り揃えた髪を見て、はにかみながら乱馬が発した言葉は、今も胸の奥に響いている。
「そんなことを、言ったけかなあ…。」
「覚えて無いの?」
「まさか…ちゃんと、覚えてるよ…。」
「ほんとに?」
「ああ…。」
 はにかみながら、乱馬は言った。
 あの時…。あの時のあかねの泣きはらした後の笑顔…。あの笑顔に、心を射抜かれてしまったのだ。忘れる訳が無い。
「やっぱ…こっちのあかねの方が…俺は…好きだぜ…。」
 短くなった髪へと、そっと手をのばす。そのまま、ほほ笑んで見つめ合ていると、脇で声がした。
「たく…やってらんないわ…。ここに、あたしが居ること忘れないでくれるかしら…。」
 と、困惑の声が響かせたのは、なびきだ。
 その声に、さっと、乱馬の手があかねから離れた。あかねも、真っ赤になって、俯いた。
「目に毒だから、そーゆーことは、周りの気配を察して、やったんさいねー。」
 とため息を思い切り洩らされた。




 明けて火曜日。四月三十日。平日だ。
 この年は五月一日、二日とカレンダー通りに平日で、また三日から六日までの四連休になる計算だった。
 あかねは朝からバタバタと見繕いして、いつもの如く七時過ぎに出勤して行った。
 髪の毛は切ったので、髪を整える時間分、節約できたはずなのに、朝の慌ただしさは、同じであった。

 乱馬は、相変わらず、朝は弱いようで、それを見送ることもなく、起きあがったのは太陽がかなり上に登りきってしまってからだった。

「で?あかねに肝心な話はしたの?」
 居間のテーブルの上で電卓を叩きながら、ブランチをかきこむ乱馬を横目で見詰めた。
「いや…まだだ…。」
 箸を置いて、ポツンと乱馬は声を出した。
「そう…まだ、話せてないんだ…。あたしはてっきり、この連休のうちにあかねに話したって思ってたけど…。」
 なびきはポンと言葉を返した。
「俺だって、話すタイミングを見計らってたんだけどよ…なかなか見つけられなかった。」
「ふーん…。相変わらず、優柔不断ねえ…。」
「しゃーねーだろ?」
「プロポーズはさっさとしたっていうのにねえ…。」
「やかましー。プロポーズは関係ねーだろっ!ってか、どう切り出したらよいか、俺もまだ迷ってんだ。あいつは気は強いが、肝心なところは弱いからな…。」
「確かにそうだわね…。気は強いけれど、案外脆いところもあるものね…末っ子で甘えん坊なところもあるし……で?どうするの?いつまでも、話さない訳にもいかないんでしょ?」
「まーな…。今夜にでもきっちり膝を交えて、あいつには話すつもりだ。包み隠さず、全て…な。」
 乱馬の顔が真顔になった。
「いつ切り出すの?」
「夕方、道場で手合わせする時にでも話すつもりだ…。道場は武道家にとって聖なる場所だからな…。」
「まさにおあつらえ向きな場所ってわけね、道場は。」
「ああ…俺なりに覚悟を決めなきゃなんねー。いや、俺だけじゃなくてあかねにも覚悟を強いなきゃなんねーしな…。だから、道場で話す。」
 乱馬は湯呑みを手で揺らしながら、言い切った。大きい声では無かったが、芯のあるしっかりした口調でそう宣言した。
「道場でけじめをつけるのが武道家ってことね…。もっとも、プロポーズも道場だったわよね…あんたたち…。」
 なびきがポソッと吐き出した。

「なっ!てめー、何でそれを知ってやがるっ!ああー、覗いてやがったのか?人の一世一代のプロポーズの瞬間を…。」
 途端、乱馬の表情が強張った。張りつめていた緊張がパツンと音を立てて、崩れ落ちる。
「ま、想像に任せるわ。」
 ふふんとなびきは鼻先で笑った。
「やっぱ、覗いてやがったな…。このデバガメ女が…。」
 ぎゅうっと拳を握りしめたところで、また、はああっと大きい溜息を吐きだした。
 これ以上、なびきに問い質しても、己の気分を害するだけだ。そう悟った。
「まあいい…。それより飯だ飯。きちんと食っとかねーと、化け物退治もできねーからな。」
「ほんと、今日のは美味しそうに食べるわねえ…。」
「ああ…。だって、これかすみさんが作った奴だろ?」
「ええ、お姉ちゃんが朝方乱馬君にって届けてくれたものだけどさあ…。」
「俺、久しぶりに食うもんなあ…。かすみさんの作った飯…。やっぱ、かすみさんの料理は最高だぜ…。」
「あかねとは大違いだものね…。ベテラン主婦だし。」
「おめーともなっ!」
 そう言いながら、絶妙な味噌汁や煮物やあえ物を堪能しながら食べて行く。


「それより、昼からあかねのところへ行くからね。食べたら、支度してね。」
「あん?あかねのところだあ?」
「ええ…。あの子の会社との間に交わした契約書に基づいて、正式にプロジェクトを発進させたいしね…。向こう側も乗り気みたいだから…。」
「何だ…仕事の話か…。」
 ポツンと乱馬が言った。
「ま、一応ね…。さてと、あたしも軽くご飯を頂いて、準備しなくっちゃ…。」
「おめーも食うのか?」
「ええ…。あんた、まさか、全部食べようだなんて思ってなかったでしょうね?」
「全部食って良いのかと思ってたけど…。」
「足りないんだったら、あかねの作った惣菜もあるけど…。」
「そいつはやめとくぜ…。出掛けるのに腹を下したら、洒落になんねーし…。」
「あかねに言いつけてやろうかしら…。」
 
 とにかく、なびきに促されて、それ相応に身繕いする。
 とりあえず、スーツだ。
 こういう格闘業をしているせいで、今まで袖を通すことが皆無だったスーツだが、そこは母、のどかがしっかりとしているようで、いつ息子が海外雄飛から帰って来ても大丈夫なようにと、何着か仕立ててくれていたものがあった。
 高校時代より一周り大きくなった背と体格であるが、実に母の見立ては正確で、どのスーツも身体にピッタリとマッチしていた。


 スーツに身を包んだ乱馬を見て、なびきがフッと笑った。
「何がおかしい…。」
「あんた、本当に、おさげだけはほどかないのね…。もう、女に変身することはないんだから、さっさと解いて髪を切っちゃえば良いのにさあ…。イメチェンとかしたいって思ったこと無いの?」
「ねーよ…。んーなの。第一、面倒くせーし…。」
「そもそも何でおさげなのよ…。」
「竜のヒゲ騒動がきっかけだったんだよ…。忘れたか?」
「ああ、あの髪の毛が異様にウジャウジャ伸びるっていう養毛剤…。あれを封印するために、竜のヒゲでおさげを編んでいたんだっけ…。でも、竜のヒゲの効果は無くなったんだからさあ、もう、おさげで封印しなくても良いじゃないの…。それとも何かゲンでも担いでるの?」
「別にそんなんじゃねーけどさあ…。おさげがないと落ちつかねえんだ。」
「そう言えば、あんたさあ、子供のころから長髪で通してたのよね?」
「ああ…。」
「何ゆえに?」
「さあね…。俺が思うに、親父はあんな奴だろう?散髪代をケチって子供(ガキ)の頃から長髪にさせられてたんだろーさ。」
「なるほどねえ…。髪を切らなきゃ、散髪代は要らないものね…。あたしも子供ができたらそうしよっと…。」
「するなっ!ってか、散髪代ケチって子供を長髪にするなっつーのっ!」

 乱馬となびき、それなりに絶妙な間合いを持ったコンビネーションである。
 当人たちはそれに気がついていないようだが、傍から聞いていると、テンポの良い掛け合いで会話が転がっていくのだ。
 なびきから見れば、乱馬は格好のからかい相手であり、集(たか)り相手、もとい、金づるでもあった。それは出逢った頃から変わらない。
 乱馬が天道家に居候を始めた時から、隠し撮りした女乱馬や男乱馬の写真やらグッズやらでしこたま儲け、今度は格闘家早乙女乱馬をマネージメントして大々的に儲けようと目論んでいる。
 喩え、天道家が創建以来の大ピンチに襲われていようが、なびきにとったら金儲けは最優先事項なのである。その悪の強さが、彼女へ邪悪を寄せ付けていないのではないかと、疑いたくなることもあった。
 とにかく、なびきはマイペースなのだ。
 いや、なびきに限ったことではない。天道家の長姉、かすみも、マイペースなら負けては居ないだろう。二人とも、武道こそ嗜まないが、少々のことでは動じない。決して、己を見失わない、頼りになる義姉たちだった。
 それに比べあかねは…。力や気こそ強く、剛健な娘ではあるが、実は弱いところがある。案外、泣き虫なのだ。何度、その泣き顔に翻弄されてきたことか。
 今回も、天道家の宿命の禍に自身から飛び込んだ乱馬だ。
 あかねを護る…それが己の使命だとこの青年は気を背負いこんでいる。
 得てして、過剰な緊張感は不安を募らせる。

 その肩を少しでも軽くしてあげよう…と、殊勝なことを、なびきが思っているかどうかは不明である。が、乱馬を深刻にさせないように、わざと軽口を叩いているようにも見えた。
 乱馬が暗くなると、あかねも暗くなる。天道家のこの長けた次女は、両名の性質を知りぬいていた。


 昼ごはん時が終わるころ、乱馬はなびきの運転する車で、再びあかねの勤める会社へと出向いて来た。
 契約の締結とそれに関する諸々のことなど、打ち合わせるためだ。

「わかってると思うけど…乱馬君。」
 駐車場に留めた車を降りる際、なびきが乱馬へと声をかけた。
「何だ?」
「これはビジネスだから…あんたは口を挟まないでね。」
「ああ…。ビジネスのことは俺は素人だからな…。おめーに任せるぜ。」
「その言葉に異存は無いわね?」
「異存があったって、おめーは聞く耳もたねーだろ?だったら唱えるだけ無駄だしよ…。」
 ムスッと乱馬が言った。
「そのとおりよ。ま、ドンとあたしに任せんさいっ!」
「金の亡者のてめーに、一切合財を任せるっつーのも、正直、不安もあるんだけどよ…。」

 そう吐きつけながら、乱馬はなびきの後に従って、車を降りた。



 

三、


 五月晴れの午後。
 遅咲きの桜もすっかり散り、そろそろツツジや藤が萌え始めようとする季節だ。まだ、半袖には若干早いかもしれないが、別に半袖でも十分なくらいの気温の上がり方だった。
 まだ、五月というのに、夏日に近い太陽が、燦々と新緑の間から照らしつけて来る。
 今日は、黄砂も飛んでいないようで、夏の到来を予測させる、鮮やかな青い空が魔天楼に突き抜けて広がっている。


「ねえ、あかね…。」
「ちゃんと、その指輪のこと、話してくれるわよねえ…。週末はパスしたんだから、その分も含めてさあ…。」
 昼の休憩時間、一緒に食堂で昼ご飯を突きながら、紗枝と麻耶が好奇心満々の瞳を浮かべて、あかねへとにじり寄って来た。

 そら、来た…。

 とあかねは苦笑いしながら身構える。

 入社して二年目。あかねにはずっと彼氏が居ないと思われて来た。
 あかねの周りには、男の影が全く無かったし、休日も、家の道場で父親たちを相手に汗を流していたというのが、もっぱらの彼女の過ごし方だったからだ。
 数多の男子社員があかねへと声をかけたが、一向に首を縦に振らなかった。あかねにしてみれば、乱馬という許婚が居たので当り前であったが、理想が高いだの、自分より弱い男には興味が持てないだの、きっと、とんでもない男と付き合ってこりごりしているだの…噂や憶測だけが流れていた。
 勿論、鈍いあかねには、他人がどんなことを口にしているかなど、全く気にも留めなったし、度重なる男子社員たちの交際申し込みには、正直、辟易していた部分もある。
 乱馬が修行に帰って来たら、はめかえてくれると言っていた指輪も、ずっとそのまま右手の薬指で光っていた。
 一度だけ紗枝が、
『その指輪をずっとはめてるけど…何かこだわりでもあるの?』
と問い質して来たが、
『ああ、これね…。とある友だちが餞別にってプレゼントしてくれたものだけど…。気に入ってるからそのままはめてるの。』
『友だちって女の子?』
『ええ…。女の子よ。それがどうかした?』
 と、気の無い素振りで誤魔化したことがある。指輪をはめてくれた乱馬は、当時、まだ半分、女を引きずっていたし、友達以上恋人未満の微妙な関係でもあったから、あながち全部が嘘だったとも言えない。
 もしかして、女だてらに格闘技などするあかねだから、同性に興味があるのかなどと、穿った見方をする先輩女子もいたが、特に気にもならなかった。

 それが、急にふって湧いたかの如く、あかねの右手にあった指輪が、唐突に左薬指へと移動している。
 これはいったいどういう事か。
 紗枝も麻耶も、聞き出したくてうずうずしていたようだ。

「で、その指輪の贈り主って、やっぱりあかねの恋人なの?」
 単刀直入に麻耶が聞いて来る。

「まーね…。恋人というより、許婚よ。」
 ポンとあかねは言葉を投げた。

「い…いいなずけえ?」
 紗枝と麻耶が異口同音、問いかけてくる。
 その声に、あかねたちの周りに座っていた、社員たちが一斉に振り返る。

「ちょっと…声が大きいって…。」
 思わず、あかねは焦りながら、二人をなだめた。
 
「許婚って…封建社会の時代の言葉じゃん…。現代社会にそんな言葉、まだ、生きてるの?」
「何?あかねってば、親が決めた人と結婚するの?」
 紗枝も麻耶も、瞳を輝かせている。
「まあ…父親同士が修行時代に交わした口約束が元で、うちの道場を継ぐために、許婚にされた相手だってことは、否定はしないけど…。」
 ポソッとあかねは言った。

「いつ引きあわされたの?入社した頃は、既にその指輪してたから、学生の頃よねえ?」
「子供の頃からだとか?」
 好奇心旺盛な二人の同僚は尋ねて来る。

「んと…十六歳になったばかりのころね…。あいつが家の道場へ転がり込んで来たのは…。」

「ってことは高校生の頃かあ…。」
「ってことは、あかねとあたしたちはタメだから…六年程前ってことね…。」

「まーね…。」

「で?二人とも、一目ぼれだった訳?」
 麻耶が尋ねる。

「ま、まさか…。あの頃のあたしたちは、互いの想いに不器用だったから…。どっちかというと反発しあってたわ…。しかも、あいつは普通じゃ無かったし…。」
「え?」
「普通じゃないって?」
「あ…格闘馬鹿ってことよ…。俺は格闘という名がつく勝負には負けたことがねえっていきがるくらいに…。」
「ああ、そう言う意味の普通じゃないかあ…。」
「あたしってば、変態なのかと思ったわ。」
 麻耶と紗枝が頷いた。
(変態…っていうのはある意味正解なんだけど…。)
 その言葉尻をグッとあかねは飲みこんだ。
 乱馬が変態…いや、変身体質だったということは、説明しようがない。そんな非現実なことを、言の葉に乗せて説明すること自体、骨が折れる作業だ。スルーするに限る。そう思った。

「ともかく、あたしもあいつも、上手く心をコントロール出来なかったから、最初は喧嘩ばっかりしてたのよ…。
 でも、腐れ縁っていうのかな…。それでも、互いに強く惹かれて行ったことは確かで…。で、高校卒業と同時に、あいつはあたしの前から姿を消したの…。戻って来たら一緒になろうって…去り際に言葉と共にこの指輪を残して行ったのよ…。」

「就職かなにかで、離れたの?」
「んー…まあ、そんなところね。」
「で、転勤か何かで、東京近郊へ戻って来たってことなの?」
「そういうことになるかしらね…。で、約束通り、結婚しようってプロポーズされたの…。」
「わああ…ロマンスだねえ…。」
「ホント、離れていた恋人が戻ってきたんだ…。」
「で?いつ結婚するの?」
「まだ、そこまで話は煮詰まっていないわ。一緒になろうって言われただけだし…。お父さんたちにもまだ正式には報告できていないから…。」
「って、親が決めた許婚同士なんだったら、何も障害なんて無いじゃないの。」
「彼はお勤めしながら、道場を守るのね?」
「ってことは、婿養子?」
「それもまだこれから詰めるわ…。」

 投げかけられる質問に、適当に言葉を返していく。

「で?格闘技やってる人だから、やっぱ、ガタイは良いの?」
「筋骨隆々のずんぐりむっくり型?」
「うーん…。パッと見、そんなに筋肉質には見えないかな…。」

「背は高いの?」
「低くは無い?」
「あたしより高いわね…。」

「足は長いの?」
「短くはないわよ。」

「髪型は?」
「角刈りとかしてるの?」
「どっちかというと長い方かな…。」

「眼鏡かけてる?」
「コンタクトとかしてるの?」
「目は良いからどっちもしてないわ。」

「あかねから見て、ハンサム?」
「いかめしいタイプとか?」
「ルックスは人の好みもあるからね…。ま、人並みだと思うわ。」

「で?強いの?」
「あかねと比べてどう?」
「道場の跡を取ってもらうんだから、弱い訳ないじゃないの…。」

「優しい?」
「それなりにね。」

「で?彼氏の名前は?」
「そこまで追及しないでっ!」
 思わず、苦笑いが漏れる
 なびきの会社とマネージメント契約を交わした以上、ここは、是が非でも、相手が早乙女乱馬だということは隠し通さば不味いだろう。従って、この質問だけは却下だ。
「教えてくれたって良いじゃないのぉ…。」
「って、あたしだって、麻耶や紗枝の彼氏の名前なんか知らないわよ。」

 ふと顔を挙げると、幾つかの好奇心旺盛な顔が、耳をダンボにしてこちらを伺っているのが目に入った。
 どうやら、あかねの「婚約者」についての会話に耳をそばだてている者が、数多居るようだった。
 あかねにふられた男子社員を始め、先輩のお局女史も、黙ってこちらの話に聞き耳を立てている様子だった。
 周りがこんな状況だから、余計に、あかねの婚約者もとい許婚が、早乙女乱馬だと悟られてはなるまい。

 そんな、あかねの気遣いは、この後、見事に吹っ飛ぶことになる。
 
 と、社内で午後一時五分前を告げる予鈴が鳴った。あと五分で休憩時間の終わりを告げる響きだ。
 それぞれの配置場所へ戻れという合図だ。
 
「ほらほら、就業時間よ…。」
 とあかねは席を立ちあがった。
 その様子を間近で見た、紗枝と麻耶が口を尖らせた。
 
「ちぇっ!もうちょっと追及出来るかと思ったのになあ…。」
「今度、写メ見せてよね。」
「ってか、紹介してよ。」
「何で、そこまでしなきゃならないのよ…。」
「あら、当然よ。だって、ずっと彼氏居ないってあたしたちを騙して来たんだから。」
「だましてた訳じゃないってっ!」

「ほらほら、あんたたち、昼休みは終わりよっ!さっさと職場に戻りなさい。」
 すれ違いざまに、三十代のお局先輩が、キャピキャピと姦しい、若者たちへと苦言を投げて来る。
 同僚たちの追及から解放されると、あかねはホッと表情を緩めた。
「天道さんも浮かれてないで、仕事は仕事としてちゃんとお勤めしなさいよ。喩え、腰掛けで終わるとしても!」
 先輩女史はそう言い置くと、ツンと書類を抱えて行ってしまった。

「機嫌が悪いわねえ…。ミキ先輩。」
「そりゃあ、そうよ。あの人だって、あかねには彼氏が居ないってずっと思ってた口でしょ?」
「あかねに婚約者が居たってことで、ショックで切れちゃったかな…。」
 麻耶と紗枝がこそこそと陰口を叩く。

 と、その時だ。急に周りが慌ただしくなった。
 バタバタと何人かの社員が、一斉に玄関へ向かって走り始めた。

「何かあったのかな?」
 麻耶が走り去ろうとしていた男子社員の袖を引っ張った。
「どうしたの?皆、急に血相変えてさあ…。」

「あ、来客だって。」
「来客?」
「早乙女乱馬が正式に契約しに来たみたいだよ。」
「きゃっ!また来たのねえ…。」
 麻耶の顔が明るくなった。どうやら、彼女は乱馬のファンになってしまったらしい。
「別に、あんたに会いに来た訳じゃないと思うけど…麻耶。」
 紗枝が横から話かける。
「わかんないわよー。もしかしたら、彼のハートを射止めるチャンスが廻ってくるかも。こうしちゃいられないわっ。」
 バタバタと物見遊山の社員たちが、玄関へと集結する。
 まだ、昼休みが終わっていないあかねも、麻耶と紗枝に引っ張られるように、玄関へと押し出された。

 わいわいと人が広い一階ロビーへと集まって来る。全社あげての大歓迎ムードの中、乱馬を玄関から迎え入れるのだ。
 そういう社風だったとはいえ、人々は好奇心を持って、新進気鋭の注目株、格闘界のプリンス、早乙女乱馬を迎える。
 社長も会長も嬉しそうに階下へとわざわざ降りて来た。

「これはこれは、ようこそ。早乙女乱馬さん。」
 と愛想を振りまきながら、中年オヤジ然した社長が総白髪の会長と連れだって、迎え入れる。

「総勢でのお出迎え、痛み入りますわ。」
 なびきがポンと声を挙げた。

「おお、これはマネージャーの天道なびきさん。ようこそ、おいで下さいました。」
 社長は上機嫌であかねの姉も迎え入れる。乱馬は苦笑を浮かべながら、なびきの後ろで黙って彼らの出方を見守っていた。
 シャイな乱馬である。自分から進んで前に出るのは苦手だった。それに、マネージャーのなびきからは、一切無駄な口を挟むなと、忠告を受けている。ここは黙ってにこやかに振る舞うのが得策だと踏んだらしい。
 あかねも、そこに大歓迎されているのは、己の身内だという遠慮が働いて、前へ前へと出ようとする、好奇心旺盛な他の社員たちとは一線を画し、後ろへ後ろへと身を引いて見守ることに転じる。乱馬やなびきとどう接すれば良いのか、流石に、迷ったのである。

「で、社長…昨日、お話しておいた件ですけど…。」
 なびきがその場で口火を切った。

「ええ。当社としても願ったりかなったりです。新しく企画を組んで始めようとしていた事業ですので、もう、二つ返事で会長共々、お受けしようと思っておりますよ。わっはっは。」
 と社長はご機嫌でなびきへと相対した。




「ああ、皆、聞いてくれ。重大発表だ。」
 社長はパンパンと手を叩いて、社員たちの気を引いた。
 ざわついていた周りが、手の音に飲み込まれるように静かになる。
「今回、こちらの早乙女乱馬さんが、我が社が新しく立ち上げたウエディング事業部の宣伝を引き受けてくださることになった。」
 その言を受けて、周りが俄かにざわつき始めた。そこら中で、ほおっとかへえっとかいった溜息じみた声が漏れる。格闘家の乱馬とウエディング事業部のイメージが上手く噛みあわなかったからだ。

 だが、その社長の言葉に、敏感に反応した者が二人ばかりいる。
 一人はあかね、そして、もう一人は乱馬だ。
 今回ここへ赴いた用向きの何たるかは、特になびきには聞かされていなかった。当然、あかねもである。

 と、姉は誰かを探すように辺りを一瞥して見渡した。そして、あかねの視線とかち合うと、ニッと笑った。その悪魔の微笑みに、一瞬、あかねの背中を冷たい物が流れた。

「今回、我が社がスポンサーを務めることになった、早乙女乱馬さんだが…これは、まだマスコミ発表にはなっていないので公にはなっていないが、今回、婚約なさったそうであります。」

 えええっという驚きの声と、ウッソーという女子の悲鳴がそこここで湧き上がる。

 その言葉に、乱馬の顔が途端、険しくなったことは言うまでもあるまい。
「こらっ!なびきっ!てめー、何、プライベイトな情報を垂れ流してやがんだ…。」
 顔を赤らめて、なびきへと突っかかる。
「あら、隠しだてしたところで、いずれはばれるのよ。なら、最初に公開しておかないと…。あんたが困ることになるのよ。」
 としらを切る。

 あかねの顔もだんだんにヒクついてくる。

「おめでとうございます、早乙女さん。」
 がっしと社長が手を出して、握手した。
「は…はあ…。」
 どう答えてよいやらわからずに、乱馬は苦笑いを浮かべながら、社長の祝福に甘んじる。
「我が社としても、早乙女さんの婚儀の衣装を、全社を挙げてプロデュースしますよ。早乙女さんご夫妻に我が社の作ったウエディング衣装を着ていただければ、こちらも、大々的な宣伝になりますからなあ…。世間では地味婚と言われ始めて久しいですが、やはり、女性の究極の夢は華やかな純白のウエディングドレスに身をまとって、永遠の愛を誓うことにありますからなあ…。
 早乙女さんのフィアンセも、きらびやかな花嫁姿へと転じさせていただきますぞ。」

「で、そのことなんですけど…。フィアンセも一緒にご紹介しますわ。」
 なびきは柱の影へと隠れようとしていたあかねへと視線を投げつけながら言った。
 と、場がざわつき始めた。
 当然である。
 乱馬が婚約したということだけでも、ビッグニュースだ。それを一緒にフィアンセもとなると、どこに居るのかとひそひそと囁き始める。
 

「くぉらっ!なびきっ!てめー、何を言い出してんだよっ!」
 横から乱馬がなびきの袖を引っ張っりながら怒鳴った。
「乱馬君…ほら、ボサッとしてないで、自分の口から、フィアンセを紹介なさいな。」
 とトンと乱馬の背中を押した。
「だから、一体何のつもりで、俺にそんなことさせやがるっ!」
 顔を真っ赤に火照らせて、乱馬はなびきへと怒鳴り返す。
「あんたも往生際が悪いわねえ…。スポンサー会社の皆さんに、ちゃんと自分のフィアンセを紹介しないと、このプロジェクトは始まらないのよ。」
「そんなこと、急に言われてもだなあっ!ほらっ!あかねだって面喰って固まってるじゃねーかっ!」
 あかねの名前を口にした乱馬。しかも、指差し付きで。
 途端、周りがどよめいた。
 無論、しまったと思ったが、後の祭だった。


「ふふふ、言っちゃった…。」
 なびきがニッと笑いながら続けた。
「皆さん、改めて紹介しておきますわ。私の妹であり、この会社の受付嬢でもる天道あかねが、彼の…早乙女乱馬の許婚です。」
 と。




つづく


 ま、なびきがマネージメントしたら、こういう感じになるんじゃないかと…。自分の身内も手玉にとって、仕事する、なびき…。

追記
 あかねが髪の毛を切る描写を抜かしていました(汗
 元になった作品は、あかねが乱馬とやりあったあとに、バッサリと切っているのですが…。考えたら、その話を入れないままに、作品を書いてたことを、最終チェック入れていて、気がつきました…。なので、この話の中に、書き加えました。

 

 


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