◆蒼い月と紅い太陽

第八話  夕闇
一、
 
『…春雨前線は日本列島の南の太平洋側へ張り出して来ました。そのため、今夕あたりから徐々に雨模様となるでしょう。上空に湿った暖かい空気が流れ込んできますので、ところによって、季節外れの雷雨になるかもしれません。今後の予報に御注意ください…。』

 テレビの音が頭上で鳴った。

「雷雨ねえ…ほんまに、季節外れもええとこやな…。」
 コテでお好み焼きをひっくり返しながら右京が言った。
「そうねえ…。雷っていったら、夏の風物詩みたいなものだし…。」
 あかねはぼんやりと右京の手元を見つめながら言った。
「えっと、イカ玉と豚玉とミックスやったな…。」
「うん…。」
 あかねは右京に答える。

 ゴールデンウイーク前半戦の最中、昭和の日の昼近く。あかねは右京の店に、昼食用のお好み焼きを買いに来た。

 ゆうべは帰宅して、ご飯と風呂を澄ませると、そのままベッドへ直行してしまった。乱馬とゆっくり話をしたかったのだが、疲労が臨界点に達してしまったのだった。
 乱馬もあかねが疲れていることは百も承知だったので、話し込むこともなく、そっとおやすみのキスをくれただけだった。勿論、寝室は別々である。


「で、乱ちゃんが帰って来たんやって?」
 白々しく、右京はあかねへと言葉を投げかけた。
 あかねは右京と乱馬のやりとりを知らないため、言葉に詰まった。
「うん…まあね。」
「で?今日はどないしてるん?」
「海外生活が長かったせいもあるのか、朝がすっかり弱くなっちゃって…。さっきあたしが家を出て来た時も、まだ眠ってたわ。」
「ふうん…。よっぽど体内時計が狂ってるんやな…。」
「ええ…まあ。」
 カランとコップの水の氷が音を鳴らして沈んだ。
「で、遂に乱ちゃん…、プロポーズしたんやて?」
 右京は静かに問いかけてきた。
 暫しあかねは沈黙した。右京が「もう一人の乱馬の許婚」という立ち位置を、自ら乱馬へ返上したことを、あかねは知らなかったからだ。
「あ、気ぃ遣わんでもいいんやで…。何とも思ってへん…って言ったら嘘になるけど。乱ちゃんが決意したことやろ?隠したってわかる。あかねのその左手に光ってる指輪…。そういうことなんやろ?」
 右京は寂しげに笑ってみせた。
「ごめんね…。右京…。」
「あんなあ…、怒るで。なんでうちがあかねに謝られんとあかんねん。結婚は当人同士が決める事やろ?うちに謝るなんて、お門違いもええとこやでっ!」
 じゅうじゅうと鉄板の上でお好み焼きが熱い唸りを上げる。慣れた手つきでひっくり返してゆく右京。
 
 あかねには、右京がお好み焼きではぐらかしたように思えた。

 失恋した右京の想いは何処へ行くのだろうか。
 ほっと溜息を軽く吐いて、コップへと口を付けて飲み始めた。

「で…、いつ、籍入れるんや?」
「決まってない…。というか、お父さんにも報告していない段階だしね。」
「え?おっちゃんに、まだ言ってへんの?」
 右京が不思議そうに訊き返して来た。
「うん…。お父さん、乱馬と入れ違いにどっかへ行っちゃってさあ…。」
「へえー、かすみさんの時みたいに、どっかへ雲隠れでもしたんかいな。」
「みたいよ…。」
 あかねは苦笑いした。
 
 東風先生がかすみを貰いに来た時、行方をくらませた早雲のことは、右京も聞きかじって知っていた。
 手分けして天道三姉妹が、早雲を走り回って探していたからだ。

「その分やったら、あんたら、初枕(ういまくら)、まだやろ?」
 右京は笑った。 
 唐突な右京の言葉のパンチだった。
「はぁ?」
 が、あかねには初枕の意味が、すぐさま解せなかったようだ。
「そっか…。乱ちゃん、まだ手ぇ、出してないんか。律儀やなあ。」
 けたけたと右京が笑い転げる。
 あかねは右京の口にした、初枕の意味がわかったらしく、顔を少し赤らめる…。
「ちょっと、右京っ!何言い出すのよっ!!」
 あかねは思わす声を挙げた。
「それだけ乱馬さまはあかねさんのことを大切にしているのですわ…。なかなか出来ることじゃないと思いますよ…。」
 小夏が横から会話に入ってきた。
「たく…。奥手なんやから。相変わらず…。でも、あんたららしいわ…。男女の関係抜きの純愛やなんて…、今時なかなか、あらへんで…。
 乱ちゃんは昔からあかねのことずっと大切に想ってきたんやなあ…。高校生の頃の悪言は、その想いの裏返しやったんやなあ…。」
「でも、相変わらず口は悪いわよ…。人のこと、今でも散々コケにするし…。」

 許婚として、結婚を申し込まれて三年間、ほったらかされた。修業三昧の三年後、帰国してプロポーズしてくれたものの、契りは交わしていない。それがいいことなのか悪いことなのかあかねには良くわからなかった。もしかして、自分に女の魅力が無いから、乱馬は迫ってこないのではないかと思ってしまうこともあるほどだ。

「ええんちゃう?それだけ大切に想われてる証拠やんか…。あーあ。アホくさ…。出来上がったで。熱いうち持って帰り…。」


 お好み焼き右京の店を出た。
 薄雲の上から、微かに太陽の輪郭が見える。曇りたいなのか晴れたいのか、すっきりしない空模様だった。

…まるで、あたしたちみたいなお天気よね…

 あかねはお好み焼きの入った暖かい袋を腕に、空を見上げた。

 と、不意に風の匂いが変わった。
 湿った嫌な気配を含んで吹き抜ける。ざざざざざっと木々の梢が鳴った。

 背後で人の影が立った。

「誰?」
 思わず、身構えた。

 タンと音がして、そいつが樹の上から降り立った。見覚えのある忍者服。愛想のある顔があかねを捕えた。

「何だ、佐助さんか。」
 あかねは臨戦態勢の矛先を収めた。降り立った相手が、なびきのビジネスパートナーでもある九能の配下の猿隠佐助だったからだ。
 その油断がいけなかった。
 佐助は懐から大きめのハンカチをとりだして、唐突にあかねの鼻と口を抑え込んだ。
「あかね殿…御免!」
 そう言いながら頭を垂れる。

「え…。何…これ…。」
 
 鼻先から微かに薬品の匂いがした。それを思いっきり、吸いこんでしまったのだ。
 俄かに意識が遠ざかる。
「佐助さん…何を…。」
 そのままあかねは、佐助の胸へと倒れこんでしまった。

「悪いでござるな…。拙者もこのような荒仕事はしたくはなかったのでござるが…。九能家の御庭番として、帯刀様の申しつけは絶対でござるから…。」
 意識を失ってしまったあかねを抱くと、辺りを見回し、そのまま飛び上った。そして、ひょいひょいとあかねを抱えたまま、どこかへと消えてしまったのだった。


「今のは…あかねちゃんよね…。」
 その後ろ姿を認めた者が一人。郵便ポストに身を包んだコスプレ野郎、紅つばさであった。怪しい忍者装束の男に薬をかがされて拉致されたところを、はっきり目にしたのだが、特に気にも留めなかった。
「ま…いいわ…。右京様のところへ急がなくっちゃ。」
 びよん、びよんと真っ赤なポストを身にまとったまま、右京の店の方へと跳ねて行ってしまった。


 昼近くなって、やっと起き出した乱馬は、あかねが居ないことに気が付いた。
 今日は休日だ。会社も休みの筈だった。
 道場で稽古でもしているのかと思って、中を確かめたが、気配はない。母屋にも庭にもどこにもその姿が無かった。
「なびきー、あかねを知らねーか?」
 茶の間で電卓を叩いていたなびきへと声をかけた。
「右京の店にお好み焼きを買いに出掛けたけど…まだ、戻ってないの?」
 と返答が帰って来た。
「ああ…右京の店で喋り込んでやがんのかなあ…。」
「気になるんなら、右京の店まで行ってみたら?」
「ウっちゃんのところへかあ?…昨日の今日だからなあ…。」
 と乱馬は声を切った。
「別に何てことないじゃん…。」
 なびきがキョトンと顔を上げた。
「あのなあ…。普通、気を遣うだろう?そんなに心臓でっかくないぜ、俺は…。」
「何、殊勝な事を言ってるのよ…。あかねのことが気になるんなら、迎えに行くのが筋ってもんでしょうが…。許婚でしょう?いくら昼間に魔物が出ないって言ったって、だらけすぎよ。」
「わかったよ…行ってくらあ!」
 そう言って、渋々、天道家を出て、右京の店へと足を向けた。


 高校生の頃は、良く右京の店にも出向いた。夕方の忙しくなる時間を外して、青春の空腹を満たしに通ったものだ。関西人の血が色濃い右京は、良く乱馬におごってくれたものだ。それをあかねはいつも険しい目で見ていた。
「こっちに足を向けるのも久しぶりだよな…。」
 懐かしい路地を歩きながら、様々なことを思い出す。あれから三年。少しばかり、自分の記憶とは違った景色も開けている。建て替えられた家もあったし、見たことも無い店もあった。たいして変わらないようで、確実に時は前に流れている。
 右京の店は三年前と変わらなかった。同じ店構え、同じ看板が上がっている。
 暖簾を右手でたくし上げて、店内へ入る。
 中は昼時の客で賑わっていた。

「あら、乱馬様。」
 小夏が珍しい顧客を見つけて、まず声をかけた。
「あれ?乱ちゃん、いらっしゃい。」
 鉄板の煙の向こう側から右京も声を上げる。
「どないしたん?」
「んっと…あかねは?ここに居ねーのか?」
 と声をかけた。
「あかね様ならとっくに帰りましたけど…。」
 小夏が不思議そうに顔を巡らせて答えた。
「帰ったって?」
「ええ…もう小一時間経ちますけど。」
 と答える。
「何や?あかねちゃん、帰ってへんのん?」
 右京がお好み焼きをひっくり返しながら乱馬へと問いかけた。
「ああ…。天道家(うち)には戻ってねーんだ…。」
 乱馬の顔が一瞬、曇った。
「あったかいお好み焼きと一緒に、とっくに帰っててもええのになあ…。どこほっつき歩いてるんやろう…。」

「あかねさんなら、ここへ来る前に見かけましたよ。」
 首を傾げる右京の向こう側から、ヒョイっと郵便ポストが顔を出した。ポストの下は茶系のセーラー服を着用している。
「つばさ…おめーまだ、そんな格好でウロウロしてんのか?」
 思わず、苦笑しながら乱馬が続ける。とっくに二十歳すぎている青年の格好ではないからだ。
「見かけたってどこでだ?」
「えっと、この先の公園辺りで、佐助さんが抱え上げて連れて行きましたけど。」

「佐助が?また、どこへ…。」
 右京が思わず声をかけてしまった。

 佐助と言う名を聞いて、乱馬の顔が険しくなった。

「佐助があかねを…。まさか、佐助の奴…。」
 表情が急に変わったので、つばさが訝ったほどだ。
「何か、気になることでもあるんか?乱ちゃん。」
 右京が目敏く、乱馬の豹変を見抜いていた。
「ああ…ちょっとな。教えてくれてサンキュー、つばさ。」
 そう言うと、足早に乱馬は店を出た。

 佐助は現在、なびきと九能が立ち上げた企画会社の社員をしているという。無論、九能家の御庭番としての役割も辞めてしまった訳ではない。なびきがそんなことを言っていたのを耳にした。

「たく…俺としたことが…。なびきの相棒だからって、闇に捕われねえとは限らなかったよな…。それに…。」
 左手首にかけられた数珠を見た。数珠玉がざわついているのを微かだが感じる。
「この玉が反応しているってことは…闇がひとつ目覚めたって証だしな…。」
 乱馬の顔が格闘家への顔へと変化する。
「相手は九能か…。」
 ぎゅうっと乱馬は拳を握りしめた。
 その上空を、季節外れの入道雲が覆い始めていた。



ニ、

 ふっと意識が浮き上がった。
 

「ここはどこ?」
 ハッとして辺りを見回した。
 佐助に薬をかがされて、気を失ったことを思い出したのだった。

「目が覚めたかな?あかね君。」
 そいつは、目の前で笑っていた。

「九能先輩…。」
 見渡してみて、驚いた。
「な…何です、この格好はっ!」
 大きな声を張り上げたのは無理が無い。真っ白な花嫁衣装を着せられていたからだ。
「何って…君とボクの結婚式のためさ。」
 九能が高らかに笑っている。彼は白のタキシードを身にまとっている。
 これでは、二人、これから結婚式を挙げるような格好である。
「悪い冗談はやめてくださいっ!先輩っ!」
 あかねは吐きつけた。
「冗談などではないぞ!これからボクは、君と結婚するんだ。そう、だから先輩ではなく、遠慮なく旦那様と呼んでくれたまえ。」
 思い込みの激しさは、昔から変わっていない。
 なびきとコンビを組んで仕事をし始めても、時たま思い出したように求愛されていた。
 乱馬が修行に出てしまうと、同時に「おさげの女」も居なくなった。その分、あかねに九能の意識が集中し始めるのも仕方のないことだった。
 無論、九能の求愛を受けるつもりはさらさらなかったので、断り続けていた。

 それをいきなり、結婚式などと言い出した。どういうつもりなのだろうか。
 九能が錯乱したのではないかと、本気で思った。

「佐助さんっ!お姉ちゃんは知ってるの?」
 と傍にひざまずいている佐助へと声をかけた。

「知らせてないでござるよ…。知らせるなと帯刀殿もおっしゃいましたゆえ…。」
 と平坦な答えが返って来る。
 御庭番にとって主人には絶対服従だ。今も昔も佐助は九能帯刀第一に考えている。たとえ理不尽な命令だったとしても、九能には従順に従っているようだ。

「あたし、先輩と結婚するつもりはありません。」
 そう吐き捨てると、あかねはその場から退散をしようと、扉の方へ向かって歩き始めた。

「どこへ行くのだ?」
 九能が笑みを浮かべながらあかねへと声をかけた。

「帰らせていただきます!」
 あかねはそう告げながら、扉へと手をかけた。

 バタンッ!

 開いた扉を見て、思わず凍りついた。

「嘘…。」
 そう言ったまま、足が止まった。
 ビュウーっと風が通り抜けて行く。
 そこは天空だった。扉の向こうには天空に開けたバルコニーがあるだけだった。
 空はいつの間にか分厚い雲で覆われ、真っ黒に染め上がる。
 夕闇が迫るまでは、まだ時間がありそうなのに、薄暗い。太陽は分厚い雲の向こう側に追いやられ、光を失ってしまったようだ。
 今にも大粒の雨が落ちて来そうな、嫌な湿気を含んでいた。
「ここは…。」
 絶句するあかねに、九能は笑いかけた。

「そこは出口ではないよ…残念ながらね…。」
 九能がそう言葉を投げると、雷光が光り、ゴロゴロと重い音を響かせ始めた。


「ここは都内のビルの屋上に作った我が社プロデュースの式場だよ。ここで僕と永遠の愛を誓うのだ…あかね君。」
 九能が後ろで笑っていた。
「君は篭の鳥だ。大人しく、ここで僕と結婚式を挙げてもらう…。」
 スッとあかねに近づく。そして、パタンとドアを閉めた。

「冗談じゃないわっ!あたしには許婚の乱馬が居るわっ!だから、あたしの相手は九能先輩じゃないわっ!」
 あかねは九能から離れると、身構えた。

「たく…。君は大人しく僕の言う事を聞いて居れば良いのだよ!いやでも言う事をきかせてあげるがね…。ほら…。」
 九能は笑いながら口を開いた。と、彼の吐息から何か煙上の物がもくもくとあがってくる。そいつはまとわりつくように、あかねを覆った。
 あわててあかねは、口や鼻を押さえた。だが、煙の侵入を完全に遮断することはできなかった。
 ツンと刺すような刺激臭が、口を閉じていても、身体へと浸透してくる。

「な…何…これ…。身体が動かない…。」
 その煙に触れただけで、あかねは、膝からガクガクと崩れ落ちた。
 煙はやがて、全てがあかねの体へと入っていくように消えていく。
 煙が消えたことを確認すると、九能は叫んだ。
「佐助っ!」
 その呼び声と共に、後ろから出てきた佐助は、床に倒れ伏したあかねを抱き上げる。
「あかね殿、ごめん。」
 そう言うと佐助は、あかねを「お姫様だっこ」に抱きあげた。ゆっくりと九能が促した方向へと運び始めた。
 そこには大きな扉があった。結婚式場の脇から入れる両開きの部屋がそこにあったのだ。
 
 ギイイッと音をたてて開いた扉の奥には、大きな白いベッドが一つ、中央にこれ見よがしに置かれていた。
 そう、彼の行く手はベッドルームであった。
 結婚式場の脇にベッドルームが備えてあるというのもいかがなものかと思うが、九能が設計段階から譲らなかったベッドルームであった。式を挙げたカップルに、是非、夢の初夜をここで過ごして貰おうとかなんとか、わけのわからないことを言い出した結果、設えられた高級ホテルばりの豪華なベッドルームである。
 ゴクンと九能は生唾を飲んだ。
 ずっと恋焦がれていたあかねと過ごす。まさに彼の究極の夢であったことが、現実に移ろうとしている。

「佐助…いつまでそこに居るつもりだ?さっさと立ち去れっ!気を利かさぬかっ!」
 と厄介払いをするように、佐助へと声をかけた。
「あの…差し出がましいようですが、帯刀様…。」
 佐助は戸惑ったように九能へと声をかけた。
「何だ?」
 九能は振り向きざまに佐助を睨みつけた。
 その鋭い視線に、佐助は思わず、一歩、後ろへと後ずさった。

(うっ!…な…なんでござるか…。この、鋭い差すような眼光は…。いつもの帯刀様とちょっと違うような…。)
 違和感が佐助の脳裏をかすめ飛んだ。

「何だと問うておろうが…佐助っ!」
 その言葉に我に返った佐助は、慌てて思ったことを口にした。

「その…。何でござりますよ…。ベッドルームへ入る前に…あかね殿と挙式を挙げられるおつもりだったはずですが?」
 佐助は困惑げに九能へと問いかけた。暗に順番が違うのではないかと示唆したのである。
 
 こと、男女交際に関しては、昔からどこか固いところがあった九能である。たとえば、男女交際を始めるにあたっても、まずは交換日記からはじめようと宣言するような男だ。
 つまり、結婚式を済ませなければ、性的行為へと臨まないのが九能帯刀という人となりのはずである。長きにわたり、九能家に仕えて来た御庭番の佐助には、手に取るようにわかる。
 なのに、挙式よりも先に、あかねとベッドルームへと籠ろうとしているのは何故か。佐助には腑に落ちなかったのだ。

「何だ…そんなことか。」
 九能はクスッと笑いながら佐助へと対した。

「そんなこと…と、申しますと?」

「この娘に子を宿してやるのだ…決まっておろう?祝言より先に子作りをするのだよ…。」
 にんまりと九能は笑った。

「帯刀様、今何て?…子、子作りを先にされるですって?」
 佐助が目を丸くして九能へと問い糺した。

「ああそうだ……。憎き天道の娘の純潔を奪い、魔龍の子を孕ませ、産ませる…。こんな愉快な復讐はなかろうが…あははは。」

 帯刀の瞳があやしく光った。人間のそれではない、魔物に魅入られた瞳だった。
「くくく…この男の体を乗っ取ったのも、この娘と交わるため。人間の姿を借りねば、この娘とは交われぬからな…。」
 
「ば…化け物が、帯刀様を…乗っ取ったのでござるか?」
 思わず、背筋を凍らせた佐助が、そう吐き出した。
「だったらなんだと言うのだ?貴様、ワシとやりあうか?」
 
 くわっと九能の口が、真横に引き裂かれた。いわゆる、爬虫類の口のように、耳元まで避ける。

「ひっ!」
 佐助はバタバタと手足をばたつかせ、ベッドルームから這い出した。眼は涙目になり恐怖で震えている。

「ふん…。逃げ出したか。意気地のない奴め。」
 再び九能の顔に立ち戻った化け物は、しびれたまま動けないあかねへと身を乗り出した。
「邪魔者は居なくなった。くくく、これからじっくりと睦み合おうではないか…。」
 すっと触れてくる冷たい手。良く見ると、鱗が浮き出して見える。
 あかねは必死で抗おうとするが、化け物から直接吐きつけられた毒にやられたようで、身動きすらままならない。
「ふふふ、天道の娘…。もはや誰も助けには来ぬぞ。あの佐助とかいう御庭番もあの様子では頼りにもなるまいて…。」
 すっと、触れてくる、鱗だらけの指先。
 ゾッと背筋が寒くなったが、体は微動だにしない。大きく開かれた口から、化け物は黒い煙のような息をあかねへとはきつけてくる。くらくらっと目の前で闇が開けた。
 いつの間にか日は沈み、開け放たれたカーテン越しに、大都会東京の摩天楼の光が降り注いでくる。雷雨に濡れる街のネオンが、せせら笑うように煌めいた。

「い…。いやっ!や…やめて!」
 かろうじて開いたあかねの口から、思わず拒否の言葉が漏れだした。


「何、すぐにでも快楽の淵に溺れさせてやる。恨むなら、天道の血を引いたわが身を恨め。」
 化け物の手がドレス越しにあかねの肩へと掴みかかった。そのままドレスを鋭い爪の手で引き裂かんと力を入れた。

 と、その刹那、バタンと、観音開きの扉が思いきり大きく開いた。

「てめー、あかねから離れやがれーっ!」
 飛び込んできた大きな影は、有無も言わさぬ勢いで、走り込むと同時に、ひと際大きな気柱を化け物の姿に化した九能へと打ち付けた。


 ドオゴォーーーン!

 爆風がベッドの横をなぎ渡っていく。と、侵入者はあかねの体を化け物から引きはがし、己の腕へと抱きこんだ。
「ら…乱馬…。」
 あかねはホッとした表情を彼へと手向けた。

「大丈夫か?あかね。」
 そいつはあかねへと声をかけた。

「うん…。何とか…。」
 こくんと揺れるあかねの頭。瘴気をまき散らしていた九能から離れて、少し、しびれがとれたようだった。

「たく…。こんな手を込んだ真似をしやがって…。」
 乱馬は九能へと向きなおった。

「あれは、先輩じゃないわ。先輩にのりうつった化け物よ。」
 あかねが乱馬の脇で声をかけた。
「ああ…わかってる。でも、その化け物の憑依を促したのは、九能自身の心だ。九能は心根のどこかでおめーとこうやって結ばれることを望んでるんだ…。だから、その想いが具現化して化け物を呼び込んだんだ…。そーだろ?」
 乱馬は対峙する化け物へと問いかけた。

「ああ…そのとおりさ。人間を欲望の渦に巻き込むことなど容易いこと。この男も、まさにそうだった。欲望に対して素直すぎるほど従順だから、意識ごと乗っ取るのは訳がないのだよ…。たく…。おとなしく子種を植えさせてくれれば、天道の娘、おまえももう少し長生きできたものを…。」
 すっと九能は身構えた。

「手加減なしで俺たちをぶっ倒すってか…。いいだろう…。相手になってやる。」

 乱馬はあかねをそっと脇へとおろした。
「乱馬…。」
 あかねが声をかけると、乱馬は言った。
「あとは俺に任せろっ!おめー、瘴気にやられて動けねえんだろ?」
「う…うん。情けないけど、立ってるのがやっとよ。」
「なら、戦いの巻き添えにならねーように、そこで見てろ。」
 そう言って、乱馬はベッドルームから飛び出し、隣の祭壇のある式場へと出た。
 狭いベッドルームだと戦い辛いと判断したのだ。いささか広い方が戦い易い。

「来いっ!勝負だっ!」
 乱馬は祭壇の前で身構えると、化け物を誘った。
「良かろう…。ここが貴様の墓場だ。」

 対峙する二対の野獣は動いた。
 ひとつは魔龍に操られる九能、ひとつは乱馬。
 はっしとにらみ合い、戦いの火花を散らした。

 ドオオン!

 乱馬めがけて、九能は瘴気を打ち込んだ。黒い煙がもうもうと上がる。

「くっ!」
 乱馬はそれを巧みに避けた。だが、生身の人間である。少しばかり瘴気を吸い込んだ。
 ごほごほと咳きこむ。嫌な湿気を含んだ黒い煙だった。喉の奥がツンとくる。

「ふふふ、一発で倒すのは面白くないからな…。その瘴気はじわじわと貴様の体を蝕むぞ。」

「けっ!そうなる前に、貴様を倒せば良いんだろ?」
 乱馬ははっしと睨み付ける。

「貴様にわしが倒せるわけはなかろう!瘴気漬けになれっ!」
 九能が飛んだ。彼の脚力とは思えぬほどの跳躍だった。そして、振り向きざまに乱馬へと一発、瘴気を孕んだ気を食らわせる。

「しゃらくせえーっ!」
 乱馬は飛んできた気を一刀両断、己の気で相殺するべく、体内から己の気をぶっ放した。

 ドンッ!

 祭壇の目の前で気が二つ弾け飛ぶ。
「なっ!」
 乱馬の着ていた作務衣が弾ける。と、とっさに乱馬は後ろへと下がった。己の放った気では、化け物の解き放った瘴気を相殺しきれなかったのだ。
「うっ!」
 右手に鈍い痛みが走った。見ると、火傷のように赤く数十センチにわたって焼けただれていた。

「乱馬っ!」
 あかねが悲鳴に似た声を張り上げる。

「だ、大丈夫だ!心配すんなっ!かすり傷だ!」
 乱馬はあかねへと声をかけた。

「ふふ、やせ我慢か。ならばこれでどうだ?」
 化け物は再び飛び上がると、乱馬目がけて、はあっと黒い息を吐きつけた。

「ぐっ!」
 黒い瘴気は吸い込まれるように、乱馬の傷口へ向かってせりあがる。そして、傷口へと消えて行く。
「ぐわあああっ!」
 その痛みに耐えきれず、つい、声があふれ出す。

「その傷へたっぷりと我が魔炎を注ぎ込んでやったわ。」
「ふん、これくれえ…何ともないぜ。」
「そういう割には、額に脂汗が滲みだしているではないか。立っているのも辛いのではないかえ?」
 化け物は笑った。

(確かに…。このままだとまずいぜ…。考えろっ!奴にも弱みがあるはずだ…。)
 乱馬は脂汗をぬぐいながら、必死で考えた。
 傷口を見ると、再びただれが大きくなっていた。焼け焦げたような肌のただれ。焼きつかれたように熱い。
(魔炎…灼熱の瘴気か…ってことは奴の瘴気は炎系。だとしたら、俺にも勝機はある…。ダメ元で打ち込んでみるか。)
 そう思い立つと、あかねへ向かって叫んだ。
「あかねっ!後ろへ下がってろっ!いいかっ!なんでも良いから吹き飛ばされねーように、しがみつけっ!」
 と、声を飛ばした。
「う、うんっ!」
 あかねは頷き返した。
 乱馬のやろうとしていること…そいつが、あかねには手に取るようにわかった。
 そう、あの技をぶっ放すつもりだ。熱気を巻き込み、竜巻を発生させる大技、飛竜昇天破を打とうとしているのだろう。

「小僧、そろそろ終わりにしてやろうか。」
 九能の瞳が赤く光った。炎のような真っ赤な瞳だ。

「けっ!やれるもんならやってみな。」
 乱馬はけん制しながら、すうっと息を吸い込んだ。
 化け物との間合いを計りながら、螺旋のステップを静かに踏み出す。

「では遠慮なく、行くぞっ!これで終わりだ―小僧っ!我が魔炎に焼かれてしまえーっ!」
 九能の口が大きく見開き、真っ赤な炎がそこから乱馬目がけて吹き飛んだ。

「飛竜昇天破っ!」
 その刹那、乱馬の左手から氷の刃が繰り出された。魔炎を蹴散らす、スクリューパンチだ。

 ゴオオオオオオオッ!

 凄まじい勢いで飛竜昇天破の竜巻が一気に吹きあがった。


「なっ!」
 九能の躯体ごと化け物は空へと吹き飛ばされる。と、竜巻に巻かれて九能の体から化け物がせり出して来た。黒い竜のような形をした化け物の本体が、九能から吐き出され、一気に竜巻に飲まれていく。
 いやそれだけではない。
 乱馬の放った飛竜昇天破の竜巻に、化け物が放った魔炎が一緒に吹きあがった。

「ぐわああああああっ!」
 皮肉にも化け物は、己が乱馬目がけて放った真っ赤な魔炎に飲まれていく。
「くそーっ!わしとしたことがあああっ!こんな小僧にやられるなんてえっ!」
 断末魔の叫びと共に、化け物は魔炎に巻かれながら消えて行く。
 その様子を、風に飲まれまいと、必死で祭壇の脇の柱にしがみつく乱馬とあかね。やがて魔炎は、乱馬の腕に巻かれていた数珠玉の一つに、に吸い込まれるように消えた。化け物を焼き尽くしたのだろう。

「勝ったぜ…。」
 そう吐き出すと、乱馬は膝から崩れ落ちるように脱力した。
 
 化け物が滅んでも、うがたれた瘴気はすぐには消えない。右腕につけられた火傷の裂傷が、ぶすぶすと音をたてて乱馬の体を蝕んでいた。
「乱馬っ!」
 倒れそうになった許婚をあかねはさ咄嗟に支えた。
「大丈夫だ…このくれえ…。」
「大丈夫じゃないわっ!その傷…。」

 その時、ガチャッとドアが開いた。
「ちょっと失礼…。」
 心配そうに見つめる二人の間合いに、そいつは動じることなく入ってきた。
「化け物は無事、乱馬殿が退治なされたでござるかあ?」
 佐助であった。
 化け物にとりつかれた九能から逃げ出した彼は、どこかで戦いを見ていたのか、終わったと悟るや、戻って来たのである。

「佐助さん…。」
 声をかけたあかねに、
「いや、そのまま…そのままで…。」
 そう言いながら、佐助はきょろきょろとあたりを見回した。そして、飛竜昇天破の竜巻に弾き出されて目を回した九能を見つけると、すっと近寄った。
「このまま帯刀殿を置き去りにすると、目覚められた時にややこしいでござるからなあ…。みどもが連れ帰るでござる…。」
 佐助はあたふたと九能を肩に担ぎあげる。
「あ…乱馬殿はかなりお疲れのようでござるから…。気のすむまでここでゆっくりされるとよろしいでござるよ。何、まだオープンは先でござるから…。なんなら、なびき殿にはみどもが連絡さしあげておくでござるから…。」
 去り際にそんなことを言い置くと、そそくさとその場を立ち去って行った。
 さすがに元御庭番、もとい、忍者だ。引き際は鮮やかなものであった。



三、

 佐助が立ち去ってしまうと、広い空間に乱馬とあかねが取り残されたようになった。

 ぐちゃぐちゃに壊れた結婚式用の祭壇や座席。建物はさすがに壊れはしなかったが、天井が飛竜昇天破の衝撃でところどころ破れている。
 もっとも、破壊されたのは最上階のこの式場周辺だから、オープンの日取りは多少遅れるかもしれない。
 もっとも、化け物に憑依されていたとはいえ、ここを破壊したのはオーナーの九能の所業だから、乱馬とあかねに責任を追及されることもあるまい。

 ホッとなずむように溜息を吐きだした二人。
 だが、乱馬の傷は決して軽くはなかった。佐助が進言してくれたように、帰宅するにしても、しばらく休んだ方が良さそうだった。
 外はまだ雨が降っているらしく、雨音が響き続けている。
 幸い、九能が設えたベッドルームは無事だった。化け物と闘っていた祭壇から少し離れた場所にあったので、乱れていたとはいえ、ベッドは健在であった。
 あかねは持前の怪力で、乱馬を軽々と持ち上げると、そのまま、ベッドへと運んで寝かせる。
「少し休んだ方が好いわ…。せめて、瘴気が抜けるまで…。」
 心配げな瞳が欄間の目の前で揺れている。
「だな…。まだ、立って歩くのもままなんねーし…。」
 珍しく否定しないで、あかねの言を素直に受け入れる。このまま帰宅するにしても、今の状態ならまともに歩けそうになかった。
「ホテルみたいに冷蔵庫とかもあるし…ご丁寧に、飲み物も入ってるわ。」
「九能め…いったい、何考えてやがったんだ?」
 思わず乱馬から苦笑がこぼれ落ちる。
「ま、この際、助かるけど…。」
 ペットボトル飲料の蓋をあけながら、あかねが笑った。その笑顔のまぶしさに、乱馬はぷいっと大きく横を向いて視線を逸らせた。

「何?どうしたの?」
 何故、横を向いて視線を逸らせたのか、その仕草が理解できず、あかねが乱馬へと声をかけた。

「脱げ…。」
 ぶすっとした表情で、乱馬は一言あかねへと言葉を投げた。

「なっ!」
 いきなり、脱げとはどういう了見なのか、あかねの表情が一瞬で凍りつく。
 目の前には大きなダブルベッド。しかも、誰もいない新築のビル。照明はついていたが、二人きりだ。
 そこへ「脱げ。」と無愛想に言い放った乱馬。情緒は一気に吹き飛んだ。

「ちょっと…乱馬っ!何よっ、脱げって藪から棒にっ!い…いくらなんでも、直情的すぎよっ!あんたっ!」
 あかねが真っ赤になって怒鳴り返す。

「おめーさあ…何か誤解してねーか?」
 乱馬は目を丸くして、言葉を投げつけた。

「だから…こういうことは男の方が情緒を出しながら…そのひとつ、ひとつ…脱がして行くもんじゃないの?」
 とこそっと呟くように問いかけた。

「やっぱ、誤解してんやがんな…。」
 ふうっと溜息を吐きつける。
「はい?」
 言われている意味が分からずに、あかねが問い返す。

「あのなあ…その…俺は何も裸になれって言ってんじゃなくって…。その、仰々しいウエディングドレスを脱いでくれって言ってんだよ…。」
「だから、そういうことは…乱馬が…。」
「何で俺が脱がす必要があるんだ?たく…その先の行為にここで臨む気なんて、一切ねーぞ俺は…。」
「そ…そうなの?」
 ぼそっとあかねが言葉を投げ返す。
「あったりめーだっ!九能と一緒にすんなーつーのっ!結婚式場の横にベッドルームを作るオオボケ野郎とは違うんだっ、俺はっ!」
 その言い方がおかしかったので、思わすクスッと笑いが漏れた。

「なら、別にこのままでもいいじゃない。」
 あかねが笑いながら言った。

「だからあ…そのドレスは俺じゃなくて、九能が用意したもんだろ?…その…俺は嫌だからなっ!そんなものにおめーが身を包んでるなんてこと…。」
 どうやら、彼の真意はここにあったらしい。そう言うと乱馬はくるりと背を向けてしまった。
 バツが悪いのだろう。そういうところは、高校生の頃からちっとも変っていない。
「お言葉を返すようで悪いんだけど…。ドレスを脱ぐのは良いけど…その下はランジェリーだけだよ…。乱馬…。」
 ぽそっとあかねが言葉を投げた。
「たぶん、そっちのクローゼットに、おめーが着てきた衣服、一切合財が置いてあんじゃねーか。」
 と後ろ向きのままクローゼットを指さす。
「まさか…。」
 そう言いながらあかねは、クローゼットの扉を開く。と、あった。あかねの着衣がそのまま畳んでしまわれていた。

「ホントだ…。あった。」
 あかねは目を丸くしてその衣服を手に取る。
「良くわかったわね…。ここにあるって…。」
「まーな…。佐助や九能のやりそうなことは手に取るようにわかるっつーの…。変に律儀で生真面目なところがあっからな…あの二人は…。」

「で、着替えてから、脱がすなんてことしないわよね…。乱馬。」
 少し悪戯心が芽生えたあかねは、そんな言葉を乱馬へと投げかける。

「あほっ!おれはそんな節操無しじゃねーっつーのっ!ぐだぐだ言ってねーで、さっさとドレスなんか脱いじまえっ!着替えの間、あっち向いててやっから。」
 ぶすっとした返答が返ってくる。

「うん…。わかった。」
 あかねは目一杯の微笑みを、ソッポを向いてしまった乱馬の背中へと手向けると、着替え始めた。
 彼の文言の節々に、あかねに対する愛情がちりばめられているような気がしたからだ。
 ウエディングドレスを着るのは女の子の究極の夢の一つだが、乱馬が言うように、愛する者が着せてくれてこそ、輝きを増すのだ。

 確かに、自分が着せたのではないウエディングドレスをこれ見よがしに見せつけられるのは、自尊心が高い乱馬の気分を害するに余りあるのだろう。一分、一秒でも早く、そんなものは脱ぎ捨ててしまって欲しい…それが彼の正直な心情なのだろう。
 だが、不器用なあかねだ。ドレスひとつ脱ぐにも時間を要した。
 このとうへんぼくはへそを曲げてしまっているから、ファスナーを下すのを手伝って欲しいと呼びかけても、おそらく、是とは言うまい。ましてやウエディングドレスなど、普段着つけるものでもないので、あかねも脱ぐのに、それ相応の時間を要した。
 そのままうちやるのもためらわれるので、クローゼットのハンガーにかけ長押(なげし)にかけた。それから、己の洋服へと着替える。
 目一杯ドレスアップした姿から、普段着へ。
 この洋室のベッドルームにも似合わない格好へと転じる。

「着替えたわよ。」
 とソッポを向いた彼へと言葉をかけたが、返事がない。
 まだすねているのかと、そっと背中越しに覗き込んだ。と、スースーと息がこぼれてくるのが聞こえた。
 どうやら、待ちくたびれて眠ってしまったようだ。
「もう…。乱馬ったら…。」
 眠ってしまったきかん坊へと、微笑みながら言葉をなげると、そのままあかねもごろりと転がった。
 目の前には自分を守って来てくれた大きな背中。肩甲骨が盛り上がり、逞しい青年の極上の筋肉が着衣越しからもはっきりとわかる。頼もしくて温かいその背中に、そっと手を触れてみた。
 殺気のかけらもあかねからは発せられていないからなのだろうか。あかねが触れても一向に目を覚ます気配もなく、こんこんと眠り続ける。
「乱馬の背中…広くてあったかい…。」
 触れた背中に己の顔を近づけると、あかねはそっと目を閉じた。触れた個所から伝わって来る乱馬のぬくもりと穏やかな心音。それは安らぎに満ちていた。

(この背中のぬくもり…何故だろう…。もっと以前から知っている…。乱馬に出会うずっと前から…。)

 穏やかな気が交配していく。乱馬へと巡り、己へと還ってくる柔らかな気。
 
 あかねだけではなく、同じような感覚を乱馬も感じていた。
 背中から流れ込んでくる柔らかな気。
 それは、己を蝕んでいた、化け物が放った真黒な気を余すことなく浄化していくような気がした。

(あかね…。おめーのこの穏やかな気……決して誰もに穢させやしねえ…。ずっと護っていく…。何があろうと…絶対に…。あかね…。)



 摩天楼の輝きが消えるまで、二人はそこで身を寄せ合うように眠り続けた。
 穏やかな気は淡い光を発しながら、乱馬とあかねを包んで、たおやかに巡り続けた。
 


 つづく



 この八話を書きあげるのに、迷いに迷いました…。
でもなあ…何か、軽く流れるんだよなあ…特に会話が…。


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