◆蒼い月と紅い太陽

第七話  右京のけじめ

一、

 その晩から乱馬は、再び天道家へと寝泊まりするようになった。
 あかねの傍を離れるのは不味いと、彼なりに判断した結果だった。

 早乙女家へ帰っていたのは、「妖(あやかし)の件で、お前に話がある。」と、玄馬に呼ばれたからであった。
 なびきからあかねの様子がおかしいと、連絡があり、駆けつけたのがゆうべのこと。シャンプーとあかねが不毛な戦いを繰り広げていたのを助けたのである。


 翌朝遅く目覚めたとき、当然あかねは既に出勤していた。

「まだ、時差ボケが続いてるの?ホント、情けないわねえ…。」
 寝ぼけ眼をこすりながら、寝室から台所へ降りると、なびきがクスッと笑った。
「あかねは?」
「会社よ…。」
「昨日、あれだけやられても、ちゃんと行くんだな…。」
 感心して見せると、
「当り前でしょ?ちゃんと契約して雇われてんだから…。自己都合で、そうホイホイと休むわけにもいかないわよ。」
 となびきに言われた。

 乱馬は牛乳をなみなみとコップへ注ぎながら、
「会社勤めも楽じゃねーよなあ…。」
 そう言葉を吐き出した。
「なら、とっととあかねを寿退社させたら好いじゃん。」
「あいつにも都合ってーのがあるんじゃねーのか?」
「あら…。でも、結婚後はスッパリ仕事を辞めさせて、家庭に入って貰うつもりなんでしょ?」
「まだ決めてねーよ!」
「まさか、共働きするだなんて、恐ろしいこと考えてないわよね?」
「考えてねーよっ!あーんな不器用女に、会社勤めと主婦業を兼業なんてさせたらどうなるかっ!火を見るより明らかだっつーのっ!キリの良いところで専業主婦に転身させるぜ。当り前だろ?」
 思わず声が大きくなっていた。
「わかってんなら、とっとと退社させて、花嫁修業させなさいよ。」
 けらけらとなびきは笑った。
「だから、ほっとけつってんだろ?いちいち、小姑みてーに、口出してくんなっつーのっ!」
 トーストを焼きながら乱馬がなびきへと声をかけた。
「ふふっ、あたしは小姑よー。あかねのお姉さまだってこと、忘れたの?」
「そーだったなっ、確かにてめーは小姑だよな。」
 ムスッとしながら、乱馬はマーガリンを冷蔵庫から出して、焼けたトーストへと塗り始めた。

「あかねにくっついてなくて良いの?ガードしないと、昨日の晩みたいなことが…。」

「それはねーよ。」
 乱馬はバッサリと言い切った。
「えらくはっきりと言うじゃない。」
 不思議そうに切り返した。
「ああ…妖は夜しか動けねーからな。」
 意外な言葉が乱馬の口をついて出た。
「夜しか動けないって?」
 なびきが不思議そうに尋ねた。そのような情報をどこからこの男は仕入れたのだろう。
「親父がおじさんからそう聞いたらしいぜ。」
 トーストにかじりつきながら、そう答えた。
「お父さんがおじ様にねえ…。で?信じてるの?」
「ああ、まあな…。」

 あかねが襲われた晩以来、乱馬は早雲と遭遇していない。
 最初の妖と天道家の庭先で戦った翌朝、乱馬が眠っている間に早雲は天道家から姿を消している。なびきにもあかねにも、東風と暮らしているかすみにも、一言も声かけが無いまま、逐電したままだった。行先も、居なくなった訳も、なびきにも心当たりが無い様子だった。

「おじさんは天道家の当主として、井戸を守ってきたんだろ?だったら、妖のこと、熟知してるんじゃねーのか?」
 そう吐き出すと、乱馬はコップになみなみと注がれた 牛乳を一気に気飲みした。
 プハーッと息を吐き出すと、コップをテーブルへとコトンと置いた。それからゆっくりとなびきに向き直って、言葉を継ぐ。

「やっぱ、おめーにはちゃんと話しておくべきだな…。」
「無論、ちゃんと聞くつもりで、かすみお姉ちゃんも呼んでるわよ。」
 なびきは笑った。
「用意周到な奴だな…。」
「褒め言葉として受け取っとくわ。」
 

 そうなのだ。乱馬は昨夜、実家で父・玄馬と珍しく真剣に話をしてきた。
 玄馬はこの度の妖騒動の内容を、どうやら親友である三姉妹の父・早雲から前もって色々、聞かされていたようだった。
 玄馬に呼び出されて、様々なことを父親から告げられたのである。
『あかねを守ること…本当にそれを最優先させて良いんだな?』
 真摯に語る父へと、最後に訊き返した言葉が、脳裏にこだまする。
『ああ。あかね君を守り切ること…即ちそれは、天道家を守ることと同義だと、天道君もそう言っておった。』
『わかった…。おじさんがそこまで言うのなら、俺も覚悟を決めるぜ。』

 玄馬と交わした親子の会話を思い出しながら、ふうっと溜め息を吐く。眉間にしわが寄った。

「たく…らしくないわねー。」
 なびきが乱馬を見つめながら、そう吐き出した。
「あたしもかすみお姉ちゃんも、天道家の一員として…あんたの決意に従うわよ。」
「まだ、何にも話しちゃいねーのにか?」
 乱馬が苦笑いをしながら、なびきへと言葉を投げつける。
「薄々、あんたが話そうとしていることは察しがついてるわ…。多分、かすみお姉ちゃんもね…。あかねは鈍い子だから察してないと思うけど…。
 あかねにもちゃんと話すわよね?」
 なびきが念を押して来た。

「当然だろ?…ただ、あいつは動揺するかもしんねーけど…。」

「あら…そうかしら。案外、あの子は肝が据わってると思うけど…。」
「そーかな…。」
「自分の許婚を信用できないの?」
「……っていうより、俺はあいつの苦しむ顔は見たくねーんだよ…。」
 ムスッと乱馬が吐き出した。
「あたしやかすみお姉ちゃんなら良いの?」
「…ったく、いちいち上げ足とるなっつーのっ!」
 乱馬は苦虫をつぶしたような顔をなびきへと手向けた。

「ま、いずれにしても、あかねはあんたについて行くと思うわよ…。あの子、根性据わってるもの…。あんたが思う以上にね。」
「だと良いけど…。」

 ガラガラっと玄関の引き戸が開いた。

「あ、お姉ちゃん来たみたいね。」
 なびきは、そう言い置くと、玄関へと足を手向けた。

「…いずれにしても、賽は投げられちまったんだ…。運命の扉を開けてしまったからには、もう、後には引けねえな…。」
 乱馬は、右手をぎゅうっと握りしめながら、ぐっと息を吐き出し気合いを入れた。



 それから、小一時間、天道家の台所で、なびきとかすみ相手に、乱馬はコンコンと話し込んだ。
 茶の間まで立って行くのも面倒だったし、かすみも客人然とするより、慣れ親しんだ天道家の台所の方が落ち着いて話ができると、珍しく自分から言い出したのだった。

 窓越しに、雀たちの囀りが聞こえてくる昼下がり。
 とっくに時計は午後を回っていた。
 乱馬の話を頷きながら、なびきとかすみは黙々と聞いていた。
 衝撃的な話かもしれないが、なびきが言っていたように、あらかじめ、かすみも事の重大性を予測していたようで、特に乱れることもなく、淡々としていた。
 さすがに、あかねの姉たちである。やはり、天道家の血を受けているだけあって、動揺はしなかった。

「わかったわ…この先のことは、乱馬君、あなたに任せます。なびきちゃんもそれで良いわよね?」
 かすみはおっとりと言葉を返して来た。相変わらず、口調は穏やかだが、凛とした一本の線が言葉の中に宿っていた。
「ええ。武道に明るくないあたしたちには、見守る術しか持ち合わせていないものね…。でも…。」
 そう言いながら、なびきは乱馬へと視線を流した。
「わかってると思うけど…あかねは守り抜きなさいよ。あの子を失うようなことをしでかしたら…承知しないんだから。」
 と念を押して来た。

「ああ。俺はあかねを守り切る。喩え、この手が紅い血に染まろうとも…。俺の太陽は守り切る。」

「約束よ、乱馬君。破ったら、針千本飲ませ…いえ、八つ裂きにするわよ…。墓場にまで踏み込んで骨ごとくだいちゃうからね…。」
 かすみがおっとりと声に出した。口元は微笑んでいたが、眼は決して笑ってはいなかった。いや、言っている言葉は穏やかでは無く、鬼気に迫っている。
「ふふふ、約束破ったら大変なことになるわねー。乱馬君。」
 横からなびきが不敵な笑みを浮かべた。

「確かに、こりゃあ、破れね―な…。」
 思わず、苦笑してしまった乱馬であった。

 乱馬はクンとひとつ伸びをして椅子から立ち上がった。
 そして用を足すために、廊下へと出る。
 かれこれ二時間近く真剣に話し込んでしまった。

 用を足していると、呼び鈴が玄関先で鳴ったような気がした。
 手洗いを澄ませて、トイレから出ると、
「乱馬君、お客さまよ…。」
 かすみが呼びかけてきた。
「お客さま?」
 乱馬は怪訝な顔を向けるとかすみに着いて表の方へと歩き出した。

「久しぶりやな…。乱ちゃん。」
 聞きなれた声が玄関の三和土(たたき)から聞こえてきた。
「ウっちゃん…。」
 来客とは久遠寺右京であった。親が勝手に決めたもう一人の許婚である。

 一瞬だが、重い空気が流れた。
 久しぶりに会う右京は、あかねと違わず綺麗な娘に成長していた。元々大柄だった少女だが、長い手足、膨らんだ胸元。どれを取っても申し分ないくらいに均整が取れていた。
「今日はコテを担いでねえのか?」
「もう…。興覚めするようなこと言わんといてえな。色気もないんやから、乱ちゃんは…。」
 右京の今日の井出達は見慣れた半てん姿ではなかった。長い髪は後ろにまとめられていて、少しボーイッシュだがタイトに決めたパンツスーツに身を固めている。見様によってはキャリアウーマンにも見える。珍しくヒールの利いた靴も履いている。薄っすらと化粧もしている様子だった。
「どうしたんだ?あらたまって…。」
 不思議そうに乱馬が右京を見つめた。

「ウっちゃんは折り入ってあんたに話があるんだってさー。バタバタしていて、電話貰ってたのをあんたに言うのを忘れてたわ。」
 なびきがヒョイっと後ろから声をかけて来た。
「俺に話だあ?」
 キョトンと右京となびきを見比べる。
「まあ、いずれにしても、このままって訳にも行かないから、二人で出かけてらっしゃいな。」
 ニコッと微笑んで、なびきが乱馬の背中を押した。
「何だってんだよ…。」
 困惑げな乱馬の耳元で、なびきが囁いた。

「ウっちゃんはあんたのもう一人の許婚でしょ?ちゃんとあんたの決断を話しておくべきじゃないの?乱馬君。」
 そうだ。右京は父親玄馬が勝手に決めた、もう一人の許婚だった。
 右京は乱馬を追って、東京まで来た気丈な娘である。
 このまま何も言わずに置くのは後味が悪かろう…なびきはそんな感じで乱馬へと言葉を投げたのである。
「女心を踏みにじると、後が怖いわよー。とっとと決着付けて来なさいね。」
 とけしかけて来たのだった。

「おめーの言う事にも一理あるよな…。」
 乱馬は、なびきの言に従うことにした。
 右京にもちゃんと話すべきことは話しておかなければならないだろう。でないと、彼女も前には進めまい。
 
「着替えて来るから、ちょっと待っててくれよ。ウっちゃん。」
 乱馬はそう言うと、天道家の二階へと上がって行った。

「そこで待ってもらうのも何だから、上にあがる?」
 なびきが右京へと問いかけた。
「別に、うちはここでええわ。靴脱ぐのも面倒やさかいに…。」
 あっさりと右京はそれに対した。
「久しぶりに天道家(ここ)へ来たけど…。変わってへんなあ…。」
 しげしげと眺めながら、右京は言葉を継いだ。
「ま、古いだけが取り柄のような家だからねー。」
 なびきは笑いながら答えた。
「ここは変わらへんけど…皆、それぞれ、年月は重ねてしもうたな…。あれから三年かあ…。」
 ふつっと右京は言葉を吐き出した。
「皆、大人になったものね…。」
 なびきが合わせるように言葉をかけた。
「良い意味でも悪い意味でもな…。」
「まあ、今日はじっくり乱馬君と話してらっしゃいな。」
「なびき姉ちゃんに言われるまでもなく、そのつもりや。そのつもりで来たんやさかいに…。」
 右京は寂しげに笑った。

 
 と、そこへ、支度が終わった乱馬が再び玄関へ現れた。
「待たせたな…、ウっちゃん。」
 ブルー系の格子模様の長袖シャツと薄灰色のスラックスというカジュアルな衣服で乱馬が降りて来た。
 乱馬といえば、チャイナ服というイメージが強かったため、別人を見ているような気がした。
 これが年月の流れというものなのだろうか。

「じゃ、行こか…乱ちゃん。」
 右京はペコっとなびきへ頭を下げると、天道家の引き戸を開けて、先に出た。
「行ってきます…。」
 乱馬はそう言い置いて、右京と共に、出掛けてしまった。



二、

 外へ出ると、春の陽気がむんむんと漂っていた。もうじき夏が来る…そんな予感を孕んだ、青い空が上空に広がっていた。

「まだまだ寒いと思ってたのに…いつの間にか、春も過ぎ去ろうとしてるんやなあ…。」
 右京は乱馬を振り返って笑った。
 乱馬はポケットに手を突っ込んで肩を並べて歩いた。
「元気だったか?ウっちゃん…。」
 恥ずかしがるわけでもなく、淡々と乱馬が切り出した。
「そやな…。乱ちゃんが修行と称して、この街から居なくなって、かれこれ三年過ぎたんやな…。」
「その後どうだ?店は繁盛してんのか?」
 乱馬はあたり障りのないところから会話を流し始めた。
「おかげさんでぼちぼちやわ。相変わらず商店街の外れでお好み焼き、ばんばん焼いてるわ。」
「そっか…。」
「高校卒業してから、店の営業時間も増えたしなあ…。」
 無言の空間が二人の上を行き交った。
「で、今日は…。何の用件だ?」
「デートや…。」
「デート?」
「そや…。うちかって乱ちゃんの許婚や。その位のこと要求する権利あると思うで…。」
 右京は屈託なく笑った。
 乱馬は黙った。
 確かに右京も許婚という立場を持っていた少女だ。だが、結婚する相手は、あかねと決めていた。お互いの意志を確かめ合った今、それは最早、揺るがぬ絆となって二人の間に横たわっている。

「もお…そんな顔しんといてや…。興ざめするやん。
 うちかてアホやない。せやから、乱ちゃんの気持ちは痛いほど分かってる。そやけど、うちかてこのまま終わらせたくはないんや…。半日でええさかい、あたしと付き合うて…。」
 懇願するような瞳で乱馬を見つめて来る。

『ウっちゃんはあんたのもう一人の許婚でしょ?ちゃんとあんたの決断を話しておくべきじゃないの?乱馬君。』
 脳裏になびきが言った言葉がこだまする。
 そうだ。右京にはちゃんと自分の出した結論を含めて、話しておかねばならないだろう。

 ふうっと一つ大きく息を吐くと、ゆっくりと右京へと声をかけた。
「わかった…。で、何処へ行く?」
「そうやな…公園がええな。ボート乗りに行こう…。」

 誘われるままに乱馬は右京に続いて歩いた。
 急に右京が乱馬の右手に手を差し入れた。そして腕組みする形になる。
「道行く人らにはあたしらどう映るんやろうか…。」
 そう言うと強引に乱馬の手を引いた。
 その腕を振り払うのも大人げない気がして、乱馬は複雑な顔で右京と肩を並べて歩いて行く。

 ボート乗り場でお金を払って、二人で乗り込む。
 ゆらゆらと水面が揺れた。
 まだ草木の背丈は低い四月。太陽は柔らかい光で二人を照らし、見下ろしている。

「気持ちええわ…。もっと冷えるかと思ってたけど…。」
 右京は笑った。
「なあ、乱ちゃん…。覚えてる?」
「あん?」
「ここの池でボート乗った日のこと。」
「んー…何時だっけかなあ…。」
 乱馬は考える素振りを見せた。右京と乗ったことがあるのはおぼろげに覚えていたが、それが何時だったのか、すぐには思い出せなかった。
「十六歳の時や!乱ちゃんと十年ぶりくらいに再会した時やん。」
「十六ってーと、高校生の頃か…。」
「うん、そうや。ほら、良牙とあかねをデートさせようって、乗ったやん。」
「そんなことあったっけ?」
「うち、乱ちゃんが女に変身する体質持ってたなんて知らんかったから、変身した乱ちゃんが良牙に絡んで、けったいな女の子が邪魔しよる…って思ったんやでー。あの後、うち初めて知ったんや…乱ちゃんの変身体質のこと。」
 そういえばそんなことがあった。遥か高校時代の思い出だ。
 右京が仕組んだデートのことが気になって、あかねについてやってきたこの公園。良牙の許婚に化けて気を引こうとしたり、怒った良牙に池へ突き落とされたり。散々な目にあった。
「あーあー思い出した。そういえば、そんなことあったなあ…。」
 懐かしさが乱馬の脳裏を掠める。

 己の想いに素直になれなかった頃の思い出だ。あかねを良牙。この二人の邪魔をするためにボートに乗った。

 今にして思えばあの頃からすでに心は決まっていた。いや、出逢った日から心はあかねにしか向かって居なかった。
 素直に想いを伝えられず、悶々と過ごした日々。ガキだったと思う。
 
 さーっと風が渡った。右京の長い髪がゆらゆらと風に揺れて靡く。
 と、後ろから来たボートがコクンと乱馬たちのボートに当たった。
「わっ!」「いややっ!」
 グラッとしてボートが逆立つように揺れた。
「すいません…。」
 そう言って通り抜ける当て主たち。
 思わず右京は乱馬の胸に顔を沈めていた。ガサガサと風が水面の木々を揺らして吹き抜けた。
 二人の時が止まる。
 右京はドキドキしながら乱馬にしがみついていた。乱馬の胸は温かい。
「乱ちゃんっ!好きやっ!このままずっとこうして居たいっ!」
 右京はそう口にするとがしっと乱馬の腕に抱きついた。だが、乱馬はあえてその腕を取らなかった。

 乱馬はただ黙ってそれを耳元で聞いた。
「ごめん…ウっちゃん。気持ちは充分過ぎるくれえあり難いが…俺は…それには応えられねえ…。」
 淡々と言葉を発していた。冷淡な言葉だと、吐き出しながらもそう思った。しかし、乱馬にはそう答えるしか術がなかったのである。

「あかねが…あかねちゃんが居るからか?」
 右京はしがみつきながら叫んだ。
「ああ…。」
 一言、乱馬の口からそう漏れた。
「俺にはあかねが居る…だから…。」
「聞きとーないわっ、そんなこと!!」
 右京は咄嗟に隠し持っていたコテを持ち出して乱馬に突き立てようとした。
「バカッ!止せっ!」
 乱馬はそれを身一つで避けた。そして右京の右手を軽く薙ぎ払う。
 ポチャン…。といってコテが水の上に落ちた。そしてぶくぶくと泡を立てながら水底へと沈んだ。乱馬の腕先が少しだけ血で滲んだ。薙ぎ払った時にコテがすれていったのだろう。深くは無かったが直線的な傷が出来ていた。

「ははは…。」

 急に右京が笑い出した。
「ウっちゃん…。」
 乱馬は右京を覗き込んだ。
「堪忍…。うち…。試してしもた。乱ちゃん。」
 そう言いながら、右京は身体を震わせていた。泣き笑い…。涙が右京の瞳から溢れだしていた。でも、彼女は精一杯に微笑んで見せる。痛々しい笑顔だった。

「試す?」
 乱馬はそんな右京を見つめながら、きびすを返した。
「冗談にしてはやりすぎてしもたかな…。あかねちゃんには余計な心配かけてしまうかもしれへんな…。」
「大丈夫…。深くは無いし、これくらいならすぐ消える。」
 乱馬は、笑ってみせた。
「乱ちゃん…強うなったわ。ううん…それだけやあらへん。ちゃんと己の意思、言葉で表現できるようになったやんか…。あの頃は素直に言えなかった言葉も、ちゃんと言えるようになったやん。あーあ…。アホらしいわ。」

 右京は顔を乱馬から逸らせながら続けた。これ以上、涙を乱馬に見せたくはなかったのだろう。
 涙を堪えながら、言葉を続ける。

「乱ちゃんのあかねちゃんへの気持ちなんかとっくの昔、再会した頃から知ってたわ。乱ちゃんの視線はいつもあの娘の上にあったことも。好きときっぱり言わへん、天邪鬼なところなんか、子供のころからちーっとも変わってへんかった。乱ちゃんのあかねへの想いはホンマもんや。誰にも邪魔でけへん。うちにも…。」
 右京は逸らせた顔を戻し、乱馬の顔を真正面から凛と見つめた。涙が瞳に溜まっていた。
 しかし、ぐっと堪えた右京は決して嗚咽を漏らさなかった。

『ウっちゃんは強い。』
 乱馬は思った。黙って、右京の言葉に耳を傾けた。

「すっきりしたわ。もう思い残すことあらへん。優柔不断やった乱ちゃんが、自分の意志をはっきりと言えるようになったんやったなあ…。
 でも…うちの気持ち…うちかて本気で乱ちゃんのこと好きやったって、心の片隅に覚えといて欲しいねん…。」
 と、着岸したボートから右京はトンと降り立った。
「ウっちゃん…。」
 乱馬はじっと彼女を見つめた。そんな乱馬を振り向きもせずに、右京は言い放った。
「これを限り、うちと乱ちゃんの許婚の件は破談や。
 乱ちゃん。頑張りや。あかねちゃんの手を離したらあかんで…。うちも新しい恋人見つけて、思い切り幸せになったるわっ。」
 右京はそう告げると、たっと駆け出した。
「もううちらは許婚やないっ!これからは…ただの幼馴染やさかいなっ!またな、乱ちゃんっ!」

 前を向いたまま二度と乱馬の方へは振り返らない。潔い浪花女の引きっぷりだった。

『新しい恋、見つけて幸せになれよっ!ウっちゃん!』
 乱馬は右京の背中に向かって、そう吐き出していた。


 風が止んだ。もう吹いては来なかった。



三、

 
 終業時間が来た。

 受付嬢のあかねはふうっと溜め息を吐いた。
 やっと、休みが来る。この一週間は長かった。乱馬が帰って来て、それに触発されるように、様々な騒動が持ち上がって来ている。
 
 自分を狙う闇があると、彼は言っていた。
 中堀もシャンプーもその闇に飲まれたのだという。

『この週末にちゃんと話してやるから…。おめーも勤めがあるんだろ?』

 昨晩、風林館高校から帰宅すると、乱馬はそう言って、眠りに就いた。
 まだ、試合の疲れも十分とれていないのだろう。あかねも仕事がある。問い質したい気持ちをグッと堪えて、あかねも昨夜はベッドに入った。

 ロッカールームで制服を脱ぎ去り、着替えていると、トントンと麻耶に肩を叩かれた。
 ニヤニヤとあからさまに笑っている。

「何?」
 思わず問いかけると、麻耶は頷きながら言った。

「ねえ…お給料も入ったし…週末だから、どっかへ飲みに行かない?」
 女子会の誘いのようだった。

「あ…あたし、できればパスしたいんだけど…。」
 あかねは制服を鞄へ押し込めながらそれに答えた。
 正直、連夜の騒動のせいで、疲れが溜まっていた。

「昼休みは聞きそびれちゃったからなあ…。その指輪のこと。」
 麻耶はにんまりと笑っていた。


 あかねの心臓がバクンと鳴った。
 そうだ。昨日まで右手にあった指輪は、左手の薬指にある。約束通り、乱馬がはめ変えてくれたのだ。

 目敏いっ!

 そう思った。
 昼休みには、追及されなかったことだ。なのに、麻耶は指輪に気がついていたようだった。
「これの訳…ちゃんと言明してもらわなきゃねー。」
 クスッと麻耶が笑った。
「その指輪…そう言う事なんでしょ?」
 紗枝も後ろから突っついて来た。
「ねえ、食べに行くわよね?あかね…。」
「そうそう、明日は土曜日だし…。」
 と紗枝も後ろからがあかねを突っついた。

「ごめん…あたし今日は用があるんだ…。」
 咄嗟に出まかせを言った。うかうかしていると、放して貰えない。
 昨日シャンプーと遣りあったダメージが、まだ身体のどこかに残っている。週明けから突っ走った疲れが、限界にきている。少しでも早く家に帰りたかった。
「えええ?何の用なの?」
 紗枝が口を尖らせた。
「この指輪の彼と会わなきゃならないから…。」
 と二人が納得するような理由をこじつけた。乱馬とは一つ屋根の下に一緒に過ごしているから、口から出任せでも嘘にはならない。
「そっか…。彼氏優先って言葉があかねから漏れるとはねえ…。」
「こりゃあ、本格的に話が進んでいるのかな?」
 二人は顔を見合せながら笑った。
「ちゃんと、真っ先に報告するから…。ごめん、今夜は勘弁して。」
 と手を揉みあわせた。
「ホントのホントにちゃんと喋ってくれるんでしょうねえ?あかね。」
「ウソついたら針千本よ…。」
 うがった瞳であかねを見て来る。
「うん…ちゃんと報告できるところまで話が進んだら…。」
「じゃなくて、休み明け…じっくり聞かせて貰おうじゃない。」
「あー、ホント、しつこいんだからー。」
 あかねは苦笑いした。本当に話すまでしつこく聞き続けられるだろう。

 本当のことを話したら、騒動になるだろう。
 知名度が上がり始めた乱馬が相手だと知れたら…。

「じゃ、ごめん、あたし急ぐから…。」
 あかねは鞄を肩にかけると、そそくさとロッカールームから逃げ出した。


 春の週末。ゴールデンウイークが始まろうとしている繁華街。人波で賑わい始める夕刻。その中を、足早に家に急ぐ。
 疲れは限界にきている。
 それに、少しでも早く、乱馬に逢いたかった。

 今夜から実家ではなく、天道家(うち)に泊まると彼は言っていた。
 あかねを狙う闇から守ってくれると約束してくれた。その闇の正体を、あかねはまだ良く知らない。
 
 帰宅ラッシュの電車に揺られて、最寄駅で降りて、改札を抜けた時、正面から乱馬の声がした。

「あかね…。」
 そう言いながら、乱馬が微笑んでいた。
「乱馬?どうしたの?こんなところで…。」

 右京と別れてから、かれこれ二時間以上、改札前であかねをずっと待っていたのである。
 どうしてかと理由を聞かれても、答えようがなかった。
 どうしても、あかねを待ちたかったのだ。
 それが、心意であったが、口には出さなかった。かわりに、言い訳めいたことを口にする。

「別に何でも良いだろう?」
 と無愛想に答える。

 まさか、高名な格闘家がこんなところで佇んでいるなどとは、道行く人は気がついていない。日本国内に居なかったのが幸いして、彼が早乙女乱馬だと見破った者は居なかったようだ。
 もう少し日が経って顔が知られるようになれば、素顔のまま駅舎にて、あかねを待つことなどできなくなるだろう。


 駅から吐き出されてくる人波と共に、天道道場の方へと歩き始める。駅からそこそこの距離がある天道家だった。
 乱馬はあかねの前を黙って歩き始めた。

 心配で、駅まで迎えに出てきてくれたのだろうか。

 この前、中堀に襲われた公園の前を、さっさと通り抜ける。

 駅舎から吐き出された人波も、この辺りまで来ると殆ど見当たらなくなる。とっぷりと日は暮れてしまっている。外灯の蛍光灯が、心細げに灯っている。

「え…?」
 不意打ちだった。

「乱馬?」

 あかねはいきなりの抱擁に驚いて、小さな声をあげたが、力強い腕に遮られた。
 乱馬は無言であかねを後ろから抱きしめて来る。恋人たちの熱い抱擁を見ても、無言で通り過ぎる通勤帰りのまばらな人たち。或いは、視界に入っていない振りをしてくれているのかもしれない。

 サワサワと風が通り抜けた。
 時が静かに路上の二人の上を流れて行く。柔らかな抱擁だった。でも、情熱にほだされるような熱い極上の抱擁だった。

 何故、こんな行動に走ったのか。乱馬自身、自己分析しかねていた。

 幼馴染の右京の想いを知りながら、結局、それには応えられなかった自分。遥か西方から自分を追って来たシャンプーも恋の犠牲者の一人である。
 十代後半という人生で一番輝いている若き乙女たちの想いを、優柔不断だったばっかりに、踏みにじってしまったのではないかと、得も言えぬ嫌悪観に襲われたのだ。
 それでも己は、あかねを強く慕っている。この想いにだけは誠実でありたい。

 複雑な青年の心が、こんな行動に駆り立てたのかもしれなかった。

 あかねは乱馬の抱擁を拒まなかった。時折、帰宅を急ぐ人が脇を通り抜けて行くが、羞恥を堪えて、乱馬の腕に深く頭を寄せる。
 が、その瞳に、気になる物が映ってしまった。

「ねえ、乱馬…。その右手どうしたの?」
 ふとあかねが声をかけて来た。
「ああ、これか…。ちょっとな…。」
「ちょっと…何?」
「良いじゃん…何だって…。」
「良くない…。」
 明らかに、ただの傷ではなかった。かすり傷ではない。刃物を当てられたような一筋の傷だった。あかねはそれを問い質そうとした。もしかして、自分を襲ってくる妖と関係あるのかと、彼女なりに危惧したのだった。
「教えなさいよ…乱馬。」
 とつい、声が高くなった。
「厭だね…。」
「どうして?」
「だって…。」
 そう言いながら乱馬は悪戯っぽく笑った。
「聞いたらおまえ、ヤキモチ焼くもん…。」
「何よ…それっ!」
 ちょっとすねた顔をあかねが手向けた時、乱馬は視線をそらせながら声をかけた。

「なあ、あかね。」
 真摯な顔があかねを見つめて来た。あかねは、その表情に思わずドキッとして、追及するのを一旦止めた。
「何?」
 溜まらず、視線を泳がせて、あかねは言葉を投げ返す。

『おまえは…いつから俺のことが好きだった?』
 そう聞こうとして乱馬は言葉を止めた。
 過去のことよりもこれからのことの方が大切だと思ったからだ。
「やっぱり、いい…。」
 と、言葉の矛先を収めてしまった。
「もう…さっきから何なのよ。変な乱馬…。」
 膨れっ面するあかねの手を、そっと握りしめながら言葉をかける。
「帰ろうぜ…。腹も減ったしな…。」
「そうね…。」

 あかねは乱馬の手を握り返した。そこから暖かな気が流れ込んでくる。その気配を確かに乱馬は感じた。
 右京につけられたコテの傷が、みるみるうちに乱馬の浅黒い肌へと同化し始めた。そして、すうっと消えてしまったのだった。
 無論、乱馬はその傷が無くなったことに、その場では気付かなかった。これが一体、何を意味するのか。それを知るまでには、まだもう少し、時間の経過が必要だったのだ。
 傷が癒えて無くなったことに気付く余裕など、乱馬もあかねも互いに持ち合わせて居なかった。
 握り返した乱馬の大きな左手の薬指に、自分の物とおそろいのリングがはめられている。その感触を、繋がった右手で確かめる。その顔には、はにかんだ微笑みが浮かんでいた。





 そのすぐ後ろで、闇がくすっと笑った。肩を並べる二人をあざ笑うように、距離を保ちながら黒く揺れ始める。

『賽は投げられた…。逃しはせぬ…。きっと手に入れてやる。天道の娘を…。』
 そう呟いて、闇は月明かりの作った天道家の塀の影へと消えて行った。



つづく




一之瀬的戯言
この先、悩みつつ書いている真っ最中です。元作を引っ張りながら、好き勝手に書き進めていますが…旧作のプロットをどう引っ張るか、どう書き改めるか…この作品も手強いです。結末までプロットは作っていたけれど、かなりな部分、手を入れていますので、元作の原型は保っていません。
まだ迷っている展開に、何度も書いては書きなおしを繰り返しているので、更新が遅くなっていることをお詫びします。

この作品の乱馬は、今まで私が書いて来た乱馬と、ちょっと雰囲気が違うような気がします…。元作の乱馬ともかなり雰囲気が違ってきています。
年を経て、私の妄想の中の理想の乱馬像が変わってきているのかも…。


(c)Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。