◆蒼い月と紅い太陽

第六話 弦月

一、

「やっと、ちゃんとプロポーズしたみたいね。」

 昼近くになって、ようやく起きて来た乱馬に、なびきが声をかけた。

「うるせーよ。俺たちのことは、詮索するなつったろう?」
 思い切り伸びをしながら、ふわぁっと大欠伸をこく。

「そう言う訳にもいかないのよ…。早乙女乱馬専属のマネージャーとしてはね。」
 ふふふとなびきが笑った。
「専属マネージャがてめえかよ…。たく、他に適任者は居ねーのか?」
 冷蔵庫の中身を拝借しながら、乱馬が問いかける。
「まだ、立ち上げたばかりの会社だからね…。マネージメント経験の無い雇われ事務員のパートのおばさんと、それから九能ちゃんと佐助さんしか居ないんだけど…。九能ちゃんに交代しましょうか?」
「げっ!九能にマネージメントされるのは、絶対に嫌だぜ。」
「じゃあ、あたしで我慢なさい。」
「ちぇっ!」
 吐き出しながら、牛乳をコップになみなみ注ぎ、ぐいっと飲み干す。

「朝ごはんなら、上機嫌であかねが作って行ったわよ。」
 となびきが笑う。

「あかねが作るだあ?」
 少し不安げになびきを見返した。
「ええ…。目玉焼きと思われる不細工卵とゴロゴロ野菜がたっぷり入ったサラダよ。あとは、インスタントのカップスープとトースト焼いたら良いわ。」
 とちゃぶ台の上の目玉焼きに目を落とす。
 明らか、黄身がぐちゃっとなったツイン玉子が皿に盛られていた。しかも、盛り損ねて、白身がところどころ破けている。裏側も微妙に黒こげがついていた。
 冷蔵庫から出したサラダの小鉢は、キュウリやトマト、レタスやハムが不揃いにぶつ切りされて並んでいる。

「…相変わらず、不器用な奴だな…。」
 思わす苦笑が漏れる。

「そう言いなさんな…。切り方や盛り方は雑だけど、まな板の欠片は入ってないわよ。それに、無謀な味付けもしなくなってきたわ。」
 となびきは笑った。

「しなくなってきた…ってことは、たまにするんだろ?その無謀な味付けってやつを…。」
 買い置きの市販ドレッシングを振りかけながら、苦笑いを投げかけた。

「まーね…。でも、味覚はかなりまともに近づいてるわよ。」
「じゃなきゃ、俺が可哀想すぎるだろーが…。」
 ふつっと言葉を漏らした。

「でも、あんた、まだ詰めが甘いわね。」
「あん?」
 サラダを口に含みながら、乱馬がなびきを見上げた。
「だって…その指輪…。」
 そう、乱馬の指輪はまだ右手の薬指にあったからだ。
「ああ…これか。」
 なびきが言わんとしたことがわかったようで、乱馬は指輪をさすりながら答えた。
「プロポーズしたんなら、指輪は右手じゃなくて左手の薬指でしょ?あかねもまだ右手にはめてたわよ…。」
「わかってるよ…。んなこと。」
 ムスッとして乱馬が答えた。
「じゃあ、何ではめ変えてないの?」
 興味津津な顔でなびきが尋ねる。
「物事には順番ってのがあるんだよ。」
 チンと鳴ったトースターへ手を伸ばしながら、乱馬が答えた。
「順番?」
「ああ、そうさ。プロポーズはしたけど、一切合財はこれからだ…。
 肝心な人に報告だってしてねーし…。」
「ああ、お父さんたちのことね。」
「俺の親父はともかく、おじさんにはちゃんと報告しなきゃなんねえ…。」
「そのことなんだけど…。お父さん、今朝早く、家を出かけちゃったのよねえ。」
「みてーだな。気配がねえし…。」
 バターを塗りながら、乱馬が答えた。
「何か、二、三日留守するからって、出掛けちゃったわ…。かすみお姉ちゃんのところかなと、思ったけれど…違うみたい。お姉ちゃんにメールしたけど、接骨院には行って無いみたい。」
「ふーん…。何処へ行ったんだろ…。」
「さあね…。あかねをあんたに盗られるのが嫌で、逃げたのかも…。」
「まさか…。」
 ガブッとトーストにかぶりつきながら、乱馬はなびきを見返した。
「かすみお姉ちゃんの時がそうだったのよー。あんたは修行に出てたから、経緯(いきさつ)を知らないでしょうけど…。東風先生が挨拶に来ようとしたら、一週間ほど行方をくらませちゃってさあ…。」
「あん?」
「お姉ちゃんをよっぽど東風先生に盗られたく無かったんでしょうよ…。あの頃のあかねは、まともな料理がまだ出現率三割くらいだったから。かすみお姉ちゃんが嫁に行っちゃったら、この家がどうなるか、不安にかられた…って後で言い訳してたけどねえ。」
「言い訳…つうより、本気でそう思ってたんじゃねーのか?」
 不細工な目玉焼きを見つめながら、切り返した。
「お父さんが、ちゃんと器用に料理できるようになるまで、あかねとあんたとの結婚をお預けにしよう…なーんて思ってたらどうする?乱馬君。」
「あるわけねーだろっ!あいつが器用になるのを待ってたら、確実、婚期を逃すぜ…。」
「それもそうね…。」
「てか、てめーの妹だろ?そこまでこき下ろすか?普通…。」
 そう言いながら、漕げ色がある不細工な目玉焼きに塩を振りかけた。

「ま、それはそうと…。スポンサーにはちゃんと説明しておくべきよ。あかねとのことは。じゃないと、後々面倒だからね…。」
「わーってるよ!正式契約時にちゃんと俺の口から説明するよ。」
「いいわよ。そのくらいはあたしがやっとくわ。任せて。」
「へええ…えらく殊勝なことを言うじゃねーか…。さすがマネージャーってか?」
 目玉焼きを箸で突きながら乱馬はなびきを見上げた。
「えっと…マネージ手数料として、こんくらい、あんたのギャラから差っ引くわよ。」
 指で携帯を弾きながら、乱馬に見せた。
「あん?マネージ手数料だあ?」
 目を向きながら、なびきを見返した。
「ええ。うちは明瞭会計を目指してるの。初めっから差っ引いとけば、後々ややこしくないし…。」
「差っ引かれるってことは…俺の手取りが減るって解釈して良いんだよな?」
 恐る恐る問い返す。
「当り前でしょ?」
「で、てめーの懐が潤うってか…。」
「まあね。せいぜい儲けさせてもらわなきゃ。まだまだこれから大きくなるのよ。我が社もあんたもね。」
「たく…二言目にはこれだもんなあ…。」
 フウッと溜め息が漏れた。
「ま、あたしがいろいろ裏から手を回して、あんたのマネージメントは上手くやるから…あんたは、目の前の厄介事に集中しなさい。わかったわね。」

 そう言いながら、なびきは台所を出て行った。

「ま、マネージメントのことは素人だからな…俺は。そっちはてめーに任せるぜ…。でも、足元見やがって…。
 …そろそろ次の妖が姿を見せるな…。ま、当然っちゃあ、当然だろーが…。今夜来るか…明日か。」
 ギュッと拳に力をこめた。




二、

 あかねはふっと乱馬の言葉を思い出していた。

『あかね…ずっと俺の傍にいろ。おまえの全てを俺にくれ…。』
 
 乱馬の求愛のその言葉は、何度も脳裏にリフレインする。
 一体この言葉を何年待ち続けただろう。
 もっと、ドラマティックな言葉で言われると思っていた。乱馬の不器用さがそのまま現れた言葉だった。
(ひねりも何も無くてストレートすぎるわよね…。)
 あかねは鏡の向こうの自分を見ながら笑った。
 乱馬から貰ったシルバーの指輪。
 まだ右手の薬指で輝いている。

 朝寝坊な乱馬は、あかねの出勤時間にはまだ夢の中だ。長い海外雄飛の生活は、すっかり彼の体内時計を狂わせているようだ。
 出勤前に、こそっと彼の横たわる部屋へ様子の襖を開いて覗いてみたが、蒲団の中で高いびき。ロマンスの欠片も何もない。あるのは子供っぽい幸せそうな寝顔だけだった。
 あかねが覗き込んでも、一向に目を開ける気配すらなかった。
 なびきはそんな妹を見て、にやにやしていたが、それ以上は野暮ねと云わんばかりに知らないふりを決め込む。
 あかねも仕事があったので、乱馬を姉に託して家を出た。

 出勤すると、中堀は欠勤していると言う。風邪で具合が悪いと連絡があったらしい。
「あかね、あの後、中堀さんと一緒だったんじゃないの?」
 昼休み、紗枝と麻耶が意味深に探りをかけてきたが、
「途中まで一緒だったけど…。それがどうしたの?」
「ホテルとか行ってないわよね?」
「何であたしがそんなところへ行かなきゃならないのよ!あれから真っ直ぐに帰ったわよ。」
 と鼻息荒く答えた。
「へ?そうなの?中堀さん、何もリアクションして来なかったの?」
 執拗に聞かれたが、まさか襲われたなどとは言えない。ましてや彼を粉砕したのは、早乙女乱馬だったなどとは、公言出来るわけもない。
 となれば、軽く受け流すに限る。
「別に…送って行こうかってしつこかったけど、断ったわ。」
「ってことは、中堀さんの求愛は受けなかったの?」
「受ける訳ないでしょ。」
「どうして?彼氏いない暦、ホントにそろそろ返上しないと…。」
 と麻耶も紗枝も怪訝にあかねを見返す。

「返上も何も…あたしにはちゃんと彼氏、いるわよ。」
 とすっと言って退けた。

「えっ?」
「えええっ!」
 乙女二人の声が食堂に響き渡った。何事かと一斉に注目の視線が飛んでくる。それを察した紗枝と麻耶はパッと口を抑えた。辺りをキョロキョロ見回して、注目された視線が通り過ぎるのを少し待った。
「そんなに大げさに驚かなくても…。」
 あかねが苦笑しながら二人を見つめ返した。
「ウソ!何時の間に…。」
「だって…そんなそぶり、全然無かったじゃん!あかね。就職してこの方、あんたに男の匂いなんて全然してなかったのに…。」
 紗枝も麻耶もその一言に固まった。言葉を失ったのだ。
 当然である。あかねに男の影が全く見受けられないからだ。
「ホントに彼氏居るの?」
 と目を輝かせる。
「うん。…遠距離恋愛だったから…。」
 とはにかみながらあかねは返事した。
「遠距離恋愛かあ…。なるほど、男の影が感じられない訳よねえ…。」
「何だ…要らぬお節介だったて訳か…。」
「きっと、独身社員たちは、今の聞いたらショック受けるわよ…。」
「中堀さんだけじゃないんだから…。あかねを狙ってたのは。」
「で?どんな人なの?」
「優しい?男前?」

「鈍感で不器用だけど…でも、あたしのことを真剣に守ってくれる強い人よ。」
 そう言ったところで就業チャイムが鳴った。
 いずれ、あかねの相手が、かの早乙女乱馬と知れ渡り、大騒ぎになるかもしれないが、今はそっと幸せに浸りたかった。
 それがあかねの正直な想いだった。そして、その強い想いは彼女の内面からの輝きをまた一層引き立たせる。
「天道さん、今日はご機嫌ね。何か良いことでもあった?」
 などという先輩社員たちのからかいも全く気にならない。
 黙々と自分の仕事をこなし、今日は早めに家路に就いた。
 乱馬の元へと早く戻りたかった。乙女心というものだろう。
 アフターファイブ。通い慣れた道を通って家路を急ぐ。
 帰ったら乱馬と話したいことがいっぱいある。それを胸に抱えながらあかねは足を動かし続けた。

 昨日、中堀が豹変した近所の公園。
 春はまだ浅い。夕闇がそろそろ降りて来て、辺りは薄暗くなっていた。
 桜の季節も過ぎ去り、子供たちが帰った公園に人影は無い。

「あかね!」
 ふと、名前を呼ばれて立ち止まった。
 振り返ると、シャンプーが居た。
 すっくと立ちはだかるようにあかねの目の前に構えていた。後ろには自転車が立てかけてある。出前の最中でもなさそうだった。
「シャンプー?」
 あかねは訝しげに彼女の名前を呼んだ。
「あかね…。乱馬帰って来たそうだな…。」
 シャンプーはまんじりともせずにあかねを真っ直ぐに見詰めた。
「え?」
 あかねは不思議そうにシャンプーを見上げた。
 どこからその情報が流れたのだろうか。
「隠すな。乱馬、修行の旅を終えて戻ってきたこと、私、知ってる…。これの意味すること、あかね、わかるな?」
 とまくし立てるように畳みかけて来た。
「私と乱馬かけて勝負するある。」
 あかねはシャンプーが云わんとしていることがなんとなく飲み込めた。

 彼女は中国の奥地から女であった乱馬を追って来た。一族の掟を成就させる為、勝負に負けたらんまを追って来た。そして、男の彼に叩きのめされ、今度は強い男と結婚するという掟を守ることに執着した。
 現代日本に生きるあかねには、彼女ら女傑族の掟が解(げ)し難かった。だが、闘うことを第一に考える彼女達の部族では、強い男と結ばれて子孫を成す事は絶対の規律だったのだろう。
 シャンプーはこれまで、何度となく姦計を巡らせて、乱馬を我が物にしようとしてきた。その情熱も、部族の掟を守る為にしてきたことだった。

 闘うことが全ての女傑族のシャンプーとは、武道に対する考え方が違う。平和な社会に生きてきたあかねにとて武道とは「己を鍛練するための手段」であった。他人を負かすために強くなりたいのではなく、己自信のために強くありたい。これがあかねの描く武道の理念であった。明らかにシャンプーとは一線を画するものである。
 
「乱馬を賭けて命懸けで闘う。これ、私とあかねに与えられた天命ね。私の挑戦受けない、それ最大的卑怯なこと。それともあかね、私に負けるのが怖いね。おまえ勝負受けなければ、臆病者として笑い物にしてやる。」
 そう言いながらシャンプーは嘲るような笑い声を上げた。
 こういう挑発は、あかねを思うがままに導いてゆく。あかねは生来「勝気」であった。ここまで言われて後へは引かない。これもまた彼女の性質であった。
「わかったわ…。あんたが、そこまで言うのなら。受けて立ってあげるわ。」
 シャンプーの気迫に、思わずあかねは承諾してしまった。
「それは良かった。場所は風林館高校のグラウンド。明日の夕刻七時半。逃げる宜しくないね。」
 そう言い残すとシャンプーは夕闇に消えた。

 勝手な申し込みだとは思ったが、一度承諾した以上、後へは引けまい。

「ただいまあ…。」
 あかねは帰宅すると、居間に声をかけずに部屋へ駆け上がった。そしてクローゼットから道着を出して着こんだ。
「今から稽古?」
 というなびきの声に
「ちょっと、一汗流してくるわ。」
「乱馬君なら、今夜は早乙女家(実家)で泊るってさー。」
「そりゃそうよね…。あたしばかりが乱馬を独占する訳にもいかないから…。」
 と言い流して道場へと籠ってしまった。
「案外、あっさりとしたもんねー。乱馬君と語り合う気で早々に帰宅したんじゃなかったのかしらねえ…。」
 と首を傾げた。台所へと戻った。
 今日の夕ご飯は、のどかが気を利かせて、二人分持って来てくれた。それを温めにかかる。

 乱馬が居ないのは好都合だった。
 シャンプーに決闘を申し込まれたことは、出来れば乱馬には知られたく無かった。彼に余計な心配はかけたくない。

「あたしだって、全く修行してなかった訳じゃないし…。小さいながらも気弾だって扱えるようになったわ。」
 武道家としての意地とプライドがあかねを取り巻いていた。
 シャンプーにどこまで自分の力と技が通じるのか…武道家としての興味もあった。強い相手に立ち向かっていく時の高揚感にワクワクする自分が居た。無論、シャンプーの強さは半端ではないことは百も承知だった。
 高校時代の自分は、彼女の足元にも及ばないだろう。それでも、果敢に挑戦してみたい。喩え、無謀な挑戦であっても。



三、
 
 次の日、あかねは、普通に出社し、定刻できっちりに退社した。
 紗枝と麻耶の口から、彼氏が居ることがそれとなく、社内へと伝わっていたようで、
「天道さん、彼氏が居るんだってねえ…。」
 と、朝から何人の男性社員に絡まれたことか。無論、女性社員もうがった視線を手向けてくるのがわかる。年上の、とうが立った独身女史は尚更のこと。男が居ないとずっと思われ続けていただけに、周りに与えた衝撃はそれなり大きかったようだ。
「これからデートかな?彼氏と…。」
 と課長にまで言われる始末だった。
 どう、尾びれ背びれがついたのか、遠距離恋愛だった彼氏が戻って来ているらしい…それで、久しぶりの逢瀬を愉しむべく、いそいそと帰宅する…そんな風に映っているらしかった。
「デートなんかじゃないですよ。」
 とあかねは軽く受け流した。実際、デートでは無い。
 決闘へ行くのだ。…などと言える訳でもないので、ノーコメントで、タイムカードを押した。

 退社五時で家に帰って着替えて出て、七時半にはちょっとだけ余裕がある。

 早足でオフィス街を駆け抜けると、ホームへ滑り込んで来た電車に、迷わず飛び乗った。

 家に帰り付くと、なびきが居た。
 ここのところ、姉も家に居る事が多い。どうやら、乱馬のマネージメントを本格的に組み上げて開始することに躍起になっているようだった。

 家に帰ってすぐ二階に上がり、道着へと着替えたあかねは、そのまま、玄関へと降りた。

「あれ?今頃から出かけるの?夕飯前よ?」
 となびきが怪訝に声をかけて来た。
「うん…今日はちょっと、ご飯前にロードワークへ行こうかと思って…。乱馬は?」
「乱馬君は、今日も実家よ。まあ、明日には帰って来るつもりだからってさ。」
「そう…。」
 あかねは気のない振りでそれに対した。乱馬が居ないことは、あかねには都合がよかった。シャンプーと決闘することを悟られる心配も無い。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ。」
 そう言って、ガラガラっと扉を閉めた。
 七時過ぎ。辺りは闇に包まれ始める。

「変な子ねえ…。ロードワークならわざわざ道着に着替えなくてもトレーニングウェアでいいじゃない…。」
 なびきは彼女の後姿を怪訝な目で見送った。
「念のために連絡入れとくかな…。」
 そう呟きながら、携帯電話を手に取った。




「良く来たな。あかね。逃げなかったこと、それだけは褒めてやるね。」
 シャンプーがグラウンドの片隅で出迎えた。高飛車な物言いだった。高圧的な態度を取ってあかねを戦いへと駆り立てる。相手を限りなく本気にさせ、叩きのめしたい。それがシャンプーの選んだ決着へのプロムナードだった。
 風林館高校の平日の最終下校時刻は午後七時だった。私学とはいえ、熱心に夜遅くまでやる部活動も無い普通高校なので、午後七時を回ると、蜘蛛の子を散らすように生徒たちは居なくなる。先生たちも学期末ではないので、残って居ない。
 正面の門は閉ざされていた。
 無論、グラウンド沿っている道の小さな灯りがあるだけだ。
 その頼りない灯火の近くに、彼女は佇んであかねを待っていた。
 女血族の戦闘服と思われる、防具として胴があるピンクの服に身を包んで、手には双錘(そうすい)を握りしめている。


「あかねっ!私が勝ったら乱馬から手を引く、いいあるな?」
 シャンプーの目は獲物を狙う研ぎ澄まされた鷹の目だ。
「誰を選んで愛するかは、周りが決めることじゃない。それは乱馬が決めることよ。勝っても負けても、乱馬を諦めるつもりはないわっ!」
 あかねは対抗して口火を切った。
「ならば、力ずくで乱馬奪い取るまでねっ!」
 シャンプーは一気に攻撃態勢へと身を転じた。
 流れるように動く柔らかい関節。しなやかな肢体の動き。一瞬あかねは見惚れた。
「やあっ!たあっ!」
 だが、優雅さとは裏腹に、厳しい攻撃が繰り出されて来た。
 シャンプーは棒に丸いバスケットボールくらいの玉がついた双錘という武器を巧みに使いながら攻撃を仕掛けてくる。
 あかねはそれらをことごとくかわした。

 乱馬が修行の旅に出ていたこの三年、あかねは瞬時の暇を惜しんで道場に篭った。
 乱馬の居ない寂しさを、道場という空間で紛らわせたのだった。身体を道場で動かすことによて、離れている彼と一つになれるような、そんな気がした。
 武道という乱馬と共通の鍛練世界でのみ、募る恋心を浄化させることが出来ると、彼女なりに思っていた節がある。短大を卒業し、OLになっても、その姿勢は変わらなかった。

 出会った頃のシャンプーとあかねでは、明らかに実力の差が歴然としていたが、現時点ではどうだろう。実力の差は殆どなく、力は拮抗しているように思えた。
 あかねはシャンプーの打ち込みをかわすと、身を翻して襲い掛かり、彼女の持っていた双錘を叩き落した。

 カランと音がして、双錘が前へと転がった。
 
 シャンプーはしまったと小声で囁いた。
 あかねはすかさずその虚を突いた。
「ダアーッ!」
 彼女は一瞬出来たその隙に攻撃態勢に入った。
 流星脚がシャンプーを襲う。勝敗は決まったように見えた。

 と、その時であった。
 野球ボールくらいの玉があかねの目の前で弾けた。

「え?何?」
 ハッとした時だった。そいつは、バンとあかねの上で爆弾のように弾け飛んだ。音と共に、ボールから粉状の物が舞い上がった。
 小麦粉のような白い粉だ。あかねの目や鼻、口に向けて飛び散る。
 思わず右手で顔を抑えた。
 が、呼吸を通じて、鼻や口にも何か粉っぽいものを吸い込んでしまった。
 思わずむせって、あかねはその場へ崩れる。
 膝で地面をつき、ゲホゲホと激しくせき込み始めた。


「ふん。てこずらせたね。」
 シャンプーが勝ち誇ったようにあかねの目の前に立った。
「卑怯者…。」
 あかねは声を絞ると、どうっとその場へ倒れこんだ。

 必死で立ち上がろうともがいたが、身体が言うことを訊かない。身体中の神経が麻痺してしまったように痺れ出す。

「ふふふ…痺れ玉の威力はどうあるか?」

 シャンプーの声色が変わった。
 いつもの彼女とは違う妖気のようなものを感じ取る。

「シ、シャンプー…あんた一体何を…。」
 あかねは厳しい目をシャンプーへと手向けた。
 女血族という誇り高き部族のシャンプーが、痺れ玉を使うなどという行為に出たことが、あかねには信じられなかったからだ。
 そんな姑息な手段に出る、シャンプーではない筈だ。それなのにどうして…という思いが強かった。

「言ったある、力尽くでも乱馬奪うと。」
 無念そうに見上げるあかねを見下ろして、シャンプーが懐から何かを取り出した。
「あかね、ここで息絶える…。この私の手にかかって…。」
 シャンプーはゆっくりと懐へと手を伸ばした。そして、何かを取りだした。

「これ、何かわかるか?これ、前におまえに使った110漢方液ね。おまえ殺した後、これでを乱馬に降り注いでおまえの記憶の一切を消すね。おまえに以前に使ったときよりこの漢方液、更にパワーアップしたね。前に使ったようなフィードバック現象は現れない。」
 シャンプーはあかねの身体を押さえつけた。
「どうしたの?女血族の誇りを失ったの?シャンプー…。」
 苦しい息の下からあかねは声を絞り出す。
「ある人が言った…。天道あかねの身体が欲しいと…。その人、私に命じた…。あかねの死体でも良いと…。」
 静かに話すシャンプーの瞳に狂気の炎が宿ったような気がした。彼女から立ち上る気焔は、昨日対した中堀に通じる者がある。くわしくは聞かされなかったが、何か、得体のしれない化け物が、自分を狙っていると、乱馬はあの後教えてくれたことを思い出す。

 もしかして、あかねを狙う闇に、シャンプーは蝕まれてしまったのかもしれない。


「観念するよろし…天道あかねっ!」
 シャンプーは笑いながら懐から刀剣を持ちだした。
「このまま、その頚城(くびき)を切ってあげるね…。」
 ふふふとシャンプーはあかねに向かって剣を身構えた。
 
 あかねは動かぬ身体を駆使して、残った僅かな気のありったけを渾身に巡らせ始めた。体内に巡る血潮は息吹を持って気を充満させはじめる。
 このまま、シャンプーに殺されるわけにはいかない。自分に残された道は、彼女を気弾で粉砕することのみ。しかも、確実に一発で仕留めなければ、剣で頚城を落されてしまうだろう。
 己の首に手をかけたシャンプーの身体目掛けて、振りあげる腕。その掌に全身の気を集めて、解き放ったのだ。

「やあっ!!」


『あたしは、負けないわっ!卑怯なあんたなんかに、斃されないっ!』


 あかねは無我夢中でカッと目を見開いて、気弾を拳から解き放った。
 あかねの周りの空気が振動した。光り成すあかねの身体。そこから迸る強い気はシャンプーを巻き込んで一気に弾けた。
 シャンプは一瞬にしてグラウンドの固い土の上に弾き出されていた。

「うわああっ!何あるか?この光の洪水はっ!」
 シャンプーが叫んだ。

 あかねは身構えてはいるものの、痺れ薬で身体が思うように動かない。だが、絶対、彼女達の好きにはさせない。意地と根性だけでそこに立ちあがったが、それが精いっぱいだった。二発目は無い。

『小癪な娘めっ!でも、二発目は打てまい…。ククク…。どうあがいてもおまえに勝ち目はない!』
 シャンプーの口から不気味な声が弾けた。そう、シャンプーを凌駕していた闇の気だった。倒れたはずのシャンプーはニッと笑って立ち上がった。完全に化け物と意識がすり替わったようだった。
『死ねっ!そして、その屍を闇へ晒してやろうぞ…。』
 シャンプーの身体を乗っ取ったそいつは、あかねへ腕をからませた。そして、両脇から力を入れて、あかねの首を絞めにかかった。
「うぐっ!」
 あかねは抵抗しようとしたが、痺れ玉で神経をやられているために、力が入らない。気も殆ど残っては居ない。

 と、その時だった。
 あかねの傍で、別の気が着弾し、弾けた。
 いや、正確にはあかねに襲いかかった化け物目掛けて、その気の閃光が飛んできた。
 その気は蒼白く、炎のように揺らめき、あかねの鼻先をかすめるとそのすぐ後ろ側で地面に当った。
 ドオンッと轟音が響き、一瞬、砂埃が舞い上がる。

『だ…誰だっ!』
 あかねから手を離したシャンプーはその気が飛んできた方へと視線を巡らせた。

 気煙の向こうに人影があった。じっとこちらを睨み付けるように佇んでいる。
「乱馬っ!」
 はっきりと見て取れたおさげ髪。暗くて良く見えないが、発する気が彼のものだとあかねは瞬時に理解した。

「あかねから手を離せっ。いや、シャンプーの身体から去れっ!化け物めっ!」
 乱馬は言い放ちながら、気弾をシャンプーの背後へと向かって浴びせかけた。シャンプーの身体の背中辺りで、その黒い煙は揺れていた。
 妖の本体なのだろう。
 焦ってシャンプーの身体から抜け出そうとしていたところを、乱馬の気が襲ったのだった。
 シャンプーの身体を痛めつけるのは本望では無かったのか、乱馬はできるだけ、露わになった肌は避け、背中へと気を集中させた。青い光の細い気弾が、シャンプーの背中へと突き刺さって行くように見えた。

『くそう…。もうちょっとだったのにぃぃぃっ!』
 そう言って、煙はシャンプーの身体から抜き出た。そして、乱馬の手にしていた数珠玉へと吸い寄せられて行く。
『畜生っ!』
 断末魔の声が響き渡り、そいつは、数珠の中へと消えていった。

「また、一つ、召しとったぜ…。」
 ふうっと乱馬は溜め息を吐きだした。

「大丈夫か…あかね…。」
 そう言いながら、あかねへと眼を転じた。
 と、その背後から、殺気を感じた。
 妖が身体から抜け去ったシャンプーが、息を吹き返してそこに身構えていたのだ。手には落ちていた双錘を握りしめている。ギラギラとした瞳は、あかねへと向けられていた。

「何のつもりだ?シャンプー!」
 その姿を認めて、乱馬が叫んだ。

「乱馬っ、そこを退(ど)くあるっ!まだ勝負、ついてないあるっ!」
 シャンプーの声が戻って来た。クセのある金切り声を聞いて、乱馬が恫喝した。
「勝負は決したっ!この期に及んで悪足掻きはするなっ!シャンプーっ!」
「悪足掻きなどではないねっ!まだ私戦えるっ!」
 シャンプーは必死に乱馬へと食らいついた。
「さっき、気で押し返されただろ?あれで、勝負は決したぜ…。それに、痺れ薬であかねの動きを奪うってのは、格闘家の精神に反するんじゃねーのか?」
「乱馬、見てたのか?」
「ああ。最初っから全部ここで見せてもらってぜ…。気がつかなかったのか。」
 乱馬はにんまりと笑って見せた。
「これ以上まだやろうっていうのなら、俺が相手になってやろうか…。」
「乱馬にはこの勝負関係ないね。」
 シャンプーは憤然とした表情で言い返す。
「関係あるさ…。あかねは俺の許婚、いや、俺の伴侶だからなっ!」
 乱馬は構わず吐きつけた。

「違うっ!乱馬は私の婿殿ねっ!私こそ乱馬の伴侶あるっ!」
 金切声を上げたシャンプーへと乱馬は険しい目を手向けた。

「悪足掻きは止せ…。俺は…俺は…あかねを選んだんだっ!この事実は曲げられねーっ!
 それに、女傑族のプライドをおめーは捨てたのか?」
 乱馬はそう言い放つと、痺れ薬で身体が麻痺しているあかねを抱き上げた。
 あっけにとられていたのはあかねであった。乱馬は今までこんなに堂々と自分の気持ちを彼女たちに宣言したことがあっただろうか。
「乱馬…。」
 顔がことのほか熱くなって頬が薄っすらと紅色に染まった。
「だから、今後もあかねをつけ狙うのなら、俺も本気で相手してやる。これからは俺たちは二人で一人だ。誰邪魔はさせねえからなっ!」
 乱馬は上気しながらも一気にまくし立てた。
「さ、帰るぞ…あかね。」
「う、うん…。」
 乱馬はそう言い切ると、あかねを抱いたまま、さっさと歩き出した。

 シャンプーの切ない悲鳴が、後ろで響いたような気がする。だが、乱馬はそれに対することなく、あかねを抱き上げると、さっさとシャンプーの前から遠ざかる。

 乱馬は黙々とあかねを抱いたまま歩いた。
「ねえ…。乱馬、最初から決闘を見てたって言ってたけど…。」
 最初に沈黙を破ったのはあかねだった。
「ああ…。おまえの様子が変だってなびきが俺に連絡をくれたんだ。で、漂い始めた妖気をまさぐってて、ここだってわかったんだ。」
「えっ?妖気?」
「ああ…。おめーをつけ狙ってる妖気は、この数珠に微かに反応するんだ。昨日辺りから厭な妖気を感じていたんだが…そいつがシャンプーへと乗り移ってやがったんだな。」
 乱馬は腕にはめた数珠を見ながら、あかねに答えた。

「かなり集中しねーとわかんねーくらいの妖気だったからな…。なびきにおめーの異変を教えて貰わなかったら、間にあわなかったかもしれねーけど…。」

 そう話しかけながら、乱馬はある場所へと足を手向けた。
 そこは、グラウンドから校舎の方へ少し入った場所。
 三年前、乱馬が修行へと旅立つ際、あかねに愛を告げた思い出の場所。新芽が吹き出す「恋桜」の樹の下だった。
 ついこの前、花は散ってしまった。代わりに、枝いっぱい、新芽が燃え上がり始めている。
 ほんのりと道端の外灯からの灯りに、木陰が映し出されている。
 あの時の記憶が鮮やかに蘇る。二人、愛を初めて誓い合ったあの別れの刹那が。
 
 乱馬はあかねを下ろすと真っ直ぐに見詰めた。その目は微かに微笑んでいた。あかねは乱馬の瞳の中に吸い込まれそうな気がして、わざと目を反らせた。
「だ、大丈夫よ…。乱馬が来なくても…ちゃんとシャンプーの技だって返したんだから…。」
「そうかな?俺が来なけりゃどうなっていたか…。」
「別に乱馬の助けなんか…。」
「いらねえって言いたいんだろうけど。そうはいくかっ!」
 乱馬は悪戯っぽくあかねを見返した。そして、ふわりと自分の腕に抱きしめた。
「さっきも言ったけど、おまえと俺は二人で一人なんだぜ…。これから先は。」
 そう言いながら乱馬はあかねを胸板に沈めた。
「おまえは俺の大事な半身だからな…。それだけは覚えておけよ…。」
 あかねは乱馬の腕の中でこくんと頷いた。
「ここ、覚えてるか?あかね…。」 
 乱馬がふんわりとあかねに囁きかけてきた。
「忘れるわけないじゃない…。」
 あかねはそっと言葉を返した。
 乱馬はそれを聴きながら、微笑を返し、あかねの右手を取った。
「これ…。いつまでも右手じゃあ、指輪が泣くだろ…。ちゃんと左手の薬指にはめなおしてやるよ。じゃないと、また無粋な連中がおめえに手を出してこないとも限らねーからな…。」
 そう言いながら乱馬はあかねの右手から指輪を外した。三年前に自分であかねにはめたシルバーの指輪。
 そして、改めて左手の薬指に軽く添える。
 くすぐったいような、恥ずかしいような。左手に輝く指輪を見てあかねははにかんで笑った。
「乱馬も…ね。」
 あかねはそっと彼の右手に触れると、指輪を外した。三年前に約束したこと。やっと叶う。そう思うと涙が溢れてきた。
「たく…。相変わらず泣き虫だな…おめえは。」
 指輪をはめて貰いながら乱馬が囁いた。
「泣き虫で悪かったわね…。」
 
…誰のせいでそうなったかわかってるの。
 心で呟きながらあかねは乱馬の左手の薬指をそっと指でなぞった。

『きっと帰って来て、そして、ちゃんと薬指へはめかえてやるから…。そしたら…。』
『私、待ってる。ちゃんと乱馬が男に戻って帰ってくるの。何年でも待ってる。だから…。きっと…。』

 桜吹雪の中でここで交した誓いの唇。あの時の情景が甦る。

…帰ってきた…。俺はここへ…。あかねの処へ…。
 
 右手であかねの流した涙に触れてみた。乱馬の人差し指を伝ってその雫は心まで染み入るような気がした。乱馬はゆっくりと息を吸い込んだ。懐かしい香りがする。
 あの時と季節は違うが、そのまんまだと思った。この胸の中の温もりは、ずっと変わらない。あかねの愛しさも、ずっと変わらない。
「ただいま…あかね。」
 いつしか乱馬はあかねを抱きしめながらそう呟いていた。
 愛を確かめ合うのに、言葉は要らない。目を閉じてそっと唇を触れ合えばそれでいい。

 二つの影が重なるとき、月が雲間から覗き出した。そして、二人を柔らかく月光が包んだ。
 弦月。半分の月。
 二人で一つの月。二人で切磋琢磨しながらこれからは…。

「おかえり…乱馬…。」
 あかねは抱きしめられた腕の中でそっと乱馬に囁き返した。
 




一之瀬的戯言
前の原稿とにらめっこしながら、納得がいくまでいじくりまわしました。
ストーリーの展開は決めて居ても、細部はまだ迷っていることも多くて…。


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