◆蒼い月と紅い太陽

第五話 決意

一、

 翌日、あかねの機嫌はすこぶる悪かった。

 それは、会社にいても一目瞭然で同僚たちも、一歩引いたくらいだ。
「何かあったの?」
 と、紗枝も麻耶も目を丸くして尋ねて来る。
「別に…何も無いわ。」
 と返答が返されるが、何も無いわけがあろうかということは、彼女を良く知らなくてもはっきりとわかった。
 無論、道場の件以来、乱馬とは一言も口を利いていない。
 荒んだ不穏な空気があかねの上を流れる。

「何よ!人の気も知らないで!」
 
 道場で組みあった時に投げられたデリカシーの欠片も無い乱馬の言葉。
 傷ついたというより、頭に来てしまったのだ。

『おまえらしくねえなあ…。俺が居ない間に弱くなっちまったのか?』 
 脳裏にこだまする、無神経な言葉。

 弱くなったというのは正しくない。むしろ、乱馬の腕が上がり過ぎたのだ。もう、まともに組みあえるほど、足元にも力が及ばない。
 組み合って、瞬時に悟ったあかねは、勝負を諦めてしまった。
 それが、あかねらしくないと非難されたとて仕方がない。その事は良い。

『髪の毛だって女の子みたいにのばしちまって…。』

 後に来たこの言葉が、心にグサッと突き刺さってしまった。
 乱馬の無事を祈る気持ちで、のばし始めたからだ。当然、乱馬が知らないで当り前のことだったが、髪の毛の長さは、乱馬と離れていた時間を如実に物語っているのだ。

 乱馬と再会を果たすまで、切らないでおこう。
 そう決意したのは三年前。

 人の髪の毛は、一年間で十数センチほどのびると言う。人によって速度に多少の差があるだろうが、時折、毛先をケアするために切り揃えていたものの、あかねは三年で四十センチ近くのびてしまった。
 そもそも、少女の頃は長くのばしていた。
 片想いしていた接骨院の東風先生が心を寄せていた姉のかすみがの髪型を真似たのだ。男の子みたいな格闘少女の自分を、少しでも女の子らしく見せようと、背伸びしていた十六歳の頃。
 その自慢の髪をばっさりと切ったのは、乱馬のせいだ。彼と良牙の因縁の対決に巻き込まれたのだ。
 飛んできた良牙のバンダナで、バッサリ。
 髪を切られて時を経ずして、東風先生への想いは消えてしまった。
 代わりに胸の中に住み着いたのは乱馬。
『言い忘れてたけど…似合ってるぜ。その髪型。』
 夕べりの川岸のフェンスの上から差し向けられたその言葉は、今も脳裏に鮮やかに残っている。
 以来高校生の間は髪の毛を伸ばさずにいた。
 再び髪を伸ばそうと決意したのは、桜の木の下で、彼を修行に送り出した直後だった。彼と再びまみえるまでは、髪は切らないと。
 なのに、無神経な彼が放った言葉がこれだ。

『おまえらしくねえなあ…。俺が居ない間に弱くなっちまったのか?髪の毛だって女の子みたいに伸ばしちまって…。』

 これでは、あかねの思いの丈を、彼自身の言葉の刃でふっつりと切られてしまったのと、同じである。



「誰のせいで、髪がのびちゃったって思ってるのよ!」
 バンと叩く、テーブルの上。
「ちょっと、あかね?」
 傍らに居た紗枝が、その勢いに驚いて目を見張る。
「あ…。」
 思わず辺りを見渡してハッとした。
 食堂中の注目を一身に集めている。
「何があったかわかんないけど…。相当、ウップンが溜まってるのね。」
「気晴らしにどう?明日と言わずに…。」
「今夜にさあ、パーッと行こうよ。お酒に抵抗あるなら、食べる専門でもさあ。」
 
 合コンモードの飲み会に誘われていたことを思い出した。
(真っ直ぐに家に帰っても気不味いだけよね…。)

「そうね、行こうか!パーアッと!」
 次の瞬間、ゴーサインを出していた。断るつもりだったのにも関わらず。

 


「効果てき面よねえ。」
 なびきが携帯をいじくりながら乱馬へと声を掛けた。
 当然のことながら、彼は携帯など無用の長物だった。従って、所持もしていない。 
 もっとも、つい先週まで世界を股にかけて修行に明け暮れていたため、持つ必要も無かった。
「あん?」
 乱馬はなびきを見返した。
「あかねのことよ。今、メールが来たわ。今夜は食べて来るから晩御飯は要らないって。」
「で?」
 それがどうした…と言わんばかりの返答の仕方だった。
「ったく…。あかねを狙ってくる奴をあぶり出す、チャンスじゃない。」
「俺に、あまねくあかねを監視しろってか?」
「まあ、そういうことになるかしらね。」
「面倒臭えな…。」
 ぶすっと無愛想に答えた。
「あんたさあ、そういう物の言い方は、全然変わってないわね。それとも何?あかねをほったらかす気?」
「うるせーよ!」
「そんなんで良いのかなあ?」
「ほっとけっつーの。俺たちのことは…。」
「ほっとけないわよ。だって、あんたはうちの売れっ子になるんだもの。」
「売れっ子?」
「ええ、これから、ガンガン稼いでもらわなくちゃ。ほらこれ見て。」
「何だ?」
 なびきは、何かリストのようなものを乱馬の前に広げて見せた。そこには、ずらずら何か、書かれている。
「これは、スポンサーのオファーを問い合わせて来た企業の一覧よ。見なさいよ。ずらっと色んな有名企業の名前が連なってるでしょ?」
「それが何だっていうんだよ。」
 ムスッとリストをなびきへ突き返す。
「あかねの会社もあるわよ。」
 と言われて、手の動きが止まった。
「あかねの会社ってさー、結構、武道家のスポンサーになってるのよね。あんたのマネージメントをうちが契約したってネットへ情報流したら、すぐ、契約したいってオファーかけてきたの。せっかくだから、あたしとこれから行かない?」
 乱馬は立ち止ったままなびきを見返した。
 マジかよ…と瞳が一瞬戸惑っていた。
「丁度良いんじゃないの?あかねの動向もおおっぴらに探れるし、目覚めた化け物に憑依された人間も見つけやすいんじゃないの?」
 なびきはにんまりと笑った。
「もっともこれはビジネスだから、あんたが嫌でも付き合ってもらうつもりだけどね。」
「勝手にしろ!」
 乱馬は吐きつけると、ドサッと椅子へ座りなおした。
「じゃ、スーツに着替えて、さっさと行くわよ。あんただって、あかねが勤めているところ見ておきたいでしょ?」
 確かに、現在のあかねがどんなところで仕事をしているのか興味はあった。
 結局、すごすごとなびきに伴われて、あかねの勤める会社へ。

 なびきの運転する赤いスポーツタイプの車に乗って、都内へと乗りつける。
「おめえ、何時の間に免許なんかとったんだ?」
 助手席に陣取って、なびきの横顔を見る。なびきはいなせなサングラスをかけて、颯爽とハンドルを握っている。乱馬には珍しくてたまらないらしい。
「あら、免許なんてあたりまえよ。あかねだって持ってるんだから。」
「へえー、あの不器用女に運転免許ねえ。」
「あんたも、落ち着いたらさっさと取っちゃいなさいよ。今時、無免許だなんて、流行らないわよ。」
「うっせーよ。ずっと、海外で修行してたんだ。取る暇も金も無かったっつーの。」
 走り抜けるのは、どこにでもあるような、近代オフィスビル。
 ここのどこかであかねが働いているのが、乱馬には不思議だった。
 乱馬にとってあかねのビジョンは、高校卒業の頃のまま止まっている。長く伸びた茶色がかった髪も、化粧して整えられた顔も、乱馬にとっては未知のあかねだった。





 昼過ぎ、社内の空気が急に慌ただしくなった。
 受付嬢のあかねたちにも目に見えてそれがわかる。
 こんな時は、大口の取引先や有名人がやって来る。経験的にそう思った。
「ビックニュースよ。」
 と、企画室から麻耶が駆け下りて来た。
「どうしたの?村上さん。」
 受付嬢の相棒の先輩が麻耶をとがめた。
「これが驚かないでいられますか。来るのよ!」
「来るって誰が?」
「あの、早乙女乱馬よ!彼が来るのよ!我が社に!」
「ら、乱馬が来るっですって?何しに!」
 麻耶の言葉に過剰に反応してしまったあかね。
 思わず名前を呼び捨てたにもかかわらず、居合わせた同僚たちは、その言葉尻を指摘して来なかった。誰もが格闘界の新星の来社に興奮しているようだった。

「契約に決まってるじゃん!」
「契約って?何の…。」
「うちとの専属契約に決まってるでしょう。他にどんな用があるっていうの?」
「契約って…何の?」
「スポンサーに決まってるでしょうが!」
 言っていることが、既に頓珍漢なあかね。傍で聞いていると、ふざけているようにしか聞こえない。
「何、バカなこと言ってるの!ほらほら、ボサッとしてないで、そんなビッグなお客様が来るんだから、あんたたちも身だしなみはちゃんとして、静かにしてなさい!」
 先輩の受付嬢が、あかねと麻耶に苦言を呈した。

 数分後。格闘好きの社長や会長までがずらりと並ぶ正面玄関。社内ギャラリーがずらっと居並ぶ。別に用もない社員も、物珍しさからか、取り巻いていた。
 全社あげての歓迎ムードを否としない社長は、野次馬ギャラリーを敢えて排除しようとはしなかった。

 花道をかきわけて入って来たのは、姉のなびきと許婚の乱馬だ。
 あかねには、身内の二人だ。周りの歓迎ぶりに変な感じがした。
 チラッと乱馬はあかねの方向を流し見た。そこに居たのかと言わんばかりに。その視線を、あかねはフンと避けて見せる。

(たく…まだ、昨夜のことを根に持ってやがんな…。)
 乱馬は苦笑いを浮かべながら、通り抜けた。
 
 それを黙って見送るのが、受付嬢のあかねの仕事。
 にしても、周りのこの異様な盛り上がり方は何なのか。
 来客室へ去って行く乱馬との間に、見えない溝が横たわってしまった気がした。

 ふううっとエレベーターに吸い込まれて行った乱馬と姉の後ろ姿を見送り、あかねは大きな溜め息を吐きだした。




ニ、

「やっぱ、格好良いわ、早乙女乱馬って。」
 アフターファイブのトラットリアで紗枝や麻耶と夕食タイム。若い女子社員が揃うというので、これまた下心を少し持った若手男性社員も数人、女子たちを取り巻く。
「今日はお酒抜き…というか、ほどほどにね。」
 週明け間も無いから、アルコールは控えめに。そういう趣旨でのささやかな夕食会。
 唐突に決めたにもかかわらず、十人ほどが集まった。

「いい身体してたわあ。」
「近くで見たら、上腕筋とか、モリモリだったわよねー。」
 もっぱら乱馬の品定め。あかねは複雑な表情で眺めながら、パスタを食べる。
「一度彼と手合わせしてみたいもんだねえ…。」
 とあかねの真正面に陣取っていた中堀が言った。
「どのくらい強いのかなあ。ねえ、あかねはどう思う?」
 麻耶に急にふられて、思わず本音が飛び出した。
「彼の強さは未知数ね。もう、あたしには足元にも及ばないわ。昨日だって、悔しいけど、軽くのされちゃったわ。」
 
 一同、ヘッという表情をあかねに手向けた。
 しまった…とあかねは口元を抑えた。

「あかねって早乙女乱馬のこと、知ってるの?」
「あ…。」
 自ら掘った墓穴。
「軽くのされたって…あんたの家の道場に、彼が来てたの?」
 好奇心の瞳があかねを捕えて来る。
「ら、乱馬とは、同じ無差別格闘の流派だから…。その、お父さん同士が…。」
 と誤魔化す。
 まさか、許婚だとは言えなかった。喧嘩したばかりで気不味かったから余計にその思いは強い。
「ねえ、知っているなら、どんな人か教えてよ。」
「お父さんが知り合いなら、いろいろデーターがあるんじゃないの?」
「データーって言っても、あたしも昨日、久しぶりに会ったから、最近の彼のことは知らないわよ。それより、あたし…これが食べたいわ。」
 あかねはそこで話題を変えた。
「あかね、飲まないの?」
 紗枝が問いかけて来た。
「ええ、飲まないで、食べることに今夜は徹するわ。」
「もしかしてやけ食い?」
「まーね…。ちょっとストレス溜まっちゃってるから、今夜は食べるわ!」
 

 そんな彼女を見詰める真摯な瞳。中堀だった。
 あかねより五つばかり年上の男だった。
 浅黒く筋肉質な身体。なんでも空手の有段者で国体に出たこともあるという。このところ、交際しないかと言い寄られているが、やんわりと断り続けていた。
 何時からか、彼はあかねに興味をそそられたらしい。
 高校時代からその可愛さと気の強さで慣らしたじゃじゃ馬。
 実は、高校卒業後、適度に男たちの求愛の類から身を守ってきた。短大でも社会に出ても。いず方ともなく男たちが近寄って来ては、求愛を繰り返してくる。
『付き合う気はありません。』
 素っ気無く突き返す拒否の言葉。相手が言葉で納得しなければ、実力行使に出ることも多々あった。
 大概の求愛者はあかねの強さに気後れして、その言葉と態度で諦めてくれた。
 だが、中堀は違う。しつこいのだ。
「一度でよいから、一緒に遊びに行こうよ。」
と、煩(うるさ)いのだ。
 甘い言葉で言い寄られる度に、あかねは冷たくあしらい、相手にしてこなかった。



 その日の中堀は珍しくおとなしかった。そのおとなしさが、かえって不気味だった。
   
 散々、くっちゃべって、店を後にしたときは、良い時間になっていた。
 それぞれ気が付くと、バラバラになっていた。
「遅くなったね。」
 中堀はあかねに近づく。あかねは身構えながら
「ええ…。」
 と呟く。
「送っていこうか?」
「いいです。一人で帰れます。」
「いいよ。送るよ…。タクシーでも拾おうか?」
「遠慮しておきます。まだ電車もあるし…。」
 そう言うと先に立って歩き始めた。
 中堀はひるまずに付いて来る。彼は千載一遇のチャンスだと狙いを定めてしまったのかも知れない。先を行くあかねについてくる。相手をするのもうっとおしかったので、あかねは黙ったまま帰路についた。
 練馬まできて電車を下りると、まだついてくる。
「いつまでついて来るんです?」
 痺れを切らしてあかねが問うと、待ってたかのように話して来る。
「いいじゃない。送ってあげるよ…。」
「遠慮しときます。一人で帰れますから。」
 あかねはわざと足を速めた。

 人気が無い川べりの公園に差し掛かった時、ザワッと生温かい風が吹き抜けた。と、背後の中堀の気配が変わったように思えた。
 ゾクッと背中が粟立った。と、グイッと体が傾いた。
 えっと思った瞬間、中堀はいきなりあかねの手を引いたのだった。
「捕まえた。」
 そう言って、ニヤッと笑った。
「やめてください、ふざけるのは!」
「ふざけてなんかいないよ。むしろ真剣なんだけど…。」
「離してください。迷惑です。」
 凛とした口調であかねが睨み付けると
「そんな風にツンケンしなくても大丈夫だよ。男居ない暦そろそろ返上したらどうだい?」
「はあ?」
「いい加減、僕に身体を預けてしまったらどうだい?男日照りが続くのも嫌だろう?ちゃんと大切にしてあげるから…。」
 何を見当違いな言葉を投げつけて来るのか…。
 危機感を覚えたあかねは、つかまれている手を振りほどこうとした。だが、彼は、あかねの手をグイッとねじりこんで、固めてしまった。
 後ろにも前にも身体が動かない。
 と、中堀は、そのまま強引に手を引っ張って、あかねの身体を自分の方へと引き寄せた。
 柔道の有段者だけあって、急所を良く知っている。どこをどうおさえれば、動きを封じられるのか、熟知しているようだった。これでは、流石のあかねでも太刀打ちできなかった。もちろん、あかねは必死で抵抗を試みた。が、中堀も武道家。がっしりと動きを封じるツボを抑え込んでくる。もがいても、身体はビクとも動かない。
 となると、最終武器は、悲鳴だ。だが、それも心得ているのだろう。
 中堀は反対の左手で、あかねの口を抑え、ぐいっと引っ張って、暗がりの広がる公園へと連れ込んだ。彼の大きな掌で、口を塞がれてしまったので、悲鳴も挙げられない。
 そのまま引きずられて、公園の中まで引っ張り込まれた。
 夜の公園は、真っ暗闇だ。木も生い茂っている。その木陰へ連れ込まれた。表通りからは全く見えない。

 暫く、中堀は、必死であかねがもがくのを楽しそうに眺めていた。獲物が諦めるのを待っている…そんな風にも見えた。
「いつまで抵抗できるかな…。」
 あかねは捕まれた腕の中で呪縛から逃れようと身体を動かし続けた。不覚にも、動きを封じ込められてしまったが、あかねも格闘家。必死で隙を伺っていた。が、相手もなかなかの手だれなのだろう。常人とは違って、なかなか隙を見せなかった。

 サワサワと小枝が唸った。
 ゴオオッと音をたてて吹き抜けて行く。

「え?」
 その瞬間、あかねは何か別の不気味な気配を中堀の中に感じ取っていた。

「君は運が良い…。君が好きでたまらない青年に憑依した僕に捕獲されて…。」
 訳のわからない言葉を発し始めたのだ。

「大丈夫…綺麗な身体のまま連れて行ってあげるよ…。」

(な…何を訳わかんないこと言ってるの?)
 音にならない声で中堀を見上げてギョッとした。
 中堀の背中から黒い霧が溢れだして来るのが見えたのだ。
 黒い瘴気。それを辺りに充満させながら、中堀が笑っている。彼の背中の後ろに、どす黒い闇が開いている。そこからぞわぞわと触手のように煙が伸びあがってくるではないか。
 やおら煙はあかねに、向かって這い上がって来た。手足の動きは中堀によって封じられている。生臭い嫌な臭いが煙と一緒に流れて来る。その臭気を嗅がされて、ふうっとあかねの手足から力が抜け落ちた。

「な…何…この瘴気…。」

 足元から力が抜け、中堀に抱え込まれた。ふっと、口元を押さえていた中堀の手が離れた。その隙に乗じて、悲鳴を挙げよとしたが、音にならない。返す手でアゴをぐっと掴まれた。
「足掻いたってムダだよ…。君は僕から逃れられない…。さあ、一緒に行こう…闇の中へ…。」
 ニヤッと中堀は笑った。その後ろ側に、どす黒い闇が開いたような気がした。
 ずずずっと
「い…嫌…。」
 かろうじて言葉を発したが、痺れたように身体は動かない。



「おい…。あかねから手を放せっ!!」

 殺気立った声が背後から響いた。
「何っ!?」
 中堀は咄嗟に身を翻そうとしたが、後ろの人影の方が断然動きが速かった。あっというまにあかねを自分の方へと引き寄せて、中堀の右腕をねじった。
「乱馬っ!?」
 あかねは助けに入った人影を見て、驚きの声をあげた。見慣れたおさげを月明かりに靡かせて仁王立ちする逞しい身体。
「いきなり何だい…。」
 中堀は声を張り上げた。
「それはこっちの台詞でいっ!貴様、あかねに何してやがる。」
 乱馬はひらりと身を翻して反撃してきた中堀をさっとかわすと、目の前にあった生垣の石を投げつけた。

 パシンと音がして、中堀の目の前で石が割れた。

「フン、邪魔立てする気か?人間の分際で!」


「馬脚を現しやがったな…。化け物め!」
 乱馬は豹変した中堀へと声を荒げた。
「化け物?」
 問い返したあかねに、乱馬は吐きつけた。
「おめーは下がってろ…。あいつには、化け物が憑依してやがるんだ…。見な。」
 乱馬に示唆されて、中堀を見返したあかねは小さく声を挙げた。

 ゾワゾワと中堀の背後に黒い煙が這い回っていた。それに操られるかの如く、中堀の瞳が赤く光った。

「あれは何…?」
 あかねは乱馬へと問い返していた。

「説明は後だ。あいつは化け物に憑依されている。化け物の狙いは…あかね、おめーだ。」

「狙いはあたし…。」
 意味が呑み込めず、あかねは乱馬を見やった。

「とにかく…俺に任せておけっ!俺は…おめーを守り通す。」
 そう吐きつけると、乱馬は電光石火、攻撃に出た。
 中堀も身構えた。
 だが、乱馬の相手にはならなかった。空手の有段者と言えども、実戦で積み上げた乱馬の荒々しさとは比較にもならなかった。無駄のない動き。
 傍らで見ていたあかねも、乱馬の動きに目を奪われた。



『貴様、あの時の男か!』
 倒れた中堀の傍で、闇が声を発した。

「ああ、だったら何だってんだ?」

『ふふふ…大人しくその天道の娘をこの私に差し出せば、その娘は傷つかず良かったものを…。』
 闇は消えそうになりながら続けた。
『一つ忠告しておいてやる…。おまえが相手するのは、この男のように、天道の娘を無傷で手に入れたいと思っている奴らだけとは限らんぞ。
 屍に変えても良いと思う奴も居るぜ…。そのことを肝に銘じて、せいぜい戦い抜くが良かろう…。』
 それだけ吐きつけると、黒い煙は乱馬の手にしていた数珠玉の一つへと吸い込まれるように消えていった。
 乱馬の手にしている数珠玉の一つが、真黒に色を変えた。

 それを確認すると、ふうっと乱馬は溜め息を吐きだした。
(一つ…玉を取り戻せたか…。)
 中堀は気絶したまま、土の上に倒れていた。
 
「帰るぞ…。」
 数珠をポケットに突っ込むと、乱馬はくるりと背を向けて、やおら歩き出す。

「ちょっと待ってよ。中堀さんをこのまま放置して行って良いの?」
 不可抗力とはいえ、中堀を気絶させたのは乱馬だ。
「良いんだよ!ほっといたらそのうち目を覚ますだろうぜ…。急所は外してあるし、奴は闇に操られていたとはいえ、おめーを襲ったんだ。」
 その表情は暗くて良く見えなかったが、怒ったような気配が伺える。
 不覚にも、中堀に言い寄られたところを乱馬に露呈してしまった。
 彼はそれに腹をたてたのではないかとあかねは一瞬顔が曇った。
「でも…。」
「好いから、帰るぜ!」

 乱馬は黙ったまま月下を歩き出した。その後ろをそぞろ歩くあかね。
 中堀に巣食っていた奴は一体何だったのか。乱馬は知っている様子だったが、あかねには訳がわからない。説明を求めたいが、今の状況では聞き出せない。

 家までの道のりが、重苦しくのさばってきた。

 一方、先を行く乱馬は中堀があかねに迫ったさっきの光景が目に焼きついていた。

…あかねを誰かに盗られるのではないか。…

 修行に明け暮れていたときは不安など微塵もなかった。離れていても繋がっている。ずっと疑わずに来られた。
 彼の右手の薬指に輝くあかねとお揃いの指輪は、そんな猜疑心など寄せ付けずにきた。
 だが、三年ぶりに逢えた彼女は別人のように髪を伸ばしていた。綺麗になったと即座に思った。だが、急にあかねとの距離が遠くなったように感じたのだ。
 三年という年月が、二人の上に流れたことを、思い知らされたのである。
 
 あかねに魅かれるのは、何も自分だけではない。さっきの男の求愛が良い例だ。化け物に憑依されていたとはいえ、あの男はあかねを慕っていた。
 …あかねは自分の魅力に無防備すぎる。…

 後ろを付いて来る彼女の気配を探りながら、ふっと溜め息を漏らした。


…ちゃんと決めなきゃな…そのために戻って来たんだから。…

 自戒気味に微笑んで、乱馬はぐっと手を握り締め自分の心に気合を入れた。



三、

「これから…道着に着替えて道場へ来いっ!」

 乱馬は、天道家に帰り着いたとき、昨夜と同じ言葉をあかねに向かって吐き出した。
「こんなに遅い時間から組み合うの?」
 あかねは戸惑いながら乱馬へと食いついた。
「いいから来い!日々精進をするのが武道家のつとめだろ?」
「それはそうだけど…。」
 気の無い返事を返すと、鋭い言葉の刃が飛んできた。
「昨日みたいな無様な勝負はしかけるなよ!」
 三和土(たたき)を上がると、乱馬は怒ったような口調でそう言い残すと奥へと消えた。
「あたし…明日も仕事があるんだけど…。」
 後ろ姿を見送りながら、あかねは困惑していた。時計の針はとっくに十一時を回っている。これから組み合うと、就寝は軽く十二時を回るだろう。
「まだ、火曜日よ…今夜は。」
 とはいえ、彼の激しい闘気が、闇の空気を付いて自分へとのしかかってくるような錯覚さえ覚える。
 父・早雲も姉・なびきも、二人の帰宅に顔も出して来なかった。とっくに就寝してしまったのか、それとも二人を邪魔したくないと気遣ってくれているのか。

 あかねは仕方無く、乱馬の言に従って、道着に着替えて道場へと足を踏み入れた。
 
 蛍光灯の明かりに照らされた道場に先に入った乱馬。
 白の道着に着替えて、座禅を組みながら、静かにその時を待っていた。
 武道家としての誇りと誉れ。己の持てるものを全て、あかねにぶつけようと思ってそこに佇んでいた。

「構えろ…。昨日みたいに簡単にのされるなよ!」

 道場に入って来たあかねの気配を感じるや否や、後ろを向いたまま、すっくと立ち上がり、そう吐き出した。
「なっ!」
 その言葉に、みるみるあかねの顔が険しくなった。
 そう、彼からの理不尽な言葉が、眠っていたあかねの闘志を目覚めさせた瞬間だった。
(何よ!その言い草!)
 乱馬の投げつけた言葉への怒りの感情が、瞬時にあかねの感情を逆なでて突き抜けた。
 ふつふつと怒りと共に闘気が身体に湧き立ち始める。

(本気になりやがったか…。)
 そんなあかねの気配を察した乱馬は、ふっとほくそ笑んだ。
 してやったり…。そんな微笑み方だった。
 乱馬は、わざときつい言葉を浴びせかけて、あかねの闘志に火をつけたのだ。
 目論んだとおり、勝気なあかねに立ち戻っていた。昨夜感じた迷いの心も、彼女の瞳からは消えていた。

 ゆっくりと振り返る乱馬。それを黙したまま睨みつけるあかね。

(見てらっしゃい!昨日みたいに簡単にはやられないわよ…。)

 今は闘いが己の全てである。力の差が歴然であろうが、なかろうが…そんなことは、大した問題では無かった。
 あかねも武道家。背中には天道道場を背負っている。一旦、闘志に火が灯ると、燃え上がる激しさを秘めていた。
 目の前に立った乱馬はにこりともせず、只真っ直ぐにあかねを見詰めていた。鷹のような鋭い視線。死線を幾度も潜り抜けてきた武道家の目であった。
 あかねは飲まれることなく、反対に、身体の底から闘気が湧きあがってくるのを感じ取っていた。長い間忘れていた感情だった。。
 昨夜対峙した時は、終ぞ感じられなかった感情の高まりだった。


(そうだ…それで良い…。俺は迷いのねえ闘志をぶつけて来い!)

 乱馬もそんなあかねの気の昂ぶりを肌で察知していた。彼もまた真剣であった。
 一つの大きな決意を持って、この場に臨んでいたからだ。

「やあーっ!!」

 一声発すると、あかねは、かっと眼を見開き、溜めた気を一気に放出させて、乱馬に向って突進していった。 
 がっと鈍い音がした。突き抜ける拳を受け止める乱馬。
「でやああっ!!」
 息つく間を与えず、振り上げたしなやかな脚。乱馬はそれをも一掃する。
 二つの若い肉体が、道場で火花を散らせる。その一つ一つにほとばしる情熱。瑞々しいまでの闘魂。
 乱馬は己の肉体と精神が、研ぎ澄まされたように昂ぶってゆくのを肌で感じていた。それは熱き武道家の沸き立つ血潮。
 目の前の女体から怯むことなく打ち出される熱い拳と脚。いつしか彼は闘いに陶酔し、夢中になっていった。

 力の差は歴然としている。どう贔屓目に見ても、乱馬の方が数段、力も技もスピードも勝っている。彼が本気を出せば、勝負は瞬時に決するだろう。
 だが、乱馬はあえて一発勝負に出なかった。一発で終わらせるのは勿体ない。そう思ったからだ。
 昨夜とは明らかに違うあかねの動き。
 矢継ぎ早に繰り出して来る技。

 この道場で初めて手合わせた日の記憶が身体中に甦った。力任せにぶつかって来る、初めて対峙した長い髪の少女のあかね。目の前で長く後ろに流れる髪が、その記憶を揺り起こす。

…何が何でも自分のものにしたい…いや、しなければならない…。
 強く希(こいねが)った。

 彼女は己を強くさせる、そして、己には彼女が必要不可欠だ。求めていた己の半身。
 他の誰にも換え難い存在。

 乱馬はあかねの拳を交わしながら自分の内に潜在する熱い心を浄化させていった。
 あかねから次々と繰り出される拳や蹴りを、丁寧に受け止め、慈しむように彼は動き続けた。

…彼女の全てを受け止める。それができるのは俺だけだ!…

「はーーーーっ!!」
 あかねは渾身に気合を詰め込む。彼女の周りの空気が振動する。
「来いっ!」
 乱馬はあかねを挑発するように気概を吐いた。
「やーーーーっ!!」
 あかねは一気に息を吐くと、乱馬に向って突進していった。

 渾身の力を振り絞り、乱馬めがけて振り出す拳。生半可な受けではかわせない。
 武道の熱き闘志。乱馬は対してきたあかねに自分の持てる全ての力をぶつけ返した。
 二つの塊が道場で弾けた。
 それは一瞬の出来事だった。
 次の瞬間、あかねの身体は乱馬の激しい闘気に押し出されて、宙に舞い上がっていった。

 そして…。
 
 吹き飛んたあかねの身体に向って乱馬は無我夢中で腕を差し出した。あかねはその腕の中に抱きとめられる。
 二人はそのまま床に倒れこんだ。
 鈍い音がして、気の流れが停止した。
 勝負はあった。
 乱馬の上に覆い被さるようにあかねは守られて着地していた。乱馬が柔軟な受身を取ったので、床に弾き出されたものの、殆どダメージはなかった。

「相変わらず、荒っぽいな…おまえは…。」
 あかねの耳元で、勝者、乱馬の声がした。嬉しそうに囁いた。
「出会ったときと、なあんにも変わっちゃいねえ…。」
 乱馬は上体を起こした。そしてそのままあかねを腕の中に包み込むように引き寄せた。
 伸びて来た乱馬の二の腕は、あかねの背中にゆっくりと廻される。
「乱馬?」
 あかねは乱馬の胸板の中で小さく驚きの声をあげた。
 乱馬は何も答えずに、そっとあかねをその胸に抱き沈めた。そして静かに目を閉じる。
 瞼の裏に、今までの出来事が走馬灯のように巡り始める。
 初めて出合ったあの日の困惑。日を追うごとに惹かれていった想い。反発しながらも気付けば固くなっていた絆。二人で闘ったさまざまな死闘。
 あかねの存在があったからこそ、強くなり、鍛錬されていった乱馬。

 あかねは汗が滲み出る乱馬の腕の中にじっとしていた。ふわっと頭にかかる熱い吐息。
 激しいぶつかり合いで上がっていた息も、少しずつ緩和になってゆく。乱馬の胸から伝わる心臓の鼓動は、心地良くあかねの耳に響いてくる。温かく、優しい鼓動。あかねはその柔らかな音を聞きながら、身も心も優しさで満たされて来るのがわかった。
 強張っていた身体から力が抜けてゆく。あかねは乱馬に身体を預けた。
 その柔らかい身体を包み込むように乱馬はあかねを抱きしめる。

 やがて静寂が二人の上を舞い降りてきた。
 深々と道場の床板の上に横たわる静けさ。小さなコスモがそこには広がっていた。

 微かな衣擦れの音がして、ゆっくりと乱馬が口を開いた。
「あかね…ずっと俺の傍にいろ。おまえの全てを俺にくれ…。」
 それは乱馬の精一杯の求婚の言葉だった。凡そ似つかわしくない不器用な言葉の羅列。飾らない正直な心の囁き。それらは静かにあかねの心に浸透していった。
 ひと言ひと言があかねの心に響き渡る。

「それってプロポーズなの?」
 胸の中で、あかねが小さく問いかけた。
「バカ!あたりめーだろ!」
 
 待ち焦がれた言葉だった。
 気付くとあかねの頬を涙が伝っていた。
「乱馬…。」
 しゃくりあげた口からは続きの言葉が継げなかった。溢れる涙に阻まれて、声にはならなかった。
 出会ってから今日までの想いが堰を切って流れ出す。
 あかねは返事の代わりに、腕の中で首を縦に振った。何度も何度も…。そんないじましい半身を乱馬は更に力を入れて抱き寄せた。
 
…愛してる…

 抱き締めてくる逞しい腕がそう囁いているように思った。あかねは更に乱馬の腕に深く沈められた。やがて優しい大きな手があかねの頬にそっと伸びて来た。穏やかな笑顔が目の前に広がる。互いの心に秘めた想いを睦みあうように見詰め合う瞳は煌めきながら揺れる。
 心に穏やかな愛の輪が広がっていく。
「あかね…。」…「乱馬…。」
 互いの名前を心で呼び合い、永遠の愛を誓うためにそっと目を閉じた。

 深く合わさった唇。
 比翼連理の誓約(うけい)。

 一つの恋が成就した瞬間。
 二つの真摯な想いは、ようやく一つの形になる。





「やっと、プロポーズできたようね…。ホント、やきもきさせてくれちゃって…。」
 ふっと笑いながら、なびきは道場の壁から上体を離した。
 見上げた空にはぽっかりと蒼い月が浮かんでいた。春の宵の朧月。
「でも…これからが正念場なんでしょうけれど…。」
 なびきは脇の井戸へ瞳を落とした。白い封印の札が月明かりに照らされて不気味に光っていた。
「求愛した以上、あかねを守り抜きなさいよ…乱馬君。」
 そう心に念じながら、母屋の方へ入って行った。


 道場の中で、二人は佇み続ける。
 確たる絆が結ばれた若い二人を包みながら、淡い春の夜は、静かに更けていった。
 
 
つづく



一之瀬的戯言
 私の妄想では、乱馬はきっと道場で、手合わせしながらプロポーズするのではないかと…それを文章にした作品が何作かあります。
 中途で止まっていた元作は帰って早々の道場でプロポーズしたのを、この作品では、ワンクッション置きました。
 道場でのプロポーズって…汗臭いかなあ。鎖骨的プロポーズ…なんちゃって。



 


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