◆蒼い月と紅い太陽
第四話 想いの丈
一、
乱馬のおかげで、殆どダメージもなく、丸一日寝たら、翌朝にはすっかり元の身体に復調していたあかね。
「いってきまーす!」
朝ごはんを胃袋へ掻っ込むと、大慌てで出社して行った。
「で?朝まで、体力がもたなかったって訳?」
遅い朝食を摂っている乱馬の傍で、なびきがにこっと笑いかけた。
時計の針はとっくに正午を回っている。朝食というより昼食と化してしまっていた。
「うるせーよ!俺だって疲れてたんだよ!」
けだるそうに、投げかけられる質問へと答えた。
本当のところは、照れくささが作動したのだ。あかねが起きるまで待っていてやっても良かったのだが、起きぬけに彼女に何と声をかければ良いのか、迷ったのである。
それに、あかねが就職し、会社勤めしていることは、時折、居場所を掴んで連絡を入れて来る、なびきから聞きかじっていた。
あかねは彼女なりに、今の生活をしているわけで、そのペースを乱すのは、気後れしたのである。
無論、疲れていたのも、事実であった。
無差別格闘技のアジア大会の決勝戦の後、疲れを癒す暇(いとま)もなく、すぐさま帰国し、すったもんだに巻き込まれたのだ。
化け物との闘いでは、結構、気技を撃ったので、かなりの体力を消耗していた。
本当は倒れこみたいくらい疲れていたのを我慢して夜通し起きていた。それほど、あかねが心配だった。目覚めない彼女の傍に居てやりたいと思ったのだ。
夜が明ける頃に、自分の限界が来た。体力と眠さの臨界点。
春の太陽が昇って来る気配を感じて、彼女の傍を離れたのだった。そのまま、あかねの部屋に崩れるのは、はばかられた。眠りこけている己を観たら、あかねの方が驚がくするに違いない。
乱馬は意を決すると、自室へと倒れこんだ。
(後は、なびきやおじさんが、上手いことやってくれるだろう…。)
回らない頭でそう思った。
スーツを脱ぎ棄てると、ランニングシャツとズボンだけになり、なびきが準備してくれたという蒲団の上にそのまま、転がった。
目覚めると、昼を回っていた。
疲れと安堵から、久しぶりに、一気に爆睡してしまった。
武道大会の疲れもひきずっている。まだ、寝足りないと身体が睡眠を欲するが、そう、寝てばかりもいられない。目が開いたところで、一旦起きあがった。そして、眠い目をこすりながら、台所へと出て来たのである。
なびきは唐突に持っていたコップの水を乱馬の頭の上から浴びせ掛けてきた。
「冷めてえっ!何しやがんだ、このアマッ!。」
乱馬は濡れた髪を手で拭いながらなびきを睨み付けた。当たり前だろう。起き抜けに一杯の脳天水。
「ふうん…。ちゃんと呪いは解けたんだ。」
なびきは動じずに乱馬に言の葉を向ける。
「何じろじろ見てやがんでぇ…。たく…。」
乱馬は水をなぎ払いながらぶうたれた。今ので眠気も吹っ飛んだ。
「じゃ、これでいつでもあかねと祝言が挙げられるわけね…。」
くすくすとなびきは愉快そうに笑う。
「てめえには関係ねえだろ…。」
聞こえるか聞こえないかの声色で乱馬はぼそっと吐き出した。
「別に、プロポーズの相手は、あかねじゃなくても、シャンプーや右京、小太刀でもいいんでしょうけどさあ…。」
なびきはちょっと意地悪い言葉を乱馬へと投げつけた。
「うるせーよ!てめーは、俺が男に戻ったことだけ祝福しやがれ!」
「あら…あたしがあかねより先に祝福しても良いのかしら?」
ニヤニヤと笑う。
「おめーは仕事に行かなくて良いのか?」
乱馬は鬱陶しそうになびきへと問いかけた。
これ以上、余計な事を俺に突っ込むなとい言いたげだった。
「あ、あたしならお構いなく…。家でもパソコン叩いてたら、それなりに仕事はできるのよねえ。ささやかながらも社員も居るしねえ。」
となびきは笑った。
「それに…大事な仕事をこれからしなきゃならないし。」
乱馬が遅い朝食…いや、昼食を食べ終わるや否や、スッと書類を出してきた。
「何だ?こいつは…。」
怪訝な顔でなびきを見返す。
「あら…契約書よ。」
さらっとなびきが言った。
「契約書だあ?何の?」
「決まってるじゃないの…。あんたと我が社の契約書。あんたのマネージメントは、我が社で一手に引き受けてあげるわ。定款(ていかん)はここに詳しく書いてあるから、ざっと目を通したら、サインしてね。」
「何のこっちゃ!」
思わず、眼が点になりかけた。
「あら、余所のプロダクションより、我が社の方が俄然、有利よ。きめ細かいマネージメントにきっと満足してもらえるわ。それに…うちに任せておけば、何の心配も無く、格闘三昧できるわよ。」
とウインクしてくる。
「ギャラは定額にプラスして、賞金や仕事の出来高もちゃんと支払うわ。」
「だから…何で、おめーと契約しなきゃならねーんだ?」
乱馬は飲みかけの湯呑みをタンと置きながら、なびきへ対した。
「あんた、自分の置かれている立場がわかんない訳?」
「あん?俺の立場だあ?」
「ええ。曲がりなりにも、無差別格闘のアジア大会制しちゃった訳でしょう?そんな格闘界の新星を世間がほっとく訳ないでしょうが。
無名だった頃と違って、知名度も上がってきてるんだし…。今回だって、あたしが裏で手を回してなかったら、空港辺りでちょっとした騒動になってたかもよ。」
と言い切った。
「まさか…航空券の手配とか…してくれたのは…。」
「ええ、全部、あたしがやってあげたんだけど?主催者にかけ合って。」
とすんなり言ったなびき。
「じゃあ、あかねがやばいかもしれねえって情報も…。」
「あたしがおじさまにリークしたのよ。で、おじさまも私の指示通りにあんたに連絡入れたって訳。じゃないと、おじさまがあんたの居所をちゃっちゃと掴める筈ないでしょうが。」
「何で、そこまで手を回したんだ?」
「妹の危機には変わりないし。後であんたに恨み辛身言われたかないし…。」
恐るべし、なびき…であった。
「もし、他のプロダクションと契約したら、どうなるかわかってるわよね?」
悪魔の瞳が迫って来る。
「ど、どうなるんだ?」
「あかねとの結婚に、思いっきり波風立ててやるんだから。」
と、悪魔は不気味にむふふと笑った。
「あん?」
「あたしにだって、天道家の財産の相続権があるのを忘れないでね。あたしを裏切ったら、あんたもあかねもこの道場から放り出すわよ。で、道場はブッつぶして、マンションでも建てるかなあ…。」
こいつなら遣りかねない…恐々として乱馬はなびきを見やった。
「わかったよ…。妖の件が落ち着いたらサインしてやらあ…。」
ふうっと溜め息と共に、了承した。
「今よ。今じゃないとダメ。」
と突き返される。
「何でだよ…。まだ、帰国したばかりで落ち着いてないんだぜ?それに、化け物のことも…。」
と言い返したのを、制しながら、なびきが突っ込んだ。
「化け物のことがあるから、余計に急いだ方が良いのよ。ここでサインしてくれたら、早速、TNプロダクツとして、あんたのマネージメントを開始するわ。
まとわりついてくるマスコミの包囲網をシャットアウトしてあげるわよ。このあたしの腕でね。
そしたら、あんたは、全力で化け物と対峙できるでしょ?…それに、あかねとのことだって。」
とニヤッと笑った。
「あかねには関係ねーだろ?」
と素気無く吐き捨てる。
「プロポーズする気なんでしょ?」
鶴の一声だった。
「だから、その事は、てめーに関係ねーだろがっ!」
と真っ赤な顔をなびきへと手向ける。
「そんな悠長なこと言ってて、大変なことになっても知らないわよー。」
「大変なことって何だよ…。」
「あんたの周りやあかねの周りには、一筋縄じゃいかない連中が多いでしょうが…。皆、それぞれの思惑であんたの帰りを待ってるのよ…。
知らないわよー。とっとと意志だけでもはっきりしておかないと…。年齢が上がった分、争奪戦は熾烈を極めるかもねえ。」
明らかになびきは面白がっている口調だ。
乱馬は黙ってしまった。
確かに、自分たちの周りには、常識が通用しない連中が多すぎる。
まだ、誰も乱馬の帰宅は知らないだろうが、いずれ情報は彼女たちの耳にも入るだろう。
「鉄は熱いうちに打てって昔から言うでしょう?それとも、あかねにプロポーズする気はないのかな?」
「うるせーよ!てめーには関係ねえって言ってるだろがっ!」
不機嫌な顔をなびきへと向き返す。いくら、あかねの姉とはいえど、プロポーズの催促はいただけなかったからだ。
「あら、関係ないとも言い切れないわ。あんたのマネージメントを始めるにあたって、はっきりさせておいてくれないと…。あかねと先に婚約するか否かで、マネージメントの方向も変わって来るんだから…。」
「ああん?」
「格闘家はタレントにも勝るとも劣らない人気稼業だもの。する気があるなら、早いうちに婚約しておいてもらわないと…。後先になったら、婚約もなかなか出来ないわよ…。」
と脅すような言動を乱馬へと浴びせかけた。
「勘弁してくれよ…帰国早々…。こっちにだって、プランがあるんだから!」
乱馬が音をあげたのは言うまでも無い。
「じゃあ、契約書。」
「わかったよ!サイン入れるよ。たく…。」
ぶうぶう言いながら、乱馬はざっと定款に目を通すと、傍にあったサインペンで自筆サインを記入した。
「これで契約成立ね。ちゃんとフォローしてあげるから、せいぜい稼いでねー。」
なびきはルンルンと契約書片手に台所から出て行った。
「相変わらず、業突く張りな奴だぜ…。なびきはよう…。」
ふうっと大きな溜め息が乱馬の口から洩れた。
ニ、
「あかねさあ…何か良いことがあったの?」
お弁当を食べながら、同僚が笑った。
いつも社員食堂で一緒に食べるメンバーはそれとなく決まっている。
同期女子の紗枝と麻耶、それぞれ独身。あかねを加えての三人で、昼食を摂るのを常としていた。いずれも、痩身の今風な女性だ。二人とも、あかねより少しきつめに髪の毛を栗色に染めている。派手ではないが、地味でもない。
「特に良いことなんてないわよ。」
少しハッとしてあかねは箸を持つ手を止めた。
「何だか、今朝のあんた、いつもと違って、輝いて見えるから…。彼氏でもできた?」
と囁きかけてくる。
女の第六感は鋭い。特に、毎日、昼食を共にしている相手となると、その微妙な変化にも気付くのかもしれない。
当然、許婚が居ることは、内緒にしていた。
「…別に…。普段と一緒だけど…。」
「そう?何だかとっても、幸せそうな感じがするんだけど…。週末、デートでもしたのかなって思ったんだけど…。」
「デートなんてしてないわよ…。ずっと家に居たもの…。」
と打ち消す。
「ずっと家に居たの?こんな春の陽気に…。」
紗枝も麻耶も不思議そうにあかねを見やった。
「うん、いつもの如く、家事して道場で稽古して…。」
それは本当のことだ。
「あかねって、本当に彼氏居ないの?」
とずけずけと無遠慮に麻耶が尋ねて来る。
「男子独身社員や取引先の若い子の注目株なのに…。求愛されて、その誰かと、デートしたのかと期待したのに…。」
と今度は紗枝が笑った。
独身の女の子にとって、どうしても、身の回りの女子の動向が気にかかる。それはそれで仕方のないことだ。腹の探り合いとまではいかないが、それなり、人の恋路には興味がある。
二人にしてみれば、あかねに恋人が居ないこと自体が、驚異の的だった。
「彼氏作らないのは、何か、元彼との間にに嫌な思い出があるとか?」
などと、単刀直入に麻耶はあかねの間合いへと踏み込んでくる。
「べ、別にそんなこともないわよ。」
あかねは、笑って誤魔化しにかかる。
「そうそう、営業部の中堀さんがあんたのこと、気に入って紹介しろって、同じ部署のあたしに言ってきてるんだけど…。どう?中堀さん辺りで、そろそろ彼氏居ない暦を返上してみたら?年も四つ上なら、丁度良いんじゃない?」
と紗枝が言った。彼女は中堀の下で働いている。部下のよしみで、いろいろな話をしているようだ。
「確か、中堀さんって、空手有段者よねえ…。何度か日本一になってるって言ってたわ。あんたも空手やってるから、釣り合いとれて良いんじゃない?」
一緒になって、麻耶もすすめて来る。
「あたし、空手なんてやってないわよ。」
「えっと、じゃあ、柔道だったっけ?」
「無差別格闘よ。空手でも柔道でも剣道でもないわ。あえて言うなら、ごった煮のような総合格闘技。」
「あ、そうそう、そうだっけ。」
麻耶が笑った。
「無差別格闘で思い出したけど…。この前のアジア大会で、何てったっけ…。凄い新人の子が出たじゃん。」
と紗枝が目を輝かせる。
「すっごくルックス良くってさあ…年も、確か、あたしたちと同じくらいで。」
「えっと…調べてみるわ…。」
麻耶がスマートフォンを取って、検索を開始する。
「あっとこの人でしょ?」
「そうそう、その人!早乙女乱馬。ほらほら、やばいほどきてるでしょ?」
ピクンとあかねの肩が動いた。
こんなところで、乱馬の話題が出るとは思わなかったからだ。
「公式プロフィールもない新人だけど…なかなか良いわよねえ…。」
「ウンウン、絶対、格闘界のプリンスになるわよ。顔もイケてるじゃん!」
「へええ…年も二十二歳…っていうことは一つ上か同じ歳ね。」
と紗枝が頷く。
「彼女とか居るかしら…。」
「えっと、ここ数年、ずっと海外で修行していたらしいから…特に居ないんじゃない?」
「っていうか、この大会って無差別格闘だから…あんたがやってるのって、こっち系になるのよね?あかね。」
「あ…う…うん。まあ、そうね。」
とあかねは答えた。
「今度、夏に日本で世界大会があるってさあ…。」
「っていうか、早乙女乱馬のスポンサーに名乗りでるとか…企画担当者が言ってたわよ。」
「え?マジ?麻耶!」
「じゃあ、スポンサーになったら、当社に来るかも…。」
「きゃはっ!ちょっと楽しみぃ!」
「まだ、日本に帰国してからってことになるみたいだけど…。マネージメント会社も定まってないみたいだから…。」
紗枝と麻耶の会話に、聞き耳をたてながら、あかねはドキドキしていた。
勤めている会社がアパレル関係だから、スポンサーに名乗りを上げることも、何となく察しがつく。あかねの会社は、結構、武道関係者やスポーツタレントのスポンサーになって、選手を後押ししているのである。
というより、自分の知らないところで、乱馬が有名になりつつあることを知った驚がくが、彼女を襲い始めていた。
彼が帰国して、天道家に居ることなど、ここで公言できる筈もない。ましてや、自分がその許婚であることも。
三年前、彼が天道家を出る前に交わした約束があかねにはあった。
あかねの脳裏にその時の情景が鮮やかに甦る。「俺が帰ってくるまで待ってろ…。」そう言い残して修行へ出た乱馬。約束の証にと彼が残したシルバーの指輪。それは今もあかねの右手の薬指で輝いている。左手ではなく、右手に。
この指輪を見るたびに、くじけそうな自分に発破をかけてきた。
その生活が果たして終わりを遂げるのだろうか。
それは、まだ闇雲の中であった。
(昨日のキスだって…現実だったかどうか…わかんないのに…。)
そう。夢の中で乱馬がくれたキス。少なくとも、自分はそう思っていた。彼が帰宅していたという事実は、今朝になって、なびきに告げられるまで気付かなかった。
次に顔を合わせたとき、彼はどんな言葉を口にするのだろう…。
不安と期待があかねの中に往来する。
「あかね、あかねってば…。」
紗枝があかねを揺する。
「え?」
あかねはキョトンと彼女を見返した。
「ほら、そろそろ昼休みも終了よ…それから、中堀さんのこと、真剣に考えてみてよ。えっと、彼から伝言なんだけど…水曜の晩さあ駅前のカフェバーに行こうって誘っておいてってさ。」
「はい?」
あかねが紗枝を見返した。
「ん、どうしても、あんたと話してみたいって…。あたしと麻耶の同席なら良いでしょ?」
「ちょっと、待ってよ!そんなの勝手に決められてもっ!」
と叫んだが、麻耶に笑われた。
「あたしも、応援してるからさあ…。是非、彼氏居ない暦に終止符打ちなさい。天気の良い日曜日に家に居たんじゃ、青春台無しよ。」
「良いじゃん。中堀さんも結構イケメンだしさあ…。あたしも紗枝も彼氏誘って一緒に行くから。六人でトリプル晩御飯しようよ!」
「だから、勝手に決められても…困るんだってば!」
「何言ってるの!青春を謳歌しないとさあ!絶対よ!」
こうなると、半ば強引である。
「彼氏は確かに居ないけど…許婚が居るんだけど…あたし…。」
その後ろ姿を見送りながら、あかねは困惑していた。
「やっぱ、断らなきゃ…。」
どう、勘違いされたのか、彼氏が居ないと紗枝も麻耶も、勝手に決め付けているようだ。
気候のよい四月の日曜日に家に居る…その会話で、彼氏が居ないと思われても当然といえば、当然だった。
あちこちから言い寄られたことも多々あったが、全部、断っているあかねだった。
もちろん、許婚が居ることは誰にも告げていない。言ったとしても、取ってつけたようなウソだと、誰も信じてくれまい。
この会社の社長が、武道大好き人間らしく、社内には、柔道や剣道、合気道、空手の有段者男子社員がうようよしているのもまた事実だった。その中で、中堀はかなり上位にあると思われる。が…乱馬の野性味ある強さには足元にも及ぶまい。
確か、この前の花見の折に、中堀に、僕が君に勝ったら交際してくれないか…などと、酒の席で言われたことをふっと思い出した。
その台詞が九能先輩みたいで、シカトを決め込んだあかねだった。
「僕が君に勝ったら交際してくれないか。」その台詞に、高校入学当時の悪夢が甦る。
もし、中堀と遣りあったら、自分とどっちが強いだろう…。
そう思った時、彼と視線があった。にこっと微笑まれた。が、すぐさま反らした。
(どっちにしたって、あたしは交際する気はないものね…。)
受付の仕事へと戻る。
(でも、うちの会社が乱馬のスポンサーになるかも…だなんて…。)
武道好きの社長のことだ。まんざら嘘ではなかろう。
というより、乱馬が己の許婚だとばれたらどうなるのだろう…。そう思うと、少し怖い気がした。
何より、自分と乱馬がどう転んでいくのか…今のままでは、先にも行けないし後へも戻れない。
(三年かあ…三年も経ったのね…。あれから。)
ふうっと漏れる溜め息。
その日は定刻に上がって、いつもどおりに帰宅の途へ就く。
後ろに人の気配を感じた。中堀だ。
それがわかったから、わざと足を速めた。ずっとついてくるような気配。
(そういえば、中堀さん…いつもあたしの周りをうろうろしていたような…。いないような…。)
紗枝のおかげで、急に意識し始めた存在。
思い当たる節はいろいろあった。
飲み会の時や、お花見の時…そして、帰社した時のやりとりなど…。
二言目に、
「僕と付き合ってみない?」
と言われ続けていたことを、今更ながらに思い出したのだ。
あかねは鈍い。昔から、とっても鈍い。こと、自分へ向けられた恋愛感情に関しては…。
ホームへ滑り込んでくる電車の気配。
少しでも乱馬が居る天道家へ帰りたい…そう思ったあかねは、思い切りダッシギリギリで電車へと駆け乗る。とプラットホームからこちらを見詰める瞳と視線が合った。中堀であった。
その瞳は、あかねをじっと追っていた。
何故だろう。少しばかり、うすら寒さを感じた。
(な…何?今の感じ…。)
妙な気配だった。
どこかで感じた気配と似ている…。天道家に居る時、時々感じた嫌な気配。
(まさかね…。)
走り出した地下鉄。ごうごうと音をたてながら、地下トンネルへ潜って行く。
三、
家に近づくにつれ、足取りは速くなるというものの、どことなく不安が大きくなり始める。
乱馬が待つ家。彼と言葉を交わしていない現状。
いったい、どんな顔で彼と相対すれば良いのだろう。
三年という月日の中に積み上げた不安と期待があかねの中に往来する。
天道家の門戸の前まで帰って来て、一瞬、立ち止った。
乱馬と三年ぶりに再会する…。その緊張感があかねを襲った。
三年前、彼が天道家を出る前に交わした約束。その時の情景が鮮やかに脳裏に甦る。
『俺が帰ってくるまで待ってろ…。』
そう言い残して出かけた乱馬。約束の証にと彼が残したシルバーの指輪に目が落ちる。ふうっと息を吐き出し、意を決する。
「ただいまー。」
平然を装って、門戸を入る。
夕闇が降りてきて、電灯が灯っている。
今夜の夕食当番はなびき。玄関を見渡して、姉の在宅を確認する。台所から美味しそうな匂いが漂ってきている。
なびきが夕食を作れない日は、早雲が作ってくれている。それでも駄目な日は、かすみに頼むか、あかねが店や物を買って帰る。
玄関の三和土(たたき)を上がると、奥から出て来た乱馬と視線がかちあった。
一瞬、戸惑いの表情を浮かべる。彼が帰って来たというのなら、迎えに出てきても自然であったが、唐突に顔を突き合わせると、どう、話しかけて良いか言葉に詰まった。
そんな、あかねの心情を知ってか知らずか、乱馬の方が声をかけて来た。
「すぐ道着に着替えて道場へ来いっ!いいな。」
靴を脱ぐや否や、乱馬は突っ慳貪(つっけんどん)な口調であかねに命じた。そう言い残すと乱馬は廊下の奥へと消えた。
「何?いきなり…。」
戸惑いがあかねを襲う。
もっと甘い遭遇を期待していただけに、彼の突っ慳貪な態度は一瞬で心を硬くした。まるで高校生の頃の自分に立ち戻ったように、勝ち気な性格が首をもたげて来る。
「たく…久しぶりに会った許婚に、最初にかける言葉が道場へ来い…なの?」
憤慨し始めていた。
自分の部屋へ上がって、早速、あかねは道着に召しかえた。
無論、殆ど毎日、道着に袖は通している。
帯をぎゅっとしめて、道場の方へと足を進める。
いったい何を始めるというのだろう。あかねの心には迷いと不安があった。
まだ、冷たい階段と廊下を、裸足のまま降りる。途中通る渡り廊下。ヒヤッとした風が通り抜ける。井戸端も見えた。怪しの気配は既になく、新たに貼られたお札が見えた。
(昨日の化け物騒動も落ち着いたみたいね…。そのこともまだ教えて貰って無いから、ちゃんと聞かなきゃ…。)
そんなことを考えながら、道場へと向かう。
蛍光灯の明かりに照らされた道場には、先に乱馬が座っていた。彼もまた純白の道着姿。厳かに座禅を組んでいた。乱馬の背中があかねにはとてつもなく大きく見えた。
…乱馬…。
乱馬は座禅を組みながら、静かにあかねを待っている。
発する気は、半端なく大きく感じられた。それは、彼の成長を物語る。
大きな気が乱馬の周りを静かに取り巻いていた。穏やかさの中にある強く激しい闘気。一瞬だったが、戸口で見惚れた。
同じ武道に身を置く者として、あかねは彼の姿に好奇心を抱いた。
(どのくらいあんたが強くなったか…確かめてあげるわ!)
勝ち気な心がそう吐きつける。
「来たか。」
と後ろ向きのまま、乱馬はあかねへと声をかけた。
「言われるままに、道着に着替えたわよ。」
あかねはきつめに言った。
ただいまの挨拶よりも稽古が先。乱馬らしいとは思ったが、あかねは納得していないようだった。
「で?稽古でもつけてくれるつもり?」
あかねが畳みかける。
「ああ…俺が居ない間に、おめーがどのくらい、鍛錬したか見てやるぜ。」
にこりともしないで返答してきた。
一礼して、相対(あいたい)する。
正眼に身構えただけの乱馬。だが、明らかにそこに構える彼は、あかねの知っている乱馬ではなかった。
三年という月日が、否(いや)が応にでもあかねの上に重く圧し掛かってきた。
一回り、いや想像を超えて彼は強靭になっている。肉体だけではなく、精神的にも。我武者羅に突き進んでいた昔の彼とは違い、静かだがその内に潜む闘気は半端ではない。
あかねは一瞬のうちに見抜いていた。
(気を引き締めて戦わないと、怪我をするかもしれないわ…。)
畏怖心が身体を突き抜けて来る。
到底叶う相手ではない。レベルが違いすぎる。
「おい。何ぼんやりしているんだ。臆したか?それとも、修行してなかったのか?」
仕掛けて来ないあかねに、わざと闘志を震わせるような言葉を吐きつけた。
プッツンとあかねの中で想いの糸が切れた。
乱馬の言葉に背中を押されるように、対戦の火ぶたは切って落とされる。
「行くわよっ!」
そう吐きつけると、無我夢中で乱馬へと飛びかかっていく。
拳を切る音、空を舞う音、弾け飛ぶ気合と闘気。
我武者羅で身体を動かし続ける。
その一つ一つの動作を、涼やかな顔をしてやり過ごす乱馬。
かわされても、かわされても、あかねは攻撃の手を緩めることなく、拳や蹴りを撃ち込んで行く。
どの道、レベルは違いすぎる。ならば、下手な細工は要らない。攻めて、攻めて攻めまくる。攻撃こそ最大の防御。
その信念で、突き進むあかね。
そのまま、数分、動き続けたろうか。
だんだんに、息が途切れて来るあかね。全力で踏み込み続けるのだ。体力の限界が見えて来るのは仕方があるまい。
対する乱馬は全く息も切れていない。期待した寸分の隙も、見せてはくれなかった。
それでも、必死で繰り出したコブシ。乱馬の脇を掠めて空振りで終わる。バランスを失いかけ、つんのめりかけ、手を掴まれた。途端、身体が回転して空に舞う。
ダンッ!
板が弾ける音がして、床の上に投げ出されていた。
ハアハアと激しい息が漏れる。汗が額から浮き上がってくる。
「どうした?もう終わりかよ。」
乱馬は上から覗き込んで来た。
これ以上、突っかかる気はないのかと問いかけたのだ。
あかねは立ち上がれなかった。悔しいが、認めざるを得ない。乱馬と自分の力の差を。
「…どんなにあがいても勝てっこないわ。」
弱気の言葉が口を吐(つ)いた。
「おまえらしくねえなあ…。俺が居ない間に弱くなっちまったのか?髪の毛だって女の子みたいにのばしちまって…。」
乱馬は素っ気なく言葉を投げて来る。
「何よ…その言い方。人の気も知らないでっ!」
大人げなく、溜まらず反応してしまったあかね。
髪の長さを乱馬に指摘されて、プッツン来てしまったのだ。
「この髪だって…何でのばしてきたか知らないクセに…。」
「あん?髪をのばすのに理由なんてあんのか?」
などと、不用意な言葉の追い打ち。
「あるわよっ!大有りよっ!あんたが無事でいてくれますようにって、願を掛けて切らずにきたのよ。悪い?」
それは本当のことだった。延び行く髪が乱馬のいない空間に流れた時を物語っている。短かった髪は腰にまで達しようとしていた。
「こんなにのびるまで私のことを待たせたくせに…。乱馬のバカッ!!」
あかねの目から、一粒、涙が流れ落ちた。
感情の激流は止まることを知らずに流れ出す。
乱馬は黙って、あかねの流れる髪の毛を見つめていた。その瞳は柔らかな輝きに満ちていたことを、あかねは感じることができなかったろう。
「乱馬のバカッ!バカバカバカッ!」
あかねは道場から駆けだしていた。居たたまれなくなったのだろう。
その背中を無言で見送る乱馬。
本当は、愛しい背中へ追いすがりたい。…が、湧き上がる感情をコブシと共に握りこみ、ぐっと我慢する。
ふうっと、特大の溜め息が口から洩れた。
「ほんと…あんたらしくないっていうか…あかねをわざとたきつけたの?乱馬君…。」
なびきが背後から声を掛けて来た。二人様子を覗き見していたのだろう。
「たく…。こそこそ覗きに来やがって…。」
乱馬は振り向きもせず、吐き出した。当然、彼はなびきの侵入に気付いていたようだ。
「あら…、だって気になるじゃない。」
「人の恋路の邪魔はするなっつーのっ!…そこのクソ親父も出て来な!」
乱馬はそのまま、ジロリとなびきの反対側を見据えた。カーテンが揺れて、姿を現す乱馬の父、玄馬。
「クソは余計じゃわいっ!父親をクソ呼ばわりするな、クソ息子!」
「まあ、おじ様まで潜んでらしたの?」
なびきが笑った。
「どいつもこいつも、あかねと俺の対峙は見世物じゃねえっつーのっ!」
不機嫌に吐き出す。
「もしかして、あたしたちの気配を感じたから、あかねを怒らせたの?」
なびきが問い質す。
「まさかっ!わざわざそんなこと、やんねーよ!てめーらの気配のせいじゃねー。もっと別の嫌な気だよ。」
と乱馬は吐きつけた。
「別の気配?」
「ああ…今、ここにある訳じゃねーが…。あの、化け物と同じ気配だよ。」
「どこにあるの?そんな気配。」
「…あかねをつけ狙う下衆な気配だよ。家に帰って来たあいつの周辺から漂っていたんだよ。まあ、臭いが浸みこんでいたというか…。」
「何で、貴様に化け物の臭いがわかるんじゃ?おまえは犬か!」
玄馬が吐き捨てた。
「獣のてめーに言われたかねーよっ!多分、これのおかげだろうさ。」
乱馬は早雲に貰った破魔の数珠をポケットから取り出した。
「ほう…天道君から預かった数珠か。」
玄馬が言った。
「ああ…。人間の中に取り込まれた玉が活動を開始すると、微かに反応するらしい…。おじさんが言ってた。」
乱馬はまざまざと玉を眺めながら言った。
「ということは…。」
「あかねを狙う憑依玉の一つが目覚めたようだぜ…。数珠玉がそう告げてる…。」
難しい顔をしながら、乱馬が言った。
「わしらにはわからんが…。」
玄馬は首を傾げながら、数珠を見渡す。
「その玉とあかねを怒らせたのは関係がある訳?」
なびきが核心を尋ねて来た。
「まあな…。あいつは、直情型だからな…。まさか、髪の毛のことであそこまで激高するとは思わなかったけど…。」
ぼそっと吐き捨てた。
「全く、おまえは乙女心を、ちっとも理解しとらんようじゃのう…。」
玄馬が腕組みしながら、乱馬をちら見した。
「てめーに言われたかねーよ!親父にわかるのかあ?乙女心とかよう?ええ?」
ぶすっとした表情で乱馬は父親を睨みかえした。
「まあ…あかねがあんたの無事を願って髪を切らずにいた…ということは、あたしは理解できるわ。一種のゲン担ぎなんでしょうねえ…。ま、あーんなにのびるまで、あかねをほったらかして修行していたあんたには、わかんないかもしれないけどね。」
「生ぬるい決意で三年間、あいつと離れて修行してたわけじゃねーつーのっ!たく、好き勝手言いやがって…。
…まあ、そいつは良い。これで、あかねは隙だらけになったし…。玉のヌシも、そお遠からず、いぶし出せると思うぜ。」
乱馬はフッと笑った。
どうやら、何か考えがあって、わざとあかねを怒らせたようだ。
「やっぱ、あんたらは、名うてのツンデレカップルよねえ…。」
くすっとなびきが笑った。
「何だよ。そのツンデレってのは!ツンドラの親戚か?」
乱馬が問い返した。
「ツンツンとわざと冷たくするのと、デレデレっと熱くするのを繰り返すカップルのことよ!」
「おいっ!俺とあかねは三年も離れてたんだぜ!いつデレっとしたんだよ!」
乱馬が怒鳴り返す。
「そうじゃのう…。三年離れていたんじゃから、ツンツンカップルじゃないのかのう?なびき君。」
「ざけんなっ!」
コツンと玄馬に軽くゲンコツを加える乱馬。
「あら…。昨夜、あかねにただいまの濃厚キス、してあげたんじゃなかったっけ?それをデレデレって言わずに、何て言うの?」
じと目でなびきが乱馬を見返した。
「乱馬よ、おまえ、そんなことをしてたのか?」
「なっ!見てたようなこと言うんじゃねーっ!」
乱馬は真っ赤になってなびきを睨んだ。
「ふふふ…図星か…。やっぱ、あかねとキスしたんだ…乱馬君。」
「べ、別にどうだって良いだろ?そんな些細なこと!」
「ほほう…ちゃんと、やることはやっとるか。結構、結構、わっはっは!」
玄馬がつられて笑った。
「う…うるせー!とにかく、あかねを煽ったのは、玉を憑依させた奴の登場を狙ってのことだ!てめーらは、絡んで来るなよ!絶対、俺とあかねの間を邪魔すんなよ!」
「誰が邪魔なんかするもんですか。アホらしい…。ま、あれだけツンツンしちゃったんだから、今度はデレデレしてあげなさいよ。じゃないと、プロポーズまで一気に持って行けないわよ。あの子、一回ヘソ曲げたら、手強いわよ。」
なびきが笑った。
「だから!人のプロポーズはほっとけっつーのっ!」
「まあ、せいぜい頑張るんじゃな。」
玄馬もエールを贈る。
「言われるまでもねーっつのっ!とにかく邪魔はすんなよ!わかったな、親父っ!なびきっ!」
乱馬はドスドスと足音をたてながら、道場を出て行ってしまった。
「ま、優柔不断は、修行中に治したみたいね…乱馬君。」
なびきが笑った。
「もっとも…奥手は奥手のようじゃがな…。」
「奥手も治ってきてるんじゃないかな?おじ様。」
「どうしてそう思うんだい?なびき君。」
「奥手な人間が、ドサクサに紛れて、ちゃっかりキスしちゃう…と思う?」
「やっぱ、夕べ、あかね君の部屋を覗いておったのかね?なびき君は…。」
「うふふ、企業秘密よ。」
口に手をあてて、なびきは笑った。
こんな「家族」に囲まれているのである。
乱馬の苦労は果てしなく続く様相を見せ始めていた。
「簡単にプロポーズまで持っていけそうにねーよな…。やっぱ…。」
ふと漏れる溜め息。
「三年も離れちまっていたからな…。そっか…あいつのロングヘアーは俺への想いの丈の長さか…。」
溜め息と共に、少しだけ笑顔がこぼれる。
「とにかく…化け物を完全に倒さねーと…。あかねと契りも交わせねーか。」
ぎゅっとコブシを握った。
ふと見上げた空には、ぽっかりと蒼い月が浮かんでいた。
つづく
一之瀬的戯言
おまけ
乱馬「TNプロダクツってどんな会社なんだ?」
なびき「あたしが立ちあげた、総合芸能プロダクション会社よ。」
乱馬「何で、そんな名前になったんだ?」
なびき「九能ちゃんの帯刀のTとなびきNの頭文字をとったの。」
乱馬「何で九能の名前がそこに出て来るんだよ?」
なびき「だって、百パーセントの出資者ですもの。」
乱馬「出資者イコール金づるかよ…。でも、良く考えたら、天道なびきの頭文字じゃん…TNって…。」
なびき「自由に発想してくれて良いわよ。」
乱馬「何か、てめーら、水面下で付き合ってんじゃねーのか?」
なびき「企業秘密♪」
乱馬「勝手にやってろ!」
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