◆蒼い月と紅い太陽

第三話 乱馬の帰還

一、


「ら…乱馬…帰って来てくれたの…。」

 己の前に飛び込んで来た背中に、懐かしいおさげが揺れているのをぼんやりと認めた。そして、そのまま、あかねの意識はフッと遠のいて行った。黒い煙の邪悪な瘴気に中(あ)てられて、意識を失ったようだ。

「あかね君っ!」
 玄馬が慌てて、倒れかけたあかねを抱きとめる。
 あわや、地面へ。玄馬は、あかねを抱きとめ、ふうっーと息を吐きだした。
 

「親父っ!あかねを頼んだぜっ!怪我させたら、ただじゃおかねーからなっ!」
 乱馬は背中越しに、父・玄馬へと吐き捨てた。

「誰に向かって言っておる!あかね君に傷一つつけんわ!それより、油断するな!」
 玄馬は突然現れた息子へと、声を張り上げた。そして、あかねを守るように腕に抱きとめる。
 親友の娘にして、息子の許婚。それがあかねだ。
 戦いの最前線へ出ないにしても、あかねを守らねばならない。いつもはおちゃらけている玄馬も、今回は至極、本気になっていた。


『小癪な人間どもよ!』

 井戸の邪気は、そう吐き出す。じわじわと間合いを詰めながら、どう攻撃するか、考えているようにも見えた。

 実体ではない気体だ。それを相手するのは、容易ではない。
「乱馬君、これをっ!」
 立ちあがった早雲が、持っていた物を乱馬へと手渡した。大小の丸い玉が連なった数珠のようなものだった。掌にかけられるくらいの大きさの物だ。
「これは?」
「破魔の数珠(じゅず)だよ!」
「でも、それはおじさんの物じゃあ…。」
「ワシなら大丈夫じゃ。同じ物をもう一つ、持っておる。」
「わかった!で?具体的に俺は何をすればよいんだ?おじさん。」
「襲ってくる煙を、気技を撃ちまくって粉砕してくれたまえ!その間にワシはあやつを封印する。」
「連携プレーって訳だな!」

 頷き合うと、早雲と乱馬は、はっしと井戸を睨んだ。

「来るぜっ!」
 乱馬の声と共に、気煙がぶわっと目の前に襲いかかって来る。

「猛虎高飛車っ!」
 乱馬は得意の気技で、煙を粉砕しにかかる。
 バッと目の前で黒い煙が弾け飛んだ。

 背後の井戸は、ジジジと嫌な音をあげながら、くすぶっている。

「おじさんっ!あの井戸が元凶じゃねーのか?だったらあれを壊せば…。」
 乱馬ががなった。
「いや、あれを壊す訳にもいかないのだよ。井戸を壊せば、封印できなくなってしまう!井戸へ奴を封印するのが一番良いのだ。」
 早雲は答えた。
「封印?」
「ああ、このお札で。」
 早雲は手にしたお札を乱馬の前に差し出した。
「我が家に古くから伝わる、破魔の札だ。」
「あいつを井戸へ押し込めて、その札を井戸蓋にはっつければ良いのか?」
「その通り。乱馬君、封印はワシがやる。君は、存分に煙を粉砕してくれ!」
「わかった、言われたとおりやるぜ!」
 乱馬は頷くと、さっと早雲から離れた。

 と、煙が再び、井戸の底から湧きあがって来る。

「しゃらくせーっ!」
 乱馬は、身構えると、再び、猛虎高飛車を放つ。
 そして、煙を粉滅するのだ。
 が、相手も、一度や二度の攻撃で粉砕できるほど甘くは無かった。

 時間を置くと、再び、井戸端からせり上がって来る、不気味な煙。
 湧きだす毎に、猛虎高飛車で狙い打つ。

 それを繰り返すこと、十数回。

「ちぇっ!根競べか!」
 煙は乱馬が疲弊するのを待っているようで、本気で仕掛けて来ない。乱馬も思い切り打ちまくっていたら、肝心な時に力が入らないと、適当に気を抜いてはいたが、何度も猛虎高飛車を浴びせかけるうち、息が切れ始めていた。

(不味いな…このままだと…。)
 乱馬はぐっと、考えを巡らせた。
 このままだと、いつか、気力を使い果たしてしまう。何か戦法はないものかと、考え始めたのだ。
(こんな、相手主導の受け身のような攻め方じゃ、ダメだな…。いっそのこと、もっと激しい攻撃を奴に食らわせなきゃ…意味がねえ…か。)

 闘い慣れた乱馬にとって、格闘の最中でも、様々、思考を巡らせる。同じパターンの攻撃ばかりだと、相手の思う壺になることも、十分に承知していた。

(一か八か…こちらから最大級の攻撃を仕掛けるか…。)

 意を決すると、乱馬は背後の早雲の方へと自ら近寄った。

「おじさんっ!井戸枠さえ壊れなければ、大丈夫か?」
 こそっと話しかける。
「ああ…。」
 と早雲が答える。
「じゃ、井戸の中を直接攻撃したってかまわねーよな?」
「直接を攻撃する?」
「このままじゃ、埒があかねえ!一気に井戸の中を叩くから、その隙に乗じて、おじさんは井戸に蓋して、封印してくれ。多分、それが手っ取り早いと思うぜ。
 これ以上長引いたら、俺の力も尽きるかもしれねえ…。」
 
 早雲は暫く考えていたが、中から出て来る煙を待っての攻撃だけでは、いずれ、乱馬の力も尽きてしまうのは目に見えていた。

「あいわかった。攻撃方法は君に任せよう。井戸枠だけは、絶対に壊さんでくれたまえよ。」
「じゃあ、今度奴が出てきたらそいつを粉砕して、それから思い切り上空へ飛んで、中へ直接襲いかかる。後は頼んだぜ!おじさんっ!」

 乱馬は早雲から離れると、動きを止めた。そして、丹田へと気を集め始めた。二段構えの攻撃だ。それ相応の気を集めなければならない。しかも、絶妙なコントロールで気を繰りださねば、己がやられてしまう。
(見てろっ!一気に決着をつけてやる。)
 そう、決意を固めると、じっと、井戸の方を見据えて、身構えた。


 武道家の気が、気炎を噴きだして上昇していく。
 背後で玄馬は、思わず、唾を飲み込んだ。

(…かなり腕をあげたな…乱馬よ。)

 一回り大きくなった息子、乱馬。

 父としてというよりも、武道家としての興味がもったりと頭を上げてくる。視線を乱馬へと投げつける。

 天道家を後にした頃よりも、分厚くなった胸板がシャツの合間から見え隠れする。首も太くなった。きっと、手も足も、鋼鉄の筋肉で埋め尽くされていることだろう。
 瞳の輝きも、鋭さを増したように思う。
 
「あかね君のことはワシに任せて、存分にやれ!バカ息子っ!」
 とエールを送った。

「ケッ!バカは余計だ!バカ親父っ!そっちこそ、しっかり、あかねを守っとけよ!」
 乱馬は吐き出した。

 シュルシュルと不気味な音をたてながら、煙が井戸から湧きあがって、こちらの様子を伺う様が、結界内の玄馬のところからでもはっきりと見える。


 一体、あの煙は何なのか。
 事情を詳らかに知らされていない乱馬は、はっしと睨んだ。
 人間ではないことだけは確かだ。井戸に巣食っていた魔物…そんな言葉が似合いそうだ。何故、天道家の井戸に、そんな物騒な物が居るのか。
 皆目見当はつかない。
 無論、早雲や玄馬にはわかっているらしい。
 ただ、一つだけ明らかだった。奴はあかねを狙っている。


 煙は再び、井戸から湧きあがった。
 乱馬は待ってましたとばかり、猛虎高飛車を撃ち込んで、そいつを粉砕する。
 煙が気弾を撃ち込まれて粉砕した途端、間髪いれずに、高く乱馬が飛び上った。

「でやあああーっ!」
 渾身の気で、乱馬は一気に井戸の中へ向けて、気砲を打ちおろす。

 光り輝く気の砲弾。そして、井戸の中から、水が噴き上がる。

「グワアアアアッ!」
 得体の知れない吠え声が、井戸の底から聞こえて来た。
 乱馬に撃ち込まれて、悲鳴でもあげたような、不気味な轟音。

「おじさんっ!今だっ!」
 その機に乗じて、早雲は、自ら開けた井戸蓋を両手に持ち、井戸の上へと塞ぎにかかった。

「悪鬼封印っ!」
 
 ペタペタペタ…。

 掛け声と共に、一度に数枚のお札が井戸蓋へと貼られていく。

『ふん…もう遅いわ。我が、分身の術は既に発動させた…。』
 井戸の中から、負け惜しみとも取れそうな魔物の声が響きだす。
『少しだけ時を与えてやろう。…せいぜい、短い春を楽しんでおけば良かろう…。ふふふふふ。』
 声は暫くして、止んだ。
 身体中を耳にして、井戸の気配を追っても、何も感じられなくなってしまった。



「ちぇっ!奴め、負け惜しみを!」
 乱馬が吐き出す。

「いや…あながち、負け惜しみを言っていた訳ではなさそうだよ…。」
 早雲が眉間にしわを寄せながら、それに対した。

「封印に失敗したのかね?天道君…。」
 玄馬が問いかけると、早雲は真っ直ぐにそれに答えた。
「封印はできた…。だが、あくまで奴の本体をそこへ閉じ込めただけのことだよ、早乙女君。」
「おじさん、それはどう言う意味だ?」
 乱馬が脱ぎ捨てた背広を拾い上げながら問いかけた。

「これを見たまえ。」
 そう言いながら、早雲は、地面を指差した。
 
 そこへ視線を落とすと、数珠玉がバラけて転がっているのが見えた。

「これは…。」
 乱馬がハッとして早雲を見返した。
「ああ、さっき君に渡した破魔の数珠と同じものだ。ワシが持っていたものだよ。」
 と早雲が静かに言った。
「でも、こいつには、大きな玉が無いぜ…。小さい玉ばかりだ。」
 己の手にした数珠と見比べながら、乱馬が吐き出した。
「だから、問題なのだよ。」
「どういうことだい?天道君。」
 早雲が尋ねた。
「さっき奴が言っていたろう?分身の術を発動させたと…。恐らく奴は、大玉に身を遷し、転変した…。」

「転変?」
 乱馬がきびすを返すと、早雲が答えた。
「つまり、己の身の一部を玉に憑依させ、それごと、どこかへ飛ばした…。」

「どこだい?どこへ飛ばしたんだい?天道君。」
 玄馬が問いかける。

「恐らく…誰かの身体の中へすっぽりと入った…。現に奴は、玉を依代に憑依の術を使う…と家伝にも書き記されている。
 大玉は全部で七つある…違うかね?乱馬君。」
 早雲は乱馬へと声をかけた。
 乱馬は促されて、自分が手にしている数珠にある大玉を数えた。
「確かに…七つある。」
「ということは、七人の人間へ玉は吸い込まれたとみてよかろう…。」
「七つに分化したってことかい?天道君。」
「ああ…、少しずつ別の気を孕んで、七人の人間へ憑依したとみて間違いあるまい…。かつて、奴が江戸を跋扈していた時代も、そうやって、術者の目を眩ませたと、言い伝えられている。」

「言い伝え…家伝…。何か?おじさん。そいつは、そんな昔からここへ封印されていたってことか?」
 乱馬が驚いて早雲へと問いかけた。

「ああ…。我が天道家は、その封印井戸を守るために、この地に居を構えたんだ。」
「その化け物の正体とは何なんだ?」
「大江戸に棲んでいいたヌシだよ。江戸を造った天海和尚に、龍穴へ放り込まれ封じられた暴れ龍だ。」
「暴れ龍だあ?」
「奴に関しては、いろいろ言われていてね…実のところ、詳しくはわからないんだよ。何しろ、江戸幕府が倒壊したときに、文書も無くなってしまったらしくて…。よしんば残っていても、先の大戦の空襲で東京は一度、灰塵に帰している。
 資料は散逸してしまって久しい…。」
「雲をつかむような話だな…。」
 乱馬は黙り込む。
「大丈夫、対処法は、天道家にも伝わっているからね…。それによると、不幸にして奴が分身の術を発動してしまったら、飛び散った七つの玉を集めれば良い…。」
「玉を集める?」
 乱馬が問い返した。
「ああ。奴は、人間の欲望や弱さに付け入って人間に憑依するらしい。そして、憑依された人間は必ず…どんな形にしろ、標的にした人間…つまり、あかねを狙って来る。」
「あかねを狙う…。」
 乱馬は玄馬が抱いたまま気を失っているあかねを見やり、複雑な表情を手向けた。

「あかねを襲ってくる人間を倒し、七つの玉を集める…。それが我々に課された第一の使命だ。」
 早雲は、静かに乱馬へと言葉を継いだ。
「帰国早々、君まで巻き込んでしまって悪いのだが…。」

「いや…。そうも言ってられねーだろ?」

「で?乱馬よ…。おぬし、ここへ戻って来たということは…結論は出ておるのか?」
 玄馬が問いかけた。
「結論?」
 乱馬はきびすを返した。
「じゃから…あかね君とのけじめはどうつけるつもりなのじゃ?」
 率直に尋ねて来た。

「んなの…親父には…。」

「ワシらに関係ないとは言わせんぞ!」
 玄馬が息子の言葉を遮るように吐き出した。。

「関係無いとか言わねーよ!でも、物事には順番ってのがあるだろうがっ!」
 真っ赤になりならが、乱馬が怒鳴った。

「順番のう…。」
 ニヤッと思わせぶりな笑顔を息子に手向けた。

「と、とにかく…。あかねは俺が守る…。この命を賭(と)してでも…。」
 貸せと言わんばかりに、乱馬はあかねを玄馬から引き剥がす。そして、己の腕へと抱きとめた。いわゆる、お嬢様抱っこと言われる態勢だ。

「あかね君がおぬしの許婚じゃからか?」
 玄馬はまだしつこく食い下がった。

「許婚以上の存在だっ!」
 そう吐き捨てると、母屋へ向かって歩き始めた。余計なことは話しかけるな…背中がそう言っていた。

「許婚以上ねえ…。ま、ようやく、重い腰を上げる気になった訳か…。」
 玄馬はその後ろ姿を見送りながら、ふっと笑った。
 その後ろ側で、複雑な表情を浮かべた早雲が立っていた。
「という訳じゃから、天道君…暫く、乱馬は君の家で寝泊まりさせてやってくれんか?」
 玄馬は、早雲へと声をかけた。
 その言葉にハッとして、早雲は慌てて頷く。
「ああ…そうだね。あかねを守るためには、乱馬君にも近くに居て貰った方が、心強い。」
 と。


ニ、

 乱馬に抱きあげられたまま、自室へと運び込まれる。
 道着のまま、ベッドへ寝かせた。


「乱馬君も疲れてるんじゃないの?ご飯くらい食べたら?」
 となびきが、ひょいっと顔を覗かせた。
「いや…俺ならここへ来る前に食べて来たし…。」
「汗は流さなくて良いの?風呂も沸かしてあるわよ。」
「後で良いよ…。」
「そっか…。まだ、あかねの目が覚めないものね…。心配なんだ。」
「当り前だろ?」
 面倒くさそうになびきに応える。
「あんたの蒲団、ここへ敷こうか?」
「いいよ…別に…ここで寝る気はねーから…。」
 ボソッと吐き出す。
「ま、勝手知ったる天道家(うち)だから、あんたがしたいようにすればよいわ…。お父さんも、暫く家に滞在したら良いだろうって。あ、以前にあんたが使ってた部屋を、あたしが掃除してあげたから。」
「てめー、まさか、掃除した手間賃、幾らか寄こせとか言わねーだろーな?」
 乱馬が怪訝な顔をなびきへ手向けた。
「まさか!…妹の危機に際して、そんなせこいこと言わないわ。もちろん、手間賃無しにまけてあげるわよ。」
「お、おいっ!危機じゃなかったら、しっかり取るつもりだったんじゃねーのか!おめーは…。」

 なびきとの軽い会話で、天道家へ帰って来たことを実感する。思わず苦笑いがこぼれる。

「当り前よ…。…よくも、長らく妹をほったらかしてくれたわねー…って倍額取ったって良いんだから。」
「人の足元見るなっつーのっ!」
「ホント、薄情よねえ…。三年以上、許婚をほったらかして…。」
「うるせーよ。だから目が覚めるまで、ここに居てやりてーんだよ!」
「はいはい…、お邪魔虫は消えるわよ…。せいぜい、あかねが目覚めたら、優しくしてあげなさいよ…。三年も待たせたんだから。」
 そう言いながら、なびきはドアを閉めた。
「てめーに言われるまでもねえっつーのっ!」
 そう吐き出して、アカンベエをしてみる。

 二人取り残される、あかねの部屋。

 高校の頃から比べると、少しばかり、調度品が変わっている。ベッドや本棚は以前のままだが、勉強机が無くなっている。代わりに、ドレッサーが増えていた。
 ふと瞳を反らすと、ベッドの脇には、ずっと以前に自分がプレゼントした写真立てに、卒業した日の写真が飾られていた。卒業証書の筒を手に、乱馬とほほ笑むツーショットの写真だ。クラスメイトが撮ってくれた一枚。

 あれから三年…。
 修行に明け暮れた彼にとっては、長かったのか短かったのか、その感覚すら、おぼつかない。
 ただ、横たわるあかねの髪を見て、時の長さを感じ取っていた。
(また、髪、のばしたのかよ…。)
 出逢った頃の突っ張っていた少女の面影と重なる。

 座椅子に浅く腰掛けたまま、その髪先に手を触れてみる。人差指に絡ませてみる。さらさらの髪は、乱馬の指に絡みついても、スッとほどける。手入れが良いのだろう。
 それから、蒲団から無造作に投げ出された右手に瞳を落とす。
 薬指に、桜の木の下で差し出した、あの指輪が輝いている。
 それを見つけて、ホッと安堵のため息が漏れる。
 添えた指で指輪をそっとなぞってみた。
 もちろん、なぞる自分の右手の薬指にも、同じ指輪が光っている。

(やっと、帰ってきた…。)
 あかねの無防備な右手を、そのまま、己の右手で浅く握る。

 吐息をすぐ感じられる傍で、その寝顔を見守りたい。
 
 一番、逢いたかった最愛の女性(ひと)。

 心配だが、嬉しかった。
 飽くことなく、寝顔を飽くことなく見つめられる幸せ。

 触れた手の掌から、己の想いがしっとりとあかねへ伝わっていく。そんな感覚を感じていた。


 

 無論、あかねも、乱馬の気を、意識の下で感じていた。
(誰…そこに居るのは…。)

 闇の瘴気にやられたあかねは、夢の中で得体の知れぬ「闇」と戦っていた。
 己を追いつめて来る深い闇。それから逃れようと、必死で足掻く。
 振り払っても、振り払っても、漆黒の闇は己につきまとってくる。執拗に、不気味に呻き声をあげながら。
 
 闇に塗りつぶされそうになった時、すっと降りて来た一筋の光。
 やがて光はあかねの前で、大きな手へと変化する。まるで、つかまれと言わんばかりに、あかねへと差し出された。
 わらをも掴む心境で、無我夢中で差し出されたその手につかまった。弱々しい力で縋ると、優しく迎え入れてくれるように連なった暖かい手。不安も恐怖も全てなぎ払ってくれる、頼もしい気に満ち溢れている。
 
 握られた掌から流れ込んでくる気に、不安の闇で埋め尽くされていた心が、少しずつ、穏やかに癒されていく。
 ずっと前から知っている、温もり。
 
 閉じた瞳の裏に、ほのかな光が射し込めて来る。
 その光に誘導されるように、ゆっくりと瞳を見開いた。
 と、自分を見下ろして来る、柔らかな瞳に遭遇する。
 軽く微笑んで、見つめて来る懐かしい顔がそこにあった。

 それは、三年間、待ち望んでいた男性(ひと)。肩におさげが揺れていた。

「乱馬…。」
 そう言いながら、起き上がろうとしたが、身体に力が入らなかった。カクンと崩れそうになる。
 
 乱馬はすぐに、あかねを制しにかかった。
「無理すんな…。おめーは化け物に襲われて、その瘴気にやられてるんだ。」
 と命令調だが優しい声を響かせた。

 あかねはそれに、コクンと頷いた。身体が自由にならない。まだ、どこかに、闇の瘴気が残っていて、それが身体の中を駆け巡っているような気がした。
 あかねの不安を察したのか、乱馬が言った。
「このまま、傍に居てやっから…。…だから、安心して休みな…。あかね…。」
 照れくさげに、指し示す優しい言葉。
 
「ありがと…。」
 弱々しく声を響かせる。

 その声に、再び、右手を握りしめてくる温かい手。
 冷たい手先を、自分の温もりでほぐすように、包み込む。

「乱馬の手…あったかい…。」
 ゴツゴツとした乱馬の手。一回り大きく、温かい手。
 そこから流れ込んでくる柔らかな気は、身体に広がる闇を、少しずつだが確実に粉砕していく。

「お帰りなさい…乱馬…。」
 やおら、あかねは顔を上げ、乱馬へと声をかけた。
 眩いほどの微笑みを浮かべている。
 
「ただいま…あかね。」
 そっと、口でかたどると、あかねの頬へ軽く手を当て、そのまま、上から唇を重ね合わせる。
 あかねは静かに瞳を閉じる。
 そのまま時を止めてしまったように、二人、長く唇を合わせたまま、離れようとしなかった。
 繋がった手に、力が籠められる。あかねの右手の薬指にはめられた指輪を、なぞってくる優しい手。
 緊張の糸が切れたのか、それとも、闇を追いだせたからなのか…あかねはそのまま、深い眠りへと落ちて行った。

 合わせた口から、やがて、健やかな寝息が洩れ始める。
 何の憂いも無い、穏やかな微笑みを浮かべたまま…。

 静かにあかねの身体をベッドへ横たえると、傍らの椅子に腰かけ、極上の寝顔を、飽くことなく見守り続ける乱馬。
 合わせた手をほどくことなく…。


 春の夜は、恋する二人の上に、静かに更けていく。


三、

 翌朝、あかねはすっきりと眼が覚めた。

 乱馬がずっと傍に居てくれた…。
 そう思っていたのに、起き上ると、誰も居ない。


(あれは夢だったのね。)
 少しさびしげに、辺りを見回した。
(昨日、なびきお姉ちゃんが、乱馬が帰って来るだなんて言うから…。)
 ふうっと溜め息を一つ吐き出した。
 唇に、濃厚なキスの感覚が残っているような気がした。
 夢の中でのキス。まるで、乱馬の心が流れて来るような、長いキス。

(あれ…?でも、あたし、何で道着のまま眠ってたのかな…。)
 思い出そうとして、ふと見上げた目ざまし時計の針は六時過ぎを指していた。

「っと、こうしちゃいられないわ!出社時間っ!」
 ガバッと起き上がる。

 昨夜から何も食べていないので、お腹はぺこぺこ。風呂にも入っていないので、朝シャンだけでもしなければ、身体が匂っているような気分。このまま、出勤する気にはもちろんなれない。



「その分だと、身体もすっきりしたみたいね。」
 なびきが、ドアから、ひょいっと顔を出してきた。

「おはよう、お姉ちゃん。ねえ、あたし、どうして道着のまま眠ってたか、心当たりない?」
「あかね、覚えてないの?」
 なびきが問いかけた。
「ん…。何か、井戸端から化け物みたいなのが飛び出してきたところまでは、何となく覚えているんだけど…。」
「ま、あたしも遠巻きからしか見てないけど…。井戸端から変な化け物が飛び出してきて、あんた、襲われたのよ。」
「じゃ、あれは夢じゃなかったのか…。で?化け物をお父さんたちが倒してくれたの?」
「まー、そういうことになるのかしらねえ…。」
「で、あたしは化け物に襲われて、部屋に運ばれて、そのまま朝を迎えたって訳ね。」
 一人で納得して見せる。
「どう?気分は?会社、行ける?」
 なびきは問いかけた。
「大丈夫よ。体に問題は無いわ。それに、会社をサボるわけにもいかないからね。」
「ふーん…。思ったより、回復が早いわね…。やっぱ、乱馬君がずっと傍で見守ってくれていた効果覿面(てきめん)って奴かしら。」

「え…?乱馬?乱馬が居たの?」
 驚いてて、姉へ問いかけていた。

「何言ってんの!あんたを化け物から救い出したのも、あんたをお嬢様抱っこして、ベッドまで運んできたのも、乱馬君なんだから…。」

「嘘…。」

「これだから…もう…。」
 しょうがないわねえという感じで、なびきはあかねを見て、説明し始める。

「お父さんたちと協力して、乱馬君が化け物を粉砕してくれたんだから。
 その後、心配して、乱馬君、夜明けまでずっとあんたの傍から離れなかったみたいよ。帰宅早々、妖と戦ったのに…夜が明けるまで、まんじりともしなかったみたいよ…。もっとも、今は、自室でぐっすり…いえ、ぐったり…みたいだけど。」
 ニヤニヤと笑いかえすなびき。

「じゃあ、もしかして…夕べのあれは…夢じゃなかった訳?」
 確かに乱馬が帰って来たというのなら…薄らと脳裏に残るゆうべの記憶は、夢ではなく…現実。
 優しい瞳も、温かな手も…そして、長い口づけも…。

 ボワンと真っ赤に熟れるあかねの顔。
 そのまま、固まる。

「ふんふん、ただいまのキスでも貰ったのかしらん?」
 うふふとなびきが笑って見せる。

 カアアーッと顔に血が昇る。頭から蒸気が出て来るのではないかと思うくらい、熱を持って。

「図星ね…。後で、乱馬君が目覚めたら、からかってやろうっと。」

「お姉ちゃんっ!」
 あかねが思わず怒鳴った。
「それより、あんた。ゆっくりしてていいの?遅刻するわよ。雇われの身じゃあ、遅刻って不味いんじゃないの?」
 と老婆心も忘れない。
「それを早く言ってよ!」
 あかねは慌てて、着替えを掴むと、風呂場へと走り去る。

 風呂へ行く途中、乱馬の部屋に目を落とす。自室とそう離れていないニ階の納戸を、暫く乱馬の部屋として使っていた。一階にあった客間は、当時、のどかと玄馬の二人が使っていたので、息子の彼はニ階に上がったのだ。
 ピタッと障子戸が閉められている。耳を澄ますと、確かに、人の気配がある。
 今まで空室だったこの部屋。そこに人が居る気配。

(そっか。乱馬、帰って来たんだ…。)

 少しだけおぼろげに覚えているゆうべのこと。

 ずっと傍で感じていたぬくもり。それから、ただいまのキス。
 思い出したところで、心が熱くなる。
 あれが夢ではなかったとしたら…己の恋愛にはかなり奥手だった乱馬が、成長したことを示唆している。
 あかねは瘴気にやられて意識が朦朧としていたので、このままだと、乱馬の勝ち逃げになるではないか。

 昔のあかねなら、起きぬけ一番、彼を問い詰めるため、部屋へと駆け込んだだろうが、彼女も彼女なりに成長していた。
 なびきが、朝までずっとあかねの傍で守るようにまんじりともしなかった…と言っていた。今頃、ぐっすりだと。
 帰宅早々、訳のわからない妖騒動に巻き込まれたのだ。もちろん、自分も巻きこまれ、直撃された一人だが…。
 意識を失う寸前、自分の前に立ちはだかった逞しい背中。あれが乱馬だったとすれば、自分を守ってくれたのもあながち嘘ではいと思う。
 確実に一緒に居た、父や玄馬に問い質したいところだが、生憎、時間が無い。
 会社勤めの厳しいところ。
 都心までそう遠くは無いとはいえ、満員電車に揺られる身の上。
 さっさとシャワーを浴びて、身支度せねば間にあわない。朝ごはんも少しは食べなければ身が持たない。

「あー、こういうときは長い髪は不利よねえ…。」
 そうだ。乾かすだけで時間を取られる。悠長にドライアーを当てている時間も勿体ないから、半乾きのまま、朝ごはんをかっ込む。トーストにインスタントのカップスープ、それからイチゴを丸かぶる。それから牛乳を流し込み、準備完了。
 バタバタとやっている前で、早雲が新聞を読んでいた。
 また、流し台へ戻り、髪の毛と格闘しながら、化粧へと手を延ばす。
 さすがに、素っピンで出社するわけにはいかない。そう、念入りに塗りたくる方ではないにしろ、基礎化粧から始めて数分はかかる。
 女の朝は戦争だ。
 これに家事が加われば、確実、玉砕するだろう。
 髪の毛もシュシュでさっとまとめると、通勤用のバッグへと手を掛ける。

「行ってきます!」
 そう叫ぶと、家を飛び出して行く。

 いつもよりバタバタしていても、時間がひっ迫していても、今朝は気分が良かった。
 
 乱馬が帰って来た!

 その、嬉しい事実が、あかねの足取りを軽くしていたのだ。


「たく…わかり易いんだから…。あかねは…。」
 あかねの後ろ姿を見送りながら、ふっとなびきは笑った。彼女は事実上、オーナー社長なので、出勤時間はあってないようなもの。少し遅めで良い。
「でも…さすがに、プロポーズはまだ…みたいね…。」
 と推理してみせる。あかねの指輪の位置に変化はない。まだ、右の薬指にはめられたままだった。
「ま、そう遠い時期じゃないだろうけど…。どうするつもりかしらねえ…乱馬君。
 からかうだけじゃ物足らないし…たきつけるのも面白いかも…。もうしばらく楽しめそうだわ…。」
 うふっと笑った。


つづく



一之瀬的戯言
 改作にあたり、かなりプロットを作り変えたので、前に掲載していた作品は忘れてください(汗
 この後、乱馬のプロポーズ譚へ続く予定ですが、すんなりいきそうにないなあ…。というか、だんだん、邪悪モードへと(以下略)。作り直していたら、やっぱり、かなり濃度の高い、長編になってしまった…。




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