◆蒼い月と紅い太陽

二十一話 エピローグ〜六月の花嫁



一、

 その日は朝からしとしと、雨が降り続いていた。
 豪雨ではなく、霧より少し大きいめの、弱い細雨。
 六月、水無月…季節は梅雨のど真ん中。じとじとした、この時期特有の蒸し暑さが、五感にまとわりつく。


「たく…。良くこんな、シーズンにブライダルビルを華々しく、オープンさせる気になるなあ…。」
 大きな窓ガラスの向こう側を見詰めながら、乱馬はなびきへと声をかけた。

「あら、六月って結構、カップルには人気がある結婚シーズンなのよ。」
 真っ黒でタイトなパンツスーツに身を包んだ瞳が、くすっと笑いながらその問いかけに答えた。

「ジューンブライド…って奴か?」
「ええ。あんたでも、その言葉は知ってるのね。」
「あったりめーだ。俺だって、そんくらいの常識はある。」
 蝶ネクタイを結びながら、ムッとした表情を、なびきへと手向ける。
「常識ねえ…。」
「でもよー、ジューンブライドが似合うのは、ヨーロッパ辺りだろ?」
「まあ、もともと、ヨーロッパあたりの農閑期が六月だということと、花がいっせいに咲き乱れるシーズンでもあることから、あちらでは、結婚の絶好期なんでしょーけどね。」
「そう考えたら、日本じゃ、春先とか秋とかが結婚シーズンじゃねーのか?農閑期で言ったら、冬の方が、理にかなってるような気もするけどよー…。
 何で、わざわざこんな梅雨のべたついた時期に…。」
 と問いかける。
「六月を意味する「JUNE」はギリシャ神話の愛の神、ジュノーの名前から来ているらしいわよ。」
「へー…。愛の神様ねえ…。」
「ええ…。だから、ヨーロッパでは六月に結婚するカップルは、愛の神・ジュノーの祝福の元に、幸せになれるって、そんな考えがあるらしいわよ。」
「日本じゃ、確か…神無月に出雲で神々が集まって、結婚を取り仕切るっていう話があるけど…。それと同じようなもんか?」
「ちょっと、違う気もするけど…。」
「それはそれとして…何で、日本にジューンブライドが根付いたんだ?こんな梅雨の最中の鬱陶しい季節だぜ?」
「ブライダル業界が閑期をなくすために、ジューンブライドを引っ張り出したに決まってるじゃん。」
 淡泊になびきが言い放った。
「あん?」
「昭和の中ごろに、ブライダル業界も商売が上がったりになる梅雨に、ヨーロッパのジューンブライドを持ってきたらどうだって、考えた人が居るのよ。ほら、日本人って、変に西洋に憧憬を持つ傾向が昔から強いでしょ?それなり根付いて行って、今や当り前のように、六月に式を挙げるカップルが大勢居るのよ。最初にジュンブライドに目をつけた人って偉大よねえ…。そう思うわ。」
「…たく…二言目には商売の話だな…おめーは。」
「褒め言葉として受け取っとくわ。」

 ここは、なびきと九能が組んで作ったエンタープライズ「TNコーポレーション」が、社運をかけて作った、都心の結婚式場専門の施設だ。
 ブライダルサロン、ブライダルショップ、レストラン、式場、宴会場、宿泊施設と、ブライダルに関するものが一同に集められた、ブライダルビルである。
 魔龍に憑依された、九能と闘った「あの場所」でもある。
 あれから、ひと月かけて、きれいに修復されたようだ。
 今、乱馬はその中ほどにある、控室に居た。
 入口に置かれた表示板には、「新郎控室」と墨字タッチで書かれていた。
 さっきまでは、同じ階層にある別の部屋にて、スタッフたちに囲まれて、良いように、いじくり倒されていた。 おさげだから、適当で良いと思ったのだが、それじゃあ、ダメだと、いじり放題髪の毛をさわられた。
 更に、剃刀で顔を剃られ、男性化粧品を塗りたくられ、眉毛まできれいに整えられた。
 そこまでやる必要があるのかと、なびきに小言を言ったが、「式場案内のパンフレットに写真を使うんだから、我慢しなさい。」と、てんで相手にされなかった。

 それだけで、終わるでもなく、今度は、こっ恥ずかしくなるような白基調のタキシードに袖を通させられた。

「似合ってるじゃん…。結構…。」
と、なびきの口元がクスッと笑った。
「茶化すなっ!」
 顔を真っ赤にして、乱馬が吐き出す。
「馬子にも衣装よねえ…。そーゆーのが好みなんだ。乱馬君って。」
「あのなあ…。おめーが持って来たデザインが少なかったし、適当にその中から選んだだけだぜ?俺は…。」
 ぶすっと不機嫌な表情を投げつけた。
「今頃は、あかねの準備も佳境に入っているでしょうけどね…。あんたの選んだ衣装に袖を通してさ…。」 
 にんまりと、なびきが笑う。

「たく…。普通、衣裳の仮合わせとかあるだろー?おめーんとこ(TNコーポレーション)の宣伝も兼ねてんなら、尚更、宣伝用の写真撮影とか、先撮りとか別撮りとかにするのが普通なのに…何で、いきなりぶっつけ本番で撮影するんだよ?おい…。」
 ジト目でなびきへと問い質す。

 そうだ。
 なびきの会社とマネージメントの契約をした途端、あかねとの結婚まで、このなびきにいいように翻弄されていた。
 結婚式場は、なびきの会社が新しくオープンさせたこの式場。そして、身につけた衣装は、あかねの勤めていたアパレル会社のご指定ときた。その他、諸々の箇所で、なびきのごり押しが光っている。

「あら…。撮影の費用もできたら、最低限に抑えたいじゃない…。必要最低限で最大効果を引き出すのが、あたしのモットーですものー。」
 潤んだ瞳でなびきが返答する。
「あのなあ…社運を賭けた新事業なら、そんな細かいところ、ケチって良いのか?」
 あきれ顔で乱馬がなびきを見返した。この女わぁ…という瞳である。
「もちろん、それだけが理由じゃないわよ…。」
 クスッとなびきが笑った。
「どーせ、くっだらねー理由なんだろ?」
「強いて言うなら、姉心よ。」
「はああ?」
 なびきの投げた言葉に、思いきり、乱馬は脱力しながら、問い返した。
「段取りが全てわかっちゃったら、面白くないでしょ?ぶっつけ本番で臨んだ方が、良いスナップ写真も撮れるだろうし…。あんただって、二度結婚式をしたような感覚にならない方が、新鮮味があって良いんじゃないの?」
 と言い返された。
「それが、姉心って奴なのか?」
「結婚式は人生の一大イベント…だからこそ、ぶっつけ本番の方が、損借無くて面白いスナップが撮れるんじゃないかってね。」
「けっ!とどのつまり、利用することには変らねえーんだろ?」
「そりゃあビジネスですもの…。素材は最大限に生かして稼ぐのが常套手段じゃない?」
「ほらみろ…結局、そっち(ビジネス)へ流れるじゃねーかっ!」
「でも、さあ…、あんただって、本当は、あかねの花嫁衣装を見たくてうずうずしてるんでしょ?仮合わせしてないから、どんな風に仕上がるか、ドキドキしてるんじゃないのぉ?」
 と、ぐぐぐっとなびきは乱馬へと詰め寄る。
「ま…ドキドキしてねーと言ったら…嘘になるけどよぉ…。」
 ぼそぼそっと乱馬が吐き出す。
「そーそー、そのドキドキ感が欲しいのよ…総監督としての、あたしはね…。」
「ぐ…。」
 たじっとなって、一歩後ろへ下がった。

 
 料理は引き出物の打ち合わせで、方々、あかねやなびきと一緒に、スポンサーやらデパートなどを回ったが、ここの結婚式場の下見は一切、蚊帳の外に置かれていた。
 最も、九能との闘いで、このビルの最上階をぐちゃぐちゃに破壊して、急ピッチでやり直していたこともあったのも、尾を引いている。
 下見したくても、工事が押していたので、それもままならなかったのだ。
 式当日の今日、初めて足を踏み入れた訳である。


「さっき、ちらっとあかねの準備を覗いて来たけど…可愛らしかったわよ…。何年か前に一度、祝言未遂があったけど、あれ以上に仕上がるわよ…。」
「で?その…あかねとはいつ、引き合わせてくれるんだ?」
「それは…式場でのおたのしみよ…。」
 うふふと悪魔の微笑みを浮かべる。
「式場って…おめえ…。」
「そっ!これもぶっつけ本番!」
「はああ…。最後の最後までお預けかよぅ…。」
「あと、小一時間の辛抱よ。」
「その小一時間が、拷問のように長く感じるぜ…。」

「ほんと、あれから…あっという間のひと月だったもんね…。」
 なびきはクスッと笑った。
「まーな…。」
 フッと溜息が洩れる。
「ホント、驚いたわよ…。朝、起きたら、あかねの部屋に二人で佇んでたんたもの…。」
 そう声をかけられて、乱馬の顔がポッと赤らんだ。
 黒龍を封印して、現の世界へ生還した朝のことを、思い出したからだ。
「俺たちだって…まさか、あそこへ戻るなんて、思わなかったからな…。」
「しかも、一糸まとわず…だったんでしょ?」
「しゃーねーだろ?井戸の向こう側で、色んなことがあったんだしよー!」
「色々ねえ…。ま、これ以上は野暮だから、聞かないけど…。」
 ニッと意味深な瞳を手向けられる。
 わかってんなら詮索するな…と言わんばかりに、乱馬は、くるっとソッポを向く。



 あかねと結ばれた朝、あの日から、また別の世界が二人の周りを巡り始めた。

 あの後、乱馬は道着に着替え、先に生還していたあかねの父、早雲へと道場で対峙した。
『順番が後先になりましたが…あかねを…俺にください。』
 姿勢を正して、深く頭を下げた。男なら、誰でも一度通る道を、彼も通ったのだ。
 勿論、早雲は、二人の結婚を快諾した。元々、彼が望んだ縁組だ。断る理由はない。それより、やっと二人、一緒に歩み出す気になったかと、祝福してくれた。
 それから乱馬は 一度、天道家から実家へと戻って行った。生真面目なところがある、この青年は、式後まではあかねと共に過ごすことを避けたのだ。
 否、長年あかねを育んできた、父と娘の生活を式までは崩したくないと、望んだのである。あかねとて、父と姉の三人での時間を、心落ち着けて過ごしたかろうと汲んだのだ。
 その後、今日までのひと月あまり。字通り、雑用などに、追われる日が続いたのだ。
 スポンサーとの契約やら、結婚の雑用やら…なびきに面白いようにこき使われたし、振り回された。
 あかねも、自社のブランドモデルの先がけとして、様々な雑務に駆り出されていた。
 むろん、それだけではない。天道家を新居と定めるにしても、色々そろえなければならない調度品もあったし、模様替えもあった。


「ほんと、あんたって純情なくらい、律儀よねえ…。」
 なびきが、ふっと微笑んだ。
「馬鹿にしてんのか?」
 これまた、ムッとして、向き直る。
「あれから、一度も契ってないんでしょ?あんたたち…。」
 クスッとなびきが笑った。
 わざわざ「あれから」と一言添えたのだ。とっくに、二人の関係が進んだことは、この姉にはばれている。
「うるせーっ!そんなことは、どーでも良いだろっ?」
 思わず、真っ赤になって、吐きつけた。
「ふふふ…図星か。さすが、純情純愛カップルよね…。っていうか、良く我慢できるわね。」
「こちとら、安っぽい恋愛してねーんだっ!」
「許婚になったのは、十六の時だから、六年間…プラトニックな純愛を貫いたんだものねえ…。」
「うるせーっ!悪いかっ!」
「九能ちゃん以上に、生真面目よねえ…。」
「あの変態野郎と一緒にすんなっ!」
 むすっと言葉を荒げる。
「で?あの部屋は、どうしたんだ?また、作り直したのか?」
 と、返す口で話題を変えた。
「あの部屋って?」
「式場の横にあった趣味の悪いベッドルームだよ…。」
「ああ…あれね。まだあるわよ。九能ちゃんも、あの施設だけは己の夢だから、譲れないって…。」
「……たく…結婚式場の横にベッドルームって、どんな神経してんだか…。」
「…ああ、でも、式場の横ってーのは私もやりすぎだって思って、階下に作り直して貰ったわ。ついでに何部屋か増やしたのよ。」
「え…ベッドルームが何部屋もあんのか?」
「ええ…。チャペル式の式場だけじゃなくて、神式、仏式も対応できる式場もあるから、新郎新婦の宿泊フロアとして、設定しなおしたわ。結構、話題になって、問い合わせもたくさん来るのよー。豪華ベッドルーム付きって…。」
「…たく…。すげえ、商魂だな…。ってか…一般消費者がそこまで求めるのか?」
「あら…結婚式後の初夜って案外、重要な位置づけじゃない…。」
「そーかな…。」
「そーよ…。ちゃんとあんたたちの部屋も用意してあるから、この際、堪能したら良いわ…。これも姉心よ。」
「何が姉心でい…。その分、余計に俺からふんだくるつもりだろ?」
「ちゃんと割り引いてあげるから、ご心配なく。」
「……割引ねえ…。」
「身内割よ。」
「身内って言うなら、金を取るなよ…。」
 ほとほと、なびきの抜け目のなさに感嘆する。

「そうそう…一応、宣伝のための撮影会も兼ねてるから…ちょっと、普通の教会式の式と変えてる部分もあるからね…。」
「…らしいな…。一応、さっき、説明は聞いた。」
「ま、そういうことで…よろしくね。」
「…たく…プライベイトに思いっきり仕事を持ち込みやがって…。」

「そろそろ、式に参列してくださる方々が集まり始める時間よねえ…。」
「あと、半時間ほどか…。」
 じっと柱時計を見つめた。




二、

「新郎控え室って…おっと、ここかあ。」
「おっ!居るじゃんっ!」
 言ってる先に、知った顔が幾つか、顔を出した。
「大介…それに、ひろし…か。」
 風林館高校の同級生たちが、ひょいっと顔を出した。
「へええ…結構決まってるじゃん。乱馬君。」
「あかねは、まだ準備中だって…。だから、式まで会えないみたい…残念だわ。」
「さゆりにゆかかあ?…おい、てめーら、化粧濃くねーか?人相変わってっぞっ!」
 久しぶりに顔を合わす、同級生たちに、悪口(あっこう)をふりまく。
「失礼ねえっ!」
「着飾ってるあんたに言われたかないわよ…乱馬君。」
「そーだな…顔まで剃っちゃってっ!」
「おさげには花つけねーのか?」
「うるせーっ!」
 わいわいと騒がしい、クラスメイトたちの後ろ側、淀んだ空気を醸し出す奴も居る。
「早乙女…あかねさんと結婚しやがるのかあ?…このこのこの…罰が当たれー。」
「こら、五寸釘…異議があんなら、式場に来るなよ…。」
 思わず苦笑いがこぼれる。

「わっはっはっはー。諸君っ!良く来たねえ…。」
 高笑いとともに、今度は九能が入ってくる。どういうわけか、紋付き袴だ。
「てめー…何しに来やがった…。しかも、何だその格好は…。」
 複雑な表情を九能へ手向ける。
「いや、あかね君の気が直前に変わるとも限らんからなあ…。」
「気が変わるって、何をだよ?」
「あかね君が僕と結婚したいと言いだすかもしれないじゃないかー。」
「こらっ!そんなこと言う訳ねーだろ?」
「ま、もしものための用意だ…。気にせんでくれたまえ。はっはっはーっ!」
「気にするっちゅーのっ!何考えてやがる…。」
「いつでも主役を交代するぞ…早乙女乱馬。」
「するかっ!…って…まさか小太刀も来てるなんてことは…。」
「それなら心配ないでござるよ。」
 佐助が横から顔を出した。
「小太刀殿は、格闘新体操の世界大会で外国遠征中でござる。」
「はは…それはありがてーや…。あのあぶねえ女が日本に居ないってのは助かるぜ…。」
 ホッと胸をなでおろした。
 もし、恐らく、式に横槍が入るとすれば、九能小太刀の妨害が、一、二を争うだろう。
「でも…。この人がくっついて来たでござるが…。」
「はーいっ!ミスター乱馬っ!おさげプリーズっ!」
 アロハシャツに身を包んだ、九能校長が、バリカン片手に現れる。
「わたっ!そんな物騒なもん、俺に向けるなーっ!」
「結婚するなら、おさげは返上するべきねー。カットカット、プリーズ!」
「でええっ、バリカンなんか振り回すなーっ!迷惑だから、佐助っ、なびきっ…さっさとこいつらを、こっから摘まみ出せっ!」
 困惑げになびきへと振り返る。
「たく…九能ちゃん…。あんたは、この式場の責任者なんだから…ほら、マスコミ対応もあるから、お仕事優先よっ!
 校長先生もバリカンを持ってるなら、ちょっと、花を刈り込む準備があるから、そっちを手伝ってくださいな。…じゃ、乱馬君…後でねー。」
 なびきは九能の襟元をつかみあげると、さっさと去って行った。
「じゃあ。撮影の方も頑張ってくだされ…乱馬殿。…ほれ、校長殿…行きますよ。」
 ハハハハハと佐助に引きずられながら、高笑いが去っていく。

「たく…相変わらずだな…。九能先輩も校長も…。」
「ああ…あの親子のスチャラカぶりは不変だぜ…。」
 大介とひろしが、顔を見合せて溜息を吐きだす。

 と、また別の気配がドア元で立った。
「乱ちゃん…来たでー!」
「乱馬様、おめでとうござます。」
 右京と小夏がドアから顔を出す。
「おい…てめーら…。格好が逆じゃねーのか?」
 思わず、乱馬からそんな言葉が漏れた。
 右京はいなせな淡い茶色のパンツスーツ。パッと見、タカラジェンヌのようなかっこよさだ。
 そして、脇に立つ小夏は何故か振袖だ。
 その後ろから、ふりふりドレスの紅つばさまで居る。
「私も付いて来ちゃったー。うふっ…乱馬君…。今日は女装しないのかー?」
 語尾は野太い、男の声に変っていた。
「するわけねーだろっ!」
「大人になって、女装趣味やめたのかしら?」
「俺のは、趣味じゃねえーっ!おめーと一緒にすなーっ!」
 つばさの言葉に思わず、額にぴきっと、怒気が浮き上がる。

 そこにすかさず、入ってくる大きな豚影。
「良牙様…着きましたわ。」
 まわしを締めた勝錦が、背中に振り袖姿のあかりと黒豚を乗せて現れた。
「ピー、ピー、ピー!」
 黒豚はあかりの胸に抱かれたまま、何かを懸命にこちらに話しかけている。
「……たく…。良牙か。ぴーぴーじゃ、わかんねーんだよっ!」
 乱馬は傍にあったポットを手に取ると、黒豚の上へ、じょろろと掛けてやる。
「熱いじゃねーか、乱馬っ!」
 湯けむりの向こう側から現れたのは、響良牙。
「いいから、服を着ろっ!ご婦人方も居るんだぜっ!」
 ぬぼっと現れたのは良牙だった。むろん、裸のままだ。

 きゃあきゃあと、そこに居合わせた、さゆりやゆかたち女子が声を荒げた。当たり前だ。さすがに、男の裸体は目に毒すぎる。

「っと、あかりさん…こいつの着替え…。」
 苦笑いを浮かべながら、豚の上のあかりに声をかけると、
「ちゃんと、持って来ていますわ。良牙様の服も。」
 紙袋を差し出す。
「ほれ…良牙…さっさと着換えろっ!」
「あはは…っと、更衣室は…。」
「いーからっ!この場で着換えろっ!てめーがうろうろしたら、また迷うから…。式までに辿りつけなかったら、どーするつもりでーっ!」
 駆け出しそうになった良牙の黄色いバンダナを押さえつけながら、乱馬が吐き出す。
「せやで、良牙…。あんた、また、迷ったら、あかりちゃんが大変になるんやから…。ほれっ!さっさと着替えんかいっ!」
 右京が傍から茶々を入れた。
 あかりと右京が、二人がかりで、良牙をコーディネートして着替えさせる。
「ったく…。相変わらず、ふざけた野郎だぜ…。」
 その様子を眺めながら、乱馬が笑った。

「そうそう…シャンプーたちは中国へ帰ったらしいぜ…。」
 黄色い虎模様の蝶ネクタイを締めながら、良牙がポツンと言った。
「え…?」
 言葉をのんだ乱馬に右京が続ける。
「そう言えば、商店街の役員さんがうっとこに来て、そんなこと言うとったわ。猫飯店たたんで、コロンばあさんとムースも一緒に帰って行ったって…。」
「そっか…あいつら…故郷へ帰ったのか…。」

 乱馬は、少しばかり、複雑な表情を傾けた。

 元は、女乱馬を斃すために日本へ来たシャンプーだったが、ひょんなことから、今度は結婚相手として追い回される立場へと変化していた。コロンばあさんとつるんだそのしつこさに、迷走させられっぱなしだった。散々、追い回され、逃げ惑い、そして、修行に出た居る間待たせて、挙句、振ったのだ。呵責の念が無いとも言いきれなかった。
 もっと早くに、彼女に結婚の意志が無いことを告げていれば、別れの言葉をきちんと口にして去っていったのかもしれない。
 それすらしなかったということは、多少のわだかまりを、まだ、シャンプーが残していることを、暗に示唆しているような気がしたのだ。

「そんな顔せんでも、シャンプーなら、きっと、もう、とっくに乱ちゃんのことは、吹っ切れてると思うで。」
 右京がそんな言葉をかけてきた。無言で右京を顧みると、
「ウチと同じように…最初からあかねちゃんにはかなわへんって思ってたんちゃうんかな…。だから、何も言わんと帰って行ったんやろーし…。」
 シャンプーと立ち位置が同じ彼女の言葉だ。あながち、デタラメではあるまい。
「それに、シャンプーにはムースがおるからな…。」
 と付け加えた。
 
「まさか…おまえ…惜しかったとか思ってるんじゃねーだろーな?」
 後ろから、良牙が睨みながら問い質して来る。首に手をぐわしっとかけて来た。
「お…思う訳ねーだろ?だいたい、俺は、シャンプーのことなんか、最初からどうにかしようだなんて…思ってなかったぞ…。」
「ほう?そう言い切れるか?あれだけ、優柔不断を見せつけておいて…。」
 真正面からひろしが茶々を挟む。
「おめーがはっきりしねーから…うっちゃんの純情だって、踏みにじったんじゃねーのかよ?」
 その横で、大介もにじり寄る。
「な…何だよ…てめーらまで…。」
 たじたじとなりながら、後ろへ下がる。

「まあ、あの頃は、乱馬君…青かったもんねえ…。」
「っていうか…やっぱ、あかねが初恋なんでしょ?」
 ゆかとさゆりが、笑いながら問いかけて来る。
「ほらほら、白状しちまえーっ!」
「あかねが初恋だったってっ!」

「あーあー、あかねが初恋だっ!それがどーしたって言うんだよっ!」
 と、居直って応える。

「きゃっ!言ったっ!」
「聞いた聞いたっ!やっぱ、あかねが初恋なんだ…。」
 女子たちは、きゃぴきゃぴと黄色い声を張り上げて、乱馬を取り囲む。

「ま、あかねが初恋ってことを認めたから…。」
「絡むのは、こんくらいにしといてやるか…。」
 うんうんと大介とひろしも頷きながら笑った。
「あかねは俺たちのマドンナだったからなあ。」
「ああ…花のようなアイドルだった…。乱馬が転校してくるまでは…。」

「乱馬…。」
 良牙がグッとせり出して来た。握りこぶしをギュッと作っている。
「何だよ…。」
 急に迫って来られたので、思わず、身構える。
「約束しろっ!二度とあの頃のような、いい加減な優柔不断ぶりは、あかねさんに見せるなよ…。」
「あ…ああ…。」
「あかねさんを泣かせるようなことをしたら…俺の拳が黙っちゃいねーぜ…。」
「ああ…うれし泣き以外はさせねーよ…。Pちゃん…。」
「誰がPちゃんだ…誰が…。」
「…Pちゃんとも今日でお別れだぜ…。俺たちの寝室へ迷い込んで来るなよ…。」
「行くかっ!」
「あかりさん…。こいつが迷い込んで来ないように、しっかり、面倒みてやってくれよ。」
「はい…乱馬様。」
 にこにことあかりがほほ笑んでいた。
 これでは、どっちが新郎かわからない。

「乱馬よ…支度はできたか?」
 父親の玄馬が入って来た。
「ああ…とっくにできてるぜ。…って、親父、今日は人間か…。パンダにはならねーのか?」
 礼服姿の玄馬がそこに立っていた。
「当り前じゃ!一人息子の晴れ姿じゃぞっ!」
「っていう割には…頭、手ぬぐい巻いたままだな…。」
 半分笑いながら、乱馬は父親の頭を指差す。頭上の手ぬぐいはそのままだ。見ようによっては、ちぐはぐな印象を受ける。
「何を言う…ちゃんと真新しい白手ぬぐいを装着してきたぞっ!」
「真新しいとかそういうのより…。今日くらい、取ったらどうだ?」
「じゃあ、おまえもおさげを切るか?」
「嫌だ!何で切らなきゃならねーんだよっ!」
「じゃあ、ワシも嫌じゃ。おまえがおさげを切らぬように、ワシも人前では手ぬぐいは取らん!早乙女家の男子は、頭髪の好みはうるさいんじゃっ!」
「おめーのは…頭髪じゃねーだろが…。第一、頭髪がねーから手ぬぐいつけてんのじゃねーのか?」
「細かいことを気にするな…それより…そろそろ、式が始まる時間じゃぞ。」

 時計の針は、そろそろ午後十一時を指す。

「参列者の皆さんはそろそろ式場へお入りくださいって…。」
 東風がにこにこ笑いながら、控室へと入って来た。
 その声に先導されるが如く、その場に居た者たちが色めきだつ。
「いよいよだな…。」
「上手くやれよっ!」
「濃厚なキスシーン、期待してるわよっ!」
「じゃ、後でね、乱馬君。」
「良牙様…離れないように着いて来てくださいね。」
「は…はい。あかりさん…。」
「こら、言ってる先に、どっちへ行ってんねんっ!式場はこっちやっ!このど方向音痴っ!」
 次々に、友人たちはドアの向こう側へと出て行く。

 一向を見送って、誰も居なくなると、ホッとため息を吐いた。

「どうしたの?やっぱり落ち着かないかな?」
 東風が乱馬へと笑いかけた。
「え…ええ…。」
 はにかむように乱馬は笑った。
「そうだね…。結婚式はゴールじゃない…始まりだからね…。」
 ひと足早く、経験した東風は、そんな言葉を乱馬へと語りかける。
「人生の一つの通過点にしか過ぎないけど…新しく始まるんだよ…。乱馬君。わくわくしないかい?」
「わくわく…ですか?」
「たくさんの出会いの中から、君はあかねちゃんと縁を結んだんだ…。中には…気がつかずに通り過ぎた恋もあるかもしれない…。裏切った恋もあれば、実らなかった恋も…。」
 ハッとして乱馬は東風を見返した。

 あかねの初恋の人…それが、この東風であることを、思い出したのだ。
 出会った頃のあかねは、そんな実らない恋の前に、悶々としていた。ふし目がちの瞳も、後ろになびく長い髪も、どこかはかなげに見えた。気の強さの中に、見え隠れする脆い少女の姿に惹かれて行った自分が居た。
 それが、恋という感情だと知るまでに、随分、紆余曲折したようにも思う。

 泣き虫な少女の笑顔が見たくて、ちょっかいをかけた。笑わせたいのに、怒らせ続けた天邪鬼な少年。
 自分に手向けられる輝く笑顔を守りたいだけなのに……。空回りがばかりしていた。あの頃の酸っぱい感情がふと蘇る。
 
「それから…今日から僕たちは、兄弟だよ…。血のつながりはないし、義理という言葉はつくけれど…。ね?乱馬君。」
 にっこりと東風はほほ笑んだ。
「あ…そっか…。先生はかすみさんの旦那さんだから、俺たちは親戚になるんだっけ。」
「そういうこと。何かあったら、抱え込まないで、いつでも僕らのところへ相談においでよ。君たちは二人とも、すぐに抱え込んじゃう傾向があるからね。」
「はい…先生。」
「お兄さんだろ?」
 にっこりと東風は微笑んだ。

「乱馬…そろそろ行くわよ。」
 表で母親ののどかの呼び声がした。




三、

 最上階にある、式場は教会だった。
 真っ白ベースに、両側の窓がガラス張りになっていて、大都会東京の風景が開ける。
 決して超高層のビルではなかったが、目の前に広い公園が開けていて、それなりの景観がある。
 さながら、天空に浮かぶ空間であった。
 どうやら、乱馬と九能が闘った時にできた、穴を埋める代わりに、ガラス張りへと変更したようだった。
 真正面には祭壇があり、色とりどりのステンドグラスが、おごそかな雰囲気を醸し出していた。
 オルガンも置いてあり、前奏がしめやかに奏されている。
 聖書を持った、牧師も待ち構えている。
 降り続いていた雨も、上がったようだ。
 分厚い雲の合間から、ところどころ、青空がのぞき始めている。


 乱馬は、緊張気味に、先頭を一人で、歩いた。
 本当なら、後ろを、あかねが歩いてくるのだろうが、撮影もかねているからと、一人で歩かされている。
 すぐ後には、のどかと玄馬が、仲良く並んでつき従う。
 のどかは、和装だ。それも、黒の正装だった。常日頃、和服を着つけているので、全く、違和感はない。式直前まで、あかねの支度を手伝っていた。
 あかねの母は、存命していないから、母親代わりで、かすみと共にあかねの傍に居たのだ。
 一方で、着つけない礼服の玄馬。頭の手ぬぐいが印象的だ。
 ほっておけば、パンダで臨席しかねないこのスチャラカ親父も、今日だけは、真面目な顔つきをしていた。

 向かって左側は新郎の、右側は新婦の関係者たちの視線が、一心不乱に新郎、乱馬へと注がれる。
 その中を、緊張気味に進んで行く。
 あかねの会社の関係者や友人たちは、興味津津で、乱馬を見詰めてくる。目の前に歩くのが、著名な格闘家だから、余計に、視線が注がれてくる。
 そこ、ここで、フラッシュがたかれている。
 なびきが用意したカメラマンだけではなく、マスコミ関係者も同席していて、一斉に、この若い格闘家の決定的瞬間に狙い定めているようだった。
 もちろん、一線が引かれていて、そこからは、契約カメラマン以外は立ち入り禁止だった。
 格闘家の花道とはまた違った、緊張感が乱馬の上を漂っていた。

 祭壇の前まで達すると、ゆっくりと後ろを振り返る。
 
 と、オルガンの音が華やかに変わった。
 讃美歌を演奏しているのだろうが、厳かな雰囲気から、少しだけ、華やかな曲へと推移する。

 ふわりと、扉の向こう側に人影が立った。
 真っ白なウエディングドレスが、鮮やかに見えた。その横には、玄馬以上に緊張した面持ちで、早雲が立っている。燕尾服に身を固め、花嫁衣装の娘を一瞥すると、その手を取った。

 また、フラッシュが一斉にたかれる。
 一瞬、ほおおっという、ため息交じりの小さな歓声が、教会の中を流れて行く。

 歩み始めた、花嫁を、我先に見ようと、身を乗り出す人々。

「可憐でしょ?…あなたの花嫁さんは…。」
 乱馬の耳元で、のどかが嬉しそうに囁いた。



 一瞬、息を飲んだ。
 そして、目を見開いて見惚(みと)れた。


(か…可愛い…。)


 薄ピンクのバラのブーケを持ち、ゆっくりと近づいて来る、可憐な白い花。
 あかねであって、あかねでないような気がした。
 花嫁姿の可憐な彼女に、瞳は釘づけられる。

 早雲は緊張した面持ちで、あかねをエスコートしながら、バージンロードを歩いて来る。
 あかねの後には、かすみが、ゆっくりとついて来る。母亡きあと、末っ子のあかねをずっと見守り続けた、長姉の柔らかな瞳が、後ろから見守り続ける。
 
 かすかな衣擦れの音が、さらさらと聞こえて来る。
 彼女の緊張した心音が、己の心音と重なってくるような気がした。

 一瞬、オルガンの音は、高らかに鳴り響き、クライマックスを奏でると、一転、静やかに消えて行く。
 丁度見計らったように、乱馬の前に立つと、しめやかに終局を迎えた。

 ケープの中にある、つぶらな瞳が、ふっと微笑んだ。はにかんだ笑顔を手向ける。
 駆け寄って行って、抱きしめたくなる衝動を、堪えるのが大変だった。
 大衆の面前だ。さすがに、抱きつくのはご法度だろう。

 高揚する気持ちを、必死で抑えながら、花嫁が傍に来るのをじっと待ち続けた。

 ゆっくりと、でも、確実に一歩ずつ、自分に向かって来る花嫁。六月の清楚な花嫁。

「乱馬君…。あかねを…よろしく頼む…。」
 傍まで辿り着いた時、小さな声で、でも、はっきりとした口調で、早雲がそう言った。
 
 父親からのバトンタッチだ。

「はい。」
 コクンと一つ、乱馬は頷いてそれに答えた。
 
 早雲は、握っていたあかねの手を両手で包むと、差し出された乱馬の手へと、ゆっくりと乗せ換えた。
 父から夫に、引き継ぐ、愛のバトンタッチ。
 と、光がさあっと、ステンドグラスを通して射しこめて来た。
 分厚い雲の合間から、太陽が顔を出したのだろう。
 その光が、乱馬とあかねの間に、煌(きらめ)きながら降り注ぐ。

 早雲は、一歩下がって、満足げに、若い二人を見詰める。
『母さん…。あかねが嫁ぐよ。君が遺した一つの種が、新しい実を結んだよ…。』
 その瞳には、薄らと涙が光っていた。

 降り注ぐ光の中に、幸せそうに微笑みあう二人の姿が、浮き上がる。
 その光に包まれて、乱馬は柔らかなまなざしをあかねへと差し向けた。
 この瞬間を、どれほど待ち焦がれていたろう。
 初恋の花嫁へと、注ぐ極上の微笑み。


 フラッシュをたく音も、カメラの音も、見守る人々のため息も…すべてが虚空へと弾き飛んでいた。
 乱馬とあかね…二人の世界へと入って行く。
 二人の描きだす世界に、その場に居合わせた人々も、吸い込まれて行った。



「あ…虹。」
 見つめ合った視線を、ふと外したあかねが、小さく囁いた。
 その声に、ふと窓辺を見詰た乱馬の瞳に、鮮やかな七色のかけ橋が浮き上がる。
「俺たち二人を祝福してくれているのかな…。」
「きっと…そうね…。」

 柔らかく、微笑みを交わすと、乱馬はあかねの右手を取った。
 永遠の愛を宣誓するために…。


『これからは、二人で一つの道を歩いていこうぜ…。』
 合わせた手に、そんな愛の言葉をこめた。
 そして、二人、一緒に、踏み出す第一歩。
 はにかむあかねの笑顔の先には、雨上がりの魔天楼が広がる。江戸から続く四百年の東の都…東京の。

 太陽の架けた鮮やかな虹の向こう側には、果てなく続く青い空。
 その真ん中でぽっかりと、二人を祝福するように、月が浮かんでいた。







(2014年6月16日完結)








あとがきという名の言い訳…
 妄想からの足掛けほぼ14年という作品。実は、サイト構築前から妄想していたプロットからの作品であります。(プロットはWIN95時代のフロッピーディスクの中でお眠りになられていて、殆ど覚えておりません…汗)
 乱馬とあかねの延長戦にある一番のイベント、結婚エピソードを真剣に書いてみたくて書き始めた作品です。
 元の作品は秋の季節に設定していましたが、六月の花嫁を描きたかった故に、春の作品に変更しました。
 「朝の雫」で終わりたかったのですが、構成の関係で、エピローグと後先が入れ替わったので、最後に結婚式のシーンが入ってしまいました。本文の中で「朝の雫」を書く予定ではなかったのでありますが、結局、本文に放り込んだ方が、シーンがしっくりくると、迷い抜いた末の選択でありました。
 …別天地にある「朝の雫」は忘れてください(苦笑…別もんです。別次元の話です…。


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