◆蒼い月と紅い太陽

第二十話 朝の雫

一、

 早雲が立ち去ると、広い空間の中に、ポツンと一人。乱馬だけが取り残されてしまった。
 恐らく、早雲は真意に気付き、乱馬にあかねを託したのだ。
 それは、愛娘の父親が婿へ引き継いだこを案に意味する。

 乱馬の視線の先には、真っ黒な卵が一つ。ジリジリと不気味な音を響かせながら、そこに置き去られていた。
 侵入できるものなら侵入してみろ…。そんな言葉が、黒龍卵から聞こえてきそうだ。

 男に戻ったおかげで、指輪は薬指にぴったりとはまっていた。
 が、さっきから、あかねの気配が弱くなり始めていることに、気が付いていた。
 恐らく、残された時間は少ないのだろう。早く見つけ出さなければ、あかねの命が危ない。
 はやる気持ちをグッと押さえながら、腰元に結わえてあった巾着から、新たなお札を取りだす。
 それも玄馬から預かったお札だった。
 黒龍を封印した三角型の黄色い札とは一線を画する物。それは円い札だった。中央に「開」という字がしたためられている。
 明らか、手のひらサイズの黒い卵よりは、一回り以上も大きい札だった。

「多分、これを使えば、あかねのところへたどれる筈だ…。」
 取り出した札を、じっと見据える。

 玄馬から預かった時は、謎の札だと言っていた。開という字から察するに、何かを開く時につかうことだけは、明らかだろう。
「一か八かの賭けになるだろーけどな…。」
 グッと気合いを入れて、札を握った。

 黒い卵は乱馬の意志がわかるのか、ジジジジと音のトーンを少し上げた。
 乱馬をけん制しているかのようだった。

「奴め…あかねは渡さねえーってか?面白い…。」

 乱馬ははっしと卵を見据えた。

「行くぜっ!」
 腰を落として身構えると、乱馬は手にしていた円い札を差し出した。
「でやああっ!」
 掛け声と共に、円いお札が、べっとりと、黒い卵へと張り付いた。

 と、黒龍卵がドクンと唸り音をあげ、札が触れていないところが、パカッと真っ二つに開いた。
 深淵の闇の世界が、その向こう側に広がっている。まるで飛び込んでみろと言いたげに、開いた卵から空間が割けていく。
 その刹那を見逃す手は無かった。
 どす黒い光りなき空間がそこに開けているのだろう。ブスブスと不気味な音も響いてくる。
 しかし、ここで入るのを躊躇えば、すぐにでも、殻は閉じてしまうだろう。

「…やっ!」
 乱馬は、軽い掛け声と共に、水へと飛び込むように、両手を差し出し、頭から飛び込んで行った。



 ゴオオオオッ…。
 ノオオオオッ…。

 耳をつんざくような音が鳴り響く。
 その中を、無我夢中で飛び込んで行く。


 中は真っ暗な世界だった。

 己の身体の在りかさえ、見失いそうな闇が延々と続いている。
 その中を、どこまでも落ち続ける。
 恐らく、底など無いのではないかと、落ちながら思った。

 やがて、底に着いたのか、それとも、単に引力が無くなったのか。
 急激にブレーキがかかったように、落下が止まった。
 もちろん、地面など足につかない。宇宙遊泳でもしているかのように、ふわふわとその場に留まって身体が浮き上がった。

 激しく耳元で響いていた落下音も、ピタリと止まった。

 浮き上がったまま、辺りを見回す。
 延々と続く闇の中。匂いも音もしない。当然、光も無い。
 シーンと静まり返った闇の世界だった。
 ほとんど、手元しか見えない、黒一色の世界が、広がっていた。

「あかねーっ!どこだーっ!」
 大声で叫んでみた。
 だが、こだますらしない闇の中。
 当然、返事は無い。

「あかねーっ!あかねーっ!」
 叫び続けるが、一向に何の気配も立って来なかった。
 代わりに周りの闇が、クスッと笑ったようにも思えた。

『無力な人間が…。』
 そんな声が脳裏に響いたような気がする。

『この底なしの闇の世界で…。』
『どうやって、小娘を探し出そうというのだ?』
『ただのバカじゃないか?』
『ふふふ…探し出せるものか…。』
『おまえも、あの小娘動揺、闇に飲まれてしまえ…。』
『我が糧になれ…。』

 ざわざわと闇がはやし立て始めた。

 気のせいかもしれないが、声がすぐ傍から聞こえてくるのだ。

「あかねーっ!居たら返事しろーっ!」
 そんな声の言葉など、気に掛けずに、呼び続ける。

『無駄だと言っているのに…。』
『あの小娘は闇に囚われてしまった…。』
『最期に残った、破魔の勾玉も割れてしまった。』
『もう、取り戻せぬわ…。』
『貴様も、未来永劫、この無限の闇の世界を…。』
『彷徨い続けるが良い…。』

「へっ!良く囀る闇だな…。」
 乱馬はふっと動きを止めた。
 何度か叫んだところで、声を張り上げるのは止めにした。
 恐らく、闇が囁いているように、声を張り上げたとて、あかねの耳には届いていまい。
 だからと言って、闇雲に探し回っても、あかねのところに辿り着くのは、至難の業に違いなかった。

 闇はそんな乱馬へ、容赦なくゆさぶりをかけてくる。恐らくあかねも…。
「確かに、てめーらが言うように、ただ、探し回ってるだけじゃ、あかねは見つけられねーか…。無駄な体力を消耗させるだけってところだな…。」
 ふうっと息を吐き出した。
「でも、生憎…。俺は絶対にあかねを見つけ出すぜ…。」
 ぎらぎらと光も無いのに、乱馬の瞳が輝き始める。

『ふん…こんな闇の中で、どうすると言うんだ?』
『諦めろ…。』
『そうだ…諦めろ…。』
 様々な角度から、闇が乱馬をけしかける。

「俺の心をかき乱し、冷静さを失わせ、俺を闇の中へ引きずりこもうっていう魂胆なんだろーが…。そうは行くかっ!」
 遮断するように、一言、闇に向かって投げつける。
 そして、すうっと息を飲み込み、目を閉じた。
 身体は闇に浮かべたまま、全身を研ぎ澄ませる。

『諦めたか?』
『そうだ…諦めたのか…。』
 クスッと笑って、闇の声は黙ってしまった。
 いや、何かをさざめいていたのだろうが、乱馬の耳元からは遮断されて、いつしか脳裏からも追い出されてしまった。


「目で追うな…。心眼を開け、乱馬よ。」
 どこかで玄馬の声がした。修行で散々言われ続けた言葉だ。
「五感を研ぎ澄ませて感じるんだ…。おまえが求めている唯一の気を…。」

(そうだ…。闇がどんなに深くても、邪魔が入っても…俺は、おまえを探し出す。
 そして、一緒に帰ろう…あかね。)

 闇の声の向こう側へと、意識を集中させていく。



 ポワゥ…。



 左手が微かに熱を帯び始めた。
 あかねとかわした指輪が熱源だということは、確認しなくてもすぐ理解できた。

 否、彼は確信していたのだ。
 離れ離れになっていても、心は繋がっている。十六歳で出会って以来、共に無差別格闘流の高みを目指して、切磋琢磨してきた、許婚。
 激しく反発しあい、痴話喧嘩もたくさん重ねてきた。だからこそ、惹き合う絆は、固くて強い。
 幾許と乗り越えて来た窮地に、彼女は寄り添うように支えてくれた。この闘いに際しても、指輪の向こう側から、頼もしい援護を与え続けてくれた。

(俺は探し出す…。絶対、おまえのところまで辿り着く。)

 それは乱馬の強い意志だった。
 
 魔龍を封印して後は、途切れ途切れにしか伝わってこなかったあかねの気が、弱いながらもその指輪から漏れて来る。微かな気のゆらめきが、こっちだと囁きかけて来た。
 研ぎ澄ました心で、必死で彼女の在り処を探ろうとする。

 ポウッ…。

 と、どこからともなく、紅い光が射しかかって来た。
 閉じた瞼の裏に、おぼろげに映し出される、一筋の光。
 細い糸のような繊細な光だった。それが、乱馬へと近づいて来たかと思うや、指輪へと絡みついた。
 薬指を、くいっとひっぱるように、光の糸はある方向を指し示す。

(あかねは…こっちよ…。)
 あかねに似た女性の声が、耳元で囁いた。
 こくんと一つ頷くと、乱馬は静かに歩み始めた。

 瞳を閉ざしたまま、瞼に映る紅い光に導かれるまま、暗闇の中を歩き始める。一歩一歩を、確実に踏みしめながら、先を急ぐ。
 もともと何も見えない、感じない闇の世界だ。目を閉じていても、何ら支障は無いと、思った。

 時折、包んでいる闇が乱馬を押しとどめようと、抵抗してくる気配も漂ってきたが、敢えて何も避けず、ただ、ひたすらに、目に浮かぶ一本の糸を辿って、前へと進んで行く。

『どこへ行くのだ?』
『そっちには誰もいないぞ…。』
 また、闇がざわつき始めた。

 歩み出した乱馬を押しとどめようと、何かが蠢く。だが、乱馬は凛と胸を張り、右手で薙ぎ払いながら、歩み続ける。
 闇の干渉が増したことで、あかねはその方向に居るのは間違いあるまい。
 
『行くなっ!』
『行かせぬっ!』
 歩みを進めるほどに、闇の抵抗は激しさを増す。

 乱馬は無言のまま、右手を前に差し出した。体内の闘気を巡らせて、闘気の剣を出現させた。
 強く握った右手の拳の先に、鋭い切っ先が光る。蒼白い氷のような気の刃だ。

「でやあっ!」
 ぐっとそいつを握りしめると、目の前に繰り出して来る、闇の塊目がけて、振り下ろす。
 乱馬の闘気の剣に切られて、闇がパッと飛び散った。が、また、別の闇が湧きあがり、乱馬へと襲いかかって来た。

「でやあああっ!」
 目を閉じたままでも、はっきりと感じた。乱馬へと襲い来る闇の動きを。
 否、目を閉じていたから、惑わされずに、振り下ろせたのかもしれない。
 
 次から次へと襲いかかる闇へ向かって、闘気の剣を、一刀一刀、振りおろして薙ぎ払う。

「俺の行く道は、誰にも邪魔はさせねえ…。」

 その一心で、斬り去って行く。

 闇は乱馬の刃の前では、成す術なく、切り払われて落とされ、再び闇に溶け出す。

 やがて乱馬は、その歩みをぴたりと止めた。
 そして、ゆっくりと瞳を開く。
 
『それ以上は行かせぬ…。』

 キッと見詰めるその先は、恐々とした邪気が充満しているようだった。
 もちろん、闇と同じ黒色だったため、一切、その姿は目に見出せない。
 が、嫌な気配が辺り一面を覆い尽くしているのが、はっきりとわかった。

(あかねは、この先に居る…。)

 指輪から延びる紅い糸も、その邪気に包まれて、先は見えない。

「退(ど)けっ!」
 乱馬は闇へ向かって声を荒げた。

『退(ど)かぬっ!』
 闇は答えた。

「ならば、押し入るまでだっ!」
 乱馬は右手へと闘気を巡らせ始めた。

『人間の闘気などで、この闇の檻は破れぬわっ!』
 闇が嘲笑いながら、虚勢を張る。

「かもしれねえ…。でも、今の俺には、この技がある…。魔龍から取り戻した闘気に宿る、この技がなっ!」
 魔龍から取り戻した闘気…それは、「陰の気」だった。
 一気に高める、闘気。身体の奥底から駆け巡って行く、黒い気。男乱馬から取り戻した、己の陰の部分が、黒い炎を上げて、右手から一気に湧きあがって行く。

「邪天慟哭破ーっ!」

 ドオオンッ!

 乱馬の身体から発した、黒い炎が、一気に真正面へと吐き出され、渦巻いていた黒い闇ごと邪気を巻き上げて行く。

『貴様っ!血迷ったかっ!邪気を邪気で薙ぎ払おうなどということ…。』
 ウオオオオと目の前の闇が唸った。

「もちろん、これだけじゃねーぜ…。」
 気を打ちつけながら、乱馬は叫んだ。
「もう一発、…食らわせてやらあっ!邪天…壊滅破ーっ!」

 今度は、乱馬の左手からその気弾が飛び出した。純白の澄んだ闘気だった。それが、対する闇へと真っ直ぐに飛び出した。

『……闇を払う力を持っているのか…貴様ぁっ!』

「ああ…。一定時間だったが、魔龍が俺から一切の「陰の気」を抜いてくれたんでな…。「陰と陽」、闘気の性質を分離させて使い分ける能力が身につけたんでいっ!俺だって、転んだままただじゃあ起きねーぜ…。やられっぱなしでいるもんかぁっ!」
 掌に込めた闘気を、振り撒くように、前へと突き上げる。

『く…清浄な気が…この闇を…闇を…ぐわああああっ!』
 乱馬の放った陽の気に押されて、黒い闇が白く変化していく。
『うぎゃあああああ!』
 それは、黒い気が放った断末魔の叫びだった。

 そして、一つに凝縮し、最後に、ピチッと音が弾け飛んだ。そして、乱馬の足元へと転がってきた。

 小さな勾玉だった。艶やかなほど美しい紅色をした勾玉だった。

 すいっと乱馬は、それを拾い上げた。
 その勾玉を手に取った。
 と、ブスブスと勾玉から音が漏れ聞こえてきた。
 何かを乱馬へと伝えようとしている…。そう直感した乱馬は、その勾玉を拾い上へると、耳元へと運んで、眼を閉じた。

 ジジジジ…ビビビビ…。

 勾玉は懸命に何かを乱馬に囁いていた。
 その言葉がわかるのか、黙ってその音を聞きながら、乱馬は時折、小難しい表情を浮かべた。
 勾玉から音がしなくなると、そっと耳元から外した。
 そして、勾玉を見詰めて、乱馬はじっと考え込む。
 勾玉は鈍い光をまとっていた。まるで、豆電球のように、ついたり消えたりを繰り返す。
 しばらく、そのまま勾玉を眺めていると、ふうっと、一つ、深いため息を吐き出した。
 そして、一言、勾玉へと吐き出した。
「わかったよ…。」と。

 乱馬のその声を聞いた途端、どうだろう、勾玉がピチッと弾けた。ひび割れたのだ。
 と、それを合図に、さあっとカーテンが開くように、目の前の視界が開けた。
 
 空に浮かびながら横たわる、一人の女性の姿が、顕わになっていく。
 あかねだった。

 乱馬は勾玉を右手に握ると、彼女に向かって、ゆっくりと歩み始めた。




二、

「乱馬…乱馬なの…?」
 瞳を空へ向けたまま、あかねが声をかけてきた。

「待たせたな…あかね…。」
 そう言葉をかけると、ゆっくりと歩み始めた。

「本当に…乱馬なの…?」
 あかねは空を見詰めたまま、不安げに問いかけた。

「たく…疑り深い奴だなあ…ほれ…。」
 そう言いながら、指輪をはめた手へ、己の左手を重ねる。
 最初は恐れるようにビクッと力が入ったあかねだったが、その手にある、指輪を確かめるように夢中で触れて来た。薬指にある固い感触を確かめて、安堵したのか、ふうっと長い溜息を吐き出した。
 そのか細い手を、ぎゅっと思い切り握りしめる。
 穏やかな気が、触れた手から流れ込んで来る。闇におかされたあかねを、浄化していくように。
「目…やられちまったのか?」
 その問いかけに、コクンと頭が縦に揺れた。
「そっか…。かなり無理したんだろ?…俺のために…。」
 それには答えず、キュッと握り返して来る手。
「ホント…特に俺のことが絡むと…後先考えずに無茶するからなあ…おまえは…。」
 満面にほほ笑みを浮かべながら、言葉を続ける。
「流幻沢のときも、桃幻郷のときも…それから呪泉洞のときだって…。自分のことなんか顧みずに突っ込んで来ただろう…おまえは…。」
 そう言いながら握った手は、瘴気に蝕まれて、こちらにまで激しい痛みが伝わって来る。
 乱馬のピンチに、黒い瘴気を吸ったり、足らないパワーを補ったりして、恐らくは、闇に必要以上に浸透されているのだろう。
 もう、言葉を発するのも、億劫なくらい、気力も残っていない様子だ。
「こんなになるまで、頑張りやがって…。」
 フッと頬を緩めると、あかねへと柔らかな視線を投げた。
「あかね…。」
 一言名前を呼ぶと、そっと指輪をはめた手を頬へと滑らせた。そのまま膝からしゃがみこみ、ゆっくりとくちづけていく。
 あかねも拒むことなく、薄桃色の唇を預けた。

 少し開いた唇から、流れ込んで来る乱馬の吐息。ふうっと正気も一緒に流れ込んで来るような気がした。
 合わさった唇を離すこと無く、あかねの口元へと舌先を差し入れた。
「ん…。」
 甘い吐息がすぐ傍でもれる。乱馬は絡めた舌先で、あかねから溢れ出て来る黒い瘴気を、少し、吸い上げた。身体をはいずりまわっている、どす黒い瘴気が、乱馬の差し込む舌先で浄化されていく…そんな不思議な感覚にとらわれた。
 フッと、今度は喉の奥から、清涼な正気が吐息と共に流れ込んで来た。
「ん…。」
 また、甘い吐息がすぐ傍で聞こえた。
 しばらく唇を合わせた後、乱馬はすっとあかねから離れた。
 その気配を察して、ゆっくりとあかねの瞳が開いて行く。ぼんやりとだが、視界が戻ったようだ。

「こんくらいじゃ、戻せねえか…やっぱり…。」
 そんな言葉が乱馬の口元から零れ落ちる。

「ごめんね…。」
 思わず謝っていた。

「何、謝ってんでぃっ!」
 ツンといたずらな人差し指が、あかねの鼻を押した。
 いつもなら、「何すんのよー!」…と食ってかかってきそうなものだが、そんな元気も無い様子だった。

 ふと瞳を落とすと、あかねの胸元に、くすんだ色の勾玉がいくつか並んでいるのが見えた。
 玄馬があかねに忍ばせた、「破魔の宝玉」だろう。麻紐に結わえられて、胸元から覗いていた。
 それにそっと触れる。そこからゆっくりと引き抜いた。改めて見ると、勾玉はどれも、ひび割れていて、黒く染め上がっている。邪気を吸った結果なのだろう。

「大丈夫…。今度は俺が…おまえを癒してやるから…。」
 乱馬はそっとあかねに声をかけると、軽く左手にくちづけて、手を離した。
 そして、徐に、破魔の宝玉の束を手に取ると、何を思ったか、別に握っていた、紅い勾玉を、破魔の宝玉の麻紐に通し始めた。
 あかねは瞳を乱馬へと巡らせて来る。急に乱馬の手が離れたことに、少し不安を抱いたようだ。
「乱馬…。」
 弱々しく声が零れる。じっと、乱馬の方へと視線を投げかける。
「そんな顔すんな…。俺はどこへも行かねえよ…。おまえの傍を離れるつもりはねえ…。」

 紅い勾玉を、破魔の勾玉へと器用にくくりつけていく。
「もともと、この紅い勾玉はここについてたらしいんだ…。」
 ふつっと言葉を投げた。
「え?」
「こいつ(紅い勾玉)は、俺たちの祖先が黒龍を封印した時に、破魔の宝玉の結び目から解けて、この世界へ、留まったんだそうだ。」 
 乱馬は作業しながら、不安げにこちらを探っているあかねに、声をかけた。
「それって…どういうこと?あたしたちの祖先?」
 あかねが不思議そうに言葉を返した。
「昔、江戸時代が始まった頃、天海和尚が黒龍だけその呪力で縛れぬと悟った時、已む無くおめーん家の井戸に封印したことは、前に話したろう?」
「ええ…。」
「その封印に、天道家じゃなく…早乙女家…つまり、俺の祖先も関ってたらしいんだ。」
「早乙女家の祖先?」
「ああ…。今から四百年ほど前、天道家と早乙女家の祖先は、それぞれ、天海和尚に仕えていたらしいぜ。
 ま、察するに、僧籍じゃなくって、陰陽道の弟子か何かだったんだろーけどよ…。俺たちの祖先は一度、この空間へと足を運んだことがあったんだそうだ…。
 その時、この紅い勾玉の結び目が解けちまって、落としちまったらしい…。 …おかげでそん時は、完ぺきな封印ができなかったそーだ…。落としたこの勾玉が重要なパーツだったんだってよ…。封印は完遂出来なかった…。
 そんな重要な勾玉を落としても気がつかなかったところが…俺たちの祖先らしいところなんだろーけど…。」
「そうだったの…。」
「ああ。で、紅い勾玉を落とししまって、中途半端にしかできなかった封印は、いつかは破られる…。危惧した天海は、あらゆる呪法を使って、次に封印ができる時期を予測したらしい…。
 封印は、そうやたらと何時も出来るもんじゃないらしくて、天海は慎重に絶好の時期を調べたんだってよ。結果、四百年後、天道家と早乙女家が一つになろうとする時が来る…その刹那に封印はなされるべきだとね。」
「えっ?」
 あかねが小さく問いかけた。

 今の乱馬の言葉を聞くと、遥か四百年前から、あかねと乱馬が縁を結ぶことが、予見されていたことになる。

「天海は天道家、早乙女家、それぞれの家に、意味深な言い伝えを遺したんだそうだ。二つの家の末裔が封印を完遂するために、この世界へ導かれるようにな…。」

 もちろん、あかねには初めて聞かされる内容であった。

「それをやり遂げるためには、八つ勾玉が揃った破魔の宝玉が必要らしい…完全な形としてな…っと、できたぜ。」
 紅い勾玉がくくりつけられた破魔の勾玉。七つの黒い勾玉に囲まれて、ポツンと一つ、紅い勾玉が、真っ赤に燃え上っていた。
「その勾玉、どうするの?」
「これか?結界を作るのに使うんだ。」
「結界?」
「ああ…。術式を発するには、それなりの結界が必要となるのは定石らしいぜ…。」
「乱馬が、お父さんかおじさまに教えて貰ったの?それとも、天道家か早乙女家の家伝に書いてあったの?」
 あかねは素直な疑問を、乱馬へと投げかけて行く。
「いや……。俺も、今し方、知ったばっかだ…。」
 乱馬は意外な言葉を口にした。
「今し方…ですって?…誰に教えて貰ったのよ…?」

「そこの紅い勾玉だよ…。」
 乱馬は破魔の宝玉を手にとって、見詰めた。

「勾玉…?勾玉が喋ったの?」
 これまた、至極、当然な疑問を乱馬へと手向けた。

「ああ…。こいつが、俺の脳内へと、封印のことをいろいろ教えてくれたんだよ…。おめーには信じられねえ話ばっかかもしんねーがな…。」
 乱馬はゆっくりと語り始めた。
「こいつが語ってくれたことによると…。黒龍が天海の産土(うぶすな)活用を拒んだのも、やんごとなき理由があったそうだ。」
「やんごとなき理由?」
「ああ…。ったく…聞いたら気が抜けるような話なんだけどよー。」
「もったいぶってないで話してよ…。」
「おめー、聞いても怒らねえか?」
 乱馬があかねを流し見た。
「はい?」
「だって、ものすごーく、チンケな理由なんだぜ。」
 少しふくれっ面をして見せながら、乱馬が吐き出した。
「そーなの?」
「ああ…。ふざけんなってレベルの話なんだけどよー。……ま、いいか、後で知るより先に知った方が、あとくされもねーか…。」
「何、ぼそぼそ独り言、言ってるのよ。聞かせなさいよ。」

 乱馬のくちづけのおかげで、少し元気になってきたのだろう。あかねは、だんだん口が滑らかに動くようになってきた。

「おめーもチラッと親父たちから聞いたと思うけど…。もともとこの江戸には、五色の龍神が闊歩していたって…。」
「ええ…確か、青、赤、黄、白…そして黒の五色だったわよね?」
「記憶力良いなあ…その通りだ。…で、何で他の龍神が天海和尚の意向を受け入れて、黒龍だけが受け入れなかったか…わかるか?」
「…さあ…あたしにはさっぱり…。」
「まあ、普通そうだよな…。」
「で?」
「黒龍が受け入れを拒んだのは…ペアじゃなかったからだそうだ…。」
「はあ?」
 疑問だらけの瞳を、乱馬へと巡らせながら、一言吐き出した。
「つまり…龍神はそれぞれ性別があって、他の色の奴らは、それぞれペアだったそうだ…。どれとどれがペアだってことまで、知らねーけどな。」
「って…もしかして…黒龍だけ、パートナーが居なかったってこと?」
「そーゆーことらしいぜ。だから、他の龍神は、天海和尚の進言を快く受けて、それぞれ、産土として従っても、黒龍の野郎だけは、拒否して従わなかったそーだ。」

「何…それっ!」
 思わずあかねが吐き出していた。

「ほんとに、マジで…何それっ!…だろ?…ったく…。」
 説明している乱馬も、思い切り脱力しているらしく、大きなため息を吐き出した。
「あまりに節操無く黒龍がごねまわったらしくって、頭に来た天海が、俺たちの先祖を使って、封印してしまったんだとよー。」
「……。」
 あきれ果ててしまったのか、あかねは黙り込んだ。
「ま、そこまでは良いとして…。黒龍の野郎。それで、おめーに執着したらしいんだ…。おめーは憎き天道家の血も引いてるしな。」
「でも…何であたしなの?お姉ちゃんたちも居るのに…。」
 あかねが問いかけた。
「そりゃあ…あれだろ?黒龍の奴の好みがおめーだったんじゃねーのか?…かすみさんは既婚者だし、なびきは「あの性格」だぜ?…それに、早乙女家の末裔の俺への当てこすりみてーなのもあったんじゃねーのかな。おめーは俺の許婚だし…。」
「変なの…。」
 あかねは、それを聞いて、クスッと笑った。
「こら…笑いごとじゃねーぞ!」
「だって…妖のくせに、人間っぽいじゃない?」
「たく…そいつに翻弄されたんだぜ?俺たちは…。」
 苦笑いしながらも、乱馬は続けた。
「んで…、黒龍を後腐れなく、この場で封印しちまえって、紅い勾玉がうるさくってよー。さもなくば、また抜け出て来て、おめーに悪さするかもしれねえって散々脅してきやがるんだぜ…。」
 チラッと紅い勾玉を見詰めながら、吐き出した。
「それって…脅しなの?」
「ああ…脅しだよ…。ったく…。もうたくさんだっつーのっ!おめーは瘴気浴びてボロボロになるし、俺は女化して散々だったし…。」
 ぶすっとした表情で、あかねへと向き直る。

「で…その件に関して…ちょっと相談があんだけど…。」
 少しはにかんだ表情を手向けながら、あかねをチラッと見下ろして来る。「相談」という言葉を持ち出した辺り、明らかに、何かを惑っているような感じである。
「何?改まって…。」
 あまりに真摯に問いかけて来るので、訝しがった。
「もともと天道家と早乙女家の祖先が、封印をやり損ねて、いろいろすったもんだしてるんだから…その子孫として、きちんと責任をとらねーといけねーって、この勾玉が言いやがんだ。」
「じゃあ、やれば良いんじゃないの?」
「まあ…そーなんだが…。封印ってーのが、ちょっと…。その…。」
 もじもじとしながら、口を止めた。
 明らかに、その先を言うのを躊躇っている様子だ。
 その、間が気になったあかねは、率直に尋ね返す。
「ちょっと…何?」
 
「ええいっ!ぐじぐじ言ってても始まらねえや…。その、何だ…天道家の末裔のおまえと、早乙女家の末裔の俺とが、ここで契りを結んで、封印しろって言いやがんだっ!」
 早口で一気に言い切った。

「えっ?」

 契りを結ぶ…。その言葉に、あかねは言葉を飲み込んでしまった。
 言った乱馬もそうであったが、あかねの顔が真っ赤に熟れる。

 二人が狼狽する様子に業を煮やしたのだろうか。紅い勾玉が光を放った。ビチビチと音を響かせて、何かを懸命に乱馬たちへと訴えかけているようだった。

「今度は何て言ってるの?」
 勾玉の言葉を解さないあかねが、乱馬へと問いかけた。
「この封印は…天道家と早乙女家の血が流れていて、かつ、気の交換が出来るほど強い絆を持つ、俺とおまえにしかできねーそうだ…。二人の身体を合わせることによって、封印を結ぶ…。そういうことらしい…。」

 どうやら乱馬は、妄言を言っているようでもなかった。
 勾玉が言ったことを、そのまま言葉に乗せている。
 己の恋愛に不器用な彼が、ふざけて話す内容でもなかった。
 
「気と気と合わせながら深く交われば…おめーの中に入り込んだ、瘴気も、それで完全に払拭できる……特にあかね…おめーは、結構、闇を吸いこんだろうから、平気そうに見えても、このままじゃ現世には帰れねえ…そう言ってやがる…。」

 乱馬は一転、真顔をあかねへと手向けた。

「確かに、そうだよな…。おまえ、俺を助けるために、相当無理したろう?さっきだって、目も見えて無かった。それに、今だって…起き上がるのも困難な状況だ…そうだろ?」
 思わず掴んだ細腕を、グッと握りしめた。
「大丈夫よ…これくらい…。」
 精一杯の強がりを吐き出し、立ち上がろうとした。しかし、体は正直だった。立ち上がるどころか、ぐらっとバランスを崩し、倒れかかった。
「あぶねえっ!」
 乱馬は倒れかかったあかねを必死でつかみ取った。
「ほら、言わんこっちゃねえ…。」
 力なく、だらりと垂れた腕をつかみ、あかねをそのまま、抱きかかえた。

 乱馬の腕を借り、立ち上がる元気も、あかねには残されていない。
 火が出るほど恥ずかしかったが、厚い胸板に身体を預けて、枝垂れかかる。

「もう、無理はするな…。あかね…。封印なんて、クソ食らえ…だ。たとえ、この世界から帰れなくても…俺は…。矛盾してるかもしれねーが…おめーを…俺のために身体を張ってくれたおめーを…今は…癒してやりてえ…ただ、それだけだ。」
 柔らかな温もりが降りて来る。それは、とても、心地よい気脈の流れだった。
 思わず、抱きしめる腕に力が込められた。

「乱馬…。ありがとう…。」
 あかねは、大きく息を吸いこんで、瞳を閉じた。
 抱きしめられているだけで、己の中から瘴気が抜けていくのが良く分かった。
 覆って来る温もりに素直に身を任せた。再び巡り合えた喜びに、身体の傷も心の傷も、一斉に消えて行く。

「あかね…。」
 全身で抱きしめ、胸一杯、深く呼吸するだけで、あかねの良い香りに包まれて行く。


 今までは指輪だけで交換していた二つの魂が、互いの肌の温もりで、穏やかに溶け合い始める。
 誰も二人の純粋な抱擁を、引き裂くことはできないだろう。

 二人の抱き合うすぐ傍で、破魔の勾玉が、一斉に光を放ち始めた。

 

三、

 二人、触れあったまま、少しまどろんだ。
 ここに至るまでの、様々な困難が、柔らかなまどろみへと二人を連れて行ったのかもしれない。
 目を閉じたまま、じっと互いの鼓動を傍で感じていた。
 二つの心音が、トクドクと共鳴し合いながら、すぐ傍で脈打っている。
 一つ心音が響くたびに、あかねの身体を蝕んでいた邪気が、清廉な正気へと変わっていく。

 いったい、何時間ここで二人、まどろんでいたのだろう…。
 いや、時間など、この空間では何ら意味を成さない存在なのかもしれない。
 ふと瞳を開いた時、傍でほほ笑む柔らかな視線を捉えた。
 ずっと、見詰めていてくれたのだろうか…。少し気恥ずかしさを覚えたが、彼は右手であかねの髪をすきあげた。

「ちょっとは、元気、戻ったか?」
 柔らかな声で問いかけて来る。
「うん…。」
 そう答えると、また、ギュッと抱きしめられた。
「でも、まだ瘴気が完全に消えた訳じゃなさそうだな…。」
「わかるの?」
 あかねが不思議そうに見上げると、コクンと頭が大きく揺れた。
「ああ…。おまえの身体から染み出してくる瘴気が痛いくらいに、俺の中を駆け巡りやがる…。」
 心配げに揺れる瞳。
「乱馬こそ大丈夫?無理してない?」
 憂いを帯びた瞳で問いかける。
「無理なんかしてねえ…。でも、俺の力不足なのかな…。おまえを癒しきってやれねえ…。」
 そう言って、ほおっと深いため息を吐き出した。


 あかねにはわかっていた。
 この闇を完全に払拭するためには…封印は不可欠だということを。
 乱馬も恐らく、同じ想いに至っているだろう。でも、迷っているようだった。
 流れて来る柔らかな気に、迷いがあった。あかねを大切に想っていてくれるからこそ、困惑しているようにも感じられた。

 さっきから、傍らに置かれた、破魔の勾玉が、じっとこちらを見据えているような気がする。
 何を躊躇っているんだと、攻めるように沈黙しているようにも見えた。
 
 察するに、天道家の祖先と、早乙女家の祖先も、同じような男女一組のカップルだったのかもしれない。愛し合い過ぎて、或いは、不器用過ぎて、結果的に睦みあえず、封印を逃してしまったのかもしれない。
 そんなことをフッと思った。

(あたしたちの祖先なら…きっと、やっぱり、優柔不断だったろうし…。)

 乱馬も事態を飲み込んでいて、敢えて、無理強いしてこない。
 あの優柔不断の塊のような性格だ。あかねが瘴気に中てられて、不完全な状態なのを気にして、これ以上、踏み切れないのは明らかだ。
 あかねに対して仕掛けて来る抱擁も、どこか遠慮がちだった。
 労りと言ってしまえば、それまでだが、己の感情を必死で抑えている帰来が随所に表れていた。

 
…戸惑っている乱馬の真意は、本当はどこにあるのだろうか…。


 もう一つ、彼が迷っているのは、破魔の勾玉や天海和尚、それから、父親たちの掌で踊らされていることが気に食わないのだろう。
 いくら愛し合う二人でも、無理強いされれば、それは別の意味を成してしまう。そんなギリギリのところを、迷っているに違いなかった。
 あかねとて、二人の純愛を、結界を結ぶという大義名分でもてあそばれることは、不本意の一言に尽きる。
『封印なんて、クソ食らえ…だ。』と吐き付けた、彼の心情も理解できた。

 
…でも、四百年前、天海和尚が、はるか未来の二人のことを見据えていたとすれば…。
…突き付けられた現実から、逃げてはいけないのかもしれない。


 『恋とは、男子と女子の一本勝負だ…。』…いつだったか、乱馬がそんな言葉を吐き出したことがあるが、確かに、言い得て妙な言葉だと思った。
 つい、勝ちと負けの双方にだけ目が行きがちなのは、格闘に身を置く二人の性分みたいなところがある。
 乱馬もきっと、誰かの言いなりに初夜を迎えるのは負けに等しい…というくくりで捕えているのだろう。
 対して、自分は…。
 
 ふと、遠い日を思った。出会った頃の、ほろ苦い思い出。
 あの頃は、反発しあい、喧嘩ばかりしていた。
 乱馬だけを責められたものではない。あかねも、恋は一本勝負的な心情を持っていたのは否めない。特に、初恋に大負けして以来、その一本勝負に向き合うのさえ、臆病になっていた時期があった。
 日々、惹かれて行く乱馬に対して、やきもちを妬いたり、喧嘩ばかりしていたりの連続だった。
 「好き」という感情を、言葉に乗せて言ってしまえば、負けだと思ってはいなかったかろうか…
 負けることを良しとしていなかった自分が居たのではないか…。
 恋愛は勝ち負けではない。そのことに気づくまで、随分遠回りしてしまったではなかったのか…。
 互いに「好きだ」という言葉は、天邪鬼な心へと隠していた。多分、乱馬もそうだったと思う。
 好きという気持ちを、素直に示せるようになったのは、ごく最近のことだ。それでも、時折、天の邪鬼な心が、頭を持ち上げて来る。
 
 想い想われる相思相愛が、こんなに幸せなことなのだと、素直に思えるようになったのも、ごく最近だった。
 彼の逞しい気に触れるだけで、心は安らぎに満ちる。
 今、この時も、安らぎで満たそうとしてくれている。
 だからこそ、失いたくは無い…。
 ずっと、傍に留めておきたい…。

 抱きしめられた身体から、流れて来る柔らかな気に身を委ねながら、あかねは決意した。
 



「乱馬…。」
 見開いた瞳を、しっかりと手向けて、あかねは彼の名を呼んだ。
「何だ?」
 急に名前を呼ばれて、ふっと浮き上がる漆黒の瞳。
「ねえ…あたしたちは、試されているのかもしれないわね…。」
 とそんな言葉を投げた。
「え?」
 急に、どうしたと言わんばかりに、きょとんとあかねを見返してくる。
「二人の絆よ…。この絆が、本物なのかどうかを…。」
 そう言いながら、乱馬の背中へと、しなやかな腕を伸ばした。
 
 あかねの積極的な行動に、ハッと乱馬の瞳が見開いていく。

「おめー…まさか。」
 そう問い返した乱馬に、コクンと大きく頷いて見せる。

「これが、あたしたち二人に課せられた宿命ならば、目を背けてはいけないと思うの。
 一歩を踏み出さなければ、どこにも行けないでしょ?…だから…。」
 
 あかねの瞳には強い意志の光が灯っていた。神々しき光だった。その光の中に、迷いは無い。
「あたしは、あなたと一歩を踏み出すわ…。」
 瞳に宿った、強い光に、乱馬の心は射抜かれて行く。

「わかった…。」
 そう一言を投げると、乱馬もまた、あかねの肩へと手を伸ばした。

「後悔はしねーか?」
「馬鹿ね…する訳ないでしょ?だって…あたしたちは…許婚よ…。」
「あかね…。」
 囁くように名前を呼んで抱きしめた。自然、その腕に力がこもる。


 それは長いキスから始まった。どちらからともなく寄せ合う唇。
 軽く合わせるだけではなく、深く募った想いを浄化させるために交わすくちづけ。甘露のような甘さを味わう長い接吻。
 これまでの比ではなかった。どこに、そんな情熱が隠れていたのかと戸惑うほどに、激情が唇に籠められている。
 最初は壊れ物を触るようにぎこちなかった互いの動きも、だんだんと滑らかになっていく。
 不思議な感覚だった。
 ひとつひとつを丁寧に確かめるように自然に動く身体。乱馬の優しくも激しい愛撫に、あかねは弓のように身を捩じらせ登りつめていく。
 口からは溜息のような高まりの声を洩らす。

 触れる度に、あかねは熟れた目を潤ませ、咽喉を震わせながら擦れた声で乱馬の名を呼ぶ。

 背中に絡まるしなやかな腕。
 自分の下にある珠のように白い身体。
 ふくよかな胸の膨らみ。全てが愛しかった。
 
「愛してる…あかね。」
 交わる耳元で、はっきりと囁いた。
「乱馬…大好きよ」
 ほほ笑みながら、その言葉に応えた。

 やがて、あかねの身体で蠢いていた闇は、二人の交わりによって、密やかに消えて行く。
 破魔の宝玉も、吸い込まれるように、空へと消えていった。
 



 もう離さない。
      離れない。
   いつまでも。
       時が果てるまで。
     ずっと傍にいる…。
          傍にいるから…。
 


 閉じた瞼の向こう側に浮かんだ半分の蒼い月が、ほほ笑んだような気がした。


 



四、

 窓から差し込む仄かな木漏れ日に、乱馬はふっと目を開いた。
 少しだけ開かれた窓から流れる朝の冷気。
 頬に軽く触れて止まった。

「ここは…。」
 意識が戻ると、ハッと上体を起こした。
 ひんやりと冷たい、風の感覚が頬に伝わる。
 その冷たさとは真逆に、伸ばした右腕に絡まる、柔らかな感触。
 目を転じると、そこには愛する者の、穏やかな寝顔があった。

 自分の方へ伸びた肩は白く、手は固く握られたままだ。長い睫は軽く閉じられ、口元からは規則正しい呼吸が響く。
 身体には何もまとっていない。
 生まれたままの姿で、二人、身体を寄せ合って眠っていた。

「ここは…あかねの部屋…だよな…。」

 どうやら、闇の世界から無事、生還できたらしい。
 見覚えのある、あかねの部屋だった。一人サイズのあかねのベッドの上で、まどろんでいた。
 何故、この場所で目覚めたのか…。多少の理不尽さは伴うが、紅い勾玉辺りが、気を利かせてここへ戻したのだろうか。

 回らない頭で、ぼんやりと、記憶を巡らせて行く…。
 記憶の欠片を辿りながら、感慨深くあかねの寝顔を見詰めていた。

 昨夜の情景がフッと、脳裏に過る。
 身体に残る熱が、昨夜の記憶を艶やかに甦らせる。
 
 そう…、二人は結ばれた。
 深く睦び合った熱い記憶が、生々しく巡る。

 最初は壊れ物を触るようにぎこちなかった。
 壊してしまって良いのか、戸惑いもあった。

 でも…。
 
 己にそんな激しい情熱があると思わなかった。
 二人、激しく求め合った。
 愛する女性を腕に抱き、全てを絡め取っていった満ち足りた時間。
 あかねの声に誘導されるまま、激しく求めていた。
 熱い想いがまだ、身体を駆け巡っている。
 刻まれた記憶が、熱く炎を宿して、心の中で揺らめき始める。



 出逢った頃からずっと好きだったあかね。
 他の誰にも渡したくないくせに、天の邪鬼な行動ばかりを繰り返していた。
 想いが通じても、清廉な彼女を壊したくなくて、一指も触れずに純潔を守り通してきた。
 うっすらと流れた紅い血…。切なく零れる啼き声…。ほとばしって行く情熱。
 やがて、清らかで美しい肢体は、乱馬のためだけに燃え上がていった…。

 深く交(まぐ)わったとき、ずっと昔から彼女を知っている気がしたのは何故だろう。
 懐かしい暖かさ。満ちる安らぎ…。
 彼女が紅い太陽ならば、己は蒼い月だ。
 この世に生を受けてからずっと探してきた半身。
 悠久の時を超えて、今やっと一つになれた歓び。
 憂いも悲しみも寂しさも全て打ち捨て、無我夢中で己の太陽をその体に深く抱いた。
 月明かりが二人の背中を洗い出し、揺らめく情熱の光で二人の影を蒼白く照らし出す。
 寄せては引いてゆく波に身を任せて、煌く海に揺られ、一つの魂となって溶け合った。
 月と太陽は海へと飲み込まれてゆく…。生命の源、母なる海の底へと。
 軽く目を閉じ、愛しい半身の名前を呼び合いながら、共に永遠の輝きをその瞬間に塗りこめた。
 
 その純粋なまでに研ぎ澄まされた交わりの記憶が、たおやかに流れていく…。


 眠るあかねを見詰めながら、自然と笑みが零れ落ちる。
 そっと頬に触れてみた。その手には指輪が光っている。
 
 あかねはすぐ傍で感じた乱馬の気配に、そっと目を開けた。
 きょとんと見上げる瞳に、手向けられてくる柔らかなほほ笑みが映し出される。
 乱馬の瞳が自分に注がれていることを知り、はにかみながら微笑んだ。
 その笑顔を繋ぎとめようと、乱馬は真っ直ぐに言い放った。
「おはよう…。」と。
 これから何度も伝えるであろう一日の始まりの言葉。
「おはよう…。」
 頬をピンク色に染めながら答えるあかね。
 そのかわいらしさに、ギュッと抱きしめる手に力が入った。
 無我夢中で身体を引き寄せる。
 戸惑いながらも、その身を乱馬へと預けるあかね。
 迷う唇へ軽くキスをする。

「戻って来られたのね…。」
「ああ…。」
 二人、辺りを見回して、満足げに微笑む。
「良かった…。」
 安堵のため息があかねの口から零れ落ちる。
「ああ…。」
「封印はちゃんとできたのかしら…。」
 少し不安げに揺れる瞳に、柔らかく乱馬は答え返した。
「無事に完結できたんだろうぜ。だから、ここに戻ってこられたんだ…。それに…。」
 すうっと息を吸い込んで乱馬はにっこりとほほ笑んだ。
「あかねの身体からは、邪気が消えてるだろ?」
 確かに、どす黒く駆け巡っていた、瘴気は身体から消えていた。
 あの時、乱馬と深く結ばれた時、清らかな気と共に、浄化されていった。
「ええ…。もう、けだるさも無いわ…。」

 そっとタオルケットで前を隠しながらあかねは乱馬の腕から抜け出した。
 窓を開いて、朝の新鮮な息吹を取り込もうと、光射す方へ、ゆっくりと立ち上がった。

「あ…。」

 立ち上がった拍子、彼女は小さく声を洩らした。
 そしてはにかむように乱馬を見詰めた。
「どうした?」
 乱馬は不思議そうにあかねを見上げた。

「今…乱馬が…あたしの身体から流れ出したわ…。」
 そう言いながら脚の方を俯いた。
 薄い布から剥き出た右足の内側に、流れる一筋の白い雫。糸を引くようにつうっと伝っていた。
 乱馬もそれを目で追った。
「それは…。」
「乱馬があたしに注いだ、封印の証よ…。身体を急に起こしたから溢れ出したのね…。」
 そう言ってあかねは柔らかく微笑んだ。

 あかねの奥から流れ出した雫。それは乱馬があかねに注いだ愛の情熱。白い朝の雫。

「これは、ただの封印の証じゃねーぞ…。」
 ぼそっと乱馬が言った。
「俺の愛の有りっ丈だからな…。他の奴らにはくれてやんねー。」
「バカっ!あたりまえでしょ?」
 その言い方が可笑しかったのだろう。クスッと乱馬が笑った。
「ったく…このやきもち妬きめっ!」
「うるさいわねー。ベッドサイドでも、喧嘩を売る気?」
 少し拗ねた瞳を乱馬へと巡らせてくる。

「喧嘩するほど仲が良い…ずっと言われ続けてきたろう?」
「そうね…それが、あたしたちの愛の在り方だったものね…。」
「不満か?」
「だったらどうするの?」
 いたずらっぽい瞳を巡らせながら、二人は囀る。
 出会った頃から変わらず、痴話喧嘩に暇(いとま)が無い。

「ねえ、一つだけ約束してくれる?」
 途中であかねが言葉を投げて来た。
「何を…だ?」
「いつまでも、あたしだけを愛してくれるって…。」
 はにかんだように見上げてくるあかねの笑顔。

 乱馬はゆっくりと身体を起こすと、そのまま後ろからあかねに腕を伸ばした。
 そして、あかねを包み込むと、返答の代わりにそっと唇を合わせた。

(バカ…あたりめーだろ?)
 そんな囁きが、唇から聞こえて来たような気がした。


 初めて迎えた朝の光の中に、二人のシルエットが静かに浮かんでいた。



つづく



次回、最終話…大団円…のはず。


(c)Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。