◆蒼い月と紅い太陽

第二話 三年目の春
一、

 乱馬が旅立って、三年という年月が過ぎ去った。

 ついこの前、誕生日を迎え、二十二歳になったばかり。
 乱馬もあかねと同じ四月に生まれているので、彼も二十二歳だ。共に、別れたまま、また歳を重ねたのである。

 短かった髪は、乱馬が天道家を旅立って以来、ずっとのばし続けた。三年前よりも四十センチくらいはのびただろうか。最初に乱馬と出会った十六歳の春ごろと同じくらいの長さにまでのびてしまった。
 鏡に映し出される、長髪を見る度に、ふっと、乱馬の無事を願う。
 時々、後ろに流した髪を無造作にゴムバンドに束ね、自ら、おさげを編んでみる。不器用な彼女は、自分の髪を上手く編めず、いつも、不細工なおさげになってしまうのだ。その度に漏れる溜め息。
 
 三年の間に、あかねは、進学した短大を卒業し、就職した。現在の身分は、オフィスレディー。
 相変わらず不器用なあかねだったが、美人であることは誰の目にも明らかで、とある企業の本社ビルの受付業務をこなしていた。
 人あたりも良いし、親切。
 何より、普通の受付嬢とは違い、企業へ直接乗り込んでくるたちの悪いお客には、得意の武道で御退散願えるのだが、彼女の魅力だろう。受付の下に、ブロックが幾つか置いてあって、無理難題押し入って来る客が現れると、待っていましたとばかりに、気合い一発。目の前で、一気に三枚ほど縦に割って見せられると、大概の不埒な客人は、顔色を変えて、出て行くという訳だ。
『変なところで、無差別格闘が役に立ったるのねえ…。』
 と姉のなびきは、笑い転げる。
『いや、それでこそ、天道家の娘だよ。』
 と父の早雲は、ウンウンと頷く。

 三年という月日の間に、天道家を巡る人たちも、少しずつ変化していった。

 乱馬の父・玄馬と母・のどかは、乱馬が出て行って間もなく、天道家を出た。とは言っても、天道家とは目と鼻の先、同じ町内で借家を借り、そこで早乙女夫婦水入らずで暮らしている。毎日のように、玄馬は早雲の元へとやって来る。二人は相変わらず仲良しであった。

 天道家から出て行ったのは、早乙女夫妻だけではない。
 長姉のかすみもまた、天道家を出て久しい。
 かすみは、昨秋、めでたく、東風先生と夫婦になった。これまた、紆余曲折の末、収まるべきところへ収まったということだろう。
 今は、二人で「小乃接骨院」を切り盛りしている。
 かすみを目の前にした時の、東風先生の壊れ方も、この頃は、少し、マシになってきたようだ。
 なびきはまだ、天道家に在宅している。
 会社勤めはせず、自営業。大学に在学していたころから、自分で事業を立ち上げていた。元々、商才があるなびきのことだ。同級生の九能を体よく巻き込んで、彼の家の資金を元に、プロダクト会社を経営していた。将来はショービジネスへと手広く展開させると、野心に燃えている。その美貌と経済眼光の鋭さで、逞しく生きている。
 現在の天道家は、早雲となびき、そしてあかねの三人世帯になってしまっている。時折、不定期ペットのPちゃんが居るが、相変わらず、戻ってはどこかへ行き、の繰り返し。方向音痴の良牙だから、仕方があるまい。むろん、あかねは、良牙とPちゃんが同一とは未だ気付かずだ。八宝斎も、滅多に姿を現さなくなった。
 乱馬が去った後、天道家は、火が消えたように静かになってしまった。


 当然、乱馬を取り巻いていた「三人娘」たちも、まだ、この土地に元気よく暮らしている。だが、彼女たちにしてみれば、乱馬がいなくなった天道家には用がないのだろう。
 右京は高校卒業後は昼間も店を開けるようになり、ますます、客回りが良く、毎日、お好み焼きを焼き続ける毎日。
 小太刀はそのままセントヘベレケ女学院大学へ進学。現在、四回生。格闘新体操界の仇花として名を馳せている。
 猫飯店も健在で、珊璞と可崘婆さんと沐絲の三人で、店を切り盛りし続けている。

 乱馬を待っているのは、あかねだけではないのだ。三人娘たち、それぞれが己の思惑で、乱馬をずっと待ち続けているようだ。
 

 一方で、乱馬はというと、時々、あかね宛に消息を送って来た。
 携帯電話など持たぬアナログ人間の彼。月に一度程度、便りを寄こすのだ。便りと言っても筆不精な彼のこと。書簡ではなく、絵ハガキだ。滞在している土地の写真や絵に、「元気か?」とか「今、ここに居る。」といった、一言が添えられているだけの簡単な物だった。彼らしいといえば彼らしい。
 それでも、あかねにとっては、乱馬の便りが嬉しい。全てを丁寧にファイルして、寂しくなれば、それに目を通す日々。
 二年ほど前からは、海外から届くようになったところを見ると、世界を股にかけて修行しているらしい。
 様々な武道大会に出場し、武者修行しているようで、ネットを駆使して掴んだ彼の消息を、時々、なびきが、あかねに教えてくれた。
 昨秋ごろから、彗星の如く現れた新人として、注目され始めているという。
 当のなびきも、「群雄が割拠する中で、きらめく原石だから、帰ってきたらうちの会社がマネージメントを受けるわ。」と鼻息が荒い。故に、彼のことを定期的に調べては、あかねに情報をくれるのである。
「あんたからも、他へ行かないように、言い添えておいてよ。」などと、その度ごとに声をかけて来る。
 パソコン画面の動画サイトで見る彼の動き。確かに、相当腕をあげているようで、頼もしくもあり、遠くなってしまったと思うこともあり、複雑なあかねだった。
 彼の髪には、今だ、トレードマークのおさげが揺れている。それを見て、ホッと安堵するのは何故なのだろう。

 天道道場の跡取り娘というより、OLとして、それなり多忙な毎日を送っている…それが、今のあかねであった。

 ただ、一見、平和そうに見えるあかねの周辺だが、乱馬が居なくなって以来、不穏に賑やかにもなっていた。
 乱馬が天道家に来る前もそうだったのだが、どう言う訳か、彼女の周りには求愛してくる男が多い。乱馬が居た頃は、彼が影でそういう不埒な連中を淘汰していたこともあり、なりを潜めていたが、彼が去ると、不思議と、また、男たちが群がり始めた。
 短大時代は女子だけだったので、まだ、マシではあったが、社会人になって以来、得意先やら顧客やら会社の上司、同僚、果ては電車通勤の道すがらなど、接触を求めて来る男が後を絶たない。

「たく、許婚(虫よけ)が居なくなった途端よねえ…。また、男がすり寄って来るようになったのは…。」
 となびきが笑うほど、もてるのである。

 もっとも、あかねの武道の腕前は、かなりであるから、直接手を出してくるバカは殆ど居なかったし、時折、早雲や玄馬、良牙や九能辺りが、あかねに近寄る男を牽制してくれることも多かった。
 自分に求愛してくる男連中の気配に慣れていたあかねも、最近、気になりだしたことがあった。
 彼岸の辺りからだろうか。時折間近で感じる、嫌な感覚。
 
 最初は、時々、忍んで来るストーカーたちの気配かとも思ったが、どうも、違うようだ。普通のストーカーなら、忍んで来ても、気配ですぐに察知できた。
 案外、あかねを盗撮しようと挑んでくる男連中が多かったので、あまりにしつこい時は、つい、手が出そうになる。さすがに、カメラや携帯電話を壊す訳にはいかないから、その辺にある、壊しても問題にならない物を破壊して、牽制する。大抵のストーカーはあかねの腕っ節に驚いて、逃げてしまう。
 一方、その嫌な気配は、あかねが察して瞳を手向けると、必ずと言って良いほど、すうっと空気の中へと溶け込むように消えてしまうのだ。人の気配とは全く別の物のような、得体の知れなさがあるのだ。それだけに無気味であった。
 盗撮は盗撮で、辟易としているのだが、相手にまともに怒るのも何だか気げ引けて、見て見ない振りをしているあかねであった。

 四月に入って、気配はだんだんに強くなってきているような、そんな気もする。いったい全体、その気配の元は何なのか。未だ、つかみきれないのである。


 四月三週目の土曜日。

 その日も、その気配を感じていた。


ニ、

 桜の季節も過ぎ去り、緑が鮮やかに萌え始めた。菜種梅雨という言葉通り、先週一週間は、ぐずついた天気が続いた。久しぶりの太陽の光に、洗濯物がたくさん、庭先に揺れている。

 普段の土曜と同じように、あかねは朝から道場に籠り、自らの稽古をしていた。殆どの場合、稽古は自分一人で行う。基本の型から入って、激しい動作に至るまで。毎日一定のメニューをこなす。土日はそれに加え、別メニューで真摯に身体を動かしまわる。
 時折、父の早雲や、遊びに来る玄馬に組み稽古をつけてもらうのを、楽しみに励んでいた。
 一人稽古の時間が長くなると、対戦相手が恋しくなる。
 一人稽古は、己との闘いだ…と、前に乱馬が言っていたが、その通りだと思う。サボるのも、厳しくするのも、己の意志一つ。

「でやーっ!」
 ザッと繰り出す激しい蹴り。ふっと空で止めて、辺りの気配を伺う。

(また…だわ。)
 と、動きを止めた。

 誰かの気配が己の後ろに立った…。そんな感じ。もちろん、振り返っても誰も居ない。シンと静まり返る板張りの道場。

「どうかしたのかね?あかね。」
 早雲が、入口から声をかけてきた。

「あ…お父さん…。」
 あかねはタオルで流れる汗をぬぐいながら言った。春浅いとはいえ、縦横無尽に動き回ると、玉のような汗が全身から滴り落ちる。

「ねえ、お父さん、最近、変な気がこちらを伺っているっていう感覚に襲われることがあるんだけど…。…お父さんは感じたこと無い?」
 とポツンと吐き出した。
「変な気?」
 早雲が、瞳を巡らせて問い返す。
「ええ…。こう、邪気のような嫌な気配なんだけど…。」
「この道場でかい?」
 早雲の問いかけに、あかねは首を横へ振った。
「道場の中だけじゃなくって…家の中とか、庭先とか…。」

 そうだ。その気配は、家でしか感じない。まれに感じても、天道家の近隣だけでだ。

「家の外ならいざ知らず…家にまで入って来るのは…五寸釘君や佐助君の気配じゃないのかね?」
 そう、同級生の五寸釘光は、家の中まで侵入して、あかねを盗撮していくのだ。いくら注意しても、一向に辞める気配も無く、半ばあかねも諦めていた。
 佐助は九能辺りに、おさげの女の出入りが無いか、あかねはどうしているかの、定期的確認の時折忍んで来るようだ。九能家の御庭番としての勤めを果たしている。
 父も、五寸釘と佐助の気配は感じているらしく、それを示唆したのだろう。
「ううん、五寸釘君とか佐助さんの気とは少し違うのよ…。もっと、陰湿というか、邪気を孕んでいるような感じなんだけど…。」
 あかねの言葉に、
「うーん。お父さんは何も感じないねえ…。」
 と腕を組む。
「そう…なら、良いわ…。きっと気のせいね…。」
 あかねはあっさりと、そこで話を切った。

 早雲が何も感じないと言う以上、己のストレスから引き起こされる「気のせい」で流そうと思ったのだった。
 社会人になって二年目の春。二順目ともなると、様々、仕事上や付き合い上からもいろいろ複雑な環境というのは生まれて来る。
 春先は、新入社員歓迎会だの、転勤異動の歓送迎会だの…お花見だの…とにかく、宴会の機会が多く、入社二年目のあかねたちが、その中心となって動かされることばかりが続いていたからだ。

「あ、そうそう…久しぶりに早乙女君の家に所用があるから出かけて来るよ。」
 と早雲はそれを言いにここ(道場)を覗いたらしい。
「え?おじ様が来るんじゃなくて…お父さんが行くの?」
 不思議そうに、あかねが問いかけた。
 大抵の場合、天道家へ玄馬がやって来るのであるが、今日は逆だと言う。珍しいことだ。
「ま、たまには家へおいでよと、早乙女君に誘われたんだ。ワシの分は、夕飯は要らないからね。」
 早雲は、道場にそれを言いに来たようだ。

「わかったわ。じゃ、おじさまに、また今度、組み手の相手してって伝えておいてね、お父さん。」
「おいおい、あんまり早乙女君に我がまま言っちゃいかんよ…。」
「だって、たまにはおじさまくらいのレベルの相手とやりあわないと、身体がなまっちゃって…。お父さんばかりだとつまらないし…。」
「たく…親を何だと思ってるんだ?…まあ、良い。行ってくるよ。」
 早雲は、軽く言い放つと、そのまま、玄馬の家へと出かけて行ってしまった。


 早雲が居なくなると、また、あかね一人の空間になる。

「そろそろ、夕ご飯の支度しなきゃね…。お父さんがいらなくても、なびきお姉ちゃんは食べるでしょうし…。っと、その前に、お洗濯物も入れなきゃ…。」

 一瞬で、天道家の主婦に立ち戻る。
 かすみがこの家を出て以来、休日はあかねがおさんどんをやっていた。
 仕事と家事の両方を、てきぱきと要領よくこなせるあかねではなかったので、時間を気にしなくても良い休日は、自分のペースで家事をこなしていた。いずれ、乱馬と家庭を持った時に困らない程度にしておかねば、彼が帰って来た時、からかわれるに決まっているからだ。
 平日は、早雲が暇に明かして、家事をこなしている。時折、乱馬の母・のどかや、かすみがやって来て、適当に手伝ってくれているようだ。

 道場を出て、母屋の方へ歩いて行く。道着で家事をするのも気がひけたので、着替えようと思ったのだ。

 あかねは母屋へ入る前に、ふと庭先が気になった。

 道場と母屋の裏口の間に、古い井戸がポツンと佇んでいる。
 天道家は江戸期から続くという旧家なので、井戸の一つくらいはあっても、何ら不思議ではない。が、井戸水を飲み水として使わなくなって久しい。飲み水は都市水道を引いている。
 それならば、さっさと埋めてしまえばよさそうなものだが、簡単に埋めてしまう訳にもいかないと早雲は言っていた。
 いろいろ、天道家の古くから家伝と共に伝わるしきたりやら、言われやらがあって井戸を埋めるのは、とても難しいらしいのである。下手に埋めると、井戸の神様が怒って家を滅ぼしに来る…とか無責任な親戚などに言われると、早雲も早々に決断できないのであろう。
 古井戸は飲み水として使わずとも、時折、庭の水まきや掃除にポンプで汲み上げて使っている。いちいち、ポンプで汲み上げるのがとても面倒だったが、それはそれで、力が必要なので、修行になるからと早雲は笑っていた。
 

(そう言えば、あの気配が気になりだした頃だったわよねえ…。井戸水に異変があったのは…。)
 そう思いながら、井戸の脇を通る。

 ひと月ほど前の、春の彼岸を過ぎた辺りの頃だったろうか。
 あかねは道場の雑巾がけに使おうと、バケツ片手にポンプから水を汲み上げ、仰天してしまったのだ。
 水が赤く染まっていたのだ。
 鮮血というような赤みではなかったが、錆びた水道水のような色に汲みあげたバケツが染まって見えた。
「きゃあ」と素っ頓狂な声をあげたので、庭を帚で掃いていた早雲が驚いて近寄って来たのを覚えている。
「暫く使って無かったから、井戸がヘソを曲げたんだよ。何、何度か汲みあげて居たら、錆も取れてきれいな水になるよ。」
 と早雲は、ポンプで勢い良く水を汲みあげていたが、一向に水は透き通らない。
「ポンプが錆ついてしまったかなあ…。ま、飲む訳じゃないから、もう少し暖かくなったら、ポンプを変えようかねえ。あ…金属疲労でポンプが腐ってると危ないから、直すまで手を触れちゃいかんよ、あかね。」
 ということで、そのままになっている。

(あれから汲みあげてないけど…。まだ錆びた色してるのかなあ…。)
 興味もあったので、あかねは久しぶりに、水を汲みあげてみようかと思い、井戸へと近づいて行く。

「あかねっ!」
 
 と、背後で声がした。
 振り返ると、なびきがニッと笑って立っていた。

「ポンプが腐ってるかもしれないからって、井戸に触るなって、お父さん、言ってなかったっけ?」
 ととがめる。
「そ、そんなこと、言ってたっけ。」
 ポンプに伸ばした手を、ひゅっと引っ込める。
「ほら、お父さんも、危ないからって、わざわざ水神さんのお札で井戸を封印しているじゃん。」
 となびきが言った。
「封印?」
 あかねはハッとして、井戸を見た。封印のことなど、早雲に一言も聞かされていなかったからだ。
 じっと目を凝らすと、確かに、水神さんのお札がポンプと井戸の木蓋にそれらしく貼り付けてあった。
「何で、封印のお札なんか…。」
 と怪訝に思ったあかねに、姉は言った。
「あら?あんた知らないの?」
「知らないって何を?」
「天道家の井戸の云われ。」
「何?それ…。」
 姉の問いかけに、思わず聞き返していた。
「何でも、天道家の祖先がさあ、天海和尚に命じられて、この井戸を守ってきたという言い伝え…。」
「知らないわよ…そんな言い伝え。…それに、その天海和尚って誰よ。」」
 と姉に問い返していた。
「南光坊天海よ。家康公や家光公に仕えて、大江戸二百六十年の永い春の基礎を作ったと言われている偉大な僧侶よ。」
「その人が、天道家(うち)の井戸とどう関係あるの?」
「さあね…あたしも詳しい事は知らないけど…天道家は先祖代々、この井戸を守(もり)してきたらしいわよ…。天道家の天も天海和尚の一文字を貰ったとか…そんなことが、家の家伝に書いてあるらしいわ。あたしは、見せて貰ったことないけど。」
「そうなの…。」
「だから、水道が敷かれても、井戸を易々と埋められないって、お父さんがぼやいていたのを聞いたことがあるのよ、あたし。」
 と姉は言った。
「ふーん…あたしは初耳よ、そんな話。」
 とあかねは首を傾げた。

「ま、今日は、そんなことを言いに、さっさと帰って来たんじゃないわ。」
 なびきが話題を変えた。

「そう言えば、なびきお姉ちゃん、今日はずいぶん、帰宅時間が早いわねえ。仕事は?」
 と声をかける。井戸のことはすっかり、忘れてしまっていた。

「そんなの投げてきちゃったわよ。それより、ビッグニュースよ!あかね。」
 と姉は、少し興奮気味に話しかける。

「ビッグニュース?」
 きびすを返した妹に、姉は勢いよく言った。

「乱馬君が、帰ってくるわよ!」

「え?」
 なびきの言葉に、耳を疑った。

「さっき、うちのオフィスで受信した情報に、「新進気鋭の武道家・早乙女乱馬氏が週明けにでも帰国の途に就く」…っていうのがあったのよ。乱馬君、この前、中国で行われた無差別格闘アジア杯で優勝したでしょ?で、彼の動向が結構注目されていてね…で、彼を張ってた知り合いの芸能リポーターから情報をリークして貰ったのよ。」
「そ…そうなの?」
 どや顔している姉に、あかねは少し複雑な表情を手向けた。

「あら?何、その気のない返事。あんた嬉しくないの?」
 となびきがあかねに問い返していた。嬉々として飛び付くと思っていた妹の反応が鈍かったからだ。

「だって…。帰国の途に就く…っていうだけでしょ?ここへ戻って来るかどうか…。」

 確かに、帰国すると言っても、本人が直接言って来たわけではない。仕事柄、芸能情報がいち早く姉の元へ流れて来るとはいえ、俄かに、信じて良いのかどうか、迷ったのである。

「なら、賭けてみる?帰国して一番、あんたの元へ顔を出しに来るかどうか…。」
 姉の瞳がぎすぎすと輝き始める。
「遠慮しとくわ…。」
 あかねはフッと息をためながら、言い放った。
「どうしたのよ…。折角、掴んだ情報をいち早く、あんたに教えてあげようと思ったのに…。」
「だって…。乱馬が帰って来るって…そんなこと急に言われても…。」
 そう言ったきりあかねは、押し黙ってしまった。

 本当は、飛び上りたいほど嬉しい筈だ。
 反面、糠喜びかもしれないのだ。なびきの情報とて万全ではない。さんざん期待させられて空振りとなれば、その後のダメージの方が大きくなるのは目に見えている。
 別れてから、三年。その月日の重さが、あかねを臆病にしているのかもしれない。

「あかねは、ここへ戻らない方へ賭けて、あたしはここへ戻る方へ賭ける…って言ったら、あんた、いくら張る?」
 なびきは、未だ、話に乗って来ない妹に、痺れを切らすように、言い放った。
「だから、賭けないって言ってるでしょ。しつこいなあ…お姉ちゃんは。」
「たく…じゃあ、もっと素直に喜びなさいな。」
「でも…。」
「そりゃあ、戸惑う気持もわかるけどさあ…。」
 なびきはやれやれと妹を見やった。

「乱馬君、変身体質も解消したみたいだから、絶対、帰って来るわよ。あんたに一番逢いたいでしょうし…。」
 と別の情報もあかねに囁いた。
「変身体質解消したって…何で、そんなことがわかるのよ。」
 あかねは、少し不機嫌に言い放った。貰ったハガキ類の中には、呪泉郷へ行ったことなど書いていなかったからだ。
「あんたさあ、もしかして、この前のネット動画チェックしてないの?」
 とあきれ顔でなびきがけしかけて来る。
「ネット動画?」
「これだもんなあ…。ちゃんとURL教えてあげたでしょうが、メールで。」
「最近、忙しかったから、ネット開いてないのよね…。」
 とポソッとあかねが吐き出す。
「たく、もう…パソコンくらい毎日立ちあげてチェックなさい!
 この前の動画は天外試合だったから、雨が降りしきる中の映像があったのよ。乱馬君、変身してなかったわよ。雨に打たれても、男のままだったわ。」
「温水の雨だったとかいうんじゃないの?画像じゃあ、水の温度なんてわかんないじゃないの。」
「大概にしなさいよ…。どこの世界に、温水の雨が降るってーのよ。温泉地でも降らないわよ、そんなの。」
 なびきは呆れた顔をあかねに手向けた。
「とにかく、早ければ、週明けにでも帰国するでしょうから…そろそろ、準備くらいしときなさいよ。」
「準備って?」
「そこまで全部言わなきゃわかんない?変身体質を治して帰国するってことは…それ相応の結論が出るってことになるじゃないの?」
「結論…。」
「彼の意志はともかく、あんたの意志は固めておきなさいよ。じゃないと乱馬君に対して失礼だからね…。わかった?いち早く帰国情報をリークしてあげたんだから…あたしの好意を無駄にしないでね。
 っと…折角、早く帰ってきたけど…まだ仕事あるから、部屋でネットしながら仕事を片付けるわ。」
 なびきはそう、言い放つと、さっさと母屋へと入って行ってしまった。

「乱馬が帰って来る…。」
 喜ばしいような、不安なような…。複雑な心があかねへと広がり始める。



二、

「困ったことになったよ…。早乙女君。」
 早雲が、ふうっと玄馬の前で、溜め息を吐いて見せた。
「ずっと以前から言っていた事案かい?それが現実味を帯びてきたとでも?」
 珍しく、真剣な表情で、早雲と向き合う玄馬。
 ここは早乙女家。天道家からそう遠くない二軒続きの瓦ぶき屋根の家だ。木造二階建で小さいながらも庭がある。

「どうやら、あかねもうっすらとその気配に気付いたらしい…。」
 早雲が、玄馬へと言った。
「そりゃあ、そうじゃよ。あかね君も天道家の血が流れておるしのう…。で?今、言って居たことは本当に起こりうるのかい?天道君。」
「ああ…。十中八九…。井戸水が濁ってしまったろう?あの井戸が濁るということは、魔龍が呼び覚まされてしまった証拠…。」
「魔龍って…。君んちの祖先が、かの、天海僧都の命で闘って封じたとかいう、魔性の龍かい?」
「その魔龍だよ。聖なる水の中に浸され、浄化され続けることにより、長き眠りに就いた魔龍だよ。あれが、目覚めたとなると、ちょっと厄介なんだ。」
 と早雲は言った。
「どう厄介なんだい?」
「奴が復活すれば、大江戸一帯を破壊する…と言われている。」
「大江戸の破滅…。」
「ああ、大江戸…つまり、今の東京都心だよ。目覚めた龍たちは、まず、手始めに、封印に関わった天道家を滅しにかかるだろうね…。」
「天道家の危機…それはつまり、大江戸八百屋町の危機ってわけか…。」

 中年オヤジたちはいつにも無く、真剣に話しこんだ。

「封印が緩んだ以上…もう、賽は投げられてしまった…。」
 
 早雲と玄馬の上に、長い沈黙が流れる。

 その沈黙を破るように、早雲は、玄馬へと言った。
「で、早乙女君…。君にお願いがあるんだ。」
「お願い?」
「ああ…。天道家当主としての頼みだ…。今日はそれをしに来た。頼むっ!作法に則(のっと)って、再び封印するから、その作業を少し手伝ってくれまいか?」
 早雲はそのまま、玄馬の前に頭を垂れた。
 早雲の表情があまりに真剣だったので、玄馬は返事するのも忘れてしまいそうになった。まだ、パンダのままをひきずっているおちゃらけ親父の玄馬だが、流石に、ふざけるのもためらわれた。
「ああ、天道家と縁組を希望しているからには、早乙女家の当主として、君の頼みは受けねばなるない…。」
 二つ返事で、玄馬は承知した。
「元々、奴があかね君とすんなり祝言を挙げんから、招いたような禍みたいなものじゃからな。」
 と続けて玄馬は吐き出した。
「いや、乱馬君には非は無いよ。」
「そうとも言い切れまい?君は天道家の当主として、封印が危機に晒されるかもしれないという危惧があったからこそ、早乙女家(うち)との縁を、積極的に結ぼうとしたのではないのかね?」
「そ…それは…。」
「早乙女家に伝わる、秘伝なら、もしもの時に助けになるという打算が全く無かった訳じゃなかろう?」
「…早乙女君にはかなわないなあ…。」
「はっはっは、だてに、君との付き合いが長い訳じゃないんだよ。」
 
「で?いつ封印を施すんじゃ?」
「あかねが気付いたくらいだ…。早い方が良いよ…明日にでもやってしまいたい。」
 と早雲は言った。
「明日…か。あかね君は在宅なのかね?」
「もちろんだ。」
「こういうことは、あかね君が留守の時にやった方が良いのでは?」
「そうもいかんのだよ、あかねが居ないと、恐らく奴は姿を現すまい。」
 早雲が言った。
「あん?どういう意味じゃ?それは…。」
「魔龍(ヤツ)は必ず、あかねを狙ってくるだろう…。襲うのが天道家の血を色濃く引いた女の方が、理にかなっているからな…。三人姉妹の中で、武に長けているのは、唯一あかねだけだ…。
 武に長けたあかねを媒体にすれば、人間界へ容易に降臨できる…そんなことを考えていると思う…。」
「のっとるならあかね君か…じゃろうなあ…。ワシが魔龍なら、間違いなくそうするわ。かすみ君もなびき君も悪くは無いが、武に長けているのが条件となるならば、あかね君が一番適しておるな…。」
「だから、あかねが不在だと現れまい。一度、現れなければ、封印もできないんだよ…。この家伝によるとね。」

 早雲は懐に抱えて来た、風呂敷包みから桐の箱を出しながら言った。

「家伝書か…。そんな貴重な物を持って来たのかい?」
 玄馬が眼鏡を光らせた。
「君に…これを預かっておいて欲しいと思って…。」
 と言った。
「部外者のワシが預かって良いものなのかね?そんな貴重な物…。」
「天道家にとって…乱馬君は部外者ではなかろう?彼はあかねの許婚だ。そうだろう?」
 早雲は続けた。
「天道家の当主からのお願いだ。もしもの時は、これを君から乱馬君へと託してくれたまえ。」
 と言った。
「もしもの時…そんなことがあってもらっては困るんじゃが…天道君。」
 困惑げに玄馬が言った。
「あくまでも、もしも…だよ。」
  
「たく…ごり押しが強いんだから…天道君は…。でも、あいつへ連絡を取っておいて正解じゃったな。」
 玄馬は思わせぶりに、ニヤリと笑った。
「あいつって?」
「乱馬じゃよ。」
 早雲の問いかけに玄馬はすっと答えた。
「乱馬君だって?」
 驚いた表情を手向けた早雲に、玄馬は言った。
「ああ…。この前、あやつが、無差別格闘アジア杯に出場するっていう情報を、なびき君から貰ってなあ…。で、ダメ元で主催者を通じて、奴に電話をかけたんじゃ。そしたら、運よく、直接話が出来たのじゃよ。
 奴も、あの大会に優勝できたら、けじめをつけに、日本へ帰って来るつもりだったらしい。
 で、天道家が危ないと大げさに言ってやったら、すぐに帰国すると返答してきたんじゃ。」

「乱馬君が…帰って来る…。」
 早雲の顔が、一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。

「彼を巻きこむのは…。」
「乱馬はあかね君の許婚じゃ。無関係ではあるまい?」
「そうだな…。無関係ではないか…。」
 早雲は静かに首を前に振った。

 フッと雪見窓から見上げる空には、三日月がぽっかりと浮いていた。
 鋭い刃のような月影。

「いずれにしても…ひと波乱…いや、それでは済まぬかもしれぬな…。」

 早雲は、刃の月を見上げながら、長い溜め息を吐きだした。

 一体、彼は何を危惧していたのか…。


 それが、現実になるまで、時間はかからなかった。


三、

 翌日。日曜日。

 この日も、朝から、ポカポカの陽気の一日だった。

 あかねはゆっくりめに起き出して、おさんどんに繰り出す。
 洗濯、掃除、片付け…そして、台所。

 黙々と作業をしながら、昨日、姉のなびきが言った言葉を思い出す。

「乱馬が帰って来る…。」

 あまりに衝撃的な一言だった。


 嬉しい反面、どんな風に彼をで迎えれば良いのか、想いは混迷していた。

 桜の木の下の別れから三年。

 

 窓ガラスに映し出される自分の姿も、変わってしまっている。短かった髪も、四十センチほど長くなってしまった。
 少女の頃の姿にタイムスリップ…という訳ではない。もちろん、あの頃の面影はあるが、化粧もするようになったし、髪の毛も少しだけ栗色に染めた。
 決して派手になった訳ではないが、乱馬が見れば、どう口にするか。

 彼はどう変わったのだろう。少しは大人になったろうか。落ち着きを持ったろうか…。修行はできたのだろうか。どのくらい強くなったのか…。
 興味は尽きない反面、不安と期待で心が変になりそうだった。
 
「たく…何で、こんなに気を揉まなきゃいけないのよ!早く帰って来ない、あいつが悪いのよ!」
 と吐き出してみるが、想いは空回りし続けている。
 三年もの月日を置いてけぼりにされた乙女心は複雑なのだ。


「溜め息ばかりついていると、幸運が逃げてしまうよ、あかね君。」

 ふと背後で声がした。

「早乙女のおじ様。」
 あかねの顔が少し華やいだ。
 別に、乱馬の父親だからと歓迎している訳ではない。日曜日にここへ足を運んでくれる時は、決まって、あかねの組み手の相手をしてくれるからだ。
 相変わらず、玄馬は道着姿が普段着になっている。

「嬉しいー、後で、久しぶりに相手をしてもらえます?」
 一人で型だけを追う修行がこのところ続いていたので、玄馬の登場に、思わず、真っ先に口を吐いたのが、組み手の申し込みだった。
「おいおい…早乙女君はおまえの相手をしに来たんじゃないんだよ。」
 と早雲は後ろ手苦笑いしていた。
「だって、あたしだって、たまには相手が欲しいもの…お父さん、この頃ちっとも相手してくれないし…ね?おじ様、良いでしょう?」

「まあ。あかね君の頼みとあらば、断れぬかなあ…あはははは。」
 と玄馬も御機嫌だ。

「ならば、道着に着替えてくるわ。善は急げよ!」
 とあかねは、洗濯物をさっさと干し終えると、そのまま母屋へと消えて行く。


「さてと…。あかねが着替えて戻ってきたら、早速始めようか…。」
 早雲は、玄馬へ目くばせすると、井戸端へと近寄った。
 封印のお札が貼られている井戸とポンプ。

「見てくれは、ただの井戸と変わらんがのう…。」
 玄馬が後ろから覗きこんだ。

「手はずは昨日打ち合わせたとおりだよ、早乙女君。君は、その結界の中であかねを守っていてくれれば良いよ。」
 早雲は落ち着き払って言った。
「結界か…。」
 薄く、地面に円陣が書かれている。五芒星の円陣だ。赤い色がほのかに着いていた。
「昨日のうちに、作法に則(のっと)って書いておいたものだ。」
 早雲が言った。

 いつの間にか、太陽が雲へと隠れてしまった。分厚い薄鼠色の雲。一瞬にして、光が雲間へと飲みこまれて行く。

「空気が変わったか…。」
 井戸を見つめながら、フッと玄馬が気を引き締めた。

「わかるかい?早乙女君にも…。」
 目の前で早雲が言った。

「わからいでか!物凄い妖気が漂ってきているではないか。」
 玄馬の表情が、みるみる真剣になっていく。あまり、物事に真剣になることはない玄馬が、顔をこわばらせているのだ。ピンとした緊張感が二人を包み始めている。



「着替えてきたわよー。」
 母屋からあかねが道着を着つけて出て来た。

「行くぞっ!早乙女君!」
 あかねの声を合図に早雲は、いきなりそう叫んだ。

「おうよっ!」
 玄馬は、こちらへやって来るあかねへとざっと近寄ると、その手を引いて、結界の円陣の中へと連れ込んだ。

「な…何?おじ様っ?」
 いきなり手を引かれて、あかねは焦って、玄馬へと問いかけた。
「良いからっ!ここを動いちゃいけないよ!あかね君。」
 玄馬は地獄のゆりかごとはいかないまでも、ガッとあかねの肩を掴んだ。
「動くなってどういうこと?」

 そう切り返した時、異様な光が、井戸から湧き立つのが見えた。
 早雲が、お札を一気にはがして、井戸の蓋を開いたのだった。

「何?この光…。」
 眩さに、手を翳したあかね。

『ふふふ…。』

 井戸の中から不気味な笑い声が聞こえて来た。女なのか男なのかわからぬ中性的な声。しかも、エコーがかっている。強いて言うなら、人間の声ではなく、化け物の声。

『我、この水の中で延々と長き眠りに就きて数百年…ああ、ここに時は満ち足り…。』
 声はだんだんに高くなり、高揚していく。
『憎き者たちへの、復讐の時が!』

 その声と共に、身体が固まったように動かなくなったあかねだった。眼は見開いたまま、井戸の方へ視線を手向けてぞっとした。井戸の上に、不気味な黒い煙がもうもうとたちこめ、その中に、大きな瞳を見たのだ。人の頭以上あろうかというような、大きな一つ目。その視線に捕われた。

「えっ!」
 ガクンと力が抜ける。

「気をしっかり持て!あかね君!飲まれちゃいかんっ!」
 井戸から後ろを向く形で、玄馬はあかねの身体に掴みかかっていた。ともすれば、結界を越えてしまいそうになるあかねの二の足、そいつをグッと身体の全重量で制止する。

『ククク…そこに居るのは天道家の血を色濃く引いた娘…。』
 不気味な声はあかねを見て、嬉しそうに叫んだ。

『そなたが欲しい…。喉から手が出るほどに…。』
 煙があかねに向かって、一斉に飛びかかろうとした。

「そうはさせまじっ!」
 早雲は、持っていた新しいお札を手に、あかねへと向かう煙に向かって、突進する。この札を井戸に張り付け、再び、封印を施そうというのだろう。

 ビシビシッ!バリッ!

 感電したかのような、稲光と共に、弾ける空気。

『邪魔立てするものは容赦せぬっ!』
 煙は早雲を跳ねのけた。

 ドオッと砂煙と共に、早雲はバランスを崩して、尻もちを着く。
 と同時に、煙があかねへと差し迫った。が、結界に阻まれているようで、五芒星の円陣の脇で、煙が戸惑うに止まっている。

『こなくそっ!このような小癪な結界など…。』
 煙はぎゅうっと濃縮されたように、一度、丸いサッカーボールほどの玉へと変化した。そして、すっと翻ると、早雲の身体を鷲づかみにする。ズルズルと尻もちをついて開いた早雲の右足と左足を持ち、引きずり始める。

「な、何をするっ!」
 引きずられながら早雲が叫ぶ。仰向けの不格好なまま、ずるずると地面を引きずられていく。と、煙はそのまま、早雲の身体を、五芒星へと放り投げた。
 と、地面に書かれていた円陣の一部が、早雲の身体によって、少し欠けた。

 ビジビジ、バリバリ…。

 結界の外限界辺りで、電気的な音が鳴り響く。

 バチン!

 最後に弾けて、五芒星の一角が、見事に崩れ去った。

「しまった、結界が!」
 焦った早雲がそのまま、立ち上がろうとしたのと、煙の結界内への乱入はほぼ同時だった。

『我、得たり…天道家の娘…。』
 勝ち誇ったように、煙はあかねの肢体へと容赦なく、その触先を延ばす。
 触手があかねの身体へと巻き突こうとした瞬間だった。


「させるかーっ!」

 背後で、声が響き渡る。青年の声。

 と同時に、強い黄金光が、その声の方から真っ直ぐに飛んできた。
 引きちぎるように、あかねにのびた煙の触手を駆逐していく、光の咆哮。

『誰じゃ?我を邪魔立てするのは…。』
 井戸の中から声が響いてくる。

「あかねを襲う奴は、化け物だろうが、容赦はしねーっ!覚悟しなっ!」
 飛び出してきた青年は、バサッと背広を脱ぎ棄てた。ワイシャツだけになり、あかねと化け物の間に割って入った。
 ぐっと中腰で身構える。

 あかねの前に立ちはだかったその背中で、見覚えのあるおさげが、揺れていた。




 つづく





一之瀬的戯言
 旧作から引っ張ってはいますが、大元のプロットをバッサリ変えました。季節も秋から春に変えました。これもラストをちょこっとイメージしてのことです。
 


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