◆蒼い月と紅い太陽

第十九話 蒼と紅の攻防

一、

 ゴゴゴゴゴゴゴ…。

 空間全体が震えながら、轟音を立て始めた。辺り一面に漂っていた邪気が、一気に力を増す。

「ほら…闇に染まっちまえ…。早乙女乱馬ーっ!」
 声を共に、男乱馬から吐き出された黒い瘴気が、塊のように、ぶわっと女乱馬目がけて襲いかかって来る。
 そいつは、漆黒の気だった。息も出来ぬ程、暗くよどんだ邪気の塊だった。

「くっ!」
 身構えた女乱馬だったが、背後の早雲の気が足を捉えて離さない。逃げることも攻撃することも、ままならない。
 だが、女乱馬も必死だった。
 この空間に熱気がこもっていることに掛けて、冷気を乗せた気弾を、男乱馬目がけて打ち込んだのだ。
 そう、飛竜昇天破から応用した気弾だった。冷気を拳に乗せ、一気に打ち付ける。
 女乱馬の右手から、冷気が飛び出した。ゴゴゴと周りの熱気を吹きあげながら、冷気の矢が解き放たれる。

「ふふふ、そんなチンケな冷気で迎撃しても無駄だぜ…。そいつは意志を持ってる瘴気だ。そんなちっぽけな冷気など、打ち砕いて、そっくり瘴気ともども、貴様を粉砕してやらあっ!」
 真正面で、男乱馬が得意げに腕を組んで、気流を眺めていた。
 確かに、女乱馬の打った冷気の矢は、それ以上伸びあがらず、グググッと黒い瘴気に押しとどめられて、すぐ目の前で踏みとどまっている。
 女乱馬の打ち出した冷気の威力が、足りなかったこともあろうが、男乱馬の放った黒い瘴気を粉砕できずに超えて行けない様子だった。

「ほら…瘴気に飲まれろっ!その瘴気は、人間にはひとたまりも無いぜ…。瘴気に飲まれて、俺の血肉となれよ…。乱馬(相棒)…。」
 男乱馬は余裕で笑っていた。

「く…やっぱ、威力が足りねえーか…。でも、ここで諦める訳にはいかねーんだ…。あかねは…あかねは…てめーだけには渡したくねーっ!」
 苦しげに顔をゆがめながらも、女乱馬は必死で氷の気を出し続けた。
 打ち込むだけではない、持続させる気技も、三年の修行の間に身につけていたのだ。

「無駄な足掻きだぜ…。」
 クスッと笑った男乱馬。







(乱馬が危ない…。)

 闘いを眺めていたあかねにも、女乱馬の窮地は、手に取るように伝わった。
 後には父早雲、そして前には男乱馬。二人がかりで女乱馬を倒そうとしている。妖(あやかし)たちのやり口に、怒りでどうにかなりそうだった。
(このままじゃ乱馬が…。)
 最悪の事態が、待ち受けている。今にも瘴気が女乱馬を飲み込まんと暴れまわっている。
(あたしにも何かできることはないの?乱馬を助けたいっ!助けたいのっ!)
 祈るように、両手を組んだ。
 と、組んだ手がにわかに熱くなってくるのを感じた。
 ビリビリと痛みが掌から、身体へと突き抜けて行く。
 何事かと、組んだ手へと視線を投げると、左手の薬指から伝わっていることに気がついた。真っ暗な視界の中で、はっきりと見えた訳ではないが、指輪を通して、あちらの世界からどす黒い空気が侵入しているのがわかった。
(これは…瘴気…。それも邪気をいっぱい孕んでるわ…。)
 グッと瘴気を両手に握りしめる。その瘴気があかねの指先を抜けて、真っ黒な闇の中へと溢れだす。
 と、あかねを取り巻く闇が、グワンとうねったような気がした。
(この世界の闇が、喜んでいる…。)
 よほど、闇の世界は瘴気と合うのだろう。ぶずぶずと不気味な音をたてながら、闇が瘴気を飲み込んでいるように思った。指輪を通してあふれ出る瘴気を、貪っている。
(もしかして……。)
 あかねはグッと、指輪のある左手を握りしめた。
(乱馬を助けられるかもしれない…。)
 溢れだす瘴気を手に握りしめながら、そう思った。

『そう思うのなら、存分にやってみなさい…。』
 さっきの女性が、近くで囁きかけて来た。
(お母さん…。)
 その声を聞いて、あかねの瞳が見開かれて行く。そう、この声は無くなった母の声だと、直感した。何故、母の声が響いて来るのか…それはわからなかったが、母に背中を押されたような気がした。
(そうね…。あたし、やってみる。)

 左手を、すっと前に差し出した。
 そして、瞳を閉じる。
 全身を研ぎ澄まし、指輪へと意識を集中させていく。

 この指輪は乱馬と繋がっている。この指輪に意識を集中させれば、乱馬を取り込もうと襲い来る瘴気を、全て、こちらの世界へと取り込める。
 そう信じた。

(こっちへ来なさい…。邪気を孕んだ瘴気…。根こそぎ、あたしが…吸い上げてあげるわっ!)
 手の方へ己の闘気を集中させていく。
 ぶわっと、あかねから発した、赤い闘気が掌から溢れ始めた。
 そう、己の体内にある、全闘気を掌に集めはじめたのだ。
 瘴気は女乱馬の中にある、正気に惹かれて襲いかかっている…あかねは、直感していた。
 ならば、あかねの正気を指輪を通じて、乱馬の指輪に流せば…きっと、瘴気は乱馬をやり過ごして、こちらの世界へ流れ込んでくる…そう考えたのだ。
 あかねはまだ、気弾が下手だ。打てるとはいえ、命中率が低いし、威力が足りないことが多々ある。
 だが、気を操る訓練は、怠らずに励んでいた。
『気弾を打つためには、気を集められなければ意味がねーぜ。』
 いつか、高校生の頃、乱馬にそう言われたことが頭に残ったからだ。
『気技が打ちたきゃ、気を集めることから始めるんだな…。』
 そう言った乱馬。
 諦めずに修行を続けてきた結果、気を身体の一点に集中させることは、容易にできるようになっていた。

 案の定、あちらの世界の瘴気は、あかねの放つ闘気に惹かれ始めていた。
 ぶわっと指輪が熱くなった。そう、一気に、乱馬を襲っている瘴気が、あかねの闘気に襲いかかってきた。

「くっ!うっ…!」
 思わずあかねの顔が歪んだ。
 物凄い勢いで、瘴気が指輪を通してあかねへと流れて来る。
 ビリビリと左手が痺れ始める。思わず、闘気を集中させることを忘れそうな痛みが、左手を襲う。
 だが、ここで投げ出せば、乱馬の助けとはならない。
 必死でこらえながら、一定の気を指輪へと集中させていった。





 と、乱馬の胸元から、指輪を結わえていたチェーンが、ぶわっと浮き上がった。それだけではない。乱馬へと襲い来る瘴気が、指輪へとみるみる飲みこまれて行くではないか。まるで、それは、己を護っているように見えた。
「あかねっ!」
 かすかにその向こう側に居るあかねが、笑ったような気がした。
(あたしが指輪を通して瘴気を引き受けるから…乱馬…攻撃して…。その右手でっ!)
 そんな声が耳元で響いたような気がした。
「ああ、わかった…。おめーが瘴気を引き受けてくれるのなら…俺は…打つ…。
 全身全霊を込めて、あいつを…攻撃するぜっ!!うおおおおおっ!」
 まっすぐ、男乱馬へ向けて、闘気を打ち出した。

「行っけえっーっ!」

 ゴオオオオォォォッ―!

 女乱馬の右手掌から、見事な冷気の矢が、真っ直ぐに瘴気を突き抜けて、飛び出して行った。
 蒼く美しい気弾の矢が男乱馬目がけて、まっしぐらに駆け上がっていく。

 ズガッ!

冷気の矢は、男乱馬の右胸を貫いた。
 貫いても尚、蒼い冷気の矢が、男乱馬を突き抜けて上空へと飛んで行く。その勢いは、止まることを知らなかった。

「なにっ!」
 反撃されるとは思っていなかったのだろう。
「うっく。」

 男乱馬が胸に手をあてたまま、虚空へと吹っ飛ばされて行くのが見えた。

「へへっ!やったぜ!」
 女乱馬が指輪に触れた途端、指輪を結わえていたチェーンがピシッと弾けた。
 指輪が空を舞って落ちて来る。
「鎖が千切れた?」
 そう、今の瘴気に中てられたのか、粉々にチェーンが砕け散ってしまったのだ。
 指輪は落ちることなく、女乱馬の左手の上に乗って、止まった。まるで、女乱馬から離れるのを嫌がっているようにも思えた。
 女乱馬はそっと指輪を握りしめる。
 微かだが、指輪が光っている。
「あかね……。」
 そう言葉を継ぐと、女乱馬は指輪を徐に、左手の薬指へとはめ込んだ。
 女乱馬のしなやかな細い薬指にはブカブカで抜けそうであった。が、ここが己の場所だと主張しているように見えた。
「ああ…そうだよな…。これには俺とおまえの思いの丈が詰まってる。だから、そこに、定位置に…はまっていたいんだろ?」
 愛おしげに指輪を見た。
 恐らくあかねは、指輪の向こう側で、己を助けようと、過大に無理をしたに違いない。
 あの瘴気だ。
 浴びればただでは居られないだろう。
 だが、あかねの心配をするには、まだ時期尚早だった。

 そう…まだ勝負は続いていたからだ。
 それが証拠に、まだ、乱馬本体は、女化したままだった。
 ということは、男乱馬がまだ闘える状態だということを、如実に物語っている。

 上空に、その嫌な気を感じた。

「結構、効いたぜ…今の攻撃は…。」
 グッと睨みながら、男乱馬は上空で睨んでいた。
 さっきまでの余裕めいた表情は消えている。右胸にぽっかりと穴が開いていた。
 人間ではないから、血は流れないし、内臓も見えない。そのまま、向こう側が見通せる。

「やっぱ、あれくらいじゃあ、倒せねーか…。」
 女乱馬は、ぐっと睨みあげた。

「残念だったか?」
 にやりと男乱馬は笑いを投げつける。
「俺は人間じゃねーからな…。このくらいなら痛みもねえ…。」
 別に強がっているわけでもなさそうだった。胸に穴が開いていても、平気そうにそこに立っている。

「胸に穴が開いたままじゃあ、スースーしねーか?」
 と女乱馬がたたみかけると、男乱馬はニヤッと笑い返してきた。

「それもそうだな…。じゃあ、塞いでみるかな…。」
 そう言うと、真下に居た、天道早雲目がけて、ドンと一発、気を打ち放った。
 不意打ちだった。
 男乱馬の気弾を受けると、「うっ!」と一言発し、早雲が膝もとから崩れ落ちた。

「なっ?てめー、血迷ったか?」
 あまりに唐突な男乱馬の行為だったため、女乱馬は驚きの声を張り上げた。 

 早雲は魔龍に飲み込まれた最初の人間だ。そして、乱馬本体から男乱馬を切り離した張本人でもある。ということは、魔龍のボス的な存在ではなかったのか。
 それをいきなり、男乱馬は襲ったのである。
 不可解な行動に、つい、女乱馬の声も荒らぐ。
  
「てめー、どういうつもりで、おじさんを…。味方じゃねーのか?」
 女乱馬が声を張り上げると、そいつは上空で、クスッと笑った。

「味方なんかじゃねーよ…。ただの器だ。」
 淡々と言い放った。

「ただの器だあ?」

「ああ、ただの器だ。そう、…魔龍の玉を抜き取れば、ただの人間…だ。」
 くくくと男乱馬が笑った。と、男乱馬は、すっと上空に居たまま、くいっと左手を差し出した。
 と、その動きに反応して、早雲の口からガボッと何かが吐き出された。
 手のひらサイズの黒い玉だ。あの数珠玉に集めた、魔龍の玉の形体と同じものだった。
「こっちへ戻って来いっ!」
 男乱馬が声をかけると、玉は、すっと舞い上がった。真っ直ぐに、男乱馬の方へと飛び上がる。
 そして、すっぽりと、男乱馬の手におさまった。
「おまえを吸収してから、この玉を俺様の中に戻そうと思っていたが…やめにするぜ。」
 男乱馬が吐き出した。

「それは、俺を吸収することを諦めたっていう意味か?」
 女乱馬が下から問いかけた。

「ああ…。そういうことだ。だが、良かったと思うなよ…。おとなしく、俺様に吸収されておけばよかったと、後悔するかもしれないぜ…。」
 男乱馬はそう言い終わるや否や、持っていた玉を、開いた胸の中へと差し入れる。
 とても、人間技とは思えなかった。
 
「ぬおおおおおっ!」
 男乱馬が、雄たけびを上げる。

 ドクン!
 男乱馬の身体が、一拍、大きく脈を打った。

 と、どうだろう。みるみる男乱馬の胸が埋まって行く。それだけではない、邪気を孕んだ闘気が、グングンと威力を増していくではないか。
 歪んだ黒い妖気が、男乱馬の身体全体に渦巻き始めた。
 



二、

「う…ん…。」
 とうめき声がして、早雲の身体がピクッと動いた。
「ここは…。とこだ?…私は一体…。」
 どうやら玉が抜けて、化け物の束縛が解け、人の心を取り戻したようだった。

「おじさん…気がついたのか?」
 女乱馬が言葉をかけた。
 さっきまでビンビンに張り詰めていた邪気が、すっかり早雲から消えていた。
 玉を抜かれて、邪気も一気に身体から抜け去ったのだろう。
「確か…邪悪な気に飲み込まれて…。」
 順繰りに記憶が戻り始めたのだろう。
「ら…乱馬君が二人?男の乱馬君と女の乱馬君が…。」
 大きく見開いた瞳で、二人を見比べる。驚きの色が瞳に広がった。
「おじさんっ!男の身体をしたあいつは、魔龍だ…。」
 女乱馬は、早雲に向かって吐き出した。
「魔龍?…そうだ。私は魔龍の玉に憑依されたんだ。…だんだん、思い出して来たぞ…。そう、魔龍復活の手伝いをさせられていた…。」
「そうだろうな…。玉が吐き出されるまで、おじさんは俺の敵だった…。まあ、味方に変わったとしても、この状況下じゃ、どうにもならねーだろーけどな…。」
 女乱馬は早雲へと言葉を投げかけた。
「随分、君には迷惑をかけてしまったね…。いや、まだかけているか…。」
 力なく早雲は笑った。明らかに人間に立ち戻っていた。
「察するに、早乙女君はしっかりと、計略通りに事を進めてくれた訳か…。だから、女化した乱馬君と、奴が闘いを繰り広げている訳か…。」
「そういうことだ…。おじさんは、親父と組んで、俺に邪天慟哭破を授け、俺を二分割したんだろ?」
「ああ…。こうなることを期待して、君に邪天慟哭破を預けた…。早乙女君もそうしろと言ったからね…。」
「あのタヌキおやじめ…。後は早乙女流が何とかする…とか、いい加減なことを、おじさんに吹き込みやがったんだろーけどな。」
 フッと女乱馬は鼻先で笑った。
「でも言っとくが、この闘い、こっちが不利だってことだけは、火を見るより明らかだぜ…。女化しちまってるから…俺の力はピークの半分以下だ…。その計画、無謀を通り越して、間違いだったかもしれねーぞ…。」
 と、早雲へ、歯に衣を着せずに言い放つ。
「にしては、私には、落ち着き払っているように見えるのだが…。」
 早雲は乱馬を見上げて言った。
「落ち着くって言うよりは、居直ってると言った方がしっくりくるかもな…。」
「でも、居直らねば、打てぬ技もある…そうじゃないのかね?」
 早雲は意味深に女乱馬へと声をかけた。
「ちぇっ!親父を通じて、それも、お見通しだって訳か…。」
 苦笑いを浮かべながら、女乱馬が言った。

「ってことで、奴との対決が最終局面に入ってる…。悪いが、おじさんが居たら、邪魔だ…。どっか、隅っこへ行っててくれねーかな?」
 女乱馬がたたみかけた。
 人間の心を取り戻した以上、早雲には、この闘いからは、身を引いてもらいたかった。敵だったとはいえ、あかねの父親だ。つまり、舅である。故に、怪我などさせたくなかったからだ。
「そうだね…私がここにいては、君の足手まといになるだけだね…。」
 こくんとさびしげな表情を浮かべた。恐らくは、最初から自ら、玄馬と示しあわせて仕組んだことだったにせよ、魔龍に簡単に憑依されていたことは、天道家の家長として、頭で理解できていてもお、どこか割り切れない気持ちがあるに違いない。

「とにかく、おじさんは、後ろに下がってくれっ!そして、この闘いを見届けてくれ…。天道家の当主としてな…。」
 女乱馬はそう吐き付けると、自分も早雲から身を遠ざけた。

「この闘いの口火を切ったのは、この私だ。君の言うように、見届けねばなるまいて…。後はお願いするよ…乱馬君…。」
 そう言いながら、早雲は、二人の間合いから、さっと身を引いた。




「くくく…今生の別れは終わったかい?」
 上空から男乱馬が問いかけて来た。待っててやったと、言いたげだった。

「ああ…そろそろ、決着をつけよーぜ…。偽乱馬っ!」
 女乱馬は、上空から見下ろしてくる冷たい瞳に向かって叫んだ。

「ああ…そうだな。蒼い下弦の月が、そろそろ登り始める頃合いだ…。あかねもそろそろ限界が近いだろうしな…。」
 クスッと男乱馬が笑った。
「あかねの限界だあ?」
 女乱馬が問い質す。

 そうだ。この世界へ紛れこんでこの方、あかねの姿はどこにも見受けらなかった。
 指輪を通じて、まだ、彼女が生きていることだけは、確かだが、どこに捕えられているのかは、つまびらかでなかった。
 彼女の姿が見えないことに、心穏やかでいられる筈はない。

「あかねはどこに居る?」
 疑問を丸ごと、男乱馬に投げつけた。
「ある場所に閉じ込めてあるよ。何、命に危険は及ばないよ…。貴様同様、俺も彼女に惹かれているしよー。」
 クスッと男乱馬が笑った。
「生憎、俺もあかねを手放す気はねえぜっ。」
 キッと見つめ返す、女乱馬の鋭い眼光。体は女化しているが、瞳の輝きは男のままだ。
「そううまい具合にいくかな?」
「ああ、俺が勝つ…。そして、あかねをこの手に取り戻す…。」
 グッと握りしめる拳。

「二つほど教えておいてやろう…。同じ身から抜け出た躯体としてのよしみでな…。」
 男乱馬が余裕綽々な表情を手向けた。

 時間をやるから少しでも、気を集めておけと、言わんばかりの間の取り方だった。
 女乱馬もそのあたりは承知しているようで、体中の血潮を沸き立たせ始めた。千載一遇の気集めのチャンスをふいにする気はない。

「ふふふ…気を読める貴様にはわかっているだろうが…俺様の力はさっきの比じゃねーぜ。」
 と言葉を投げた。
「ああ…。そうみてーだな…。おじさんから気玉を取り戻して、数倍、闘気はね上がってやがる…。尻尾(しっぽ)を巻いて逃げたくなるくれーにな…。」
 冷静に女乱馬は言い放った。

 早雲に入っていた玉は、恐らく、乱馬が倒してきた中で、一番強い気が封じこまれていたのだろう。いや、案外、魔龍のコア(核)を早雲が飲み込んでいたのかもしれない。
 その玉が男乱馬へ吸い込まれると、胸に開いた傷がスッと消えていったくらいだ。相当な勢いがある邪気に違いなかった。
 それだけではない。ビリビリと異様なまでの闘気が、男乱馬から溢れ出し始めた。そいつは、人間とは一線を画した、凄まじい魔物の気だった。
 染み出してくる気に中(あ)てられて、道着から剥きだした手や足が、ピリピリと痛む。

「じゃあ、逃げたらどうだ?」
 と男乱馬は笑いながら問いかけて来た。
「逃げたところで…おめーはそれを許すつもりもねーだろ?…それに、ここは、おめーの支配下の世界だ…。逃げ場は無え。」
 女乱馬は表情一つ変えずにそれに答えを返す。
「まあ、そのとおりだ。それに、私が貴様の姿のまま、闘うことを感謝して欲しいね。」
 と言った。
「けっ!巧みに取り込んだ、俺の陰気を離せねえ理由があんじゃねーのか?…例えば、変化を解けば、俺に多少の闘気が戻るとかいうな…。」
 女乱馬も負けてはいない。
「ふふ…洞察力が少しはあるようだな…。俺はおまえから引き剥がしたこの陰の力が、結構気に入ってんだ。貴様を斃したら、ありがたく、この姿を借りて、人間界を闊歩するつもりだぜ……。」
「俺の身体を使って、悪さでもしようってーのか?」
 女乱馬はたたみつける。
「ああ…。魔物の姿では、人間の女はたらしこめねーからな…。」
「けっ!ガールハントにでも励むってかっ?」
「ふふ、拳族を作りまくってやるぜ。四百年分…一気に憂さを晴らさせてもらう…。ククク…この闘気溢れる男の身体は、有効に使わせてもらう。」

(この野郎、何スケベなことを考えてやがる…!)
 と女乱馬は、怒りに燃える。最初に言葉に出るのが、生殖活動かと思うと、それはそれで、頭に来る。
(まあ…好い。冷静にならねーと、この技は打てねえ…。)
 ここで熱くなっては、男乱馬(やつ)の思うツボだ。沈着冷静さを持たなければ、澄んだ気弾は中途半端な効力しか発しない。そのことは、父親の玄馬との修行の中で、体得済みだった。
『中途半端はいかんぞっ!乱馬よっ!澄んだ気じゃ…。研ぎ澄ませ…そして、集めた気を寸でで変化させ、飛竜昇天破へと乗せて、一気に拡散させるのだ!』
 脳裏で玄馬の罵声が浮かび上がって来る。
 ぐっと冷静になって心を冷やした。

「それから、もう一つ…。」
 女乱馬を見下ろしながら、男乱馬はさらにゆさぶりをかけて来た。
「あかねが今どうしているか…少しだけ教えてやろうか…。」
 と、女乱馬の心をかき乱す、絶好の言葉を投げつけてきたのだ。
「あかねは。深遠の闇の中に閉じ込めてある…。己の姿も見えぬ、深い闇の中だ…。しかも、あかねを包むその闇は、邪気に満ち、白い彼女の無垢な心を少しずつ汚していくんだよ…。
 もっとも、あの勝気な娘だ。まだ、かろうじて、人の心を保ってはいるだろうが…。それも、月が昇り切れば、危ういだろうね。」

「どういう意味だ?月とどう関係するってんだ?」

「今夜は下弦の月だ。弦月、真っ二つの月が昇る。月の影が新月に向かって幅を広げる日でもある。
 だから、彼女を覆う闇の力も、今夜を境に強まるのさ…。
 それに…おまえの親父が寄こした「破魔の宝玉」の効力が消えるのも今夜だ。」

「破魔の宝玉…?」

「ああ。前の闘いがはねる前、親父があかねに託した破魔の宝玉は勾玉が七つくっついている。勾玉の数と同じ日数だけ、あの娘は闇から身を守られるようできている…。
 だから、俺は…彼女の肢体に触れて交わることができなかった…。だが、その勾玉もあと一つ。これが弾けてしまえば、容赦なく闇は彼女に襲いかかるだろうぜ。
 勾玉無きあと、あかねの心が、清浄な気を保っていられるかどうか……。いや、いかに彼女が勝気で強い意志を持っていたとしても…人間の小娘だ。ひとたまりもあるまい…。闇に飲まれる…。」
 クククと満面の笑みを浮かべて、男乱馬は真下に居る女乱馬へと言葉を投げつけた。
「おまえがどれほどまでに、あの娘に惹かれているかも…この身体を通じて、ビンビンにわかるぜ…。くくく…。だから、この身体の本体である貴様に敬意を表して…あかねは最初に抱いてやる…。
 魔龍の正妃に相応しく、心も身体も真っ黒に染めあげて、身もだえさせてやるぜ。だから、安心して黄泉路へ就け。」
 そう言い終わるや否や、男乱馬は、すっと左手を女乱馬へと手向けた。
 掌に真っ黒な瘴気が渦巻き始める。その黒い気で、女乱馬を消し去ろうというのだろう。
「おまえの取得した、邪天慟哭破で打ち砕いてやる…。」
 ニヤリと男乱馬は笑った。
 元は乱馬から抜け出た男体だ。邪天慟哭破も使えて然りなのだ。

「そんなことは、させねえ…。何人たりとも…あかねは汚させねえ…。あかねは…俺の許婚だ。
 出会ってからずっと護り続けて来た。…もちろん、今も…これからも…ずっと護り続ける…。」
 鎮まった声で告げると、女乱馬はすっと全身から力を抜き、瞳を閉じた。
 そして、己の感覚を、極限まで研ぎ澄まして行く。
 最期の一撃。
 それを放つために、全身全霊を静かに鎮めた。
『そうだ…己を滅せ!心を研ぎ澄ませ!そして、ここに渦巻く全ての邪気の正体を正眼で捕えるんじゃ…。』
 耳元で声がした。男声のようであり、老声のようでもある。誰が語りかけてくるのかは、わからなかった。それは、己の中に流れる血潮の中から湧きあがってくる声のようにも聞こえた。
(ああ…わかってる…。体中を駆け巡って来る俺の闘気を一点に集中させて、この渦巻く邪気のど真ん中に…渾身の一撃を食らわせてやる…。)
 その声に耳を傾けながら、女乱馬はあらゆる闘気を一点に集め始めた。



二、


 その頃、閉ざされた闇の中、あかねは静かに身を横たえていた。
 男乱馬が放った瘴気を直に浴びて、彼女を取り巻く闇の妖気が増したのだ。
 乱馬の危機が一度去った安ど感と共に、足元から崩れ落ちた。

 闇はそれを嘲笑うかのように、すっとあかねを受け止めた。普通伝わってくるだろう、落下の衝撃も無く、また、ふわりと身を横たえたまま、空に浮いていた。

『無駄な足掻きをする娘だ…。』
『おとなしく、闇に抱かれていれば良いものを…。』
『でも、そろそろ時間が来る…。』
『破魔の勾玉の護りが破られる時が…。』
『そうなれば、おまえは…この闇からは逃れられぬ…。』
『闇の虜となって、その身を捧げよ…。』
『心を闇色に染めてしまえ…。』

 ざわざわと闇が蠢き始めた。

 無言で横たわったまま、あかねは、向こうの世界のビジョンを眺めていた。
 その瞳からは、正気が消えかけていた。
 己がなぜここに居るのかさえも、判然としない意識の元、その光景をぼんやりと見詰めていた。
 最早、再び立ち上がる力も、もう、どこにも残されては居なかった。

 と、見詰める闘いのビジョンの果てに、別の光が射し始める。
 そいつはゆっくりと、姿をもたげてくる。

 月。
 それは弦月であった。
 左半分が明るい、下弦の月。

 その真っ白な月光に、女乱馬の影が重なる。
 一方の暗い影には、男乱馬の影は薄く、主体性無く揺れ動いている。
 はっきりと輪郭のある女乱馬に比べ、対峙する男乱馬の影は薄い灰色で、まるで蜃気楼のように、ゆらゆらと揺らめいている。

 男乱馬の方へは視線が向かず、凛と立ち上がる女乱馬の姿に、じっと魅入るあかねだった。
 次の一撃で、勝負はつく…。
 武道家の血が流れる彼女にも、痛いほどその緊張感は突き刺さってくる。

「乱馬…。」
 無我夢中で左手を、明るい月光へと差し出した。
 つかめる筈もないのに、つかもうと足掻く。
 その手を押し戻そうと、せり上がって来る闇の魔手。

 と、薬指の袂が、光り始めた。今までに見たことがない美しい深紅の色が、指輪に広がって行く。
 それは。夕陽の紅さに似ていた。
 闇はその光をさっと避けた。そこに触れようと群がって来るが、まるで厭な物を避けるように、パッと飛び散る。
 指輪の向こう側の女乱馬の姿が、深紅の光を帯びて、紅色に輝き始める。
 と、輝き始めた女乱馬の影に合わさるように、一回り大きい男乱馬の紅い影が競り上がる。
 男女一人ずつの影が、左側の月光の中に輝きはじめた。


 女乱馬も、変化に気づいていた。
 握りしめた左手の指輪がトクンと波打ったからだ。
 脈動と共に、流れ込む強い気。
『この気は…あかね…。』
 その気に触発されるように、体中を駆け巡る闘気が、俄かに活気づき始める。
 いやそれだけではない。あかねが放った気は、紅く光り輝き、乱馬の身体を俄かに包み始めた。
 紅い膜が乱馬の外側に張られて行く。まるで、乱馬を守るように。


 紅い気が身体を巡りきった刹那だった。
「くくく…。望み通り、決着をつけてやる。浴びろ…俺様の邪天慟哭破を…そして、弾け飛べっ!早乙女乱馬ーっ!」
 
 男乱馬の左手から、邪気が黒い稲妻のように駆け落ちて来た。

 ビシイイイッ…バッシーンッ!

 邪気の稲妻は、女乱馬の頭上で弾けた。
 男乱馬から、放たれた邪気が、稲妻と化して雷同と共に、女乱馬へと直撃したのである。

 ビチビチビチッ!
 瞬く間に、黒い邪気が女乱馬へと走った。黄色い火花を散らしながら、女乱馬を囲い込む。
 まるで生き物のように、取り囲んだ黒い邪気が、圧をかけながら、飲み込んだ女乱馬を圧縮しようと、襲いかかる。
 するとどうだろう。女乱馬を囲っていたあかねの気が、黒い瘴気を押しのけようと、反発し始めた。

 ズゴゴゴゴゴゴ…。バチィッ!
 ドガガガガガガ…。ビチィッ!

 黒い気と紅い気が、猛烈に反発しあう。
 女乱馬を襲う黒い瘴気と、それを守る紅い瘴気。
 その二つが、女乱馬の身体を囲み、激しくせめぎ合う。


「無駄だ…。どんなに足掻こうと…俺の邪気は打ち砕くことはできまい。時間が経てば経つほどに、おまえを包む邪気力を増そう…。諦めたらどうだ?
 おまえごとき人間で、その強烈な邪気に耐えられるものか…。それっ!」
 男乱馬は、人差し指を掲げると、更に邪気を投入していく。

 ビチビチッ、バチバチッ…。

 新たに加えられた邪気は、紅い邪気にへばりついた。ドロドロと蠢きながら、紅い気の周りを這いずり上がる。
 やがて、女乱馬の身体は、完全に黒い邪気に包まれ、視界から消えてしまった。

 それでも、紅い気は、黒い瘴気を押しのけようと、反発を続けた。
 なかなか黒い瘴気が女乱馬を押し潰せないで、周りをドロドロと巡っていた。

「まだ、抵抗しているのか…。しぶとい奴め…。」
 男乱馬は余裕の表情で、女乱馬を包んだ黒い邪気の塊を見下ろし続ける。
「まあ、良かろう…。どのくらい、おまえがその気の中で耐えられるか…ここで見届けてやるぜ…。」
 男乱馬は己の勝ちを確信していた。相手は、邪気を受け付けないただの人間だ。
 しかも、分離した時、己の躯体が、殆どすべての闘気を吸い上げてしまっている。
 中に居るのは、力を削がれた、みじめな女体に過ぎない。


「くそっ…。俺をこのまま瘴気ごと押し潰す気か…。でも、俺にはあかねが居る…。この指輪を通じて、あかねが俺を守ってくれている…。だから…負けられねえ…。」
 黒い邪気をはねのけようと、紅い正気が踏ん張りながら耐えていた。が、そろそろ限界が近いだろう。女乱馬も十分にわかっていた。
「あかねの気が途切れる瞬間…それが、勝負の時だ…。正確に奴の気配を呼んで、一発で当てねえと…もう後が無い…。」

『心を滅せ、乱馬よ…。そして、五感を研ぎ澄まして、位置をつかめ…。』

 誰かが脳裏に直接語りかけてきた。

 その声に導かれるまでもなく、瞳を閉じる。
 そして、すうっと大きく息を飲み、その息を丹田へと吐き入れる。
 ゆっくりと呼吸しながらも、全身に気を巡らせ始めた。

 それは、不思議な感覚だった。危機に直面しているというのに、心は研ぎ澄まされていく。
 ただ、静かなる闘気が、滔々(とうとう)と丹田から湧きあがって来る。

 ゴオゴオと、邪気が己の頭上を渦巻いている音が、やがて途切れた。
 いや、耳に響いていたのだろうが、気にかからなくなったのだ。
 その音の向こう側に、黒い影がチラつく。
 そいつは紅い瞳を見開いて、乱馬の方を睨み据えていた。
 人間ではない、別の妖気を身にまとっている。
「見えたっ!」
 女乱馬の瞳が、パッと開いた。
 それに同調するかのように、パアッと紅い膜が割れて砕けた。
「はあああああっ!」
 渾身から巡らせた闘気を、瞬時に拳に乗せて、勢いよく虚空へと打ち上げた。

「早乙女流奥義…邪天慟哭炎撃破ーっ!」
 
 突き上げた右拳から流れ飛ぶ。炎の刃。それは、乱馬を守っていた紅い気をも飲み込み、一緒になって巻きあがった。
 やがて、紅い気が、覆い尽くしていた男乱馬の邪気を軽々と貫いて、天空へと飛び上がる。


「な…何だとっ?」
 炎の刃は、上空で構えていた、男乱馬の身体を飲み込んだ。と、深紅の炎が、一瞬にして、男乱馬を覆い尽くす。そして、みるみる、男乱馬を焦がして燃え上る。
「畜生…。俺様がこんな奴に…。ぐわああああっ!」
 シュウシュウと煙を上げながら、男乱馬の身体が烈火に喘いだ。
「もうちょっとだったの…に……。」
 男乱馬の声が猛火に飲まれて消えて行く。


「やった…。」
 女乱馬がガッツポーズを突き上げる。
 と、その体が、みるみる、男へと立ち戻り始めた。
 膨らんだ胸は平らに、肉づきの良い手足は筋肉質に…背も、ぐんぐんと伸び上がる。
 そう、男が己に戻って来る。


 ゴオオオオ…。


「ふふふ…この俺様がちっぽけな人間に、また、してやられるとはな…。」
 それは黒い塊が発する声だった。
「だが……おまえは勝ったつもりであろうが…。ワシは負けてはおらんぞ…。」
 黒い塊が脈動する。男乱馬の身体が弾け飛び、黒い塊だけが残ったようだった。

「何を今さら、負け惜しみを…。」
 男の姿に戻った乱馬が声を放った。

「負け惜しみなどではないわ…。ふふふ、見よ。」
 黒い塊の中から、そいつは抜き出て来た。
 卵型をした手のひらサイズの黒い塊であった。ビチビチと小さな稲妻が走りながら、そいつを取り巻いている。
「この黒龍卵の中にある、おまえの希望をぶっ潰してやる!」
 黒い瘴気はクスクスと笑った。

「俺の希望?」
 乱馬はいぶかしげに言葉を投げた。
 と、背後から声がした。
「乱馬君っ!」
 それは、闘いの場から、一旦身を引いていた、天道早雲であった。
 この、邪気の塊を見て、大慌てで飛び出してきたようにも思えた。
「おじさん?」
 唐突に割り込んで来た早雲を顧みながら、声をかける。
「あの卵…。あの黒龍卵の中には、あかねがっ!」
 それは父親の悲愴な叫び声だった。
「あかね?」
 口走られた名前を聞いて、ギョッとして見据える。
「あの中にあかねが、捕らわれているんだっ!」
 早雲が叫んだ。
「何だって?」
 
 早雲から発せられた、意外な名前に、今度は乱馬が動揺した。
 あの、厭な瘴気を放っている、小さな卵の中に、あかねが捕らわれているというのだ。

「ふふふ…。そうだとも。おまえの愛する者は今頃、この中で闇塗れになって、苦しみもがいていることだろうね…。」
 いい気味だと言わんばかりに、闇は嘲笑った。

「てめーっ!」
 グッと握りしめる拳。

「おっと…下手に気弾など浴びせかけると、黒龍卵が壊れてしまうよ…。そうなれば、中の小娘も、無事では居られまい…。」
 クククとそいつは不気味に笑い声を飛ばす。そして、言い放った。
「この娘を助けたくば…。貴様の身体を私に差し出せ…。乱馬。」
 ドクンと黒い塊が一度戦慄いた。

「俺の身体をおまえに差し出せば、あかねは助けてやるとでも言うのか?」
 間髪いれず、乱馬が問い質す。

「ああ…。悪い話ではなかろう?」
 くすぐるように乱馬へと語りかけて来る。
「むろん、拒めば、この黒龍卵がどうなるか…。」
 ビチビチと音をたてながら、小さな塊は揺らめいた。

 と、何を思ったか、乱馬がすっと一歩前に出た。
 
「ふふふ…その気になったか?」
 黒い影が蠢いた。

「乱馬君っ!」
 横から早雲も身を乗り出してきた。
 引きとどめようとしていることは、ありありと分かった。
 乱馬はそれに対して、すっと手を横にして差し出した。
「大丈夫だ。おじさん…。奴の言いなりにはならねえ…。」
 決意の瞳でそれに対した。

「ほう…断るのかね?」
 黒い闇が蠢いた。

「ああ…。俺はおめーのような妖(あやかし)の言うなりにはならねー。」
 
「では、この黒龍卵は…。」
 黒い闇が黒龍卵へと触手を伸ばしたその刹那だった。

「でやああああっ!」
 乱馬が黒い塊目がけて、襲いかかった。
「てめーの好きにはさせねえっ!てめーは黙って沈みやがれーっ!」
 そう吐き付けると、右手に握っていたものを、手裏剣のように、飛ばしつける。
 
 真っ黄色の三角形の紙片が数枚、黒い闇、目がけて投じられる。
 玄馬から預かった、早乙女家伝来の、封印の札である。

「ぐわああああっ!貴様…。何故それを持っているーっ!何故、天海の札を…。」
 ビチバチっと黒い闇が怒声を張り上げた。

「何故って?決まってるだろ?俺は…早乙女乱馬だぜ。早乙女家の末裔だからに…決まってるだろーっ!」
 更に、甲高く声を荒げて、札を投げつける。
 投げつけられた三角形の札は、四枚合わさって、正三角錐に姿を変えた。黒い塊を覆い尽くす。

 と、乱馬の脇から、早雲が飛び出して来た。手には一枚の四角い黄色札を持っている。それをピット高く掲げて、三角錐の底から突き上げた。
「留めだーっ!」
 勢いよく、四角の札は、三角錐へと張り付いた。これで、蓋がされ、完全な三角錐の容器が出来上がって、闇はその中へと消えて行く。


 そして、黒い闇を飲み込んで封じて行った。
「ふん…これで終わったと思うなよ…。まだ黒龍卵が遺されている…。月が昇った今、もう、おまえは…あの小娘を…助け出すことは…できない……。ワシの中のもう一つの闇が…あの小娘を食らい尽くす…。その闇が育ち…次の…結界が…緩むまで…もう一休みするか…。」
 三角錐に吸い込まれながら、闇の声はだんだんに小さく途切れて行く。そして、いつしか聞こえなくなった。

 トン、コロコロコロ……。

 三角錐がすぐ傍の地面へと転がり、やがて、コトリと動きを止めた。
 手のひらサイズの黄色いピラミッド型の容器が、そこへ留まる。

「けっ!手間取らせやがって…。」
 そう吐きつけて、乱馬は、ピラミッドと一緒に落ちて来た黒龍卵へと瞳を転じた。
 黒龍卵は、妖(あやかし)が滅しても尚、ジジジッと不気味な音をたてている。

「乱馬君…。」
 早雲が、乱馬の元へと駆け寄って来た。

「最後の封印の札はおじさんが持ってたんだな…。三角形の札四枚じゃ、側面は囲えても、底は無理だったから、助かったぜ…。」
「ああ…咄嗟に思いつけて良かったよ…。黄色の三角札だったから、もしやと思って…。」
 早雲は、封印の片棒が担げてホッとした顔を乱馬へと手向けた。

「おじさん…。悪いが、この封印されたピラミッド型の小箱を預かってくれねーか?この先の扱い方は、親父には聞かされてねーんだ…。でも、おじさんなら、わかってんだろ?」
 表情一つ変えるころなく、早雲へと言葉を投げた。
「ああ…。一通りは、天道家の当主として知っているよ。もちろん、ここからの帰り方もね…。」
 早雲は答えた。
「なら、話が早いや…。その小箱を処理して、一人、先に帰っててくれねーかな…。」
 ハッとして早雲が乱馬を見やった。

「ワシが先に帰る?まだ、終わっちゃいないだろう?あかねを助け出さねば…。」
 早雲は、そう言いながら、ジジジと不気味な音をたてている黒龍卵へと目を移す。
「いや、俺一人で行くよ…おじさん。」
「しかし…。」
 と言いかけた早雲を、乱馬は押し留めるように言葉を継いだ。
「ここから先は、俺の領分だ…。おじさんは、その黒龍を飲み込んだ三角錐型の箱を処理して…現世に先に帰って待っててくれ…。」
 その言葉を聞いて、早雲はフッと笑った。

「わかったよ…。後は君に任せよう…。君ならきっと、あかねを連れて帰って来てくれるだろうからね…。」
 早雲はそう言葉を投げると、すっと魔物を封じたピラミッドを拾い上げた。
「きっと、探し出してくれたまえよ…。私の大切な娘を…。」
「ああ…。」
「それから…。今度帰って来たら…おじさんという言葉はやめにしてくれないかね…。」
 その言葉に、えっ、と小さく言葉を投げ返した乱馬に
「君があかねの伴侶となるなら…私は君にとっても、義父(ちちおや)になるのだから…。もう、他人じゃない…。君とワシは親子になるんだからね…。」

 それだけを告げると、早雲は立ち上がって箱を抱えた。
 そして、後向きに手を振りながら、ゆっくりと、光が差し始めた方へと歩き出す。

「後は任せてくれ…きっと、あかねは連れて帰るから…おじさん…。いや…お義父(とう)さん…。」
 乱馬は、一度だけ柔らかい表情と共に、去っていく早雲の背中へと吐き出した。



つづく



次回、本編クライマックスです。
やっと、辿り着いたぜ~


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