◆蒼い月と紅い太陽

第十八話 幽かな光


一、

 その日は朝から雨が降り続いていた。

 裏庭に植えられた、紫陽花がつぼみをつけ始めている。走り梅雨。そろそろそんな言葉が、巷で囁かれる季節になってきた。
 湿気を含んだ空気は、なんとなく重い。

「雨…か。」
 なびきは、そんな言葉をため息とともに吐き出して、ふとキーボードを打つ手を止めた。
 乱馬が玄馬と連れ立って、接骨院を後にしてしまうと、天道家は静寂に包まれてしまった。
 早雲もあかねも居ない。一人取り残される、広い母屋。
 仕事がはかどるハズなのにそうでないのはなぜだろう。
「静かすぎるのも考え物ねえ…。」
 トンと書類を机の上で揃えながら、また、大きなため息を吐き出した。

 天道家の茶の間。
 一人には広過ぎる。
 テレビがドンとおいてある。観る気にもなれず、つけていない。脇に積み重なる書類に埋もれながら、ここ数日はこの部屋で仕事をこなしていた。
 何故だか、出社する気にもなれなかった。都心に出るのも煩わしい。
 ご飯も作る気になれず、店屋物やインスタント食品。時折、姉のかすみが気を遣って、手料理を届けに来てくれる以外は訪問者も無い。携帯電話で佐助や社員たちに指示は与えているものの、それすらしなければ、人語も喋らない「ひきこもり」の日々が続いている。
 というのも、天道家の留守をしっかり預からねばならない…という、おおよそ、なびきの性格からははじき出されない「使命感めいた考え」が、巡っているせいだった。
 乱馬が修行の旅に出て以来、天道家はみるみる静かになってしまった。いつも家に構えていたかすみも、結婚して家を出た。近くに住んでいるとはいえ、天道姓ではない。
 早雲は魔龍に憑依され、あかね共々、行方知れずだ。そう、家の中は静かだが、天道家は激震の真っ最中なのだ。
 
「ま、仕事は家でも出来るしね…。」
 そう言いながら、再びパソコン画面を食い入るように眺めた。

 雨が激しく降り始めた。降ったりやんだりを繰り返す、典型的な雨の日中。太陽の影は無い。
 振り込んでくる雨を嫌って、窓をしめようと縁側へと立ち入る。ガラス窓の向こうに、道場の屋根が見えた。激しく叩き付ける雨粒に、瓦屋根から水が延々と滴り落ちている。池の水も雨粒に泡立っていた。

「決戦は今夜だったわよね…。」
 雨脚を観ながら、ふと思った。
「とても、そんな大事が控えているようにも思えないわ…。」
 と、マウスを動かしながら思った。

 さっきもトイレに立ったついでに、井戸の様子を窓辺から伺ったが、特に変化は無かった。
 早雲が貼り付けた白いお札が数枚。木を焦がした黒い井戸枠と蓋をべったりと封印している。
 井戸からは何の嫌な気配を感じなかった。封印お札が貼られているという光景がなければ、魔物が潜むとも思えないほど、ひっそりとしていた。
 好奇心の強いなびきでも、さすがに、井戸に近づこうという思いは起こらなかった。触らぬ神に祟りなし…そんな心情で窓から眺めるだけであった。
 天道家の血を受けた娘として、遠くからでも事態を見守る義務はある。とは思えども、どこか絵空事のように思えてしまうのは、己が格闘に身を置いていないせいなのであろう。

「ま、魔龍もあたしより、あかねの方が御(ぎょ)しやすいんだろーなあ…。」
 と、フッと笑みがこぼれる。
「相手はお父さんと男の乱馬君を操っているっていうし…。なおさら、あかねに固執するわよね…。」
 
 そんな考え事を巡らせていた時だ。

 ガタガタガタと玄関先で、引き戸を揺する音がした。
 バンバンバンと叩く音もする。

 ハッとして我に返る。

「誰か来たのかしら…。」
 慌てて、廊下をすり抜け、玄関へと走り寄る。
 引き戸のガラスの向こう側に、その影を見出す。
 大きな白と黒の影が立っていた。ジャイアントパンダの影だ。
「お…おじさま?」
 大慌てで、カギを解除し、引き戸を開く。

「ばふぉっ!」
 引き戸が開くと、パンダはそう一声発すると、せったり負っていた、道着姿の娘を、玄関先に投げ出した。
「よお…帰ったぜ…。」
 ぼろぼろになった道着に身を包んだ彼女が、ニッと笑って声をかけてきた。
「ら…乱馬君っ!」
 大慌てでなびきは、乱馬を抱え起こした。
 その脇に、どっかとパンダが腰を下ろした。脇にドンとリュックサックを置く。傘を持たずにいたため、雨に打たれてパンダへと変身を遂げたのだろう。パンダのまま、リュックから大きめのタオルを取り出して、身体についた水気を取りにかかっている。慣れた動作だ。
 傍らの乱馬は、力を使い果たしているのか、ぐったりとしていた。見たところ、身体に傷は無かったが、道着はすり切れて破れている。修行の激しさを物語っているようだった。

「っと…こうしちゃいられないわっ!かすみお姉ちゃんに連絡しなきゃっ!」
 あらかじめ、姉妹間で打ち合わせていたのだろう。なびきは携帯を持つと、親指で素早く動作しはじめた。
「あ…かすみお姉ちゃん?あたしよ、なびき。今、乱馬君が戻って来たわ。…うん、すぐ、来てっ!できれば、東風先生と一緒にっ!」





 ややあって、かすみが東風を連れて、天道家へとやって来た。
 そして、真っ先に、奥の仏間に蒲団を敷いて寝かされた乱馬の診察をしに、東風が上がりこんだ。

「ずいぶん、激しい修行をしてきたようだね…。」
 乱馬の女体に触れながら、東風が声をかけた。
「ああ…まーな…。今朝方まで山の中で暴れまわって来た…。で、始発に乗って帰って来たんだが…。途中、力尽きちまった…。腹ペコで…。」
 ぐううっと女乱馬の腹が鳴り響く。

「なんだ…お腹がすき過ぎてただけなのね…。あたしは、てっきり、修行のやりすぎで怪我したかと思ったわ。もう、心配して損しちゃったわよ。」
 後ろ側からなびきが覗き込んだ。

「いや、怪我の痕もたくさんあるよ…なびきちゃん。」
 乱馬の肌を観ながら、東風が語り掛ける。
「そう?血は出て無いみたいだけどけど…。」
「いや、傷痕だらけだよ。…もっとも、癒しの気のおかげで、殆ど治癒しちゃったみたいだけど…ね、乱馬君。」
 乱馬を見ながら東風はにっこりと笑った。それには答えず、乱馬は真っ赤な顔を横にそむけた。
「癒しの気?」
 なびきが不思議そうに東風と乱馬を見つめる。なびきは、乱馬とあかねの「特殊能力」を知らなかった。
「ああ…。乱馬君はあかねちゃんと気の交流ができるようになったんだよ。」
「あかねはここにいませんよ、先生。」
 なびきが不思議そうに東風へと問い質すと、東風が矢継ぎ早に答えた。
「居なくても、乱馬君はね…その指輪であかねちゃんの気を捕えることができる能力が身についたんだ。そして、指輪から流れ込んでくるあかねちゃんの気が、傷ついた乱馬君を癒していたんだよ…なびきちゃん。」
 その言葉を受けて、なびきの瞳に薄ら笑いが浮かんだ。
「へええー…。そーなの?乱馬君…。それはそれは、お熱いことで…。離れてても互いを感じることができるんだー。で、癒してもらえるのかあ…。」
 と明らかからかい口調で乱馬をはやし立てる。

「先生っ!余計なこと言わねーでくれっ!」
 かああっと真っ赤に熟れた顔を東風となびきへと手向ける。
「どら…。」
 好奇心をかりたてられたのだろう。なびきは、すっと乱馬の左手をとって、指輪に触れて見た。
「……あたしには何も感じないけど…。」
 などと吐きつける。
「こらっ!勝手に触んなっ!」
 その手を慌てて振りほどき、なびきを睨み上げる。
「これは、大事な指輪なんだぞっ!」
 と、勢い込んで噛みつく。
「あらあら、ごちそうさま…。一応、婚約指輪だもんねえー。」
「一応じゃねえーっ!婚約指輪そのものだっつーのっ!」
 と、ふくれっ面を見せる。
「高校生の頃買ったやつでしょ?新しいのは買ってあげないの?」
「大きなお世話だっ!この指輪にはたくさん想い入れが詰まってんだっ!」
 顔を真っ赤にして、乱馬が怒鳴った。
「親指の婚約指輪か…。」
「ほっとけっ!今の俺は女化してて、薬指に、あわねーんだっ!」
 投げつけるように叫んだ。
「そーよね…。そのままじゃまずいもんね。」
 何を思ったか、なびきはすっとその場から腰を上げた。
 それから、その部屋にあった仏壇の引き出しを、徐にごそごそとあさり出す。
「おい…何やってんだ?勝手に仏壇をいじくって…。」
 不思議そうに見つめる乱馬に、なびきは銀色の鎖を出してきた。よく見ると、ペンダントチェーンだった。
「これに、指輪を結えて、首からかけておけば良いわ…。親指にはめたままだと、男に戻った時にまずいでしょ?」
 と言ってにっと笑った。
 へっという表情を返した乱馬に、なびきは続ける。
「これ…お母さんがしていたものなのよ…。そこらにあるただのチェーンよりご利益があると思うわよ。」
「あかねの母ちゃんの?」
「あたしのお母さんでもあるしね…。」
「そっか…。あかねとおまえは姉妹だったよな。」
「何?その言い草。」
「いや…。かすみさんはともかく、おめーとはあんまり縁続きだって、思いたくねーからよー。」
 ぼそっとこぼれた本音。
「何よ、それっ!」
 今度はなびきが乱馬を睨む番だった。
「欲どおしいおめーのことだ。母ちゃんの物と言いながら、後で使用料とか称して、いっぱい吹っかけてきそうだからな…。」

 その言い方が可笑しかったのだろう。二人の脇で、東風が傍らで、あははと笑いだした。

「…たく、なびきちゃんと乱馬君も、絶妙なコンビネーションだね。また、あかねちゃんとは違う、親密さを感じるよ。喧嘩するほど仲が良いって言うし…。」
 と二人を見比べながら言った。

「こいつとあかねを一緒にしねーでくれよっ!」
 それを受けて、すぐさま乱馬が反論を試みた。

「何てこと口走るのよ、あんたはっ!人がせっかく無償でそのネックレスリングを貸し出してあげてるのにっ!」

「だからー、これはてめーのじゃなくて、おめーらの母ちゃんの物なんだろ?」

 堂々巡りの会話を繰り広げている、なびきと乱馬。
 それを見つめながら、東風が言った。

「とにかく…闘いの時間まで、あとは、せいぜい、身体を休めておくんだね。食事はかすみさんが作ってくれているから、それを食べて、ひたすら、眠りなさい。
 今のなびきちゃんとの軽いやり取りで、我武者羅な修行でささくれだった乱馬君の気も、元に戻ったろうしね。」
 ポンと乱馬の肩を叩いた。

「こいつとの会話で、さらに荒(すさ)んだ気もするんだが…俺は…。」
 ぼそぼそっと乱馬は吐きつけた。

「とにかく、指輪…そこへ通して、首から吊り下げておきなさいよ。さて、あんたをずっと相手できるほど、あたしも暇じゃないしね…。プロジェクトの仕上げにかかんなきゃならないし…。
 乱馬君も戻って来たし…。こうしちゃいられないわっ!」
 さっきまでの停滞モードとは打って変って、なびきにもスイッチが入ったようだった。たったとなびきは仏間を出ていく。
 仏間から続く裏の廊下に出ると、台所でかすみが食事を作っているのが見えた。トントントンと調子の良いまな板の音が聞こえてくる。その脇にかけられた鍋からは、おいしそうなにおいが湧き立っている。
 調理台の横では、まだパンダ姿のままの玄馬が、ひょいっと出来立ての惣菜をつまんでいるのが見えた。
「おじさま…ダメですよ。もうちょっと待ってくださいね。」
 やんわりとかすみがとがめている。
「ぱふぉふぉ、ぱふぉふぉふぉ!」(これは失礼!)
 と玄馬がおどけている。

 そのやりとりを見て、思わず笑いがこぼれた。

「やっぱ…天道家(ここ)は賑やかじゃなくっちゃね…。」

 外を見ると、いつしか雨も止んでいた。



二、


 そろそろ日没。
 雨はすっかり上がっていたが、まだ、どんよりと曇っている。
 太陽の姿は、分厚い雲に隠されて見えない。その分、夕闇が少し早く迫ってきた。
 天道家は、ひっそりと静まり返る。

 東風とかすみは、夕方の診療のため、少し早目に帰って行った。乱馬の帰帆を受けて、午前診を途中ですっぽかして接骨院を抜けて来たのだ。午後診までもないがしろにするわけにはいかなかったからだ。
 なびきもかすみについていった。
 天道家に居たままだと、どんな危険が待ち受けているか、わからないからだ。闘いの足手まといにもなりたくはない。玄馬の進言によって、接骨院に一晩、泊めてもらうことになったのだ。
「うちにはベッドがたくさんあるからね。気を遣わなくても良いよ。」
 東風がなびきへと声をかけると、
「こいつが気なんか遣うかよー。どーせ、宿泊代が浮いてラッキーとか思ってやがるぜ…。」
乱馬がぶっきらぼうに口を挟んだ。
「もー、憎まれ口ばっかり叩くんだから、乱馬君はっ!」
 なびきはじろりと乱馬を見返していた。
「ははは…ここはお手柔らかにね、二人とも…。まあ、乱馬君も、それだけ憎まれ口を叩ける元気があるんだ。あとは任せても大丈夫だね?」
 柔らかい笑顔を手向けながら、東風は乱馬を見やった。

「ああ…。かすみさんのおいしい飯とたっぷりとった睡眠で、疲労は回復したぜ…。」
 乱馬はそう言いながら、道着から腕をまくって見せた。女の細腕がそこに現れ出る。男の時からは見劣りするものの、結構、筋肉が盛り上がっていた。外見上のかわいらしさとは一線を画するような、違和感がある二の腕だった。

「そーね…。惰眠を貪っている間も、指輪を通してあかねの気と交流をはかってたんでしょーし…。体力もばっちり回復したわよねー、乱馬君。」
 乱馬に負けず劣らず、なびきが憎まれ口を叩く。

「だったら、どーした?」
 乱馬も負けてはいない。

「ちゃんと、厄介事を片づけなさいよ。」
 と一言、乱馬へと投げた。

「ああ…。任せとけ。絶対に、魔龍を倒してやる。」
 女乱馬の瞳がぎらぎらと輝き始めた。そこにあるのは、一人の武道家の瞳だ。
 二重瞼の下の瞳は、女の姿とはかけ離れた、強い光が灯っている。
 その迫力に、なびきは、気圧され、おふざけの言葉も憎まれ口も、出てこなかった。

「じゃあ、あたしたちは行くから…。」
 なびきはそう言うと、くるりと乱馬から背を向けた。
 東風とかすみも、一度だけぺこんと乱馬へとお辞儀をして、天道家の門戸を出て行った。



 後を見送る乱馬は、ふうっと一つ大きく息を吐き出した。そして、ぐっと丹田に気合を入れる。
 と、ごおおっと風が傍らを吹き抜けて行った。

「さてと…そろそろ日没じゃな。」
 玄馬が乱馬へと言葉をかけた。
パンダモードから人間へと戻っていた。
 玄馬もあれから、かすみの手料理をたらふく食べ、横になって眠ったようだった。
 あかねの気で癒してもらえる乱馬と違い、玄馬の身体には、あちこちに傷があった。東風が手当をしてくれたが、その傷は消えることなく、肌をむき出しにしていた。ところどころ貼られた絆創膏が痛々しい。
 早乙女家秘伝の技を完成させるべく、息子の修行に付き合った結果だろう。
 天海僧都が遺した技は、誰彼打てるものではなかった。
 本質を悟ったにせよ、どうあがいても、玄馬には打てない技であった。技を唯一打てるだろう息子の乱馬とて、必死で修行し、残された時限、ぎりぎりでかろうじて技を習得したのだ。
それでも、魔龍を倒せるか否かの可能性は五分五分。確率は邪天慟哭破の時より、低いかもしれなかった。
 投げやりな言い方をすれば、「後は天に任せるのみ」。そんな言葉が当てはまりそうだ。
 
 女乱馬(乱馬)が勝つか…男乱馬(魔龍)が勝つか…。
 
「親父はどーすんでい?」
 乱馬は玄馬を振り返った。
 一緒に来るのかどうかを確かめにかかったのだ。
「ワシは、ここに残るわい。」
 玄馬は即答した。
「俺の戦いぶりに興味はねーってか?」
 表情を変えずに、乱馬が尋ねる。
「いや…興味以前の問題じゃな…。ワシはこの闘いに関しては、部外者じゃ。」
「こんな時だけ、部外者を装うつもりか?」
 と吐きつけた乱馬に、
「いや…己が器は、理解しているつもりじゃからな…。ワシが行ったところで、足手まといになるだけじゃろう…。下手をこくと、貴様の邪魔になるだけじゃ。だから、ここに残るわい。」
 玄馬ははっきりと言い切った。
「ほー、なかなか謙虚なことを言うじゃねーか…親父らしくねえ…。」
「優れた武道家は己の能力の器もきちんと見極めるわい…。」
「優れた武道家ねえ…。ま、好きにすればいいさ。あえて来いとは言わねーよ。」
 苦笑いを浮かべながら乱馬が言った。

「早乙女家伝来の技を生かすも殺すも…あとはおまえ次第じゃ。せいぜい気張るんじゃな。」
 厳しい瞳を巡らせながら、息子へと発破をかける。
「ああ、その言葉、親父の「はなむけ」としてありがたく受け取っとかあー。」
 すっと見上げる空。東の空から闇が迫り始めていた。
 雨はやんだとはいえ、分厚い雲が垂れ下がっている。闇に埋もれ始めていても、星ひとつ見えて来ない。

「…っと、これを忘れるところじゃったわい。」
 玄馬はすっと懐から数枚の黄色い紙を取り出した。

「こいつは?」
 瞳を紙へ巡らせながら、問い質す。
「天海和尚から託された、封印のお札じゃよ。」
 玄馬は答えた。

 天道早雲が井戸を封印する時に使っていたものとは、色も形も浮き上がる文字も違っていた。
 前に早雲が手にしていたのは、どこにでもありそうな白地の紙に朱色の印が押されて、その上を黒墨で何やらそれらしい文字が書き記されていた。それに対して、目の前に出されたものは、明らかに形体が違っていた。
 紙は黄色だったし、形もピラミッド型の正三角形だ。真ん中には朱文字で「封」という字句が見える。それを解読不可能ないくつかの形象文字が逆三角形を描きながら並んでいた。
 お札というよりも、三角形のシールのようにも見えた。しかも、数枚、同じものが何枚か、束ねられている。

「この、三角の札は、最終局面で、魔龍を再び封じる時に使うものだそうだ。ほれ、三角の真ん中に、封という文字が書かれておろう?」
「確かに、「封」という字が見えるな…。」
 乱馬はしげしげとお札を眺めながら答えた。
「こいつは、おまえが黒龍を撃破して後、封印の時だけに有効だそうじゃ。男乱馬との闘いの中では一切、使えんじゃろう…。複数枚あるのは、一枚では封じ切れんからだそうだ。最低、四枚は必要らしい。」
「じゃあ、男乱馬から奴を引き剥がし、正体を現しやがったら使えるってことか?」
 乱馬は玄馬へと問い質した。
「恐らくな…。」
「…ったく、推察の域を出ねーってか。」
「文句を言うな。ワシも使ったことがないのだから、仕方無かろー?」
「そりゃそーだな…。」
「それからもう一種類、別に札がある。」
 そう言って差し出した円い札は、中央に「開」と文字が入れられていた。
「使い道は?」
「それが、家伝にも口伝にも、一切記録が無い。」
「あん?」
「さっき渡した札は、家伝にも記されていたから、普通に封印の札だということがわかるんじゃが…。何故「開」なのかは、トンと予想もつかん。」
「何、ふんぞりかえってやがんだ、てめーは…。偉そうに知らねーって言うなっ!…ったくう…。」
 そう言いながら、しげしげとお札へ目を転じる。
「謎のお札ってわけか…。」
「ああ…。ただ、開くという文字から察するに、扉か何かを開くときに使うんじゃろうな…。」
「扉…ねえ…。誰か閉じ込められている場所を開く…みてーな感じなのかな。」
「かもしれぬぞ…。或いは、あかねくんが捕らわれている牢獄を開く時に使うとか…。」
「全く有り得ねー話でもねーか…。」
「まあ、これも持っておけ。」
「ああ、わかった。」
 玄馬に言われて、開の札も一緒に持つことを承諾する。特にかさ張る訳でもなかったので、持って行くことに支障が無いと判断したからだ。
「この巾着に入れて、この紐に結わえて、腰へ巻いておくとよかろう。」
 札が入るのに丁度良い大きさの巾着も一緒に差し出した。
 古い巾着なようで、立派な布で作られたもののようだったが、色あせてくすんでいた。金糸も剥げかかっている。
 乱馬は言われた通り、札を巾着袋に入れて、紐へとくくりつけ、腰に巻いた。紐はゴム状になっていて、伸縮があったので、ウエストにスッと馴染んだ。

「さてと、準備は整った…。で?俺はどうしたら良いんでえ?魔龍の方から出向いてくるのか?」
 乱馬は早雲へと問いかけた。
「井戸へ飛び込め。」
 ポツンと玄馬が言った。
「あん?」
「じゃから、封印を解いて、井戸へ飛び込んだら、良いのじゃよ…。」
「本気で言ってるのか?ふざけてねーよな?」
「ふざけてなどおらんよ。第一、化け物がここへ出て来てみろ。ご近所界隈、大騒ぎになって、闘いどころではなくなろーが…。」
「まー、そーだが…。」
「怖いか?飛び込むのが…。」
「…怖いことはねーが…。井戸に飛び込んで、何も無かったら、ただの阿呆だぜ?」
 と乱馬は答えた。
「ふふふ…。その点は心配いらん…。もう、おまえは女に変身しておる。何度水に浸っても、変身しっぱなしじゃ!」
「おのれは…こーゆー場合でも、おふざけする気か?」
 思わず、ポカッと拳が唸る。
「冗談を受け流す余裕くらい無いと勝てんぞ…。」
「こっちは、命かけてんだぞっ!…んな余裕なんかあるかいっ!」
 ギロリと睨み返す。

「…それより。見よ。」
 玄馬は真顔に戻って、井戸をすっと指し示した。

 日没を迎え、そろそろ明かりが恋しい暗さになった。
 誰が灯したか、道場に渡る廊下の蛍光灯が、侘しげに辺りを照らしている。
 その向こう側にたたずむ、木枠の古井戸。
 そいつが、ポウッと光を放ち始めていた。

「あれは…。」
 乱馬はぎょっとして、その光を見詰める。

 井戸枠が赤色に輝き始めた。赤信号の色だ。
 もちろん、光源がある訳ではない。電灯もイルミネーションも皆無だ。なのに、木枠がひとりでに光り始めたのである。

「魔龍が呼んでおるんじゃろうよ…。早く、来い…とな…。」
 玄馬が言った。

 玄馬の言うとおり、まるで、早く来いとでも言いたげに、井戸枠が光っている。
 しかも、良く見ると、井戸枠におどろおどろしい文字のような文字が黒く浮き上がって来たではないか。

「あれは…何だ?」
 その異様な光景に、思わず乱馬は息を飲んだ。

「あれこそ、天海僧都自ら井戸にかけた呪文じゃよ…。長きに渡り、黒龍をこの井戸へと封じ込めてきたな…。
 再び、奴らがその呪文を破り、この地に復活するか…それとも、再び長き封印の眠りにつくか…。後は、乱馬…おまえに任せたぞっ!」
 そう言って玄馬はくるりと後ろを向いた。

「どこへ行くつもりだ?」
 乱馬は玄馬へと問いかける。

「別にどこにも行かんよ…。天道家の留守を一晩預かるつもりじゃ。」
 そう言いながら、後ろ手を振った。
「なびき君もかすみさんも避難したからのー。誰も居なくなると、不用心じゃろう?
 縁側で星空でも見ながら、一献やって、夜明けを待つわい…。」

「雲が分厚過ぎて、星空なんて、見えねーぞ…。」
 ぼそっと乱馬が吐き出した。

「これから、見えよう…。夜半には月も昇ってこようしのー。吉報を待っておるぞ…。」
 玄馬はそう言いながら、玄馬はゆっくりと遠ざかる。

 闘いへ同席しないと決めた以上、井戸からも遠ざかるつもりのようだった。

 一人残された乱馬。
 蛍光灯の影が、一回り小さい女の影を映し出している。

「さて…呼ばれてんなら、そろそろ行くか…。」

 ふうっと一つ、息を吐き出した。

「あかね…。待ってろっ!絶対に助けてやるからなっ!」
 そう、指輪に吐き出していた。






 暗い空間の中。
 あかねはあてどなく、身を空間のよどみの中に浮かべていた。
 目を閉じているのか、開いているのかさえもわからなくなる、深遠な闇だけが続いた世界だ。
 身を横たえていても、浮かんでいるのか沈んでいるのかさえもわからなかった。上下左右も全てが無意味だ。

 時折、思い出したように、ピシッと何かが割れる音が胸元で響いた。
 その音がすると、締め付けられるように、瘴気が流れ込んでくる。体中がその瘴気でどす黒く汚されて、黒く染まってしまうのではないかという恐怖が心を支配する。

 ピシッ!

 また、胸で、音が弾けた。

 どす黒い瘴気が、再び、取り巻く感覚に襲われ始める。
 視界など無いのに、それは身に迫って来るのだ。

『寄こせ…その無垢な心…。黒に染めてしまえ…。』
『黒に染めてしまえば、楽になるよ…。』
『そうすれば、あまたの苦しみからも解放される…。』

 決まって誘惑するように語りかけて来る、魔物の声。脅したり、賺したりしながら、あかねの脳内へ直接語りかけてくるようだ。

 あかねは知らなかったが、弾ける嫌な音は、胸元にある「破魔の勾玉」がひび割れる音だった。
 胸元にある勾玉は全部で七つ。月が昇って来る度に、一つずつ割れて弾ける。弾けてしまうと、白色の勾玉が、どす黒い色に染まってしまう。
 それを繰り返しているのだった。
 あかねを守るべく、玄馬が授けた破魔の勾玉も、未来永劫に守ってくれる訳ではなかったのだ。

 勾玉が弾けると、途端、決まって闇があかねへと手を伸ばしてきた。悪意に満ちた声で、あかねを惑わせる。

 あかねが苦しげに心を乱し始めると、左手の薬指から、じわじわとその気は浸透してくる。
 そう。乱馬とかわした指輪から流れてくるのだ。懐かしい気…乱馬の気だった。
 正気に溢れた力強いその気は、まとわりつく、黒い瘴気をゆっくりと浄化し始める。
「乱馬…。」
 愛しいその名を呼び、左手の指輪へと、全神経を集中させる。
 やがて、心が落ち着き始める。
「あかね…。待ってろっ!絶対に助けてやるからなっ!」
 と、聞こえて来た、一瞬の声。女乱馬の、声が響いて来た。
 ハッとして振り返る。が、闇しか見えない。
「今…乱馬の声が…したわ…。」
 そう思って、指輪の方を見詰めた。暗闇の中、それは、幽かに光っていた。久しぶりに目にした光だった。
 指輪から流れて来る気を全身に感じていた。正真正銘の乱馬の気だった。邪気に溢れた男乱馬の物とは違う、崇高なほど力強い気脈が、流れて来る。
「乱馬…待ってる。あたし、ずっと、待ってる…。」
 そう言いながら、指輪を胸の前で抱きしめる、
 訳のわからない闇の世界の中で、唯一ある希望だった。離れていても感じる、柔らかな気だった。


『また、邪魔が入ったか…。』
『でも、今しがた弾いたのは、六個目の玉…。』
『憎き破魔の玉は全部で七つ…。』
『ということは…あと一つ…。』
『あと一つ弾ければ…この娘を黒く汚せる…。』
『我が手に堕ちる…。』
『もう少しだ…。』
『それに…もうすぐ闘いは始まるよ…。』
『最期の闘いさ…。』
『でも、おまえはどうすることもできない…。』
『ただ、眺めているだけの…無力な存在…。』
 くすくすと声が遠ざかりながら、あかねをさげすむように笑い始める。

「やめてっ!お願い!やめてーっ!」
 耐えきれず、あかねは指輪から手を放し、両手で耳を塞いだ。そして、グッと瞳も閉じた。








「良く来たな…。本体(あいぼう)…。」
 ニッと笑って男乱馬が出迎えた。
「ああ…。待たせたな…。」
 落ち着き払った女声がそれに答える。
 真新しい道着に着替えていた。真っ白の道着だ。
 父親の玄馬は、のどかが用意してくれたものだと言った。何度か洗いざらしてくれたのだろう。新しいとはいえ、新布のざらざらとした堅い感触は一切無かった。
 腰を縛る黒帯は、以前から使用しているものだ。道着の下には、黒いランニングシャツを着用していた。いわゆる、黒ランだ。白や赤のランニングを着ることもあったが、肉体を美しく見せる黒色のそれを愛用して着こむことが多かった。
 対する男乱馬も同じような格好をしていた。ただ、道着の色は、くすんだ灰色をしていた。



 あれから、天道家の古井戸の封印の札を引っ剥がし、井戸蓋を開けた。
 途端、下から湧きあがる、瘴気。ただのカビ臭ではなかった。真っ赤な水が井戸底になみなみと湧きだしていた。
 何か嫌な気が。水の底から吹きあがってくるのは、確かであった。禍々しいほどの邪気であった。
 井戸底の赤い水が、これみよがしにあわく光り輝き始める。
 早く来いと言わんばかりに、鈍く点滅を繰り返している。

「早く、来いってか…。」

 その輝きを見詰めながら、ぐっと丹田へと力を込める。
 これから敵地へ向かうのだ。多少の危険が伴うだろう。が、あかねを捕らわれている以上、行かない訳にも行かなかった。
 首につるした指輪も、鈍く光り始める。この下に彼女が居ると必死で告げているようにも思えた。
「魔物も指輪も…あかねも…俺を呼んでる。」
 一度だけグッと指輪を握りしめた。自然と力が湧いてくる。恐怖心も戸惑いも、一気に吹っ飛ぶような感じを覚えた。

「行くぜっ!」

 決意を固めると、動作に迷いは無くなった。
 井戸枠に足をかけ、腰かけると、そのまま、一気に両足から下に飛び込んで行く。
 が、次に来るはずの水飛沫は一切無かった。
 満杯の赤水が底に溜まっているのが見えたにも拘らず、水に入る衝撃が無かったのである。
 落ちながらも、ちゃんと息は出来た。
 石壁ではなく、まるで、異空間通路のように、辺りは様々な色が連続して流れて行く。
 
 それは、一瞬だったようにも思えるし、かなり長く落ち続けていたようにも思う。

 フッと、空気の流れが変わった。

 満ちていた瘴気が、一層深くなったのを感じた。

 気付くと、地に足が着いていた。土のような岩のような、湿った地面がそこにあった。







『乱馬と乱馬の闘いが始まるよ…。』
『雌雄を決するんだよ…。』
『邪気を孕んだ男乱馬が勝つか…。』
『それとも、正気を滴らせる女乱馬が勝つか…』
『邪気に塗れた男乱馬が勝つさ…。』
『力も闘気も男の方が勝っているからな…。』
『おまえは、自分の無力を恨みながら見ているが良い…。』
『愛する者が血に塗れ行くその姿をね…。』


(乱馬…。)
 暗黒の闇の中で、あかねは虚空を見上げた。再び、堅く閉じていた瞳を見開いたのだ。
 
(あれは…。魔龍の巣窟…。)
 見上げるビジョンに、映し出されたのは、己が最初に囚われた、岩壁の世界に似ていた。
 広く果てなく広がる、暗い世界。 映し出される、映像は、まやかしか、それとも本物か。

 そこに、立っているのは、父の早雲と、男乱馬だった。
 背後からは黒い瘴気が湧きあがっている。見るからに邪悪然していた。
 
 ぼんやりと見つめるその瞳に、もう一つ、光と共に、人影が現れた。
 と、指輪がざわつきはじめた。
(あれは…乱馬…。本物の乱馬…。)

 ビジョンに映し出されるもう一人の乱馬は、女化していた。少し小さな背中に、ゆらゆらと赤毛のおさげが揺れている。
 背負った気は、禍々しい気配はなく、その世界に似つかわしくないほど、清々としている。それが証拠に、蒼い美しい気が溢れだしていた。

(乱馬…来てくれたのね…。)
 遥かに乱馬を見据えた。

 声は一切聞こえてこない。男乱馬と女乱馬、それから早雲の声も一切、耳には伝わってこない。
 なのに、何故、ビジョンだけが見えるのか、それはあかねにも理解出来なかったが、女乱馬が男乱馬に挑んでいる姿が、全方向から脳裏に浮かんで来る。
 まるで、無声映画を見せられているようだった。

「乱馬ぁーっ!」
 もちろん、声の限りに叫んでみたが、あちらにはあかねの声が伝わらないようだった。

(あたしの声は…気配は…あなたに届かないのね…。あなたの姿や気はこうやって捉えているのに…。そう…あたしには…何も出来ない…。)
 一筋の涙が頬を伝っていく。悔しくて流す涙の粒だった。
 何もできない暗闇の中の自分が、情けなかった。



『本当に、そうなの?あかね…。』



 柔らかな女性の声がした。
 どこかで聞いたことがある、懐かしい声だった。
 そう、遠い昔、子供のころ、耳馴染んだ声。
「お母さん?」
 ハッとして、あかねは辺りを見回した。
 もちろん、続くのは漆黒の闇だけ。母の姿など、どこにも見えない。
 ただ、指輪がポウッと光り輝いているのが目に入った。
 その光は、「このままで良いの?」と、問いかけているように見えた。
 「あなたはそんなに弱かったの?」と言われているような気もした。

「あたしは、ずっと何もしないでここに居ただけ…。」
 あかねはゆっくりと胸に手を当てた。
 
 トクン…トクン…

 そこから伝わる、心臓の鼓動。

 ドクン…ドクン…

 重ねた左手から伝わる別の鼓動。
 乱馬のものだった。

 出会ってから今日まで…闘いの中にずっと身を投じて来た、愛しき許婚。
 道場で初めて手合わせて以来、つかず離れずの関係を保ったまま、空気のように傍にいた青年。
 男でありながら、身に受けた呪いで女に変化してしまう。変な奴だった。
 が、女化していても乱馬は乱馬だ。かわいらしい外見とは違った、逞しき青年。ずっと傍にあった、その青年の気が、左手にはめた指輪へと溢れて来る。
 
「あたしにも、出来ることがあるのかもしれないわ…。」
 あかねはゆっくりと体を起こした。
 そう、何もない暗闇の中で、初めて自ら身を起したのだ。地面など無い虚無の暗闇だったが、地に足がつかないまでも、二の足で立つことができた。
「あたしの声が届かなくても…。力が及ばなくても…。あたしも、乱馬と闘うわ。共に…。」
 
 あかねの瞳に、光がゆらゆらと煌めき始めた。
 あれほどまでにざわついていた闇が、ひっそりと静まり返る。








「ほう…逃げずに来たかい…。乱馬君。」
 早雲がニッと笑った。

「ああ…。あかねはどこだ?」
 きょろきょろとあたりを見回した。
 当然ながら、そこにはあかねの姿を見出すことが出来なかった。

「あかねなら、ここには居ないよ…。居たら、存分に闘えないじゃないか。」
 そう言いながら、早雲が笑った。

「どこへ隠した?」
 はっしと睨みながら、女乱馬は早雲へと対峙した。
 指輪の具合から、あかねが健在なのは、わかってはいたが、姿が見えないことに、いらだちを隠せなかった。

「あかねはとあるところに閉じ込めてある…。何、心配せんでも、まだ一指も触れてはおらんよ。」
 早雲が言葉を投げつけて来た。
「本当に、無事なんだろうな?」
 早雲を睨みつけながら、女乱馬が言い放った。
「ああ…。彼女を傷つけたら、こちらも困るからねえ…。何しろ、天道家の大切な娘だ。」
 早雲が隠微な薄笑いを浮かべながら、女乱馬を見据えた。
「あかねには大切な役目があるしよー。」
 その言を受けて、男乱馬も嫌らしく笑った。

「てめーらの好きにはさせねーぜ。あかねは返してもらう。」
 負けじと言い放つ女乱馬だった。

「けっ!少しは力を呼び戻せたようだが…。そのくらいで俺と渡り歩こうだなんて…。無謀な奴だぜ。」
 男乱馬が先に吹きかけてきた。
「無謀かどうかは、これから決着をつけよーじゃねーか。」
 グッと拳を握りしめながら、女乱馬も負けじと吐き付ける。
「悪いことは言わねえー。おまえだって、痛めつけられるのは嫌だろー?この俺とさっさと同化しちまいなよ…。この玉に気を預けてよー。」
 男乱馬は右手に小さな黒い玉を浮き上がらせた。恐らく、魔龍の本体が入った玉なのだろう。怪しげにそいつは、邪気を撒き散らしていた。
「嫌なこったー。闘わずして、負けなんて認めねーさ。」
 女乱馬は、ペッと唾を横に吐き付けた。
「まー。そうこなくっちゃ、面白くもなんともねーな。好いさ、始めようぜ…。圧倒的な力の差ってーのを貴様に見せつけて、その上で、この玉に取り込んで、我が糧にしてやらあ…。本体さんよー。」
 余裕で笑っている。我が分身ながら、随分高ビーな奴だと思った。

「御託は良い…。さっさと始めようじゃねーか。」
 視線も外さず、睨みつけたまま、女乱馬が吐き出した。

「わかってはいると思うが…これは死闘だよ。だから、どちらかが、戦闘不能で息絶えるまで、サドンデスで闘い続ける…。良いね。」
 早雲が両者の間に声をかけた。

「息絶える…か。上等でいっ!」
「もちろん、俺様の勝ちで終わるだろーがな。」
 女乱馬と男乱馬。雌雄二人が身構えた。
 男乱馬は自分から抜きんでた男体だ。構えも、寸分たがわず、無差別格闘早乙女流の型であった。 鏡の中の自分と向き合っているような違和感が、突き抜けて行くが、そんなことに浸っている暇も無かった。
 
「でやあああっ!」
 先に突っ込んで来たのは、男乱馬の方だった。

 ガツン、と鈍い音がして、目の前の地面が大きくえぐられた。
 いきなり、猛虎高飛車を浴びせかけたのだ。


「ちぇっ!いきなり攻撃かよっ!」
 寸でのところで、飛びのいた。

 と、飛び退いたところに、第二破が炸裂する。

 ドッカーンッ!

 これまた、強烈な気技だった。
 背後の空間へと、その弾道が弾け飛んで行った。

「ひえー、連続技かよー。」
 シュタッと飛び降りた女乱馬に、男乱馬が吐き付けた。
「どうだ?己の技を食らう屈辱は…。」
「あんまり良い気持ちじゃねーな…。面白くねーことだけは確かだぜっ!」
 今度は女乱馬が仕掛けようと駆けた。
「だろーな…。くくく…でも、これは幻じゃねー。現実におまえに突き付けられた刃だぜっ!」
 また男乱馬が猛虎高飛車と飛ばしてきた。もちろん、手加減は一切なく、ぶっちぎりで飛ばしてくる。
 身構えて反撃する暇も与えられなかった。

「くっ!」

 女乱馬の目と鼻の先で、猛虎高飛車が炸裂する。

 ドオオンッ!

 命中は避けたが、物凄い爆風が、軽々と女乱馬を巻き上げて行く。体重が軽い分、吹き飛ばされ方も男の時の比ではない。
 
「やっ!」
 かろうじて飛ばした気弾で、地面との激突は免れた。そして、トンと降り立った。
「あぶねー、あぶねー。奴は、俺の技、見事に再現してやがる…。」

「ふん、かわしたか。」
 余裕で男乱馬が笑っていた。

 普通に考えて、女体化している方が不利だった。男体の方が、力が増す分、技の破壊力も比べ物にならないくらい、大きい。
「ちぇっ!俺があいつに勝っているとしたら、体重の軽さくらいか…。けっ!おもしれえ…。」
 ピンチの筈なのに、何故か心はワクワクした。
 強い者とやり合える、純粋な武道家の喜びが、危惧感よりも上回って行く。
「絶対、あいつにも、隙があるはずだ…。そう、俺が仕掛けるタイミングも絶対来るっ…。」
 グッと右手を握りしめる。

 と、また、男乱馬は猛虎高飛車を女乱馬へと打って来た。
 当てようという意志がバンバンに込められた気弾が、次々に襲い来る。

 ズン、ズン、ズン…。

「くっそーっ!俺に反撃の気を与えねーってか…。」
 地響きの中を、防御しながら、逃げまくる。
 今の己の猛虎高飛車は、高校生の時の比ではない。三年という修行の間に、さらに磨きがかかり、強烈な乱馬の決め技として、無差別格闘界でも指折りの高名な技になっている。
 それを、男乱馬は、容赦なく、女乱馬へと浴びせかけてくる。

 ドン、ドン、ドン…。

 暗い空間に、閃光が光り輝き、そのたびに、爆音と烈風が吹きぬけて行く。

 当たれば、無事ではいられまい。それは、技の開発者である、女乱馬自身、良く分かっていた。

「ほらほら、逃げてばかりだと、永遠に勝てないぞ。」
 そんな憎たらしい言葉を投げつけながら迫って来る。

(…たく…。俺の分身だけあって、口も悪いな…。)
 内心、むっとしながら、逃げ惑う。
(初っ端から、調子に乗って派手に猛虎高飛車を打ちまくってくるということは…俺の体力を削ぐつもりか…それとも、熱気を張り巡らせる魂胆か…。)

 この空間にも、温度の高下はあるらしい。
 猛虎高飛車を打った熱気に、体感温度は確実に上がっている。

(やっぱ、飛竜昇天破狙いだろーな…。体重が軽い分、俺には不利だし…。でも、奴が飛竜昇天破を仕掛ける時は、逆に俺にもチャンスが巡るってことだ…。)
 猛虎高飛車を避けながら、ある決意を女乱馬は巡らせ始めた。

 そんな女乱馬の魂胆が、手に取るようにわかったのか、ふと、男乱馬が手を止めて言い放った。

「ふんっ!何を企んでいるかは知らねーが…。俺も、ちんたらと闘い続ける気はさらさらねーんだ…。闘いは楽しいけど、ここらへんで終わりにしようぜ…。」
 ニッとそいつは笑った。

(仕掛けて来る気だな…。)
 女乱馬もグッと丹田に力を込めた。

「ふふふ…。魔物の闘いは、こういう風にやるんだ…。」
 男乱馬の瞳が怪しげに光った。と、グンと何かの動力が女乱馬の身体を襲った。
 後ろから何かにつかみかかられたような、違和感が突き抜ける。

「な…何っ?あ、足が動かねえ…。」
 がくがくと膝が揺れる。
 足を挙げようと、必死で足掻くが、ぴったりと地面にくっついている。
「てめー、汚いぜ…。」
 女乱馬ははっしと正面の男乱馬へと、言葉を吐き付けた。

「汚い?これは死闘なんだぜ?だから、汚かろうとそんなことは関係ねえな。」
 フンと鼻先で笑いながら、男乱馬がその言葉を受けた。
「二人がかりで…俺を斃すつもりだな…。俺の動きを止めたのは、おめーじゃなくて、おじさんの方なんだろ?」
 グッと男乱馬を睨みつける。

「ふふふ…。さすがだね…。わかるんだ。」
 男乱馬が笑いながら見据えてくる。

「ああ…。気脈でわかるぜ…。別方向からの気で、俺の動きが封じられている…。」
 女乱馬はキッと声を荒げた。

「まあ、わかったところで、今度は防ぎきれねえだろーがな。…俺は一刻も早く、てめーを取り込みてーんだ…。そして、力を取り戻したい…。」
 ゆらりと男乱馬の躯体が揺れ始めた。
「てめーだって本望だろ?黒龍に同化されるんだぜ?」
 
「けっ!まだ、てめーに負けた訳じゃねーからな…。」
 はっしと女乱馬は言葉を発した。

「負け惜しみか…。まあ、好い。そのくらい元気がある奴の方が、面白いってーもんだ。」
 すっと差し出す左手。もちろん、本物の乱馬ではないから、指輪は光っていない。
「さあ…。俺に吸収されろっ!骨の髄までなっ!」

 男乱馬の差し出した左手が、大きくうねりをあげた。そればかりではない。大きく、闇の世界が蠢いた。


 ゴゴゴゴゴゴゴ…。

 空間全体が震えながら、その邪気に満たされて行く。

「ほら…闇に染まっちまえ…。早乙女乱馬ーっ!」

 男乱馬から吐き出された黒い瘴気が、塊のように、ぶわっと女乱馬目がけて襲いかかって行った。




つづく


表現について少しばかり…
私は男乱馬も女乱馬も「乱馬」と統一表示して話を書いております。初期作品では、「乱馬」と「らんま」で使い分けていたのですが、男乱馬至上主義の私としては、心まで女になり下がっている訳ではなく、女乱馬も乱馬だろうというこだわりから、そう表記して作品を書いています。
男乱馬は「乱馬」、女乱馬は「らんま」と表記するのが常になっていますが、アニメでの脚本の混乱をさけるため、台本で使われるようになったのが慣例化したもののようです。持っている台本で確認しましたが、確かに男乱馬は「乱馬」、女乱馬は「らんま」で台詞が表記区別されていました。
原作では、女乱馬を「らんま」と表記してあるほんの数回の例外を除き、女乱馬も「乱馬」で表記されています。
で、この章を書くにあたって、考え込んでしまいました。…思考した結果、魔物を「男乱馬」、本体を「女乱馬」と表記することで落ち付きました。いずれ、女乱馬が本体を取り戻した時は、また、「乱馬」へと戻りますが、それまで、そのつもりで読み進めてくださいませ…。ややこしくってすいません。



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