◆蒼い月と紅い太陽

第十五話 邪天慟哭破の正体

一、

 太平洋の果てに浮かぶ小さな島。
 波打ち際の砂浜で、早乙女乱馬と天道早雲の睨み合いが続いていた。
 
『邪天慟哭破…この技を使わないと負けちまうぜ…。』
 乱馬の脳内で、女乱馬の声が鮮明に木霊する。
 
 呪泉郷で男溺泉に浸り、女になる体質とは決別している。にもかかわらず、乱馬の脳内に響くのは、女乱馬の一段高い音域の声だった。
 なぜ彼女が、脳内で囁くのか…特に気にも留めていない。いや、気に留める暇(いとま)など無い。
 一瞬たりとも気を抜けば、目の前の魔龍が容赦なく襲いかかって来る。
 しかも、己のスタミナは、限界に近い。


(そうだな…。魔龍を斃すには、邪天慟哭破を打つしかねーか…。)

『やっとやる気になったか…。ふふふ…見届けてやるぜ…、俺も一緒にその先を…。』
 クスッと脳裏の中で女乱馬(そいつ)が笑った。


「いよいよ勝負をつける時が来たようだね…。」
 早雲が静かに笑った。

「ああ…。俺はこの最後の技にかける!」
 そう吐き付けると、乱馬ははあっと、身体全体へと気を充満させ始めた。
 
 と同時に、乱馬の気の流れが変わった。
 それまで流れていた清純な気は、一瞬にして弾き飛ばされた。
 じっと闘いを見守っていたあかねにも、乱馬の闘気が変わっていくのが、鮮明に分かった。
 なんとも表現しがたい、真っ黒な気が乱馬を覆い始める。
 いや、乱馬の気だけではない。早雲から流れる魔龍のどす黒い邪気をも、一緒に巻き込み始めた。

 対する、早雲は、表情一つ変えることなく、じっと乱馬の変化を見据えていた。ここへ攻撃を加えれば、ある程度、乱馬をけん制することもできたろうに、あえて、そういう方法を取らなかった。
 いや、乱馬の変化の様子を、楽しげに待っているようにも見えた。
 そんな、父親の様子に、あかねは一抹の不安を覚え始める。

(乱馬…邪天慟哭破を打っても、本当に大丈夫なの?)
 乱馬を見詰める漆黒の瞳が不安でゆらゆらと揺れる。
 悪い予感が拭い切れなかった。
 邪天慟哭破。これは、天道家家伝に記されていた、禁断の技である。魔龍を粉砕するためには会得する必要がある。この前から乱馬は、この技を会得するのに、必死であった。
 技の構成と打ち方を示した記述の末尾に、確かに見えた文字。
「この技、気砲系暗黒技故に、禁じ手とする。」
 不安が一気に膨らんで行く。
 
 と、あかねの傍らにたたずんでいた玄馬が、ふつっと声をかけて来た。

「不安かね?」
 そう小さく語りかける。
「え…ええ。」
 こくんと揺れたあかねの小さな頭。
「この状況で、不安で無い方が、おかしいかもしれぬが…。」
 そう言いながら、玄馬はこそっと己の懐から、何かを取りだしてきた。
 と、玄馬は懐から出してきた物を、すっとあかねの道着の胸元へと滑り込ませた。
 おそらく、乱馬や早雲からは見えなかったろう。死角に入っていたはずだし、何より、闘いの最中、玄馬とあかねの細かい動作までチェックはできまい。
 小刻みに震えていたあかねの動作が、少し止まった。

「おじさま…これは…。」
 漆黒の瞳が玄馬を捉えて揺れた。

「しっ…。奴らに悟られては元も子も無いからね…。」
 玄馬はあかねをけん制するかのように、早口で喋った。
「これは、早乙女家に伝わってきた、魔除けの宝玉だよ…。」
「早乙女家の宝玉…。」
「天海和尚が早乙女家に託したものじゃよ…。あかね君が持ってこそ、意味がある…。じゃから、何も言わず、懐に忍ばせておいてくれたまえ。」
 そう言って、玄馬はあかねから少し、離れた。
 玄馬の口から、天海和尚の名前がこぼれたことに、あかねなりに疑問が膨らみ始める。

 やはり、この闘いには、何か別の意図が隠されている。しかも、その渦中に居るのは、あかねと乱馬だ。

 この気丈な娘は咄嗟に感じ取っていた。一筋縄ではいかない、とてつもない何かが、圧し掛かってきている。

「賽は投げられてしまった…。もう、後戻りはできない。あかね君。君も天道君の娘として…いや、乱馬の許婚として、覚悟を決めてくれたまえ…。」
 玄馬は、乱馬と早雲へと視線を巡らせたまま、あかねへと言葉を投げかける。小さな声ではあったが、凛とあかねの心へ響く、言葉だった。

「あたしも、武道家です。そして、乱馬について行くと決めた以上、何が起ころうとも、覚悟はついているつもりです。」
 小声だが、顔を上げ、きっぱりと言い放った。



 あかねと玄馬がそんな会話を交わしていたころ、技を仕掛けようと、気を高ぶらせた乱馬も、また、己の身体に表れ始めた異変を感じ始めていた。
 九能小太刀と五寸釘光の急襲に、この「邪天慟哭破」を打った時は、彼らが所持していた水晶玉の邪気が身体の中へと入り、乱馬の闘気を飲み込んで、その全身を覆い尽くした。
あの時と同じ感覚が、己の身体に駆け抜けている。

(邪気は邪気で薙ぎ払う…これが、この邪天慟哭破の技の極意だ…。)
 小太刀と五寸釘を打ち負かす刹那、瞬時にそう理解した。
 あえて、邪気を身体に取りこんで放つ技…。己の闘気に、相手が出す邪気を巻き込み、己の闘気とないまた気砲を一気にぶっ放して、邪気を薙ぎ払う技…それが「邪天慟哭破」の正体だと、乱馬なりに解釈していた。
 そして、技は完成し、小太刀と五寸釘に巣食っていた、二匹の魔龍を同時に吹き飛ばしたのだ。

 今、己の身体を駆け抜けて行く、禍々しい邪気。それは、早雲の身体から染み出す、魔龍の気であることは確かだ。だが、それだけではない。別の邪気が、どこからともなく、流れ込んで来る感覚にとらわれていた。
(流れて来るのは、おじさんの発する邪気だけじゃねーのか?)
 それがどこから流れ込んで来るのか…残念ながら、闘いの真っ最中である彼には、確かめる余裕などない。

『おい…迷ってると、打てねえぜ…。』
 乱馬の迷いに気付いたのか、脳内で女乱馬が一言、囁きかけてきた。
 
(そうだ…迷っている暇はねえ…。)

 乱馬もそれはわかっていた。
 目の前で身構える早雲は、じっとこちらを見据えて、かかってこいと言わんばかりに威嚇している。その態度が気に食わないでもなかったが、技を仕掛けると決めた以上、ここで辞めるわけにもいかない。技を打つことを躊躇ったら、容赦なく、早雲は仕掛けてくるだろう。
 スタミナが切れかかっている乱馬には、早雲の技を避けるのは無理に等しい。

『打てよ…。乱馬(あいぼう)…。』
 女乱馬の戦慄く声に、乱馬は身体と周辺から湧き上がってくる「邪気」を一気に右手に集中させた。

 ごおおおっと音をたてながら、体中の気が邪気に変換されていく。それは、留まることを知らなかった。


「うおおおおおっ!」
 無我夢中、流れ込んでくる、どす黒い邪気を、右手に集中させていく。

 その様子を見ながら、早雲の口元がふっと緩んだ。
 
「何を仕掛けるかは知らぬが…無駄な足掻きだ…。」
 と、憎々しげに言い放ってくる。

「じゃあ、受けてみな…。天道流最大奥義、邪天慟哭破ーーっ!!」

 乱馬は邪気に満ち溢れた右拳を、早雲めがけて、一気に打ち放った。


 一瞬、邪気が、蒼い炎のような光を発しながら、乱馬の右拳を取り巻いて、ジジジと一巡りした。そして、そいつが、弾け飛ぶように、早雲目がけてせり上がるように伸びて行く。
 まるで意思を持っているかのように、乱馬の右手から放たれた蒼い邪気の塊が早雲へと襲い掛かる。
 
 その様子にニヤッと意味深な笑みを浮かべると、避けることなく早雲は仁王立ちしていた。

「この邪気で、魔龍ごと吹き飛びやがれーーっ!」
 乱馬は、全身全霊の邪気を一気に早雲へと解き放った。


「ふふふ、この時を待っていたよ…乱馬君っ!」
 早雲の口がゆっくりと言葉を吐きつけた。くわっと見開いた瞳は、真っ赤に燃え盛る。

 早雲へと突きつけられた、蒼い邪気の渦は、瞬く間に彼が差し出した左手へと吸収されていった。



二、


 ドクンッ!
 
 邪気を解き放った乱馬の身体が、大きくうねり音をあげて、戦慄いた。

 ドクッ!ドクンッ!

 心音がダブって耳に響く。
 激痛が、左胸に走った。何かが乱馬の心臓を鷲掴みにしたような感じを覚えた。

「ぐはっ!」

 乱馬はたまらず、胸を押さえて、そのまま、前のめりにひざまずく。

 ザッ!

 鈍い音がして、乱馬の身体が、砂浜へと倒れこんだ。

 と、砂の上に沈んだ乱馬の背中から、どす黒い丸い玉が、フッと一つ、浮き上がって来た。そいつは、意を得た魚のように、乱馬の身体の上を一巡りすると、スッと早雲の方へと飛び上がる。
 一つだけではなかった。同じような玉が幾つか、倒れた乱馬の傍から、浮力を得て飛び上がり、早雲目がけて、飛来していく。
 玉は、早雲の傍に来ると、左掌の少し上で、クルクルと回転し始める。ひとつ、また、ひとつ。合計、六つの玉が、早雲の掌の上へと引き寄せられ、回り始める。

「ふふふ…邪天慟哭破を解き放ってくれて、ありがとう…乱馬君。」

 早雲は、嘲り笑いながら、そんな言葉を吐きつけた。
「思った以上に、君の持つ陰の気は、こいつと馴染みそうだ…。」
 早雲はそう言いながら、がはっと口から何かを吐き出していた。
 彼の掌のすぐ上で回っている、丸い玉と同等の…いや、それより少し大きい玉が、早雲の口から吐き出されてきた。そいつを空いたほうの右掌で受けると、何を思ったか、ポンと上に軽く投げ上げた。
 と、その玉はくるりと早雲の頭上を一巡りして回ると、シュンと音をたてて、砂に沈んだまま動かない乱馬目がけて、飛び移る。そして、乱馬の背中から体内に、吸い寄せられるように、消えてしまった。
 

 一体、何が起こったというのか。

 あかねが我に返ったとき、信じられぬ光景が目に映った。

 倒れていた乱馬の背中から、人影が抜き出て来たのだ。
 まるで、幽体離脱するかのように、そいつは、乱馬の背中から剥がれ出た。


「ら…乱馬が二人になった?」 
 あかねが蒼白になって、そう吐き出す。
 倒れた乱馬の身体から、もう一人の乱馬が抜き出てきたのである。
「いや…分離したようじゃよ、あかね君…。男と女にね…。」
 
 玄馬に言われて、乱馬を凝視した。

 倒れた乱馬は浮き上がった乱馬より、確かに、一回り小さい。髪の毛も赤みがかっている。
 対して、背中から浮きあがた乱馬は、そのまま男の肉体である。

 これは一体、どうしたことか。
 何故、乱馬が二人に、しかも、男と女に分離したのか。

 予期せぬ展開に、あかねはすっかり言葉を失った。

 
「ククク、全ては予定通りだよ。諸君。」
 早雲があかねたちを前に、にこやかに答えた。邪気を孕んだ邪な笑みを満面に浮かべている。

「畜生、なんだってんだ…。何でこいつが…俺から分離したんだ…。」
 砂まみれになった女乱馬が、吐き出した。
 浮き上がった男乱馬に比べると、遥かに闘気が弱々しい。うなだれたまま、顔を上にあげることもせず、じっと下を向いたまま、小刻みに震えていた。はあはあと息も荒い。

「君は自ら放った、邪天慟哭破で、己が身体を隠体(いんたい)と陽体(ようたい)の二つに分割したんだよ…乱馬君。」
 早雲が上から見下しながら、女乱馬へと言葉をかけた。
「魔龍の玉に惹かれた君の陰体はこの男乱馬に…そして、惹かれなかったわずかの陽体が女乱馬として、君にとどまったんだ。」
 早雲は赤い瞳を輝かせながら、女乱馬を見下す。そして、さらに続けた。
「ふふふ、君の闘気はあらかた、魔龍の玉を使って、分離した男乱馬へと吸い上げさせてもらったよ。君は、もう、闘うどころか、立つこともままなるまい?」
 
 その言葉に、女乱馬はそのまま黙り込んだ。恐らく、図星なのであろう。

「クソッ…身体が動かねえ…。」
 うめくように、女乱馬が吐き出した。

「たく…だらしのねー奴だぜ…。でも、安心しな…。」
 脇に立った男乱馬が、女乱馬のおさげをつかみ、乱暴に顔を引き上げ、覗き込みながら言った。
「あかねは俺が、…骨の髄まで愛してやるさ…。おめーの代わりに…な。…だから、安心して死ね…。」

 男乱馬は、ドサッと女乱馬を、砂浜に投げつける。そして、掌をかざして、女乱馬を打とうと身構えた。

 と、男乱馬と横たわる女乱馬との間に、一陣の風が通り抜けた。
 びゅっと音をたてて、男乱馬の頬をかすめて、吹き抜ける。
 
 風が通り過ぎると、ドオンと彼らのすぐ後ろで、爆音が鳴り響く。バラバラと海岸の岩が、粉々に砕け散るのが見えた。

 ハッとして、男乱馬はその場から数メートル後ろへと飛び下がった。

「誰だっ?今、俺様目がけて気砲を打った、ふざけた野郎は…。」
 激しい言葉を、気砲が飛来した方向へと、瞳を巡らせる。
 その視線の先に飛び込んできたのは、早乙女玄馬だった。

「悪いね…。ここで、乱馬を失うわけにもいかんのでね…。偽乱馬君。」
 玄馬が眼鏡を光らせながら、男乱馬へと言葉を投げつけた。どうやら、今の気砲は、玄馬が打ったもののようだった。
 その言葉に、玄馬の傍にいた、あかねが凍り付く。
「おじさま…今なんて…?」
 『偽乱馬』という言葉が、耳に突き刺さったのだ。
「あやつは、乱馬などではないよ…。姿は乱馬の形をしているが、魔龍の仲間だ…。」 
 吐き捨てた。

「だったらどうだってんだ?こいつの代わりに俺とやり合うか?」
 すっくと男乱馬が玄馬を睨み返し、ファイティングポーズを取った。

「いや…それには及ぶまいよ…。そろそろお前たちは、現世(うつしよ)には居られなくなる時間じゃないのかね?」
 玄馬は、海の方をびしっと指さした。
 玄馬の指さす方向。空が黒から紺色に白み始めていた。
 さんざめいていた星たちも、一斉に光を失い、水平線と空の境界線が、薄らとだが見え始めている。
 夜明けだ。


「ふん…。命拾いしたな…。お前たち…。」
 男乱馬は、憎々しげに言い放った。

「ああ…改めて仕切りなおしてもらおうか…。」
 玄馬が表情一つ変えることなく、男乱馬へと言った。

「けっ!仕切りなおしても結果は同じだぜ。こいつ(女乱馬)が俺に勝るとも思えねえ…。物事にはあきらめも肝心なんじゃねーのか?」
 男乱馬は、ピクリとも動かない女乱馬をちらっと見ながら言い放った。

 玄馬と男乱馬のやりとりを、脇で黙って聞いていた早雲が、ふうっと大きなため息を吐き出した。

「良いだろう…。ここは、親友の早乙女君に免じて、いったん、引いてやろう…。」
 それを聞いて、男乱馬が不機嫌に言い放つ。
「おい、そんな、温情なんて要らねーんじゃねーのか?」
「私は、温情をかける気はさらさらないがね…。」
「そーか?甘っちょろいんでねーのか?」
 男乱馬が早雲へと畳みかける。
「ふふふ。簡単に事が進みすぎるのも、面白くはなかろう?…それに…。」
 早雲はそう言い放つと同時に、ぐわっと目を見開き、グッと左手を前に差し出し、回していた六つの玉を、あかね目がけて投げつけた。

 びゅっと六つの玉は、意思を持っているかのように、あかねへとまっしぐらに飛んだ。
 いや、正確には、あかねの頭上、一メートル程のところへと円を描くように留まった。
 そして、円周を描くように、ぐるぐると右回りに玉は回り始める。

 キュルキュルキュル…

 音をたてて、玉は激しく回り始めた。
 すると、青白い光が、玉の軌跡に沿って走り始める。

 ビシッ、バチッ!

 あかねの周りに稲妻が走った。
「え?」
 と思った次の瞬間、あかねの周りの空間が光輝いた。とみるみる、鳥籠のようなアーチの檻があかねを捕えて浮き上がった。

「あかね君っ!」
 玄馬が声を発した時には、あかねを捕えた檻は、玄馬が飛び上がっても届かない上空へと舞い上がっていた。
 あかねだけではない、早雲も、男乱馬も、一緒に虚空へと浮き上がる。

「な…何これっ!」
 焦ったあかねは、光の格子へと手を伸ばした。へし折ろうと、力をこめるが、光の檻はびくともしない。
 それがかりか、触れた両手に、バシッと閃光が走った。
「きゃっ…。」
 小さく叫んで、あかねが籠の底に倒れこんだ。そして、気を失い、ぐったりと横たわる。

 
 そんなあかねの様子を楽しみながら、早雲は足下の玄馬へと言葉を手向けた。

「次の勝負は…七日後…。下弦の月の晩といこうかね。その日に天道家の井戸を通じて、我らの棲家へ降りてくるがよい。もっとも、その気があればの話だがね。…それから…。」
 早雲はあかねの檻へと目を転じながら言った。
「あかねは貰って行くよ…。もちろん…丁重にもてなすつもりだ…わが一族の花嫁としてね…ククク…。」

 そう言いながら、早雲と男乱馬とあかねは、上空に残る闇の中へと吸い込まれるように、消えていった。



「畜生…あかね…。あかねーっ!」
 遠ざかる魔龍たちの気配を、遠のいていく意識の下で感じながら、女乱馬は心で絶叫していた。
 身体に一切の力が湧き立たない。二の足で立ち上がることもままならない。
 敗北に打ちひしがれた耳元には、波音だけが響いていた。




三、


「ここは…。」

 ふっと浮き上がる意識。

 天井には長い蛍光灯ランプが白み渡っている。
 真っ白な天井はところどころ灰色にくすんでいた。
 カーテン越しに、温い風が吹きわたって来る。微かに雨音が響いてくる。

「やっと目を覚ましたか…乱馬よ。」
 耳元で聞きなれた声がする。玄馬であった。

「親父…。」
 ハッとして、がばっと上半身を起こそうとした。

 ズキン…。

 全身に痛みが走る。
「うっ!」
 思わずしかめて、起き上がるのを躊躇った。と、顔を真摯に見つめる玄馬とは別の瞳にかち合った。

「やあ…ずいぶん、こっぴどくやられたようだね…乱馬君。」
 柔らかな物腰の物言いの青年が、上から覗き込んでいた。
 小乃東風である。

 どうやら、ここは、小乃接骨院の病室のようだ。

 見渡して、少し複雑な表情を手向ける。

 そう。病室の窓に映し出された己の姿は、女のものであった。
 察するに、あの闘いに敗れた後、玄馬がここまで連れ帰って来た様子だった。どうやって、離れ小島から連れ帰って来たのか、疑問に思ったが、そんなことはどうでもよいことだった。

「俺…やっぱり、女になっちまったのか…。」
 深いため息が乱馬を襲った。

「ああ…そうみたいだね。お湯をかけてみたんだが…戻らなかったよ…乱馬君。」
 東風が冷静に言い放った。

「畜生…何が起こったんだ…俺の身体に…。確かに呪泉郷に行って、男溺泉に浸ったってーのに…。」
 横たわったまま、握りしめる、か細い女手の拳。その左手の薬指には、今にも抜け落ちそうな、指輪が光っている。あかねに贈った、ペアリングだ。
 それを落とさぬように、ギュッと握りしめる。

「くそっ…あの闘いは何だったんだ?説明しろっ…親父っ!」
 乱馬は真横でたたずむ玄馬に向けて、怒鳴りつけた。
 冷静に佇んでいる、父親の姿に、事情を知っているに違いないと、瞬時に悟ったのだ。
 でなければ、みすみす、あかねを敵の手に陥れるようなへまはしまい。
「親父…てめー、すべてわかってて、あの場を仕切ってたんじゃねーだろーな?」
 鋭い眼光が玄馬を捉える。

「フッ、お前も、少しは事情が飲み込めているようではないか…。」
 臆することなく玄馬が言った。

「ああ…。邪天慟哭破の載った、天道家の家伝を親父に預けたのはおじさん(あかねの親父)だし…それを、俺に託したのは、親父、貴様だ…。で、修行した結果が…このざまだ…。
 何か、事情があるんだろ?俺にはまだ話してねー、おじさんとの…密約みてーなのが…。」
 ギュッとあかねの指輪を、左手に握りしめながら言った。
「言えよ…親父…。あの、邪天慟哭破の正体を…。」
 ギリギリと奥歯を噛みしめながら、玄馬を藪にらみする。

「邪天慟哭破…。そいつは、己が体の中に眠る邪気を解き放ち、邪悪な魔物を打ち砕く技…。その技の正体は、多分、貴様が看破した通りじゃよ…。」
 玄馬が言った。

「邪気は邪気で薙ぎ払う…これが、この邪天慟哭破の技の極意だ…と思っていたが、とんでもねー思い違いだったようだな…。」
 乱馬は玄馬へと吐き付けた。
「あの技には、相手の邪気を薙ぎ払うだけではなく、もっと、別の効果もあるんだろ?親父…。出し惜しみしてねーで、とくと説明しやがれ…。じゃ、ねーと、次のステップに行けねーんだろ?」
 怒りを堪えながら、乱馬が吐き出した。

「ああ…。邪天慟哭破には一つの致命的欠点がある…。解き放った者の陰の気が増幅されてしまうのじゃよ…。陰の気…つまり、それは、邪気と表裏一体。
 結果…まれに、技を仕掛けた者の生気と邪気、即ち、陽気と陰気を分裂させてしまうことがある…。まさに、技を仕掛ける者には、諸刃の剣ともなりえる危険な技なんじゃよ…。」

「故に、暗黒技と云われるんですね…。」
 傍で聞いていた東風が、頷きながら言った。

「親父…てめー、まさか、そいつを知ってて…俺にあの技を打たせたんじゃねーだろうな?」
 ぐっと指輪とともに、胸の前で握りしめる左手。

「ああ…そうじゃ。」
 いとも簡単に玄馬は言って退けた。

「ざけんなよ…てめー、どういうつもりで…。」
 ぐっと乱馬はせり上がって、玄馬の胸倉につかみかかった。
 が、勢い余って、胸元に痛みが走った。
「くっ…。」
 思わず顔を歪めた。

「まあまあまあ、乱馬君…。落ち着いて。」
 あわてて、横から東風が乱馬をなだめにかかった。
「あんまり興奮してると、治りが遅くなっちゃうよ…。ちゃんと治しておかないと、次に闘えないよ。」
 苦笑いを呈しながら、早雲が乱馬の肩をポンポンと叩いた。
「東風先生の言う通りじゃ。そのざまでは勝てぬぞ。」
 玄馬が言い含める。

「次に闘う…この身体でか?」
 乱馬は、じろりと玄馬を見やった。
「湯を浴びても、元の身体に戻らねーんだろ?女の身体で、どう勝機をつかめって言うんだ?」
 胸を押さえながら、乱馬は玄馬を見上げる。

「君らしくない言葉だね…。乱馬君。」
 東風の眼鏡が光った。

「男と女の身体じゃあ、実力に差が出過ぎるぜ…。ましてや相手は、訳の分かんねー魔物だ…。」
 東風の言を受けて、乱馬がぼそっと吐き出した。

「貴様が勝たねば、あかね君は戻らんぞ。」
 玄馬が言った。

「わかってらー…そんなことくれー。」
 ギュッと握りしめていた手を開き、指輪を憂いを帯びた瞳で眺める。行き場のない怒りが己の脳内を駆け抜けるが、収めどころがないのだ。
 このままで勝てるほど、甘い相手ではない。今まで対峙してきた中の、史上最悪・最強の魔物だ。
 己の身体は二分割してしまった。あらかた、男乱馬に闘気も持っていかれてしまっている。回復が遅いのも、恐らくはそのせいだろと、理解していた。
 闘気が男乱馬(あいつ)と互角にやりあえるところまで戻せるか否か…現時点では迷路にはまりこんでしまっている。
 乱馬の背中に弱気が渦巻いているのを、玄馬は見落とさなかった。

「おまえ…まさか、このまま一矢も報いずに終わらせるなどというふざけたことを考えているんじゃなかろーな?」
 と、闘志を奮い立たせるように言葉を発した。
「もちろん…このままじゃすませねー。この命に代えても、あかねは取り戻す…。」
 握りしめた指輪を、徐に左手の親指にはめ込んだ。
 女の細身では、薬指だとすり抜けてしまう。かろうじて、親指なら、なんとか抜けずにはめられた。
 指輪を身から放すと、己の決意が怯んでしまいそうで怖かった。
 ただでさえ、女化してしまっている。圧倒的不利であることは否めない。
 
 この女化した体で、どうやってあの男乱馬(魔物)に闘いを挑めば良いのか。
 決意とは裏腹に、迷路(ラビリンス)に入り込む闘志。

 そんな息子へと、玄馬は腕を組んだまま、言葉をかけた。

「安心せい…。手段が全くないわけではない。」
 その言葉に、乱馬の肩がピクリと動いた。
「手段だ?…おい、デタラメ言ってるんじゃねーだろーな?」
 「言ったじゃろ?最初から知った上で、邪天慟哭破を打たせたと…。」
 にやりと玄馬が笑った。
「どういう意味だ?」
 はっしと睨みつける乱馬へと、玄馬は言った。
「邪天慟哭破を打ったせいで、おまえから陰の気がこそげ落ちた…。故に、今なら貴様に、我が早乙女家伝来の最大奥義を授けてやれると言っておるんじゃ…。」
 クスッと玄馬が笑った。
「早乙女家の最大奥義だと?」
 踵を返した乱馬に、玄馬は頷きながら言った。
「ああ…。」
「てめー、いい加減な奥義じゃねーだろーな?第一、てめーもわかってると思うが…早乙女家の奥義は、スチャラかなもんが多いだろ…。まさか、最大奥義が敵前大逆走とか、猛虎落地勢とかいった、いい加減なもんじゃねーだろーな?」
 と吐き付ける。
 そうだ。実践的な流れを汲む攻撃技が多い早乙女流だが、とても感心されるものではない技も多々ある。真剣勝負にこんなスチャラカ技を持ち出されたら、時間の無駄であろう。
「無差別格闘早乙女流の奥義は確かにスチャラカな物も多々あるが…これは、我がご先祖様が天海和尚から授けられた曰くつきの奥義じゃからな…。そのあたりは、ワシが保障してやろう。」
 ドンと玄馬は胸を叩いた。

「天海和尚だと…?」

 その言葉にピクッと反応した乱馬は、思わず問い返していた。

「ああ…。天道家同様…我が早乙女家も、江戸の守の要として、魔龍に配した奥義が伝わっておるんじゃよ…。」
 ニッと玄馬が笑った。


 その夜、乱馬は、東風の営む、接骨院で夜を明かした。
 
「天海和尚が託した技…。天道家だけじゃなく、何故、早乙女家にも伝わっているんだ?」
 左手の親指にはめた指輪を眺めながら、考えに耽る。
 考えれば考えるほど、考えは迷宮に入り込む。

 あの後、玄馬は含みを持たせた言葉を吐き付けると、そのままどこかへ行ってしまった。

「修行の段取りをせねばならんでな…。次の勝負は七日後。生憎、ゆっくりと養生をする暇も無い。
 明日には修行に入らねば、間に合わぬ…。良いな、今夜一晩で、その傷、癒してみせいっ!」
 去り際にそんな言葉を吐き付けた。

「たく…親父の野郎…。足元見やがって…。闘うのは俺だってこと忘れてねーか?」
 ゴロンと横たわり、天井を見上げた。
 体中に受けた打ち身の青痣が目立つ。
「確かに、こっぴどく、やられたようだね…。」
 東風が、打ち身に効く膏薬を乱馬に塗りながら言った。
「骨が一本も折れていないことが奇跡かもしれないね…。」
 名医はそんなことを吐き付けた。

 幸い、致命傷になるほどの傷は受けてはいないものの、闘気は根こそぎ男乱馬に吸い上げられてしまっている。

「普通、このくらいの傷を受けたら、三日間は安静にしておいた方が良いけどね…。」

 東風がいかに名医でも、一晩で治すというのは、無茶な話だった。
 しかし、確かに、悠長なことも言っていられない。

「ま、後は根性で何とかしますよ…東風先生…。」
 そう言ったところで、病室の扉がバタンと開いた。

「そうね…後は、根性で乗り切ってもらわないと…。うちだって大損こくわね。」
 なびきであった。

「てめーは…こんな時も、損得勘定が頭から離れねーのか?」
 キッと睨み返す。
「ほんと…仕組まれてたことだとはいえ…女のままじゃこまったものだわ。」
 ツンと乱馬の胸をつついた。
「こらっ!痛いじゃねーか、このアマッ!」

「なびきちゃん。そんなに乱馬君をいたぶるのはやめなさい。」
 背後からかすみがお盆を抱えて入ってきた。
 夕食の御膳だ。
「あら、お姉ちゃんだって、心中かなり怒ってるんじゃないの?あかねを簡単に魔龍にさらわれちゃってさー。」
「そりゃあ、そーだけど…。でも、まだ、完全に負けた訳じゃないでしょう?もう一回、魔龍さんと闘うんだから、そんなにいじめちゃ、治る傷もなかなか治らないわよ。」
 かすみは、お盆を傍のテーブルへと置きながら、乱馬へと声をかけた。

「乱馬君は、栄養がある物をたくさん食べて、休んで、今度こそ、魔龍さんに勝ってちょうだいね…。」
 乱馬には、にこやかなかすみの顔が、確かに、どこか荒んで見えた。

『もし、約束を破って、あかねを守り切れなかったら…、八つ裂きにするわよ…。墓場にまで踏み込んで骨ごとくだいちゃうからね…。』
 つい数日前、そう言って、冷たくほほ笑んだかすみの言葉を、ふっと思い出した。
 恐らく乱馬が負けて屍をさらそうものなら、きっと、言葉通りの行動に出るに違いない。そんな張り詰めた想いが、かすみの笑顔の下に覗いているような気がした。

「で?てめーは何の用だ?あかねをかっさわれて、女になっちまった俺に、嫌味でも言いに来たのか?」
 
 かすみが夕食を置いて去ってしまうと、乱馬は箸へと手を伸ばしながら問いかけた。
 と、なびきが鞄から、パンフレットを差し出しながら言った。

「ま、一応ビジネスの話よ…。」

「この状況で、俺にビジネスの話をしよーってーのか?おめーは…。」
 グッと里芋の煮っ転がしに箸を突き刺しながら、乱馬がなびきを睨み返した。

「こういう時だからこそ…これを見ておいてほしいの…。」
 なびきはニッと笑いながら、そいつを乱馬へと差し出した。
「何だこれは…?」
「ウエディングドレスのデザインパンフレットよ。五つほどパターンがあるから、この中からあんたがあかねに着せたいのを選んでくれる?」
「…おい…。何なんだ…その緊張感が無え話は…。」
 つい、じと目でなびきを見返した。
「女化したまま、戻んねえーっつーのによ…。この状況下で、ウエディングドレスを選べだあ?何の嫌味でいっ!」
 つい、大声になる。

「あら…女の格好をしていても、男なんでしょ?乱馬君は…。」
 すかした瞳をなびきは乱馬へと手向けた。
「当然なこと聞くんじゃねーっ!」
 思わず、箸を握りしめた。
「だったら、何の支障もないじゃないの…。それとも、この勝負に勝つ自信は無いのかしら…。」
 チラッと乱馬の表情の変化を楽しむようになびきは言った。
「おまーなあ…。しまい目に怒るぞっ!俺はっ!」
 バンとテーブルを叩く。
「だから、あたしは、あんたの勝利へのテンションを上げてあげようと気を遣ってあげてるんじゃないの…。もー。わかんない人ねえ。」
「何がテンションだっ!気を遣うだっ!こっちは真面目に魔物と戦おうとしてんだぞっ!おいっ!」
「四の五の言ってないで、あかねを奪還して男に戻って祝言を挙げる気があるなら、選びなさいっ!」
 なびきも負けずに、バンとパンフレットを開いた。

「なびき…おめえ…。」
 なびきの勢いに、はっとして怒りの矛先を収めた。

「今の状況じゃあんたに不利だってことは、百も承知よ…。でも、ここでドレスを選べば、あんたもスイッチが入るんじゃないの?」
 ニッとなびきは笑った。
 それに答えて、乱馬はフッと息を吐き出して笑った。

「おめーの言うことにも一理あるか…。そーだな…俺はあかねを是が非でも取り戻さなきゃ、なんねーんだな…。もちろん、俺も男に戻らねば、意味は無くなる…。」

「そういうこと。やっと、あたしの想いを理解してくれたようね。選んでくれたら、あたしが責任を持って、作っておいてあげるわ…。あんたの衣装も込みでね…。」
「間違っても、ウエディングドレスを二枚作るなんてふざけたまねはするなよ…。」
「あら、タキシード二枚でもよいかもね…。あかねってボーイッシュなのも似合いそうだし。」

 二人、プッと吹き出した。

「じゃ、あんたも気合い入れなさいよ…。己の命と引き換えに、あかねを取り戻すなんて、馬鹿なことは考えないことね。」
 そう言って、なびきは部屋を出て行った。

「ありがとうよ…なびき。おかげで気合いが入ったぜ…。」
 乱馬はそう吐き出すと、かすみが作ったお膳を、もくもくと食べ始めた。
 
 

つづく







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